2002年11月10日 インマヌエル聖日礼拝


1部/ 決して報いを失うことはありません
(マルコ9:38-50)
 
 
・ある少女が、売春婦として売られて行くのに、ある人がその少女があまりに哀れで、多くのお金を与えて手助けしました。ところが、助けられた少女が、後ほど中国で最高の金持ちの家に嫁に行くようになったのです。それで、歳月が過ぎた後に、むかし幼い時、自分を助けてくれたその人を、自分のいのちをかけて捜し出しました。捜し出して、その人に比較出来ない程に返したのです。この人が大きい事業家になる程、返しました。その人が財閥になったのですが、その人がまさにイン・サンオクです。今、韓国のいろいろな財閥でイ・ピョンチョルとか、ジョン・チュヨンよりも前に立っている人です。その人が TVも出て、本も出ています。その人が幼い少女を生かして受けた祝福です。この女の人が受けた助けを忘れなかったのです。
 
・私達が正しい人であるほど、恵みを受けると忘れません。本当に受けた救いは、そのような程度ではありません。万一、あなたがたが天国に行く、地獄に行くという話はよく理解できなくても、皆様の家の子供が精神が狂ったとすればとても深刻化します。道がありません。一名の精神が狂うならば、家族全員が影響を受けます。ところが、イエスを信じたらよくなったとすれば、どのようになるでしょう。その恵みは話すまでもないでしょう。ところが、その程度で終わるのではありません。精神が突然に狂ったのではなくて、災いが突然にやってきたのでもなくて、多くの精神的、霊的な問題がきて、そのようになったからです。それで、その出発がすでに原罪の時から開始したことであって、創世記 3章の時から始まったのです。これを神様が解決なさったとするなら、これは相当なことなのです。神様が、この問題を解決なさったと見る時、どれくらいすごいことでしょうか。この程度ではありません。皆様の家に、ひょっとして家族の中に霊的問題があれば、まちがいなく福音でなければ、ずっと続くはずです。ところが、皆様の家族の中に霊的な問題があって、イエス様を信じるようになったのに、早くいやされないとしても、心配する必要がありません。神様の計画があるからです。まず、明らかなことは、神様はその代で霊的な問題を終えられたのです。
 
・この福音を受けたということは、すごいことなのです。どれくらい感謝でしょうか。この程度ではありません。今日、イエス様が“決して報いを失うことはありません。”と言われました。これほどのことです。こういう福音を知っている人が、それほどいないのです。皆様の家系に流れる呪いは、絶対に終わりになりません。福音でなければ終わることがありません。皆様が経験していないでしょうか。振り返ってみたことはないでしょうか。それで、イエスを信じながら律法せず、福音を正しく信じなさいという話がその話で、イエスを信じながら不健全な神秘主義に陥らず、福音を正しく理解しなさいということもその話です。皆様の家族の中に問題がある人ひとりだけいても、どれくらい難しいでしょうか。福音ならば、すぐに終わりになります。終わったのに、なぜこうなのか。そうではありません。ある家で子供の精神が狂ってしまいました。学校に通うこともできなくて、精神が狂ったのにどのように通えるでしょうか。礼儀作法の教育もできません。精神が狂ったのに、礼儀作法の教育ができるでしょうか。問題はこの家の流れです。普通の問題ではありません。ところが、この人が遅く福音を受けたのです。福音を受けるようになったら、その子供がすぐによくなることはありません。しかし、それは知らないからです。既に、霊的問題は終わったのです。この福音を受けたということは、どれくらい大きいことか分かりません。今日、この41節を見ると、“あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。”と言われています。
 
・皆様が今日の本文のみことばをよく理解すべきです。それならば、今日、私達が一番目に記憶しなければならないことの中で最も大きい罪は何でしょうか?福音を受けることをできなくして、福音を妨害して、福音を防止することが、最も大きい罪なのです。今日の42節からを読んでみると、このようなみことばが出てきます。‘決して報いを失うことはありません。’とおっしゃって“また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。”と言われました。そのまま子供を水に投げれば上がってくるけれど、大きい石臼を首にゆわえつけて投げれば上がってくることができません。それと同じだと言われました。前に福音を話されて、 「あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。」とおっしゃって、この福音がどれくらい重要かというと、この福音を妨害して、防止することは、子供をそのまま殺すのではなく、大きい石臼を首にゆわえつけて投げ込むことと同じだと言われたのです。それがむしろましだとまで話されました。それとともに、43節を見れば“もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。”この話は何でしょうか?。ユダヤ人が教えることです。手で犯した罪は、手を切って、足で犯した罪は足を切るとしているのです。すると、地獄に行くようにした罪は、どのようにされるかということです。すると、あなた達の言葉通り、目で罪を犯せば目を抜いて、鼻で罪を犯せば鼻をむしり取って、というようにするならば、地獄に行くようにさせた罪は、どのようにするかということです。誤って読めば誤解します。目を抜くでしょうか。するとあなたがた、みな抜かなければなりませんが、どのようにしますか。これはそのような話ではありません。ユダヤ人の法がそうなのです。ユダヤ人の法をイエス様が指されたのです。福音をあまりに防止しているユダヤ人を見て、‘あなた達の法の通り、手で犯した罪は手を切って捨てるほうがよくないだろうか。手を切らずに地獄に行くことよりは、よいでしょう。なぜならば、その人々が、それで地獄に行くから’ということです。ユダヤ人達は、行動を善良なようにするならば天国に行って、下手すると地獄に行くと思っています。すると、手を切るべきではないでしょうか。地獄に行かなくするならばということです。すると、目が誤って見れば、目を抜かなければならないでしょう。すると、人を地獄に行くようにさせる罪は、どのようにされるでしょうか。イエス様が、今、それを尋ねておられるのです。ものすごい質問です。ユダヤ人達は、そのように教えています。知らなかったので、その時はそのように教えられたのです。ユダヤ人の方式通りにするならば、ここに歯が抜かれない人は何名いるでしょうか。他人のりんごを盗んで食べても、通り越ぎながらいちじくを取って食べても盗みですから、歯をみな抜かなければなりません。そのように正せば、例えば考えをよくできなければ、脳をみな取り除いてしまわなければなりません。ユダヤ人の法の通りにするならば、そのようにしなければならないのです。これは罪になるのに、地獄に行くようにする罪は、どのように罪にならないでしょうか。ものすごいメッセージをイエス様が投げられたのです。こういうメッセージなのか、皆様が読んでも知らずに過ぎたでしょう。パリサイ人達は、この話がわかるのでしょうか。それで最も大きい罪が何でしょうか?福音を防止する良い人、福音を防止する悪い人、ユダヤ人達は、ものすごく良い行いをして福音を防止します。ユダヤ人はそれで完全に滅びたのです。
 
・福音を防止するということの反対は、福音を伝えるということとと同じようなものです。比喩が反対なので、それと同じ話です。あなたがたが、本当に福音を持っているならば、皆様の霊的問題は、実際には終わりました。さ迷っているのは皆様の事情です。みな終わったのに、あなたがたはしばしばさ迷います。ところが、福音を持っているということは、福音を伝えるということは、普通のことではありません。ほとんどこれを理解できなかったのです。これだけ理解するならば、みな終わるのです。福音を防止するということは、どれくらい怖いことでしょうか?ユダヤ人は、誤ちは一つもありません。福音を防いだ罪しかありません。ところが、ユダヤ人達はどのようになったのでしょうか。あなたがたは、早く聖書をよく理解しなければなりません。ユダヤ人達は、あなたがたとは違います。今でも空港でユダヤ人を見れば、服をきれいに着て、帽子をかぶっている人々がユダヤ人だです。そして、どこにでも座ることもしません。その人々は、水を買って飲まないで、持って歩きながら、かばんから取り出して飲みます。その人々は、とても節度があります。悪いことは少しもしません。それでも、ユダヤ人は滅びました。完全に滅びたのです。いままで歴史上、地球ができてユダヤ人の子孫ぐらい滅びた子孫はありません。皆様がご存知でしょう。その証拠が、ワシントンに行けばあるではないでしょうか。なぜ滅びたのでしょうか。福音を防止したからです。
・ローマ政権が入って、ローマが世界を征服して、ローマ皇帝に付けた称号が、皇帝という称号を付けないで、ローマ皇帝にはそれよりもっと大きい称号を付けました。王を見たら殿下、韓国では閣下とか言ったのですが、それよりももっと大きい称号を付けたのです。ローマ皇帝は、世界を統治する皇帝ですから、その王にはどんな単語を付けるのでしょうか。“主”という単語を付けました。それで、皇帝を呼ぶ時は、キュリオス(kyrios)という“主”という単語を使いました。ところが、ある日見たら、イエス様を信じる人々が集まって、イエス様を「主よ」と呼んだのです。それが発端になりました。どのように敢えて皇帝に使う単語をイエス様に使うのかということです。特別でないイエスにローマ皇帝に付ける称号を使うので、イエスを信じる人々がそれを直す時まで殺しました。250年間でした。ローマ皇帝10人がキリスト教徒がその単語を変える時まで静かに置いておかなかったのです。本当に怖いことです。“キュリオス”という単語を使ったのにイエス様が “主”だと言うのです。“主よ”という話が、キュリオスという言葉がその時使う単語です。その単語を使ったとして、ローマ皇帝が代々で立ち上がってイエスを信じる人を約250年間殺しました。無惨に殺したのです。そこで、有名なトミジアン、ネロ、こういう人々がそこに含まれる人です。ところが、歳月が過ぎて、ローマの中にはクリスチャンがいっぱい広まるようになりました。歳月が過ぎて、ローマ皇帝10人とこのことをおもに主導した人々だけが、皆家族まで悲惨な死に会ったのです。それとともに、時間が過ぎて見たら、コンスタンチン皇帝が見たらキリスト教が強大なのでした。全部クリスチャンです。それで、この人が政策を変えました。何ともなければ変えなかったでしょうが、政治家は数字によって行きます。見たらクリスチャンが多いから、変えるしかありません。ところが見ると、この人が夢を見たのです。十字架の夢を見たのです。変えるしかありませんでした。キリスト教を国教に宣言したのです。その時が313年です。AD313年です。今から約1700年前です。その時が、福音に圧力を加えて250年たった時です。本当に驚くべきことです。
・誰が福音を防止することができるでしょうか。ヒットラーとその集団は自殺しました。ある日、福音を防止するという団体が出てきました。その団体が共産主義です。私たちより資源がはるかに多いのです。完全に滅びました。中国の人々が助けを受けようと韓国にくるのではないでしょうか。私たちより資源は、はるかに多いのです。ロシアの人々が、ひもじくて全世界を回るのではないでしょうか。ロシアには資源がものすごく多くあります。ロシアの人々は‘目を上げて山を見なさい’と言われても理解できないと言います。なぜなら、山がないためです。私たちは‘目を上げて山を見なさい’と言われれば山が見えるので‘私の助けがどこから来るのか’としながら理解することができます。ロシアではその話を使わないらしいのです。目を上げて山を見なさいと言っても山がないからです。本当です。14時間、列車に乗って走っても、山が一つも見えません。その話はなんの話でしょうか?全部平地しかなくて、大荒野です。ところが、なぜそこで飢え死ぬかということです。理解がよくできません。韓国と北朝鮮は一時間の距離なのですが、なぜその人は飢え死ぬのでしょうか。私たちは米が残るというのに、なぜその人々は飢え死ぬのかということです。少し寒いと飢え死ぬのでしょうか。共産主義は、完全に基本的なことまで呪われたのです。少し苦しい、困難を受けているという程度ではなくて、基本的なことまで呪われました。なぜでしょうか?共産主義が叫んだことがあります。神様はいないと叫びました。どの程度かというと、共産主義者は神様を信じる人をつかまえて、どのように拷問するかというと、この人は宗教細胞が多いから狂っていると言いました。イエスを信じる人々をみな捕まえて、スターリン時代から捕まえては殺しながら、宗教細胞が多い人を殺すと言いました。何でも物質で見るのです。そのようにも大声を張り上げた共産主義が、ご飯をもらって食べる状況になりました。そんなにも大声を張り上げたソ連が、米国にご飯をもらって食べるようになって、そんなにも大声を張り上げた北朝鮮が、韓国にご飯をもらって食べるようになりました。愚かな者は心で神様がいないと言うのです。この人達がものすごく福音を防止しました。これが死ぬことなのです。
 
・反対に、最も祝福されることが何でしょうか?さっき序論で話したのですが、福音、人を生かすことです。今日の38節で “ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」” 39節で“ しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。”簡単に話せば、イエス様の弟子でもない人が、イエス様の名前で悪霊を追い出すので、どのようにすべきですかと尋ねたので, イエス様が置いておけとおっしゃったのです。イエス様に従う弟子でなくても、福音を伝えることは普通の祝福ではありません。本文の41節でまたおっしゃられました。“あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。”これは、いかに驚くべきことでしょうか。キリストという話は、3つを行われたということです。皆様が皆様の家系に起きること、人生に起きる永遠な霊的問題を解決なさったということです。それが、キリストという話です。今、地球全体を掌握している易、シャーマニズム人が、ご飯が食べられないようになりました。全部、インターネットで吉凶を占い始めたためです。このような占いが世界を掌握しました。サタン、悪霊の力を完全に打ち破ってしまったということです。実際に、ユダヤ人が話す目には目を、歯に歯を、みな法の通りしなければなりません。私たちのあらゆる罪を解決したということです。あなたがたが受けなければならない呪いを十字架で犠牲のいけにえとして解決してしまったということです。キリストだということです。どれくらい驚くべきことでしょうか。この福音を伝えるということは、最も幸いなことです。真に福音を持って伝えるならば、水一杯も報いを失いませんとおっしゃいました。今日、契約を堅く捕まえてくださることを希望します。
・私たち教会は、することがありません。大韓民国で牧会を一番よくできない牧師が、まさに私です。なぜでしょうか?する事がないためです。しかし見てください。ずっと復興するはずです。理由があります。福音を伝えるためです。それが証拠です。今、他の教会に行ってみましょう。牧師達や教役者が目を皿にしてしています。それでも良くなりません。私達が何かをする時間がどこにあるでしょうか。ご飯を食べて、すぐに出て行ってしまうからです。それで、長老達が集まって困難にあっています。なぜなら、決定しなければならないのにいないからです。それで、また副教役者が困難にあうのです。両側がみな困難にあうけれど、両側がみな復興しています。それを見ましょう。ソウルも見ましょう。すこししたら、席が足りないのです。そして、今伝道の門がずっと開いています。そして、外国の人達から始めて、伝道の門がものすごく開いています。理由を知っていますか。20種類の単語を出したのですが、一つもなくなりませんでした。理由が何か知っていますか。福音を伝える者は、決して報いを失いません。福音を防止する者は最も大きい罪になるはずです。どんな罪になるのでしょうか。子供の首に石臼を下げて投げることと同じです。何と比較できるでしょうか。この部分がものすごく重要です。パリサイ人達が、この話を悟れませんでした。この話を悟れば、滅びることはなかったでしょう。弟子達がこの話を悟っていたならば、敢えて迫る危険の前にイエス様を否認したでしょうか。しなかったでしょう。未信者の六種類状態は続いています。防止する道は、福音しかありません。それゆえに、神様がマルコ1章1-13節を見ると、ヨハネという人も送って、イエス様も送られたのです。これゆえに、イエス様は、神様は、迫害の中で弟子を捜し出されたのです。このことを解決するために、イエス様を十字架につけられたのです。私たちの風邪を直すためにイエス様を十字架につけられたのでしょうか。人間の癌を直すために、イエス様を十字架につけられたのでしょうか。全世界の秩序を維持するために、イエス様を十字架につけられたのでしょうか。そうではありません。霊的な問題を解決するために、十字架につけられたということです。皆様にある永遠な霊的問題を解決するために、イエス様が十字架で犠牲のいけにえとしてささげられたということです。これを伝える者は、決して報いを失わないません。間違いありません。皆様、今日ここに対する確信がなければ、皆様は祈りの答えはよく受けられません。これは私の話として説得されるのではなく、聖書を見て、教会史を見なければならないのです。それで、実際には私たち教会、インマヌエル教会とタラッパンで福音を伝える教会があります。福音を伝えない教会もありますが、伝える教会はあります。伝える教会の職分者になったということは、永遠な祝福を受けたのです。どれくらい驚くべきことでしょうか。私は本当に大韓民国に教団が200ケ ありますが、福音を伝えないで、福音を妨害する教団の牧師にならなかったことが、あまりにも幸いだと考えています。半分くらい死んでしまっています。今、あなたがたがよく知らないからです。今、私たち教会の教役者の中で一つ残念なことがあります。教会の奥様の中に、また一つ残念な点があります。あなたがたの弱点が何でしょうか?一般教会に行ってみたことがないことです。これが弱点です。一般教会に行ってみるならば、本当に戦いの雰囲気が漂っています。行ってみていないからです。そして、不安でなりません。教会に行けば、どれくらい不安か分かりません。あなたがたは知らずに賛美を歌った後に、家に帰るけれど、教役者は不安でぶるぶる震えているのです。こういう経験は、良いことではないけれど、一度くらいしてみることも良いのに、あなたがたが全くしてみていません。私たちは、開始から福音で、進行も福音で、今でも福音で、過ぎてみたら統計上私たちの教会が一番釜山で復興しています。過ぎたら復興です。よく知らないのです。この福音がどれくらい重要かをよく知らないのです。それで、そのような部分はちょっと残念です。今、普通に行ってみるならば、教役者が牧会をすることができず、薄い氷の上を歩いているようです。牧師達は、みなよくご存知でしょう。経験された方も、皆知っているでしょう。堂会に行ってみれば、堂会がだめです。どれくらい不安で戦っているか分かりません。これが教会です。本当に異常ではないでしょうか。それで、教会を知っている人は試みにあって、教会に通いません。こういう状態です。私達が福音を知ったということは、どれくらい重要か分かりません。
 
・すると、どのように信仰生活を正しくすれば良いのでしょうか。皆様が簡単に2つのことを理解すればよいのです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書。この4つの福音書は、焦点がキリストです。キリストでないものは、みな捨てろということです。これが四福音での焦点です。すると、捨てるということは、何のことでしょうか?キリストでない、今までのあらゆる考えを変えなさいということです。その四福音書の中で、イエスを信じる人の中でユダヤ人のために最も説明がうまくされているのが、マタイの福音書です。マルコの福音書は、ローマに送った手紙で、ですから、マタイの福音書はユダヤ人に与えられたのです。それで系図がはじめから出てくるのです。系図の話が出てきて、イエス様がどのように生まれたのかという話が1章から4章まで出てきます。5章からは、イエス様のメッセージが出てきます。皆様が持っている考えを完全に反対に変えるのです。これをしなければならない、あのようにしなければならないことというのではありません。心が貧しい者は幸いで、悲しんでいる者が幸いで、柔和な者が幸いだというように話されました。祈りなさいということは、こういうこと、あんなことをする必要はありません。そのようなことは、異邦人が求めることです。あなたがたは、まず神の国とその義とを求めなさい。完全に違っているのです。皆様が信仰生活を良くすれば良くするほど、祈りの課題がありません。することがあるでしょうか。信仰生活ができない人であるほど、肉体的なことを何度もくださいと言います。与えられなければ気落ちして、それゆえに試みに会ったりします。ところが、信仰生活を良くすればするほど、必要がありません。そのようなことは異邦人が求めることです。あなたがたは、まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、それらに加えて、すべてのものが与えられますと言われました。これが正しい、正しくないと律法争いをせずに、あなたの目の梁から取り除きなさいと言われました。自分の目には梁があるのに、相手方のちりを探そうとせず、梁から取り除きなさいとイエス様が最初に教えられたのです。それが、マタイの福音書 5,6,7章です。山上の垂訓です。それはよく学びなさいということではありません。考えを変えなさいということです。ですから、キリストを発見したら、みな変えなければなりません。マタイの福音書 8章を見ると、何でしょうか。悪霊につかれた者、病んだ者、霊的問題がある者がずーっと出てきます。何の話でしょうか?あなたがたは、イエス・キリストによって、基本的なこと、皆様の基本的な経済問題、基本的な家庭問題、あらゆる霊的問題があるけれど、完全にたたき砕かれなさいということです。しばしば落ち込むのではなく、抜け出せとおっしゃるのです。イエスによってということです。その内容です。
 
・その時から出てくることは、マタイの福音書 9,10章です。現場を見なさい。現場には畑がものすごく多く、祝福の現場があまりにも多いのです。その後、イエス様が私たちの目がどれくらい狭いでしょうか。イエスを信じる人の目を開けてくださることがマタイの福音書 13章です。畑を見ず、その下の宝を見なさいと言われました。そのふろ敷包をみつめず、貴重な真珠を見なさいとおっしゃいます。小さい種を無視してはなりません。それが木になるということを知りなさい。福音を軽んじてはならない。パン種のように広まるということです。その後、質問なさいました。人々がわたしをだれだと言いますか。あなたがたは、わたしをだれだと言いますかと尋ねられました。その時、ペテロが「主は生ける神の御子キリストです。」と言いました。すると、わたしが十字架を背負うと言われたところ、ペテロがその時、十字架を背負ってはだめだと言いました。それで、「サタンよ。退け。」とおっしゃりながら、すぐにどこへ連れて行かれたでしょうか。変化の山へ行かれました。山に上がって、イエス様が変化された姿を見せられたのです。それは、何でしょうか?しきりにエリヤ、モーセ、その思想に捕われるなということです。必要ないということではありません。律法、神秘が必要ないということではありません。その思想に捕われるなということです。キリストならば、すべての問題解決ということです。皆様、これを悟る瞬間に、霊的な問題がみな崩れるのです。その話です。そのような話が、12種類がずーっと出てきます。
・すると、私たちはどのようにしなさいということでしょうか。イエス様は、一般の人ではないという証拠で復活なさいました。イエス様はキリストであるという証拠で復活なさったのです。証拠はあるでしょうか。あります。今でも聖霊で働かれています。今でもイエスの名前で祈れば答えられます。その話です。それが新しい出発です。今日、皆様が答えを受けてくださることを願います。決して報いを失いません。私はむかしに、初めの頃、副教役者になった時、伝道師になった時、どんな考えをしていたのかというと、私が伝道師になったならば、復興させねばならないと考えて走りました。悪い動機でしたが、復興させるために走ったのです。それも祝福でした。むかしに、ある教会に行ったところ、相当な教会に行きました。相当な教会で、私が認められねばならないのではないかと考えたのです。それで走ったのですが、それも祝福でした。その不十分なことでも、祝福を受けました。ある日、これが違うなと考えました。福音はものすごくて、私の問題はみな終わったんだなあ、この福音は完全に保障されているんだなと、ある日悟ったのです。すると、福音を伝えることしかないということを知りました。その時から、歩みごとに祝福を受けました。それで、タラッパンに集まる人は、この契約を正しく悟った人は、みな答えを受けます。私はこの話が分かったのです。決して報いを失ないません。どのように考えるでしょうか。皆様が今日、個人が困難を受けている方がいらっしゃるでしょうか。人生全体を見て、福音を捕まえてくださることを希望します。それは、過ぎることかもしれず、あるものはもっと有益なこともあります。皆様がもし若い人や、学生達が、勉強が良くできなくて、職場生活にがっかりしていないでしょうか。全体を一度見てみましょう。過ぎることもあって、神様が準備させることもあります。だから福音は終わったのです。この話を理解する牧師が少なくて、教会がよくならないので、この話を理解する一般信者が少ないのです。それで、神様が私たち教会に証拠を見せられるのです。神様は、当分私たち教会にすごいことは繰り広げられません。なぜなら、すごい事が行われれば、そのすごいことゆえにできたのだと考えるはずだからです。証拠をくださるはずです。当分、貧しいはずなので待つように願います。それでこそ、証拠となるのです。釜山インマヌエルに財閥が集まったので、大きい教会になったのだとすれば、当然ではないでしょうか。そうではないのです。財閥が集まったから当然なことでないでしょうか。不思議に、財閥もいないのに、どのようにあのように大きい教会を建てたか、これが神様の力ではないでしょうか。神様は、ずっと福音でみなできます。あらゆる問題が終わったとされます。今日、皆様の家系の霊的な問題が、永遠に崩れるようになることをイエスの名前でお祈りします。決して報いを失ないません。私たちの長老とあらゆる職分者が、特別な祝福を受けるようになることをイエスの名前でお祈りします。
<契約の祈り>
神様に感謝申し上げます。人々が福音でないことを捕まえて熱心に正しくすべてのことを捧げるのに、失敗しています。今日、私達に福音を知るようにしてくださった神様に感謝申し上げます。霊的な問題が解決する時間になるようにしてください。既に解決されたことを感謝申し上げます。だまされないように、霊的な目を開けてください。私たちの家系に働かれた主の秘密を賛美ささげます。神様が今日も私たちに霊的な目を開けてくださって、勝利できる目を開けてください。未来を見る目を開けてください。私たち教会に世界を征服する神様の祝福を見ることができる、霊的な目を開けてください。今日、百箇所あまりで衛星で礼拝している教会の上に神様の驚くべき証拠があることを確信します。主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


2部/ 自分を慰めるダビデ
(詩15:1-5)
・簡単に申し上げます。自分を慰めるダビデというタイトルで宣教師として派遣される方達と私たちが、これから自分自身が誰なのかをよく知っていなければなりません。とても簡単ですが、あなたがたが必ず記憶する重要な時間にならなければなりません。私たちタラッパンには、多くの奇跡が起きたのですが、特にあなたがたが理解できないいくつかのことがあります。それが何かというと、一般信者と教役者とがともに全世界を回っています。他の所では、よく探せないことです。ぱっと見れば、タラッパンが無秩序にするように見えます。しかし、過ぎて見ればとても聖霊の導きを受けて、整理されているということを知るようになるはずです。また見れば、色々な集い、現場に行ってみれば‘なぜこのように無秩序にするのか?’と感じるはずです。それしか仕方がありません。なぜなら、四方から集まるために、それしか仕方がないのです。どこでも行けば、タラッパンは無秩序です。しかし、いつでも見れば、神様が直接導かれる証拠がたくさん起きています。学生達 1,000人がくるとしたのに、2,000人がきたから無秩序になるしかないのです。今、ここで宣教師派遣、設立 4周年と重なるから、無秩序にするしかないのです。いつもそうです。それで、あなたがたが伝道運動する時代に、このようになるほど‘私がだれか’を早く診断しなければなりません。
・今日、難しい中にダビデが自分自身を慰めて、自分がだれかを確認する現場です。私たちタラッパンは、見ればローカル(local)、パラ(para)で教会を超越しています。教団をみな超越しています。こういう団体はありません。全部、長老教は長老教が正しいと言い、聖潔教は聖潔教が正しいと言うのであって、このように超越して‘福音を伝えよう’というようなことはよくできません。本当に驚くべき奇跡です。そして、講壇にあるメッセージとタラッパン、チームの働き、このように現場化されて、時間空間を超越する場合は、それほどありません。神様の驚くべき働きを見て、今日派遣される宣教師とまた宣教師を派遣する多くの方達が、全く同じ恵みを受けなければなりません。
・ここには、法律関係者がたくさんいますが、法律用語に見れば “親しい”という言葉があります。“親しい”という言葉は“近い”ということではなくて“向こう側と私が一致する”という意味です。そのような意味です。そうして見ると、宣教ということを見る時、皆様とよく合わなければなりません。
・今日、宣教師がきてTIMEをこちらで合せて派遣されるのだなというように感じられれば、今日、皆様の礼拝はむなしい礼拝となります。宣教師が派遣されるのに、メッセージゆえに、また礼拝ゆえに、ここまできて派遣されるようになると思うならば、あなたがたはむなしい礼拝をささげるようになるのです。今、衛星で多くの方達が礼拝をささげているのですが、釜山や他の所で‘今日は宣教師を派遣するんだな。今日は、あまり過ぎたようでもないのに、すでに4年になったんだなあ’というように理解するならば、あなたがたはむなしい礼拝をささげることになります。
・ ディック・ヒリクスという人はこういうことを話しました。“キリストがあるすべての人は宣教師だ。キリストがないすべての人は宣教の対象だ” それで、今日、あなたがたが序論で記憶せねばならないことが、一人ももれなく宣教師の意味を理解すべきなのです。ここのすべての一般信者は、一般信者宣教師です。私とここに派遣される方達は、牧師としての宣教師です。この概念を持っていなければなりません。この概念がなければ、この概念と親しくなければ、それこそあなたがたの答えはむなしいものになります。ですから、どれくらい重要な話でしょうか? 短い時間ですが、あなたがたが正しく答えを受ける概念を持っていなければなりません。一般信者、長老達、事業していらっしゃる方達が多いのですが、この方達が宣教師です。事業を持って神様の福音を説明する宣教師です。職責が社長であり、宣教師なのです。この概念と親しくなければ、いつか崩れてしまいます。これを知っていれば絶対に崩れません。
・それで、私たちの長老の事業体に行ってそのような話をして、私たちの青年達に会ってもそのような話をして、今回、治癒使命者大会に行っても、そのような話をしました。五つの専門性を持ってこそ、お金を儲けることができるのです。
 
・第一には、あなたの人生の意味に、あなたの専門性を持たなければなりません。皆様がする分野で勉強もして、ずっとしなければならないのです。そして、時間がある限り、皆様の分野をずっと研究をしなければなりません。神様のみことばと共にしなければならないことです。そして、その体質に合う人格的な専門性がなければなりません。そして機能に専門性がなければなりません。そして、その後に正しく福音を伝えることができる伝道に専門性がなければならないのです。そして、どの団体に入っていっても、人を動かすことができる弟子に専門性がなければなりません。それなしでは、絶対にお金を儲けることができません。今回、キム・ジョンハ長老の事業体に行って、このメッセージをしました。今回、私たちの治癒使命者大会に行って、経済の部分でこのメッセージをしたのです。私が知っていることではそうです。私が知っていることが全てのではありませんが、私が聖書を見て、本を見た後に私が知っていることでは、そうです。事業する前に 3つの専門性がなければなりません。すでに私の人生に専門性がなければなりません。そして、私の人格が向こう側に合わなければならないのです。そして、機能に専門性がなければなりません。それなしでは、どんなにしても、結局ある日にだめになります。そして、私たちクリスチャンは、それで終わるのではありません。福音の専門性がなければならないのです。そして、少なくとも私達が未信者になぜ押されるのでしょうか? 弟子の専門性がないからです。すると世界を征服できるのです。こういう答を持った宣教師です。そのように考えればよいでしょう。
・私たちの学生達が、学校の宣教師です。 高3の子供達は不安でしょうか。修学能力試験を受けるために、祈って欲しいと来ました。それで私が“一つだけ記憶しなさい! 大学宣教師で行くと決心しなさい。すると、あらゆる事を神様が導いてくださる” それが違うのです。
・皆様がここにもしおでんを売る人がいるでしょうか? すると、おでん宣教師です。おでんを売りながら宣教する人です。そのように考えれば違うことがありません。そして、今、専門の牧師や、こういう職分を持って宣教師として派遣される人々は、教会復興に専門性がなければなりません。人を生かす伝道の秘密がなければならないのです。そして、本当に祈って人をリードする霊的な秘密がなければなりません。そして、実際に教会を復興させる秘密がなければなりません。それがあってこそ生かすのです。私たち皆が宣教師です。必ず記憶をしなければなりません。
・自分をダビデが慰めたということは、自分をよく分析したということになります。これがものすごく重要です。今日、宣教師達が記憶しなければならなくて、あらゆる聖徒達が記憶をしなければなりません。時間がないために、今日、私がこの本文を見ながら3つのことを感じました。何でしょうか?ダビデが自分自身を慰めたということは、これがものすごく重要なのです。自分と自分の事に対する確信です。これをすでに持っていたということに間違いありません。ですから、どんなに困難が来てもかまわないのです。もうひとつは、ダビデが自分を慰めたということは、正しいヴィジョンを持っていたということに間違いありません。これがどれくらい重要でしょうか。いろいろなことがみな生じます。
・たぶん、皆様が生きていく中に、宣教師は宣教活動をする中に、第一の条件の中で人間的条件です。その次に起きる事件、いろいろな事がみな生じます。大きい人物ならば、大きい事がいろいろな種類の事件が起きるはずです。ここに必要なことが何でしょうか? 神様が私を、そちらに神様が私をここに入れられる確信、私が神様の子供であるという確信もなければならないけれど、重要なヴィジョンを持っていなければならないのです。ダビデが重要な何かを持っていたのです。それで揺れなかったのでした。間違いないために。世界の福音化のヴィジョンは、誰も変えることができません。
・このヴィジョンを宣教師が、胸に深く大事に保管して行くことを願って、私たちすべての一般信者が胸に深く大事に保管して、現場に行くように願います。そのような宣教師です。ダビデが今、難しい中で自分自らを慰めるのです。この話はさっと見れば、なんでもないことのように見えます。自分自身を慰めるという話は、自分自身に対する確信とヴィジョンを確認するということに間違いありません。ですから、ダビデがどんな困難もみな勝ち抜いたのです。
・世界の福音化という決定は出ているけれど、歩いていく道には、色々な事が多いでしょう。それで、この部分がなければ、ほとんど揺れるようになります。揺れても、神様の計画は明らかですが、揺れないと多くのことを味わうようになります。これを最初に記憶なさらなければなりません。
 
・今日、ダビデがこう話しました。“主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。” ここに重要な意味がひとつあります。ダビデは信仰生活をしているなかで “主の山”、“主の幕屋”という言葉を書いたということは、この人は相当な祈りの秘密を持っていたということに間違いありません。そちらに自分の人生をささげて生きていたということになります。ものすごく重要です。一般信者と宣教師が2つを確認しなければなりません。神様が答えておられ、神様がみことばを成就していらっしゃるのです。完壁にみな準備されています。これに目覚めることが祈りです。一つも難しくなくて、宣教師が現場に行けば、神様が準備しておいてくださいました。
 
・インマヌエルの聖徒とタラッパンのメンバーと今 、100箇所あまりで衛星で礼拝をささげる主のしもべが 考えねばならないことが何でしょうか? 百ケ所余り衛星で礼拝をささげる多くの主のしもべが考えねばならないことは、特に作るべきことではありません。神様が全部みな準備しておいてくださいました。この目をあけることが重要です。全部みな用意されています。ですから、ダビデが主の幕屋にとどまる者が誰であるか、ダビデがものすごく難しい中に言った言葉です。
・これを必ず記憶すべきです。状態通りにすることとは違います。皆様が霊的な目を開いて見れば、私が見るのには、ソウルの町に救われなければならない人がたくさんいます。まだ開始もしていません。今いっぱいいます。正しく門が開けば、成し遂げることができません。私たちの教会のなかで、使徒の働き13章1節のような働き手何名だけが動けば、大爆発がおきます。どのようにするのでしょうか? 今、席もぎゅっと埋まってしまったのに、これで良いでしょうか? それを予想しているべきです。たくさんあります。私達が受ける神様の祝福が途方もなく備えられています。今、吉凶を占って、色々なところに陥った人々の中で、福音を一回だけ聞いてひっくり返る人がぞろぞろ待っています。クリスチャンだけが目が暗くなっているのです。占い師は、よく見ています。私達の目がくらんでいるので、本当にたくさんいます。皆様が今日から真の霊的な目が開かれる日になることを希望します。みな用意されています。これから、私と皆様が歩いていくべきことをみな用意されました。神様はみな準備しておいて、アブラハムを呼ばれたのです。アブラハムがしばしば何か言いましたが、みな準備されました。神様は、イスラエル征服を完全に準備しておいて、モーセを呼ばれたのですが、モーセが何か言いましたし、イスラエルが、行く道で何かを言いましたが、神様は完壁に準備されたのです。皆様が未信者ですか? 信者ですか? 私たちは信者です。未信者も神様のみこころをなにか知りに占いに行くのに、私たちは信者ではないでしょうか? 神様が完壁に準備しておかれたのに、この目が開かれるべきです。小さな答えではありません。なぜ主の山に、なぜ主の幕屋にとどまらねばならないのでしょうか? 私達が本当に目が開かれるべきです。宣教師に対して、この目がぱーっと開かれることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
・時間がたくさんありません。もう一つだけ記憶すべきです。主の山、主の幕屋はなにを話すのでしょうか? 大部分の注釈家が天国を望んでいると言います。私もそのように考えます。ダビデが祈りの答えだけを受けたのではありません。ダビデは既に私は今死んでもかまわないと言うのは、天国に希望を持っていたということに間違いありません。ここで、ほとんどの注釈家が同じ注釈を出しています。私もそのように考えます。単純なことではありません。私たちは必ず成功する道があるのです。天国の背景で、神様のみことばを持った人が行く所ごとに、神様の国が臨むのです。イエス様が復活なさった後、何をおっしゃられたか知っているでしょうか? 一つの他は言われませんでした。神様の国です。パウロが世界を征服した時、何をしたのか知っているでしょうか? 特に、使徒の働き19章を見れば、何をしたのか知っているでしょうか? 神様の国を大胆に説明したとなっています。これがすべてです。そのために今日、15章2節を見れば、当然の話をしました。‘正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。’ 私達が行って嘘を言う必要がないということです。何ゆえにそうなのか知っているでしょうか? ‘その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。’これが全部、宣教師が熱心にしていることです。必要がないということです。宣教師がこれだけなせば良いのです。2節から4節までする必要がありません。
 
・私たちの宣教師三家族が行くのですが、簡単です。今、宣教師がなにをしているかというと、毎日、嘘をついて妨害して、それだけしています。確認してみましょう。そのようにする必要はないということです。4節に ‘神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。’物質でなくても、神様は祝福なさるのです。色々な理解ができます。記憶なさることを望みます。
・派遣される宣教師は、簡単に一言で話せば何でしょうか? 行って教会を立てて、教会を復興させる宣教師です。そのように見ればよいのです。ここに座っているすべての一般信者は、何と考えれば良いのでしょうか? 私は現場に行って神様の国を建てる一般信者宣教師です。すると終わりです。学生は学生宣教師です。事業する人は事業宣教師です。それで終えるべきです。その単語が、全部すべてです。それで、ここに対する確信とビジョンがあるべきです。今日一度、契約を握ってご覧になるよう望みます。事業する方達が本当に、この時代に私の名前も必要なくて、栄光も必要なくて、福音を本当に伝えることができる経済を後押しできる宣教師にならなければならないだろうというビジョンを抱いて、確信を持ちましょう。そして、それで何をするのでしょうか? その秘密が他の人に対してあるのではありません。神様の手にあります。主の山に、主の幕屋にということは、多くの答えと恵みを話すのでしょうが、もっと重要なことは、天の背景を話しているのです。それを記憶すれば良いのです。頼みます。大きい宣教師になるように願います。狭い宣教師でなく、大きい宣教師です。
 
・大きい宣教師になろうとするなら、どのようにせねばならないのでしょうか? 詩篇15篇を記憶すればよいのです。つまらなく他人を解放せず、口を持って他人の話せずに、こういう宣教師がどれくらい多いでしょうか? この方達は、そのような方達でなくて幸いです。できるようになっています。私が親しいある方に会ってそのような話をしました。宣教があまりにできなくて、伝道ができないと言うので、私にどうしたら良いのかと尋ねました。24時間、常に人間中心主義を使わない以上、なるようになっています。福音を持っていれば、なるようになっています。どれくらいやさしいでしょうか? それで、妨害する必要もなくて、嘘をつく必要もありません。そのまま行ってなせばできます。
・単なる本文でなくて、過ぎ行く本文の中で重要な本文だと思います。あらゆる人々が捕まえなければならない単語が何でしょうか?宣教師です。私は教会復興させて伝道する宣教師で、皆様は現場に行ってお金を儲けて人を生かす宣教師です。その差があるだけです。すると、私達に本当に必要とすることは何でしょうか?確信とビジョンです。それで終わってはなりません。本当の祈りの秘密を持って、現場で目が開かれなければなりません。それで終わってはなりません。天の希望と背景を持って、行く所ごとに神様の国がなされなければならないのです。3つでできます。マキャヴェリ、韓非子、孫子という人々は、何を教えるかというと‘このように、このようにすれば勝つ’ とても小さな人の教えです。マキャヴェリのような人々が君主論を書きました。韓非子みたいな人は戦略家です。孫子みたいな人は兵法を使うこともしました。私が見る時には、世の中を乱れるようにした小さな人の理論です。それゆえに地球が難しくなったのです。その人より水準が高かった人がいます。老子、孟子、孔子すこし高く書きました。何と書いたのかというと、戦わないで勝つことが戦いをより良くすることだというような論理を出しました。しかし、それも水準が高い論理ではありません。聖書を見れば、そのようになっていません。福音を持った者は、負けても勝つのです。四方からごり押しされて、積まれてもかまわないのです。倒されてもかまわないのです。福音を持った人は、他人が見る時には死んだように見えても、死んでも復活する驚くべきみわざが起きるようになるのです。ステパノが死んだので、アンテオケ教会が生かされました。水準が違います。今、皆様が学校に通いながら、マキャヴェリ理論を学ぶので、失敗するのです。簡単に話せば小さな人の理論です。からから戦って勝つ小さな人の理論。小さな人の理論ゆえに地球が難しくなるのです。それさえも孔子、孟子理論が現れてましな理論を話したのですが、聖書はそのようになっていません。契約を持った人に勝つ者はいません。わたしがあなたを強い者にするはずで、あなたによって全世界の暗闇の世界が崩れるようにするはずだ。契約を握ってくださることを望みます。
・今日、一般信者もどのように祈れば答えを受けることができるでしょうか? 神様、私は一般信者として、福音を伝える宣教師です。そのように記憶すればよいのです。軍隊に行く人は、私は軍人として宣教師だ。そのように記憶すればよいのです。すると、そこに対する確信とビジョンを持てばよいのです。それとともに、本当に祈るならば、現場にみなあることを知って発見すべきです。その程度で終わるのではありません。これから、神様の国に対する背景と神様の国を成し遂げる、この契約だけ捕まえれば、皆様が葛藤をしなくても、行きさえすれば答えを見るようになるはずです。信仰生活をしながら葛藤する人々を見ると、この部分をのがしているからです。皆様に答えがこなければ、葛藤するはずです。皆様に答えがずっと来るのに葛藤するでしょうか? それで、不健全な神秘主義が出てくるのです。ならないから重苦しいので、出てきたのです。教会のなかでは、何ゆえに不平不満が出てくるのでしょうか?答えを受けることができないからです。答えを受ければ、不平不満がなくなります。皆様がこの契約をのがさず、全部が答えを受けるように願います。今日、宣教師が必ず受けるように願います。行きさえすれば、答えが与えられ、私は行きながら見ると、全部祝福の畑です。‘やー、まちがいなく弟子が隠されているのに’ 神様が福音を持って祈る人々に、この目を開けてくださることは、明らかです。行く所ごとに、すべての祝福が備えられています。時間がないために、簡単にみことばをします。派遣される宣教師三家庭に、今日メッセージを聞くあらゆる信仰の家族に、今日この席に礼拝する方達に、答えが始まる永遠な祝福があることお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様、時間がないために、みことばを短く伝えました。忘れてしまわないようにさせてください。私たちは宣教師であることをのがさないようにさせてください。一般信者として、他の秘密を持った宣教師であることをのがさないように、神様が霊的な目を開けてください。学生宣教師であり、事業する宣教師であり、職場に通う宣教師であり、未信者を生かす宣教師であることを銘記するようにさせてください。また、宣教師を派遣して送る宣教師であることを銘記するようにさせてください。今日送られる宣教師三家庭に、行く所ごとに復興する神様のみわざが起きるようにさせてくださって、これのために主の山に、主の幕屋にとどまる信仰告白のビジョンがあるようにさせてくださり、行く所ごとに恵みを受けて祈る秘密を成し遂げるようにしながら、神様の国を背景が成し遂げられるようにさせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン