(2003年 01月 26日インマヌエル教会/ 柳光洙 牧師)


1部 /カイザルのもの、神様のもの
(マルコ12:13-17)
 
 
 
・この頃、ソウル・インマヌエル教会、蔚山教会がとても復興していて、インマヌエル・ソウル教会は、1-2階がみなぎゅっと埋まる程に、たくさん復興しています。海外でもメッセージをいっしょに聞いています。百箇所あまりで、衛星で礼拝をささげている所でも、多くの伝道運動が起きているようです。聖日に礼拝をささげる時、みことばを奪われないように努めましょう。悪魔が、イエス様に対して尋ねて、私を拝むならば、全てのものを皆上げると言いました。それほど、重要です。礼拝を奪おうとするのです。今日、初めて信じた方や、イエスを信じて何年かなられた方達でも聖書をたくさん知っていることはすごいのに、今日のタイトルがなんの話なのか分からない人もいます。‘カイザルのもの、神様のもの' だと出てきました。タイトルを理解できなければ、理解するのが大変です。‘カイザルのもの、神様のもの’が、なんの話なのかから理解をすべきです。カイザルのものとは、なんの話かというと、ローマ皇帝の称号です。ローマ皇帝をカイザルと言います。すると、なぜこの話がここに出てきたのでしょうか? イエス様に、パリサイ人とヘロデ党の者たちが質問した話に答えられた内容です。この話がなんの話かというと、イエス様に小銭を持ってきて、これをカイザルに捧げなければならないのか? 神様に捧げなければならないのか? 小銭にカイザル皇帝の顔が入っています。すると、すこし考えがある人ならば、いろいろな想像をすることができるでしょう。何ゆえにイスラエルの人々が、ローマ皇帝の顔が入っている小銭を使うのでしょうか? その話がなんの話なのか知っているでしょう。ローマがイスラエルを統治していたということです。ローマがイスラエルを統治していたので、貨幣もいっしょに使うようにして、また公用で言葉もいっしょに使用するようにして、はなはだしくは字もいっしょに使うようにしました。なぜなら、ローマがイスラエルを統治したからです。小銭の中にも、みなローマ皇帝の顔を彫ったのです。だから、礼拝堂に行って献金しようとして、考えがある人達がローマ皇帝の顔が彫られた小銭を神殿に捧げるのは変なので、別に作りました。神殿にだけ別に出す小銭を作ったのでした。しかし、正しく目をあけた人といえば、パリサイ人とヘロデ党の人であったのですが、ものすごく身分が高い人々です。小銭を持っていることさえも恥ずかしいことなのです。貨幣であるから、使用しないわけにはいかなくて、これでイエス様を試みようときたのでした。イエス様をどのようにすれば、とがめて殺すことができるか? それであの有名なパリサイ派、ヘロデ党の人々、イスラエルの王の党派がきて、イエス様に質問をした内容です。イエス様を試みようと質問しようと、嘘まで言いながら行って、「あなたはとても真の方だ。とても立派な方で、あなたは本当に神様の人だ。私達がお金を神様に捧げねばならないか? カイザルに収めねばならないか?」税金をこのように尋ねたのでした。この質問がものすごく怖い質問です。もしイエス様が「カイザルに収めなさい。私たちは税金をカイザルに出すべきだ。」このように話せば、こちらを捕まえて、「見ろ。この人は、カイザル側だ。この人がどうして神様の息子か?」というように話すはずで、もしイエス様が「神様に税金を出しなさい」と話せば「見ろ。この人は、政府に対して反抗している。政治に反対する。」と何か人々を集めて回りながら、難しくさせる人だと追い込もうとしたのでした。その作戦を持ってイエス様に来て、質問したのでした。その時、イエス様が驚くべき質問をされました。「あなた達が持っているものは何か?」「小銭だ。」「すると出して見なさい。その顔は誰の顔か?」「カイザルの顔だ」「するとカイザルに収めなさい。カイザルのものはカイザルに、神様のものは神様に」この話は、何でもない話のように聞こえるでしょうが、とても知恵がある話です。瞬間的に答えた言葉です。その時、人々があまりに驚いて‘はっ' したという内容です。
 
・私たちはこれをさっと見れば、そのまま過ぎ越す本文のように聞こえますが、私たちにはものすごく祈らねばならない教訓がたくさんあります。今、イスラエルの指導者が、恥もなく、本当に何が罪なのかも知らずに、何が恥ずかしいのかも知らずに、無知で、また、何が滅びるのかも知らず、祝福なのかも知らずに、それを持ってイエス様を試みようと差し出したのでした。今日、私たちはここでいくつかの教訓をもらうべきです。ここには、私たちの学生達もいます。あなたがたは、社会生活もせねばならず、これから遠い未来の道を行かなければなりません。また、クリスチャンが多くのことをすれば、世の中で生きなければなりません。
 
・今日、本文があたえる一番目の教訓です。本当に人が生きていく姿です。これが、カイザルの顔が彫られたお金なのかでないかは知っているのですが、恥ずかしいか恥ずかしくないか、イエス様が誰なのかも知らずに非難しようと、どのようにすれば私たちと反対になるこの人を殺せるか? そのような状況です。ここであなたがたは、本当に悟らねばなりません。私は、そのように悟りました。救われていない者、霊的に問題がある者。その次にとても習ったことがない人、また、その次にあまりに成功して自分の位置を見分けができないほどに成功した人とか、その次に幼稚園に通っている人、すなわち幼稚園生です。この五人は、自分中心にしか考えることができません。間違いありません。私はそれを持っていつも判断します。教会のなかで誰かが問題を起こしても気落ちしないようにしましょう。霊的な問題を持った人は、自分以上には生活できません。今、幼稚園の子ども達は、単語をいくつ知っていているか知っているでしょうか? 幼稚園に通っていたり、小学校に入って行く前の賢い子ども達は、単語いくつを知っていているか知っているでしょうか? 500個知っています。その程度ならば、賢い子どもです。ところが、今、米国へ行って英語の勉強が難しいと言いながらたくさん苦労している人々は、英語の単語をたくさん知らないで苦労するのではなくて、500個の単語を熟練して、上手に使うことができないからです。500個の単語だけ、熟練して上手に使って聞けば、どこに行っても勉強することができて、どこに行っても対話できます。知らない単語は尋ねればよいのです。それができないのです。特に難しいということではありません。500個の単語と文章を熟練して、上手に使って聞くことができないために、米国生活ができないのです。英語単語 50000個、5000個を知っていながらも、それをよく聞く耳がないためです。幼稚園を卒業して、小学校に入学する時には、話がみなわかります。その単語が 500個です。500個に制限されているために、それ以上の話は分かることができません。幼稚園の子ども達が意志疎通ができなくて、いらいらしたら、どのようにするでしょうか? 泣いてしまいます。泣くのは自分が持っているそれ以上が分からないために泣くのです。単語がないからです。私たちのようならば、よく理解させるために話すでしょう。誰かがそう話しました。
 
・私が免許証を取ろうと行った時、交通係の課長が講義をしながら言った話が、車に乗って行く時には、自転車に乗った人と、女性と子どもと酒を飲んだ人には注意しなさいということでした。なんの話か聞いてみたら、酒を飲んだ人と、女性と子ども、自転車に乗った人はいつ飛び出すか分からないのです。女性が入っていって申し訳ないけれど、講義を聞いていた女の方達も笑いました。何の考えもなく、後先なく飛出してくるということです。「車を進める時には用心しなさい。向うに女性がいるならば用心しなさい。いつ飛び出すかもしれない。」それが正しいのは、今、車を運転して見れば、変に出てくる大部分の車が女性です。急にブレーキを踏んでみつめれば女性です。‘ああ、なるほど。その話が正しいんだな' 車を進めるならば、後先なく出てくるのが、子どもです。いつでも注意すべきです。路地があれば飛出してくることを予想しているべきなのです。そうでなければ、その子どもにぶつかって死ねば問題が生じるから、用心すべきなのです。
 
・私達がだいたい予想するのに、私は社会生活、信仰生活をする時、いつでも救われることができなかった人、救われても霊的問題が深刻な人。その次に、とても習っていない人、その次にとても成功して自分しか知らなくならざるをえない位置にある人、事件が起きれば、どうしてあんな事がありえるのかと思われるけれど、そのようなことがあります。その次に幼稚園の子ども達。こういう人々は、自己中心と自己の利益の他には知りません。いつも参考にすべきです。それで、あなたがたがどこかに行って、その人々からいじめられる必要はありません。みな自分の利益のために生きています。いつも参考にして信仰生活をすべきです。この人達が、パリサイ派とヘロデ党といえば、ものすごく成功した人で、賢い人物であるから、宗教で包装して、その次に自分が習った知識、体験が多いから、これを持って生活を整理して、自分の体面で維持しているけれど、実際、隠されている自我があるのです。途方もない失敗をしています。敢えてイエス様にカイザルの顔がある小銭を持ってきて、神様に税金を出さねばならないか? カイザルに税金を出さねばならないか? と出てきました。この人達が指導者です。私たちならば、はずかしくて、カイザルの名前をどのように持ち出すでしょうか? 敢えてイエス様の前にきて、それも多くの人々が見ている前で、もしイエス様がカイザルの前に出しなさいと言われれば、不敬の罪に追い込もうとして、もし神様の前に捧げなさいと言われれば、政治犯に追い込もうとする、このように悪い心を抱いていました。それで、イエス様のところに出てきたのです。皆様が信仰生活をしている途中で気落ちせずに、皆様が信仰生活をする時、社会生活する時、いつも記憶すべきです。いつも記憶すべきです。救われることができなかった人々は、ほとんどすべてが救われても、人々はほとんどすべてが自分の利益のために動きます。いつも銘記すべきです。学生達も銘記すべきです。他の人達に利益を与えましょう。それを与えることができなければ、いつでも攻撃にあいます。必ず記憶すべきです。私がそれを悟って、世界福音化運動をするなかで、戦略20ケを悟りました。多くの人々に有益を与えています。それとともに、伝道運動をしているのです。あなたがたと一緒に暮らしている夫もそうで、妻もそうです。あなたがたに利益を与えなければ嫌うのです。いつも銘記すべきです。本当に救われた人、本当に使命者、本当に霊的な目が開いた人は、そのようにしません。その他には、みなそのようにします。必ず記憶すべきです。韓非子のような人は、こう話しました。父母であっても、息子に自分の利益を願います。自分に損を与える息子であるほど、きらいです。子どもが損を与える息子が死ねば残念だけれど、すっきりします。ちょっと良くないですが、すっきりします。いまはそうでないけれど、むかしには娘を産めば嫌われました。妻を虐待しました。娘しか産めないのか? おとなも集まれば、私たちの嫁は、娘以外産むことができないと嫌いました。娘がはるかに可愛いのに、なぜそうなのでしょうか? 後のことを考えると、娘達はみな嫁に行って、息子がなければ、私たちは下手すると、ご飯も食べさせてもらえないと思ったのか、むかしの話で、供養してくれる人がいなくなるのではないかと思って、こういう計算をして熱が出るのです。なぜ娘しか産めないのか? はなはだしくは、父母も息子にそうです。皆様が生きている時に、残念だというようなことは夢にも思わないようにしましょう。どこに行っても、くやし涙を流す、そのような愚かなことをしないようにしましょう。それで、どのように世界征服をするのでしょうか? 傷を受けた。くじいた。世の中に行って、そのようにしないようにしましょう。私は担任牧師がそうなのを見ました。‘私たちの長老がどうで、執事がどうで、傷を受けたこと等、祈梼院に行ってたたき壊した' 私が見る時、哀れに見えました。ある牧師は、毎日ボーリングに行くらしいのです。なぜでしょうか? 長老とか、言うことを聞かない信徒をたたき壊すことを連想しながら、投げると言いました。私が‘かわいそうだ' と思いました。霊的な目が明るい指導者でなければ、全部、自分の利益のために動くのです。記憶しているべきです。それで、皆様がどこに行っても、いじめられたら‘私がそのようなこともあるんだな' と神経を使うべきなのです。
 
・あっちこっち引っ越して回っていた時に、一度、私の息子が顔から少し血を流して帰ってきました。けんかしたのです。「おまえ、けんかしたのか?」と聞いたら、していないと言いました。話してみてみたら、けんかしたようなので、「そう。けんかした」と認めました。なぜけんかしたのかと聞いたら、「学校をこちらに転校してきたのに、子ども達がたびたびいじめるので、それで学校中でけんかが2番に強い子どもとけんかした。やろうと言われたから、やった。」ということでした。けんかしたら、半殺しにしてきたということでした。一番の子とは、自分と親しいためにけんかもしないということでした。それで、私は内心、‘たいしたものだ'と言いたかったのです。人というものは、いつも信仰生活しながら参考にすべきです。パリサイ人を見ましょう。このヘロデ党という人々は、たいしたものです。救われることができなかった人ですが、成功した人々です。だから、自分たちの他は知りません。自分の牙城を押し倒そうとするイエス様が憎かったのです。メシヤなのにも知らずに、どのようにこの人を殺そうか? 神様の息子であることも知らずに、自分たちが、そんなにも待っていた救い主であったのも知らずに、どのようにすれば殺せるだろうか? こういう発想がどこから出てきたのかというと、ここから出てきたのです。自分たちの利益と関係なくて、自分たちの牙城を押し倒そうとしているようだというところからでした。これは単純なことではなく、信仰生活のすべての秘密、社会生活にみな入っているのです。私はレムナントと青年達に話します。会社で仕事をしたら、10倍に仕事をしなさいといつも話します。皆様に月給を与えることを、いつも申し訳ないようにさせなさい。そうでなければ、月給を与えることが惜しいとなります。ここに教役者の方達がたくさんいますが、教会を本当に復興させて、本当に伝道して、そのようにすれば、あなたがたに対して信徒が仕えるようになります。しかし、それほどすることもなくて、問題だけ起こして、ある日これも必要で、あれも必要で、家がどうで、息子がどうで、こうなれば役員の心が試みに会います。どうしようもなくなるのが、現在の教会です。すべての社会がまったく同じです。こういうことで試みにあうのです。傷を受けたというと、信仰生活できません。早く感づかなければなりません。私たちの学生達、青年達は、外に行けば記憶するように望みます。すべての未信者、信者でも霊的な目が暗いすべての人は、自分の利益のために動きます。だから、記憶すべきです。知恵をもって、私たちは神様の契約を捕まえねばなりません。
 
・今日の本文を見てみれば分かります。恐ろしいことは2番目です。この人達が、イエス様を追い込もうと私がこういう質問をしにいくので、待ちなさいこういうことではありません。突然に質問をしました。イエス様も、驚く返事をされました。「あなた達が持っているものがなにか?」「小銭だ。」「誰の顔か? 」「カイザルの顔だ。」「するとカイザルに出さねばならないだろう?」驚くべき返事をされました。私達が瞬間的に仕事をさせられたり、質問にあう時失敗しないでしょうか? 交通事故が起こる時にも、向うに危険なものがあるということを知らないから、事故がおきるのです。突然に危険に陥ります。しまったと思う瞬間に事故がおきるのです。全てのものがそうです。このような時に、私たちはどれくらい神様の知恵が必要でしょうか? それで、聖書には私達が祈れば驚くべき知恵をくださると言われています。それで‘神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。'と言われています。あなたがたが祈りながら、いつでもいくつかのことは参考にしなければなりません。過去を見ながら知恵を得ます。そうではないでしょうか? 過去を見ながら、知恵を得るのです。漢字の熟語を見れば、温故知新という言葉は、「温」あたたかいという意味もありますが、練習して学ぶという意味もあります。「故」は、むかしのことを学んで、「知」は理解するという意味で、新しいことを理解するという意味です。過去を見ながら、知恵を学ぶことができるのです。そして、いつでも現在を見る時には、現在だけ見るのではなくて、未来を見るべきなのです。このことは、どうなるのだろうか! と見るべきです。未来を見るべきなのです。そして、いつでも未来を見ながら現在を見るべきなのです。教会のなかで、教役者や堂会員達が、皆様の心に合わない政策を下ろす時があります。そのような時には、未来を見て、今日を下ろしたのです。いつも頭に置くべきです。もし子ども達が、おとなを見て試みにあうことがあります。私たちの父母は、なぜそうなのだろうか? 試みにあうのに、それはなぜそうであるかと言うと、未来を見て、今日の決定をおろしているからです。今日を持って未来を見たという話と同じ話です。これが知恵です。皆様、知恵とは何でしょうか?神様のみことばをみな持っているのに、知恵とは何でしょうか? 過去のことを見ながら、知恵を勝ち取ることです。今日のことを見ながら、今日の現実を持って決定を下ろすのではなくて、明日を見つめながら決定をおろすことです。
 
・今日、現実を見つめる時、同じ話ですが、未来を見ながら今日を見るのです。聖書にある例を上げます。皆様が知っている重要な人物の中にヨセフがいます。ヨセフはおじいさん、父のすべての信仰を知っていました。それが知恵です。ヨセフは、いろいろな多くの状況の中で、創世記37章に見れば、未来を知っていました。だから、未来を知っていながら、すべての現実を未来とともに解釈して、そうであるだけでなく、現実を見る時にも、未来を見て、今日のことを見ると正確です。ここから知恵が生まれるのです。これだから、監獄の中に行っても揺れないで、困難が来ても揺れませんでした。ものすごく重要です。皆様が知っているダビデもそうです。王になることを知っていました。既にダビデは父エッサイに信仰を学んでいました。知恵を学んだのです。羊飼いのことを学びました。Iサムエル16-17章に見れば、王になることを知っていたのです。王になることをまちがいなく知っていたゆえに、起きる全てのことを解釈することができたのです。私たちの教会が世界福音化、伝道を一番良くする教会、私たちの教会が福音を伝える教会であるということを確実に知っているために、それを見て今日の事を決定するのです。だから、私たち牧師達が、理解をよくしなければなりません。とても優秀な人物を探しません。この運動をする人物を探すのです。できることが確実なために、できない場合、確信がない場合に優秀な人物を探すのです。私がこの前も話したではないでしょうか? お金もない社長が、お金をもうける人を探すので、金がある人はそうではありません。この製品と仕事が維持できる人物を探します。違うのです。私たちは、確信するために、これが知恵です。イエス様が何ゆえに質問するのかを知っていらっしゃったのです。カイザルのものはカイザルに、神様のものは神様に、本当に驚くべき知恵です。これがすでに祈りの奥義で、キリストを知る奥義があるならば、同じ知恵が出てくるはずです。今日の本文の中に、私達が習うことが多いと思います。
 
・最後の三番目は、何を記憶すべきなのかというと、2種類の成功しましょう。神様のもの、カイザルのものを区分すべきです。2種類を誤って区分するので、よく見るべきです。ある人は、世の中のものはみな違うように見るのですが、そうではありません。私がある重要な事業をする方がおられるのですが、そのような話をしました。今回も台湾に行ったのですが、キリスト教書籍デパートをなさる方が、私に挨拶をしようと来られました。それで私が尋ねたのです。デパートで何をしていますか? 本のようなものを売って、小品ら売るらしいのです。それで、私が台湾でよくできるのでしょうかと尋ねました。この人の返事が、私は福音だけ伝えるように祈っているために、うまくいこうがいくまいが構わないと話しました。それは、誤った返事です。私達が神様の子どもとの祝福を受けた人は、世の中のことにみわざが起きるようになっています。それを持って伝道するのです。誤った考えです。このように考える人が多いのです。肉体的なことは、特別なものはないと話します。そうではありません。またある人は、霊的なことを知らなくて、肉体的なことにだけ付いて回る人もいます。それも間違いです。私たちは2種類を探さねばなりません。イエス様が、そのまま話されたように見えても、そうではありません。詩篇78:70-72節を見れば、どんなみことばが出てくるでしょうか? 正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いたという言葉があります。正しい心とは? 信仰です。神様に対する信仰です。英知の手というのは、技術です。それは世に関することです。2種類みな良くすべきです。特に、私たちの学生達、青年達に頼みます。良くすべきです。私の前にいた先輩牧師の中で、すばらしいと思って一番尊敬している方が、キム・ジュンゴン牧師です。この方は伝道をしたためです。大学に入っていって、本物の伝道をしました。牧師らしい牧師で、私はそのように思っています。他の方達も立派ですが、韓国にいた牧師の中で立派な牧師は誰でしょうか?私が見る時には、キム・ジュンコン牧師です。大学に入っていって、本当に福音を伝えました。しかし、この方には特徴があります。それがなにかというと、普通の牧師を見れば、ものすごくハレルヤと言う牧師もいて、かた苦しく文だけ書く牧師もいますが、この二つともみな持っておられるのです。この方は霊性もあって、知性もあります。それで‘たいした方だ' と思いました。祈りも多くして、知っていることも多いのです。だから大学生を掌握することができるのです。この方は、知識もものすごく多くて、信仰も良いのです。福音も持っていて、世の中のものも理解します。だから、ものすごく多くのことをすることができるのです。学生達は、記憶すべきです。私たちの使命です。私たちは、肉体的なことも成功しなければならず、霊的なものも成功すべきです。すると、肉体的なことを持って霊的な事ができます。未信者は知らないけれど。
 
・今日、イエス様が確かに話されて、二つみな否認されませんでした。神様のものは神様に、カイザルのものはカイザルに。もちろんこれは知恵がある返事でもありますが、二つみな認められたのでした。私たちは、世的のことと、霊的なことを排他してはなりません。よく知らなければならないのです。ある学生が言うのには、私が勉強だけ良くすれば良いという学生もいて、私が神様をよく信じれば良いではないか? そのように話すけれど、この二つを銘記しておくべきです。一番に信仰生活をしながら苦しい人が誰でしょうか? 神様を恐れないで、神様を知らずに人間中心主義を使う人は、本当に残念です。結局、神様を信じないので、何もできないでしょう。本当に残念です。それよりもっと苦しい人がだれかというと、神様がご存知であれば良いと言いながら、自分勝手に生きる人です。より怖い人です。いっそ人間中心主義が良いのです。人間中心主義は頭を使い、表情も見ますが、この人は表情も見ません。教会に通う人の中で、そのような人が多いのです。私たちは2つともすべて、神様のものは神様に、カイザルのものはカイザルに、今日、私たちは重大な使命を悟らねばなりません。イスラエルが霊的な福音の答えを得られないので、その一つの理由ゆえに福音を知らないという理由ゆえに、ローマに植民地されたのです。それで、こういう質問が出てきたのです。本当に恥ずかしいことです。使命を悟らねばなりません。クリスチャンが福音を知らなければ、まちがいなく世の中の奴隷になります。ここに福音を知っている私たちの学生達は、まちがいなく世の中で勝利するはずです。神様がそのようにされるのです。ところが、イスラエル民族は知りませんでした。いままで信仰生活をするおとなが知らなかったということです。この本当にものすごい福音を知らなかったということです。
 
・今回、学生修練会の時、私が宿題をひとつ渡しました。占い師を訪ねてみなさい。それもにせ物を訪ねず、本物を訪ねてみなさいということです。悪霊に占い師を訪ねてみなさいと言いました。このことが台湾で行われたのです。今回の台湾集会の時、青年達がたくさん行ったのです。特に、光州大橋にいる青年達がたくさん行きました。本物の占い師を訪ねたのら、そのまま行ったのではなくて、撮影チームを連れて行ったのです。する過程を全部みな撮影したのです。台湾で有名な占い師を訪ねたのですが、この占い師がびっくりする言葉を多く言いました。イエスを信じる人々も、占おうとたくさん来ると言いました。変にイエスを信じる人々です。本当にイエスを信じるのに、占おうと来る人がいると言いました。教会には、にせ物が多いのに、本当に神様を信じる人なのに、占おうと来る人がいるのです。その占い師が述べた言葉が、撮影されたゆえに分かります。何と話すかというと、本当にイエスを信じる人は分かるそうです。本当にイエスを信じる人が占おうとするのには、特徴があると言いました。首根っこを悪魔がとらえてくるということです。内心‘よく見た'と思いました。占う人々もよく悟ってくださることを望みます。ソウルには、おもしろいクリスチャンがもっと多いのです。ソウルでは、牧師も占いに行くらしいのです。なぜでしょうか?どこで牧会をすれば良いのか知ろうと、ここで開拓するのが良いか、あそこで開拓するのが良いか、はなはだしくは宣教師も占いにいくのです。どの国に行くのが良いのか? いつ行くのが良いのか? そのような悪霊につかれた人も多いのです。その人が言う話が、今回、私たち青年達が聞いて来た時、分かったと言いました。後に十字架があるのを見たということです。撮影する時、インタビューでする話がみんな分かったと話すのです。それを見れば、そのようなことです。
 
・あなたがたが、イエスを信じるということが、どれくらい大きい祝福でしょうか。絶対に滅びません。福音を持っている人は、世の中を生かすことができるのに、このパリサイ人、有名なヘロデ党の人が、なぜ失敗したのでしょうか? 福音を知らなければ、まちがいなく失敗するようになっています。このやさしい話を分からなかったのです。それで、イエス様があまりにもせつなかったのです。対話をされた内容です。多くの教訓があります。もう一度整理すれば、3つの大きい教訓があります。最初は、神様を知らずに、救われることができなかった人は、当然に自分中心で、サタンのお手伝いをするしかありません。救われたのですが、霊的な目が開いていない人は、当然に幼稚園生のように、対話ができません。絶対に対話ができないのです。それで気落ちする必要はありません。それしか仕方がありません。単語 500ケ程度以上は、知らないのです。だから対話ができません。そのようなことを見れば、祈らなければならないので、気落ちする必要はありません。世の中に行く時、あらかじめ知っているべきです。それは、人間中心主義を使えということではありません。私たち学生達が、世の中に行く時、知っているべきです。世の中の人々は、全部、自分の利益のために動きます。私たちは、それを活用して、福音運動をするのです。そして、私達が何を悟らねばならないのでしょうか? ここで私達が本当に過去、現在、未来を見ながら祈るならば、神様の知恵が生まれるはずです。どこでも過去、現在、未来があります。まちがいなく、知恵が生まれるのです。
 
・三番目は使命です。皆様は福音を持ったゆえに、神様のもの、カイザルのものを区分することができねばならず、調和を作り出すことができねばならず、生かすことができねばなりません。必ずこの契約を捕まえねばならないのです。私たちは、神様のものを持って、カイザルのものを生かすべきなのですが、これが伝道です。しかし、調和も成し遂げることができねばならなくて、区分もすることができねばならず、2種類をみな捕まえることができる実力があるべきです。神様のものとカイザルのもの。これが私たちの使命です。それで、私は今日の本文を見ながら、3つをこのように見ました。前のことは何でしょうか? 私達が、世の中を見る目です。世の中を見る目があるべきです。その次のイエス様の知恵ある返事を見ながら、何を悟ったのかというと‘キリストのなかで祈るならば、現在と過去と未来をみる知恵があるんだな' 一番目のことが、世の中を見る目ならば、2番目のことは知恵です。今日‘神様のもの、カイザルのもの' このみことばを見ながら、私が悟ったこと、皆様に伝達したいことは、私たちの使命です。本当に驚くべきことです。うまくできないのですが、私はいままで信仰生活をしながら、私の信仰生活の信条があります。常に3つのことをします。それが何かというと、最初はどこでも行く所に福音ゆえに最も美しい計画を立てて、味わいます。これが私が一番目にすることです。どこに行っても、誰に会ってもです。2番目です。いつでも私は、神様の子どもで、世界福音化をせねばならない神様のしもべであるために、最善のことを選択します。考えてみるのです。最善のことを選択です。私は一人でいれば、家もそのまま置いておきません。清潔に片づけます。なぜなら、最善のことを選択するためです。人に会った時にも、可能ならば最も良いメッセージを与えます。なぜでしょうか?最善のことを選択するためです。尋ねてみてください。私がこの町にきて、執事等と回りながら、教会を得る時、私はこういう所を見ませんでした。はじめから教会で買ってもらったワゴン車に乗って回りながら、釜山市内をすべては行くことができないから、影島地域に大きい土地だけを捜したのです。大きい土地を探して、尋ねたら買うことができなかったのです。だから噂されたのが‘柳光洙牧師は、お金が多い’とうわさが立ったのです。大きい土地だけ訪ねたからです。影島区役所地域が生じる前に訪ねていました。土地が一番良かったのです。いくらなのか、売らないのかと尋ねたら、売らないようでした。計画が殆どなっていたのですが、区役所を建てるという話をその時はしなかったのです。計画が殆どなできていたのでした。すこししたら、区役所を建てました。どこから来たのかと言われたので、東三第一教会からきたと言いました。誰かとたずねられました。牧師だと言いました。教会を建てようと尋ねているのだと言いました。教会がどこにあるのかと言われたので、あの地下にあると言いました。だから、この人がものすごく尊敬する目でみつめたのです。お金が多いと思ったのでした。お金は一つもありませんでした。その次にサンヨン学院に行って尋ねたのです。4千坪でした。 "何坪ありますか? いくらですか? 売るつもりはありますか?"と尋ねたら、4千坪で何億ウォンだったのですが、売らないようでした。なぜ売らないのかと言ったら、というので 自分たちが何かをすると言いました。そこでもまた尋ねられたのです。どこから来たのか。あの下の東三第一教会の牧師だけれど、ここに教会を建てれば、格好良いと言ったら、売らないと言いました。すこししたら、学校ができました。だから、お金が多いとうわさが立たざるをえなかったのです。お金は一つもなかったのにです。ところが、予備軍訓練を受けようと上がりました。人々がここにずーっとみな入って行くのです。なぜ入っていくのか見たら、予備軍は、どこにでもおしっこをします。おしっこをするために入っていったのです。私も付いて入っていってみたら、大きい土地がありました。その時、内心‘ここに教会を立てればびっくりするだろうな'と思いました。それで行ったのです。その後、4年後に認可が出て、私たちの教会になりました。本当に不思議に思いました。考えをよくするべきです。考えだけでも祝福を受けます。私は小さい建物をみつめて、あの所が私たちの教会になったならば良いと考えたことはありません。最善のことを選択します。一番祝福を受けることです。いまは、何をしているのでしょうか? あなたがたが、どんなに何としても、ソウル、釜山、大邱、光州、残りは全域、全世界をずっと回るのです。私としては、最善の選択と最高のことです。いつでもです。私たちはだれでしょうか? 神様の子どもです。けちに生きないようにしましょう。最善の選択をするのです。その次に、私が三番目にすることがあります。必ずすることがあるのです。皆様は知りません。他の人は分かるすべがありません。私が必ずすることが、祈りの奥義です。必ずその場所でします。飛行機に乗ろうが、車に乗ろうが、祈りをします。だから、ある人は誤解します。車に乗れば、話をあまりしないので‘先生は怒っているのか?'と言います。そうではありません。祈りの奥義です。飛行機に乗ると、可能ならばいっしょに乗りません。それでよく知っている秘書陣は、先生は今日、誰かと一緒に行くのに、そばの席にするのか、別にするのかと尋ねます。知っているからです。可能ならば、そばの席には座りません。なぜなら、一人で行けば、祈ってメッセージを準備するためです。奥義です。どれくらい良いことなのか分かりません。その幸福をよく知らないのです。それで、私はいつでも3つのことをします。なぜでしょうか?神様の子どもであるためです。
 
・既に、今日の本文の中に驚くべきことが出てきました。未信者を見る目が出てきたし、世の中を見る驚くべき知恵が出てきたし、私たちの使命が出てきました。それなら、私たちはいつでも伝道ゆえに祝福を、とても最高のことを味わう計画を立てて最善を尽くせばよいのです。その中で最も重要なのが祈りです。私は牧師達を見て話しました。"私たちは準備された教団だ。伝道をするための準備をした教団であるゆえに、他の教団とけんかしないで。私たちは、今、イスラムと中国と世界を宣教できる隠れた戦略を持っている。可能ならばぶつからないで。そして、今、代りの宗教というのがおきている。キリスト教、仏教、他の宗教でできないと、複雑な宗教が起きている。彼らを生かす答を持っている。教団問題を解くことは簡単だ。正しく伝道して、正しい教会を作って、多くなってしまえば、自然に勝つ" 簡単です。それで、私たち神学生と牧師達が、ものすごく重要です。それで、今年、あなたがたは3つの使命にいのちをかけましょう。さっきイ・ソンオン牧師が報告したのを見たら、今年はよくなるようです。1ケ月に七箇所の弟子をさがしましょう。弟子をさがせば、訓練は私がいっしょにさせます。イ・ソンオン牧師が少しの間、報告したのですが、次週にあいさつをさせなさいと言いました。それで、10年中に釜山に700ケ所に正しい弟子を植える地域教会を立てるはずです。ソウルには 2000ケ所です。神様が最も喜ばれること、それが地域教会です。すこし前に話した最高と最善、祈りの秘密を持って現場に入っていけば、皆様がする仕事に祝福が与えられるようになっています。機能宣教です。なるようになっています。その次に何でしょうか? 一名ももれなく、私たちは宣教師で行かなければならないのに、皆行ってしまえば仕事ができません。そうではないでしょうか? 私達が宣教師でみな行かねばならないのに、私達が釜山にいないでアフリカに皆いけば、釜山ができません。一名だけ行くべきで、皆行ってもよいのでしょうか? すると、どのようにしなければならないでしょうか? 送らなければならないでしょう? 行かないならばということです。私が行かないで送ろうとするので、考えてみれば、お金が多く必要です。宣教師一名を送れば、ひとり当たり 30万円ずつかかるのですが、私がご飯を食べなくて、宣教師に対し皆上げて送ってしまって良いでしょうか? 私がご飯も食べなくて、子どもも学校に送らなくて、月給をもらったのをみな集めて宣教師を派遣してしまって、じっとしていれば、神様が喜ばれるでしょうか? そうではありません。それはだめです。それは神様のみこころではありません。すると何でしょうか? 私たちの小さな力を合わせて賛同するのです。これが一般信者宣教会です。まだ分からないのでしょうか? 人は、早く理解しなければなりません。私は外国に行けば、案内の文を見つめません。荷物を探すのに見ることがあるでしょうか? 雰囲気で察知するのです。人々が多い所へ行けばよいのです。行くならば、ここが乗り換える所なのか、行く所なのか、それだけ区分すればよいのです。するとあのロシア語、こういうことも習うこともありません。行ってみれば、その人達が、すでに行く人と乗り換える人のためには案内しています。そのようなことを感づくべきです。キップを持って間の所は行かずにいれば良いのです。すると、行く時、私達が行かなくて飛行機に乗り換えることをあらかじめ知っていれば、行く必要がありません。何の話もしなくて、私たちはそのまま行けばよいのです。どこへ行けば良いのでしょうか? 人が多い所へ行けばよいのです。荷物はどこで探すのでしょうか? アフリカの言葉を知らなくても良いのです。声が出る所へ行けばよいのです。荷物が回ります。するとさがせば良いことではないでしょうか? 雰囲気で察知するのです。他の人のものだけ持っていかなければ、一言も必要ありません。雰囲気で悟るのです。ある牧師はいなくなって心配をかけます。待つとひどい目にあいます。他の道に行って、捜すのに 1時間かかります。人は、雰囲気を早く悟れるようにしなければなりません。それを勘と言うのです。勘が良くなければならないのです。今、一般信者宣教が何か、まだ勘をつかめないのです。幼い子ども達は全部、一般信者宣教に参加しましょう。いくらずつすれば良いのでしょうか? 100円ずつ、50円ずつしましょう。金額が問題ではありません。皆様が神様の前で世界宣教に賛同しましょう。そして、皆様の学業、機能がよくなること、これに祝福を受けましょう。機能宣教です。皆様がいる現場ごとに、神様の計画と神様の驚くべき秘密が現れねばなりません。地域教会です。これは単純な説教ではありません。証しであり、聖書にとても重要な中心です。私が講壇に立つ時、説教することは、皆様がおわかりの通り、私は準備を多くしません。する必要もないのです。なぜでしょうか?知識の商売ではないためです。私は聖書にあることと、本当に中心、それまでに悟ったこと、体験した本当のことを話します。本を拾って読んで説教しないのです。私が説教をすれば、説教を上手にやるように資料を差し入れてくれる方います。一回も使わないので、おもしろくないようです。一回も引用しないからです。それでも、がんばってずっとなさることを望みます。私がそれを引用はしなくても、参考にみなしています。引用すべきことがあればするのですが、この前、牧師修練会をした時、牧師に関する本を何冊も読んでみたのですが、率直な話で、傲慢ではなく、それで牧師を助けることができないということを知りました。ただ、それも読んでみてこそ、助けることができないと分かるのです。だから資料をくださる人々は、絶えずしてくださるべきです。なぜでしょうか?参考にするためです。ただ、説教は講壇に立った時は、私が神様の前で私が習った知識を売り飛ばすのではありません。私達がそのような水準ではありません。単純に神様のみことばと私がどのように生きねばならないのか? この答が本当に出なければならないでしょう? それで、今日の本文を見れば相当な本文です。未信者を見る目です。だから気落ちもせずに、試みにもあわず、傷を受けることもなく、準備しましょう。そして、2番目は何でしょうか? 知恵です。知恵は過去、現在、未来を見れば、最も早い知恵が出てきます。すると、教会も理解できて、おとなも理解できるのです。皆様、おとなが小言を言うならば、その中にみな知恵があるのです。今日と過去と未来を見れば、知恵があります。皆様が、堂会が何かを決定するのに、理解できないのでしょうか? 最もよく理解する方法は、過去と今日と未来をみつめることです。すぐ出てきます。そして何でしょうか? 私たちの使命です。この使命を果たすのに、とてもやさしい方法が何でしょうか? 私はそのようにします。‘私が行くすべての所で、最高の計画を立てる' 地域教会です。私は信仰生活の奥義があります。‘最善のことを選択する' なぜでしょうか?神様のしもべであり、神様の子どもだというこの基準を持って選択するはずです。すると祝福を受けるようになっています。機能宣教です。‘私は行く所ごとに祈りの重要な奥義を味わう' 世界宣教です。世界宣教を置いて祈ります。すると、祝福がくるようになっています。神様の重要な祝福が皆様に必ずあるようになることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
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 神様、今日、神様のみことばをのがさないように、神様のものとカイザルのものを区分して、調和を作り出して、また、使命を持つ祝福を与えて下さい。神様のみことばのなかで祈って知恵を得て、世の中を生かす驚くべき目を開けてください。今日、真に祈りの秘密の内に入っていくようにさせてくださって、単純な祈りではなく、自分を発見して、神様の祝福を味わう霊的な時間を与えて下さい。主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 


2部 / 何を見るのか?
(詩25:1〜22)
 
  
・本文には、みなさまの問題を解決する答が入っています。大部分の人々は、何をしなければならないのか、どのようにすべきかに対して関心がたくさんあります。それは重要なのではありません。何をせねばならず、どのようにせねばならないのか? 大部分の未信者と信者は、そのように考えています。しかし、聖書は強調していません。何を見るかが重要です。違うように見て、仕事をするようになれば、仕事ができません。すべてに何を見るかが重要なのです。パリサイ人達は、信仰生活を間違ったのではなくて、秩序を誤って守ったことでもなくて、誤って見たのでした。ここから問題がきたのです。私達が詐欺に会う理由は、人を誤って見るからです。失敗をする理由は、事件を誤って見るからです。めがねをかければ、うどんを食べるとき、めがねに湯気が立って見るのが難しくて食べにくいです。車中にいる時もくもるようになれば、運転することが困難なのに、知識に目がくらめば、無知ならば滅びることも知らずに、人に被害を与えながらも、与えていることも知らずに、多くの人を難しくしながらも、難しくしていることも知りません。これが無知です。知識に目と知恵の目がなければならないのに、もっと重要なことは、霊的な目です。何を見るかが重要なのですが、信仰生活がなっていく7つのことがあります。
 
・イエスを信じたのが7才くらいだったのですが、20年間、神様がおられることに対してさまよいました。二十年間、答が出ませんでした。それとともに見るようになったことが、立派な先生だと思っていたのに、家庭に問題があるのを見て、立派な僧侶だと思っていたのに、霊的問題が激しいことが見えるようになりました。人々はうまくいったかの様に見えるけれど、だめであることと、実際にこの地には精神病者が多くて、特に偶像崇拝をする子ども、僧侶の子ども、ムダン(霊媒師)の子どもが、徹底的に滅びるのを見ました。多くの宗教人が、個人はもちろん、子どもが滅びるのを見たのです。しかし、それを知らない易、シャーマニズム人達が増えていっています。神学校で知らなかった、原罪を知るようになったのです。私たちとは関係なしで理由なく来る霊的問題が、創世記3章の事件に連続的につながっているのです。しかし、人々はこの事実を欺いて隠しているのです。実際にはやられているのです。目に見えないサタンが、目に見えない神様を信じることができないようにさせて、結局、呪いの中に入れたのです。これを解決しなければならないことが、一番目であり、世の中では解決策がなかったし、神様は解決策のイエス・キリストを送られたのでした。神様の直接的な解決方法で、これが救いです。その時から、なぜ生きて、どのように生きなければならないのかを知るようになったし、だまされてはならないことと、この事実を言うために勉強をしなければならないということが分かりました。
 
・2番目に、なぜ伝道をすれば祝福されるのかに対して知るようになりました。復興ではなく、伝道すべきかに対してしるようになりました。永遠に死ぬほかない人間に、ただイエスだけという話を知るようになったのです。27歳の時からいままで祝福を受けています。そのまま行って、福音を伝えました。それで、世界福音化のために成功しなければならないと発見して、その時、マルコのタラッパンからローマ征服までを発見しました。その時にはじめて、聖霊充満ということを悟るようになったし、出会いを通じて、アンテオケから家庭に、アジアでマケドニアで専門の働きに、ローマ征服まで知るようになったのです。それを講義したところ、神様が釜山、慶尚南道、全地域から集めてくださって、大事になりました。それからの答えは、一度だけ受けるのではなく、ずっと一生受けることを聖書で発見したのです。イエス様が "彼らを身近に置き"ということで、また“あなたがたとともにいる”ということから、合宿、チーム合宿、現場合宿、キャンプという訓練がみな出てきたのです。2003年から始まる伝道合宿は、弟子達だけを確実に育てることであり、3年間祈っている間に伝道合宿の家を用意してくださいました。また発見するようになったことが、教会を復興させて、世界を征服しようとするなら、1千万の弟子を育てなければならないのですが、ここから出てきたことが伝道学校、神学院、宣教師訓練院でした。それで正しく弟子作る総神神学校、ローマ征服する論文を集めるA.U.C.ということを発見しました。それからに見えたことが、まちがいなく迫ってくる未来です。子ども達が家を出ておとなも家を出るならば、乞食が多くなるはずです。それで、彼らをいやしさなければならず、エリート達は精神に問題がきて、これに専門の働きをしなければならなくて、ニューエイジでやられてしまっている文化に文化の働きを育てなければならず、これをするための希望はレムナントを育てることであり、レムナントを育てるためには、産業宣教が重要で、宣教師を派遣しては宣教ができず、現場とあらゆる所の産業人が、皆起きなければならないのです。
 
・その次に見るようになったことが、どのように祈るのかということでした。身分と権威を持って祈るのです。行く所ごとに神様の光が照らすようにすべきで、私の身分がそうでしょう。行く所ごとに天使が動員されて、行く所ごとにサタンを縛らなければなりません。これが身分であり、行く所ごとに弟子達が現れて、神様の国が臨むのが身分です。これを持って祈るなかで、答えがきたのであり、ビジョンが見えたし、説教が難しくなかったし、時刻表が見え始めたのです。時刻表を見ることができない人々が失敗するようになります。入浴をしても、服を脱ぐ時刻表があるけれど、下着から脱ごうとしてもできないように、教会開拓の時刻表と今の時刻表、教会、家庭、個人、あらゆる所に時刻表があります。10年の内に20種類の戦略が出てきて、発展していって神様の時刻表がありました。行く所ごとに神様のみわざが臨んで、それとともに真の感謝が出てき始めたのです。何を見るのかが重要なのですが、人の大部分は、何をするのかにすがっているのです。
 
・ある日、全羅道を行く途中で道に迷いました。それで道端の農夫に尋ねたのですが、よく知らないのに、反対に行きなさいという話に、より苦労しました。道を知らなければ、正しい道を教えることができません。道は知らなければ教えてくれないほうが良いので、違った道を教えてあげれば倍に苦労するのです。することが問題ではありません。何を見るかが重要なのです。救われた者は、必ず身分が変化したことを知っていなければならず、救われた者はなぜ伝道して、なぜ生きなければならないのか知っていなければならず、救われた者は聖書的方法を知っているべきであり、救われた者はなぜ訓練を受けて、どのように世界征服するのかを知っていなければならず、未来が迫ることを確かに知っていなければなりません。これを知らなくなれば、ずっと苦労するようになるのです。重要なことです。イエスを長く信じた人は、新しい開始を上手にやるべきです。台湾で財閥は考えが違います。財閥のこの人が恵みを受けて福音を知るようになったし、福音の中に聞いてきたのですが、メンバーが間違ったことが多くて落胆することが多かったのです。しかし、台湾のその財閥の方は揺れませんでした。年をとった方で、国では重要な人であるのにもかかわらず、合宿にきたのでした。 少しの間、先生にお目にかかってみたくて来ましたと、あいさつだけして行ったのでした。先生が疲れているかと、早く行こうとしたのですが、先生方が誘ったので、少しの間、話をするようになりました。だが理事長は、早く行くことを希望したのですが、理由は疲れていた先生を休ませてあげるべきだという考えで、そのようにしたのでした。その方は、合宿で恵みを受けたメッセージで、台湾へ帰って1年間祈ったし、それが恵みになって本を作ったのでした。それは、今まで会った人々に福音を伝えるために選択した方法が、本をプレゼントすることだと考えたのでした。礼拝に出た時は子どもに残す遺産として、メッセージを書いて、確実な祈りの答えの本を残しましょう。何を見るかが重要です。全く同じりんごが落ちたのに、ニュートンは万有引力の法則を発見したし、全く同じくご飯を食べて生きていたのに、スチーブンソンは釜の蓋が動くのを見て列車を考えるようになったし、全く同じく農作業をして生きていたのに、鳥が飛んで行くのを見てライト兄弟は、飛行機を考えるようになりました。何を見るかが重要です。七つの奥義を知って通わなければなりません。預言者を殺しながらまで預言されたこのみことばを知って信じなければ、知らずに信じるということが、どれくらい苦しいことでしょうか。聖書にあることを正しく話さなければならないのです。ほとんどあらゆる人々が、運命に縛られて生きているので、そこから抜け出すようにすることが救いであり、これを伝えなければならないのです。その次に説明をしなければならないでしょう。そして、受けた祝福を持って祈るようにするのです。もしかして、福音を聞いてだめなのは、メッセージを聞かなかったためであり、できないわけがありません。地域教会堂をする時、問題は福音がない信者が教会を移って回って、福音がない牧師が欲を出すことで問題になるのです。一般信者の伝道する人だけ見つけ出しさえすれば良いのです。イエスを信じることが他の宗教と同じようになっているのです。類似品が出てくるのを喜ぶ人々はにせ物であり、本物は嫌います。本物であるためです。にせ物が似ているようにしているようですが、結局はだめになるので、本物までできないようにさせるのです。正確な神様のみことばを、人々は違うように理解しているゆえに、だめになって、結局は恨みが出てきて、結局は不信仰を残すようになるのです。パウロは "私がいままで話して自慢したこと、胸の中の深い所でプライドを持っていたものをちりあくただと思う。キリストを知る知識が最高だ。私がキリストに発見されることを願う。"この話は目が開いて発見したということです。75才 になったパウロが「得ていることもない、成し遂げたこともない。私がキリスト・イエスに捕えられたこと。" 世の話とは他の話しをしました。"上から呼ばれた報いのために走る。私たちの市民権が天にある" たいした発見をしたパウロでした。このようになる時、答が出てくるのです。そのようになる時、 "私はだれか" 答が出てくるのです。 "私はなぜ生きなければならないのか" を勉強して事業しなければならないことであり "私はどのように生きなければならないのか" にだまされてはならないのです。
 
・本文を見れば、ダビデは "私のたましいは、あなたを仰いでいます。" 5節に "あなたを一日中待ち望んでいるのです。"15節に "私の目はいつも主に向かう。" 本文に "私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。" あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。" "主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。" "主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。" 21節に"誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。" 確にそう言いました。"何を見るか" が重要なのです。そのうちにダビデは "主を見上げました。詩篇81篇に "主を見上げなさい。" "主を見上げれば、力ある御手をもってあなたの敵をとりのぞく "目が開いて見るようになれば、これをどのように見るかが重要なのですが、私達が見ることができないのをご存知であって、私たちに救いの門を開けてくださいました。それでそれを信じなさいと言われました。私たちはこの驚くべき祝福を見ることができなくて、他の道に見たなら、霊的問題がくるのです。正確に話せば、私達がこの驚くべき祝福を見ることができません。他の道に見たとすれば、霊的問題がきます。それで道を開けたのに、その道がまさに‘受け入た人々、すなわち、その名を信じる人々に神の子どもになる特権をお与えになりました'ということです。その信じる者に神様が聖霊で充満するようになさるとおっしゃいました。それが私たちの方法です。驚くべき祝福を下さいました。今日、皆様がこの驚くべき祝福で一生、答えを受ける皆様になるように主の名前で祝福します。
 
・すると、ダビデのようにこの祝福をどのように見て生きねばならないのでしょうか? 私はこのようにします。私は聖書でこのように感じられました。私と現場、全てのもの、簡単に話して、問題まで全部みなメッセージです。神様に、皆様行く所ごとに最高の神様の計画を立てることは、皆様が行くすべての現場がそうです。それで、私はこれを‘地域教会'という単語を付けました。また神様のみことばの中で最善を尽くすのです。これを私は‘機能宣教'という単語を付けました。今年に祝福を受けるように願います。
 
・私たちの間でする話です。ここは今、学校を借りてしています。礼儀をよく教えねばならず、あなたがたは上手にやらなければなりません。ここに教役者がたくさんいますが、私は‘残念だ'と考えました。私がとても金持ち、立派な人々が多い教会に伝道師で行きました。どれくらい事務室が汚らしいか分かりませんでした。そこに私が‘そうじしよう' こういうことを書く必要がありません。教師を見て "そうじしよう" そのように話したことがありません。何をしたでしょうか? 私が二時間早く行きました。早く行けば、誰が知っているでしょうか? 洋服を掛けて、雑巾を使ってそうじしました。三週間、そのようにそうじしたのです。そうしたところ、この愚かな人々が、三週間後に感づいたのです。非常に片づけないからということです。"今、伝道師が早く出てきて、雑巾でそうじをしたよ" その時から雰囲気が変わりました。キャンペーンをして変えるのではありません。私ならば、そのようにします。学校を借りてするために1,2名だけ誰か精神を整えた人がいれば、みな終ってそうじすることができます。すると、夜に家に帰る時、1時や2時になって帰るようになるではないか? それが何で、そんなに問題になるのでしょうか? 一週間に一回なのに、ということです。むかしにそうでした。キム・チャンイン牧師が牧会をしていた時、教会が汚らしかったのです。キム牧師が見ると、非常に乱れていたので、ほうきを持ち出してそうじをしたのです。だから、副教役者も出てきて、みんな出てきて、私達がすると言ったのです。そうしたら、キム牧師が私は運動中なのだと言って、はじめから終わりまで、みなそうじしたのです。だから、その時からそうじするようになったのです。何がそんなに大変なのでしょうか?
 
・私たちは、どこにいても、みことばを捕まえて、福音を持って、味わって最善を尽くせばできるようになっています。何も問題になる必要がありません。七つのこの秘密を持って祈っていれば、まちがいなくビジョンが見えます。学生達がたくさん尋ねます。"先生。タラントをどのように発見して、ビジョンをどのように発見するのでしょうか?" 心配しないで。皆様が、神様が与えられる祝福を持って祈りを続ければ、見えるようになっています。間違いありません。明らかな答えが来て、見えるようになっています。皆様、聖書を迷信の本にせず、本当に神様を信じる秘密を偽りにせず、本当に信じてくださるべきです。このビジョンが見えるようになっています。神様の力はものすごいのです。だから、私たち教会をおいて見ましょう。神様がどのように、この方達を祝福なさって、皆様を祝福なさって、弟子を祝福なさるか見ようということです。この福音の奥義がどうなのか、見ていれば分かるはずです。そのように軽んじることではありません。私達が考えているようなことではありません。だから、ほとんどみな人々が知らないで困難にあうのです。よく見ることができないからです。見ることをよく見るべきです。この奥義を持って祈りをすれば、まちがいなく、そのようになります。
 
・今日、皆様が本文の中で最後にひとつ探さねばならないことがあります。皆様の真の問題をどのように解決するのでしょうか? 私の夫の問題、妻の問題をどのように解決するのでしょうか? 皆様が、本当に個人の問題をどのように解決するのでしょうか? 私が見るには、今日、聖書に答が出ています。神様の前に皆様を立てましょう。するとできます。それで、深く祈れば、驚くべきみわざが起きるのです。自分の夫がどうかということは言わないで、皆様自身を神様の前に立ててみましょう。すると、簡単な答が出てきます。祈り始めれば、大きい答えがきます。主を見上げる者はだれも恥を見ません。主を見上げる者は、足が網にかからない。主を見上げる者は、真の平安を得、子孫が祝福されるはずです。間違いありません。ダビデが言うのに '私の力になる主よ。私は主を愛します'と言いました。これは普通の告白ではありません。単なる告白ではなく、主を見る目が開いたということです。皆様、簡単です。問題が生じた時、神様の前に立てば良いのに、しきりに人をみつめるので、この話をしなければならず、あの話をしなければならず、不平を言うのです。すると、その話を他の人達は正しいと思って試みにあって、違えば違うままに試みにあいます。ずっとそうです。だから、ずっと悪魔のお手伝いするようになるのです。神様の前に立てば、答が簡単です。それとともに、深く祈る時、聖霊のみわざが起きるのです。
 
・今日、ダビデが詩篇 25篇で、ずっと主を見上げるという言葉が出てきました。皆様、もし霊的問題が解決しないで、皆様がますます飢え渇く人がいるならば、当分は時間を定めて深く祈りましょう。すると、解決するはずです。それが最も正確ないやしです。他の方法を使ってはなりません。私が薬剤師に尋ねたのです。"執事、薬局をして、お金を儲けている人は、自分の夫を国会に送ることもしたというのに、執事もお金を少し儲けてください" と言ったら、その方が言う話が "先生、絶対にそのようにしてはなりません。薬はいくらでも調剤できるけれど、結果的には人を殺します。私の薬を飲めば、一週間飲んでも風邪がよくなりません。ところが、この風邪薬を与えて一気に効果が出るようにすることができます。しかし、それは人を殺すことです。私の薬は、一週間飲んでも何のしるしもありません"と言いました。すると、薬局に人がくるはずでないと言うので、それでも良いと言いました。根本的に治療をしてあげるべきだと言いました。そのようにすれば、その人が生かされるのです。その話を聞きながら、そうだな。福音もそのようなことです。皆様に霊的問題がきた時、深く神様の前で根本を解決しようとしなければ、何か苦闘すれば損害をこうむります。それではないのです。ダビデを見ましょう。主を見上げる者です。
 
・皆様、今年、主を見上げながら3つの単語に大きい祝福を受けるように願います。皆様が行く所ごとに、この奥義がなされ、神様の計画がなされる地域教会の祝福です。皆様が行く所ごとに神様の奥義を持って、祈っている途中で、学業、産業、皆様の企業に神様の祝福がある機能宣教です。また、私たちの教会が、これからは、すべての人々が力を合わせて世界宣教に向かって祈る時、神様が答えを下さるはずです。私たちの教会に大きい証拠をくださらなくてもしなければならないけれど、神様はまちがいなくくださるはずです。これを捕まえて祈らなければなりません。
 
・私は、錯覚をしたのです。私は、私たち信徒が、私が説教をすれば、神様のみことばを聞いてアーメンしてよくするのかと思っていました。錯覚でした。昨日、江水路教会にとても多くの人々が来ました。椅子も席も道もなかったのです。‘なぜここにたくさんきたのでしょうか? 異常でした。突然に、そのようにたくさんくるのか?'と、外に出て車に乗ろうと少しの間行く間に、前に発見できなかったことを発見したのです。誰かが手を振ったのです。‘不思議だな。なぜ手を振っているのだろう?' 私に "先生"と言いながら、ある子どもはきて扉をたたきました。異常だなと思って見たら、学生達でした。学生達が表現していたのでした。今回、学生達が修練会で恵みをあまりにたくさん受けて、全部、核心に出たのでした。核心にきて、扉をたたいて手を振ったのでした。それで、私が錯覚をしたのです。‘あの子ども達が、私の説教を聞いて、本当に恵みを受けるのか' こういう考えをする中により一層、思いました。それで、私は私たちの信徒とタラッパンメンバーが、私の説教を聞けば、アーメンで受けて、このようなのだと思っていたのです。また、誰かが錯覚するようにさせます。"先生。先生がメッセージの時、話をなさらなければ、人々がついてくるので、私たちがどんなに広告してもできません"と言いました。そうなのでしょうか? それで、核心の時も話をしたのですが、それではありません。昨年、1年間「一般信者宣教」という話をしたのに、私たちの信徒は3分の 1しか参加しなかったのです。私が今回、新年メッセージの時、ご飯をよく食べようという話ではなくて、長老にご飯を食べさせようという話でもなくて、何でもないのに、ただ子ども達まで100円ずつでも参加して、世界宣教、暗闇に光を放とうと言ったのに、私たちの信徒は、3分の1しか参加しませんでした。それで‘私が説明をよくできないからだろうか? そうでなければ、この人達は、心臓が丈夫で、そうなのだろうか? これはなにか?’と考えている途中です。私は、私が説教をすれば、皆様がよく聞いているかといままで錯覚していました。結果を見たら、そうではなかったのです。元々は、私達が宣教師で行くべきなのです。聖書には、そのようになっています。行こうとするので、すると皆様の家はどうするのでしょうか? 子ども達の学校は、どのように送るのでしょうか? すると、どのようにせねばならないのでしょうか? あの暗い所に宣教師を送らねばならないのに、送ろうとすると、暗い所が一、二箇所でしょうか? お金がないのです。私達がご飯を食べて生きなければならず、子ども達を学校に送らなくて、午前に話したように、そのまますべて上げるのでしょうか? それは、不可能な話です。だから、賛同しようということです。子ども達も賛同して、おとなも賛同して、祈ろうということです。インマヌエルといえば、全世界に宣教師を派遣する教会、インマヌエルといえば、大韓民国を生かす教会、インマヌエルといえば、青少年を生かす教会、他の人達が見て、教会はこういう所だな、インマヌエル。イエスを信じれば、あのように神様の祝福を受けるのだな。イエスを信じれば、あのように素晴しい信者になるんだな。ということを証拠しようということです。これをわかることができないでいます。皆様がこの三つを知らなければ、仕事になりません。皆様が行く場所ごとに暗闇の勢力を打ち破るべきです。地域教会です。皆様がする事業、皆様の学業が祝福されなければなりません。機能宣教です。すべての一般信者は、暗闇を破る世界宣教に賛同すべきです。これです。本当に、皆様が見る目があるならば、ダビデが成功した秘密が何でしょうか? 霊的問題の解決方法は何でしょうか? 主を見上げることです。少しだけ祈れば、解決し始めます。皆様自身を神様の前に置きましょう。すると、解決し始めるはずです。
 
・以前には、私が不平、不満を言って、胸の中に私はなぜこうなのか? 妻はなぜああなのか? と、不平、不満ばかりだったのですが、解決しませんでした。私が神様の前に祈ったのです。'神様、なぜそうですか?'と尋ねたら、神様が簡単に、私の良心に返事をなさったのです。‘あなたのことをよくしなさい'‘そうですね' あまりにも簡単な返事でした。そうではないでしょうか? 神様が良心に答えてくださったのです。だから、ずっと祈りし始めたのです。神様が私に多くの祝福と答えを下さいました。伝道をするのに、伝道ができませんでした。祈ったのです。神様の前に立つことが、どれくらい重要か分かりません。 '神様、なぜ伝道ができませんか? 神様、もしかしておられないのですか? 神様が生きておられるならば、私が伝道をするのに答えを下さるはずではないですか?'と言ったら、神様が簡単に返事なさったのです。 'あなたが、今、伝道をしようとしているのか、復興させようとしているのか、目的が何か?'‘私が今、持っている福音を話すべきだ。’神様の前に立てば、簡単です。それで、祈ったところ答えの門が開いたのです。本当に神様の前に立つことです。ダビデを見ましょう。すべての事がみな神様の前でした。確かに生きておられる神様の前で、霊的な目を覚まして、神様を知らなくてみな死ぬのに、そこにメッセージを伝えることが、ダビデの目的でした。‘王になったら、美しい神殿を建てて、王になれば機能がある聖歌隊を集めて、神様に賛美をして、王になれば、全世界に主の御名を説明する 教会と働き手を作る' ダビデの祈りでした。どれくらいすごいでしょう? だから、この人が神様の答えを受けて、霊的に勝利したのです。行く所ごとに、暗闇の勢力が崩れたのでした。皆様が、この契約を捕まえて、今週だけでなく、一生の間、もう一度、七つの秘密を確認して、これを捕まえて、行く所ごとに神様のみわざが起きるようになることを主の名前で祝福します。勝利なさることを主イエスの名前でお祈りします。 
 
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神様、今日も、私達に驚くべき恵みの時間を下さいましたことを感謝申し上げます。この時間に病んだ者も多くて、本当に難しい事にあって、事故ゆえに、また、犯罪の中に陥って、苦しんでいる者が多いのに、私たちにインマヌエルに呼んでくださった神様の前に感謝申し上げます。これから、私達に霊的な目を開けて見ることを見るようにさせてください。私たちの目を開けて、世の中で神様の奥義を見る、驚くべき恵みを増し加えてください。すべての聖徒達に、神様の祝福を与えてくださって、霊的な目を開けながら見ることを見るようにさせてくださりながら、それで、世の中で勝利する証人になるようにさせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン