2007年2月11日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/みことばについて行く者
(詩119:105)
<ファン・サンベ牧師>

■先週、一週間、勝利しましたか。私たちが一週間、みことばを握って過ごすということがどれくらい大事な祝福かわかりません。私たちは先週、こういうみことばを受けました。私がどんな苦しみに会っても問題はない。祈れる力だけ持っているならば、何の問題にならない。苦しみに会って、祈る力がないならば、困難にあう。問題の中でも、私に祈る力さえあるならば、祈りの中で勝利する。一週間の間、ある方は良いことがあったでしょうし、ある方は大変なことがあったでしょう。
■私たちは一日一日を生きていきながら、神様のみことばが私の人生に最高の祝福のみことばがなるように、そのみことばを捕まえる、そのような信念を持つように願います。私たちが問題に会った時、神様を待ち望めることが、どれくらい大きい祝福かわかりません。考えれば考えるほど、神様を待ち望むということがとても尊いということを感じます。もし困難にあった時、神様を待ち望む奥義がないならば、どれくらい残念でしょうか。
■神様が私たちを創造された時、私たちすべての人間は神様を待ち望みながら生きるように作られました。神様を知らなければ、結局は、霊的に苦しめられながら生きるように作られたのです。世の中の、どんなことを持っていても、神様を知らなければ人生が満足できません。私たちの人間は霊的存在だから、私のたましいが霊的に満足しなければ、何か探し回るようになっています。それをさまよいと言います。私のたましいが満足する時、神様の働きによって力を得るのです。人生で神様に会えなければ、重要なのをのがして生きるようになります。何が正しいのか、何が違うのか、判断基準も薄くなります。これが正しいのか、正しくないのか、区分も良くできません。
■私が何日か前に、インターネットを通してこういう内容を見ました。「亡くなったお父さんが生き返った」そのようなタイトルでした。そのタイトル自体がとても好奇心をそそがれました。どのように亡くなった人が生き返ってきたということでしょうか。こういう内容でした。ある家で葬儀を行ったのです。お父さんの葬式を終わって、家に戻って葬儀する時に使った箱を開いてみたところ、その箱なかから蝶々一匹が出てきたのです。すべての家族が「この蝶々は、亡くなったお父さんが生まれ変わって私たちの家庭にきた。」と信じたのです。その蝶々に食べ物も持ってきて、とてもていねいに世話をしていました。お父さんだと信じているためでした。生まれ変わったと家族すべてが信じていました。子ども達もそのように考えて、その奥さんもそのように考えていました。
■福音を分かれば簡単です。私たちが神様に会って福音を持っているということがどれくらい大きい祝福なのでしょうか。世の中で人々はなぜこのようなことがおきるのか、理解をすることができないこともあります。しかし、私たちが福音を持っていれば、なぜこのようなことがおきるしかないのか、その理由まで知ることができます。こういう霊的な目を持って生きるということが神様のものすごい祝福なのです。この霊的な目を持てなければ、結局は、世の中の肉体的なものにだけで満足して暮らします。皆さんのたましいに、今日もいのちの神様のみことばが臨むように願います。
■科学はますます発展しています。ますます住みやすい世の中を作ると多くの人々が叫びます。教育率はますます高まって行きます。数多くの人が大学を卒業します。数多くの人々が博士学位を受けています。それにもかかわらず、この霊的な問題を知らずに生きていくのです。大学で教えない霊的な問題、どんな専門家も知らないこの霊的な問題、政治家が知らないこの霊的な問題を、聖書では私たちに明らかな答えを語っているのです。現代人の病気の中で約30%が、こういう病気を持っているということです。それがまさにうつ病です。10人中の3人は、そのような症状を経験するということです。日が進むにつれ深刻化します。
■昨日も見たら、衝撃的な知らせを聞きました。芸能人は、多くの人気を受けて生きていっています。彼らもみな神様に会わなければならない人なのです。宗教生活せずに本物の福音を分からなければなりません。少しだけ神様と交わることができる奥義さえ分かったら、どんな問題も解決することができるのです。うつ病に苦しめられてみるならば、サタンがそれをそのまま置いておきません。うつ病自体が霊的な病気です。そこにサタンが働くのです。それで、ますます深くなるのです。自殺したい考えまでもサタンが持ってきます。一瞬、サタンに掌握されれば、結局は、本人がコントロールすることができない行動をとるようになります。引続き衝撃的な話が報道されているのですが、あまりにも残念です。
■私たちが神様に会って、神様のみことば聞くということ自体が、とても幸せなことです。神様を待ち望みながら祈れることが、あまりにも幸せなことです。ひょっとして、私たちの中で難しいことに会っている方がいるならば、神様に会うように願います。「神様、私はこうです。神様、今日、私の状態はがこうです。今日、この困難の中に私がいます。」からだを病んでいる人はいますか。「神様、私はからだがこのように病気です。自分の病気の中に主が働いて下さい。この問題の中に主が働いて下さい。」どんな環境の中にあっても、神様と交わることができる祈りの力を持っているならば勝利するということです。
■今日、私たちの礼拝が祝福された礼拝になることを希望します。考えだけ変えれば良いのです。今日、今、私にこの時間、聖霊で働いて下さい。今日、この礼拝の意味をよく知らずに来られた方がいますか。私がなぜここに座っているのか知らない方がいますか。ありえます。聖日に教会に来なければ、だめだと言う人がそばにいるから、やむを得ずついてきた人もいるでしょうし、他の目的を持ってきた人もいるでしょう。今日、そのような方も恵みを受けるように願います。今日、そのような方も考えが変わるように願います。今、私に聖霊で働いて下さい。講壇を通して私が契約のみことばを捕まえるようにさせて下さい。
■私たちの人間は、みことばだけ聞けば生きることができます。どんなに大変な瞬間があっても、みことばだけあれば生きるようになっているのです。救われた人はそうです。神様の子どもはそうです。みことばを聞けば、神様が恵みをくださるようになっています。そのみことばを捕まえれば、霊的な力を得るようになっています。みことばをつかんでいれば、もう一つだけすれば良いのです。そのみことば捕まえて、もう少し祈れば良いのです。たくさん祈れば途方もない働きが起きるから、少しだけ祈ったら良いのです。それから始めなさいということです。今日、この礼拝が最高に祝福された礼拝になるように、主の御名で祝福します。今日、私たちの礼拝が幸せな礼拝になるように願います。礼拝をささげる時ごとに幸せで、希望があふれて、真の心の平安があって、今日、そのような礼拝になるように願います。
■聖書は話しています。Iペテロ5章7節を見れば「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」私たちのすべての心配をみな主にゆだねなさいと聖書は話しています。心配をそのまま忘れてしまいなさいと話してはいません。「忘れてしまいなさい。捨てなさい。考えないで。」というのは、宗教です。宗教はそのように言っています。しかし、主はそのようにおっしゃいません。「すべての心配をみなわたしにゆだねなさい。」主に任せなさいとおっしゃられるのです。その理由は何でしょうか。主が解決する力があるからです。すべての心配を主に任せる時、主は力で働かれます。
■ヨハネの福音書14章1節には「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われ、マタイの福音書11章28節には「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」人生に疲れ、重荷があるならば、私たちの主にみな任せるように願います。本当にみな任せてしまうように願います。不信仰せずに、みな任せるように願います。大声でアーメンと言っておいて、帰る時、また一つ一つカバンに入れて帰って、家に戻って開けてため息をつかないことを願います。
■悪魔の願いは、何でしょうか。悪魔の願いがいくつかあります。「できることなら教会に行くな。本当に行きたいならば寺に行け。神様がどこにいるか、行って偶像崇拝しろ。」霊的に苦しめられるようにさせて、精神も狂うようにさせて、結局は滅ぼして地獄に行くようにさせるのが悪魔の願いです。ある人が教会に行ったというなら、福音を聞かないようにさせます。福音を聞けば救われるためです。みことばを聞くことができなくさせます。みことばを聞けば悟るためです。そして、引続き恵みを受けないようにさせます。すでに教会にきて、救われた人は、恵み受けることができなくさせます。神様の子どもの身分を知らなくさせて、子どもにどんな権威をくださったのか知らなくさせます。昔の体質を持って生きるように、そのように防ぐのです。教会にきて、救いも受けて、恵みも受けたら、絶対に伝道ができないように防ぎます。伝道しても他のことを話すように防ぎます。他のことを自慢するように防ぐのです。プログラム、他のものに関心を持つようにさせて、主の最高の願いを知らなくさせるのが悪魔の願いです。悪魔の願いを知って、神様の願い知らなくて良いでしょうか。
■神様の願いが何か分かるでしょうか。Iテモテ2章4節に、神様の願いが込められています。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」神様の願いが何であると聖書で話しているでしょうか。すべての人が救われることを願っておられるのです。だれかれを問わず、どんな罪を犯しても、すべての人がみな救われるように望んでおられます。その理由は何でしょうか。すべての人がローマ3章23節の罪に陥っているためです。アダムの子孫、すべての人は、全部、創世記3章の罪の中に陥っています。すべての人は、この世に生まれる時に神様と離れて生まれます。神様の願いが何でしょうか。すべての人が全部、神様に会って救われることを希望されるのです。そのために真理を知って、その真理を通して新しい人生の変化が起きることを希望されるのです。
■真理とは誰でしょうか。ヨハネの福音書8章32節では、このように話しています。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」私たちが真の真理であるキリストを知ったら、私たちはすべての罪と呪いから解放されました。解放された人は、この世を生きる間に、どんな年月日、時間に縛られて生きる理由がないのです。未信者は、そんなことを守らなければなりません。守らなければ大変なことになります。日、祀りなど、あれこれ守らなければならないことが多いのです。それを守らなければ、サタンにだまされて、また霊的な困難にあいます。しかし、すべての救われた神様の人々は、すでにすべての罪と呪いから解放されました。私たちは真理なるキリストのなかで真の自由を得たのです。どんなものにも縛られて生きようと努力しないようにしましょう。すでにキリストが十字架で解決されました。すでにキリストが私たちの人生の荷物を解決されたのです。
■私は、何日か前に引っ越ししました。引っ越すために、あちこち家を調べて見に通ったのです。不動産の紹介所に行って調べてみたら、共通して言う話が、厄日でない日のことを話しました。週、何月何日かを話しながら、そのような日に引越しすれば良いと言いました。しかし、私たちは厄日に引越しします。私たちは、そこに縛られる理由がないのです。未信者は厄日でない日に引越ししようとするから、引越費用がより多くかかります。包装、引越費も高くて、荷物を上げる交通費用も、その日にすれば高いのです。救われた神様の子どもは、全てから自由です。
■引越しする前、先日、家を決めた時も、こういう事がありました。不動産の紹介所で宗教が何かを尋ねられたのです。イエスを信じる者だと言ったところ「その家に行ってはいけないでしょう。」と言われました。好奇心が生じたので、行ってみたのです。その家の直線道路で100mもない距離に寺がありました。多くの人々が、そこの前にすぐ寺があるから、その家を嫌うということでした。私たちはそれのために、より安くその家に入るようになりました。寺をながめながら祈りました。もちろん、その寺がなくなったのではありません。私たちの霊性を回復する良い道具になりました。怠惰な時ごとにながめれば、祈りが出てくるしかありませんでした。私たちはすべての罪と呪いから自由を得たのです。
■ヨハネの福音書14章6枚のみことばです。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
■真の真理なるイエス・キリストを私たちが信じるようになりました。確信を持つように願います。「イエス ・キリストのなかで私の人生のすべての問題はみな終わった。」と言える人が神様の子どもです。その人が、神様の前に礼拝をささげる時、その礼拝が意味ある礼拝になるのです。
■本論に入ります。礼拝に勝利する皆さんになるように祝福します。私たちが信仰生活に勝利するためには、神様のみことばをどのように理解しなければならないのか、ということからできていなければなりません。最初で神様のみことばから正しく理解しましょう。神様の存在の様式を分かるでしょうか。神様がどのように存在されるのでしょうか。神様が見えたら、私たちが神様を分かるのですが、神様は見える方ではありません。それでヨハネの福音書1章1節でこのように話しています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」みことばが、だれだと言われているでしょうか。神様がみことばです。私たちはみことばを通して神様が分かって、会って、味わえるのです。このみことばは不変です。この世で変わらないのは何もありません。全てのものはみな変わります。時代も変わります。多くの歳月が流れながら、過ぎたことを振り返りながら、時代がたくさん変わるのを感じます。
■私が幼い時を思うと、このようなことを思い出します。幼い時に、春の端境期(農家の食料事情が悪化する春の一時期)という時期がありました。通訳が正しくできるでしょうか。お腹が空く時期があったのです。五十台以上は理解が出来る話でしょう。しかし、二十台、三十台では、理解できないでしょう。あるお父さんが、息子にこのように話しました。「お父さんが幼い時は食べ物がなくて、しばしば飢えて大変だったんだ。なぜおかずに文句を言うのか。」息子がこのように答えたということです。「お父さん食べ物がなければ、ラーメンを食べれば良かったのに。」その意味をよく知らない息子の話です。そのような時代もありました。しかし、科学と文明がますます発展して、住みやすい時代を迎えました。
■時代はますます変わって、流行もますます変わります。服が変わります。私はまだ理解できないことが一つあります。なぜ正常なジーンズに穴をあけるのか分かりません。市場に行ってみたら、その穴が空いたジーンズを売る人がいて、それをまた買っていく人がいました。それが流行でしょう。時代も過ぎ去って、流行も過ぎ去ります。私たちの考えも変わります。理論も変わります。全てが変化するのです。しかし、神様のみことばは変わりません。時代が変わっても、神様のみことばは不変で永遠です。この世には、どんなのも永遠なのは何もありません。いくら長く生きたくても、私たちの人生も永遠ではありません。どんな哲学思想も永遠ではありません。科学も永遠ではないのです。この世のすべての終末と合せて、全てのものは消えます。しかし、神様のみことばは永遠です。
■マタイの福音書24章35節、主がおっしゃられました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。みことばの完全性をおっしゃられたのです。みことばは完全です。みことば自体は救われるのに完全です。救われるの、他のどんなものも私たちには必要ではありません。この世に生きる間、どのようにすれば勝利の生活を送れるのでしょうか。みことばは私たちに完全に言われます。それで神様のみことばをキャノンと言うのです。カメラのキャノンではありません。私たちの人生に規範であり、完全です。それで聖書だと言うのです。神様のみことばは不変で永遠で完全です。神様のみことばから理解する私たちの信仰になるように願います。すばらしいことに、神様はいつもみことばを先に私たちに与えられ、そのみことばを神様が行われるのです。
■神様がアブラハムにおっしゃられました。「アブラハム、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラハムは、神様がなさったそのみことばを契約としてとらえて、そのままついて行けば良いのです。この部分が薄くなる時ごとにアブラハムが多くの迂余曲折を体験しました。神様がモーセにおっしゃられました。「モーセ、わたしはあなたとともにいる。わたしがイスラエルの民を連れ出し、私が救う。だから、あなたはパロに行って、わたしの話を伝えるだけで良い。」モーセが「私はできません。」と言ったら、「いつわたしがあなたにしなさいと言ったのか。わたしがするのだから、あなたは行って言葉だけ言え。」と言われました。神様はいつもみことばからおっしゃられるのです。
■神様がヨシュアにおっしゃられました。「ヨシュア、わたしがモーセとともにしたように、あなたとともにいる。だから、あなたは雄々しくあれ。」神様がパウロにおっしゃられたのです。「パウロ、あなたは恐れてはならない。あなたはカイザルの前に立たなければならないのではないか。」神様は私たちに先におっしゃって、そのみことばを神様が行っていかれます。それでは、どんな人が神様の働きを味わえるのでしょうか。神様がなさったみことばを契約で捕まえる人が神様の働きを味わえるのです。それで、私たちが神様のみことばを捕まえることが、どれくらい重要かわかりません。皆さん、みことばに対する順序を私たちが正しく理解しなければなりません。普通の人々はこう思います。私の考えで、私の知識で、私の経験で、みことばを理解しようとするのです。順序が違っているのです。神様のみことばが、私の考えを支配するようにしなければなりません。神様のみことばが、私の心を治めるようにしなければならないのです。私が主人でなく、神様が主人がなるように、主人を変えなければなりません。神様が私におっしゃった、そのみことばが、私の人生を率いて行くように、主人を変えて、聖霊の導きを受けるように願います。
■大きい二番目です。神様のみことばの力はどうなのでしょうか。神様のみことばには力があります。Uテモテ3章14節、17節でおっしゃっています。神様のみことば自体に救いの力があるのです。すべての人を正常なクリスチャンに立てる力があります。どんな人生も、神様のみことばを受ければ、変化するようになっています。私がこの間、ある死刑囚の兄弟の話をしました。それ以後、私が一週間に一回ずつ10分面会を継続しています。獄中タラッパンをしているのです。面会時間が10分しかありません。どれくらい10分がはやく過ぎ去るのかわかりません。その兄弟がこういう話をするのです。「私がこの中で、この福音の奥義をいう人として、神様に召される瞬間まで、このことをします。」私はその兄弟を見る時ごとに、その兄弟の胸中にどのようにあんな変化が起きたのか不思議に思います。その兄弟が伝道するために祈る姿を見るようになりました。
■何日か前に会った時、私にこういう話をしました。「牧師先生、この頃、この周辺で多くの人々が伝道するのを邪魔するのです。」それで、私がこういう話をしました。「どんな妨害があっても、そのたましいを愛する気持ちで対しなさい。暗闇が結局は、福音を伝えられないように邪魔するだろう。」私が暗闇を砕く奥義を話しました。「本当に権威ある御名を持って暗闇を砕いて祈りながら、そのことを進行しなさい。」獄中タラッパンする時、そのそばでそれをメモする人がいます。その方は、私の話を聞きたくなくても聞かなければなりません。その方が私がする話をその上にみなメモしています。まともに聞いたら、その方も救われるでしょう。
■神様の働きは恐ろしいのです。どんな人でも、みことばだけ受ければ、そのたましいが生き返ります。そして、このみことばには、私たちの罪に勝てる力があります。詩篇119篇を見ます。119篇9節のみことばです。聖書を探してみるように願います。聖書は装飾品ではありません。さっきもみことば読む時、見たら、多くの方がこの前の画面を見ておられました。聖書箇所を探すのが面倒なのでしょうか。それではいけません。聖書に対する私たちの心がけが回復するように願います。
■詩篇119篇9節のみことばを見ます。共に読みましょう。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」若い人は、どのようにその行動をきよくすると言われているでしょうか。主のみことばに従って、それを守ることだと言われました。どのようにしておじいさんが、そのようには言われませんでした。もちろん、おじいさんもみことばが必要です。しかし「どのようにして若い人は」と言われました。世の中の文化に一番包まれやすい若者たちに神様がおっしゃられたのです。「主のみことばに従って、それを守ることだ」レムナントは、どのようにして、その行動をきよく保てるのでしょうか。主のみことばに従って生きるということです。
■詩篇119篇11節を見ます。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」私の心に含まれた、根をおろしたみことばが世の中の文化に勝つのです。私たちの子ども達が、世の中で勝利する奥義があります。このみことばの力を持って勝利するように手助けすれば良いのです。帰ってから、みことばの力、よみがえらせる力を得ましょう。25節「私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。」28節「私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。」 107節「私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。」 109節「私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。」皆さん、みことばを聞く時、私たちのたましいは生かされる力を得ます。瞬間、瞬間、みことばを受けながら、霊的な大きい力で生かされるように願います。また、みことばにはどんな力があるのでしょうか。
■みことば受ける者には苦難も有益です。なぜでしょうか。みことば堅く捕まえれば、苦難と危機も結局、土台として踏んで立てられるためです。67節を見ましょう。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」 71節「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 143節「苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは、私の喜びです。」なぜ私の喜びなのでしょうか。そのみことばを通して勝つ奥義を、私が知っているためです。
■大きい三番目です。今は、私たちは、みことばを味わわなければなりません。みことばの味を分からなければならないのです。みことばの味を分かる者は、そのみことばを愛するようになっています。みことばを愛する者は、そのみことばを黙想するようになっています。みことばを愛する者は、そのみことばを捕まえて祈るようになっています。その人がみことばの答えを受けるのです。103節を見ましょう。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」神様のみことばが皆さんの口に本当に蜜より甘いと感じられるのでしょうか。今日、その味を味わえるように願います。これからも持続してその味を味わえるように願います。ある人には、神様のみことばが睡眠薬の役割をします。ある方がそうでした。自分はあまり眠れない時、聖書を読むと言いました。マタイの福音書1章を読むということでした。「誰が誰に生まれ、生まれ、生まれ、生まれ。」と読んで寝つくということでした。皆さん、みことばの味を味わうことを希望します。
■ 97節「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。」味を分かる者は、そのみことばを黙想するようになっています。148節「私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。」一日の初めての時間を、神様のみことばを黙想しながら始めるのです。164節「あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。」みことば受けて、とても感謝して、主を賛美しながら、そのようなみことばの味を味わうことを希望します。
■大きい四番目です。みことばについて行く者は、どんな祈りをすべきでしょうか。18節「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」私たちがみことばに向かう時ごとに、神様の前にこういう祈りをしなければなりません。私の目を開いて、主のみことばを、戒めを悟れるように、私の霊的な目を開いて下さい。34節「私に悟りを与えてください。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。」みことば悟るために祈らなければなりません。43節「私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。」皆さん、みことばを読む口と祈る口は美しいのです。みことばを伝える口はさらに美しいのです。真理のみことばが、私の口から離れないように祈る皆さんなるように願います。
■みことばの結論を結びます。105節のみことばを見ました。主のみことばは、それで、私の足のともしび、私の道の光になります。何がそうだと言うのでしょうか。主のみことばがそうだということです。主のみことばが、今日、生きていく私の歩みにともしびと同じです。主のみことばは、私の人生、未来の道に光と同じです。それで、このみことばを捕まえた者は、今日も勝利して、未来も勝利するようになっています。このみことばを捕まえて、みことばについて行くように祝福します。私たちはここで終わってはいけないのです。申命記6章4節から9節のみことばは、このように話しています。「このみことばをあなたの心に刻みなさい。」このみことばは「あなたが先に心に刻み込んで、根をおろして、そして、あなたの子どもに教えなさい。」と話しています。その理由は何でしょうか。
■私たちの子どもが幼い時からこのみことばの根を下ろして、勝利するようにさせるためにです。そして「あなたがどこにいても、このみことばを語りなさい。」みことばを伝えなさいということです。今日、私たちの考えがここまで行くように願います。私がみことばをつかんだとすれば、私が先にみことばの根をおろして、このみことばを私たちの子ども達に教える皆さんなるように願います。そして、どこにいても、このみことばを伝える皆さんになることをお祈ります。
■子孫がこのみことばを捕まえて、未来に勝利するように、私たちが祈る課題の中の一つがレムナント運動です。このみことば運動が持続するように助けるためのことが、RUTCです。本当に私たちの子孫がこのみことばを捕まえて勝利する子孫になることを主の御名でお祈りします。一つだけ記憶しましょう。主のみことばは私の足のともしびになって、私の道に光になります。今日も、みことばを捕まえて勝利して、未来もみことばを捕まえて勝利して、みことばついて行って、みことばで答えを受ける皆さんなるように祝福します。

<<契約の祈り>>
神様、恵みをありがとうございます。私たちにみことばをくださったことをありがとうございます。みことばを捕まえて生きるようにしてくださったことをありがとうございます。みことばについて行って、みことば成就の祝福を味わうようにさせて下さい。神様に会うことができなくて、数多くの人々がさまようこの時代を生きています。このみことばを伝えて現場で勝利するようにさせて下さい。全世界の現場に、このみことばが成就するようにさせて下さい。生きておられる主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



2部/暗闇の文化に挑戦しなさい!
(創世記6:1〜8)
<イ・ソンフン牧師>

■金チュリ執事が最後のハイライトを素晴らしく終えました。私が今日メッセージを伝える前に、人間主義を少し使いました。私が作詩した曲があります。「たましいに向かって」という曲を作詞したのです。作曲はソウルにいるキム・ジョンフン執事がしました。それを指揮する尹テウン執事に賛美をしてくださいと頼んだのです。少し頭を使いました。容赦なく、切り捨てられました。昨日の夕方に、できないと電話がきました。聖歌隊の指揮者ができないというのに、私がどのようにできるでしょうか。やはり人間主義はだめだと感じました。神様が許されません。それで、執事に任せますと言いました。
■この前に、我が家で子どもたちとご飯を食べていたら、上の子が突然、私に二番目のジュヨンのニックネームが何か分かるのか尋ねました。それで、私が常に家で姫というから、姫ではないのか尋ねました。ところが、違うと言われたのです。それで何かと尋ねたところ、キツネだと言いました。それも、尻尾が100個あるキツネだと言われました。二番目は、少し女らしいところがあります。上の子は完全に腕白小僧です。二番目が自分の母について映画を見に行っています。私を除いて、映画を見に行ったのです。それで、何を見たのかと尋ねたところ「美女は苦しい」を見たと言いました。中学生、高校生でもなくて、小学校2年が見るものなのかと言いました。
■そこ出てくる主人公キム・アジョンにまいってしまったのです。自分のコンピュータの壁紙にキム・アジョンの写真にしてあります。私をメーキャップしてくれる姉妹が、キム・アジョンに特殊メークをしているので、キム・アジョンに会えるといったところ、キム・アジョンのサインをもらって欲しいと言いました。私が大きくなったら何になるのかと尋ねたら、何と言うかというと、芸能人になると言いました。その話を聞いた瞬間、心配になり始めました。この前、芸能人がまた自殺をして死にました。そのことが続けて起きています。どれくらい深刻な問題なのか、私は心配にこっそりなり始めました。反対に考えました。私がなぜ芸能人になるのかと尋ねたのです。自分は本当になりたいと言いました。何かなりたいという言葉です。あなたは、ジュヨン(主の栄光という韓国語の名)だから、主の栄光のために生きる人なので、芸能人になっても大丈夫だと言いました。そして福音を伝えるための芸能人になれと言ったのです。そして、祈りもすると言いました。それで祈りをしました。
■ 1年間、毎日、私と母親にせがんだことがありました。突然、バレーを学ぶと言ったのです。私はバレーを学ぶ費用がそんなに高いとは知りませんでした。普通のレッスン費の2倍でした。自分一人だけなら関係がないのに、我が家は三人を育てなければなりません。やらせることができなかったのです。1年中、ずっとせがんだのです。「あなたはわたしに叫びなさい」ずっと叫んでいたのです。父親の顔を見て、機嫌が良くないと見えたら、話さなくて、父親の顔が機嫌が良いと見えたらきて、バレーを学びたいと言いました。私は何も知らないから習えと言ったのです。母親に行ったら、だめだと言われたのです。私は良いといって、母親に行けばまちがいなくだめだと言われました。しかし、1年ぶりに答えを受けたのです。私がなぜこの話をするのでしょうか。
■昨日、教役者室でインターネットで大騷ぎが起こりました。「屋上部屋の猫」というプロに出てきたチョン・ダビンという芸能人が自殺をしたのです。そして、この前に歌手が自殺をしました。そして、昨年には映画俳優が自殺をしました。尹ウンジュ、ユニ、チョン・ダビンは、この三人が残念ながらクリスチャンでした。その知らせに接した瞬間、それにしても心が痛かったのですが、チョン・ダビンは亡くなったので、本当に心が痛かったのです。この人たちが信仰生活をする時、周囲に福音を持った人がいなかったということなのでしょうか。本当に福音の奥義を語ってくれる人がないという言葉なのでしょうか。ユニという歌手が死んだ時、葬儀をした牧師がこういう話をしました。故人になったのでこういう話をしたのでしょう。「地上で歌うことも出来なかった歌を、天国で思いきり歌ってください」と言っていました。
■自殺です。自殺とは、神様の子どもは自ら死ぬことはできません。確かに背後で何かに捕らえられたのです。人間の力で自分自身を殺すことはできません。私たちの命がそれだけ重要なのです。うつ病のためにそうしたということです。キム・アジョンに会うメークをする姉妹も、キム・アジョンという映画俳優が有名になって幸いなので、有名にならなかったら、深刻なうつ病にかかったはずだと言いました。普通、芸能人は、そうです。ここにレムナントが錯覚をするのです。芸能人という派手さと表面の姿だけ見るのです。中は死んでいっているということです。死ぬほどではなくて、完全に病気になっています。深刻な問題は、言葉で表現をすることはできません。ところで、うわべだけ見て、私たちは芸能人になろうとするのです。完全に捕えられてしまっています。それで、レムナントは挑戦しなければなりません。どこに挑戦をすべきでしょうか。
■暗闇の文化に挑戦をしなければならないのです。文化自体が完全に暗闇です。芸能人は、霊的状態がものすごく深刻です。むなしいのです。舞台に立つ時は派手です。舞台さえ降りてくれば、そのむなしさを言葉で表現することができないのです。だから、福音がない人はより一層深刻です。それで、芸能人が大麻、麻薬をしたという話をするのです。しかし、芸能人を知っている人はそれを理解します。そのむなしさは、他のものでは満たせないのです。それで、人々が麻薬する所に陥るのです。その周囲に本当に福音を持った人がいないということが本当に苦しくて胸が痛むことです。こういう人々が、福音の奥義が分かれば、何のためにタレントになったのかが分かります。なぜこのタレントが成功すべきなのでしょうか。なぜ、ジュヨンがスターになるべきなのでしょうか。なぜレムナントがスターになるべきなのでしょうか。確かに私たちは目的があります。ところで、大部分を見れば全部、自分のためにするのです。それで降りてくれば心がむなしくなって、他を探すのです。霊的な問題はとても深刻です。うわべはとても派手なのですが、中は完全に腐っています。これが現場の姿です。現場がどうなるのでしょうか。
■今日の本文に見ると、ネフィリム時代だと言われています。ネフィリムという言葉の意味は何でしょうか。ナッパです。天から落ちたということです。天で落ちた者は誰でしょうか。エペソ2:2に、空中の権威をつかんだ者と言われています。空中の権威をつかんだ者が、人のからだには入って来ることができませんでした。人のからだに入って来ることはできないので、外から誘惑するために動物の中に入ったのです。蛇の中に入りました。神様が作られた野の獣の中で、蛇が最もこうかつであったと言われています。悪巧みという単語は、神様の性分に全くありません。ずるがしこくて、こうかつな性分は、神様自体にはありません。サタンが蛇の中に入ったという意味です。目的が何でしょうか。人間を神様と分離させるためです。神様の契約をのがすようにさせたのです。神様から完全に反対に行くようにさせたのです。
■禁断の実を食べれば確かに100%死ぬのです。ところが、エバは「違う、死んではいけないので」と言いました。「死んではいけない」とは、死ぬ事もあり、死なないこともあるという言葉です。神様の話を100%つかんだのでしょうか。50%だけつかんだのです。だから、悪魔が「違う。それを食べる時に、お前の目が開いて、神様のようになるので、神様がそれを食べてはいけないと言われた。人間が神になるので、それを拒否するために、神様が食べてはならないと言われたのだ。」と言いました。その話を聞いて見たら、ものすごくおいしそうに見えたのです。神様のみことばを100%拒否をしたのです。50%つかんだことさえも奪われてしまいました。
■それが創世記3章の問題です。創世記3章の問題は何でしょうか。神様のみことばを断って、神様を離れたことです。それで完全にサタンの子どもになったのです。悪魔の子どもになったのです。エペソ2:2に、従っていると言われています。運勢、運命に完全に捕えられたので、奴隷にのようになったと言われたのです。1部でファン牧師が詳しくおっしゃられました。私は偶像崇拝する家で生まれました。私が何も知らずに、北に頭をおいて寝て、お母さんに叱られました。なぜ北側に頭をおいて寝るかとひどい目にあいました。それでは頭をどこに置いて寝るべきなのでしょうか。東方に置いて寝なければならないと言われました。私がそちら側が東方なのか、西方なのか、どのように分かるでしょうか。一度は、私の部屋に釘を打ちました。額縁を付けるために、良い場にクギを打ったのですが、またどれくらいひどい目にあったのか分かるでしょうか。家の良い気運を防ぐと言われました。どこにでも打ってはいけなかったのです。釘を打つ所も、方向がありました。
■完全に奴隷状態でした。奴隷の特徴は何でしょうか。自由がないのです。完全に捕えられていました。このことが何の問題なのでしょうか。これが創世記3章の問題です。それで終わったのではありません。ネフィリム時代です。サタンが人の中に入ってきました。落ちて、人の中に入ったのです。霊媒師などです。私は、占い師に会いました。占い師に会ったところ、占い師がどのように知ったのか、そこに座りなさいと言いました。私は占い師に茶の接待を受けたのです。それと共に、朝、モチ、パンなど皆くれました。とても不思議に思いました。それで、どうして私をよく分かるのかと尋ねたところ、昨日の夕方に自分を動かす神が、明日の朝、大事なお客さんがくるので、できるだけ接待しなさいと言ったと話しました。その人々が、私たちだったのです。だからこの人が、私たちを見て、できるだけ接待をしたのです。何かも知りません。捕えられた人の霊に入って、その人は言いなりになるのです。占い師に尋ねてみました。「このことをあなたの子どもに譲ることを望みますか。」絶対にいやだと言いました。この悪い報いは、自分で終わらなければならないと言いました。それで、自分がこれを脱ぐことができないので、最後まで持っていると言いました。死ぬ時まで持って行かなければならないということでした。子どもにこれを譲らなくするためでした。しかし、Iコリント10:20に、法事を行えば、また霊的な問題が引っかかると言われています。確かにその人を捕えたたましいは、違ったところに行くのではなく、その子どもにまたくっつくのです。
■このネフィリム時代はなくなりません。どの程度でしょうか。悪が一杯になってしまいました。増大してしまったのです。考え自体が全部みな悪でした。本文5節に「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」と言われています。だから、自分のことだけを考えたのです。他の人が死のうが死ぬまいが、関係ありません。自分だけ救われれば良いのです。そして、他の人は呪いを受けるのです。このように悪い人がどこにいるでしょうか。チョン・ダビンの遺書を読んでみました。内容が何だったでしょうか。あまりに荷が重いので、自分は神様のところに行くということでした。神様が私を抱いて下さって感謝だと言っていました。
■だから自分だけ愛すのです。霊的な問題に捕えられている他の人は救うつもりは全くありません。未信者状態にある人々を生かすという考えは全くないのです。今、未信者が罪の鎖に縛られて、運勢、運命に言いなりになっているのに、全く感覚がないのです。地獄があるのに地獄があることも知らずに、地獄に行っています。そちらに全く関心がありません。完全に利己主義で一杯になっているのです。死のうが死ぬまいが、関心がないのです。文化自体が完全に偶像文化、悪霊文化、罪の文化です。こういう時代に私たちが生きているのです。
■さらに深刻なのは、伝道者として伝道する現場の中で私たちを見て何と言うのでしょうか。異端だと言っています。本当に福音を伝える私たちを見て言うのです。福音を伝えることができないようにさせます。福音を伝えれば、自分たちの勢力が崩れて、自分の国が完全に荒れてしまうので福音を伝えることができないようにさせるのです。それで伝道者の力を抜きます。抜こうとして、何と言うのでしょうか。異端だと言います。それでは、異端足す異端は何でしょうか。それがサタンです。これが本当に深刻な現場の姿です。これが創世記6章の問題ではありません。今の現場の姿です。教会はどの道を行っているのでしょうか。この現場を生かす教会は、どんな姿なのでしょうか。全く関係がないのです。
■神様とは全く関係がありません。単に社会奉仕をするのです。腹がへった人にはパンをもう一つ与えて、ないに人は着せてくれます。教会には力がありません。教会が教会の役割を出来ずにいるのです。伝道者が伝道をすれば異端だと言います。文化自体は完全に偶像文化、悪霊文化、罪の文化で満ちています。人々は自分だけを愛しています。それでは時代はネフィリム時代に行くのです。今、この現場をながめておられる神様は、どんな心なのでしょうか。
■果たして神様は、どんな心でしょうか。神様は6-7節を見ると、それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」と言われています。神様の心です。神様は悔やみ、心を痛められたと言われています。皆さんはこれを分かるでしょうか。私たちのレムナントの皆さん。皆さんに向かった神様の心を分かるでしょうか。私たちの信徒の皆さん。皆さんに向かった神様の心を分かるでしょうか。分かったら、現場に向かった神様の心を分かるでしょうか。この現場の中にいる私と皆さんが神様の心を分かったら、皆さんの中に悔やむ心と痛みがあるでしょう。私は神様が涙を流しておられると表現したいのです。
■伝道をするために30年間、ただ伝道だけした方がいます。本当に汚名も多くかけられ、たくさん指差され、非難もたくさん受けました。それが問題ではなかったのです。教会が、すごくみわざが起きるので、周囲でとてもねたみ、嫉妬が激しくなったのです。それで他の人でもなくて、他の宗教でもなくて、他の団体でもなくて、私たちの教団の釜山老会で柳牧師先生を殺すために考えたのです。1991年2月にスヨンロ教会でしたメッセージがあります。そのメッセージをあちこちを取ってきてくっつけて、話にもならないことを作ったのです。それと共に、とても難しくさせました。絶対に伝道をしないでくれと言いました。講義も出て行かないでくれと言ったのです。釜山全域にあるタラッパン宣教団も撤収しろと言いました。影島東三洞でだけ伝道をしなさいと言ったのです。それが釜山老会でした。そうしておいて、私たちの教会の信徒に電話をして、柳牧師は変だと言いました。牧師先生の手足を切ったのです。これが誰でしょうか。だれがするのでしょうか。
■教役者と私たちには何と言ったでしょうか。その時、神学生であったのですが、学校、教会の二つのうちの一つはあきらめろと言われました。何をあきらめるべきでしょうか。皆さんは何をあきらめるでしょうか。果敢に学校をあきらめました。なぜ果敢に学校をあきらめるべきだったのでしょうか。私が教授にこの言葉を尋ねました。「牧師先生、私は神学生ですが、一つ気になる点があって尋ねにきました。」「何か、尋ねてみなさい。」「伝道をするのがそんなに悪いことなのですか?」この話しを聞いた瞬間、その牧師の顔が完全に変わって、柳光洙マニヤは出て行けと言われました。それで出てきたのです。伝道をするなという教団に私がいる理由が何があるでしょうか。
■試験を受けていたペク・ウンギュ牧師も呼んで、みな呼びました。その時、私は神学校4年でした。最後のテストでした。それを受けたら、大学院に上がれたのです。試験を熱心に受けていたペク・ウンギュ牧師を呼びました。ペク牧師に辞退と書いて出しなさいと言いました。その時、ファン・チャンス伝道師もいたのですが、やはり辞退と書きなさいと言いました。「試験を受けて何になるのか。出て行こう。」それで、私たちの教会教役者を全部連れて出たのです。そして、柳牧師先生に行って報告をしました。「先生、学校を止めました。」と言ったら、「良くやった」と言われました。その時まで牧師先生は一言も言われませんでした。重要な信徒に電話して、教役者の手足をみな切ったのです。これが現場です。
■誰かがきて私に尋ねました。私は確かに理解します。そのような教団はある必要がありません。なぜでしょうか。神様の心を見てください。神様が涙を流されていないでしょうか。神様が釜山に向かって涙を流されています。神様が死んでいく現場に向かって涙を流されています。芸能人が死んでいっているのです。皆さんが本当に伝道者ならば、心でよく死んだと思わないでしょう。一つのたましいが死ぬ時ごとに本当に胸が痛いでしょう。それも、親戚、両親、家族が死ねば、さらに痛いでしょう。救われて行かなければならないのに、救われずに行けば、とても胸が痛いでしょう。その心がまさに神様の心です。それが神様の心です。それで、神様が涙を流されるしかないのです。
■神様のすべての関心がどこにあるのでしょうか。今、この現場はどんな現場なのでしょうか。この人を生かすための現場です。神様が水で審判すると言われました。みなはき捨てると言われたのです。この人は死ぬが、その後に生きる人は生きます。神様が生かすためにこの作業をされたのです。誰を生かすためなのでしょうか。その子孫たちです。その子孫を生かすために、神様が作業されるのです。私と皆さんが本当に真ん中の契約をのがしてしまい、現場の中でこのように生きたら、神様が審判されるでしょう。それで、皆さんは神様のすべての関心がどこにあるのか見るように願います。永遠のいのちを得ることに定められたたましいは確かにあります。このたましいに神様のすべての関心があるのです。
■一度は釜山駅で伝道をするのに、全身に入れ墨をした人がきました。からだに入れ墨をしたら、長袖を着るべきなのに、短いティーシャツ、短いズボンを履いていました。龍が二匹でした。私がニックネームを双竜だとつけました。きて地面をたたいて号泣をするので、狂ったのかと思いました。この人に引きずられて行くと考えると、頭が痛かったのです。知ってみたら長老の息子でした。15才で家を出て、長老が20年間集中祈りをしたのです。ソウルのある教会の長老の息子でした。お母さんは勧士でした。私は、その人の職業を聞いて、こういう職業があるということを初めて知りました。大韓民国の駅前ごとに行けば、万引きやスリがいて、人身売買をする人が見えないようにしています。その人々を動かすボスがいます。ところで、その人々の財物を奪い取って生きる人がこの人でした。龍が二匹でした。区域は全国区でした。私はそのような職業があるということを初めて聞いました。
■だれが伝道をしたかというと、とても力がない女の人二人が伝道したのです。その1人が英国で働きをしているユ・ヨンヒ宣教師でした。何の力もない人が福音を持ってその人を伝道しました。神様がそのたましいを救うために、すべての関心を持っておられたのでしょう。幼い時は、教会によく通ったそうです。15才で家を出てきて20年間通いながら、神様のすべての関心はこのたましいだったので、このたましいに本当にイエスのいのちを持ってくる人を付けるようにさせたのです。その人が釜山駅にいました。それでユ・ヨンヒ宣教師に付けたのです。これが福音の力です。女の力ではありません。ユ・ヨンヒ宣教師はそのような力はありません。福音を持って人を生かしてしまったのです。
■永遠のいのちを得ることに定められた人はみな信じます。私と皆さんを通して永遠のいのちを得ると定められた人がいます。ところで、偶像文化、悪霊文化、罪の文化に陥っているのです。ここでさ迷っています。それで、神様は私たちに神様の心を分かるようにされたのです。伝道する牧師先生を通して、私はこの心を悟りました。現場に向かう神様の心。神様の嘆き。神様の涙。神様のすべての関心。私が霊的な目が開いたのです。これが神様の恵みです。神様は私たちをどのようにご覧になるのでしょうか。
■ 8節に、しかし、ノアは、主の心にかなっていたと言われています。私と皆さんは神様に恵みを受けた人です。私と皆さんは福音の奥義を持った人です。そのために私と皆さんは成功することができるのです。どんな失敗の中にいても、どんな危機の中にいても、私たちは神様の恵みを受けた人です。神様が責任を負う人です。神様が出てきて皆さんの盾になって下さいます。神様が出てきて皆さんの保護者になって下さるのです。私たちは弱くて何の力もないのですが、それでも義人で、神様とともにいる奥義を持った者なのです。
■ 9節にこういう話が出ています。私と皆さんが行く道に目に見えないように神様がともにおられると言われています。以前に朴正煕大統領の息子、朴チマンが過ぎ去る時、目に見えるボディガードがいました。ところで、さらに多くの人々がいました。まさに見えない警備員でした。行く道にずらっと散っていました。見えるボディガードだけで8人くらいいました。見えない警備員は部隊で広がっていました。誰の息子なのか、大統領の息子です。それでは、皆さんは誰でしょうか。誰の息子なのか、「私は神様の子どもです。」先週のメッセージを思い出すでしょう。「私はこう見えても私は王子だ、私はこれでも私は王女だ。」そばの人を見ましょう。王子、王女に間違いないでしょうか。ハンサムですか。なぜなら、皆さんは神様に恵みを受けた人だからです。神様の子どもです。
■皆さんが行く道に神様がともにおられます。目に見えない神様の天使が皆さんを保護するのです。皆さんは完全な神様の福音の奥義を持っている人です。人を生かす奥義を持っている人です。18-20節に、箱舟を作りなさいと言われました。箱舟を作る根本的な目的は何でしょうか。20節に出てきます。20節に生き残るためと言われています。私と皆さんを生き残らせるために神様が奥義を与えられたのです。それが完全福音です。皆さんが完全福音で勝利するのです。神様のすべての関心は、未来を生かすレムナントにあります。それで、私たちは未来のために準備するのです。レムナント運動をするのです。
■私が香港の神学院で講義を昨年の6月にしました。その時、レムナントがおよそ3-4人座っていました。私はそのレムナントが当然、教会に通うレムナントだと思っていました。福音の中で良く育ったレムナントだと思っていました。ところが、カン・ポンギュという人がいたのです。この人は本来カトリックの家でした。叔母が香港で福音運動をしているので、留学に来なさいと言われたのです。そして来て、この執事がこのレムナントに福音を植え始めたのです。福音を植えて、この子が講義を受けにきていたのでした。講義を受けてから、この子が文章を一つ書きました。その文章を世界福音化協会に出すと言っていました。そして、8月の祈りの手帳に出ていました。私は祈りの手帳に出ていたといって、しばらく探したのですが、いくら探してもなかったのです。そうするうちに一番前を見たら、出ていました。レムナントが作ったのです。
■ 「自負心。神様が願われる者。神様の計画がものすごい者。神様の願いを抱く者。神様と共にする奥義を持った者。人生の目標が福音のための者。環境を跳び越えられる者。世の中を征服する力がある者、地の果てまで証人になる者、共同体時代の主役として用いられる者。まさに私。」この子がこのメッセージを書いたのです。行って私がイザヤ書の話をしたと言いました。率直に話して、私は何を話したのか知りません。メッセージを受けて、これを書いたということでした。これがレムナントです。
■皆さん、皆さん自身と戦いなさい。最後まで戦いなさい。レムナントは今、勉強をする時期です。未来のために準備する時期です。そのために、徹頭徹尾、自分自身と戦わなければならないのです。怠惰、無条件の熱心、スター意識、こういう全てのものと戦わなければなりません。そして、神様が皆さんにくださったことがあります。それが福音です。それが技能です。片方の手には福音、片方の手には神様に私にくださったタラント(技能)これを活用するのです。未来のために準備するのです。それで、皆さんが行くすべての場所ごとに神様の願いを成し遂げるように、皆さんを通して、必ず皆さんに向かった神様のビジョンを成し遂げるように、徹頭徹尾、準備することを希望します。私が結論的に何と言ったのでしょうか。神様の涙です。神様の涙をふいて差し上げるレムナントになることを希望します。それでは、信徒は何でしょうか。レムナントが神様の涙をふいて差し上げるようにさせる土台になることを希望します。皆さんが重要です。私は知りませんでした。子供は誰を見て育つのでしょうか。先生を見て育つのか、友人を見て育つのか、親を見て育つのです。上の水がきれいでこそ、下の水がきれいなのです。大人たちが全部、福音で敷かれなければなりません。
■私たちの娘が一度、とても深刻に尋ねました。「パパ、パパは教会に行けば、とても素晴らしい。まるで天使みたい。でも、家に帰ってくれば変だ」それで、家では何のようなのか尋ねたところ、顔色を見ていました。それで怒らないから話してみろといったところ「本当に怒らない?」と尋ねました。絶対に怒らないと言ったところ「パパは、家に帰ると悪魔のようだ」と言いました。本当に衝撃でした。怒らないと言ったのですが、内心、腹が立っていました。「これをいうのだ」と思いました。私たちの子どもは何を見て育つのでそうか。これが二重性です。教会にくれば優しく、善良なようにをして、家に帰ってくればパパとして君臨しようとするのです。それで、何の話なのでしょうか。「これがパパの本来の姿だ。飾る姿はいくらでも人が計画できる。しかし、パパの真の姿はお前たちに本当に怖いだろう。それでパパは完全ではない。それで、パパにもイエス様が必要だ。あなたたちを見て、腹が立っても怒らないために努力をする。」祈って恵みだけ受けて家に帰ると違うのです。
■金曜徹夜礼拝をいつ終えるのでしょうか。金曜祈祷会を終えれば12時を越えます。ところで、家に帰ってみれば、その時までインターネットをしているのです。怒りが出ないでしょうか? それを指して話すのです。直ちに私たちの家内がインターネットをみな切ってTVもみな切りました。もう我が家に何もありません。それで、子どもたちが度々私に連結して買ってくれと言います。そしてTVも付けてくれと言うのです。するといっても家内に行くと、だめだと言われます。絶対にだめだと言います。この本来の姿が植えられた姿を見れば、どれくらい人々が混乱するでしょうか。それで、私たちの子どもにも本当に福音が必要なことを教えなければならないのです。本当に福音のために福音の人になれるように、私は足りないのですが、私の中にいらっしゃる神様は創造主なる神様です。
■天と地のすべての権威を持っておられる方が、まさに私と皆さんに共におられます。それで、私と皆さんが生きる目的は何でしょうか。暗闇の勢力を倒すことです。3つの改革を通して3つの征服をしなければなりません。私と皆さんが2006年には確かに3つの改革を行える神様のみことばを受けました。今でもその3つの改革が進行しています。同時に2007年には私たちは征服をしなければなりません。現場を征服しなければならないのです。そして、隠された経済を征服しなければなりません。そうなったら、当然、文化圏は征服することができます。解答の中の解答は現場にあります。経済も現場にあって、文化も現場にあるのです。それで、暗闇の文化に挑戦するレムナントになりなさい。現場で成功するレムナントになりなさい。福音を持っているので福音のために成功するレムナントになりなさい。この祝福が皆さんに臨むことを主の御名で祈ります。

<契約の祈り>
生きておられる神様に感謝します。神様の心、神様の嘆きを分かるようにしてくださったことをありがとうございます。神様の願いを成し遂げるレムナントになるようにさせて下さい。神様のため、福音のための成功するレムナントになるようにさせて下さい。自分自身と戦うようにさせてくださって、また怠惰とスター意識を完全に押し倒すようにさせて下さい。福音の人になるようにさせて下さい。福音のために成功するレムナントになるようにさせて下さい。イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン