2005年9月18日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/勝利する教会
(黙示12:10〜12)
 (ロバート・コールマン牧師)

・今朝、皆さんと共に礼拝をささげることができるのは、私には真に特権だと思います。私はこの教会と伝道運動に対して多く聞いていましたが、私がここに立つことができるのでゃ、大きい栄光だと思っています。招いてくださった柳光洙牧師に感謝します。そして、私の友人であるキム・ジュンゴン牧師が一緒にきて下さって感謝します。また、聖歌隊に多くの恵みを受けました。そして、そばにいる通訳の方にも感謝します。

・今朝、イエス・キリストの黙示について見ます。聖書に最後にある本です。聖書に出てくるとても重要な主題の完成だと見られます。主は勝利して、もう天国の御座に座っておられます。そして、その御座の周囲では絶えず祭りをされています。しかし、ここで読んだ本文は、この世に関する話です。そして、審判主として来られることに対して預言されています。このことを書かれた最初の目的は、イエス・キリストの栄光を現わすためです。主はその御座の上で、主の主権と栄光の中で統治されるでしょう。それで、この黙示録を見れば、そのような場面がずっと出てきます。ですから、黙示録を読む時ごとに、私たちの教会は本当に多くの勇気を与えられます。なぜならば、私たちが勝利する教会の一つの一部分だからです。主は大きい勝利を成し遂げられました。主が勝利されたので、私たちも勝利することができるのです。

・12章に、身ごもった女の姿が出てきます。その女は、神様のイスラエルを象徴します。しかし、その女の前には大きい竜がいます。その女を飲み込もうとしていました。その女を通して約束された男の子が生まれたのです。その方がまさにメシヤ、イエス・キリストです。しかし、サタンはイエスに勝てませんでした。十字架で死に、復活して、主は昇天されました。それで、悪魔はその攻撃を神様の人に向けました。それで、主の戒めを守る者に悪魔は攻撃したのです。それで12章の最後の節にそのように記録されています。なぜ今多くの教会が多くの迫害を受けるのか、ここによく説明されています。10節に見ると、私たちには敵がいます。ほえたける獅子のように歩き回りながら食い尽くすべき者を探していると言われています。それで、この福音が宣べ伝えられる時に、サタンは未信者に目をくらませると言われています。キリストの栄光を見ることができないようにしなければならないためです。これが今、世の中で起きている真の戦争です。

・使徒パウロは私たちが肉体との戦いでなく、主権と力と暗闇の世界の支配者との戦いだと言いました。暗闇の世界の支配者と天にいる悪の霊との戦いだと言いました。多分、皆さんがそれのために困難にあっているかもしれません。サタンは皆さんを滅ぼそうとします。サタンはいつも神様の働きを妨害しようとしています。しかし、皆さんは恐れる必要はありません。皆さんは負ける人生ではありません。なぜならば、悪魔は追い出されたためです。それで今日、天の御声を聞きましょう。今、神様の救いが成し遂げられたのです。力と御国と、またキリストの権威が成し遂げられました。それで、サタンは完全に負けたのです。そして、教会は勝利したのです。

・11節を見れば、どのように教会が勝利できるのか詳しく語られています。小羊の血で勝てると話しています。これが救われる福音の核心です。血は私たちのからだの中に流れています。私たちの細胞に栄養を供給して、同時に私たちのからだの中の必要でない不純物も除去します。そして、この血があふれるのは死を象徴します。この血は、聖書に460回言及されています。そしてこの血ということは多くの意味を象徴しています。祭壇といけにえと祭司長と契約と和解とすべてのあがないに関する言葉です。そして、聖書をどこでも見れば、この血の流れがあるのを見られます。全てのものが主の十字架を語っています。今日、読んだ本文にもよく表現されています。そして、その血がまさに小羊の血です。これが神様が今なくした世の中を救うという計画がここにあるのです。そして、この罪ない犠牲のいけにえを通して捕らわれている者をあがなう神様の方法です。

・エデンの園で初めての犠牲のいけにえを神様が直接見せられました。罪のない羊を殺しながら、堕落した人間に上着を着せられました。その犠牲によって、神様の臨在の中に入れるのです。その血が彼の罪過を覆って、神様の前に出られるのです。旧約の全体に、このいけにえに対する話が出てきます。そして、人々の代りにこの罪のない羊たちが殺されました。皆さんが注がなければならない血を、羊が代わりに血を流したのです。しかし、罪ない方の犠牲を見ながら、皆さんの罪を赦されたのです。もちろん旧約にあるいけにえは、完全に罪を解決できませんでした。これは完全ないけにえを示す一つの教訓でした。過越の祭りの時に私たちの主が十字架に釘づけられて死なれました。それで、十字架にかけられ死ぬ時、私たちの主の血が流されたのです。そして、その方が見捨てられたことを私たちが見ました。そして、その方の言葉は言及しなかったのです。そして、多くの人々が主をあざ笑いました。

・死にながら、からだの痛みのために苦しみながら、最後に天を見ながらなさったみことばです。みな成し遂げたと告白されたのです。すべての旧約の預言といえにえを主がみな成就させられのです。また、私たちはそれを繰り返す必要がありません。皆さんのその十字架に対する信仰のために、そして傷がない完全ないけにえのために、皆さんが救われるのです。したがって、皆さんが神様の栄光の臨在の中に入れるのです。私たちはなくなる動物で救われたのではありません。私たちがある伝統を通して救われるのではありません。私たちは、ただイエス・キリストのあがない血だけで救われるのです。傷がない小羊の流した血で救われるのです。それで、この小羊を見なさい。世の中の罪を担われた小羊を見なさい。

・昔に有名な米国の牧師がおられました。その方が初めて聖地の巡礼に行ってこういう証しをしました。観光ガイドと巡礼をしました。そのガイドがある丘を示しました。その丘がまさにカルバリの丘だと話したのです。その牧師がそれを見た時、感情がこみあげてきました。そしてそこに向かって、はやく行きました。走っていったのです。ガイドが先にそこに到着しました。そして、その丘でこの牧師が立っているのを見たのです。息が切れていました。そして頭を下げました。ガイドがこのように尋ねました。牧師先生、ここに一度来られたことがありますか? 沈黙が流れました。その牧師が静かな声で話しました。はい。私が2000年前にここに来ていました。皆さん、ここにいるすべての方が2000年前前にそこ行っていたのです。イエス様が私たちの代わりに十字架で死なれたのです。私たちが罪で死ぬしかなかったのに、罪の報酬は死と割れたのですが、しかし、イエスが私たちを愛して、それでその審判をご自分が代わりに担われたのです。誰でもイエス・キリストを信じる者は滅びずに、永遠のいのちを得ると言われました。これが良い福音の便りです。イエス・キリストは生かされるのです。救われるのです。それでこの今、驚くべき祭りが主の御座で起きているのです。その大きい声を聞いていますか? その方が勝たれたと賛美しているのです。血ゆえに勝利したということを賛美しているのです。

・そして、二番目に勝利する理由があります。彼を宣べ伝える言葉ためです。この証しを通して福音が地の果てまで宣べ伝えられるのです。あまりにも簡単で神秘な真理です。ここでは、教会の倫理と儀式に対して話していません。ここで聖霊の賜物に対しても話していません。もちろん、そのようなこともみな重要です。しかし、それよりもさらに基本になることがあります。イエス・キリストによって救われた者の証しです。これのために、すべての教会がこのことに参加するのです。私たちの生活の中でイエス・キリストがなさったことを証しするのです。それで、聖徒たちがイエス・キリストについて証しするほど、教会が強くなるのです。

・シンシナティ大学に通うある女子学生の話を聞きました。週末にバスに乗って家へ向かっていました。多くの時間があったので、小さい聖書を取り出して読んでいました。そばにあるおばさんが話しかけました。一度もバスなかで聖書を読む姿を見ることはなかったと話しました。それで、自然にこのおばさんに女子学生が証しをしたのです。おばさんが証しを聞いて、誰も私にこういう話をしてくれたことがないと話しました。そして、そのおばさんがこのバスに乗っている知りあいの一人も、この福音を聞かなければならないと言いました。私は誰にでも福音を伝えたいと話しました。それで、他の人と席を変えて座って、他の方に福音を伝える機会ができたのです。証しがほとんど終わる頃、前に座っている老人1人が振り返りながらこのように話したのです。最後にした話を、もう一度話してくれないかと言ったのです。そして、通路の反対側にいた女性も聞きたいと言いました。それで、私が大きい声で証しすることを望むのかと尋ねたのです。全部そのようにするように望んだのです。女子学生は、慎ましく立ち上がってバスの前に出て行って、みんなに向かって証しを始めたのです。その時に、シンシナティ・ターミナルにほとんど到着しました。そして、運転手がバスのドアをあけました。学生にこれ以上話す言葉はないのかと話しました。そして、静かな話でハレルヤと話したのです。

・私はこういう環境で証ししたことがありません。同じ経験もしたことはありません。どうするかは重要ではありません。皆さんに自然にある福音を証しするのが重要です。重要なのは、イエスがキリストで、その方がまさに救い主だということを伝えることです。私たちは罪のゆえに裁きの下にいます。神様は私たちを愛されるから、イエス様が私たちの罪の代わりをしてくださったのです。それで、イエスを通して私たちが神様の前に行きながら赦われるのです。そして、私たちには新しい命が与えられました。このような形でまさに福音が伝えられなければならないのです。皆さんいつ神様の愛を伝えたのでしょうか? 皆さんの証しと勝利が関連しています。これがペテロの告白によく表現されています。皆さんペテロが大胆に、主がどなたか告白したのを知っているでしょう? 主は生ける神の御子キリストですと告白したのです。イエス様は、それはまさしく神様がくださった啓示だと話されました。

・主は、その岩の上にわたしの教会をたてて、ハデスの力が勝つことができないと話されました。ある人は岩をペテロだと言います。またある人はその岩をキリストだと解釈します。そして、ある人はその告白自体を岩だと言います。しかし、どのように解釈しようが最も重要な核心があります。ペテロがイエス・キリストのなかでその信仰を告白した時、その後に主はわたしの教会をたてると言われました。まさに伝道が核心なのです。多分、皆さんがとても保守的な信仰を持ったのかも分りません。このなくした世の中に保守的な信仰が何の益になるでしょうか? 信仰は聞くことで、聞くことはキリストのみことばからくると言われました。それで、多くの人々が福音を聞いてこそ福音を受けられるのです。それで、この福音を宣べ伝えることを真実に果たす時に、神様は神様の民をたてられるのです。そして、主の天の御座で、多くの人々が神様に栄光を帰すのです。皆さん、大きい声を聞いたでしょうか? 主が小羊があがないの血によって勝たれたとおっしゃられました。そして証しする言葉ために勝利したとおっしゃられました。

・そして、最後の勝利の秘訣があります。この聖書みことばに詳しく出ています。彼らは死ぬ事まで自分の命を惜しまなかったと話しています。このように証しする者には、献身と信仰が必要です。このことが死ぬことさえした献身です。これは十字架を私たちが捕まえることです。十字架の死は、とても苦しい死です。しかし、確実な死です。それで、私たちが主が来られる時、私たちは世を去るのです。そして、主を喜んで、全てのものを私たちは捨てるのです。私たちのために死んで、私たちを愛された主に私たちは完全に献身するのです。主は私たちをこの世の中に証人として送られました。私たちが住む所から地の果てまで行くのです。この証人という言葉は、ギリシヤ語では殉教する者という意味です。この証人も殉教する者でも全く同じ言葉です。それで、イエス様が弟子を証人として送られた時、主は殉教者として送られたのです。そして、十字架にきて全てのものを主にみな下ろして任せました。今でも、主はそのように要求されます。

・多くの人々が、世の中と妥協しようとします。また信仰を妥協しようとするのです。一つの足は天国にあって、一つの足は世の中にあるのです。そのために、彼らはこの世で負けているのです。これがまさに教会の問題でした。それで、使徒パウロが書簡を書きながら、この問題を解決しようとしたのです。そして、使徒パウロは、彼らが十字架で死んだと言いました。この世で死んで、この罪に対して死んで、しかし、神様の前で生きていると話しました。そして、使徒パウロが私は主と共に十字架に釘づけられたと告白しました。そして、私が生きることは、この主に属していると話しました。私のものではありません。私は血の値で主が買われたのです。それで、これのために私たちは真の自由を味わうことができるのです。ローマにある教会にこのように話しました。私たちが生きる時は、主のために生きて、私たちが死ぬ時も、主のために死んで、私たちが死のうが生きようが、私たちは主のものだと話しました。これが私たちに真の自由を与えるのです。なぜならば、敵に勝ったためです。そして、皆さんはよく勝つ者になりました。そして、皆さんの胸の中にこの歌があるでしょう。そして、すべての罪と審判から解決されたのです。

・何年か前にルワンダで内戦が起きました。ある反乱軍が宣教をする所に訪ねてきました。そして、そこで働いていた牧師と学校校長を逮捕したのです。彼らは離れることを願いませんでした。逮捕されれば、再び戻ることができないためです。しかし、強制的にジープに押込まれました。そして、ある谷がある所へ向かったのです。ある橋の前でジープが止まりました。そして、二人をおろして、手を後にしてくくりました。彼らはこの二人をどのようにするのかわかっていました。しかし、反乱軍は自分らどうし言い争いを高めながら争ったのです。そして、この人達に祈りができる時間を与えたのです。そして、祈りを終えた後に、ある軍人がヨナ牧師にその橋を渡れと言いました。そしてヨナ牧師は、その橋に向かいながらこの賛美をしたのです。多分、この賛美は皆さんもよく知っている賛美でしょう。殉教されたこの牧師と共にこの賛美1節を共に歌いましょう。'救い主の愛と流しませる血とを、生けるかぎりわれは、重ね重ね歌わん。イエスは、われのとがを洗い去りて、雪のごとくしろくならせたもう'(韓日讃美歌214番)

・しかし、その牧師は歌をみな終わらせることができず、橋に行くやいなや銃が撃たれました。そして、死んだ死体を足でけられて、水に落としたのです。そして校長も自分もそのように死ぬと察したのです。しかし、軍人たちは再び論争し始めたのです。突然、校長にこのように話したのです。くくったのを解いて、ジャングルの逃げろと言いました。そして再び帰らないようにと言いました。そして、この校長が逃げた後にこのように説明しました。この軍人がヨナ牧師が死ぬ姿を見て、とても衝撃を受けたということでした。彼らは一度も死に向かいながら賛美する姿を見ることができなかったためだと言いました。このような献身は世の中が理解できない献身です。これがまさに献身する時に出てくる神様の真の喜びです。それで、いかなる代価でも、この主に従う時、払うように願います。

・今、この時代にはそのような迫害はありません。しかし、北朝鮮では毎日こういう迫害があります。そして、全世界に多くのクリスチャンが困難にあっています。多分、皆さんの信仰の先祖もこういう困難にあったでしょう。私たちに、どんな未来が私たちを待っているかわかりません。しかし、この終末がくる前に、大きい苦難がくるでしょう。なぜならば、主は約束された至上命令を成就されるでしょう。それを成就するためには、ある時は迫害が従います。この世は、私たちが永遠に住む家ではありません。私たちは、この世をすぎていく旅人です。それで、私たちは神様の永遠な町を見上げて行くのです。そして、私たちはある日、主の御座の前に立っている場面をながめて行くのです。私たちがどこにいようが、どんな環境に処しても、私たちは天国の喜びを味わいながら生きることができます。今まだ正確に現れないけれど、一つ分かる事実があるならば、主は雲に乗って栄光の主として来られるでしょう。それで、この天国の福音の証人として最後まで証しするのです。その時に終わりが来ると言われました。神様がすべての人々を神様の民をかき集められます。すべての活動や全てのものが、この救いの原鱈気に用いられないならば、全てのものがみな取られてしまうでしょう。全てのものは消えますが、神様のみことばだけ永遠に残るのです。そして、救われたたましいだけ永遠に残ります。それで、私たちはこの世の中で、刈りいれる所に行かなければならないのです。それで私たちはこの伝道に加わらなければならないのです。そして、この福音を希望をなくした世の中に伝達しなければならないのです。これからどんなことが起きるのか私は知りません。しかし、最後に私は何がくるのか分かります。主は栄光の主として来られるでしょう。そして、私たちはその主を見るのです。そして、私たちの信仰がもう私達の目で見るようになります。そして、この栄光の主の顔を見るようになります。それで、その名の前にすべてのものがひざまずくでしょう。すべての唇が主の栄光のために、イエス・キリストは主だと告白するのです。主は勝利を成し遂げられました。それで教会も勝利できるのです。それで、私たちは共に喜ぶのです。天国が来ています。それで、私たちは天国の確信を持って生きることができるのです。皆さんの人生の中に喜びがないならば、皆さん自身をよく調べなければならないでしょう。皆さんの足りないことがあるならば、主の前に告白するよう願います。皆さんの献身が弱いならば、もう一度、主の新しい愛を見つけだすように願います。私たちは永遠に統治する主に礼拝をささげているのです。

<<契約の祈り>>
神様、この場所に来られた特権を与えられたことを感謝します。神様の福音を宣べ伝えるこの教会のために主に感謝します。これら全部の神様の子どもに神様が祝福して下さい。そして、彼らに信仰の勇気を注いで下さい。そして聖霊充満するようにして下さい。そして、世の中に出て行く時に、主がくださる喜びで行くようにさせて下さい。そして、福音を証ししながら、また来られる主を待つようにさせて下さい。尊いイエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン



2部/三番目のたとえの後におっしゃった死と復活
(ルカ18:31〜34)
(柳光洙牧師)

・ダビデが賛美した時に悪霊が離れたように、聖歌隊と皆さんの周囲に暗闇の勢力が離れるように願います。パウロが賛美する時にも奇跡が起こりました。今日は私たち1年に一度ある旧盆です。それほどソウルと釜山(プサン)では、旧盆の気分が出ません。私たちが幼い時は、旧盆に浮き立ったりしました。私たち幼い時は、銃も撃って、爆竹も爆発させて、歩き回っていました。ソウル、釜山(プサン)は忙しくて、ほとんど旧盆という感じがありません。旧盆に教会を見ればよくわかります。信徒が減るのです。

・TVを見れば旧盆であることが感じられます。脱北朝鮮した人が、自分の10才になった娘に、放送に出て送る手紙のことを聞きながら、本当に良くないことだという気がしました。80になった老人が、一週間で帰れると思ったのに、55年の間、北朝鮮を行くことができなくて、自分の家族に送るメッセージを聞きながら、家族がこのような時重要だという気がしました。私はふっとTVを見て考えてみました。思わず自然に昔の考えをしていました。そして、家族のことを考えてみました。皆さんのことも考えてみました。考えながら祈りをしました。祈っていて、こういう気がしたのです。私が知っている人がとても多いのです。祈りをみなすべきなのに、誰かはして、誰かはしなくなります。米国にも知っている人がどれほど多いでしょうか。それで、今回、旧盆に私がして答えを受けて、このように祈りました。定刻の祈りをしながら、神様、私に会う人々は全部、祝福してくださいと祈りました。この定刻の祈りの時は、このように祈りをして、私が知っている人は、全部祝福してくださいと言いました。それが、今回の旧盆に私が受けた贈り物です。ところで、この福音運動をしながら、私は日が過ぎることをよく知らずに過ごします。最初に釜山(プサン)で合宿訓練をしたのに、名節(韓国固有の盆・正月)に引っかかったのです。だから、合宿訓練を引き受けたカン・ホイン牧師が名節(韓国固有の盆・正月)なのに良いのですかと尋ねました。してみようと言いました。名節(韓国固有の盆・正月)の日に合宿訓練するといったら、倍できました。これがタラッパンメンバーの開始です。それで、私たちは主に名節(韓国固有の盆・正月)日、伝道に出ていって、名節(韓国固有の盆・正月)にAUC講義をします。

・昨日も私たちのキム・ジュンゴン博士をお連れするのに迎える人がいませんでした。秘書がいないのかと尋ねたところ、秘書が全部名節(韓国固有の盆・正月)なので、いないと言いました。それで、私がキム・チャンヒョク牧師を連れて、キム・ジュンゴン牧師を今日、お連れしました。昨日、キム・ジュンゴン博士家の近くに行きながら私がこういう話をしました。これが一般の教団と私たちの教団の差です。そして、名節(韓国固有の盆・正月)に、私たちは合宿訓練をして、名節(韓国固有の盆・正月)に伝道も出て行ったりします。ある人々は、名節(韓国固有の盆・正月)に行ってしまい、私たちは名節(韓国固有の盆・正月)日、他の人のために働きに行きます。それで、私がキム牧師に、これが私たちが世界を征服する秘訣だと言いました。私たちは夜昼、関係なく、事実、名節(韓国固有の盆・正月)も関係ありません。

・今日、イエス様がこのように話しをされました。今日のタイトルが少し誤って伝えられています。三番目におっしゃられたメッセージではなくて、三番目のたとえの後におっしゃられた死と復活です。皆さん、私たちが話をする時にも、前後をみな切り捨てて話をしてはいけません。それは、おもに頭が悪い人々がそのようにします。前の話をみな抜いてしまって、後の話だけすれば、それは違った話になってしまいます。内容は正しい言葉でも、自分の視点だけで話してしまえば、それは違った話、嘘と同じです。私たちは、そうなってはいけません。私たちが話を伝達する時にも、みな抜いてしまって、一つだけ話したら、言葉自体は正しいでしょうが、前後を見れば違った話になります。私たちは仕事もそうで、言葉もそうで、全てのものがみなそうです。今日、イエス様が3つの理由を言ってから、この話をされました。失望せず祈りなさい。祈りなさい。人の子がくる時、信仰を見ることができるか。悪い裁判官がずっとくやしい人がきて話せば、聞き入れないだろうか。あなたが本当に祈るのに、神様が答えられないだろうか。それと共に言われたみことばが、人の子がくる時、信仰を見られるだろうか。それは信じることがないという言葉です。それと共に子どもの話が出てきて、子どものようでなければ、天国に行くことができないとおっしゃられました。そして、またおっしゃったのは、金持ちがお金を持って天国に入ることはできない。天国はお金で入るのではない。それならラクダが針の穴に入るのと同じだ。このように話されたのでした。そのように話されたから、今日なさった話です。十字架で苦しめられて、死んで復活されると言われました。今日、私たちはここで記憶しなければなりません。今日34節にこういうみことばが出てきました。しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。イエス様が死と復活を話されたのですが、信じることもなかっただけでなく、悟ることもできなかったのです。これが今日、私たちが最初に捕まえなければならない契約です。

・先聖日に私が説教でとても重要なことを話したと思います。本当に福音が正しかったら、インマヌエル教会は次のことを心配しなくても良いのです。そのような祝福がたくさん来ています。本当に福音が正しかったら、どのように私たちがどんなことをして、教会を成功させるか心配をしなくても良いのです。それは、にせ物の福音である時にする言葉であって、本物の福音であれば、そんなことを心配する必要はないのです。私たちの教会が本当に福音を伝える教会であることが間違いないなら、皆さんが契約だけつかんでいれば勝利するのではないでしょうか。私が釜山(プサン)で始めた時、そう言いました。私たちが本当に福音ならば、教会堂をどのように作るのか、どのように成功するのか、そんなことを心配する必要はありません。神様はそんなことをくださることができないのだろうか。それは努力をするなという話ではありません。そのような心配はする必要がないのです。なぜか、福音の中から出てくるものは完ぺきです。それを捕まえて出発しなさい。これを先週に話しました。これが祈りの答えを受ける奥義です。率直な話で、事実は釜山市(プサン市)内ではインマヌエル教会が土地が一番大きいのです。事実、位置も一番良いのです。神様がそのように祝福されます。これから、どうなるでしょうか。心配する必要はありません。世の中では皆さんをこの心配、あの心配をよくするようにさせます。備えあれば憂いなしなど、あれこれ良い話も多いのです。準備をよくすれば、苦労をあまりしない。正しい言葉です。一つ注意しなければならないことがあります。ほとんどみなが救われなかった人々がした話ということを記憶しなければなりません。皆さんは神様の子どもです。今日、イエス様が何をおっしゃられたのでしょうか。

・色々なたとえを3つ上げた後に、人の子がすべてのみことばに言われていたとおりに、十字架で死んで復活する。私と皆さんが信じる対象は十字架に死なれて復活されたとなっています。それなら、今日、皆さんが本当に祈りの答えを受けようとするなら、私たちはどのようにすべきでしょうか。なぜ弟子が悟ることもできなかったのでしょうか。悟れなかったのを、どのように信じるのでしょうか。3つのためにそうです。私たちの人間はおもに3つのことのために信じられないのです。

・その最初が体質的な信仰です。私のレベルのとおり信じるのです。インマヌエル教会を見る時、柳光洙牧師が自分のレベルでずっと見たら、それはとても失敗する牧師です。インマヌエル教会を見る時、神様の力のレベルで正確に見なければならないのです。私たちは継続して、自分の体質のとおり、自分のレベルの通りに見るのです。子どもも私のレベルのとおり、夫も私のレベルのとおり、仕事も自分のレベルのとおりずっとそのようにしようとするのです。だから、どのようにこれを信じられるでしょうか。イエス様が十字架に死なれて生き返られた。話になりません。本来、このように言うでしょう。イエス様、話になる話をしてください。このようでなければならないではないでしょうか。この話もできず、信じられないのです。悟ることもできません。私たちがこのように信仰生活をしていないでしょうか。皆さんがとても祝福を受けた人なのに、知らないのではないでしょうか。それが継続して自分のレベルで見るからです。皆さんが一番注意しなければならないことが、これです。ひょっとして、私の考え、私のレベルのために受ける祝福が受けられないなら、それは話にもならないのです。皆さんが本当に記憶しなければなりません。ほとんどすべての人々が、なぜ信じられないかというと、自分の体質、自分のレベルのとおりずっと見ようとするからです。神様は、そのように見てはいけません。神様は全能な神様で、創造主なる神様です。神様は、聖霊でこの場に働かれ、全宇宙を治めておられるのです。信じなければなりません。神様は、聖霊で今、この時間に皆さんの会社にも働かれることができるのです。神様は、インマヌエル教会堂が借りた部屋でうとうとしておられる神様ではありません。神様は私の頭、一メートルにもならないこの頭の中に入ってきておられる方ではありません。無尽蔵です。皆さん世の中に人々も色々な人がいます。神様がどうでしょうか。

・また、そうでなければ、私たちは少しよく信じるといっても教理的に信じるのです。実際に信じないのです。十字架で死んだ。信じられないが、どのようにするでしょう。復活した。教理にそうなっている。そのように信じるのです。私は率直な話で、学習洗礼を受ける時、信じられないのに無条件にそうだと言いました。私が幼い時、長老が座って洗礼の問答をするのに、イエス様が十字架に死なれたのを信じるか。はい、信じます。復活されたのを信じるか。信じます。信じられないが、どうするでしょう。それでこそ、通過できるのです。ただ一個は幸いに尋ねませんでした。あなたが本当に救われた神様の子どもである確信があるかということを尋ねられれば、私が返事をできなかったでしょうが、幸いに尋ねられなくて通過しました。それで、無難に洗礼を確かに受けたのです。それでも信じられなかったのです。教理的には信じていたのですが、信じられませんでした。昔にイエス様の時もそうでした。マルタとマリアにラザロが生き返るかと尋ねられたら、後ほど復活すると言いました。それは教理的な信仰です。教理が誤っているのではないのですが、私たちはおもに教理的に無理に信じるのです。

・そうでなければ、私たちはどのように信じるかというと、私はこれを置いて究極的信仰だと表現します。これが何の話なのかというと、あげくの果てに思い切り苦しんで、その時、はじめて神様を信じるのです。皆さん、思い切りおかしな病気にかかって、その時になって私たちは神様を探すのです。人間はおもにそうです。この3つのことが、本当に私たちが祝福を悟れないようにするのです。イエス様が誰であるかということを弟子が悟ることもできなかったのです。今日、皆さんそれでは二番目に何を悟るべきでしょうか。弟子がなぜ悟れなかったか知ったなら、私たちは何を悟るべきなのでしょうか。今日、皆さんがこの契約を捕まえて、大きい答えを受けるようになることを希望します。何を悟るべきでしょうか。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。31節にそう言われています。この話を悟らなければなりません。31節をもう一度見れば、さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。」旧約にこういう話があります。羊を持ってきます。羊がここにいれば、祭司が出てきて、皆さんのすべての罪を羊の頭の上に移すと言います。そして祭司が按手をするのです。それで、刃物を持って羊の首を刺して血を流します。本当に不思議です。それを継続したのです。イエス様が来られた時、バプテスマのヨハネがイエス様の頭上に手をのせました。バプテスマのヨハネが驚いて、自分は洗礼できないと話しました。その時、イエス様がこういう話をされました。あなたとわたしと一緒に、神様の義を成し遂げなければならないと言われました。重要な言葉です。人間が受けなければならないすべての罪を羊に移したように、私たちのすべての罪をキリストが十字架で担ってくださったのです。理解が良くできないでしょう。

・今日、見ると異邦人にあざけれると32節になっています。また33〜34節を見れば、はずかしめられ、つばきをかけられ、むちで打ってから殺しますとなっています。これが預言者の書にみな記録されているのです。これがみなわたしに成し遂げられます。とても重要な言葉です。イザヤ53章にこういうみことばがあります。私たちの罪と罪過によって彼が十字架で死んで、ずらっと53:1〜6節までみな出てきています。詩22篇には、全体がみなそうなっています。これを悟りなさいという言葉です。それでも、私たちは悟れないでしょう。パリサイ人は、それでも悟れなかったのです。私たちが何の罪があるから、ずっと罪、罪と言うのか。皆さん、人間のすべてのみじめさと私たちが解決できないことを、神様が解決されたということです。なぜか、解決できないためです。皆さん3つのことは、絶対に解決しません。最初に先祖が犯した罪です。先祖が犯した罪をなぜ私にというのか、そうではありません。皆さんの両親が偶像崇拝をしたら、サタンの戦略が皆さん子孫にそのまま現れるのです。皆さんよりムダン(霊媒師)の子どもは、すぐわかるでしょう。人々が今何も知らずに先祖供養をたくさんしていますが、両親が偶像崇拝したのが、子どもにそのまま行くのです。出エジプト20:3〜5には3、4代まで。ところで不思議なことに、解決することはできないのです。それで、神様がキリストの十字架でみな解決すると言われたのです。それが成し遂げられたのです。驚くべきことです。

・皆さんここに座ったレムナントの中で、両親の中に霊的な問題があるのを、皆さんが契約を捕まえなければ、そのままくるのです。これがとても重要なのです。お金で計算すれば、皆さんが今ここに座ったのが、今日、神様のみことばを正しく聞くとすれば、1兆円はもうかっているのです。それなら、無条件に千億円は十分の一献金をしなければなりません。本当です。この福音を皆さんにいたずらに下さったのではありません。これを弟子が悟ることができなかったのです。パリサイ人が悟ることができませんでした。弟子は、後ほど悟りました。皆さん、悟れば、すごいことになります。皆さんが何の誤りもないのに、皆さんに霊的な問題がくるのです。偶像崇拝をたくさんした家で暮らしてみてください。ある人はとても苦しめられます。これが思うとおりにはできません。しかし、皆さんが契約を正しく捕まえなければ、大変なことになるのですが、正しく捕まえてしまえば、それゆえに祝福されます。先祖が犯した罪なのに、私たちがなぜ受けるのか。そうでなければどれくらい良いでしょうか、しかし、それはそのまま起きるのです。私の話を普通に聞かずに、私たちのレムナントは、今、契約をつかまなければなりません。私たちの両親がどうなのか、うちの父がなぜああするのか、私の両親が離婚した、こういうものを考える時間はありません。皆さんが契約をつかんでこそ終わるのです。さらにわかりやすい人は、両親が悪霊につかれた人々を見れば、子どもにそのままくるのです。

・今日、コールマン牧師とキム・ジュンゴン博士と食事をしながらわざわざ話しました。世界教会は危機がきました。未信者は100%悪霊文化に陥っているのに、教会は100%その文化を知らないといったところ、コールマン牧師が、それがサタンの戦略ですと言いました。それを知らないようにするのがサタンの戦略です。大変なことになります。そうでなければ、何のために教会に来るのでしょうか。教会にくることが、命を変える程、重要なのです。それなら、皆さんの産業が問題になるでしょうか、建築が問題になるでしょうか、何も問題になることがありません。契約を捕まえる瞬間、神様が働かれるでしょう。私たちの長老、按手執事は、本当にこの契約をつかむように願います。残りはみな捨てて、感謝していれば、働きが起き始めます。そうなるのを邪魔するのがサタンです。皆さんが十字架の奥義を知っていれば大きいみわざが起きるのに、それを知らないようにするのが暗闇の勢力の戦略ではないでしょうか。皆さんがそれだけ重要だということです。重要だから、サタンが触ったりもするのです。それを悟れということです。

・もう一つは何でしょうか。率直に皆さんが知っても、知らずにも、犯した罪、罪過。解決しません。皆さんが見つけられなかったので生き残って刑務所を行かなかったので、解決しません。また、ある時は、大きく他の人に被害が行かなかったために大丈夫なので、この問題が小さい問題ではないのです。そして、さらに重要な三番目は原罪です。原罪が何でしょうか。これは私が犯した罪でもなくて、先祖が犯した罪でもありません。先祖が犯した罪ならば、両親を誤って選んだと話せば良いのですが、これは両親が犯した罪でもありません。簡単に話せば、アダムの時から起きたサタンの戦略です。これが今、そのまま私にまで来るのです。これを解決できないから、神様が初めから旧約になさったみことばが何でしょう。メシヤ、羊を送ると言われました。イエス様のこのみことばを弟子が悟ることもできなかったのです。それで、イスラエルがほろびたのです。そのうちに悟った少数を通して働きが起きました。それなら、皆さんに答えが起きるようになります。ひょっとして、それでも理解できない方がいますか。それでは、皆さんの罪を仏教論理のとおり一度支払ってみますか。解決できないからそうであって、仏教徒真理です。全部犯した罪そのまま来てもよいでしょうか。可能ならば善行をしてみようとするのですが、それまでは良いでしょう。実際には解決しません。皆さん私が犯した罪も解決しなくて、私が知らずにしている罪がさらに多いのです。私が前に話しました。皆さんが24時間、天使のように生きて、1秒だけ罪を犯したとします。それでも一年すれば365ケです。それでも十年ならば3650ケです。皆さん一生生きると罪だらけです。解決しません。皆さんが犯したとおりみな返ってくるとすれば、これはものすごいのです。ここに座っている女の人1人を呼び出して過去から今まで全部写真に映し出してみてください。皆さんここに座っていられません。おもにそんなことを悟れない人が他の人の悪口をよくします。解決される方法がありません。ダビデを見てください。他人の女を引いてきて自分の女でして、それでその夫を殺したのです。そのような殺す人がどこにいるでしょうか。私たちはそのような罪は犯しません。それを神様がどのように見のがしてくださるのでしょうか。完全恵みです。解決される方法がありません。神様がそのダビデを大きく祝福されました。完全恵みです。

・神様が、私たちが解決できないと思ってキリストを送って、十字架に釘づけられたのです。この話を悟れば、皆さんは次にどのように生きるかが問題でなく、完全に勝利するのです。その次にすることは、義務でなく感謝でするのです。皆さん、誰かが皆さんの子どもを助けて、その人が死んだら、その家に行ってどのようにするでしょうか。誰が近くの人が子どもを助けて、その人が死んだとします。それでは、その人のためにその家の子どものためにどのようにするでしょうか。感謝する気持ちで、何度も行って、感謝する心でするでしょう。その次に私たちがする信仰生活は、あまりにも途方もないことが解決されたので感謝する気持ちでするのです。何を悟れという言葉なのでしょうか。三日後に復活して重要なことを証ししたという、この事実を悟りなさい。皆さんよく一度聞いてみてください。

・この話を一番よくわかった人が1人出てきました。その人が一番大きく用いられました。誰でしょうか。パウロです。記録はどこにあるのでしょうか。使徒17:3に見ればあります。パウロはこのように説明しました。イエス様が十字架に死なれて復活した。このように説明しませんでした。一段階上のことを説明しました。私たちならば、普通、説明するのに、どのように死んだ人が復活するか、このように説明しないでしょうか。普通の人ならば、イエス様が十字架に死なれて復活された。このように説明するでしょう。しかし、パウロはそのように説明しませんでした。皆さん、今日、これを捕まえなければならないということです。パウロはイエス様が十字架に死なれて復活したと説明したのではありません。十字架に死なれて復活されなければならないことを証拠しました。これが一段階上です。簡単に話せば悟っていたのです。なぜ十字架に死なれなければならず、なぜ復活されなければならないか正当性を説明しました。私のような人は十字架に万回死んでも仕方ありません。なぜイエス様が十字架に死なれなければならなかったのか。また誰も復活することができないだけでなく、する必要もありません。なぜ彼が復活されなければならなかったのか。それを説明したのです。すごいでしょう。イエスがキリストという証拠です。これから私たちも完全な体で復活して、完全な天国に行って、完全な体で完全な地獄に行くという証拠です。すばらしい話になるのです。今日、皆さんが悟る祝福があることを希望します。

・それでは、大きい三番目で、私たちがどんな信仰を持てば実際に勝利することができるのでしょうか。今日、私たちの聖徒、全世界にいる方々、今日この契約を必ず捕まえるように願います。皆さんの中で、年もとっていて、ある程度、位置にある方々がたくさんいます。今日、皆さんがこの契約をまともに捕まえれば良いのです。絶対に嘘を聞いてはなりません。大きい献身は必要ありません。この契約を必ず捕まえてください。皆さんが教会にきて、多大な業績を積まないでも大丈夫です。この契約を捕まえましょう。皆さんが教会にきて、朝の祈り、徹夜祈り、全てのものをみな参加してこそできるのでもありません。それと、これは別の話です。今日、皆さんが契約を捕まえなければなりません。イエス様が神様の息子という証拠で十字架で死んで復活されました。絶対に解決できない原罪、罪過と先祖の罪を十字架で釘づけられました。聖書に預言されました。誰でもキリストといってはいけないから、唯一の証拠である十字架で死んで復活されると言われたのです。

・先週に見たら、あの人が私が釜山(プサン)行ったら、事務室の前に席を敷いてひざまずいて座っていました。昔に王様に会う時、犯した罪の処罰を待つということがあったでしょう。王様が許す時まで行かないというのがあったでしょう。そのように私に会って、犯した罪の処分を待って座っていたのです。しかし、ひょっとしてそのようなことが起こるかと思って聖書に預言されているのです。十字架で死んで復活される。Iコリント15章を見れば、聖書のとおり死んで、聖書のとおり生き返られたのです。それなら、できない事はありません。私たちが信仰を告白しなければなりません。できない事はありません。皆さんが福音のなかで答えを受ければ、できないことはありません。福音のなかで答えを受ければ、本当に皆さんの事業に働きが起きます。皆さんが福音のなかで今から出発したら個人問題、家庭問題も本当に解決されます。これが真理です。この方は十字架に死んで、復活されたと聖書に最初から預言されていました。それで今、この復活の主はどのように働いておられるのでしょうか。マタイ28:20に世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいます。今でも聖霊で皆さんと共に完ぺきに共に働いておられるのです。それで、霊媒師をしていて戻られた方々は苦しめられるでしょう。絶対に心配しなくても良いのです。過去に皆さんを困らせた悪い霊がきて、ずっと困らせるでしょう。絶対に揺れる必要はありません。皆さんを困らせるほど、むしろ神様が働かれるようになっています。子どもが昔に泥棒と歩き回って手を切れば、ずっと訪ねてきて困らせます。絶対に気を遣ってはなりません。ある日、皆さんに大きい答えが起きるようになります。復活されたキリストは、今でも聖霊で皆さんと共におられるのです。マルコ16:19〜20を見ると、みことばで今でも成就しておられます。使徒1:8を見ると、私たちに力で働いておられます。今でもです。

・未信者よりは理解をよくすべきです。ところで一番の問題は、教会に長く通った人が問題です。この未信者で、霊的に苦しめられた人々は、すぐわかります。聖霊が私とともにおられるんだな。すぐわかります。ところが、単に教会に行ったり来たりしている人は、これを聞き取れません。それがサタンの戦略です。イエスの名でうち砕いてしまえば、すぐに働きが起き始めます。それでは、御座に着かれた主は何をしておられるのでしょうか。今日、これを知って黙示録にヨハネが力を得ました。私たちの目に見えないと思うので未信者は神様がどこにいるのか、教会に行くとご飯が与えられるのかと言います。私たちの目に全く見えないと思うのですが、皆さんの目に見えなくても、七つの燭台の間で七つの星を捕まえておられるのです。黙示2:1です。皆さん、絶対に揺れずに信じるように願います。イエス様が七つの星をつかんでおられるということを説明しています。主のしもべを手につかんでおられるのです。目的は、皆さんを一つ一つ見守っておられるのです。イエス様が七つの星を捕まえて、燭台の間を通っておられるのです。これをヨハネが見たのです。どれくらい力を得たでしょうか。皆さん、実際に信じるように願います。そして2:8には何と書いてあるでしょうか。イエス様がどのように現れられたでしょうか。アルファとオメガです。その言葉は、何の意味でしょうか。初めと終わりです。私たちは英語でA、B、C..このように言いますが、ギリシヤ語はアルファ、ベータ、ガンマ..このように言います。日本語では、あ、い、う、え、お...このように言うでしょう。そこでは、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタこのように言って、一番最後の字がオメガです。アルファは(Α)このように書いてオメガは(Ω)このように書きます。オメガ時計という話は、これ以上より良いものはないという意味で、オメガと付けたのです。それは、何の話なのでしょうか。皆さんのすべての開始と終わりを責任をとっておられるということです。私は本当に信じています。聖書に見ると、主が私たちの目に見えないと思ったのですが、黙示2:12を見ると、私たちのために両刃が鋭くなった剣を持っておられます。何の話なのでしょうか。救われた者のために、代わりに戦っておられるという言葉です。

・今日、本当に一日だけこの契約をつかむように願います。キリストが復活して、私とともにおられるのですが、すべての聖徒を今、治めておられるのです。そして2:18に見ると、足が光るしんちゅうです。その話は何の話でしょうか。昔は戦争時代です。しんちゅうの足です。青銅の足です。何の話なのでしょうか。どこでも攻撃ができる征服者ということです。その方が私たちとともにおられるのです。主のしもべ、牧師が心配すべきでないことは、3:1に見れば七つの霊と七つの星を持っておられるのです。私は本当に信じています。主のしもべをそのまま捕まえているのではなく、七の霊、天使と共に捕まえておられるという言葉です。黙示3:7に見ると、鍵をつかんでおられます。ダビデの鍵を持っておられるのです。ダビデの鍵を持っているので、開けば閉じる人がなくて、閉じれば開ける人がいません。誰に開かれるのでしょうか。本当に世界福音化する主の民、主のしもべに鍵を持って開けば閉じる人もなくて、閉じれば開ける人もないという言葉です。どれくらい強固でしょうか。皆さん、教会で働きをしながら、本当にしていたら問題が多いのです。何の心配もしないように。ダビデの鍵を持たれた人が、皆さんの全てのものを守るという言葉です。私たちはすることもありません。だまされなければ良いのです。皆さん、私が今、皆さんと共に世界福音化してくる中で、攻撃を小さく受けたでしょうか。試みを小さく受けたでしょうか。全くそんなことがなかったと考えるでしょうか。そうではないでしょう。しかし、このみことばを見てください。全く心配することがありません。これから皆さんの事業はどうなるでしょうか。3:14に創造の根本である方が言われる。皆さん、ラオデキア教会のようにならずに、この契約を捕まえなさいという言葉です。

・先生、牧会をどのようにすれば良いのでしょうか。今、答がみな出てきました。七つの星と七つの霊を握っておられるとなっています。皆さん、未来が心配になるのでしょうか。聖書に何と言われているのでしょうか。ダビデの鍵を持たれた人がおっしゃられているとなっています。その方が、皆さんを守られるから、開けば閉じる人がなくて、閉じれば開ける人がいません。ひょっとして皆さんが不安な中にあるのでしょうか。イエス様がこのようにおっしゃっておられます。七つの星を捕まえて教会を守っておられるのです。七つの星を右手に捕まえて、皆さんを一つものがさないで、みな見守っておられるのです。これは2千年前のことではなくて、今、起きていることです。皆さん、本当にこの祝福を受けるように願います。それでは、結論を結びます。私たちはこの祝福をどのように味わうことができるのでしょうか。

・今から皆さんが十億ずつ献金をして、この祝福を受けるといえば、ほとんど大変でしょう。皆さんが今から立派な論文を書いて来なさいと言ったら、何人かはできるでしょう。多分、ここの教授はほとんどできるでしょう。論文を書いて祝福を受ける、ここにとてもお金を多く出せば祝福を受けるという時は、何人かはできます。イエス様はこのようにおっしゃられました。祈りの他には出て行くことができない。使徒1:4にも、心配せずにエルサレムを離れずに待ちなさい。どのようにということでしょうか。わたしの名で祈れば、何でも答え受けるようになります。皆さん、事実は2つのことだけ祈れば良いのです。イエス様の名前で祈って、皆さんには不安、心配、違ったことを、イエスの名前の権威を持って使うのです。今日一日だけでも答えを受けられます。長くなく、簡単です。今、私がみことばが入らないな。こうすれば、どのようにすべきでしょうか。みことば、祝福を防ぐこの暗闇の勢力、不信仰はイエスの名前で離れるように。それで、答えが来ています。簡単です。全く難しくありません。わたしの名前で祈れば、何でも答えを受けるようになる。そして、この万物が服従するほどの名前をくださったとなっています。皆さんは、からだが疲れる時もあるでしょう。その時、簡単に祈れば良いのです。イエス・キリストの名前で、すべての病気、弱さは離れるように。一言だけすれば良いのです。私はある時は、講壇に座った時、そのような気がする時があります。神様のみことばを伝えなければならないのに、何か気楽でない時があるのです。私はその時、確かに祈ります。みことばを防ぐ暗闇の勢力は、イエスの名前で離れるように。このように簡単です。

・宣教師の報告書を読みました。宣教の辺境地に伝道をしに入ったがイエスを信じないのです。この宣教師がとても難しかったのですが、あとで青年1人がイエス様を信じたのです。驚くべきことに、青年1人がイエス様を信じたが、本当に信じたのです。その時から、この青年が宣教師を手助けするために付いて回ったのです。ところで、この青年はよりによってその村の酋長の息子でした。だから、とても役に立ったのです。この青年がとてもがんばって倒れてしまいました。少し起きて大丈夫だといって、完全に倒れてしまったのです。病院に運んで行ったのですが、大きい市内病院で言われたのが、とても汗をたくさん流して苦労をしたので、少しだけ早くきたら大丈夫だったが、もうだめだと言われたのです。先ずは応急措置をしておいたが、医師が言う言葉が、今夜は越すのが難しいということでした。すでに今、脳とかすべての状態が難しいと言われたのです。酋長が大騷ぎしたのです。'あなたが私たちの息子にイエスを信じろということまでは良いが、このように連れて通って殺しても良いのか。'言うべきことがありません。宣教師がそれで、祈りが出てこなかったということです。これをどのようにしなければならないか。その時、こういう考えがかすめたということです。これが神様のみこころなのか。この子どもが、今、とても福音が良くて、福音を伝えて倒れて死ねば、これが神様のみこころなのか。

・'これは確かにサタンのしわざではないのか?'そのような気がしたということです。ただ一言だけ祈りました。宣教師は、大きい祈りはしなかったということです。手を握ったということです。本当に心で悟るようになったのです。これはサタンのしわざであって、どのようにこのようになるかということです。このようになれば、この町の伝道の門がみな閉じられるはずなので、サタンがこういうことをするのだ。それで、宣教師が腕をつかんで、とても静かに話したのです。それと共に本当に話しました。この息子を捕まえているサタン、イエスの名前で離れるように。この息子を置いて離れるように。ところで、この宣教師の胸の中に癒される、癒されないという以前に、これは確かに暗闇がするという気がしたということです。それで、心の底からイエスの名前の権威というものがどれくらい重要なのかを感じたということです。本当に不思議なことです。その日の夜を越えられないと言われたこの子がその日の夜に起きたのです。このようにして回復し始めて、朝には完全に回復しました。このようにして、すべての村一つをすべて生かすようになりました。その宣教師が実際に文を書いたのです。私がそれを見ながら、イエス様の権威がこのように簡単なことなのに、私たちはずっと複雑だと思っているのです。

・皆さん必ず記憶しなければなりません。この祝福を悟ることも出来ないイスラエルはほろびたのですが、悟りさえすれば生かされます。私たちは今日少しだけ祈りで味わえば良いのです。悟ることができなかったという話は何でしょうか。悟ったということは何でしょうか。これがどれくらい重要な話なのでしょうか。言葉を少しだけ変えれば、とても重要な話になります。皆さんがとても重要なナイフを乳飲み子に任せるでしょうか。大変なことになるではないでしょうか。とても鋭利な刃物は、刺身を作る人や医者たちが必要なので、それをなぜ子どもが持っているでしょうか。Iコリント3:1〜3に見ると、私たちの信仰が子どもと同じならば、神様が大きい祝福をくださらないとなっています。信仰が子どものようならば、乳飲み子のようになって、食物を良いのを食べられないから、消化力がなくてだめだと言われました。私たちが悟ったということは、信仰が成長した者になったのです。誰が、生まれた子どもを見て牛乳とサイダーのようなものを食べさせるでしょうか。そのようにしません。子どもが少し大きくなれば、離乳食を食べさせるべきで、直ちに鶏の丸焼きと食べ物を思いのままに食べさせてはだめでしょう。誰がなんと言っても、神様は皆さんを祝福してされるのに、悟っただけ答えられるのです。弟子たちが悟ることができなかったとなっています。皆さん、他の人を恨むことはありません。悟っただけ答えられるのです。それで、十字架に死んで復活されたということは、全てのものをみなできるという言葉になります。そのキリストが今でも皆さんを守っておられるのです。それで、少しだけ祈れば良いのです。また、何か私たちの信仰が少しだけ成長してしまえば、神様は大きい祝福を注がれるようになります。

・私が前に話したでしょう。私たちの娘が幼い時、幼稚園に通っている時は、どれくらい可愛く行動したかというと、私を呼びます。そのまま話せば良いでしょうに、ドアの影からこちらに来てと言うのです。入ればドアをバタンと閉じます。そのまま話せば良いのに、ドアを閉めるのです。そうしておいて、話せば良いのに、耳をかしてと言います。大きな秘密の話だと思って耳を傾けてみたら、百円だけくださいと言うのです。小さい時、そのようにしました。百円を与えれば、菓子を買って食べるのに50円が残ります。娘にはそれがものすごい額なのです。後ほどまた買って食べる希望があります。私がその子どもを見て、5万円、十万円ずつ与えても良いでしょうか。今、私たちの娘が現れて、パパ、百円だけくださいと言ったら、それがどれくらい変でしょうか。神様は信仰が成長しただけ、答えの祝福をずっとくださいます。簡単に話せば、悟っただけ、祝福をずっとくださるのです。恵みとは何でしょうか。どんな人が恵みを受けるのでしょうか。神様の真の恵みを恵みだと分かる者が恵みをずっと受けます。皆さん、祝福を誰が受けるのでしょうか。本当に神様の祝福を祝福だと分かる者がずっと受けるのです。皆さん、残った人生をどのように幸せに暮らすのでしょうか。本当に神様があたえられる幸福が何か知っている人がずっと受けるのです。

・私は、ミューラーという人が書いた本を読みながら、このように祈れば良いという気がしました。昔、韓国で祈った人々祈りを聞いてみれば、すばらしいのですが、初めてミューラーの信仰の人という本を見ながら祈りをこのようにすれば良いのだなということが分かりました。祈りがどれくらい簡単かわかりません。戦争が起きて、孤児になった子どもたちを、神様、両親がないこの子どもたちを手助けするのが神様のみこころではありませんか。そのように集めたら、2千人も集まったのです。そのように食べさせたら、ある時は、食べるものがありません。自分の友人と話してこのように話します。明朝、食べるものがないから、今、神様に祈ろう。友人が見て、あなたも孤児院の院長なのに、そんなに苦しいこともあるのか、明日の朝の食べ物を今、祈ってどのようにするのかと言います。しかし、ミューラーは信仰が違うのです。地下に行って祈りをしました。神様、戦争です。私たちの孤児がお父さんもなくて、お母さんもいません。あの子どもたちにご飯を食べさせなければなりません。ところで明日の朝、食事がありません。明日の朝の食事を神様が下さい。あの子供たちが明日の朝、御飯を食べられなければお腹がすいているということを神様がご存知でないですか。イエス様の名前で祈ります。そして終わりです。そして行って子どもたちの世話するのです。しかし、不思議なことが行われるのでした。皆さん、その本を見て知っているでしょうが、突然に夜明けに誰かが訪ねてきたのです。ずっと自分が祈っていたということで、子どもたちが数ヶ月食べる物を渡したのでした。

・祈りは、そんなに複雑ではありません。いつも仕事をしながら祈って、通いながら祈っていました。子ども1人が病気で倒れたのです。神様、この子が今、栄養失調にかかりました。だから、この子を生かせるように、他の子どもたちの栄養が足りない子どもたちも助けて下さい。そして、必ずする話があるのです。神様は確かにご存知です。イエス様の名前で祈ります。それだけ祈ったのです。祈って背を向けたら、何かドンと音がしました。出てみたら、牛乳を配達していた車がひっくり返ったのです。立て起こすのに時間がかかるから、急いで中に入っている牛乳を孤児院に全部持って入ったのです。小さい大変なことから祈りで。その内容は、とても幼稚に思えることですが、私の心に一つぶつかったことがあります。この人が信仰の人だな。だから、本のタイトルが信仰の人です。だから、私たちに神様がどれくらい大きい祝福を与えられたのでしょうか。

・今日、皆さんこの契約をとらえて出て行かなければなりません。今日、皆さんこの契約を捕まえれば、複雑なこと何もありません。今日、私たちは何を悟らなければならないのでしょうか。皆さんが受けなければならない呪いを、すでに十字架にかけてしまわれました。サタンの力から私たちを解放させられたのです。その程度ではありません。それに勝つ権威を与えられたのです。皆さんが契約だけ悟っても、私たちは大きい答えを受けます。今週に親戚に会えるでしょうが、最も重要なのは、皆さん個人が大きい癒しを受けて答えを受ける祝福の週になることを希望します。会ったら安らかに証しをして、彼らが福音を受けられる祝福が始まることを希望します。イエス様の十字架の死と復活ですべての問題を解決したように、今日、皆さんにもこういう答えが始まることをイエスの名前でお祈りします。祝福を受けるお盆になることをイエスの名前でお祈りします。隣の人を祝福しましょう。祝福されたお盆になるよう願います。皆さんの一言ならば、みな成就する。

<<契約の祈り>>
神様に感謝します。今日、悟る日になるようにして下さい。ユダヤ人が悟ることができなかったのですが、悟る時間が私たちにあることを祈ります。キリストの死と復活の力が何かを悟る実際的な答えの時間になるようにして下さい。イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン