2005年9月25日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/忠実な信仰の人がにぎったみことば
(詩119:33〜40)

・昔の教会史になくてはいけない重要な人物3人がいます。そのうち1人がダビデです。また1人が、パウロで、宗教改革を起こしたマルチン・ルターです。この三人の特徴が賛美の人でした。考えられないことに、ダビデは将軍であったのに、とても賛美の人でした。パウロもそうで、ルターもそうでした。その祝福を私たちの聖徒と聖歌隊員が受けるように願います。本当に賛美を祈りで賛美する時、暗闇の勢力が崩れます。

・今から500年前のことです。この賛美の人であるルターが重要なことを悟りました。教会が全く福音がない、これは完全福音ではないということを悟ったのです。これを悟ったということは、普通の悟りではありません。本来、福音と律法が言い争いをすれば、律法が勝ちます。律法で昔にカトリックがとても強調したのが何かというと、清貧です。そして勤勉です。秩序です。こういうものを強調したので、それは全く違った話ではありません。それもできないのに 'ただイエスだけ' と言えば、むしろ、ただイエスだけと言う人が変なのです。こういう強大なカトリックの中でマルチン・ルターが悟ったのです。'私たちが努力をしても救われるのか? 本当に聖堂の階段を膝に上がり下りすれば救われるのか? 私たちが真に多くの献身と努力をすれば救われるのか? それではないだろう。' 'ただ義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17)'その前の16節が重要です。パウロがこう話しました。'私が福音を恥じない。'この福音は信じる者に救いをあたえる神様の力だ。そのように言いながら'ただ義人は信仰によって生きる'と告げたのです。すると力を持って強大なカトリックがマルチン・ルターをそのまま置いておくわけがありません。教会法廷に立てて、死刑宣告をくだしました。その時がまさに今から約500年前である1517年です。

・本当に不思議なことが行われたのです。そのような中で、ルターが福音を悟ったとのことも本当に不思議なことですが、ルターを移していく時に、誰なのかわからないのですが、ルターを奪っていって保護したのです。ルターが処刑されるべきなのに、処刑されないで生き残ったから問題が変わったのです。あちこちでルターが '正しい、違う'という論議が起きたのです。ヨーロッパ全域でルターは'異端だ、違う'という論議が起きたのです。それで、ヨーロッパ各国ではイエスを信じる人々を処刑することが起きました。マルチン・ルターの一言が普通の事件ではなくて、全地球がひっくり返る事件が起きたのでした。スペインに行ってみたら、有名な広場がありますが、そちらはイエスを信じる人々を処刑した場所です。言わばマルチン・ルターの肩を持った人々を殺したところです。こういう霊的戦いということは恐ろしいものなのです。そして、ある時です。そのような論議が行われているのに学者1人が現れたのです。それでカトリック学者が全く質問をできず、言えないように説明をしたのです。それも原稿一つもなく、正確に聖書みことばと文書を引用しながら、三時間半を話しました。言わばカトリック理論が違って、マルチン・ルター理論が正しいという証拠を三時間半を語ったのでした。

・どの程度、働きが起きたかというと、そこに参加したすべての神父が、その人の話を聞いて正しいと言いました。'私たちの自体改革しよう'それでイグナティウス・デ・ロヨラ[Ignatius de Loyola,1491〜1556]という人が'私たちのカトリック改革しよう'と言いました。その話した人が誰でしょうか? 三時間半を全教会とカトリックの口を開けないように話した人が誰かということです。その人が、まさにジョン・カルヴィンです。ジョン・カルヴィンが27才で、ものすごい本を書いたのですが、その本がキリスト教綱要です。ジョン・カルヴィンが、聖書66冊をみな研究した後にした話があります。'どの場合でも、神様の子どもはほろびない。'このように結論を出したのです。マルチン・ルターが下ろした結論もそうです。神学的に聖徒の究極的救いと言います。それで、どの場合がきても神様の子どもはほろびません。神様の子どもに勝てません。聖書66巻を持って証拠を出したのです。

・アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフをいくらなくそうとしても、なくせませんでした。エジプトがイスラエル民族を完全になくそうとしたのですが、むしろエジプトが崩れました。バビロン、アッシリヤ、ローマ、こういう国がいくら神様の民をなくそうとしても、なくすことができなかったのです。ヨハネの黙示録に、最後の時に、ものすごいことが行われるが、神様の子どもは崩れない。このように結論を出したのです。とてもよく下ろした結論です。事実、皆さんが本当に救われたということは、身分が変わったので、勝利するようになっているのです。

・結局、最後になると、皆さんの過去に困難を受けたことも祝福です。後ほどヨセフが総理になって見たら、お母さんが早く亡くなったのも、それも祝福でした。ラケルは誰でしょうか? ラケルが生きていれば、ヨセフが家を出て行くでしょうか? ラケルが生きていたら、ヨセフが兄に冷遇されていたでしょうか? ヨセフが家を出なければ、どのように総理になるでしょうか? ですから、救われた神様の子どもは、失敗までも成功に変わるのです。少し極端な話をするなら、救われた神様の子どもは、祈らなくても答えを受けます。それでは、何が違いが生じるのでしょうか? 今日、皆さんが救われたので、身分が完全に変わりました。羊の血を塗った人々は、死なないで解放されて出たということです。誰でも主の名を呼ぶ者は救われるとなっています。しかし、一つが差があるのです。皆さんが神様のみことばを正しく知れば祈りの答えを正しく味わいながら行くのです。そうでなければ、いつも過ぎ去った後に悟るのです。皆さんが神様のみことばを正しく知って、祈りの奥義を持った人ならば、時刻表を正確に知るようになります。

・しかし、結論は全く同じです。神様の子どもが天国に行って、神様の子どもが勝利するということは、全く同じです。ところで、神様のみことばを正しく知らなくて、祈りの奥義がなければ、いつも時刻表を知らないのです。そして、神様のみことばを正しく悟って本当に祈る人ならば、いつも感謝が出てきます。そうでなければ、いつも過ぎ去った後に感謝が出てくるのです。病院に入院して退院した後に感謝する式です。真の感謝は、病院に行く前にすれば良いのに、それができないのです。今日、皆さんがここで礼拝するということがどれくらい感謝でしょうか? しかし、これが良くならなくなるということです。交通事故にあって、50m程度はねられた後に、その時、生きて感謝したりするのです。そのような差が出ます。簡単に話せば、みことばを正しく知って祈れば、いつも味わうようになるのですが、それを味わうことができないようになるのです。しかし、結論は同じです。結論は同じだけれど、私たちの過程である信仰生活の中で、そのような違いが生じるのです。そうかと言って、私たちが聖書だけ読んで座っていられるでしょうか? そうかと言って、私たちが神学勉強をつくさなければならないのでしょうか? 正しく福音を悟れなかった人が神学勉強をすれば、さらに問題がきます。だから、どのようにすべきでしょうか?

・それで今日、最初に悟るべきことは何でしょうか? 聖書にあるメッセージは、基本的なことは私のことにしなければなりません。これは必ず記憶しなければなりません。聖書66巻の基本は、私のことにしなければなりません。もちろん知らなくても救われて、無条件に信じれば救われます。しかし、そのような人々は大きいことをすることができなく、大きな答えを味わうことができません。私たちが最も最初にすべきことが、神様のみことばに関するメッセージが正しく整理されなければならないのが一番重要です。それで、聖書66巻を神様の私たちに与えられたのです。それなら、このものすごいことをここでみな話そうとするなら大変ですが、それでもあらましどんなものかは知っていなければなりません。皆さんが本当に祈りの答えを受けようとするなら、メッセージがどのように整理されるべきでしょうか? 大きく五つに整理されられなければなりません。

・その最初が、聖書で最も重要な核は、皆さんもおわかりの通りメシヤとキリストです。しかし、サタンはすべて知るようにしても、これだけ知らないようにさせるのです。それで、皆さんは信仰生活するのに、知っていなければならないのです。教会史を見れば、いつでもこの2つの戦いです。言わば律法か福音か、この戦いでした。パリサイ人は律法で、初代教会は福音です。カトリックも律法であったし、改革教会は福音でした。今教会も福音がなくなりながら、しきりに律法に行っています。この流れが続いているのです。それで、律法も話せば良いことがとても多いのです。直ちに今、称賛を受けようとするなら、福音より律法を持ってこそ称賛を受けます。それが悪いという言葉ではありません。重要なのが何でしょうか? サタンは皆さんが全部すべて持っていても、一つだけなければ勝つのです。女の子孫が蛇の頭を踏み砕く。これがメシヤ、キリストではないでしょうか? これだけ知らなければ、皆さんは完全失敗するから、サタンの戦略です。

・羊の血を塗る日、解放されて出る。出エジプト3:18福音です。話になるでしょうか? ぱっと見れば、話になりません。エジプトの奴隷なっていれば、しっかりして、力を大きくして出るべきで、何の血を塗って出るのでしょうか? と話せるでしょう。しかし、記憶しなければなりません。皆さんは、この部分だけ知らなければ、完全にサタンのしもべになるから、この部分をのがしてはならないのです。捕虜になっていたので、女がみごもって、男の子を産む。その名をインマヌエルだと呼ばれる。イザヤ7:14です。この話を誰が一番最初にしたかというと、ペテロが言いました。'主は生ける神の御子キリストです。'マタイ16:16です。それで、サタンはこれ一つだけ恐れをなすのです。他のものは絶対に恐れをなしません。

・それで'キリスト名前で話すなと言ったのに、なぜ話すのか? 'これがパリサイ人の質問です。その時、ペテロがした返事が,'世界中で救われるべき名としては、どのような名もくださっていない'全く同じ言葉です。カトリックでマルチン・ルターを罪に定めた時'どうして行いでなく、信仰で救われるのか?'その時、ルターの返事は'イエスを信じる信仰で救われる。'同じように反復されてきたのです。皆さんは直ちにどちら側だと思うでしょうか? 例えばソウンに問題が生じれば、福音で見るでしょうか? 律法で見るでしょうか? 

・皆さんはどちら側でしょうか? 皆さんが妻や夫を見る時、福音の目で見るでしょうか? 律法の目で見るのでしょうか? 問題が起きた時、福音なのか律法なのか? だから皆さんがどちら側かということです。それが問題です。そうではないでしょうか?ですから、聖書で最も重要な部分がメシヤ、キリスト、この言葉なのに、この単語を誰が知らないでしょうか? ユダヤ人がメシヤだけ待っていたのに、単語を知らないでしょうか? 問題は、この人たちが、福音側ではなく、律法側にいたということです。私たちが律法側だったら、僧侶やマザーテレサのような方は、いくらでも私たちよりさらに良いでしょう。優しいことをしたが、救われるのではありません。とても必要なことはしたのですが、サタンに勝つのではありません。あまりにも重要なことをしたのですが、運命を変えられません。必ずはっきり調べれば、そのように必要なことでもありません。私は駅前の乞食を見ながら、あの人達にはうどんが必要なのではなく、精神を直してあげなければならないと思いました。そのように考えませんか? 皆さんは、どちら側でしょうか? これが問題です。皆さんが無条件に祈れば答えがきて、そうでなければやめて、そのように考えるのですが、そうではありません。聖書に最も重要な核が福音なのですが、この部分をほとんどみな知らずに違う側に立っているのです。

・それから二番目です。聖書の何を知っているべきでしょうか? 霊的存在は、普通の存在ではありません。この目に見えないサタンは、世界全体を確かに掌握しています。この目に見えない暗闇の勢力は、皆さんの子どもをずっと触ります。皆さんが本当に福音を悟れないようにずっと触るのです。ある時は、光の天使で、Iコリント11:14に良いことが現れるから、皆さんがみなだまされてしまうのです。美しい宗教、制度のようなものを作るから、みなそちらに行くのです。それで、結局は滅亡させるのです。ここにムダン(霊媒師)の子どもはいるでしょうか? 説明をよくわかるでしょう。むしろ神学者らよりムダン(霊媒師)の子どもがさらによくわかります。何の話だかわかるからです。それで、私たちが二番目に悟らなければならないことは、神様が与えられた霊的な祝福を分からなければならないのです。それで目に見えなく信じる者に聖霊で働かれます。信じる者に主の天使を送られます。それで、サタンに勝つ権威を与えると言われたのです。何の話かわかりますか? これが聖書で二番目に悟らなければならない部分です。聖書が正しく私のものにならなくなっていれば、私が勝利できません。

・その次の三番目は何でしょうか? 世の中は、そんなに簡単ではありません。世の中が簡単でしょうか? 自分勝手に暮らしてみれば良くなるでしょうか? 世の中がたくさん良いことがあるのですが、そんなことは、みな暗闇に陥るのです。それで、私たちは聖書で世の中で勝てる20個の戦略を探し出したのです。それで、基礎五つがとても重要です。皆さんが個人タラッパンができなければ、絶対に世の中で勝てません。そうしてこそ、出会う人ごとに生かせるのです。それがチームの働きです。皆さんの家が、ミッションホームにならなければ、絶対に生かせません。皆さん職業が祝福を受けられなければ生かすことができないから、専門の働きという言葉が出ました。地域の弟子を探すことを逃せば、みな逃すから、地域教会という言葉が出たのです。この五つが基礎です。

・それで、これをするために訓練五つが出てきたのです。訓練を正しく受ける人は、何十年の祝福を操り上げて受けられます。ある人が私に証ししました。合宿訓練を受ける間に、自分が18年の間病んだ病気にがよくなったと言いました。そういうこともあるでしょう。神様が喜ばれることならば…その次に、チームの合宿を受ける間に、自分の会社が他の人が何十年の間で受ける答えを、一週間で受けた場合もありました。そのようなこともあります。本当に訓練を受けたとすれば、それが訓練です。それで、私たちのタラッパンには五つの訓練があります。みな聖書で捜し出したのです。それから何でしょうか? 現場に敷かれる弟子です。これが五つのシステムです。

・聖書を詳しく見ましょう。そして、五つの未来、共同体は未来を言うのです。聖書を詳しく見ましょう。これが三番目です。このように整理されられていなければなりません。その次の四番目は何でしょうか?

・この3つになっていれば、当然に来る答えが伝道と宣教です。自分の問題も解決しないのに、どのように伝道ができるでしょうか? 私が苦しくて死にそうなのに、どのように正しい伝道ができるでしょうか? 私が答えを受けるため、正しい伝道ができるのではないでしょうか? この四つをみな味わうことを祈りと言います。この聖書五つの原理が、私のものにならなければなりません。これを知っていた初代教会は、世界を征服したのです。難しいでしょうか? この祝福がどうして難しいのでしょうか?無駄に就職もできない学校で論文も書くのにです。博士論文を書くならば、死ぬほど苦労して書くのに、就職が60%もできません。正しく留学行ってきて勉強した人が、韓国の地でも、地域で正しく自分の機能を発揮する人が本当に半分にもなりません。それでもするのに、なぜこういう祝福をのがすかということです。それで訓練のがしてはなりません。真に人々は愚かです。本当に愚かです。職場のなかで公務員たちや軍人、警察官が昇進しようともがきます。ところで、より大きい祝福のためには、一生を生かせるのに、もがきません。だから救われたのに、答えがいつも時刻表と合わなくて、いつも問題がくるのです。

・救いは受けます。イエスを信じれば救われるのです。皆さんの身分は完全に変わったのですが、生きる間に、この答えがとても重要なのです。この時から、二番目の事が行われます。聖書が正しく整理されていれば、二番目の事が行われるのですが、これがまさに今日の本文です。今日の本文に3つの味わうことが出てきました。33〜34節に見ると、このような話が出ています。特に34節に'私に悟りを与えてください。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。'この時から悟れただけ、答えがきます。みことばを聞いて、悟りさえすれば、全部、答えに変わるのです。それで、34節に、私で悟りを与えてください。と言われているのです。成功したレムナントを見れば、二つの種類があります。聖書を詳しく見てください。初めから悟った人がいて、後ほど悟った人がいます。これが重要です。

・サムエル、ヨセフ、ダビデ、こういう人々は初めから悟りました。後ほど悟った人々を見れば、たくさんありますが、モーセのような人は80才の時に悟りました。パウロのような人は、年齢が40を越えて悟りました。こういう差があります。それで、レムナントに訓練を受けなさいという理由が、初めから悟ってしまえば、ずっと働きが起きるためです。それで悟って聖書を見れば、福音中心、霊的な事実中心、神様のみことばが成就するのを中心に記録されたということを知るようになります。それで悟っただけ、答えを受けます。この時から、もう一つが出てくるのです。35節に見ると、このようなみことばが出てきました。私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。聖書よく見ていますか。40節にこのとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。どうかあなたの義によって、私を生かしてください。40節には、慕っている、35節には喜んでいますとなっています。何の話なのでしょうか。味わっただけ幸せになるのです。神様のみことばを悟っただけ、答えを受けます。

・皆さんが神様みことばを味わうだけ、幸せになるのです。今日の本文を見ましょう。喜びます。これが最初に話したことを知らなければ、後の話が何の話なのか全くわかりません。メッセージが私に整理になっていてこそ、何の話なのか分かるのですが、そうでなければ全くわからないのです。味わうだけ、祝福を受けます。味わうだけ、幸せです。私たちはおもに何をするかを悩みます。教会で何をしなければならないのか。
どのようにしなければならないのか。これは違った話でもありませんが、正しい質問でもないのです。普通の人が質問すれば、どのようにすれば良いか。私が何をするのかと言います。間違った質問です。何を持っているのか。これが重要なのです。私が何を持っているかということです。真の福音を持っていてこそ、本当に幸せなのです。私が何を持っているのかにしたがって、見る目も変わります。私が何を持っているのかにしたがって、見る目が変わって、見ることが変われば、することも変わります。私が何を持っているかにしたがって、方法も出てくるのです。私が持っていないのに、何の方法が出てくるのでしょうか。私が違ったことを持っているのに、どのように方法が正しく出てくるのでしょうか。だめになります。福音運動、神様のみことばは味わうだけ、幸せになります。真の福音を持ってしまえば、過去も問題になりません。

・昔に私がある学生が相談したのですが、この学生が昔にあった事を私に相談をするのに、とても恐ろしいことを普通に話すのでした。それで、私がその学生にそのことを忘れてしまって、そのような考えもせずに、どこかへ行って話もしないようにと言いました。もちろん、私が牧師だから、私にそのような話をしたのでしょうが、どこかへ行って話さないようにと言いました。ぞっとしたことを普通に話すのです。本当に福音を悟ってしまえば、どうなるでしょうか。'私が過去にそうだったか?'このようになります。'私がどうしてそんなに生きていたのだろうか?'不思議に思うほど、私のことではないようだ。それが真の福音を悟った人です。何の証しがあるでしょうか。本当に福音を受けた人は証しがありません。パウロは証しすることがないと言いました。証しすることがただ一つだけあると言いました。私の弱いことを自慢するのです。それは本当に福音を受けた人です。私が弱い時、むしろ正常になります。なぜか、主が私と一緒におられるからです。パウロがそのように告白しました。それでUコリント11章12章に、私の自慢することは弱いことしかないと言いました。福音を正しく悟った人です。例えばアルコール中毒になってさ迷った人が、福音を受けて良くなりました。その人が酒を見たら、どうでしょうか。私が昔にどのようにあれを飲んで生きたのか。あれを夜明けに何本ずつ飲んでいたのに、私が生きているのが奇跡だ。と思うでしょう。言わば、この人が真の福音を悟って、過去が終わったのです。しかし、毎日、酒場の前をすぎながら、舌打ちすれば、まだ切れていないのではないでしょうか。それは終わったのではありません。耐えるべきだとすれば、終わったのではありません。おもに皆さんが証しする人々の証しを一度聞いてみてください。本当に、過去が難しかったか、昔に問題があった人々は、恵みと福音を悟れば、私が昔にどうしてそんなに生きていたのかと思うでしょう。しかし、終わっていない人々は、昔のことを引き出して、一時間ほど泣きます。みな終わったのを、なぜ泣くのでしょうか。それは、まだ終わったのではないのです。このみことばを味わうだけ、幸せになります。ダビデがする言葉が、私は主の戒めを喜びます。幸いな人は、主の教えを夜昼で黙想しながら喜ぶ。この話は、普通の話ではありません。味わうだけ、幸せになります。

・ヘブル11章の旧約の人物を見ましょう。ある人には危機がきました。その時も、みことばを味わいながら、成功しました。だから勝利するしかありません。37節を見ましょう。詩119:37を見れば、むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてくださいと言いました。信仰に深く根をおろしただけ、私と世の中を変化させられるのです。今日、皆さんがメッセージを全世界にいる私たちのメンバー、インマヌエル家族が絶対に逃してはいけません。聖書にある基本的なことが私のことになってこそ、勝利することができます。その時から、二番目の事が行われるのですが、それが今日の本文です。悟っただけ、答えがきます。その時から、私がこのみことばを味わうだけ、幸せになります。そういうことはないでしょうか。みことばがとても恵みになる時はないでしょうか。それが真の幸福です。それが続けば、どうなるのでしょうか。その次は何でしょうか。信仰に根をおろしただけ、世の中を変化させることができます。私が信仰を持っただけ、私を変化させるのです。それが今日の本文に出てきた内容です。皆さん、みことばを正しく悟らなければなりません。

・この信仰は、どんな信仰を言うのでしょうか。信仰は三つあります。救われる信仰、神様の力を信じる信仰、みことばを信じる信仰があります。聖書は何の本でしょうか。奇跡の本です。神様はどなたなのでしょうか。創造主、奇跡の神様です。私たちは誰でしょうか。奇跡の民です。救われたことが奇跡です。驚くことです。皆さんサタンを一度も見ないからそうであって、救われたということが奇跡です。皆さん、呪いの中から抜け出していないからであって、私たちが地獄から救い出されたこと自体が奇跡です。皆さんが本当に苦痛の中で滅亡の中で暮らしてみないからであって、私たちが福音を持った教会に座っているということ自体が奇跡です。私はマルチン・ルター時代に生まれて、カトリックの下にお手伝いしていず、今、この時代にいるということも奇跡です。私は北朝鮮で生まれないで、韓国で生まれたことも奇跡です。どれくらい神様の前に、私たちは感謝することが多いかわかりません。必ず信仰はみわざが起きます。不信仰も信仰です。それで、必ず不信仰のみわざが起きます。不信も信仰です。信じているのです。だから不信仰のみわざがずっと起きるのです。皆さん本当に正しく信仰をもって祈らなければなりません。

・同僚、子ども、家族もいつも信じていなければなりません。そうしてこそ、皆さんの子どもが答えを受けるのです。ヨセフがヤコブが持ったその信仰が役に立ちました。ヨセフが神様を信じたのですが、難しい時、お父さんを考えたことと思います。なぜなら、創世記37:11を見れば、ヨセフが言う言葉を、ヤコブが心に留めていたと言われています。今日の本文にあります。悟るだけ、答えを受けます。味わうだけ、幸せになります。私が信じるだけ、働きが起きます。それが今日の本文です。それなら、三番目に大きい結論を下さなければなりません。

・これを悟った人は、礼拝一つだけ持っても勝利します。これが三番目の結論です。なぜか、詩篇自体が礼拝の本です。聖書をたくさん読まないでもかまいません。礼拝だけ正しくささげれば良いのです。礼拝をどのようにささげなければならないのでしょうか。礼拝だけ正しくささげても働きが起きます。皆さんが賛美する時、私たちの聖歌隊員が賛美する時、皆さんが賛美を練習する時、必ず記憶しなければなりません。その時に天の門が開くと聖書を見れば書かれています。私たちが目に見えないからそうであって、その時に神様が栄光を受けられるとなっています。詩20:3にその時に、神様が臨在されるとなっています。賛美する時、悪霊がその時に離れました。祈りの大きい答えを見れば、いつでも賛美する時に起きたのです。それを知って賛美しなければなりません。だから礼拝だけ正しくささげても勝利します。聖歌隊を見ると、ほとんどの教会を見れば、単にしています。ある教会を見れば、毎日、指揮者と伴奏者、聖歌隊員が合わないで戦って葛藤ができます。そして、皆さんが祈る時や説教者、長老が祈る時、この時、黙示録を見ると、神様が主の使いを送って、その祈りをみな受けて、御座に持って行くとなっています。だから、重要な要素がそれではないのでしょうか。その次に説教でしょう。説教は、皆さんが神様の民に間違いないならば、誰を通じようが、神様がご自分の御声を聞かせてくださるでしょう。皆さんが祝福を慕ったら、神様が誰を通してでも、自分の御声を聞かせてくださるのではないでしょうか。それが説教です。もう一つは何でしょうか。私たちの献金です。献金は、簡単に話せば信仰告白です。献金は、皆さんの信仰告白になってこそ、経済が祝福を受けます。私は献金をする時ごとに、いつも感謝するが、申し訳ないのです。子どものために、家族のために、友人のために、どれくらい多く使っているでしょうか。神様に私たちがどれくらいケチでしょうか。私は、その時ごとにいつも思います。'神様、私に経済の祝福を与えて下さい。一千万弟子を立て起こす程。'いつも祈っています。だから、礼拝だけ持っても勝利するのです。それで、最後にもう一つの礼拝があるのですが、皆さんがこの礼拝の時に受けたみことばと恵みをもって、定刻の祈りを少しだけすれば、働きが起きます。皆さん今日、詩篇.119篇を持って、礼拝の祝福、みことばの祝福を正しく受ける皆さんになるように願います。

・私がほろびる時期がありました。その時の特徴があります。2つの特徴があるのですが、教会がいつも戦って、私は恵みを受けられなかったのです。これが私がほろびる時期でした。私が率直に告白します。伝道運動を起こしながらも、私はだめな時期がありました。ある日、私が悟ったのです。礼拝回復にできないのだな。私が礼拝回復をいつしたかというと、伝道師の時もできなくて、副牧師の時にしました。不思議なことです。これがサタンのしわざです。その時に見たら、役員など、長老がつまらないことでいつも戦うので、その人たちを見たら、恵みになりません。また牧師が言うことを静かに聞けば、けんかをするようにさせるのです。全く同じです。これだから教会が恵みになりません。牧師が説教すれば、神様のみことばを受けなければならないのに、嘘だと思ってしまいます。説教を聞く時ごとに、自分でも良くしたらよいのにという気がしました。ある日、私が悟ったのです。神様の恵みです。私が牧師に話したのです。先生、私が副牧師ですが、お手伝いだけ継続するのではなく、礼拝に恵みを受けるようにしてくださいと言いました。本当に不思議なことです。その時から答えが来始めました。この礼拝回復がどれくらい重要かわかりません。

・私は礼拝回復を2回、経験したことがあります。幼い時、とても恵みを受けることができなくて、礼拝がつまらなかったのです。それで、私がシン・ヒョンキュン牧師、復興師のその方に感謝する理由が、私が幼い時、その方の説教を聞いて恵みを受けたのです。それを見れば、復興師が必要です。私が偶然に、その集会に参加しました。私が初めて感じたのが、時間がとてもはやく過ぎると感じたのです。この方がひとまず笑わせます。私がいつも押さえられて、閉じられていて、ひとまず笑ったから、気がせいせいしました。静かにみことばを聞き始めました。それに恵みを受けたのに、私の人生が変わるようになったのです。だから、私が牧師になって、シン・ヒョンキュン牧師の教会に集会に行きました。他の人が見る時には通常ですが、私は胸の中にすばらしい気がしたのです。

・私が幼い時に信仰なくさまよって、シン・ヒョンキュン牧師の説教を聞いて、本当にうれしいと考えたのに、私がその教会の復興会をしに行ったということです。それで私がその話をシン・ヒョンキュン牧師にしました。牧師も笑われました。そのようにだけ恵みを受けたのに、私の人生が変わったのです。私が副牧師になって、礼拝回復できなかったのです。多くの人と仕事のためにです。礼拝回復をしなければならないと考えてから、答えを受けました。本当に驚くことです。こういうやさしいことを、私たちはずっと難しくするのです。みことばは、今でも生きて働いています。もちろん、結論は皆さんが今から聖書に絶対に読まないで死んでも、祈らずに、絶対に礼拝を勝手に見ても、救いは受けます。よかった。どうせ、それでも読まない、聖書を死んでも読まずに、祈りを絶対にせずに、礼拝は勝手に差し上げて、それでも本当にイエスを信じれば救われます。それでは苦労がちょっと多いのです。それを見てI、Uコリントにパウロは恥ずかしい救いを受けると言いました。

・私が昔に話したでしょう。大牙ホテルに火事が起こりました。なぜ出たのかは知りませんが、とにかく火事が起こったのです。問題は24時間サウナです。その後にはなくなったのか知りませんが、その時は3階は男湯、4階は女湯でした。下から火がついたので、どうなるでしょう。私は驚きました。火事が起ったので、人々が正常な感覚でないではないでしょう。女の人が、4階からそのまま飛び降りたのです。全く恥じることもなく、完全に出てくる人ごとに服を着ていませんでした。目を隠しながらも見ていました。それでも降りてきたのです。出てきて見たら、恥ずかしいのです。それでも、その顔が幸いだという顔でした。恥ずかしいからそうであって救いを受けることは受けます。みことばを回復しなければなりません。私たちの横の人に話しましょう。'みことば回復しましょう。' '訓練を回復しましょう。'それでこそ生かされます。皆さんに新しい人生が始まることをイエスの名前でお祈りします。

<<契約の祈り>>
神様に感謝します。神様のみことばを受けた人々のように、私たちも勝利するようにして下さい。新しい恵みを受ける祝福の日になることを祈ります。全国にいる私たちのインマヌエルの家族と全世界にいる私たちの使命者に神様が祝福して下さい。生きておられる主イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン