2004年 12月19日インマヌエル教会聖日メッセージ


 1部/ 伝道者に与えられた結論
(ルカ12:1〜12)
   
■ 多くの知識人が、多くのことを知っていますが、簡単なことをよく知らない場合が多いのです。聖書はなぜ、偶像崇拝をしてはならないと言っているのか? その部分を理解できずにいます。この頃、新聞を見れば、占いがたくさん出てきます。そして、週刊誌、月刊誌、日刊スポーツ新聞を見れば、占い師の紹介がたくさんでてきます。果して、占いは当たるのでしょうか? ある人は正確に占うこともあります。どうして、そうなのでしょうか? そのような部分をほとんどよく知らずにいるのです。ここにも、易、シャーマニズムをし続けていて、帰ってきた方もたくさんいますが、その方達はよく知っているはずです。そして、私たちは想像以上に、生活の中にあることなのに、知らない部分が多いのです。人が前世に何で生きた、来世には何になるということは正しいのでしょうか? ある人はそれを見せてくれる人があります。あなたの前世は何で、これからは、このように生きるはずだ。これを証明してくれる人もいるのです。それは何でしょうか? それは果して正しいのでしょうか? 未信者は、ほとんど法事をします。法事はなぜするのでしょうか? 亡くなった親の前に法事を行なえば、親が悪霊になってきます。すると、私たちが法事をする姿を見て、親は喜ぶ。そうでなければ、怒るかもしれないと考えるのです。果して正しいのでしょうか? 政治家や、色々な仕事する人に、未来を吉凶を占う人々は正確に占うのですが、それは何でしょうか? 想像以上に、人々はよく知らずにいるのです。
 
■ ソウルで一度、旋風を引き起こしたベレヤという団体があります。そこでは、聖書をこのように教えます。未信者が死ねば悪霊になる。イエスを信じて死ねば悪霊にならないが、未信者が死ねば悪霊になると教えるのです。ですから、多くの人々がそのように思って、また、そのように証拠を出してくれます。ある人は、精神が狂ったのに、自分の死んだ叔父の悪霊が入って叔父のまねをするのです。私たちは、そのようなことと関係なく生きていますが、実際に私たちの生活の中に入っているのです。いったい正しいのでしょうか? 私たちはどのようにしなければならないのでしょうか? ほとんど知らないのです。ある大統領が、大韓民国全体に神社を作ろうとして、一時クリスチャンが反対しました。檀君神殿を作ろうとした時です。日本が韓国の学校の前に神社を作ろうとした時、クリスチャンが反対しました。知って反対したのかは分かりませんが、その方たちは、なぜ反対したのかまだ分からないのです。韓国の当時の大統領は、今でも知らずにいます。クリスチャンは、本当に異常だ。なぜ檀君神殿を反対するのか? 気分が悪い。このように思っています。こういうあらゆる部分が、どのように解釈されるべきでしょうか? 想像以上に、私たちの知識人がよく知らずにいて、また知っているといっても、それほど関係ないかのように生きていっているのです。
 
■ それで、私がある日、説教しながら法事をする必要がないと言いました。未信者が死んで悪霊になるのではありません。ベレヤの教えは間違っているのです。もし未信者が死んで悪霊になるならば、殺人事件をなぜ捜査官に任せるのでしょうか? 占いをさせれば良いでしょう。未信者が死んでしまえば、完全に地獄に行きます。聖書には、来ることも行くことも出来ないとされています。悪霊がさまよっているかのように思っているのですが、そうではありません。とても重要なことは、その悪霊が未信者のまねをするだけです。ここに皆様がだまされてはならないのです。むかしに占いをした方達はよく知っているでしょう。だまされてはなりません。皆様の父が悪霊になってくるのではなくて、悪霊が父のまねをするのです。それもまねをしても、まったく父のようにまねするのです。それでだまされるようになるのです。そして結局は、祝福を与えるのではなく、とても難しくさせるのです。易、シャーマニズム人のあなたがたが知っているべきことは、何かの将軍の悪霊につかれたのではなく、そのまねをするのが入って、結局は後ほど難しくさせるのです。そして、親がくるのではありません。それは、親のまねをする悪い霊が来るからで、知ったらそれがとても怖いのです。それで、その時間に私たちはそのことをせずに、神様の前に礼拝をささげるのです。前世がどうだ、そのような全てのものが、悪い霊のしわざです。ほとんどすべてがだまされているのです。私たちは、そのような部分を確かに知っていなければなりません。
 
■ 私がこういう話をしたところ、執事一人から電話がきました。先生、私は執事になって20年を越えました。事実、いままで不安で法事を行なった。先生の話をそのまま聞いて見て、私が本当に間違ったと思ったので、これから法事をしません。法事の日に、これからは礼拝をささげます。その日がまさに来週の月曜日だと言いました。先生が一回だけ来て、礼拝をささげてくださいと言いました。法事を片づけて、追悼礼拝をささげるから、意味があるでしょう。だから、一回だけきてくださいと言ったのです。私もうれしい心で行きました。入ったら、部屋になにかをぎっしり置いてあり、上から覆ってありました。時間がないから、ご飯をあらかじめ整えたんだなあと思いました。はやく礼拝をささげて、それを出して食事をするようだと考えたのです。私が礼拝をささげるために家族と座ったのに、私が座ったら、上の覆っていたものを取ったのでした。そこには、りんごもあって、果物がみなありました。ところが、果物をそのまま置いているのではなく、法事のように、果物の上部分の皮を切ってありました。
 
■ 私は法事をあまりしないので、よく知らないのですが、私の感じでは、法事の時にこのようにすると思いました。そのまま礼拝をささげるのに、なぜこのようにしたのですかと尋ねました。みな終わったのです。礼拝をささげればよいのです。ところが、なぜこのように果物をみなこのようにしたかと尋ねたら、執事の返事が傑作でした。私は先生の説教を聞いて、法事をやめようと思いました。今日が最後です。それで今日から礼拝を始めようと思います。それでも、あまりに残念で、不安で、そのようにしたと言いました。悪霊に仕えることができないのが、そんなに残念なのですかと尋ねました。そのように礼拝をささげたのを思い出しますが、私たちは人々が不安に思って、どうでもないことを知らずに恐れるのです。今日、救われた皆様に、イエス様が直接おっしゃられます。救われた人と伝道者に、イエス様が直接言われたみことばは何でしょうか?
 
■ 今日の本文を一緒に読んだのですが、何となっているでしょうか? 恐れてはなりません。それが今日のイエス様の主題です。救われた皆様は、恐れてはいけません。恐れには、色々なものがあります。私達が病気になれば、死ぬのではないか! 恐れが生じます。具合が良くなければ、私がもしかして癌になったのではないかと恐れが生じます。未来に対して私が昇進するか、しないか、恐ろしくなります。それは正常だと見ることができます。しかし、人々が本性的に恐れの霊がある人があります。なんでもない事に不安になって、恐ろしくなる人がいるのです。また人は、迫害が来たり、今日の聖書にあるとおり問題が起きれば、恐ろしくなります。これは小さなことではありません。皆様、恐れる時、どんなことが生じるのでしょうか? 私たち救われた神様の民に恐れてはいけませんと、聖書はなぜ話すのでしょうか? 聖書には色々な理由があげられています。
 
■ ヨブ3:25を見ると、ヨブが普段にいつも恐れたその部分を、サタンが攻撃したのです。恐れる必要がありません。Iヨハネ4:18-19を見ると、皆様が恐れて震えているその部分に、災いがやってきます。今日、何を恐れてはならないと言われたのでしょうか? 4節, 5節には、迫害されても恐れてはならないと言われました。それから、極端な話をされました。迫害する者は、あなたを殺すこともあるだろうが、あなたを地獄に送ることはできない。地獄に送ることができる神様を恐れるべきで、なぜ人を恐れるのか? 6節にこういうみことばがあります。神様は、雀一匹も忘れておられません。それとともに、7節にはあなたは、雀より尊いのです。メッセージを聞く皆様、また私たちインマヌエルのあらゆる家族、そして、インターネットでみことばを聞く全世界の弟子たちは、確かに記憶しなければなりません。皆様がどんなに失敗して、弱いといっても、雀よりは貴重です。皆様は福音を持った伝道者です。恐れてはなりません。イエス様のみことばです。神様が皆様に与えられたみことばです。恐れてはなりません。7節を見ると、髪の毛まで数えられているから、恐れないように。髪の毛が何本あるでしょうか? 髪の毛を数えることができるでしょうか? だいたい医者に尋ねたら、頭が大きい人は、約10万本にもなるらしいのです。私たちは、私たちの髪の毛が何本なのかもみな分かりません。自分の髪の毛が何本なのかを知る人は誰もいません。私がこの話をしたところ、ある子どもひとりが手をあげて、数えることができると言いました。自分の父はハゲ頭なので、三本しかない。それは数えることができるでしょう。しかし、普通の人は数えることはできません。神様は、皆様の髪の毛まで数えておられます。ですから、恐れてはならないのです。11節、12節にこのようにおっしゃっています。聖霊が皆様と共にいらっしゃって、話すべき言葉と全てのものを導かれるので恐れてはなりません。皆様、必ず記憶しましょう。本当に救われた神様の民ならば、皆様を神様が導かれるゆえに恐れてはなりません。誰が何といっても、私たちのいのちは、神様が治めておられ、神様が私たちを救われたので、恐れてはならないのです。
 
■ 先週は、パリサイ人に '忌まわしいものだ' と言われました。あなた達は呪いを受けるようになるはずだ。福音を防止するから、災いにあうということでした。こういう災いを受ける人の迫害を恐れてはいけません。皆様、恐れないように願います。皆様は神様の子どもです。心配もする必要はありません。なぜでしょうか? エペソ1:3-5を見ると、皆様の救いは世が造られる前から備えられていました。ローマ16:25には、代々に渡って長い間、救いを準備されていたと言われています。ローマ16:17を見ると、いつまででしょうか? 永遠までです。ですから、恐れてはならないのです。皆様が過去には恐れたかも知れませんが、今は恐れる必要がありません。過去には皆様は、皆様の力で生きたゆえに、心配もしなければならなかったのですが、今は神様の力で行くために、恐れる必要がありません。未信者は問題がくれば滅びますが、神様の子どもは問題ゆえにより信仰が育つために、恐れる必要がないのです。私たちには、しばしば恐れが生じます。恐れてはならないと言われています。なぜでしょうか。私たちは、救われた瞬間、過去、現在、未来がすべて解決したのです。
 
■ イエスを信じて死んだら天国に行くということは、正確な伝道ではありません。病気の人にイエスを信じて救われなさい、その話は正確な伝道ではありません。神様がなぜ救いの門を開かれたのでしょうか。皆様が救われた瞬間に、すべての過去は終わります。皆様の運命が変わるのです。占う必要がありません。皆様が神様の子どもになる瞬間に、サタンに捕えられたあらゆる呪いは終わってしまいます。それが救いです。それで、皆様は占う必要もなくて、心配する必要もありません。皆様が救われる瞬間に、まさに今、神様の子どもになったのです。ですから、現在の問題も解決したのです。皆様がこれから起きる全てのものまで、神様は準備なさったゆえに、心配しないで。それが恐れてはならない理由です。私たちは時々、信仰生活をしながら、律法的な恐れ、宗教的な恐れがきます。ある人を見れば、色々な恐れの中に捕らえられて、そこに陥っています。
 
■ 知っている子どもひとりが、変にうつ病になりました。それで相談をしてきたのです。軍隊で起きたことです。歩哨で立っていたら、前方から誰かが歩いてきました。それで暗号を送ったのです、味方の軍ならば、暗号を答えるのに、暗号を答えることができなかったのです。2度、3度、暗号を送ったのに、相手方が暗号を答えられなかったのです。その時に、恐くなったのです。敵がやってきたと思いました。それで、銃を射ったのですが、頭に当たったのでした。それで死んでしまいました。行って確認してみたら、同僚でした。この 人が外に行って帰ってきて、酒を飲んできたのか、とにかくに暗号を返事できなくて、射ったのに、まさに頭にずばり当たって死んだのです。ですから、事件がおきたのです。調査して、大騷ぎになりました。どうして 同僚を殺したのか? 私はこれこれをしました。死んだ家の父母も大騷ぎしました。裁判官が裁判を賢明にしたのです。遺族には良くなかったのですが、この人は軍人で、自分の使命を果たした。むしろ慰めて休暇をもらって、休暇に行きました。自分の過ちではないことを知っているけれど、この人は友人を殺したということに捕われたのでした。それで、私が福音を話しながら、終わったと言いました。もしあなたがわざわざ殺人をしたとしても、悔い改めて悟れば、終わったことなのに、それはわざわざしたことでもないでしょう? 私たち人々は、想像以上に、何かに捕われています。そして、職分者を見れば、信仰生活をしながら、たくさん捕われています。私が神様の前に奉仕もたくさんすることができなくて、献金もたくさんすることができなくて、私が献金もたくさんできなくて、私が何の祝福を受けるのか? こういう方法で、たくさん捕らわれているのです。神様は、皆様にそのようなことを要求されることはありません。皆様が受けた救いは途方もないために、何にも恐れないように。皆様をずっと付いてまわりながら攻撃する敵がいます。恐れてはなりません。皆様を押し倒して欺こうとする暗闇の勢力があります。恐れてはなりません。いたずらに未信者のように勇気を出してという話ではありません。皆様は神様の子どもだから恐れてはならないのです。ムダン(霊媒師)をしていて帰ってきたので、夢の中でしばしば困らせるのですが、恐れてはなりません。皆様の子どもが悪い友人との関係を切ったら、悪い友人が少しの間は困らせます。それは恐れる必要がありません。ピリピ4:6に 'なんにも心配するな.' 全部、それらを祈りで神様に祈りなさい。Iペテロ 5:7-8に重要なことを話しました。皆様、今日の契約をよく捕まえて、信仰を堅く握るように願います。あなたがたの思い煩いを主に任せなさい。単純に置くということではなくて、主に完全に投げてしまいなさいと英語の聖書にはなっています。原文には、あなたの心配を神様に完全に与えてしまいなさい。それとともに、8節には重要な言葉が出てきました。 'あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、食い尽くすべき者を探し回っています' 皆様の中で心配して、恐れて、不信仰するものを触るのです。皆様の家族が、皆様の夫が、皆様の同僚が、もしそうだとしても、皆様がしばしば心配して、不信仰すれば霊的問題につながってきます。ヨハネ8:44に、あなたがたの父である悪魔は、しばしば皆様を欺くのです。それで何にも心配せず、恐れてはならないと言われたのです。
 
■ 今日、皆様が2番目に捕まえねばならない契約は、恐れることが別にあるということです。パリサイ人のパン種が入らないように用心しなさい。パリサイ人のパン種と偽善に気を付けなさい。皆様、貴重な時間です。信仰生活で一番注意しなければならないものがあります。不信仰することを恐れず、むしろパリサイ人のように偽善やうわべで信仰生活することを用心しなさい。この不信仰が皆様の内に心に入ってくるので、パン種という表現を使ったのですが、これに気を付けなければなりません。そして、唇で神様を否認したり、間違うことを用心しなさい。聖霊を汚すことは、罪の赦しを受けることができません。そのようなことに気を付けなさい。皆様には、何でもなく心配が訪れます。それが小さく見えるけれど、相当な結果を招くのです。
 
■ 私は以前に、副教役者でいた時、しきりにこれからどのように牧会をして、どの教会に行くかに対しての心配が生まれました。それは何でもないことなのに、その瞬間に相当な問題になりました。ある日、悟ったのです。神様が導かれるままに行けば良いではないか? 雀一匹も忘れられない神様が、救われた神様の子ども、それも主のしもべを導かれるではないか? 聖書が嘘の本でないなら、私たちの未来を完全に準備されているではないか? この祈りをしたのに、釜山のインマヌエル教会に導かれたのです。
 
■ ところが、私たちはつまらなく心配をするのです。そして、私が時々する心配があるのですが、毎日、他人の建物(インマヌエル・ソウル教会) を借りて、いつまでこうするのか? という心配が生まれます。その時ごとに、神様がみな準備されるのになぜ私が心配なのか? 正しい福音を伝えるように祈れば良いではないか。神様が私たち主のしもべを祝福なされば、簡単なことではないか? 神様は海の中でも道をつけられたではないか? 神様は砂漠でも泉ができるようにされたではないか? 絶対に滅びないというバビロンも倒されたではないか? 永遠に滅びないというローマも倒されたではないか? 神様はマルティン・ルター一人で世界を変えられました。私たちはしばしば心配が生じるのです。救われた神様の民であるゆえに、何でもないのに相当な違った未来がくるのです。私達が痛くても心配が生まれます。ますます損になるのに、不信仰に陥ることもします。
 
■ 聖書にパウロに向けて、神様はこのようにおっしゃられました。 '恐れてはならない。パウロ。あなたはカイザルの前に立ちます' 今回、神学院終講をした時、そのように話しました。皆様は神様の子どもであり、伝道者であるゆえに恐れてはなりません。皆様がいたずらに恐れれば、霊的問題がくるだけでなく、肉体的にも損になります。神様は、そのようにおっしゃられたのです。わたしがあなたを呼んだ。あなたはわたしの子どもだ。ですから、以前の事を記憶するな。わたしが新しい事を行なう。神様はそのように話されました。どのように、以前の事を記憶しないのでしょうか? 皆様が過去に傷ついて、そのようなことに陥っていてはなりません。そこに埋められて死なず、新しい事を行なわれる神様の契約を捕まえましょう。
 
■ 困難にあっている方はいますか? 神様は、皆様に新しい事を行われるのです。むしろ私達が心配することは、パリサイ人のように不信仰に陥ることを心配するので、私たちは心配することがなんにもありません。未信者も話しています。人間のいのちは、天に拠ると、すると天の主人はだれでしょうか? 神様です。すると、神様はだれでしょうか? 私たちを救われた父で、私たちは神様の子どもです。何にも心配する必要がありません。皆様に困難がきたのでしょうか? '恐れてはなりません。そして、ただ聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けて地の果てまで証人になります.'
 
■ 私達は保険に入ります。私は保険に入ることは良いことだと考えます。なぜならば、私達がからだが健康な時、保険に入っておけば、からだが病気になったら、助けを受けます。また未来に対しても保険にはいったら、年をとれば、恩恵を受けることができるためです。それで有益なために、多くの人々が保険に入ったり、先進国でもそのようにします。しかし、一つだけは理解ができません。生命保険、これは理解ができないのです。保険に入っておけば生命が与えられるのでしょうか? 死ねば終わりなので、それに関しては違うと思いました。私達のいのちは、保険を受けることができません。そのように、私たちは神様が救われた者に5つを完全に保障してくださいました。
 
■ 皆様は救われたゆえに、未信者と違います。運命を完全に変えられたのです。そして、未信者は知らないけれど、聖霊が細かく導かれます。そこに対して保証を受けました。今日、皆様が神様のみことばを信じる瞬間に、どんなことが行われているか知っているでしょうか? 主の聖霊が目に見えなく、皆様が行く所に多くの主の天使を送って、答えの門を開けておきます。悪い霊を恐れる必要がありません。
 
■ 今日、この時間にアーメンする瞬間に、神様は答えの門をあけられます。だから、ここに座っている時間が時間の浪費ではなく、今日、みことばを捕まえる瞬間に皆様の事業の場所に神様は主の天使を送って、あらかじめ答えられるのです。すごいことでしょう? こういう保障を受けたのです。だから恐れる必要がありません。パウロはこう話しました。 '昨夜、神様の御使いが私の横で話した。パウロ。恐れてはいけません' またダニエルがこう話しました。 '私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。' その夜に主の使いが打ったので、アッシリヤ軍18万 5千名が死にました。
 
■私はこういう祝福をたくさん体験しました。聖日に礼拝をささげているのに、神様はあちこちに天の軍隊を派遣なさるのです。これが信じる者の現実です。ものすごいことではないでしょうか? 皆様が今、契約を捕まえて祈っていれば、次にくる答えと未来が保障されているのです。それで恐れる必要がありません。
 
■ もう一つの重大な保障があります。皆様が祈ったことは一つももれなく答えで帰ってくるはずです。ヨハネの黙示録を見ると、皆様が祈ったことは全部うつわに入れて、神様の前に持ってあげられるとされています。皆様が子どもや教会のために祈ったことは、全部うつわに入れられています。正確に答えられます。こういう 保障を受けたのです。より驚くべきことは、神様の子どもは死ねばより働きが起きるのです。来世が保障されています。その程度ではありません。皆様が信仰生活をしていて死ぬならば、子孫に驚くべきみわざが新しく始まるのです。
 
■ 率直に私は私の父が亡くなった以後に、答えをよりたくさん受けました。亡くなったことが良かったということではないのですが、どうしてか答えをたくさん受けました。父が亡くなったので、父の時代は行ってしまい、新時代が開いたのです。私は以前に、私のために常に祈る母が亡くなれば、誰が私のために、あのように祈るのか? という一抹の錯覚をしていました。それも私の心配でした。私の母が亡くなってから2〜3年になったのですが、いままでより多くのみわざが起きました。パウロが死んだ後に本物の弟子が起きました。それを見ながら、信者は死んでもみわざが起きるのです。
 
■ このように5つのことを確実な保障として受けたゆえに心配する必要がありません。 長老たち、執事たちが事業しながら、自分の事業がひょっとしてこうかと考えないようにしましょう。皆様は勇敢に契約を捕まえて祈りながら、出て行くように願います。5つの保障は確かです。暗闇の勢力が皆様を触ることができないように運命が変わってしまったのです。皆様は現在、この席に座っているけれど、神様は聖霊で皆様を導いていらっしゃるのです。祈る瞬間に天の軍隊を送って、あらゆる所にあらかじめ答えられます。ですから心配すると、このような部分をたくさんのがすようになります。その程度ではありません。皆様の未来に対する保障は既に受けたのです。祈りだけすれば、その祈りは全部、積まれるようになります。10年前に祈ったことも今、答えられます。
 
■ 私たちの死後には、より大きい答えを受けます。それで、私たちは死を恐れる必要がないのです。年を取れば死が来るのですが、恐れる必要はありません。皆様は未信者が死ぬのを見たことがありますか? 一様にそっくりです。震えながら恐れます。聖書には悪魔が引っ張っていくと言っています。話しができるならば、ある人々は悪魔が自分の家に入って、私を引っ張っていくので、私を助けてくれと言います。ある救われていない信徒は、癌になって、病院に横になっているのに、私が話すので、先生、私を助けてくれと言うので、尋ねたら、悪霊が私の周囲をめぐっていると話をしました。それで、それが目に見えるのかと尋ねたら、自分を完全に取り囲んでいると言いました。 'それで、十字架をつかみなさい。あなたはイエス・キリストで救われるのだ'と言いました。
 
■ 本当に福音を持った信者の死を見たことがありますか? 全く同じように話します。神様が天使を送って、私を連れていくので賛美を歌ってくださいと言います。だから、私たち信者は死んでも心配する必要がありません。もし皆様の中で、しきりに心配が生まれて、不安な人がいますか? また、そのようなことがあれば、どうしますか? イエス様は 'あなたがたは、心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい' 3節に '来世が準備されているので心配しないで。わたしが行けば、助け主、聖霊があなたと共にいて、あなたを導くので、心配するな。わたしはあなたに真の平安を与えます。世の中があたえる平安と同じではありません'
 
■ 皆様、しきりに心配が生まれるのでしょうか? 聖書は、このように話しています。 '何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。'と言われました。 'そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。'
 
■ 皆様の中に、しばしば恐れが生じる人がいますか? ヤコブ4:7 '悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。'立ち向かえば、逃げるようになるはずです。皆様の周囲に迫害がおきて、周囲の人々が恐ろしいでしょうか? マルコ10:29〜30に '地で100倍の祝福を受けるようになり、来世にも祝福を受けるようになるはずです' 皆様、家庭に問題があるのでしょうか? ヨセフは、家庭問題ゆえに祝福を受けました。皆様の夫や妻ゆえに悩みになるのでしょうか? ホセアは浮気する妻ゆえに祝福を受けました。私たちは心配する必要がありません。神様が、私たちに向かって準備しておかれたことは完壁なために恐れてはなりません。
 
■ 今日、神様が救われた伝道者にあたえる結論です。 '恐れてはいけません' 迫害者を恐れるのですか? その迫害者のいのちを治める神様です。神様はあの野の草と雀も養われるのに、雀より劣るのだろうか? 皆様がどんなに思わしくなくても、草や雀よりは尊いのです。神様は野の草も養って、雀一匹も神様の許しなしでは落ちることがないと言われました。まして神様の子どもが、それも伝道者なのに何を恐れるのでしょうか?
 
■ 私たちは恐れが生じて問題が生じれば、心配に陥ります。今日、重要な契約を捕まえることを願います。問題がくれば、どのようにしなければならないのでしょうか? 問題の中で完全な喜びを捜し出さなければならないのです。それをさがすことができなければ、問題の中に陥って、心配しながら、からだが病気になって、いたずらに苦労します。問題の中で完全な喜びを探すということはなんの話でしょうか?
 
■ ヨセフが奴隷へ行った時、どのようにしたのでしょうか? '私はここで完全に成功して、完全に経済を学ばなければならない!' 監獄に行くようになった時は、どのようにしたのでしょうか? '私はここで完全に祈って 神様の答えを受けて監獄を変化させて、重要な人に会うことができる機会にしなければならない!' と考えたのです。ジョン・バンヤンは16年の監獄刑を受けて、そちらで喜びを捜し出しました。もし私が16年間、監獄の中にいるようになるならば、最高の作品を書く。それで書いたのが、天路歴程です。恐れる必要がありません。問題がきても恐れる必要がないのです。
 
■ ダビデを見ましょう。あまり困難がくるのにも、困難がくる時ごとに大きい祝福を捜し出しました。単純な答えを捜し出したのではなく喜びを捜し出したのです。自分の息子に追われて通う時も、喜びを捜し出しました。 '幸運だな' それが何が幸いでしょうか? 'これを知らなかったら、大変なことになるところだったな! アブシャロムを手助けするあいつらは、こういう事が起こらなかったとすれば分からなかったが、このまま私が 死んだとすれば大変なことになるはずだったな!' 重要な発見をしたのです。皆様が困難や問題がきた時、答えだけでなく、そこから神様の驚くべき計画と喜びを捜し出しましょう。
 
■ ある人は、私にこういう告白をしてきました。夫がお金だけできれば、いつギャンブルをするのです。それも取ってくることもなく、いつも負けてきました。そして、暇さえあれば、酒だけ飲むのです。結婚してからなく、元々そうであると言いました。そして、家庭の世話をみることもなく、浮気をして回るということでした。しかし、この女執事が普通ではなかったのです。自分は、神様の前に感謝すると言うのです。なぜそうなのかと聞いたところ、自分は、幼い時、両親が最高だと思って育って、結婚してからは夫が全てだと思って生きてきたと言いました。執事は夫を見ながら、なぜ神様がそのような男の人を自分にくださったのか? と考えるうちに '夫が全てではない。私に全てなのは神様で、より重要なことは私だ' ということを悟ったということです。 '私が生きて、私が神様の前に正しく立たなければ、夫が問題なのか?' と言いながら感謝を発見したということでした。その時から祈り始めたら、神様がこの執事にものすごい答えを下さったのです。名前は話さないけれど、そして開始したのでした。私がこの夫を信じることでなく、神様を信じるべきだと考えたということです。
 
■ この執事の子どもが一名いたのですが、その子を育てながら勉強したのでした。自分の話しでは、やっと司法試験を合格したというのですが、今、弁護士になっています。しかし、そうなる以前に、夫が帰ってきたのでした。この夫が驚きながら話したのです。 '私が全国を回ってみたが、あなたのような女を見たことがない。あなたは本当に良い人だ。赦してくれ’ と言ったのです。それで、執事が話したのが '私はあなたを赦す資格がありません。私がもっとよくしてあげたならば、あなたがそうしなかったのに、私がそれをよく知らなかったのに。神様が私にキリストを知るようにさせてくださって、娘にしてくださったゆえに、私はあなたのために祈っただけです.' この話に夫が完全に膝を屈したのでした。キリストの前に、完全にひざまずいたということです。
 
■ このようにして証しが出てくるしかありません。現在、私たちのタラッパンメンバーです。私がその告白を聞きながら、信仰の力ということは、どれくらい強いかということを、もう一度悟るようになりました。私達が心配することがあるでしょうか? 雀も養われる神様が、私たちを導かれるのに、私たちは祈って力を得ましょう。5つの保障を持って行きましょう。聖書には、これは心配しなさい、あれは心配するなではありません。なんにも心配するなと言われました。すべての心配を主に任せなさいと言われました。あるものは残して、任せるのではなく、全てのものを任せろと言われました。
 
■ 皆様は血の値で買われた神様の子どもです。数千年前に預言された、創世前から用意された、救われた神様の子どもです。この福音を正しく悟って持っていれば、すべての問題は解決するのです。つめの先も恐れる必要はありません。もし問題が来たら、そこから神様の答えと喜びを捜し出しましょう。この結論をイエス様が弟子に話されたのです。恐れてはなりません。こういう全てのものを含んで、恐れてはならないと言われました。この祝福を本当に捕まえて、一生、答えを味わうようにイエスの御名でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。真に神様の子どもになったことを感謝申し上げます。真にこれから、この祝福を味わうようにさせてくださることを感謝申し上げます。私たちは、心配する必要もなくて、恐れる必要もない神様の子どもになったことを感謝申し上げます。これからは、周囲の家族と民族を生かす証人になるようにさせてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


 2部/ 主は王である
(詩99:1〜9)
  
■ 私たち学生達は休みなので、本も読むようにしましょう。有名な本は福音にあって、早く読んで見なければなりません。指導者に対する本も読んで見なければなりません。小説のようなものも、あまり読まないのはいけません。そのようなものも、休みの時、補充して読んで見るように願います。小説のようなものは、あまりに長くて、時間があまりに奪われます。それで、私は短編小説のようなものを読んで見たりします。私がかなり以前に読んでみた小説です。ある海辺の家族が出てきます。ある女の人が網を縫っており、乳飲み子が一名いて、小さい子どもが一名います。大きい娘は小さい子どもを背負っています。その家の前で、おかしな男がその家をずっと見ているのでした。だから、この家族がとても不安なのに、気づいていないふりをして、そのままいたのです。人が変に見えたのです。来ることもなく、行くこともせず、岩に座っているのでした。その家だけ見つめていたのです。どれくらい異常でしょうか? 夕方になったので、夫が帰ってきました。夫に話をしました。今日、一日中、あの男が座って我家だけ見つめているので、私達が怖かったと話したのです。あなたが行って話して、あっちに行くようにしてくれと言いました。それで夫が行ってみたのです。お互い話をしていて、その人が、その男を連れてきたのです。とても腹を空かせた人であるから、食べ物をあげなさいと言いました。どれくらい腹が空いていたのか、頭を上げることもせず、みな食べたのです。夫婦と子ども三名が見ていました。そのようにしながら、話しはむかしに戻ります。
 
■ ある村に夫婦が住んでいました。子どもが生まれたのですが、この夫が船に乗って出て行って帰ってこないのです。死んだようです。死体を探しても出てこないのです。長い歳月が過ぎたのに、帰って来ないのでした。ところが、この女の人は、子どもを育てながら、夫が帰ってくるのを待っていたのでした。その町には、とても良い男の人がいました。この人が、この女の人にいつもお願いをするのでした。あなたの夫は死んだ。三年が過ぎたのに、帰ってこないでしょう? だから、この子をどうするのか? 私はあなたと結婚したい。そして、あなたの子どもを私が育てる。何度もお願いをしたのです。もしあなたの夫が帰ってきたら、私は静かに戻ると話したのです。夫は永遠に帰ってきませんでした。それで結婚をして、子どもが2名生まれたのでした。先の夫との間に生まれた子は、妹の世話をする程に大きくなっていました。そして、歳月が何十年か過ぎたのです。岩の上に座ってこの家をずっと見ていた男が、むかしに死んだと考えた夫でした。元の夫が帰ってきたのです。皆様ならば、どうするでしょうか? 誰と暮らすでしょうか? 新しい夫とは、現在子どもが2名も生まれていて、家庭を持って暮らしているのです。2名が、本当に困ったのです。居酒屋に行って酒を一杯飲みに行くことにしたのでした。居酒屋に行ったら、過去の夫を近所の人々が分かったのです。二人がどうしたらよいのかわからないのです。それで村の神父に尋ねることにしたのでした。神父が言うとおりにしようとなったのです。それで決定をしたのです。そして、神父のところに行くのが終わりの場面です。マークトゥエインの '帰郷'という小説です。そのような小説も読んでみるように願います。
 
■ 私は一度、こういう本も見ました。ある男の人が、夜に旅行に行きました。日が沈めばガラスが鏡のように人を写すでしょう。とてもきれいな女の人がいました。ずっとガラスでその女の人を見ていました。直接、見たり、ずっとガラスを通じて見たりしたのです。ガラスの中で、その女の人と目が合うこともありました。いままで見た女の人の中で、そんなにきれいで、良い女の人を見たことがなかったのです。ところが、自分より前の駅でおりたのです。本当についておりて行って、話しかけたかったのですが、全くそのようなことがないように座ってがまんしたのでした。弟がきて呼んだのですが、その声が、涙が出る程に美しいのでした。その時から、その女の人のことをしばしば考えていました。ずっと頭に浮ぶのでした。美しいという話をしなければならないのに、することもできなく、後悔しながらホテルに行ったのでした。山を見つめながら休息して、コーヒーを一杯頼んだのです。ところが、コーヒーを持ってきた女の人がまさに、その女の人でした。正しく導きを受けたのです。驚く境地です。それでも、一言も言えないのです。その女の人を見たくて、コーヒーをずっと頼んだのです。それでも、一言も言えません。この女の人も何か感づいたようなのですが、口に出して言えないのでした。熱心にコーヒーを持ってくるのでした。旅行をみな終る時まで、一言も言えなかったのです。それで家へ帰らなければならない時間がきたのです。そのような心理的な内容が出てきます。その人が帰る時に殆どなったのですが、近くで事件が起こったのです。映画館が火事になったのです。映画館が火事になったので、人々が火を消して、見物するでしょう? 映画館のなかで人々がたくさん死んだのです。死体を一つずつ取り出します。ところが、この人が永遠に忘れることができない衝撃を受けたのです。死体の中に、その女の人がいたのでした。一言も対話をすることができなかった女の人が、映画を見ていて死んだのでした。どのようにするのでしょうか? 一言でも言っておくべきだったのに、後悔しながら終わりになります。川端康成が書いた「雪国」です。ノーベル賞を受けた作品です。格別なものでもないのに、女の心が、かと言ってノーベル賞を受けたのです。
 
■ 私は米国へ行ったり来たりしながら、映画を一つ見ました。飛行機のなかで映画を見せるでしょう。花咲く春が来ればという映画を見ました。音楽する人の短編を描いたのです。見たら、人生があのように無価値なことにも人生を捧げて、あのように苦労するのだな、という気がしました。私たち学生達が、休みの時、本をちょっと読んでみなさいということです。この時間は眠いので、眠気覚ましに私が話をしました。最も大きい問題は、メッセージと私と現場が一致しないことです。これが信仰生活で難しいのです。神様のみことばと私と現実が一致しないので、信仰生活が良くならないのです。神様のみことばと私と現実が一致すれば、信仰生活が面白いはずなのに、それが良くならないのです。そうなれば、信仰生活の味がよいでしょう。ここに対する答えを一番よく与えた本が詩篇です。それなら、私たちは今日、このみことばを見ながら、詩篇にはどんな信仰生活が現れているのかを知っているべきです。いくつかのことが入っています。これをまず皆様が早く理解しなければなりません。
 
■ 詩篇の中には、私たちの知識、感情、意志がみな表現されたことが記録されています。私達が信仰生活の祈りの答えが良くならない理由は、この三つが良くならないからです。知識は悟りでしょう? 情とは感情です。意とは意志、活動を言います。こういう部分がよく記録されているのが詩篇であるから、詩篇をよく読んでいきながら、悟って行かなければなりません。感情的な部分は良いのに、悟りがだめなのです。中心は良いのに、考えが違うのです。ある人は考えは正しいのに、中心が違っているのです。ある人は、悟りも良くて、中心も良いのに、全く行動がだめな人もあります。だから、この三つを合わせたことを表現したのが詩篇です。あなたがたが、即、こういう部分をキャッチしなければなりません。この福音は本当に全てのだという悟りがなければなりません。この福音によって、真の感謝が出てくることが情です。それなら、私は福音のために譲歩も して、耐えるということが意志です。この三つを合わせれば、祈りの答えが正しく来るのです。これが詩篇にたくさん記録されています。それで、私達が詩篇を勉強しながら、みことばを聞きながら、これから私達がどのように祈りの答えを受けるのかを、たくさん捜し出さなければなりません。詩篇はまた重要なことがあります。詩篇を読んでみれば、150篇を見れば、救いに対する感謝がずっと反復されています。救いに対する感謝という単語がずっと反復して出てきます。そして、祈りと賛美がずっと反復して出てきます。皆様が今日、この部分をキャッチできなければ困ります。
 
■ ある方が、牧会が良くできないのです。いた信徒もどんどん出て行くのです。牧会をするのが、あまりに苦痛なのです。それで、その親戚がこういう話をしました。タラッパンの訓練を一度受けてみなさいと言ったのです。柳光洙牧師の教会の話か? そうだとしながら、あなたは伝道もなって、教会も復興になるかもしれないと話したのです。まずテープを百個程度、持って行ったのでした。この方がテープを聞いてみたのです。お互い対話をしながら、この方がとても重要なことを話しました。全く同じ話しだけ反復すると話したのです。本当に正しく見たのです。しかし、その人は救いと関係ない人です。これが詩篇です。皆様、私は今日、昼食を食べました。夕食を食べます。特別な変わった状況がない限り、明日も食べます。昨日も食べました。反復ではありません。これが問題です。皆様、聖書は救いの話しかありません。救われることができなかった人が聞けば、これはおもしろくない話です。救われた人が見る時には、日ごとに新しいのです。全く同じ話のように見えるけれど、日ごとに新しいのです。そして、目が日ごとに新しく開くのです。この部分をキャッチすべきです。その牧師は永遠に苦労するでしょう。悟ることができなかったのです。
 
■ 魚は、水をずっと飲むのですが、そのようにしなければならないでしょう。もし、魚が水が負担になるなら、それは死んだ魚です。そうでなければ、死ぬ何秒か前の魚です。詩篇でそれをキャッチしなければなりません。何の話なのか分かるでしょうか? 詩篇で賛美がずっと反復して出てきます。すると、皆様が日ごとに新しい賛美が出なければなりません。それなら、私が礼拝する時間、祈る時間、賛美する時間が、どれほど尊いものかが分かるようになるのです。これが詩篇の内容です。詩篇が私たちに教える信仰生活です。それで、私達が詩篇を150篇までみな見ようとするなら、あまり長くかかるのですが、選択したのです。今日、皆様がこの部分を理解して、新しく悟るならば、新しい生命運動がずっと開くはずです。
 
■ 幼い子どもが母乳を飲むのに、また飲んで、ずっと飲んでも嫌いだと言いません。ずっと飲みます。ところが、子どもは育つのです。人々は知らないことを言います。福音だけずっと話せば、救いだけずっと話せば、良いのだろうかと話すのです。色々なことがないかと言います。それは偏食だと話します。私が一度は全州に招かれました。皆様はよく知らないけれど、復興させて、たくさん集めて、献金を受けるための集いが多くあります。そのためには、有名人を呼ばなければならないのです。そのような中の一名として、私を呼んだのでした。行ってみると、そのような集いでした。講師もなん名かいたのですが、その中の一名が私でした。使命が生じたのです。それで、講壇に立って、その日話をしました。なぜ福音を正しく知っていなければならないのか、福音をなぜ伝えなければならないのか、どんな祝福がきているかを話しながら、私が話しました。こういうことする必要はないと言いました。皆様が本当に福音を知って、祈って、伝道して、家庭を生かして、教会を生かしましょうと言ったのです。ただ福音ならば、あらゆる問題が終わると言いました。そうでしょう? 信徒がわかったかは分かりません。司会する方は、気分が悪いから、それとなく司会をしながら、私を牽制するのです。皆様、偏食すればだめだと話しました。それで、私が祝祷をしながら話しました。母乳は偏食ではないと言いました。皆様、母乳の中には、全部みな入っています。母乳から出てくることが、単なる水のように見えるけれど、その中にみなあるのです。それで、どんなによく生まれた人も、お母さんおっぱいを飲むことができなかった人は、一生、健康が良くありません。お母さんのおっぱい中には、あらゆる栄養素が入っている総合ビタミンです。皆様が福音の中に深く入っていけば入っていくほど、完壁な答が来るのです。皆様の産業と未来は永遠に崩れないのです。神様の大きい祝福です。
 
■ レムナントに対する使命を持った私たちのウ・スヨン長老の同期のチョ・チャンハク執事に米国で会いました。その方にこういう話をしました。あなたは本当に良い牧師に会ったと言いました。私たちのホ・イル牧師の教会です。そして、こういう話をしました。永遠に滅びないことがあると言いました。福音の内に完全に入っていくことです。その話しだけその方にしました。私の話がわかることができなければ、率直に聖書はおもしろくありません。そして、聖書を持って通ってみても、自分とは関係ありません。だから、この話を悟れるならば、聖書が祝福の報告になるのです。読んだことが全部、答えになります。すると、皆様が教会にきて礼拝をささげたことが、全部、答えで来ます。このようになれば、信仰生活する味がよいのです。今日、皆様にあらゆるみことばが成就することをイエスの名前でお祈りします。
 
■ すると、大きい2番目に、詩篇におもにどんな内容が入っているのでしょうか? 皆様が受ける祝福です。五つの内容が入っています。それが詩篇です。すると、私達が見いだして味わわなければなりません。詩篇150篇の中には、五つの大きい祝福が入っています。一番目です。暇さえあれば出てくることがあります。私たちをエジプトから導き出した主。それが詩篇の中に入っています。この契約を捕まえた人は、荒野で奇跡が連続的に起きました。話さなくても知っているはずです。2番目です。ほとんどダビデの賛美です。ペリシテを中心にして、地中海時代に起きたあらゆる問題を解決した人々が記録した答えです。三番目には、なかで不信仰者がきて、信仰者の内部の葛藤問題、そこで信仰人が勝利したということです。詩篇を読んでみれば、いつでも二人を対照して出てきました。幸いな人、悪い人、このように対照して出てきます。この世には、信仰人と不信仰人、教会の中には信仰の人と不信仰の人がいるのですが、信仰の人が勝つということです。そして4番目の話が出てきます。捕虜から帰ってきたのです。私達が捕虜から帰ってくる時、夢を見ているようだった。こういう話が詩篇にたくさん出てきます。皆様が神様の契約を受ければ、そのような驚くべき祝福を受けることができるという神様の約束です。そして、救われた子孫の賛美。詩篇には、聖歌隊の名前がたくさん出てきます。言わば、皆様、聖歌隊員、指揮者、こういう人々が詩篇に見れば、名前が記録されているので、その名前です。皆様が、この契約を正しく捕まえようとすれば、レムナントと皆様の未来の答えが確かにあるようになるはずです。やさしいのです。記録しないでも分かるぐらい、これが皆様が受ける祝福です。
 
■ すると、今日の本文を見れば、この祝福をどのように受けるのでしょうか。重要なことが出てきました。2節に '主はシオンにおいて.' と言われています。皆様が契約をかならず、信仰でつかまえるように願います。礼拝する時、この祝福が回復します。皆様、礼拝する時、どのようなことが行われているのかを知っているでしょうか? マルコのタラッパンで礼拝した時、聖霊が働かれました。マルコのタラッパンで礼拝した時、十五ケ国の門が開きました。私たちは、この席に座って時間を送ったかの様に見えるのですが、みことばは成就するのです。私たちは、この席で礼拝しているのに、全世界に隠された弟子が備えられるのです。使徒の働き2章を見ると、現場にみわざが起きるのです。私たちは、この席で本当に礼拝しているのに、どんなことが行われるのでしょうか。宣教の門が開かれるのです。暗闇の文化が崩れるのです。それなら、礼拝をささげない理由がありません。これを知っていれば、千人、万人に会うより貴重な時間です。
 
■ 米国のある有名な国会議員のことです。聖日に選挙遊説をするのに、行かないと言いました。礼拝をささげにいくべきだと言ったのです。礼拝一度、ささげないからといって、神様が罰を与えられるのではありません。皆様が今日、礼拝一度、ささげなくて、家で寝ているからといって、神様が怒って罰を与えられることはありません。しかし、この方は私はクリスチャンで、神様の子どもなのに、礼拜を行なうほど重要なことはない。それで、下の人たちが、それはだめだと言ったのです。今日一日しかないのに、行って挨拶をしてこそ、票が得られるのではないかと言いました。今、議員が行かなくても、牧師が理解するはずだと言いました。ところが、その議員はそうではないと言ったのです。私は礼拝することが重要だ。そして、秘書に報告をさせました。代わりに行って挨拶をしろと言ったのです。礼拝をささげに行ったとせずに、重要な先約があって、行ったとしろと言いました。秘書が行って話しました。他の人はみな出て選挙演説をするのに、秘書が出て、申し訳ないと言いました。私たちの候補は、まず約束したことがあったゆえに、それを取消すことができなくて、そちらに行ったと言いました。ところが、これがなぜでしょうか。多くの有権者が、約束を守ろうとこなかった、普通の人でないと、むしろ多くの票を得たのでした。皆様が礼拝する時間に、どんなことが行われているか知っているでしょうか。マルコのタラッパンとアンテオケ教会を見ると、さっき話したとおりに、必ず七つの事が礼拝する時に起きます。信じるように願います。単に礼拝をささげようと来るのではなく、この祝福を受けに来ると考えましょう。こういう途方もない事が、どこで。シオンにおいてと言われています。長老達、心に少しも心配しないで。あなたがたが事業を完全に置いておいても、皆様が聖日に礼拝する時間に、天の軍隊が動員されるはずで、聖霊が働かれるはずです。
 
■ 私は今でも想い出します。私がいた教会の執事に、チョン・デス執事という人がいました。私が知っていることでは、中学校しか出ることができなかったのです。家が貧しくて、この方が幼い時から、整備を学びました。釜山で一番大きい工場で整備工の求人がありました。試験を受けに行ったのです。志願者がとても多かったのです。最後の面接をしに行きました。志願者は多くて、人はすこししか採用しません。偉い人々が座っていました。こういう話し、ああいう話しを尋ねるでしょう。それで、私たちの執事に最後に話すべき言葉があるかと尋ねたのです。執事が話しました。私はクリスチャンです。聖日に教会に行かねばなりません。むかしには、聖日に仕事をしました。聖日に休むようにだけしてもらえるなら、私は休暇も必要ありません。ボーナスも必要ないと言いました。ですから、偉い人が腹が立って、あなたはまだ就職もしていないのに、聖日の話をするのかと言いました。もし採用されたらということだと答えました。偉い人が、そして私たちの会社には、執事、長老がたくさんいるのに、そのような人々は何にも言わないのに、なぜあなたはそうなのかと言いました。その人々は、みな聖日に教会に行かずに、仕事をして、休む日だけ教会に行くのに、なぜあなたは、特別にそうなのかと言ったのです。その方たちは、非常に信仰が良いからで、私は信仰が弱いので、聖日が抜ければ、死ぬと言いました。それで、執事が出てくる途中で聞いたのは、社長が言った言葉です。あの人は本当にイエスを信じる人だと言っていました。皆様、未信者が皆様を見て、からかっていても、みな見ているのです。
 
■ 皆様が世の中に行って、未信者と同じようにしていると、喜んでいるかのようにしても、内心は良くないのです。だまされてはなりません。皆様が信仰を守れば、表面では雰囲気が良くないと言っても、内心は尊敬しています。その執事が就職できたのです。どれくらい仕事を良くしたか分かりません。教会学校の部長をさせたのに、明け方から出てきて掃除をしました。私はそのような人を見たことがありません。冷蔵庫を買いに行く途中で思い出したということです。私たちの牧師、親も冷蔵庫がないのに、私が買って良いのだろうか。この人が中心がこういう人です。ですから、会社の中にみわざが起きました。後ほど会社の中で見ると、完全な酒好きに伝道したのに、酒好きが完全に変化してしまったのです。はじめにきた時見たら、酒好きだと目につきます。顔中に傷だらけです。後ほど見ると、人が変わってしまったのです。洋服を着ていました。人が恵みを受ければ、顔の色合いが変わります。人がすっかり変わってしまったのです。全くこれがなぜでしょうか。社長が呼んだということです。とても有難いと言いました。なぜかと尋ねたら、あなたは仕事も良くするけれど、とても有難いと言いました。あの天下の酒好きが自分の弟だと言ったのです。他の所に話すなと言いました。弟があまりに心配をかけたので、会社に連れてきたが、君に会って変化するのを見たので、私も教会に行ってみたいと言ったのです。皆様、私が礼拝する時、働きが起きたことの説明をすべてしようとするなら、これだけ持っても何日もしなければなりません。皆様が全てのものをみな放棄して、聖日に友人に会うことも放棄して、会社も放棄して、ここに座っているのに、そのような祝福を受けることができないならば話になるでしょうか。
 
■ 今日の本文3節を見ましょう。 '大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ' 私達が本当に礼拝堂で賛美を正しくする時に起きること、詩篇22篇3節に '賛美を住まいとされる主' 皆様、一度でもひとりで神様の前に恵み深く賛美してみたことがあるでしょうか。一度もない方達は一度してみましょう。本当にみわざが起きます。賛美。そのような意味で集まって、主を賛美しましょう。この時、みな回復します。4節を見ると '王の力は、さばきを愛する.' 私達が信仰生活をしたり、社会生活をする時は、また神様のみことばを持ったが、公義で神様は私たちを愛されると記録されています。私達が恵みを受けたとして、あまり不公平にしてはなりません。公義で神様は、その行う者に門を開けてくださると言われています。どのように、この祝福を受けるのでしょうか。5節、9節を見ると 'その足台のもとにひれ伏せ'と言われています。ひれ伏すということは、ひざまずくということです。皆様がだれにひざまずくかが重要です。それは、私達が本当にひざまずいたということではなく、誰の前に降参するのかが重要です。それは何を発見したか、その話です。主にひれ伏せ。あらゆる暗闇に勝って、私たちを救われた主の前にひれ伏すために、私たちは聖日ごとに来るということです。6節には何となっているでしょうか ' モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。' 話を終えます。救われた皆様が、この秘密を知って祈る時、どのようなことが行われるのでしょうか。私は今週に皆様に宿題を出したいのです。定刻の祈りをする時、どのようなことがおきたのか、旧約から新約までさがしましょう。一度さがしてみましょう。私は信じています。そして、聖書ごとに常に神様と同行した、共にした、こういう単語が出てくる人々だけさがしましょう。驚くべき 事が行われます。ダニエルは、定刻の祈りをしていたのに、神様はダニエルが行く死刑の場にまず行って、獅子の口をふさがれました。目には見えないことです。皆様は気落ちせず、疑わず、定刻の祈りをする時、皆様の事業の場に、家に、現場に、神様が目に見えない天使を送られるのです。聖書を見ましょう。ペテロが祈る 時間にコルネリオの門が開きました。パウロが祈る時間に、マケドニヤの門が開きました。パウロが祈る時間に '恐れてはならない。パウロ。あなたはカイザルの前に立ちます.' この祝福を受けることを願います。これは私が今、説明しているのではありません。証ししているのです。そして、私が今、皆様の前に知識を自慢するに値することはありません。神様のみことばがあまりに正しくて、愛するために、これを皆様にせつなく話して、他の人が知らなければならないと考えているのです。それでこそ、私たちは勝利できるのです。この祝福が必ずあるのです。
 
■ 主は王である。どれだけ信じるのでしょうか。これを信じない人がいるのです。すると、恵みが必要ありません。イエス様が地獄の話をされました。地獄に行った金持ちが、水一滴だけくださいと言いました。だめだと言われました。なぜ水一滴だけくださいと言ったのでしょうか。皆様、本当にお腹が空いた人々は、何と話すのでしょうか。本当に腹が空っぽな人々は、食事のくださいと言います。むかしに乞食が多くいました。それは腹がいっぱいな人です。本当にお腹が空いた人は、食事の一粒だけくださいと言います。この頃の学生達は知らないでしょう。韓国動乱(朝鮮戦争)が起きて、私たちが幼い時は、朝になると、道端に乞食が多くいました。ご飯をもらいに通う乞食がいたのです。家に入って、おばさん、ご飯一ぱいだけください。それは、お腹が空いている乞食です。母がいず、親がいなくて、本当にお腹が空いた子どもは、食事を一粒だけくださいと言います。ところが、この金持ちが水一滴だけくれと言いました。どれくらい喉が乾いたのか、一滴だけくれと言ったのです。与えることができないと言いました。なぜでしょうか。世の中を生きていく間に、神様が必要ないと言った人です。そのように神様の祝福を受けろと言ったのに、必要ないと言ったのです。私は神様の恵みが必要ない。すると、 どのようにしなければならないのでしょうか。神様の恵みが全くない所へ行きなさい。そちらが地獄です。神様が必要ないのでしょうか? すると、神様の恵みが全くない生活を生きなさい。自信がありますか。神様が必要ない。神様がどこにいるのか。このように話した人で、滅びなかった人はいません。共産主義、神様がどこにいるのか。70年後に完全に滅びてしまいました。ニーチェ、神様は死んだと言いました。精神が狂いました。牧師の息子です。どうしていったのでしょうか。神様が王であること。皆様は信じられるでしょうか。神様が皆様に恵みをくださるはずです。主が王である。これを本当に味わうのでしょうか。超越するみわざが起きるはずです。皆様の事業、職業、学業に超越するみわざが起きることを願います。この祝福が皆様にあることを、イエスの名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。今日、重要な答えの時間になるようにしてください。絶対にのがさないように、霊的な目を開けてください。それで、私たちの聖徒たちが勝利するように、主の民として生きるようにさせてください。私たちの長老達、按手執事達、勧士たち、役員が、代表的な神様の祝福を受けるようにしてください。一時代の伝道運動に参加したあらゆる方達に、時代的な答えを与えて下さい。レムナントを生かすこの方たちに、産業に、記念碑的な祝福を与えて下さい。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン