2007年5月20日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/ダビデの勝利した背景
(詩131:1〜3)

■詩篇131篇はダビデの詩です。聖書を見れば、都上りの歌、ダビデの詩と出ています。ダビデは軍人でした。とても優れた将軍でした。後ほど王になって最高の王になりました。またダビデは文章もたくさん書きました。詩篇の中でおもなものは、ダビデの詩がほとんどです。ダビデは音楽にもとても優れていたと考えられます。楽器を扱った時、サウル王についた悪霊が離れたということです。このように立派なダビデに、しばらく困難が本当に多くありました。それが何だったのでしょうか。今日、私たちは本文を見ながら、重要な答えを探さなければなりません。
■皆さんは救われた神様の子どもです。これ以上、話す必要がないのですが、一つ目は開かれなければなりません。救われた神様の子どもが必ず開かなければならない一つの目があります。ダビデ周囲には、人のゆえに多くの試みがありました。それも、サウル王が家族なのにダビデを殺そうと継続してきたのです。そして、悪い臣下がダビデを難しくさせました。政治家たちは本来、話が多く、サウル王の下にいた政治家たちが、話を作り出したのです。後ほどダビデが老いた時も、次の王を考える臣下がまた話しをずっと作りました。言わば、外部に起きる戦争より、ダビデは中で多くの苦しみにあいました。ところで、少なくともダビデはこれを越えられる目があったのです。これはとても重要な話となります。皆さんは人と共に信仰生活をするのですが、少なくとも、これを越えられる目を確かに持っていてこそ答えを受けられるのです。新しい家族の皆さんが信仰生活を良くしていて、ある日、信徒によって試みにあうようになる日があります。この時、すでに感づかなければなりません。それは、まさにサタンの戦略ということをはやく感づかなければならないのです。目がなければやられるようになります。それで、ある人々は以前に教会を通っていたのですが、長老、執事のゆえに教会を止めたと話す人々が多くいます。本当に愚かなことです。タラッパンをする教会や一般教会に行ってみれば、共通点が一つあります。米国にも行ってみて、ヨーロッパ旅行に行ってみれば、人々どうし葛藤が起きて誤解して争うことがとてもたくさん起きるのです。これがとても小さいようですが、自分が受けた祝福をみな奪われます。信仰生活をする方たちは、この部分にダビデのように目を開かなければなりません。今、衛星で100ヶ所を少し越えて礼拝をささげています。そして、インターネットで、何千箇所からメッセージを聞いています。
■私は母教会が統合側一心教会で、信仰生活を始めました。知っている方たちは、よく分かるでしょう。新しい希望教会のチョ・ウンテク牧師の場合には、家が真下にあったのでよく分かるでしょう。教会が福音なしで律法で暮らしているので、互いに自分が正しいと言いながらどんどん戦うのです。だから、人を判断して、ますます戦いになります。本人も知らず、傷、感情をやりとりして崩れるのです。教会が完全に試みにあってずっと戦うサタンの巣窟になってしまうのです。これがものすごいサタンの戦略だということを知らないのです。チョ牧師は分かるでしょうが、教会にものすごく事件がずっと起きるのです。だから、目に見えるのは、長老や教会の教役者に表にあらわれて見えるようになります。そうするうちに、首席の長老がなぜか、教会に来て教会の前で倒れて死んでしまったのです。人は一度は死ねるのですが、なぜそのように死ぬのかということで、教会が問題に起きて、より一層試みにあうようになるのです。何でもないことなのに、ずっと悟ることもできません。長老に三人の子どもがいたのですが、二番目の長老の子どもが、その当時、新しく家を立てたら、家で寝ていて、煉炭ガスを吸って死んでしまいました。だから、どうなるでしょうか。福音がないということがどれくらい怖いかわからず、悟ることもできないのです。この前、三番目の末っ子の長老が私を訪ねてきました。釜山の私たちの教会に訪ねてきたのです。私を見るやいなや泣きました。年齢が70才を越えたのに、話の途中で話せなくなって泣きました。どうしたことか、自分の息子が留学に行って死んだということでした。いったいこれが何なのでしょうか。私はそのような小さいことために試みにあったのですが、完全に失敗しました。その教会で育った青年の中で、信仰生活をして続けている青年は私だけしかいません。残りはみな崩れました。
■それで、これがどれくらい怖いことか、人々がよく知らないのです。今、世界教会に起きる問題は、新しい信者は知らないのですが、経済、行政が問題ではありません。メッセージがないことでもありません。少なくとも、皆さんが目を開いてダビデがどのように成功をしたのか知っていなければなりません。聖書はIペテロ3:8-12に、いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者と言われています。悪い話しをせずに、お互いをあわれんで祝福を祈りなさいと言われています。それと共に理由を明らかにされました。このためにあなたは召されたのです。しかも、一つの理由が出てきています。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。皆さんが必ず記憶しなければならない内容です。それでは一緒に仕事をする同僚、教役者が自分を難しくさせるのに、じっとしていなければならないのかと疑問が起きるでしょうが、ここで信者なのか未信者なのか違いが生じるのです。確かにIペテロ3:12に、主の目は義人の上に注がれ、しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かうと言われています。その言葉は、同時にみな見ておられるということです。だから祈らなければならないのです。ここで皆さんが祈りと答えの祝福をたくさん味わわなければなりません。
■皆さんが信仰生活をする過程で、こうしたことが起きることがあります。ダビデを一番困らせた人がサウル王です。今日、サウル王に対して少しの間、調べてみなければなりません。サウルは信仰生活をがんばるように見えたのですが、失敗をしたので、こういう部分を見て霊的な目を開かなければならないのです。サウル王は、福音よりは律法の目を持っていたので、ダビデが誤っていると考えたのです。皆さんが信仰生活をしながら、誤って悟れば、自分の誤りは見ずに相手の誤りだけ見て誤解するのです。だから、ダビデをとても悪い人だと理解していました。ダビデが王になるためにおかしなことをする人だと理解したのです。そして、サウルは自らの考えだけが正しいと思っていました。だから失敗するしかありません。どれくらい大きい祝福でしょうか。イスラエルの初代の王で、ダビデのような立派な後継者が育っているのに、どれくらい感謝すべきでしょう。この祝福を祝福だと知らないのです。ところで、想像以上にこういう信者が多いのです。想像以上に、笑わせることですが、全世界がこの問題に関わっています。びっくりすることです。それで、新しく信仰生活をする方らが本当に神様の恵みをたくさん受けて行く途中、こういう問題に引っかかると崩れます。
■それでは、今日の本文にダビデはどのようにしたのでしょうか。それが今日の本論になるでしょう。皆さんがダビデが勝利した背景をよく分からなければなりません。3節に重要な答えがでています。1節に、主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしませんと告白をしました。これは、何の話なのでしょうか。ダビデは、一つのことを知っていたので3つのことは、絶対にしないのです。これが重要です。ダビデは一つを知っていました。これを私たちが知っていなければなりません。だから一つを知っているので、3つのことを絶対しないと告白したのです。ダビデはいったい何を知っていて、何をしなかったのでしょうか。ダビデが知っていたのは何でしょうか。神様の愛、神様の力、Iサムエル16章を見れば、聖霊体験をした人です。本当にダビデが信仰生活をする途中、神様の愛を体験して神様の力を体験しました。Iサムエル16:13-23に、ダビデに主の霊が臨んだと言われています。
■聖徒のみなさんが捕まえなければならない一番最初の祝福です。本当に神様の愛とは何でしょうか。一般の人々は知りません。神様の力とは何でしょうか。聖霊のみわざは何か、ダビデが体験をしたので、3つのことをしないのです。何をしなかったのでしょうか。心が高慢ではありませんでした。そして、目が傲慢ではなかったのです。三番目は、自分自身のために偉大なことをすると言いませんでした。神様の人が力を体験すれば、そんなことが特には必要がありません。皆さんが本当に今から神様の力を受ければ、必要なくなるのです。すでにみな受けたので、高慢になる必要もなくて、傲慢になる必要もなくて、私のために何かをする必要もありません。私たちが幼い時は、名節(韓国固有の盆・正月)にだけ服を買って着ました。今は服が安くて子どもたちは服をたくさん買ってもらいますが、私たちは名節(韓国固有の盆・正月)の時だけ唯一買ったのです。私たちが幼い時は、名節(韓国固有の盆・正月)の時だけ服を買って着るから、だれが何の服を着るのかが関心事でした。それで、私たちは幼い時、服も新しく買って、くつしたも新しく買うから、名節(韓国固有の盆・正月)だけ待っていたのです。名節(韓国固有の盆・正月)になれば、服を買いにお母さんと行きます。おもにお父さんと行かずに、お母さんと行きました。ところで、幼い時、服を見ると、良いと見られる服があったのですが、とても高かったのです。ところが、お母さんは他の服がより良いと言ったのですが、それはもう少し安いものでした。お母さんがその服は高くて、この服は安いと率直に話せば良いのに、安い服が良いと言ったのです。私は幼かったために、お母さんふところ事情を知らずに、ずっと高い服を見て良いと言いました。いくら見てもはるかに良かったのです。しかし、お母さんは、安い服に良いと言いました。それでも私は絶対にそちらを買わないと言いました。するとお母さんが「目が高いのだから」と告白したのです。結局、その服を買ってもらいました。人が服を良いのを見て、良くないのを見れば変に見えます。
■皆さんが食べ物をおいしいものを食べて、まずいものを食べれば、それほど食べたくもなく、捨てても惜しくありません。皆さんが本当に良い家にいたあとで、以前に住んでいた家に行けば、どのように暮らしていたのかと考えるでしょう。私たちが本当に神様の愛、力を一度だけ体験してしまえば、高慢になる必要も、傲慢になる必要もありません。ダビデがかつてこの体験をしたのです。難しくありません。どのようにしたのでしょうか。ダビデが羊を飼いながら詩篇78篇を見れば、ずっと祈っていました。ここでレムナントが2つのことを学ばなければなりません。何を学ぶべきかというと、皆さんは福音を持ったので、どんなことをしても、最後まで誠実にしましょう。これが何でもないようでも、違いが生じます。本を一冊を読んでも、可能ならばみな読んで終わらせましょう。そしてひょっとして皆さんが小さい本を定めたら、少しずつ読みながら読まずに、全部読んで自ら整理をしてみなければなりません。だから、仕事を一つ始めたら、終えなければならないのです。こういうことができない人がいるのですが、そのような人は絶対に成功できません。後ほどおとなになればおかしな人になります。それで大きく成功するとできない人の差がこれなのです。普通、対話をしてみれば運転をする方は、たくさんのことを教えてくれます。私は一番たくさん教えてもらえる所がタクシー乗る時、一番たくさん教えてもらいます。この方たちは、知らないことがありません。それで、私はいつも思いながら、この方たちはタクシーに乗っていることが惜しいと考えます。私よりもさらに立派で賢い人もいるのに、惜しいと気がする時もあります。むしろ判事、検事、将軍に会ってみると、それほど知らないようです。差異点があります。判事、検事の方々を見れば、幼い時から一つを着実にした人々です。しかし、賢くても、何かができない人々は、一つを着実にできない人々です。それで、学校に通っても正しく通えません。すべてのことを誠実にすべきです。皆さんがキャンプを出て行って、キャンプを見物だけしていたら、何の効果もありません。キャンプを誠実にすれば、すばらしく役に立ちます。昔に鄭周永氏は、一日中座って新聞の字を一次も抜かさず、みな読むと言いました。それで他の人が行って、なぜみな読むのか尋ねたところ、みな読むように印刷されているから読むと言いました。そして、学ぶべきことが多いと言ったのです。だから、レムナントは何をするにしても、そのようにしなければなりません。今はレムナントが親のために元気に暮らしているのですが、これができなければ、おとなになって失敗します。だから、何でも初めに捕まえれば誠実に最後まですることが必要です。
■ダビデは空いている時間に文章を書いて祈っていました。これ一つだけしたのに成功をしたのです。ダビデを羊を飼いながら祈っていました。ところで、羊を飼うのにある時、ライオンがきて羊をくわえて行きました。それで、一人で石を投げる練習をしたのです。どれくらいがんばったのか、ライオンが羊をくわえに来たら、石を投げてライオンの頭を打ったのです。それをしながら時間があれば祈りをしていました。それがすべてです。レムナントの皆さんが一つすることを誠実にして、福音にあって祈りをすれば、それで終わりです。親の方がたくさんいますが、幼い子どもが本を一冊を読んでも、最後まで読んで読書感想文をいうように導いて下さい。幼い時が、とても重要なのです。ダビデが何でも一つを捕まえれば最後まで誠実にしました。そして空いている時間に祈りをしたのです。ところで、ある日、ライオンが羊をくわえて行くのに石を投げたら、ライオンの頭に命中したのです。それで、ライオンが羊を離した時、走って行って、力いっぱいライオンの口を裂きました。これがダビデです。その時、何を感じたでしょうか。「神様が私とともにおられる。神様が私とともにおられるんだな。私が石を投げる練習をするのに、それで羊を保護したので、本当に神様が私とともにおられるのだな。ライオンが現れれば、まず逃げるべきなのですが、ライオンに勝ったので、神様が私とともにおられるのだな。」詩を書くのに、どれくらい良い文章がたくさん出たでしょう。神様が私とともにおられる。空いている時間に祈りながら賛美をするのに、どれほど多くの恵みが臨んだでしょう。神様が私とともにおられるのだな。このようになるのです。そのようなある日、ゴリヤテが現れました。ライオンの頭に石を当てたのに、ゴリヤテの頭に当てるのは簡単なのです。ゴリヤテの首をはねて王の前に持って行ったのですが、その時、ダビデが何を感じたでしょうか。神様が私とともにおられるのだな。これをダビデが習ったのです。だから高慢になる必要もなくて、傲慢になる必要もなくて、自分のためにすごいことをする必要もなかったのです。これが何でもないようでも、サウル王は反対に自分のために何かをしようとしたのですが、失敗しました。今日、ダビデが受けた答えを皆さんも同じように受けられます。皆さんは、福音を受けた神様の子どもだから、皆さんの生涯に神様が共におられます。これがダビデが持った信仰背景の最初です。
■二番目です。ダビデは2つの確信がありました。そのために、静かな中でも人生を勝利することができたのです。それが2節です。「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」と言いました。これは何の話なのでしょうか。乳離れさせた子どもが、お母さんのふところにいるようなというのは、どれくらい安らかなのでしょうか。子どもが一番安らかなところがお母さんの中です。子どもにネックレス、イヤリングをいくら与えても、お母さんのふところにいるのが一番幸せです。もし子どもが生まれたのに、乳を与えるお母さんがなければ、どうなるでしょうか。その子が腕輪、イヤリングをつけても、それが何の意味があるのでしょうか。子どもは良い服も必要なく、お母さんのふところにいれば良いのです。ダビデがそのように告白しました。子どもがお母さんのふところにいるようだと、自分自身に対して話したのです。ダビデは神様が共におられる証拠もあったのですが、2つの確実な確信がありました。「これから神様が私を契約を持って民を生かす王として準備される。そして、指導者に学んだ契約の箱を入れる神殿を私が作る。」確信があったのです。だから、静かな中にも、いくらでも自分を維持することができたのです。皆さんがこれから受ける答えが確実だから、皆さんがどんな状況にいても大丈夫です。揺れる必要がありません。神様は皆さんを通して世界福音化をしようとされるので、この契約が明らかならば、揺れる必要がありません。
■私はダビデが立派だと思ったことはありません。なぜか、王になることを分かっていたためです。皆さんならばしないでしょうか。ダビデが王になることを分かれば、身を守ることだけすれば良いのです。大祭司サムエルがきて、これから王になると言って、頭に油を注いで、契約の箱の話をしたのです。ダビデはその時、すでに心に神殿を抱いていたのです。確実な確信があったので、いかなる困難がきても大丈夫でした。2節をもう一度見れば、まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におりますと言いました。ここに教師がいますか、皆さんを通して学校に福音を伝えようとする確実な計画があります。公務員がいますか、軍人、警察官がいますか。皆さんを通してそこに神様が福音運動をしようとされるのが当然のことです。ダビデは、この契約を捕まえたので、何も揺れることがなかったのです。単にしている話ではありません。これが遠くにあれば揺れるのですが、ダビデは近くにありました。私がとても難しい中に福音を受けて伝道をし始めたのですが、私が神様が大変なことはできなくても、伝道をさせられるという確信を持ったのです。私にものすごい名誉と人気が必要なのではなく、伝道運動をさせられるだろう。その一つの契約を捕まえたので、揺れる必要もなくて、答えもきました。皆さんがまさにこういう人々です。今日、ダビデが捕まえた祝福を契約で捕まえることを希望します。Iサムエル16章に、皆さんが知っているように、サムエルが幼いダビデの所にきて、頭に油を注いで、王になると言いました。それでは揺れることがありません。どんな困難がきても大丈夫です。だから、お母さんのふところにいるように安らかだということです。ダビデのように困難をたくさん受けた人が、お母さんのふところにいるようだと言いました。逃げながら岩に隠れた時は、避難所の中に、要塞にいるようだと言いました。王が殺そうとしたのですが、主が私の王だと言いました。親が私を捨てても、主は私を捨てない。親が子どもを捨てるでしょうか。万一、親が私を捨てても、主は私を捨てません。
■今日、ダビデが捕まえた契約を皆さんが捕まえなければなりません。多分、悟らなければならない時まで皆さんは神様がそのまま待たれるかも知れません。確かに世界福音化の走者として呼ばれたのですが、皆さんが知らなければ、悟る時まで待たれます。それで、ダビデがこれを抱いていたので、どんなことが起きても解釈ができたのです。レムナント7人を見ましょう。知っていたのです。それで、どんなことが起きても、みな過程に過ぎなかったのです。それで、揺れずに、お母さんのふところにいるように安らかだと言いました。皆さんは何の心配もせずに、この契約の中で祝福を味わうことを希望します。私のように年を取っている者がと言うかもしれませんが、そうではありません。私はもう引退をすべきなのにと言うかもしれませんが、そうではありません。年をとっている方がする祈りは、また違うのです。皆さんが人生を終わりながら子孫のために祈ることは、また別の祈りです。詩篇90篇に年齢をとったモーセの祈りを見て下さい。だから、未信者は知らない話ですが、皆さんが祈りができるから、どれくらい大きい背景を持っているか分かりません。それで、ダビデはメッセージを確かに持っていました。サムエルがきて、一つのメッセージを確かに捕まえたということです。
■三番目です。ダビデがどんな背景を持って生きていたのでしょうか。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。2節までは自分の話をしたのですが、3節にイスラエル、これが何の話なのでしょうか。他の人を生かす、言わば証人の人生です。この祝福が皆さんの祝福です。契約で捕まえることを希望します。聖書に見れば、成功した人の特徴が他の人をみな生かしたのです。特に、今日のダビデを見て下さい。サウル王とその仲間がダビデを殺そうとずっと付いて回ったのですが、ダビデがずっと逃げ回りました。ダビデはおもな特技が戦いです。サウル王とその仲間を困らせるまいとずっと逃げ回ったのです。聖書を見れば、ダビデがサウル王を殺すまいとずっと逃げ回っていました。一度はサウル王のために楽器を弾いていたら、サウル王が槍を投げました。ダビデはからだの反応がはやい人だから、その槍を避けたのです。その時、王が自分を殺そうとしているのを知って、その時から王宮から逃げ出てくるようになりました。それで、この時から全地域を逃げ回ったのです。山、洞穴に逃げ回りました。その時ごとに、確かにサウル王に勝てる機会があったのですが、しませんでした。サウル王が死んだ後に、ダビデは40日間、サウルのために号泣したのです。年をとって、アブシャロムと臣下が反乱を起こしました。政治はそんなことか分かりませんが、息子までが父に立ち向かって来たのです。ダビデがどれくらい緊急だったか、裸足で逃げました。逃げながらした頼みごとを見てください。ダビデは、普通の人ではありません。逃げながら軍人に、絶対にアブシャロムを殺すなと指示をして行きました。だから、それは逃げるのではなくて、殺すまいと行くことです。私はダビデをさらに強く感じたのが、シムイがダビデがほろびたと思って呪ったのです。ところで臣下がシムイを殺そうとしたら、ダビデが殺さないでと言いました。人を助けたのです。ダビデが山に行って逃げていた時、バルジライという老人が現れてダビデを接待しました。
■私はダビデ王が死ぬ時にした遺言を見ながら、その人が普通の人ではないと考えました。神殿建築などたくさん言ったのですが、その中でいくつか念頭に置いていたことが出てきました。バルジライ老人の息子を覚えなさいと言いました。その人は誰でしょうか。ダビデが逃げている時、食べ物を持ってきた人です。そして、さらに驚いたことはダビデが必ず頼むと言いました。自分をそのように殺そうとしたサウル王の孫メフィボシェテを保護しろと言ったのです。戦争の時、メフィボシェテを抱いて逃げて、落として足を怪我したのです。聖書の記録を見れば、ダビデが王になって、そのメフィボシェテと常に食事を共にしたと出ています。ダビデが神様の恵みをどれくらい受けたのか、人を生かす人でした。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。皆さんひとりのために、職場も生き返って、家庭も生き返って、みな生き返ります。
■3つのことが、皆さんに与えられた約束です。それが何でしょうか。神様が皆さんと共におられるので、他が必要ありません。それが最初のダビデが捕まえた契約です。神様は皆さんを通して世界福音化をなさることがまだ残っているから、今現在がすべてではありません。神様は皆さんとレムナントを通して、他の人や世界を生かそうとされるのです。この契約を捕まえなければなりません。だから、小さいこと、人々のために、皆さんどうし葛藤したり、ねたんだりする必要がありません。皆さんは救われた皆さんだから、本当に祝福を受けるようになることを、主の御名で祝福します。結論を結びます。ここに重要なみことばが出てきました。主を待て。この話はダビデの普段の時の姿です。皆さんが少し普段の時に祈りができるならば、すばらしい答えを受けます。さらに重要なのは主を待て、これは普通の人々はよく知らないのですが、無尽蔵な答えが隠されています。皆さん、聖徒が受けた祝福、霊的な祝福がその後にものすごく残っているのです。それでイスラエル、主を待て。これは漠然と信じるということではありません。主を待て。実際に、皆さんの背後に霊的な祝福は、途方もなく多くあるのです。主を待て。事実、皆さんが動く所に未信者が知らない天の軍隊が動員されています。主を待て。お金が心配になるのでしょうか。隠れた経済が別にあるのです。神様の隠れた祝福が別にあるのです。神様が今まで世の中を動かしながら隠された未来の祝福が別にあります。それで、ダビデの最後の言葉、イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。この言葉は、すばらしい言葉です。漠然としたのではありません。皆さんが受けた祝福は未信者と違います。もう私たち目に見える祝福のほか、目に見られないさらに多い祝福があるのです。これを悟る日、皆さんは祈るようになって、これを悟る日、心配もなくなって、これを悟る日、多くのことが新しく変わります。私は一つは本当に恵みを受けたことがあります。福音を悟った後に、ねたみ、しっとのようなものはありません。そんなことがなぜあるのでしょうか。私より良くできる人がいれば手助けして、できない人がいれば手助けすれば良いのです。良くできる人がいれば学び、できない人がいれば手助けすれば良いのです。誤った人がいれば祈れば良いのです。祈りで全てができます。
■主を待て。今日、皆さんが本当に神様を信じる聖徒の祝福があることを希望します。主を待て、これは何の話なのでしょうか。科学的な事実的な祝福がものすごく残っています。ヘブル1:14に、神様は天使をなぜお作りになったのか、皆さんを助けようと作られたのです。神様がなぜ皆さんに聖霊でともにおられるのでしょうか。ものすごい権威を与えるためです。それで、隠されたものすごい祝福だから、主を待て。この事実を本当に味わったダビデは、人のためにいろいろな問題がきても何も関係がなかったのです。それで、今日、皆さんが本当に祝福を回復することを希望します。主を待て。
■私の本当に親しい友人ではなくて、近い友人がいるのですが、この人が信仰生活をしながら答えを受けたのを私は見ました。近い友人ではないのでうが、慶尚南道に昔にお父さんが人が変で学ぶことができなかったのです。それで、私は忘れずに、何度かその友人に会って話をして証しをしました。お父さんがとても背景がなくて、人の家でお手伝いをして、祭りをする家でお手伝いをしていました。村の人々が全部、その家を無視していました。おとななのに、子どもたちも言葉をぞんざいにしていました。ところで、その家には、息子が3人がいました。この息子3人が本当に信仰があったのです。その田舎で信仰生活をして、祈るのに、この三人みなその村で最初に成功した人物になりました。だから、田舎の村で将軍、医者、裁判官も出てきたのです。その職業ならば、良いということではないのですが、その村では初めてでした。村で何かが行われれば、もうそのお父さんが村で一番の人です。それで、私がそれを見ながら、子どもがそんなに重要だということを感じました。私たちが祈りの答えを受けるということが、そんなに重要なのです。主を待てという言葉がどれくらい重要な話でしょうか。普通の人が聞き取れない言葉です。
■私は体験しました。どれくらい神様の恵みが大きいのか、父が私を含めた子ども4人をおいて中学校の時亡くなりました。堪え難いことです。私が一番上の子なのに、私の下に3人がいたのです。昔に女の人は、この頃とは違って職場もありませんでした。恥ずかしい話ですが、することがなかったのです。だから、うち母が、緊急だから、ひとまず最も簡単なことをしなければなりませんでした。それで清掃をしました。どれくらい神様の前に祈って信仰生活を良くしたのか、その後に我が家に問題が一つなく、驚くほどでした。私はお金のために苦労をした人をたくさん見ましたが、我が家にだれかがお金のために来たことはありませんでした。そして、私たちが病気になって問題が来たことはありませんでした。神様が常に保護されたのです。そして、なぜか一つができるのに特別な賞に選ばれて、公文書を作れば、そのことで大統領賞も受けていました。主を待つという力はものすごいのです。人々が知らずにいます。実際に信じないで主を待つことは最高なのに、知らずにいるのです。私は主を待つことを本当に体験しました。そのように、主を待つ私の母の祈りが、そのようにみわざが起きる証拠を見たためです。私たちは大きい背景を持っています。皆さんは、主を待つ資格を持った人々です。それで、霊的な力を新しく得る祝福があることを希望します。このダビデの詩を持って都に上りました。それは、まさにこの答えを皆さんも今、受けられるということです。それで、新しい答え、ダビデのように新しく祝福を味わう貴重な日になることをイエス様の御名でお祈りします。特に海外に散っているレムナントが、神様の祝福があることをイエス様の御名でお祈りします。

<契約の祈り>
神様に感謝します。新しい霊的な目を開いて下さい。また人のためでなく、神様の恵みから受ける祝福を味わうようにさせて下さい。ダビデが持った信仰背景を、今日、私たちのものにさせて下さい。私たちすべての聖徒に霊的な祝福を与えて下さって、神様の最も大きい恵みが臨む週になるようにさせて下さい。イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン





2部/福音手紙七回目の出会い-
これからどう始めれば良いのか
(ヨハネ17:11-12)

■これから、どう始めれば良いのか。先週にこういう手紙がきました。チョ・ソンヒ氏が自分からイエス様受け入れたということです。バージニア大学で銃で殺人事件を起こした人のことです。確かにイエス様を受け入れたのですが、この人が殺人もして自殺をしました。救われたのでしょうか。この人が救われたのかという質問で、私に手紙がきたのです。確かに自殺や殺人をしようとするなら、悪魔に捕えられなければならないのですが、救われた人が悪魔に捕えられるのですか。悪魔に捕えられなければできないのに、受け入れたのに、これが可能なのですか。皆さんはどう思いますか。この前、米国でニュースを聞いたのですが、韓国の芸能人が自殺しました。自殺した人々がみな、教会に通った人です。牧師先生と行きながら話をしました。確かに自殺する時は悪魔に捕えられるのではないでしょうか。それでは、救われた人が悪魔に捕えられるのですか。それでは、この人が救われていないのではないか。このように質問したのです。
■学生たちが質問するべきことでもあります。車に乗って行くのに、牧師先生の意見がみな違いました。イ・サンベ牧師は、一気に救われなかったと言いました。静かに見たら、その方の出身が見えました。その牧師先生は、ホーリネス出身です。また、ある人はそれでも、救われているのではないかという質問が出てきました。しかし、ここでいくつかの結論は、はやく下さなければなりません。
■チョ・ソンヒ氏が本当に受け入れをしたのか、にせ物でしたのか、体面でしたのかは分かりません。その人が本当に福音を聞いてイエス様を救い主として受け入れたとすれば、救われるのです。Iコリント12:3に聖霊でなくてはキリストを主とは認められないとなっています。ここにおられる皆さんも、いくら信じたくても聖霊の感動がなければ信じられません。私はなぜこのように信じられないだろうかと悩んでも、聖霊の感動がなければ信じられないのです。イエスがキリストだな、本当に私の罪と人間の罪を解決されたんだなあ、これが信じられるというのは、聖霊の感動でできることです。それでは、その人が受け入れを本当にしたのでしょうか。事実、それは誰も知らないことで、天国に行ってみてこそ分かることです。その人が対面上でしたのか、知らずにしたのか、分かってしたことか、私たちは知りません。それは本人だけ分かる事実で、神様だけが分かる事実です。しかし、本当に信じたとすれば救われることは確実です。
■自殺をした、人を殺したということは、サタンに捕えられたのは、明らかです。それでは、どんな重要な結果が出てくるのでしょうか。救われた人がサタンに捕えられるかということです。そのようなことは、あるでしょうか、ないでしょうか。ここに答えが出てくれば簡単でしょう。聖書にイエス様が復活、昇天された後、聖書を見れば信徒がサタンに利用されるのでしょうか。あるでしょうか。ないでしょうか。返事をしなければなりません。ないと思う人は、手をあげてください。あると思う人は手をあげてください。手をあげない人は何でしょか。
■確かに信徒にも攻撃します。私たちは、たましいがほろびないということであって、権威を奪われないことであって、攻撃されます。ほえたける獅子のように、信じる者でも飲み込もうとします。そして、紛争するな、悪魔に機会を与えないようにしなさいと言われたエペソ4:27は、エペソ教会にされた話です。あなたたちの敵である悪魔という言葉も、信徒にされた話です。パウロが言うことには、私たちの戦いはこれだと信徒にした話です。それでは、私たちが攻撃を受けるということです。救いを奪われないのであって、攻撃を受けることはあるということです。
■そのように見る時、チョ・ソンヒ氏が救われたのか、救われていないのかは知らないのですが、この人がサタンによる病気に苦しめられていたことは事実でした。そして、悪魔がその人を利用したのも事実です。もし、サタンに利用されたり、そこに対する病気を持った場合、救われないと言うなら、実際に救われる人はいません。もちろん、チョ・ソンヒ氏が良くしたということでなく、大きい事件を犯したことは事実です。その以前に、病気にとても苦しめられていました。問い詰めようとするなら、教会にも責任があります。タラッパンというのは、その人を訪ねて行ってずっとメッセージを与えろということなのに、それをしないのも誤りがあります。もしサタンに利用されたり、サタンによる病に罹っている人は、救われなかったという場合、ほとんど私たちは救われません。人々がこれに連結させるのです。その人が救われのか、救われていないのかは、私たちは知りません。自殺する人の場合、本当にイエス様を受け入れて救われた時は、この人は救われています。ところで、その人が普段、苦しめられている病気で自殺をしたとのことは可能な話です。ですから、あなたは救われなかったという場合は、他の問題が付いてくるのです。
■ワシントンから学生がメールを送って質問したのです。私たちは事実は、事実通り、話さなければなりません。本当に受け入れたとすれば救われた人です。しかし、そのような途方もない殺人や自殺は、サタンの戦略であることは確実です。救われた人がそのような病気に苦しめられることはできます。それで私たちに戦えと言われたのです。
■今日、私と皆さんはどのように始めなければならないのでしょうか。今日、3つの答えが出てきます。
■最初です。皆さんが銘記しなければならないことがあります。それが、今日の最初のことです。地球上で聖書にだけ記録されています。サタンの陰謀です。ここに医者もおられて、教授もおられて、エリートがおられるのですが、想像以上に戦略が強くて大きいのです。不思議に、この話が出てくれば、信仰生活よくしない人々が異端の汚名を着せました。不思議です。この話だけすれば汚名を着せたのです。一番最初、マタイ12章に、パリサイ人がイエス様が弟子を立てるやいなや、イエス様に文句を言ってきました。あなたが悪霊の大将なのか、なぜそのように悪霊を追い出せるのかと言いました。あなたがゼルバベルか、どのように悪霊を追い出して悪霊の話をするのかとイエス様に話したのです。それがマタイの福音書12章です。イエス様がこのように説明されました。あなたの家に強い者がいるのに、その人に勝つことができなくて家具を盗み出すことができるかと言われました。サタンがあなたの家に、あなたの中にいるのに、あなたが生き返れるかとイエス様が話されたのです。
■聖書を見ながら、実際、私と皆さん自身を見ながら、この部分に対して銘記して祈らなければなりません。創世記3:15に、女の子孫が蛇の頭を踏みつけると言われたのは、権威をたたき壊されたのであって、今でも存在しているのです。聖書はイエス様が直接おっしゃるのに、マタイ25:41に再臨して来られて地獄に閉じる、その日まで活動するとなっています。地球上で七千個くらい成就した神様のみことばに出ています。旧約に預言されたのが新約でみな成就して、その主人公であるイエス様がおっしゃられました。油断してはならないのは、偽りの預言者、異端、悪霊を活用して、信者を邪魔するのです。確かにそのように記録されています。それで、いつも祈りで勝利しなければならないと言われました。エペソ6章に、私たちが戦う対象が出ています。確かに聖書に記録されています。未信者、確信がない者に付いて回ります。Iペテロ5:7-8を見れば、心配しないようにと言われた時、心配を主に任せてしまい、あなたたちの敵である悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき者を探していつも歩き回っているとなっています。歩き回っているとなっているでしょう。私たちの話ですれば訪問を継続しているのです。歩き回っています。怖いのです。目に見えないように通っています。それと共に家庭を倒します。マタイ12:28-29でイエス様が説明された中に、そのような話をされました。ところで、不思議です。偶像崇拝をしたり、一度、許せばずっと増加しながら7倍も増加するようになります。いろいろなおかしな病気を起こします。まだ医学的にだめな、おかしな病気を作り出すのです。医学的に直せるのに、良くならない場合もあります。おかしな病気にかかって、ずっと苦しめられて、おかしな状態に行くのです。
■こういう部分がとても多いのです。特に精神的に混乱を与えます。この病気が一番多いのです。もちろん、精神病が全部、悪霊につかれた病気ではないのですが、精神病にかかった時、悪霊があたえる混乱が最も近く迫ってくるのです。不思議に思うほどです。ある子どもが小学生なのに、自分の家に問題がきました。適当な時期に家を出て行って、数ヶ月を歩き回って半死に状態になって家に戻ってきます。ところで、毎年そのようにするのです。お父さんはイエス信じない人なので、子どもを殴ります。この子どもが、私たちが徹夜祈りをしていたら、自分のお母さんに連れられてきました。頭を見たら、傷跡もあって苦労した姿でした。なぜ家を出るのかと尋ねたところ、その子どもは分からないと返事をしました。さらに笑わせるのは、お母さんがこの子どもを祈梼院に連れて行ったということです。祈梼院に一ケ月ぐらい祈っていろと言ったのです。この子が一週間で祈梼院で逃げてきたということでした。どのように逃げたのかと尋ねたら、私たちに話をしました。この子が目をとじていたら、道が見えたということです。それで歩いていったら、道に鍵があってそれは祈梼院の献金箱の鍵だったということです。このように絶妙です。それで献金箱のお金を持って逃げたのです。問題は、この鍵がどこにあったかということです。祈梼院の広場にあったということです。どのように分かって拾ったかと言ったところ、目をとじていたら見えたということでした。この子が、このような状態でした。私たちの教会に特別なことがあって、徹夜祈りの時間に教役者が祈っていたのですが、この子と一緒に祈りながら福音を伝えたということです。一週間なのか10日、祈る中にこの子に驚くことが行われました。完全に発作を起こしたのです。この子が福音を受けて、イエスを受け入れをして良くなって、その家がすべて救われました。
■その時、私がその子を見ながらこのように感じました。率直に、私は悪霊を見たこともなく、よく知りませんでした。この子を見ながら、これが悪霊につかれたのだと感じられたのです。とてもこの子をすさまじく倒すのに、福音を受けながら直ちに解決され始めたのです。特に信じる者に、確信ない者を訪ね歩きます。ヤコブ4:7を見れば、立ち向かいなさい、そうすれば逃げますとなっています。特に水がない所、休み場を探すとなっています。水がないとは何なのか、休み場とは何なのでしょうか。福音がない人は、聖書を見れば水がない所ごとにずっと戦い、不平が起きます。悪霊の休み場という話は、とても怠惰な人です。こうした所で働きを起こすのです。マタイ12:45を見れば、特に空き家に行きます。皆さんの中にむなしい状態、虚無に陥る時、働きます。このように実際的に人に働くのです。それで祈ること、礼拝すること、伝道することをとても嫌います。
■皆さんが祈りというものを知らない時は、確かに損をするようになっています。皆さんが祈りが何なのかを分かったら、確かに勝利するようになっています。一番嫌うのは礼拝です。それで礼拝を失敗してはいけないのです。確かに悪魔は存在して、イエス様に議論してきました。マタイ4章です。イエス様が公生涯を始めようとされたので、悪魔が現れたのです。地球上で唯一の本である聖書みことばに記録されています。私はいくら考えても、この地のサタンの戦略があることは確実です。これから日が進むにつれ、刻なことがずっと来るはずですが、これはサタンの戦略であることが確実です。あえてイエス様に現れたとすれば、皆さんにも現れるという言葉です。イエス様に現れて、パンを作れと言いました。いつでも私たちを試みる時、肉体的なことを言います。イエス様は、パンでだけ生きるのでなく、神様のみことばで生きると言われました。高いところから飛び降りてみなさい。それと共に、詩篇を引用しながら、天使があなたの足を支えるのではないかと言いました。名誉心を刺激したのです。これがサタンが攻撃する通路です。本論が出てきました。私を拝め。そうすれば、私が全てをあなたにが与えると言いました。サタンの最も大きい目的は何でしょうか。礼拝の対象を変えろということです。悪魔が最も嫌いなのが、皆さんが礼拝をささげることです。最も祝福を受ける時間が礼拝する時間です。もし皆さん中で、教師、役員、聖歌隊が、聖日に本当に祈りながら献身したら、皆さんには驚くべきみわざが起きるでしょう。信じる者を攻撃することができるのでしょうか。します。礼拝に失敗する者。祈りが何か知らない者。そして、伝道が何か知らない者。礼拝、祈り、伝道を一番嫌います。聖書を見れば、問題を起こすのがとても多いのですが、実際このように働きが起きます。銘記しましょう。
■どのように勝てるのでしょうか。二番目です。五つの方法でなっているのに、一言にします。皆さんの人生の最も重要な主人が誰かによって、驚くべきみわざが起きたり、起きなかったりするのです。私の人生の主人が誰かによってみわざが変わります。キリストが皆さん人生の主人になれば、確かに勝利するのです。このように始めれば良いのです。救われた私たちは、知って霊的戦いを密かに始めなければなりません。また、銘記すべきことは、勝たなければならないから主人を変えなければならないのです。イエス・キリストを正しく知ることが重要です。これは暗やみの勢力が最も恐れるキリストを正しく知らなければなりません。聖書に記録された神様の力を信じると信仰が出てきます。実際、皆さん事業と人生の中心に、キリストを迎えなければなりません。そうすれば、証拠が起きます。証人になるのです。その中で最も重要なのが、主人になることです。キリストが皆さん人生の主人になれば、最も価値ある人生になります。
■実際、この部分をのがしているのです。キリストが主人とは何でしょうか、私が主人なのに。それは人生をよく知らない未信者がする話です。私たちの人生は簡単でないために、神様が最も大きい祝福を与えられたのですが、キリストが私の主人になるその時からみわざが起きます。皆さんの事業にキリストが主人になれば、まちがいなく勝利します。今日、この祝福を回復するようになることを願います。
■ヨハネ2:1-11です。カナンの婚姻の祭りに、イエス様をお客さんとして迎えました。イエス様を貴賓としてお迎えしたのです。幸いです。しかし、みわざがは起きません。私たちが信仰生活をこのようにするのです。イエス様をとても信じて尊敬して貴賓として迎えました。みわざが起きなかったのですが、その家に主人になりました。壷に水を満たして、そのまま従えと、イエス様が主人の役割をされが時、奇跡が起こりました。世の中で努力をよくする人々は、私の人生で私が主人であるから、私が責任を負わなければならないと話します。それは、皆さんに与えられた使命を持って言うことで、私たちの人生全体を見れば、そうではありません。私たちの人生の主人は、キリストでなければなりません。これを本当に分かったらそうでしょう。
■絵を描くので見てください。未信者は心の中心がサタンです。いくら考えても、私はその下にいるからサタンのしもべの役割だけを継続します。どんなにキリストが救いの奥義をくださっても、関係がありません。これが未信者です。多くのことを持っているように見えるのですが、実際はサタンのしもべです。私が分かることでは、お金をたくさん持った方、成功している方々が、ほとんどみなみじめです。どの程度、成功をしたでしょうか。福音をお証しすることができない程、成功しました。絶対に話をしませんが、韓国の財閥家族が福音を受けました。どれだけ成功して忙しい人なのか、行って福音を伝える機会がありません。その家族が私に祈りを頼んできました。今回、会う時間ができたので、福音を伝えてみるから祈ってくれと言いました。時間がないほど成功した人です。みじめなのと関係なく、お金はあるので、生きていくのですが、実際はみじめです。
■私たちのレムナントが必ず記憶しなければなりません。救われた人々の中には、こういう人が多いのです。イエス様を信じてはいます。しかし、全部、自分の思い通りで、私が主人です。だから、サタンとは関係ないのですが、キリストは受けることはあったのですが、私が主人です。それゆえに攻撃されるのです。主人が私であるから、救われても攻撃されるのです。キリストを私の主人に迎えて、私はキリストのしもべになれば、しもべなったように見えるのですが、絶対にサタンは攻撃できません。だから、私たちの問題、弱さを気を遣う必要がありません。ある面では、私の固執も持つ必要がないのです。なぜでしょうか。主人がそうであるためです。皆さんが少しだけ思っても、答えは大きくきます。心配する必要もなくて、私が持っている思想をいう必要もありません。主人がキリストであるためです。これしかしなかったのですが、皆さんに答えは恐ろしく始まるでしょう。カナンの婚姻の祭りに奇跡が起こったように、皆さんには驚くべきみわざが起きます。
■女性が嫁に行く時、夫を誰に会うかによって一生が左右されます。熱心に勉強して良くしていたのですが、おかしな男に会って一生、苦労するのです。また、ある女性は、とてもおかしな女なのに、とても良い男性に会ってよく暮らします。これが主人が誰かの問題です。女の主人が男でしょうか。聖書にそうなっています。聖書には夫が頭だと言われています。キリストに仕えるようにしなさいと言われました。夫には妻にキリストが十字架で死んだようにしなさいと言われました。主人がキリストになれば、新しい世界を見ることになります。イエスを信じた後、一番理解できないことが、これかもしれません。私が処理すれば良いので、キリストが主人というのは何の話なのかと思うかもしれません。皆さんがある日、深刻な状況に置かれれば何の話なのか分かるようになります。その状況に会う前に、神様の祝福を味わわなければなりません。
■釜山でタラッパン教会を難しくさせた牧師が、救急車に乗せられていったのですが、その人が告白しました。自分が救急車に乗せられていきながら、他には何も考えられず、本当に死に直面したので、妻も考えられず、子どもも考えられなかったということでした。自分が死の世界に直面して、言葉も言えない問題がきたのですが、自分が十字架を捕まえたということでした。本当に困難がくるので、人が目に見えないのです。本当に困難がくるので、人の話も助けにならなかったのです。深刻な問題がきて、十字架を捕まえたのですが、ただイエスだけというみことばを捕まえたということでした。神様が恵みで自分を助けてくださったと告白しました。そうです。キリストは私たちの人生の主人です。救急車に乗るようになったからではなく、教会にきてキリストを捕まえることを希望します。それを信仰生活を良くしていると言うのです。未信者が死ぬ時は、悪魔が押し寄せるということです。その時は捕まえられません。いくら十字架を捕まえろと言っても、その時は、何の話なのか分からないのです。皆さんの人生に、キリストが主人という話は、普通の話しではありません。神様が私たちに最も良いものをくださることを望まれるから、キリストを主人として送られたのです。キリストが人生の救い主であることも事実ですが、私の主人になれば、驚くべきみわざが起きます。これができないのです。皆さんも私もこれが良くできません。私の粋のとおりではないでしょうか。少しだけキリストが主人になれば、みわざが起きます。
■私は、私の後輩にこのように教えます。教会の主のしもべは、主の民に仕えるのだ。私が牧会をするのではなく、神様の民に向かってお手伝いするのだ。神様のみことばを、神様の民に、どのようにお手伝いが良くできるかが、主のしもべだ。思い通りにすることでなく、信徒が願うもの、神様が願われることを伝達するのが、主のしもべだ。それを教役者が集まる時、いつも話します。それ知らなければ、牧会をずっと苦労します。なぜならば、私たちの主人がキリストであるためです。本当にイエス様が私とともにおられる救い主、聖霊で働かれたら、当然、主人にならなければなりません。そうでないでしょうか。もし、キリストが私とともにおられる聖霊で働かれる神様ではないならば、主人になる必要はありません。そうではないでしょうか。聖霊で皆さんの事業に働かれる神様であることが確実ならば、主人にならなければなりません。私たちのレムナントが、どれくらいこれから重要なことをするかということですが、皆さんの主人は誰でしょうか。キリストです。キリストならば、すべての暗やみ勢力がみな砕かれるのです。数多くの勢力が皆さんを攻撃しても、やられることはないでしょう。
■私は、仕事が多くて、付いて回る秘書が二人です。食べ物もまとめて、服もまとめて、カバンも持って歩きます。ある場所に行けば、宿舎に行って集会時間まで待って準備します。食事をしなければならない時、どのようにしなければならないかというと、金秘書が電話して「牧師先生、今日は私が鶏の丸焼きを食べたいから、鶏の丸焼きの店に行きましょう」と言えば、どうなるのでしょうか。一度もそのようなことはありません。電話して「何を召し上がりますか」と尋ねます。それでは、私が食べたいものを準備してくれます。秘書はしかたなく従うのです。私と何十年一緒にいたので、味付けを変わってしまいました。大邱の味が釜山の味に変わってしまったのです。一度も「牧師先生、今日はおかゆが食べたいです、だからおかゆの店に行きます」と言ったことはありません。なぜでしょうか。私と一緒にいることが確実だからです。キリストが聖霊で私たちとともにおられることが確実なので、主人にだけなれば終わるとうことです。土曜日になれば金秘書は、自分の家に帰ります。土曜日は集会が終わったら、各自の家に帰ります。家に帰って、子どもたちと食事もして、遊んだりもするでしょう。その時、電話して「今日、私が息子と遊びに行くのに何を食べましょうか」と尋ねたら良いでしょうか。私と何の関係ない時間なのに。私たちが本当に神様を信じるか、信じないのかに従って重要な時刻表となります。
■私の人生の最も重要な事件は何でしょうか。神様、キリストが私の主人になることです。恐れることもありません。私の人生、私たちのレムナントの人生を歩む道に、最も重要なのがキリストが私の主人になることです。誰も害する者はいません。私が弱いのですが、キリストが私の主人になります。主人は全ての責任を負うようになっています。昔に私たちは銭湯に一年に2回行きました。名節(韓国固有の盆・正月)前日に行ったのです。平日にもしています。冬にはお湯をわかして、台所で母に殴られながら、あかを落としてもらっていました。夏には山に行きます。子どもたちと山に行って石で入浴しました。今はサウナに行ってみれば、ものすごく発達しています。石鹸洗いだけすれば、すぐに洗ってくれるタオルもあって、イタリア・タオルもあって、お湯も泡立つのもあって、青いお湯もあります。いろいろなものがあります。私が幼い時、銭湯に行った時、共同風呂に入れば、どれくらい大変なのか、そのように遅れた時代だったのですが、今も当時も全く同じことが一つあります。真っ赤な文字で書かれています。「貴重品は主人に預けてください。主人に預けないものは、責任を負いません」主人は責任を負う人です。キリストが私の主人だということは、神様が私の責任を負われるということです。皆さんの仕事、学業、事業を、神様が責任を負われるということです。このように始めれば間違いありません。今日から実際に適用して、皆さんの事業、皆さんの仕事の主人がキリストだとしてみてください。そうすれば、暗やみの勢力は皆さんを絶対に刺激することができません。
■三番目です。神様が与えられる力を受けなければなりません。この時から働きが起きます。皆さんが定刻祈りをすれば、どんな事が行われるのでしょうか。一つだけ話します。創世記13:18にアブラハムが定刻祈りを継続したのですが、どんなことが行われたのか知っているでしょうか。ダニエルが定刻祈りをした時、どんなことが行われたのでしょうか。この2つのこと(キリストが主人、神様からの力を受ける)がなれば、どうなるでしょうか。アナニヤが定刻祈りをする時、パウロを準備されました。聖書を詳しく見てください。キリスト、神様が主人にする時から、みなさんがいつでも祈れば、どんなことが行われるのでしょうか。一つだけ例をあげます。創世記39章に、ヨセフが奴隷生活をしながらずっと祈りました。主がヨセフとともにおられたので。驚くことが行われました。皆さんがRUTC時代が開かれながら、本当に祈り始めてるのに、先に始めることがこれです。少しだけすれば良いのです。
■私がソウルに来る時、たくさん考えました。本当に私が何をしなければならないのか。その時、まさにこれを思ったのです。「神様が私を思いのままにして下さい。必要ならば開いてくださって、必要でなければ止めて下さい。」ところで、神様は開いて下さいました。私は時々、神様が皆さんを祝福されることが明らかだから、ソウルに首都圏を代表するほどの教会を求めて祈って悔い改めます。それは私の考えであって、神様が願われることだけすれば良いのです。こうすれば最も正確な答えで働かれるでしょう。皆さんの事業の主人が神様ならば、どのようにしなければならないのでしょうか。皆さんが教会でみことばを捕まえて、しばらく祈る、この時間が最も重要な時間になって、最も働きが起きる時間になります。使徒2章です。皆さんに問題がきたのでしょうか。重要なことが行われたのでしょうか。それでは、それ一つだけ置いて集中祈りするのです。使徒12章、集中祈りした後に驚くべき奇跡の門が開かれました。また、ある時は、皆さんの最も真実な祈りが対話祈りです。対話する時、皆さんに神様が良心で答えられます。皆さんが本当に神様と対話してみましょう。皆さんの良心に答えられます。詩119:10-12を見れば、気持ちでとなっています。私がなぜこうするのか、神様に尋ねてみなさい。そうすれば、神様が良心に答えられます。最も良い祈りです。ある時は、霊的な力を使う祈りもできます。私たちの家系と長いあいだ続いた暗やみの勢力は、イエスの御名で離れるように。このように始めなければなりません。そうすれば、皆さんに証拠が違いなく起きます。
■結論を下します。神様は今でも同じように働かれます。モーセを助けた主の使いは、今でも生きています。ヒゼキヤ王の祈りを聞いてアッシリヤ軍を打った天使は、今でも確に活動しています。ペテロの牢屋の門を開けた神様の使いは、今でもお手伝いしています。この契約を捕まえて、皆さんが始める新しい出発があることをイエスの御名でお祈りします。特に私たちのレムナントにこの祝福あることをお祈りします。そばの人を祝福しましょう。あなたは重要な人です。神様があなたの主人です。

<契約の祈り>
神様、感謝いたします。神様が私の主人であることを感謝します。私の人生、私の事業を全能な主の御手に任せます。新しい力を得さえて下さい。イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン