2005年8月7日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/パリサイ人と取税人のたとえ
(ルカ18:9〜14)

・私たちの長老に国会議員をしなさいと言われたら、私はその方たちはできる力があると思います。しかし、国会議員に、今、柳牧師がする説教をしなさい、そして、インマヌエル教会の長老がすることをしなさいと言った時、果たしてできるでしょうか? と考えました。一生の間、1年中ずっとしなければならない聖歌隊をその方たちにしなさいと言った時、果たしてできるでしょうか? 外には立派な女性もたくさんいます。それで、果たしてその方たちが本当に福音を知って、一生こういう賛美ができるでしょうか? 私は出来ないという気がします。それで、その理由を持つ方々が、今日もこの礼拝堂に集まったのです。皆さんに必ず申し上げたい話は、皆さんが今、外に出て行って多くの活動をすれば、すばらしい人々に会えます。また、皆さんが多くのことをしていれば、良いことを発見することもできます。また、あちこち皆さんの趣味によって動くならば、おもしろい所も本当に多くあると思います。しかし、私はその全てのものを合わせて、それより価値あるのが、礼拝だと考えるべきで、それが礼拝です。そうでなければ、礼拝をささげる理由がありません。時々ささげれば良いのに、なぜ、毎週ささげるのでしょうか。それくらいの価値しかないならば、一ケ月に一度や、一年に二度すれば良いので、何でそのように毎週行ってささげる理由があるのでしょうか。

・今日、皆さんが、主がなさったみことばに耳をよく傾けなければなりません。イエス様が事件を説明されたのではなく、比喩を言われたのです。事件の説明も重要ですが、さらに重要なのは比喩です。なぜなら、事件の説明はこういうことが起こったから、このようだと説明するのです。またあんなことが起こった時は、あれはああしたのだと説明するのです。しかし、比喩というのは、そうではありません。話す人が、私がこの話は必ずしなければならないと思って話すのが比喩です。子どもたちが学校に行くのに起きて顔を洗いなさいということは重要ですが、そんなに重要なのではありません。しかし、親が子どもにこの話は必ずしなければならないと考える時には、時間を作って比喩を言います。誰かがこういう場合には、このようにしたと比喩を出しながら、わかりなさいと話すのです。それなら、イエス様の比喩は、重要な比喩になるのです。何の比喩なのでしょうか? 今日、私たちが信仰生活する中で、最も重要なイエス様が言おうとされるみことばを、ここで発見しなければなりません。しばしばあることを比喩で言われました。最高の高級人材であるパリサイ人と、最下位の人材である取税人、二人を比喩で言われました。皆さんがおわかりの通り、パリサイ人を米国で言うならば、国会常任議員こういう人です。韓国で説明しようとするなら、国家の功労者であり、高級公務員であるこういう職責がパリサイ人です。私たちはもうあまりにもパリサイ人を悪く言うので、パリサイ人のようだといえば悪口のように見られるが、本来は悪い言葉ではありません。本来パリサイという言葉は、とても特別な人で区別された人という言葉です。それで、パリサイ人という時には、すばらしいのです。それで、イスラエル国でも特別に区分された人がパリサイ人です。

・それでは取税人とは誰でしょうか? この頃で話せば、内容とは違うのですが、この頃は税金を集める人が一番怖い人ではないでしょうか? その時は、税金を集める人が、とても価値がない人でした。皆さんがすでに知っているでしょうが、その時は、イスラエルがローマの植民地でした。それで、ローマの人々が知恵を使ったのです。町でごろつきのような、とにかく質が悪いような人だけ選んだのです。税金を好きなだけ取りなさい。状況によってとって、半分はローマ政府に出して、半分は君が取りなさい。このように妥協したのです。こうするから、この人たちがどれくらい良いでしょうか。それで、取税人になれば、金持ちになるのです。それで、税金を出せといって、出さなければ告発することができます。取税人ですから。それはローマ法によってできるのです。それからもらって、適当に取って、適当にローマに出すのです。だから、よく引き上げてやるから、ローマ政府が好きで、おさめる金額を自分の好きなように決めて取ることができるために、いくらでも金を儲けられるのです。それで、イスラエル国で一番悪口を言われる人が取税人です。

・本来、マタイはイエス様の弟子になる前には取税人だったということです。それなら、だいたいマタイのフォームが想像できるでしょう。マタイはそのような人です。それで、ユダヤ人、パリサイ人が、あの取銭人と一緒に食事をすると非難したのです。今日の本文にあった通り、信仰生活を上手にして、十分の一献金もよくして、断食もよくする人生が誤っているということではありません。ごろつきのように歩き回って、神様の前で悔い改めをよくするのが、よいことでもありません。今日、イエス様が比喩を言われる中で、とても重要なことを話されました。それが何でしょうか? 皆さんが信仰生活する中で、一番よくする方法が何でしょうか? ここにはレムナントもいます。また、2部は、おもにレムナントを中心にメッセージをしていますが、レムナントが必ず習うべきことがあります。皆さんは信仰生活をして、事業をして、社会生活をしますが、何でも最も重要なのが何でしょうか。それが事実を見ることです。今、イエス様がパリサイ人と取税人の比喩を言われるのは、重要な事実を悟れということです。

・それで、方法を言われているのではありません。誰がどれだけ敬けんで、悪い、そんな話ではなく、イエス様が重要なことを話されるのに、正しく事実を知りなさいと話されるのです。必ず記憶しなければなりません。レムナントもそうで、社会生活する方たちが重要な事実を見れば、気をおとすこともありません。何でも事実を見なければなりません。ヘブル11章の人物は誰でしょうか? 旧約の英雄がすべて書かれています。誰から出てくるでしょうか?エノクからノアから始めて出てきます。今、このような形に出て行けば、全部ほろびるから箱舟を作るということは、信仰生活が上手だったというより事実を正しく見たのです。ヨセフが気をおとさないのは、事実を正しく見たのです。私がこの家に住んでいる以上、我が家だが、私が神様に受けた夢をかなえることができないということを知っていました。すでにヨセフは奴隷に売られるところに、ものすごい夢を作り出していたのです。これが違うことです。皆さん、信仰生活で一番重要なのは、いくら賢くても、違うことは違うのです。ローマ16章の人物を説明する時、すでに感じがつかめるでしょう。皆さんが、だいたい理解をするように願います。

・私にはeメールがやってくるのを、みな整理して秘書がみな私にくれます。また、電話が来たのも、内容までみな記録してくれます。中に特別な内容だけ見ないだけであって、手紙が来たのも、みな整理して私に渡してくれます。とても緊急でない以上、それを月曜日の日にくれます。読んでは、ある人には答えを与えて、ある人には連絡もします。私はその時ごとに感じるものがあります。本当に愛する信仰の気持ちで、同じ気持ちで感じるものがあります。'本当にこのようにして良いのか。'ということがとても多いのです。何をするというのに、私が見る時には違っていることがとても多いのです。そんなことが10ケ中に9ケです。私が見る時、他の心配でなく、この人たちが、このような形で社会生活すれば大変だろうということが心配です。なぜ多くの祝福を置いておいて、違ったことをするかということです。正しいことをしてこそ、正しいのです。私の胸の中にこういう気がしました。'レムナントが福音とともに事実を見る目を教えなければならない。'また先週も見たら、釜山(プサン)事務室に私に電話が来た内容をずらっと整理してファックスで送ってきました。あるものは話にもならないのも多いのです。それも不十分な人が、そのように話せばそうでしょうが、とても重要な方々が送っていることなのに、話にもならないのがとても多いのです。難しいように見えました。

・神様は良い神様だから、皆さんに答えられようとします。神様は、真理の神様だから、悪霊とは違って違ったことは絶対に答えられません。私たちが大変なことをしなくても、事実だけ見ても、すばらしいみわざが起きるのです。今日、このパリサイ人は三つをだましているのです。三つの事実を見られなかったのです。最初、自分自身を見られなかったのです。本当に自分自身を正しく見たとすれば '神様、私は罪人です' このようにしなければならないのに '私は義人です。'このように出てきました。当然すべき祝福の十分の一の献金を私はそれみなしました。断食を正確に話せば、私のためにするのに、神様のためするのでしょうか。'私は断食もする人です。'このように出てきました。これが自分自身をだますことです。だから取税人でも、パリサイ人でも、関係なく、あなたが正しく祈れるでしょうか。また、これは事実は事実を知らないから、他の人もだますのです。このようになれば、他の人々が見ると、信仰生活を上手にするように見えます。どれくらい信仰生活がよいでしょうか? 断食して、献金もよくして、祈る、これぐらいならば良いでしょう。他の人が見る時、そのように考えます。そして、神様もだまそうとするのです。神様がだまされるでしょうか?だから重要なことをのがしているのです。取税人を見ましょう。神様、私は罪人だから、顔も上げられません。これがいっそ義人ではないかということです。

・皆さん、言葉をはやくわからなければなりません。私は時々こういう話を聞きます。タラッパンが最高なのか。そのような質問を聞きます。私たちは、そういう話はしたことがありません。私は一つ尋ねたいことがあります。その質問をする人が、事実を見られなかったのです。ヨーロッパに1週に四個ずつ教会が門を閉めています。いよいよ、米国教会が電気代を出せなくて、門を閉めていく教会が1週に何個かずつ生じています。ただ福音を語ろうと言ったので、タラッパンが最高だと言ったことはありません。それすでに事実を見られないので質問から違っているのです。これは普通の問題ではありません。皆さんが、何を分からなければならないかというと、聖歌隊だ、教師だ、こうしたことをしても、結局、入ったことが出てきます。何が入っているかにしたがって、その人の未来が決定されるのです。いくら夢で、いくら嘘をついて、いくら作り出しても、結局は入ったこと出てくるが他のものは出てきません。それで、皆さんが時間があるなら、子どもたちも、大人たちも、訓練を受けなさいと言うのです。それで、私たちは学生たち勉強もよくして、運動もよくして、みなよくしなければならないのですが、こういう機会にこの真理の福音を根をおろすようにさせるということです。

・そうでない団体を見て私は残念だと思うのです。それは真心です。それで、私たちが正しい、違う、そのような商売意識ではありません。ですから、あなたたちの教会は違って私たちの教会は正しいというオリンピック競技をするのではありません。残念なことです。このパリサイ人を見ましょう。私が一週間に二回ずつ断食しt、十分の一献金をよくするが、私が何で足りないのか…神様どれくらい感謝するのか…このように出てきています。しかし、取税人がきて、頭も正しく上げられないで、人も正しく見つめられないで、天をどのように見つめられるでしょうか。神様、私は罪人です。私を赦して下さい。これがいっそ義人ではないか。イエス様の比喩です。時々、こういう質問を聞きます。必ず、イエス信じなければならないのか。多くの宗教人がする質問です。本当に正しい質問です。しかし、その方がだまさないならば答を与えられます。ところでだますから問題がくるのです。

・仏教もキリスト教も宗教なのに、なぜキリスト教はキリスト教だけ強調するかと僧侶が尋ねます。私はその方の質問が間違いないと思います。しかし、その方が嘘を言わないならば、私は正しい返事をして上げられます。すべての宗教は正しいのですが、人間の霊的な問題の解決は福音でなければできません。あなたが苦しめられているその問題だけは、私たちが解決することができない。私たちの問題を私たちが解決するということが宗教です。私が努力して行くというのが宗教です。私が努力して、修業を励んで、力を使って作り出すということが宗教です。それが99%は良いのです。ところで、最も重要な一つだけがだめです。私の人生の一番重要な問題だけは解決しません。それで、神様が福音をくださったのです。それで、ペテロが言った言葉です。'世界中で、この御名の他には救われるべき名としては、どのような名も与えられていません。'それで、イエス様が'わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰一人、父のみもとに来ることはありません。'有名な僧侶ソンチョル僧侶は、私が仏教を選択した理由は道を探せないからだ、私が道だけ探せば仏教を離れるだろうと話しました。釈迦も死にながら、最後した話は、道を探せと言いました。この方たちの特徴は、嘘をつかなかったのです。次の世代が嘘をつくのです。イエス様は'わたしは道であり、真理であり、真理なのです'と言われました。

・それでは、他の宗教はみな間違いですか? と尋ねられます。他の宗教は同じだと集まるのに、牧師先生だけなぜそうですか? と尋ねられるのです。しかし、皆さんの個人、家庭、未来に本当に嘘を言わなくて尋ねたら、私は正しい答を与えられます。そこに対する残念な比喩です。イエス様の比喩です。どれくらい重要なのでしょうか。皆さんがいくつかの事実は、確かに事実で発見されなければなりません。それで、レムナント大会の時、今回そのように話しました。福音が本当に発見できなければなりません。それで終わるのです。福音がどの程度でしょうか。私と皆さんが思う、その程度ではないでしょう。ヨセフが、その困難の中でも勝ち抜いたんだなあ、モーセが血の契約を悟ったところ、奇跡の門が開いて出てきたんだなあ、そのような程度が福音ではありません。それ以上なのに、それ以外説明にできないのです。福音がどのようなものでしょうか。問題になることが何もありません。皆さんが今、失敗しているのでしょうか。本当に、福音の中に入ったら終わるのです。しかし、これを信じないのです。それが信じられないで、信じないから、ずっと困難がくるのです。

・さらに重要なのは、皆さんが実力をもって、機能をもって、人間性をもって生きてきたが、後ほどどうするのでしょうか。それでは、皆さんの子どもが生きていく間に、一度も困難や霊的問題が来なければ関係ないのですが、くればどうするのでしょうか。皆さんの子どもが、人生を生きていくのに、とうてい自分の力でも勝ち抜けない問題が連続して押しかける時、どうするのでしょうか。それで、未信者は運命だと思って終わらせます。私たちは、今、重要な答を持って体験しなければなりません。福音を事実通り見たら、どんな問題も解決できます。私たちのレムナントに話しました。福音を正しく知るようになる時には、伝道も分かって、それから迫ってくることがみことばです。

・皆さんがみことばを正しく受けた時、確かに霊的に癒されます。皆さんがみことば受ける時、本当に精神がおかしな人以外は、一番に精神に戦慄を感じなければなりません。確かに肉体的な病気も治ります。皆さんがみことばを正しく受けた時、確かに皆さんの事業にも働きが起きます。これがみことばです。ですから、礼拝をささげに来るのです。そうではないならば、率直に礼拝する必要がありません。率直に、その程度でなければ、神様に栄光をどこででも帰すが、何のためにみことばを聞いて、礼拝をささげるのかということです。

・私は、今回、名古屋集会を通して多くの答えを受けました。時々、私にはこういう時があります。いつも答えが来るのですが、とても心にぶつかってくる時があります。そのような答えを今回、受けました。私がタラッパンを悟った日、眠れませんでした。なぜ私たちは伝道するのに、できないのか。伝道がこのように難しいのかということです。しかし、聖書を詳しく見たら難しくなかったのです。一つの現場に集まって、福音運動をしたのです。そうだという気がしました。それで私がタラッパンという単語を捕まえました。それで、マルコのタラッパンから始まったようにすれば良いのではないか、そのままそれが単純に悟れたのではなく、その日の夜に眠れませんでした。人はとても気持ちが良くても眠れません。昔に子どもたちが遠足に行く前日には寝られなくて、列車乗って行くときに寝たりしました。
・今、学生たちは理解できないでしょう。私たちの幼い時は、くつしたに穴があいたら、他の布を貼って縫って履きました。良いお母さんであるほど、よく縫ってくれました。それを履いていたのです。しかし、次の日が旧盆だという時には、お母さんが履き物とくつしたの新しいものを買って持ってきました。合うのか履いてみなさいと言いました。いつも古い靴下だけ履いているので、新しい靴下を履いて履物を履くので、足元がどれくらい楽かわからない。だから、ただ希望は一つしかありません。はやく夜が明けることです。明日になってこそ履くことです。幼い時です。寝られません。明日、良い服を着て、履き物を履いて、旧盆で出て行くと考えるので寝られないのです。私が今まで、メッセージ悟った時ごとに、そんなことが行われました。それで、機能宣教局では、礼拝に最善を尽くさなければなりません。可能ならば、賛美を歌う時間にも、賛美にぴったりでなくても、字幕と資料を送るのも良いでしょう。その話が何の話というと、私たちの聖徒が、この貴重な時間にきて、千金を儲けるより大きい祝福を受けて行かなければならないのです。

・ある時、延世大学で私たちのチームが、私を招待してくれたので行きました。先生の時間がないでしょうが、メッセージだけしてくださいと言われたのです。それで私が大学生の集いだと、少し早く行ってみたのです。この学生たちが、賛美を前で立って歌うのに、単に歌うのではありません。私はメッセージするために座って待っているのに、そばである人が伴奏をして、学生が賛美を歌います。事実は伴奏して一人で立って賛美を歌うのですが、一緒に歌うべきで、他の見方をすれば変です。賛美をずっとあれこれ歌うのに、後にスクリーンで、これまでの大学生の資料が出てきました。そして、賛美を歌う中に、画面に何が出てくるかと思えば、全世界で麻薬で苦しめられる人々、学生たち、路上で死んでいく人々が画面に出てきたのです。私はそれを見ながら、賛美を歌うのに、本当に胸に神様の切なる願いが当たってくるようでした。私が説教しに行って恵みを受けてきました。それが礼拝です。礼拝をささげて、何か本当に神様の働きが起きなければなりません。

・それで、今、このパリサイ人のようになってはいけないことをイエス様が比喩で話されたのです。どれくらい貴重な祝福をたくさんのがすのでしょうか。そして、私たちは伝道と宣教が何かを分かれば、じっとしていてもなっていくのが、伝道と宣教です。私が牧師を集めて、一番最初にこう申し上げました。伝道を本当に分かれば、無人島にいても伝道できます。なぜか、福音を持った人が無人島にいれば、神様は暴風に会うようにしても、人を来させるだろう。それが伝道です。伝道を本当に理解して、宣教を本当に理解してしまえば、じっとしていても働きは始まるのです。それでは、皆さんが宣教師に出て行けといった話なのでしょうか。当然、皆さんはその祝福を味わう資格があります。こういう礼拝が今日、皆さんに始まらなければなりません。

・三番目に伝えたい話があります。この事実を本当にわかれば、できることが一つあります。皆さんが本当に福音はすごいことだな、本当に祈りは全てのものをみなできるんだな、本当にみことばは生きて働かれるんだな、伝道と宣教は時刻表だな。これを本当に分かったら、出てくる単語があります。それが私たちのレムナントにした見張り人です。これをのがしてはなりません。私たちは私自身と全てのものを事実通り見れば、気をおとすこともなくて福音が分かります。

・それで今日、二番目のことは、本当に福音とみことばと伝道と宣教に対する事実を見ましょう。今日、皆さん貴重な席にきたのですが、そのまま出て行かずに、三番目の単語が何か、見張り人になりましょう。それで、私たちのレムナントに祈りで全てのものをみなできるので、祈りの見張り人になりなさい。神様のみことばは確かに全てのものをみな生かすので、みことばの見張り人になりなさい。これから、私たちのレムナントを全部エリートで作らなければならないから、光の見張り人になりなさい。そのメッセージを与えました。私たちが受けた祝福が見張り人の祝福です。私たちは比喩をよく聞かなければなりません。思ってもいない現場と反対になることを比喩をもって、イエス様は説明される時が多いのです。イエス様が道を行ってお腹がすいていたのに、無花果に実があるのか見なさいと言われました。見たら葉はあるのに実が一つもなかったのです。だから、イエス様が実も結べない無花果は必要ない無花果だと呪われました。それも一つの比喩と見られます。それなら、弟子たちがそれを尋ねるべきでした。なぜ実を探されたのだろうか。今は実を結ぶ季節ではないが、実がないのが当然であるのに、なぜイエス様が実を探されたのか。それで、当然のことを見て、何のためにまた呪われたのだろうか。このように尋ねなければならなかったのです。それなら、その日の夜には時代的なメッセージが出てきたでしょう。無花果はイスラエルを象徴する。今、時期が合わないように、イスラエルは実がない宗教に変わった。それで、私がいちじくを呪った。それは、イスラエルが呪われるというサインだ。こういうものすごいメッセージが出てきたでしょう。弟子は、単にそうだろうと思って寝たのです。普通に過ごしてしまったのです。その翌日、行く時に見ると、無花果がかれてしまっていました。その時になって、ペテロがこれが何か、本当に枯れたのだなあ。それで尋ねたのです。なぜ本当に枯れたのか。私たちは、そのような形で信仰生活をよくします。イエス様が比喩を言われる時、神様の重要な祝福を見ることができなければなりません。
・私は、皆さんに今からいくつかの事実は必ず見なければならないことを言いたいのです。皆さんの日課表の中で、祈りの祝福を味わうのは、事実的に見なければなりません。皆さんの日課表の中で、神様のみことば捕まえる時間がなければならないのです。皆さんの日課表の中で、伝道に対して思う時間がなければなりません。それで、皆さんにはまちがいなく人生が変化する、驚くことが行われるようになります。そして、私たちの仕事、教会を事実的に見なければなりません。皆さん少しだけ未来に対して事実的に見れば、祈りの答えの大きい働きが起きるようになります。これを捕まえて祈るのが、定刻の祈りで、これが祈りです。それで、その事実を捕まえて少しだけ見ても、ある日、確かに答えられてくる働きが起きます。主であるわたしが時になればすみやかに成し遂げる。皆さんが、信仰生活を今日からこのように始めなければなりません。結論的に、信仰生活は難しいことでなく、やさしいのです。信仰生活を少しだけ皆さんが契約の事実のとおり捕まえれば、すぐに答えが始まります。やさしいでしょうか、難しいでしょうか。神様、私はなぜこのように祈りができないのですか。このように事実通り話せば、一番良い祈りです。神様、他の人は伝道するのに、私はなぜこのように伝道することもできず、私自身維持もできないのでしょうか。私に力を与えて下さい。それが一番良い祈りです。それで、そこで答えが始まるのです。皆さん、事実を捕まえて祈るのがどれくらい重要かわかりません。事実を悟ってしまえば、私は福音なくてはだめだという答えが出てきます。そうしてこそ、onlyイエスになるのです。

・私は、信仰生活をしながら、副教役者生活をしながら、いくつかの事実を思ったのですが、それが今まで答えられてきました。私が前に話しました。夏の聖書学校をするのに、いくら考えてもこれは違っていたのです。このように多くのお金をかけて、このように子どもたちを集めて騒ぐのに、私は声がかれて、子どもたちはメッセージを聞くこともできません。なぜ私たちがバカのように、毎年これをするのか。それで、私たちの部長と教師たちを集めて、私たちの夏聖書学校をすべきなのかと話したら、部長が驚いて、しなければならないと話しました。その話ではなくて、このような形で継続しなければならないか、私たちこういう方法でするのでなく、子どもたちを全部分けようと言いました。教会堂は一つしかないから、家に分けようと言ったのです。そこで子供たちを静かに部屋に座らせて正しくメッセージ伝えよう。それで、子どもたちが昔からしてきた集いの意味がないから、午後には共に集まって騒ごう。午前には分けて、私たちこの大事なレムナントにメッセージが入らなければならない。そのように悟ったのですが、今まで起きる運動、タラッパン運動がすばらしい伝道運動が起きたのです。私たちは少しだけ事実的に悟っても、働きが起きます。それで、嘘だけ言わなければ、信仰生活するのが最もやさしいのです。それで、祈りの答えを受けるのが最もやさしいのです。神様、本当にある人は賜物も受けるというのに、私は神様が絶対に信じられません。これが私の初めての祈りでした。神様が私に神様が分かる答え、祝福を与えられました。神様、本当に伝道が最もやさしくなければならないのに、私は伝道が最も難しいのです。私は性格が伝道しに通うのが恥ずかしくて通えません。この祈りをしたところ、神様が伝道が分かる最高の悟りを与えられました。私たちが事実だけでは祈ったら、神様はすぐに答えられるでしょう。今日、皆さんはもう一度過ぎ去る言葉で見ずに、これをよく見なければなりません。この言葉を理解できないパリサイ人がどうなったのでしょうか。後の日が問題です。ある日、皆さんの子ども達が、世界福音化で起きて、福音のために勝利するべきで、ある日、皆さんの子ども達が力なく崩れても良いのでしょうか。それは、絶対あってはいけないことです。私たちは、今日、この契約を捕まえて私たちが味わって伝達しなければなりません。

・本当に今日、皆さんそのまま行かずに最後を結びます。今日、ここにいる皆さんは、全部、この契約を捕まえて答えを受けられます。今まで持っている概念を少し変える必要もあります。私たちは多くのことをして、多いことをささげれば良いと思うのですが、そうなっていません。私たちが罪人であることを悟って、十字架の恵みで主の前に進めば、すべての問題を解決される神様です。皆さんが社会生活をして、何かをするならば、色々な世の中の多くのことと付き合うようになります。皆さんが彼らと堕落する必要はないのですが、彼らと付き合うのは大丈夫です。人々は、ほとんど、とんでもないように考えているのです。これで、男の人が教会にきて頭を上げられない理由がここにあるのです。テレビを夜を明かしてみたことは罪ではないと思って、おばさんたちは頭を上げているけれど、おじさんは頭を下げています。どうしたのと言ったところ、祈りもたくさんできなくて、世の中でこのように生きていて、しかたなく教会はきたと言うのです。そのような必要はありません。堂々と社会生活して、堂々と付き合って、堂々とクリスチャンであることを話して、そのようにしなければなりません。私たちが、今、とても変に、不明瞭に、福音をよく知らずにいるのです。

・それで、私がこの間に話しました。本当に重要な方です。検事には簡単になれるでしょうか。幼い時からを勉強がんばって検事になった人です。とても問題がたくさんきたのです。この人が福音を受けました。福音を正しく受けることは受けたのですが、どのように受けたのか、私がこのように生きていてはいけない、このように受けて、正しく受けられなかったのです。家に訪問まで行ったのですが、熱心に出てくると、それで出てこなかったのです。しかし、人は習った人なので、礼儀はあります。私に手紙を書きました。私はいくら思っても、教会に通えない。私は幼い時から、勉強して一生、裁判官生活するのに、たくさんはしないが絶対に酒、タバコをしなくては、裁判官生活することができない。それで朝、インマヌエル教会にくる時、十分間、歯を磨いて臭いが出ないようにしようときたが、私の友人に会ったら、そのような必要はないと言われた。それでカトリックに行ってしまった。もちろん、カトリックが悪いか、そんなことはありません。私は確かに話すのに、カトリックでも、カトリックが言うとおりにせずに、聖書のとおりすれば、救われます。しかし、聖書のとおりしなくて、カトリックがさせるまましやすいのです。神父が言うとおりには絶対にせずに、聖書のとおりだけすれば救われます。この方が軽い人ではないのですが、そのような決定を下したのです。何か教会が、今、社会の人をみなのがすのに、知らずにいるんだな。私が新しい信者がいるのに、何か説明すべきなのかがわからないのです。しろというのか、するなと言うのか、説明が不可能です。私が話そうと思う意味は、ほとんど福音と教会をうわべだけ知っているのです。中のことはみな抜いてしまいました。それでは、後ほど深刻な問題がくるのです。それではどうするのでしょうか。私は皆さんに本当に、聖書のみことばをもって約束することができます。皆さん、福音を正しく悟って、契約を事実のとおり捕まえてしまえば、今から継続して答えが来始めます。もし、問題が来れば答が先にきます。もし、失敗が来れば祝福はさらに先に見えます。それが契約を持った人です。皆さん、今回、福音のなかで本当に勝利するようになることを希望します。今、世の中の人々は事実を見ることができなくて、霊的問題にずっと陥っています。それで、今日、皆さんはイエス様の比喩を見ながら、私が事実的に今日、契約を捕まえなければならないと思うなら、答えがそのままくるようになっています。それで、今日、皆さん最高の、今まで受けた祝福も大きいでしょうが、最高の祝福の日になることをイエスの名前でお祈りします。隣の人に本当に祝福しましょう。あなたは神様の人です。福音は必ず勝利します。また祝福しましょう。皆さんの子どもに実を結ぶでしょう。

<<契約の祈り>>
神様に感謝いたします。真の福音を分かるようにさせてください。事実的な目を開いて、主の前に勝利することができるように導いて下さい。私たちは罪人ですが、主が救いの門を開けてくださったことを感謝します。救われても揺れる私たちに、聖霊でともにおられることを感謝します。答えを受けても、未来を知らない私たちに、完全福音に行くようにさせて下さい。今日から大きい答えが回復する開始の日になることをお祈りします。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン