(2002年 11月 24日 インマヌエル教会/ 柳光洙 牧師)


1部/ 子どもを祝福なさったイエス・キリスト
(マルコ10:13-16)
 
 
・私たちみんな、「これから、私がどうなるのか?」こういう考えをすることがあります。未来に対する考えです。それは、今持っている考え、そのままなります。間違いなくそうです。私たちの村にとても酒を飲んで回る人がいましたが、私たちの村では '気が狂った犬'と仇名をつけていました。賢くて、仕事もよくできたのに、酒飲みだったのです。そうしながら、ある日この人が、イエス様を信じて教会に出てき始めたのでした。それで、近所中の人々が良く考えたり、伝道の門も開いたりもしたのです。この人が、信仰生活をずっとしながら、執事にもなりました。私達は一生を見るのですが、教会生活をしていていれば、いつも恵みだけがあるのではありません。また、福音を続けて話す教会はありません。だから、この人が福音が深くなかったのです。そうしたあと見たら、この人に試みがやってきました。問題が来たら、私が見たら、前のように戻ってしまったのです。教会を止めたり、葛藤したり、むしろ前より異常になりました。前はそれでも、イエスを信じない人と回っていたのに、いまは世の中の人でもなく、信徒でもなく、そのような中途半端な生活を送っていて、今でもそのように暮らしているという話を聞きました。だから、その子ども達も、家庭も、未来もとても異常になりました。
 
・私がそれを見て、私達が今まで学んできた、私たちの中に入っていることが、どれくらい重要かと思いました。なにを考えているか、それがどれくらい重要か分かりません。'子どものようになりなさい'ということです。その話を理解できるでしょうか? 子どものようになりなさいということは、水準を低くしなさいということではありません。今日、イエス様が子どもを祝福なさろうとしたら、弟子が子どもを来ないようにさせたのでした。それは、その当時の人々の考えで、子どもは特に価値がないと考えていたので、子どもは成長してこそ分かるから、ここには来てはならないと思っていたのでした。その時の思想がそうだったのです。考えがそのような考えを持って、子どもを来ないようにさせたのでした。イエス様がものすごく怒られたとなっています。その子どもを抱いて祝福なさる前に、こう話されました。 '子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。' このようにおっしゃりながら、子どものために祝福なさったのです。それは、私達が子どものように幼稚になれということでしょうか? そのようなことではありません。ここにはものすごく多くのことが含まれています。一見すると、なかなか理解できないことでもあります。英語で見れば、幼稚という言葉と子どもらしいという言葉は、違う言葉です。英語を違うように使います。子どもらしいと言う時、childlikeという単語を使います。とても幼稚だという言葉の時は childishと言うのです。それは、違った言葉です。イエス様が子どものように、この話は幼稚になれと言われたのではありません。「この子どもを見なさい。このようにならなければならない。」とおっしゃられました。
 
・何が入っているかが、本当に重要です。私の親戚の中で見ると遠い親戚なのですが、その人が食堂も酒場もして、商売をよくして、人も本当に良いのに、この人が教会に来ては止めるのです。私は人を長くみつめて、何でそうなのか、じっと人々がを見るのです。幼い時は分からないのですが、40年 50年 60年 70年過ごせば、見えます。不思議に娘達がみなそのようになりました。本当に異常です。残念なことです。娘達がものすごく賢かったのに、変になにかお母さんが持っている考えが入っているのです。何かお母さんはだめだを思っているのに、自分達の中に入っているのでした。これを見た時、不思議に思ったのです。何かお母さんの生き方が嫌いらしいのです。なぜお母さんは酒の商売をするのか? 商売も多いのに、そのように言いながらも、娘達がみな後ほどは、酒の商売をします。それを見ながら、本当に不思議に思いました。何か霊的な流れがあるようです。私達が成長しながら入っていくのです。これは、ものすごく重要な話です。子どものようになれということは、おとなの信仰に気を付けろということです。
 
・最初に記憶せねばならないことは何でしょうか?自分自身も知らないでいる問題が多いのです。これが、子どもにはないということです。これが、おとなにはあるということです。今、ユダヤ人にあるということです。簡単に話せば、私と皆様にあるということです。このことが、どれほど重要な話かというと、生涯続きます。これがどれほど重要かというと、決定的な瞬間に現れるのです。これがどれほど重要かと言うと、サタンの通路となるのです。それで、人々を見ると、いろいろ良いこともあります。そうしながら、決定的な瞬間に崩れるのを見ると、いつ崩れるかというと、自分の考え、そこに崩れるのです。決定的な瞬間に、その人がみな失敗するのを見ればどこでしょうか?その不信仰に捕えられる所です。私はそれを見て、本当に不思議に思ったのでした。どれくらい不思議に思ったか分かりません。それでイエス様が子どものようになれという話は、反対語を考えればよいのです。今、君達おとなのような、そのような信仰生活をしてはだめだということです。これを見る時、どれくらい重要な話でしょうか。私たちも知らない間に、おとなには子どもにはない不信仰があるのです。私たちも知らない間に、おとなには子ども達にはない考えと思想が固まっています。私たちも知らない間に、子ども達にはない長い間持っている性格と習慣があるということです。これがものすごく重要な話です。私たちも知らない間に、家庭の問題、家系の問題、すぐ生まれた子どもにあるでしょうか? おとなには、あります。そして、私たちも知らない間に過去があるのです。子どもが生まれて、歩いて回るのに過去があるとしても、どれだけあるでしょうか? あなたがたには過去があります。それが簡単な話ではないのです。知っていますか? 生まれたばかりで、今日祈りを受けようと来る子どもに過去があるとしても、どれくらいあるでしょうか? あなたがたは、みな過去があるということです。これが問題です。それで、イエス様が子どものようになるべきだと言われたのでした。あまりにも重要な話です。どうすることもできません。私が人々を静かに見ると、やむを得ずそのようになります。
 
・成功する人、失敗する人を見れば、いつでもそうです。失敗する人を見れば、必ず過去に引っ掛かって崩れます。本当に簡単な話ではないな! と思いました。特に考えです。何か仕事を熱心にして成功するのに、見れば人が否定的です。その人は、結局は失敗するのを見れば、否定的なそこに倒れて失敗するのです。人生が否定的な人生になるのです。それを見れば、本当に不思議に思いました。この聖書のみことばの中に、聖霊充満を受けなさい。この話がなんの話なのか理解できました。単なる話ではありません。私たちは、家系の背景もあって、家庭の背景もあります。それは絶対にそのまま終わりません。皆様が福音を理解できなかったり、考えを変えなければ、絶対にだめになります。一般の人々はよく知らないのです。イエス様が、「あなたがたおとなのようになってはならない。子どものようになりなさい。」イエスを信じないでも、子どものようになりなさいということではありません。そのようなことではないのです。これは、救われた人々に信仰の話をされているのです。「子どものようになりなさい。」どれくらい重要か分かりません。
 
・2番目に考えねばならない部分は、イエス様がなさる話は、最初の話は、おとなが持っている霊的問題、これでなく、子どものようになるべきだというみことばで、2番目は、よく信じる人々が持っている宗教的な信仰があります。それではだめだということです。きれいにそのまま信じなさいということです。私達が持っている宗教的な信仰は、変えるべきです。私たちは通常に考えるのですが、必ず変えなければなりません。私達が信仰生活をしているうちに、よく信じるかのように思っていたのに、どのように信じているでしょうか? 神秘やそのような方向に陥りやすいのです。私達が聖書のみことばがない時や、むかしのダニエル, ヨセフのように極限状況に入っていけば、聖書みことばを見ることができません。こういう時、神様が夢で言われることがあります。ところが、ある人々を見ると、夢で信仰生活する人がいます。これが誤って習ったことなのです。夢ということは、神様がくださることができるけれど、サタンが利用する事もでき、そうでなければ、むなしいものもあります。
 
・ある日、私が寝ていたら、鐘の音がしました。美しい鐘の音が聞こえて、見たらアラームの音でした。それで神様が私に美しい鐘の音でメッセージを与えて下さったと言えば、精神病です。こういう方法で信仰生活をする人がいます。そのように思っているのでしょうか? ある日、戦争がおきました。戦争がおきたら、どこに逃げて行かなければならないかと思っていたのですが、目が覚めてみたらお腹が痛くて、そうなっていただけだったのです。夢をそのような方法で解釈するのです。誤って習った信仰生活です。神秘主義をおもに見れば、子どもはそのようなことがなくて、おもにおとながそうです。皆様が、もしそのような方法で信仰生活をしていてはなりません。神様のみことばをよく見て、理解しなければなりません。ある人は祈っている途中でTVで出てきたことを見て、それが神様のみこころだという方法でしますが、そのようにしてはなりません。前に話したことがあるでしょう? 全く勉強ができない人が、眠っている途中で夢を見ました。そうしたら、PCが出てきたのです。Pが何でCが何か知らないで、辞書をさがしたら、Pで始まる言葉が 1・2 個ではありませんでした。 Cがつくことが 1・2個ではなかったのですが、自分自らが探していて、探している途中で本当に良いものを探し出したのです。Pで Preach 説教する Cは Christian クリスチャン。「あ、私に牧師になれと言われているようだ。」それで牧師を訪ねて、「先生。私が夢を見たのに pcが出てきたのですが、これは神様が私に牧師になれと言われているようです。」と言いました。牧師が静かに見ていたのですが、「私はそのように考えない。Pは Plantで、Cは Cornで、行ってとうもろこしを植えなさいということではないだろうか。」と言いました。
 
・一度は、私の友人の牧師が祈梼院に行って祈っていたのですが、なぜか女の人がきて膝をつきました。なぜそうするのかと聞いたら、昨日の夜に祈っていたら、啓示を受けたのに、何の啓示を受けたのかというと、神様が啓示をなさったのに、あなたと結婚しろとおっしゃった。12月25日に、いまは牧師ですが、その時に伝道師であったのですが、あまりに驚いて「私は結婚しています。そのようなことはないのに、私は結婚していて、妻もいて、子どももいます。そのようなことはありません。」神様は失敗しないのに……. そのような方法で信仰生活してはだめです。おとながそうで、子どもはそのように信仰生活をしません。神様のみことばをそのまま信じます。また、おとなが宗教的に信仰生活をどのようにするかというと、みことば通り入っていかなければならないのに、みことばで入っていっても、律法で入っていくのです。通り過ごしながら話したでしょう? 「イエス様、この自閉症の子どもは、なぜこうなのですか? これは、親の罪ですか? この子どもの罪ですか? 」私たちの思想です。それがユダヤ思想です。皆様がそのように考えるのではないでしょうか? 何の罪を犯したからこうなのでしょうか? イエス様が何と答えられたでしょうか? 福音的な返事をされました。この子どもの罪でもなくて、父母の罪でもない。神様の栄光が現されるためですと言われました。神様の計画があるのです。福音的な返事です。私たちは、なにか律法的にしばしば陥ります。私達が今まで学んできた宗教的な信仰ではだめなのです。この子どものように信じなさい。簡単に話せば、なんの話でしょうか?
 
・三番目に考えることは、そのまま信じなさいということです。子どものように、神様のみことばをそのまま信じなければなりません。なにかをしばしば解釈しようとしたり、自分の体験を足したり、そのようにしてはなりません。それが失敗することです。神様のみことばを無理やり理解しようともせず、そのまま信じましょう。それが信仰生活を最もよくすることです。どれくらい重要でしょうか? 私達が学ぶとしても、どれくらいよく学べるでしょうか? 神様のみことばを、そのままパウロが言うのには、「この地に教師は誰なのか? 知っているとしても、どれくらい知っているのか? この地に力がある者は誰なのか?神様より力があるだろうか。」そのまま信じれば良いのです。その話です。そのまま信じましょう。
 
・今回、米国に行った時に、孫が私の車に乗りました。行く時、突然にケーキをくださいと言うのです。話をほとんどみなわかります。行く時、買ってやりました。それでも、たびたびケーキをくれと言います。子どもは話が完全に分かっていないな! 買ってあげると言ったら、じっとしているべきなのに、たびたびくれと言うのです。後ほど分かってみたら、そうではなかったのです。車にケーキが乗っていたのです。私は知らなかったのに、私の誕生日だと、食堂に行ってご飯を食べる時、ケーキを置いて、歌を歌おうとしたようでした。子どもがそれを見たらしかったのです。それで、ケーキをくれと言ったのでした。どれくらい実際的で、どれくらい信仰が良いでしょうか。ケーキをくれと言うから、行って買ってあげる店はどこかと思ったのですが、ずっとくれと言うのです。後ほど分かりました。車にケーキが乗っていたのでした。それを持ってご飯を食べようとするのにケーキをくれと言うのでした。ケーキを持っていると気づいたのです。 'たわごとでくれと言ったのではないな! それで、置いてろうそくのあかりをつけたら、どれくらい不思議に思ったのか? それがおもしろいと happy birthday to youを五回も歌いました。おもしろかったら、どこにでも行くのですが、気分が悪ければ、声をあげたりします。私たちならば、そんなにするでしょうか? 強く表現するでしょうか?子どもは、そのまま表現します。それが子どもです。どれくらい単純でしょうか?そのままです。そして、感じたことが何かというと、父母に話せば与えるという単純な信仰があります。どれくらい単純な信仰でしょうか?
 
・皆様、写真を撮す時、そのまま写るのではありません。フィルムに写ります。フィルムに写ったそのまま写真となって出ます。私達は、考えを持っています。私達が信仰を持っています。そのまま出てくるのです。箴言6:2節に「あなたの口のことばによって、捕えられる」とありますが、ものすごく重要な話です。あなたがたが、あまり良くないことをずっと考える必要がありません。そのままそうなります。ヨブ記3:25節に見れば、ヨブは信仰が良かったのに、昼夜なしで心配する方向でした。どんな信仰でしょうか?もし私たちの子ども達が罪を犯せばどうなるか?もし失敗すれば、どうなるか? もし崩れれば、どうなるか? これをヨブはいつも悩んでいました。聖書にあなたが考えていたことが、そまま訪れたということが書かれています。ものすごく重要です。ある女の方達は、いつも家の中に座って、子どもがどこに行って、車にぶつかって死んだらどうするか? 夫がどこかに行って浮気をしたらどうするか? いつもそのように考える人があります。ものすごく悪い考えです。子ども達を祝福して、そのようにしなければ、いつもおかしく考える人がいます。幼い時から入っていった考えです。そのために、こういう部分がどれくらい重要か分かりません。Iヨハネ4:18〜19節を見れば、「なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」いたずらに恐れることに刑罰がしたがうのです。どれくらい重要か分かりません。これがサタンの攻撃ポイントになるということを知らなければなりません。これがなんでもないことのように見えても、霊的な病気になるということを知らなければならないのです。
 
・結論は、肉体の病気とつながるということを知らなければなりません。運命という単語を私たちは使わないけれど、未来の運命と関係があるということを知らなければなりません。皆様の子どもを見て、そのようにしましょう。いつも心より、「あなたは神様が祝福なさる。あなたは神様の子どもだ。」となるべきです。毎日、「用心しなさい。車を用心しなさい。」それがなんでもないことのように見えても、霊的に不安が植え付けられるのです。もちろん、車は用心しなければなりませんが、毎日、「車に用心しなさい。友人に用心しなさい。酒を飲まないで」このようにすれば、ある人は一杯飲めば悪霊がついたと異常になります。人がそのようになってしまいます。何か信仰の問題が生まれるのです。皆様の夫が出勤する時も、このように話しましょう。"神様があなたを祝福なさるはずです"と言いましょう。どれくらい格好良く見えるでしょうか。信仰の話です。 "早く帰ってきてください。用心してください"と話せば、はじめから疲れます。見ることもせず疲れるのです。とても不信仰的な話です。皆様の子どもにも、そのように話しましょう。信仰を植え付けて、冗談を言っても信仰を植え付けましょう。 "素晴しい"と言ってあげながら、信仰を植え付けなければなりません。私が私の孫にたくさん使う単語が何かというと "Good boy"と言います。孫が何かを持っていました。かばんを持っているのかと、かばんをあけてみて驚きました。鞄の中に何かが入れてあったのですが、あれこれ入っているべきなのに、ただ一つだけが入っていました。列車です。列車をずーっと連結させることができること、それだけがぎっしり入っていました。それでも私には列車を買ってちょうだいと言いました。それで私が "お前は大きい子だ"と言いました。なぜなら、小さい自転車に乗って通うのではなくて、大きく回る子だと言ったのです。次に飛行機を買ってと言いなさいと言いました。
 
・私達は、できれば祝福しなければなりません。不信仰、これがどれくらい怖いか分かりません。必ず見れば、そのようなことが生じます。本当です。おかしなことです。「あなたの口のことばによって、捕えられた」ということは、どうして話すとそのようになるのでしょうか。そうではありません。話は思想、祈り、潜在意識、意識とみなつながっています。今日から話を良くしなければなりません。話を良くするということは、考えを良くするということです。そうではないでしょうか。それでヤコブ3章に見れば、話が完全な人は、完全な者だと言われています。それが何の話なのかというと、私達がどのように完全な者になれるのでしょうか。この話がものすごく重要です。話は考えと同じです。ずっとそのようにしなければなりません。ある人がこのように言いました。私たち韓国人は、良い言葉をあまりにも使いません。ですから、家に行って奥さんに愛しているよと告白しなさいと言っても、それが難しいのです。簡単な話なのに、それが難しいのです。しなさいとするので、無理に家に入っていくやいなや、奥さんを見て "愛しています"と言ったところ、奥さんががそれまでしなかった事をしたから、あまりも言ったことがないことだったので、奥さんが言うのに "今までしていないことをしている"と言ったそうです。あまりにしなかった事だから、私たち韓国の人々は、良くない話だけをします。そのようなことは、ものすごく重要です。ある人が作曲者に歌を作ってもらったのに、子どもが死んだ後に歌う悲しい歌を作りました。歌手がその歌をずっと歌ったら、本当に子どもが死にました。ですから、歌もよく歌うべきです。だから、私達がどれくらい考えと話が重要か分かりません。すると、敢えて私たちの信仰、霊的問題、子どものようになるべきだということです。皆様はすでに違ったことがぎっしり入っているので、どれくらい大変でしょうか。ものすごい救いの祝福を受け取っておいて、皆様の 50, 60年 間, 6.25(韓国の戦争)の時にあき缶を拾って食べて経験が入っているのにできるでしょうか。どれくらい多くなっているでしょうか。職業によって入っていて、状態によって入っていて、家系によって入っています。雑多なことがみな入っているのに、この途方もない救いの祝福を理解することができるかということです。子どものようになりなさい。イエス様のみことばは、普通のみことばではありません。私が見る時、ものすごく重要な話です。運転手をしていて、歌をとても良く歌って成功はしたが、自らの過去に縛られていました。有名な歌手になって、歌は歌ったのですが、ある日、若い年齢で、三十何歳くらいで死にました。その人が、エルビス・プレスリーです。ですから、人がここに縛られたところから抜け出てくることができないのです。成功をしても、そのようになります。私たちには、とても重要です。これがまさに私たちの未来となるのです。子どものように、そのまま信じましょう。なぜそのまま信じなければならないのか、理解ができないでしょうか。そのまま信じましょう。
 
・今日、あなたがたは、神様のみことばを捕まえて、イエス様がこのみことばをなさった理由をまた考えてみなければなりません。この話は、何のみことばでしょうか?今、おとなのように霊的な過去をそのまま持って信仰生活してはならないということです。2番目には、パリサイ人のように自分たち自身の宗教、体験を持っているけれど、それでこのすごい祝福を理解することができるかということです。皆様がこの話を理解すれば、簡単です。より重要な話は、文字どおりそのまま信じなさいということです。「この子どもを見なさい。」とは、そのまま信じなさいというみことばです。私達が神様のみことばをそのまま信じるならば、あなたがたに驚くべき答えで確かに変化するようになるはずです。
 
・今日、本文の中にはないのですが、私が聖書を見ながら、このように信じれば良いと感じられました。それが何かというと、1番目は救われる信仰です。これが正確でなければなりません。自分が救われなければならないためです。キリスト・イエスを正しく知っていれば、全てのものを知るようになります。救われる信仰です。この信仰を持っていなければなりません。2番目は、救われたならば、神様の力を信じるべきです。その信仰が必要です。その次には、神様の子どもになったゆえに、神様は私を完全に責任を負って導かれるという、その信仰です。その信仰がなければなりません。私たちは、それだけでなく、肉体と世の中とサタンに勝つことができるのです。神様がその権威を与えられたという事実を信じなければなりません。より重要なことは、私達が失敗をしたりすることがあります。私達が生きていくならば、問題が発生することがあります。皆様が生きているうちに、大学試験に落ちることもあって、皆様が生きていくうちに家庭に問題もくることがあります。この時、より重要な信仰が必要です。神様は、いつでも私たちにより良いことを下さいます。私はどんなに注意深くみても、神様が未信者にも良い目的を持っておられ、悪い目的を持っておられません。それならば、神様の子どもには、とても良い目的を持っておられるのです。
 
・私達に問題がきた時、より重要な信仰が必要です。聖書を見ましょう。代表的な人物で、ダビデがいます。代表的な人物が、新約聖書の初代教会信徒で、パウロのような人物です。この人達がいつ答えをみな受けたのでしょうか。困難がきた時です。この人達が、本当の祝福をいつ受けたのでしょうか。問題がきた時、受けました。問題が来いということではありません。問題がきた時にも受けたということです。本物の貴重な祝福を受けた人々は、いつ受けたのでしょうか。問題が発生した時です。皆様の人生が過ぎて見れば、いつ最も祝福されたかというと、問題がきた時です。葛藤がきた時です。その時ほど受けたのです。しかし、失敗した人々を見れば、問題がきた時、みな崩れました。私が子ども達を見ると、子ども達はほとんど似ています。学校に行ってみると似ています。私たちの幼い時にも、学校に通う時に見れば似ていて、女学生、男子学生は、またちょっと違います。男子学生を見れば、ほとんど昼休み前に弁当をみな食べます。ある者は、グループを組んで他人の弁当を盗んで食べることもします。体育時間を終わって見れば弁当がありません。男子学生は、集まれば特に変なことをするのです。似たりよったりです。座っては、先生が前で説明しているのに、説明は一つも聞かなくて、後に座って漫画を見る者もいて、またおかしな写真を持ってきては回してみながら恵み受けたりします。似たりよったりです。ところが、どこが違うかというと、成功をして祝福を受ける学生達は、決定的な瞬間にうまくいくのです。その小さい差でなります。ところが、失敗する人は、決定的な瞬間に崩れるのです。いつでもそうです。だから、こういう部分がどれくらい重要か分かりません。いつでしょうか?問題がきた瞬間です。そのような時です。それで、私たちは、皆様がもし家庭が難しくて、個人的に難しくて、問題が来ているとしても、このように考えればよいのです。この時が重要な時だと考えればよいのです。すると、ほとんど正確です。この時が重要な時なのです。
 
・モーセがそのように考えたのかは分かりませんが、モーセが荒野で何の財産もなく、他人の羊を飼っていた時が、最も良い時でした。そのような考えをしたのか、しなかったのかは分かりませんが、モーセは、その時に祝福を受けました。皆様が信仰生活をするのに1・2 つの話ではありません。今日の話を必ず記憶しなければなりません。皆様も知らない間に、皆様の意識、無意識の中に入っている多くの問題があります。認識しなければなりません。それで、福音を根をおろせと言うのです。私は牧師になった後、伝道現場に行ってみて何を感じたかというと、一生、講壇で信徒がみな逃げても、イエスの話だけ続けるべきだと感じました。なぜでしょうか? そのようにしないと死ぬからです。なぜでしょうか?既にあなたがたは、40年, 50年違ったことを持ってここ来ているのです。それならば、イエス・キリストの福音で根を下さなければ、みな死にます。私はそのように感じました。神様が私に与えられた大きい恵みです。私がそのような悟りを持ちました。それで、私がそのようにしたところ、驚くべきことに、信徒は逃げないでずっと集まるようになりました。驚くべきことに、それが正しいという証拠で、世界の福音化が今なりつつあります。正しいのではないでしょうか。記憶しなければなりません。最初は子どものように。
 
・2番目に記憶しなければならないことは何でしょうか?皆様が無意識的に入っていることではなくて、宗教的に知っていることがあります。それが違うことがあります。福音を正しく理解しましょう。それで、とても重要な部分です。あなたがたが信仰生活をしていれば、意見もあって体験もあります。それが正しい時もありますが、そうでないこともあります。私達が持っている考えや経験が良い時もあるけれど、良くない時もあります。それで、最も良い方法が何でしょうか?神様のみことばをそのまま信じなさいということです。最も良い方法です。詩篇 119篇11節に見れば、神様のみことばを心から受けたと言われています。なぜなら、神様のみことばを頭で受けるだけの知識人はいないからです。心から受けなさいと言われています。
 
・皆様が、最後の結論的に理解しなければならない部分が何でしょうか?皆様が信仰生活をしている途中で、困難がくることがあります。学生達が信仰生活をしている途中で困難がくることがあります。そのような時が、一番重要な時です。その時、気落ちせず、さまようこともせず、良く見ればよいのです。私たちの教会の大学生が時々、私にカードを送って、手紙を送る時、いつも書く言葉があります。世界福音化する牧師の右腕だと書き送っています。右腕になるということです。ところが、ある日見たら、私を見ると、気が抜けて歩いていました。右腕なのに、力がないのでしょうか。自ら右腕になるのが大変なようです。私は理解します。なぜそうなのかというと、牧師のメッセージを聞いて、説教を聞く時は、世界福音化するのが最高の祝福だと、右腕になると考えて、出てみると足の指の役割もできないのです。 '私がなぜこうなのか'と考えるのです。このようになったのです。先生の説教を聞くと、外に行けば現場に準備がほどんどなされているというのに、私が行ってみるとそうなっていないのです。そのような時、自分自身に対する説明をすることが難しい感じがします。ところが先生が前から歩いて来るのが見えるから、頭をかがんで過ぎるのです。むかしに手紙に先生の右腕、このように書いたことを考えるからです。うろたえないで。皆様の錯覚です。錯覚を途方もなくしたのです。世の中は、そんなに大変な所ではありません。世の中は、そんなにおもしろいこともありません。青年達が錯覚しやすいのです。出てみれば、世の中が大変に見えます。そうではありません。そして、世の中がおもしろく見えるのでしょうか。そうでもありません。精神をよく整えて見れば、その中に道があります。最も重要な時間が、その時間です。あなたがたが、当惑するような事が起こった時、外に行って困難な事が起こった時、職場に入っていって困難を受ける時が最も良い時です。その時が、最も祝福の時です。信仰がどれくらい重要か分かりません。少しだけ過ぎて見れば、みな解決します。それとともに、神様の祝福が見え始めます。ソウルで飛行機をおりて車に乗って行ってみるならば、パルサンという町があります。何かの演劇人の映画なのかは知りませんが、ポスターが貼ってあります。おもしろいことが貼ってありました。'出獄を一日控えて脱獄した囚人'だと書かれてありました。明日になれば出獄するのに、それを耐えることができなくて、今日脱獄したのです。すると、少なくとも何年かはもっと入らなければなりません。それを見ながら、「そうだな。たぶん私たちの信徒がこのようだ」という考えをしました。答えを一日控えて、家を出て行くようです。必ず私たちの信徒がそうです。答えみなきたのに、あきらめて行くのです。それがあたかも出獄を一日控えて脱獄する、その人と同じです。私がそれを見ながら、タイトルを誰がつけたのだろうかと考えました。それが芝居であるか、映画であるかという気がしながら、今日行ったら一度確認してみるつもりです。パルサンからインマヌエル・ソウル教会に行く方向についています。間違いなく、クリスチャンの姿と同じです。神様が準備をみなしておかれたのですが、まさに直前に、門の前にきてあきらめてしまうのです。
 
・私たちは、今日、子どものようになりなさいということは、幼稚になりなさいということではありません。そのまま信じなさい。神様の子どもです。この祝福を今日、あなたがたが受けて、必ず記憶なさらなければなりません。皆様が知らない霊的問題、既に長い間持っていたこと、それをひっくり返さなければならないのです。皆様が持っている思想と体験、色々な良いことが多いのですが、その良いことゆえに誤って悟った宗教の信仰、そして、あなたがたがこれまで習ったこと、経験したこと、良いものがあります。この部分を持っていて、神様のみことばをそのまま信じられないのです。それで、子どものようになれとおっしゃいました。その話を理解しなければなりません。パウロを見ましょう。この世の中で賢い人はだれか? パウロぐらい賢い人がいるでしょうか。この世に知恵者は誰か?パウロぐらい賢い人がいるでしょうか。この世に知識人が誰か?神様の愚かさと私たちの知恵とどれがよりよいだろうか。パウロが言った言葉です。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」パウロが言った言葉です。「私は十字架とその死の他には自慢することはない。私が救われたことは神様の恵みだ。」パウロが言った言葉です。この人が正しく悟ったのです。
 
・今日、私達が習ったタラントとか、知識とか、経験が必要でないということではありません。話の理解を上手にしなければなりません。必要でないということではありません。みな用いられるのに必要でないとのことではありません。過去に習ったこと、成功したことが必要でないとのことではないのです。それゆえに、ものすごい福音を知らないことがあるということです。それゆえに途方もない霊的問題を見ることができなくなったり、それゆえに神様のみことばを見ることができることができないと言うことです。それで、子どものようになりなさいとイエス様がおっしゃられました。今日、ものすごく貴重な祝福の門が開く一日になることをイエス様のお名前で祝福します。
 
(祈り)
 神様に感謝申し上げます。今日、短い時間ですが、永遠で大きな答えを受ける日になるようにさせてください。霊的な大きい悟りを得る日になるようにしてください。神様のみことばをそのまま信じる子どものようにきれいな信仰を与えて下さい。また、子どものように、なんの霊的問題も経験しない信仰へ帰るようにしてください。私達が過去に習った宗教と経験ゆえに、神様の途方もないことを見ることができない、そのような暗い目にならないように、神様が祝福を与えて下さい。今日、あらゆるみことばを聞く全世界の使命者に、衛星で礼拝をささげる教会の上に、今日、みことばを受けるこの席にいるあらゆるインマヌエルの聖徒の上に、神様の恵みがあふれるようにさせてください。病んだり、難しい事情で礼拝に参加することができない方達に、神様が特別な恵みを与えて下さり、特別な慰めを与えてくだり、神様の霊的な祝福を与えてくださって礼拝できる祝福を与えて下さい。
  イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 
 


2部/ 宣教の意味と理解
(ヨナ4:1-11)
  
・私は賛美を歌う時、皆様の顔を見るといろいろな考えが浮びます。その時には、また神様に祈ります。 '神様、この賛美を受け取ってください' 私は説教の時より、賛美する時により祈りをしています。賛美するのを見れば、またジョブ考えになります。 'やはり オ執事、あの人は賛美のために生まれた人だ' こういう考えもして、 'やはり、あの人は声が良いな!' 良い人で、一番良い学校で今回首席になったというので 'やはりそうだな!' こういういろいろな考えが押し寄せるのです。すると、私がまた祈りをします。 '神様、この賛美を受け取ってください' 皆様はどうか知らないのですが、礼拝を正しくささげなければなりません。私がいつもそうです。それで可能ならば、私は賛美する時、目をとじて祈りをしながら賛美をします。なぜなら、私が皆様の顔を見れば 'あ、今週は来たんだなあ。先週に見えなかったのに来たなあ.' このような、いろいろな考えが浮ぶからです。それで、本当に祈りを賛美の時、多くします。なぜならば、神様に賛美を歌うゆえです。私がこれが良くできません。それで、祈りを多くするのです。
 
・今日、全世界のメンバー、また、衛星で一緒に礼拝をする教会、この席にともに参加したあなたがたに、私が答えを差し上げたいのです。本当に祈りの答えを受けようとするならば、どのようにしなければならないのか? 何と考えるでしょうか? 色々な話をするはずです。私達が本物の祈りの答えを受けて、神様に喜んでもらおうとするなら、どのようにしなければならないのでしょうか? もし、私がこのように聞くならば、皆様が答えることが難しいでしょう。ところが、それがそんなに難しいことではないのです。今日、神様が一番願われることをすれば良いのです。ところが、それをすれば良いのではありません。神様が願われる心と、私たちの心とが通じなければならないのです。その時から、みわざが起きるのです。
 
・今日、ヨナは神様の心と通じなかったのです。ヨナは宣教はするのに通じないのです。 "お前は今、ニネベに行ってメッセージを伝えなさい"と言われたので、ヨナは '私がなぜ敵の国に行くのですか?' というようにして、タルシシュに行く船に乗って逃げたのですが、皆様がご存知のように暴風に会って、水中へ行ったのですが、魚の腹の中に入って悔い改めをしました。また神様が魚の口から吐き出させて、ヨナはまたニネベに行ったのです。ニネベに行って、止むえず福音を伝えました。仕方なく宣教をしたのです。神様がしろと言われるから、そのように宣教をしたのに、ニネベが悔い改めました。そして、今日、聖書を見ると、ヨナが今度は怒ったのです。 "私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。"とヨナは話しています。神様とヨナは、あまり通じていないでしょうか? そして、今日の本文を見ると、なんと出てくるでしょうか? ヨナが座っていました。ヨナは、たぶんハゲ頭のようですが、とうごまの陰の下に座っていたら、虫が食べてしまったのです。枯れてしまって熱いから、またやたら怒ったのです。 "私は生きているより死んだほうがましだ!!" ですから神様が "あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。"とメッセージを終えました。そのあとは書かれていません。なにが感じられるでしょうか? 神様が本当に願っておられることと皆様が通じれば、万事OKであり、すべての問題は解決です。今、ヨナは、宣教しましたが、神様と通じないのです。
 
・私たちは、大部分、信仰生活がむずかしいと考えます。そうではありません。もしこの学校に先生が死ぬ問題に会ってお金が 1億必要とします。先生がちょっと助けてくれますか?と尋ねれば、むずかしいのです。私にお金がどこにあるでしょうか? しかし、キム・ドンゴン牧師が困難にあって、1億が必要ならば、先生はちょっと助けてくれますか? 可能です。なぜでしょうか?心があるからです。皆様が本当に福音を持っていて、福音を伝えるべきだと決心すれば、人を見る目も開きます。'あれはにせ物だ。本物だ' みな開くのです。 'あのことはすべきだ。だめだ。' 知ることができます。そうではないでしょうか? 難しいのではなく、本当にしようとすれば、知ることができるのです。皆様が教会の仕事をしたことがありますか? 本当に教会の仕事をしようとするおばさんが、仕事をするのに、仕事をするのがいやな人を助かるかと思って入れると、分かるのです。その人がいないほうが仕事が終わるのです。邪魔になってしまいます。それを他の人は知りません。本当に皿洗いをする人は知っているのです。このように、神様の祝福を受けることは簡単です。
 
・それで、私達が宣教も良いけれど、テックォンド宣教、私達がこれから宣教を多くするのではないでしょうか? それは良いのですが、理解からしなければなりません。それで、今日のタイトルが "宣教の意味から理解をしなければならない." そのようなタイトルです。一言で宣教が何だと考えるのでしょうか? 私はこのように感じられました。
 
・夫婦が座って公園で話をしているのに、若い子ども達が通り過ぎながらけんかをしていました。それで、この夫婦が騒々しいから、見たのです。見ていたら、この子ども達が "なぜ見るのか?"と言いました。ですから、この夫婦が狼狽したのです。なぜならば、けんかをするから見たのに、なぜ見るのかと言うのです。かと言って避けることもできなくて、そのうちに来て、二人とも刺し殺したのでした。実際にあったことです。子ども達が両親が風に当たりに行ったのに、帰って来ないので、公園に見に行ったら、父母が死体になっていたということです。なぜ殺したのかと言ったら、誰かが殺したということでした。それで、この子ども達が、あまりに両親に会いたくて、親戚が行こうと言ったのに、行かずに家にそのままいたのです。この息子が、両親にとても会いたいので、両親の部屋に入っていって服のにおいをかごうとしたのです。私がそれを読みながら '本当にこういう悪いやつらがいるのか!' 狂った人達です。そのようなことが実際にありました。
 
・悪い人々が、感情も色々なことがあったので、飛行機に乗って、米国の建物二つにぶつかりました。ですから、米国に対しての感情があったのでう。ところが、その中にいた何の関係もない人が死んでしまいました。あるお嬢さんは、走って降りてきている途中で、結局は死にました。ある人は、そちらから逃げる道がなくて逃げだしたのですが、携帯電話を取り出して家に電話して、奥さんに "元気で"と言った人もいます。そうしながら中で死にました。こういうテロがあります。
 
・その次に麻薬を売るチームがあります。はじめには、そのまま与えたり、手助けしたり、すこし売っていて、結局は麻薬中毒にさせて、顧客にします。目標が何でしょうか?全世界を麻薬化させることです。どれくらい悪い者でしょうか? それより悪いやつがいます。人々を霊的に悪くさせるのです。その主犯がサタンです。これをきれいに解決する方法があります。それがまさに福音です。この福音を世界化させることが、宣教です。理解できるでしょうか?
 
・創世記3章の問題をグローバル化させていることが、悪霊がすることなのですが、それを防止することが宣教です。これを本当に理解した皆様の事業は、不思議な事が行われ始めます。私がこれを本当に理解したところ 'これをせねばならない' として、全く同じ長老に仕えながら教役者でいたのですが、ある長老は正しいか、正しくないかと早く分別できます。ある長老は、何を好んで好まないかを早く分別できたのです。早く分別することができます。ある教役者は、何を願うのかということを早く分別できます。それで、つまらなく時間を浪費する必要はありません。こういう結論が出てきました。それで、「すべての信徒に仕えて、私は福音を伝えねばならない。」こういう結論が出てきたのです。よく知っているために、誰も自分に損になるならば、福音を妨げに出てくるということを知るようになりました。それゆえに仕えながら福音を伝えねばなりません。このように結論がおりるようになれば、方法が簡単になります。
 
・一つも難しくありません。神様が祝福を行っても祝福、来ても祝福、失敗しても祝福、することが一個だけ出てきました。何が起こるでしょう? このものすごい祝福を私が受けることができるうつわができなければならないのです。それで、これをいつも準備すべきです。この途方もない祝福がすごく降り注ぐので、これから、人間的な考えをする人がくっつきます。それを区分を良くすべきなのです。することがそれしかありません。このものすごい祝福がものすごく降り注ぐので、商売人が走り寄ってきます。それを警戒しながら、福音をよく伝えることが、私がすることです。この途方もない祝福がものすごく注がれるので、私が高慢になります。恐れがなくなって高慢になります。これを治めるべきなのです。私がすることはそれしかありません。
 
・皆様、分かるでしょうか? ものすごい驚くべき祝福です。それで、今日、この貴重な日に宣教の祝福を正しく知って味わった人がいます。この人達は誰でしょうか? 皆様がおわかりの通り、旧約ではヨセフのような人物で、王の中ではダビデのような人物で、新約になってパウロのような人物です。この人達が知っていたのです。ですから、神様がダビデを王にされた時、祝福をものすごく注いでくださいました。そうなるしかありません。たとえ、お母さんはいなくて、家庭で困難に会っていたとしても、ヨセフという人物が世界の福音化を知っていたのです。神様が私を通じて主なる神を説明させてくださるということを知っていました。それで、ポティファルにも神様が私とともにおられると話をして、あの王の前に行っても、あなたがどのように、この知恵を受けたのかと尋ねられた時も、主なる神様が知恵をくださったと話しました。王の前で神様があなたを愛されるゆえに重要なことをなさろうと、そのようにされたと、言わば福音を伝えたのです。正しく味わった人々です。
 
・難しくありません。信仰生活が難しいのでしょうか? 本当に違います。今日、全部考えを変えるように望みます。私が前に話したではないでしょうか? 釜山に最高の社長が私たちの教会の執事に仕えようと来ます。迎えにきて、社長の車を待機させておいて、執事に仕えにいくのです。そのようなことがあるでしょうか? ずっと続けてはしませんでしたが、はじめに私たちの執事が、高等部の部長であったのですが、この方が風邪にかかった時に社長が薬を買いに走ったのでした。そんなことがあるでしょうか? 私たち釜山で一番大きい社長が、今、話せば会長がそのようにすることができるのでしょうか? 理由があります。この人が、ソウル工大を出て、米国で最高の所で勉強をして最高の学位を受けて、私たちの韓国では最高で途方もない財産を投資した機械を動かす部長でした。仮りにこの人が風邪にかかって死ねば、この会社は滅びるのです。どれくらいこの社長が、この人を貴重に見たか分かりません。なぜでしょうか?自分の利益のためにでも、私達が神様が本当に希望されることをすれば、残りはみな解けるということを信じてくださるように望みます。
 
・宣教理解からすべきです。宣教が何か早く理解をすれば、全部みな解決します。もちろん、無理に行なった人もいます。アブラハム、ヤコブのような人。無理に離れたのです。そのあと見れば、イスラエル民族は、苦難だけが迫りました。エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペリシテ、ローマ全部みな苦難がこれで迫ったのです。今日、私は皆様に確かに答を与えました。それも説明をしたのではなく、証拠を話しました。今日、重要な順序がたくさんあるために、全国にいる使命者に私が本当に重要な話をしました。皆様、すべての問題を解決できる核があります。本当に知っていれば、方法も簡単になります。
 
・皆様、子どもが病気になったことがありますか。方法が問題になるでしょうか? 方法は、問題ではありません。私は裁判官の前で、または手術室の前で自分の家族が手術をする時、お金を準備したり、裁判の前で準備することを見て、ほとんどすべてが成功させるのを見ました。心が重要です。本当にやろうとするかが重要です。できる、できないではありません。私は前に話したではないでしょうか。私たちの村に常に腰が曲がったおばあさんが、杖をいつもお腹の下に置いて歩くほど腰が曲がっていました。ひざまずいてお腹の下に杖をついて歩いていました。それで、近所で「曲がったおばあさん」と呼ばれていたのです。私が一回、このおばあさんが杖をおいて走るのを見ました。驚きました。杖を捨てて走るのに、腰を伸ばして走っていました。なぜでしょうか?大騷ぎが起こったのです。息子が部屋で寝ていて、煉炭ガスを吸ったのです。その息子を生かそうと、タクシーをつかまえに走って行ったのでした。普段に、このおばあさんは腰を曲げて杖をついているのに、その杖を放り出して走って行きました。たまたま、その息子が死にませんでした。その後見たら、また曲げて歩いていました。私が見たら、人が本当にやろうとすれば、あのようになることができるんだな! それで、私達が尋ねたのです。おばあさん、前にツエを置いておいて走ったように、一度そのように走ってみてくださいと言ったところ、できない。不思議に自分も知らない間に杖をおいて走ったのに、いまはしてみてもできない。その話を聞きながら、あ, 人はこのようになるのだな、これは何とも説明できません。
 
・宣教には、3つの条件があります。福音化、専門化、世界化です。福音化ということは、唯一の内容を言います。専門化ということは、唯一の方法です。聖書にあるとおりにすべきです。世界化という話は、唯一の道具です。それが弟子です。ところが、今日、何のみことばを伝えようとしているかというと、今、世界化をしようとするならば、世界的な道具があるべきでしょう。目を一度よく開けてみましょう。世界化の道具があるべきです。ヨセフは、コメを売って世界化の道具を作って、ダビデを戦争をして主なる神を知らせる道具を作って、人ごとにみなあります。ところが、テックォンドということは、完全に世界化の道具です。ですから、どれくらい絶好のチャンスでしょうか? それで、テックォンド宣教をものすごくしようと苦闘しています。苦闘することが見えます。すでに、皆様その用紙を見れば、今、タラッパンの人物は総動員されています。とにかく良いという人物は、総動員されています。研究も多くしました。総会長の写真は、下において大きくして、偉い人物はみな入れてあります。そのように努力をしなければなりません。しかし、本当にしようとするなら、今日以後に考えをみな変えればよいのです。テックォンド、これは世界宣教できる道具です。本当に私が宣教をするべきだと決心すれば、今晩から答えがき始めます。すると、それを助ける人々に途方もない祝福がき始めます。ここに私が証人でチョ・ウンジュ牧師,、キム・ドンゴン牧師が証人です。私達が本当に福音を伝える時、どんなことが行われたでしょうか。みな証人です。特に、私は人がどんなに他の人を欺いても、自分自身を欺くことができないではないでしょうか。証人です。皆様、自分自身が証人ではないでしょうか。どれくらい簡単か分かりません。
 
・世界宣教をしないならば、大きいことが起きます。霊的テロが起きて、皆様の子どもを攻撃して入ります。皆様、インドネシアでテロが起こったというので、インドネシアに行くなと言うでしょう。私がフィリピンに行こうとしたら、誰かが話すのに、フィリピンにテロが起こったから危険だと用心しろと言いました。ニューヨークでテロが起こったら、私の娘がニューヨークにいます。電話の通話ができませんでした。何の事故がおきたのかと考えました。一週間、通話できませんでした。だから、心配するようになったのです。皆様、今、この暗闇の勢力のサタンは、霊的なテロを起こして、全世界を攻めて行っています。攻めるのに世界化戦略を使っています。それで、これを防止する世界化戦略を使いましょう。これが宣教です。わかってくださるでしょうか。このことをにせ物でするという人は邪魔になる人物です。教会が忙しく宴会をするのに、本物の教会を助けようという人が皿洗いをしなければ、本当に助ける考えがない人がすれば、邪魔になるのです。皆様の会社が動くのに、本当に会社のために仕事をすべきです。成功するため仕事をすべきだと考える人が、仕事をして会社に助けにならない他のことをしながら仕事をしてはだめになっています。それは愚かな人です。簡単です。信仰生活と世界宣教は簡単です。とても簡単です。私は、この福音があまりに良いということを知ったゆえに、これのために生きるべきだと考えました。心だけ持ったのに、神様が本当に応答してくださいました。もし韓国にも誰かが大統領府の密室に連れていって、本当に来る要員に福音を伝えることができる大統領だけ出てくるならば、韓国に驚くべきみわざが起きるはずです。本当にそうです。本当に食事している間に、すみに連れていって言えば良いのです。チャンスが一度ありました。金泳三大統領、こういう方達がうどんを食べた後に、人の顔色をうかがいながら、こちらにこいとしてあの茶の間でお茶を一杯飲もうと言いながら手を取合って 'キリスト、すべての問題の解決者です。私はこれ一つで大統領になった' と言ったとするなら、本当に終わることなのに。その方は、そのようにしませんでした。問題はこれが問題です。その方が問題ではなく、これが問題です。とても簡単なのです。
 
・'ヨナ。ニネベに行きなさい'と言われました。宣教命令が下されたのです。このヨナがおりしも、ニネベに行かずに逃げるのに、聖書を見ると '主の御顔を避けて'。ヨナの錯覚です。主の御顔から逃げて行きました。逃げるのに見ると、おりしも船がきました。本当に幸いなように見えたのです。このように、滅びの道も幸いな道があります。聖書はおもしろいのです。船賃を払って船に乗ったとされています。滅びることをする人が、投資をしながら滅びて行くのです。船を乗って行ったら、突然に神様が暴風を起こされました。ヨナが生きる道があるでしょうか。暴風があまりに吹くから、人々に宗教心が起きました。誰か何かの罪を犯したのか、くじを引いたらヨナに当たったのです。それで、ヨナが言うのに、「私だ。私を水に投げ込め」と言いました。ヨナを投げたところ、波が静まりました。神様がまた、ヨナをカムバックさせられたのです。魚の腹の中にいたのですが、吐き出すようにされました。その後、ヨナが行って福音を伝える内容です。まだヨナは、本文を見ると、神様とまだ通じません。これが問題です。本当に私たちの教会、私たちタラッパンの教会、全世界福音化する重要な働き人は、これだけなればよいのです。今日、私たちのカン・ドンホ執事が国会に出馬準備をして祈っています。私を訪ねて来たので、執事にそのような話をしました。「神様は、まちがいなく時刻表があるので祈っています。執事がこういう部分を知っていれば、神様の驚くべき祝福の秘密が現れるようになっています。」本当です。これが宣教です。これが伝道なのに、これを世界化させたのが宣教です。わかるでしょうか。今日、一人ももれなく本物の祝福を受けるように願います。一人ももれなく、この契約を捕まえて、神様の答えを受けるように願います。全世界に散在した弟子に、この祝福があるように希望します。今、私たちの衛星で礼拝をささげる教会に、本当にこの祝福があるように希望します。
 
・私は、確信しています。なぜならば、神様は嘘をつかれないからです。それで、私たちの長老に尋ねてみてください。私はなんにもせず、メッセージをして行きます。自信があります。私は神様を理解しています。世界宣教を理解しています。私は伝道が何か理解しています。尋ねてみてください。意見を出せばOK、100%です。私は、私たちの長老が意見を出せば、100% OKします。釜山でも同じです。誰かが私に要求すれば、みなOKです。私たちの副教役者が集まって要求すれば、OKです。私は骨もなくて生きているのではありません。みなOKです。私は理解しています。世界の福音化を本当にする長老と世界の福音化を本当にする教会と世界の福音化をする牧師を神様は祝福される程度ではなく、時代の証拠をくださるようになっています。この契約を捕まえてテックォンドを出発しましょう。それでなければ、みな違っているのです。苦労だけすることになります。契約を捕まえてしましょう。それでこそ、神様の導きを受けるのではないでしょうか。皆様の事業にこの祝福が本当にあるようになることを主の名前でお祈りします。今日、各地域から来られた特別な方達、また、私たちの総会長をはじめとして、21世紀会長、長老達に時代的な祝福があることを、生きておられる主イエスの名前でお祈りします。
 
 (祈り)
 神様、感謝申し上げます。宣教をまず理解するようにさせてください。それで、神様と通じる霊的な目を開けてください。ヨナのようにならず、パウロのように世界の福音化をするメンバーになるようにさせてください。
 生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン.