2007年6月3日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/主を頼る者
(エレミヤ171:5〜8)
 ファン・サンベ牧師

■今日1部礼拝に出てきた皆さんに特別な神様の恵みが臨むように願います。衛星とインターネット、そして、みことばを受けるすべての現場に同じ神様の祝福があることを希望します。今日は、伝道総会聖日として守るようになりました。大韓キリスト教長老会伝道総会です。私たちの伝道総会は、法的に韓国社団法人に加入しています。社団法人韓国キリスト教改革教団協議会に加入しています。大韓民国の法的に何の問題もない団体です。この伝道総会ができる時、すべての牧師の心にこういう考えがありました。総会長が語ったように、伝道でなければ、伝道に邪魔になったら総会を解散するということです。伝道に妨害する要素があるならば、果敢に全てのものを改革するという意志を持っていました。このように伝道総会ができて、いつのまにか10年になりました。10年ぶりに総会聖日として初めて聖日を守ります。世界福音化の神様の契約を成就する、そのようなことを10年間、よく歩いてきました。この伝道運動に参加した個人と教会と子孫が、神様の大きい恵みの中で成長するようになったのです。伝道総会のアイデンティティーを聖徒たちが正しく知らなければなりません。なぜ数多くの総会があるのに、そのうちにまた神様が伝道総会を立てられたのでしょうか。総会が足りないので、また立てたということでは絶対に違います。10年前、当時の状況が、私は生々しく記憶しています。私は10年前に開拓をして3年くらいになっていました。3年ぶりに信徒が30-40人程度が集まっていたのです。そして、この伝道運動に参加しました。その聖徒たち何人にもならない人々を、ワゴン車に乗せて私が運転をしながら、みことば聞く集会に行くようになったのです。聖徒たちが、みことばを聞きながら恵みを受けて、力を得て、この福音のために献身しようと思う心もできていました。それで、教会が霊的な大きい力を得るようになっているところだったのです。ところで、韓国教会に大きい風が吹きました。10年前の話です。各教団で正規の神学校を卒業した牧師が、それぞれ、その出身教団でみな牧師按手を受けました。正規の神学を勉強した牧師は、何が聖書的なのか、非聖書的なのかを区分することができます。何が真理なのか、非真理なのかよく分かります。この伝道運動に参加しながら、とても多くの恵みを受けました。世界福音化に対するビジョンを胸に抱くようになったのです。ところで、韓国教会に大きいことが起きました。多くの牧師と聖徒たちが、タラッパン伝道運動に参加するようになったのを韓国教会が恐れ始めたのです。それで、各教団でタラッパンに参加した牧師を、教団から首を切りはじめたのです。初代教会の歴史以後に、中世時代を経て、今までこういうことは一度もありませんでした。これが韓国教会史の中にあった話です。各教団で正規の神学を勉強して牧師按手を受けた牧師が、福音運動に参加したという理由だけで首を切られ始めたのです。
■ 10年前には、私の年齢は40代初めでした。私は年で見ても、牧会経歴で見ても、牧会新人でした。私が所属していた教団と老会の視察からたくさん呼ばれて行きました。その伝道運動に参加するなという勧告をたくさん受けました。その当時、私は麻浦区で麻浦伝道学校の支部長を受け持っていました。教会と地域をおいて伝道運動をしばらくしていたのです。多くの先輩牧師に呼ばれました。私はその方たちに多くの助けを受けたのです。開拓教会をしていたので、多くの助けを受けました。その方たちのそのような助言を人間的には、心がだいぶ難しかったのです。その人々の前で私がこの伝道運動に参加した部分を証しし始めました。神様がどのように私に現場で恵みを与えられたのか、この小さい開拓教会がどのように現場で神様の働きの中に伝道運動を繰り広げているのか証しをし始めたのです。ところで、その証しが彼らの心には届きませんでした。むしろ、そのことのために困難にあったのです。その時は、私が決定しなければなりませんでした。何人にもならない聖徒たちが、決定を下さなければならなかったのです。教団から、こういう話を聞いたが、どのようにしなければならないのか決定を下さなければなりませんでした。しかし、一時間も悩みませんでした。この伝道運動が聖書的だということを、私たちは現場で確認したのです。全信徒が神様の前に立ち始めました。むしろ、それのために信徒が一つになりました。教団から首を切られたのですが、喜んでそのことを迎えました。このようにして、数百人の牧師が集まるようになったのです。各教団で首を切られた牧師が行く所がありませんでした。
■伝道総会は、私たちが作ろうとして作ったのではなく、神様の特別な計画の中で作られるしかなかったのです。難しい決定をする時、悩まないようにしましょう。その時、神様の前に立てば良いのです。神様の前に立てば、神様が知恵をくださいます。私はそのような経験をしました。このタラッパン伝道はどんな運動なのでしょうか。初代教会の伝道運動の回復運動です。初代教会が持っていた聖書的伝道運動の回復運動です。それで、全ての回復を私たちはみことばを分かちあっています。初代教会が叫んだメッセージの回復運動。イエス様がキリストとして来られました。イエス様はキリストです。その方だけがキリストです。この明らかなメッセージ回復運動です。伝道現場の回復運動です。20個の伝道戦略を土台に置いた回復運動です。福音に命をかけた弟子の働き人の回復です。本当に真の福音だけを証明する教会の回復運動です。この時代になくなった全てを回復する回復運動です。キリストの唯一性を言う、福音回復運動。福音の中での祈り回復、福音の中での伝道回復、弟子回復、現場回復、暗やみ文化から福音文化に回復、暗やみ経済から福音経済に回復。私たちの伝道運動は、全ての回復運動です。この運動に参加した皆さんを主の御名で祝福します。私たちは周辺から多くの困難にあいました。多くのおかしな話しも聞いたのですが、それは問題ではありません。神様がこの時代に願われることが何なのかを捕まえたという、ここに確信を持つべきです。私は、この運動に参加して、色々な歳月が過ごしながら一度も後悔したことがありません。むしろ、瞬間瞬間、神様に感謝するだけです。私がもしこの福音運動に参加しなかったとすれば、どうなったでしょうか。もちろん、牧会はしたでしょう。しかし、皆さんとの出会いはなかったでしょう。神様がこの時代に、本当に世界福音化伝道運動に参加した伝道総会と、色々な聖徒たちを、神様が祝福して喜ばれる事実を記憶することを望みます。
■伝道総会の下に約500個余りの教会があります。10年の歳月が過ぎながら、多くの教会が総会の中に入ってくるようになりました。神学を勉強した神学生が牧師になって、教会を開拓して、総会の中に入ってくるようになりました。地域を代表するほどの教会として、神様が地域、地域に教会を成長させてくださいました。今、韓国教会は、多くの困難にあっています。開拓教会が多くの困難にあいます。私たちがよく知らない時間の中にも、門を閉めている教会が多いのです。クリスチャングッズを売る会社を運営する方々から、こういう話を聞きました。教会が門を閉めるので、教会の椅子、教会の講壇、グッズを処分する方法がないということです。これが今日の韓国教会の状況です。驚かないように願います。タラッパン伝道運動に参加したすべての教会ごとに、事実、霊的な大きい力を増しています。それしか仕方がない理由があります。福音に明らかな答えを持っているためです。神様がこの時代に真に喜ばれることが何か分かるためです。すべての聖徒たちを、福音の中に入るように助けるためです。地域、地域に代表的な教会の中に、首都圏に、インマヌエル教会を立てられました。首都圏に教会が足りないので立てたのでは絶対に違います。私たちはこの時代に福音を宣べ伝えたところ、神様がどのように私たちの中で働かれたということを子孫に見せるべきです。全国と全世界の現場の前に福音運動をしたところ、このようになったということを見せる生き証人として立たなければなりません。このことに呼ばれた皆さんを主の御名で祝福します。ひょっとして、周辺から話を聞いて葛藤する人がいるでしょうか。今日、この時間に飛ばしてしまうことを希望します。神様が私たちに真の福音を与えられました。この福音が正しいならば、福音を捕まえて、そのまま行けば良いのです。この福音のなかで神様の働きを皆さんの生涯の中に繰り広げれば良いのです。一時代を生かすこの世界福音化の働きに、皆さんの残った生涯が用いられるように祝福します。
■今日の本文のみことばに基づいて、主に頼る者というタイトルで話します。救われた聖徒たちが、いつも神様の前に出てくる時ごとに、神様の前で何か一つを必ず考えなければなりません。最初に常にすることがあります。私たちが常に何をすべきでしょうか。神様の前に真の感謝を持って神様に出てこなければなりません。今日、主の前に礼拝しに出てきたのですが、感謝な事を持って出てきたでしょうか。感謝の告白を個人的に神様にささげたでしょうか。教会に出てくる時ごとに、私たちの胸の中に真の感謝があふれなければなりません。皆さんがこの場に来なかったとすれば、確に違う場所にいるでしょう。神様の前に出てくる時ごとに、神様が私に与えられたその恵みを思いながら、真の感謝が回復しなければなりません。礼拝をささげる時ごとに幸せな礼拝になるように願います。幸せでしょうか。何のために幸せなのでしょうか。そうでなければ、不幸ですか。何のために不幸なのでしょうか。私たちは不幸な理由がありません。今日、神様が私たちとともにおられるから、この礼拝の中で神様の最高の祝福があふれるように願います。何を感謝するべきでしょうか。私たちは主の前に出てくる時ごとに救われたことを感謝しなければなりません。滅びるのがふさわしかったのに、救われたことをとても感謝します。私たちは神様の前に罪を犯した罪のために滅ぼされるしかありません。それでも、神様が私たちにキリストの義を着せてくださって、救われるようになりました。これは全面的神様の恵みです。
■また、私たちが何を感謝すべきでしょうか。救われたことだけではなくて、福音を悟るようになったことがとても感謝です。福音の中に含まれているキリストの奥義を悟るようになったことがとても感謝です。今日、多くの人々が宗教の中に陥っています。律法的な信仰生活を持っているのです。真の福音の奥義が何か知らないのに、教会に多くの人々が通っています。この福音の奥義を悟るようになったことを感謝しなければなりません。なぜイエス様がキリストでこの世にくるしかなかったのでしょうか。その理由を福音の中で発見すれば、感謝が出てこなければなりません。また何を感謝すべきでしょうか。私たちが伝道宣教を悟るようになったことを感謝します。私たちがこの世に生きていく時、私が何のために生きていくのでしょうか。私の人生の未来のビジョンが何でしょうか。この世に私がなぜ存在するのでしょうか。私がなぜ生きなければならないのでしょうか。伝道と宣教の中に答えを得られなければ、その人生はさまよいます。私が未来に何に向かって走るべきなのでしょうか。伝道と宣教の奥義を通して解答を得ることを希望します。この奥義を悟るようになったので、どれくらい感謝でしょうか。もう一歩進んで、子孫にこの契約を伝達できる理由を発見したことをとても感謝します。私たちは私たちの子どものために祈ります。私たちの子どもの未来のために祈ります。しかし、私たちの子どもがこの福音の奥義を悟って、神様の前に立ったら、私たちはこれ以上願うことがありません。その価値を私たちは分かるからです。私がこの福音の奥義の価値を分かったとすれば、私の子ども、次の世代に伝達する、これを持って私たちは今日、神様の前に出てきたのです。今日、最高の祝福された礼拝時間に感謝が出てくることを希望します。
■二番目に、神様が私たちにくださった祝福があります。神様が私たちに与えられた祝福は何でしょうか。福音の中に神様がくださった祝福があるのです。私はその部分を皆さんに、もう一度みことばで解きあかしたいと願います。私たちの人間は動物とは違います。人間の本来の人間は、神様のかたちに創造されました。私たちは本来、人間の本来の姿を分からなければなりません。私たちは一人で勝手に生きていく人間という存在ではありません。神様のかたちに創造されました。神様が共におられてこそ、幸せな存在として生きられるのです。それで、私たちは神様と共にする奥義を持って、この世で私たちの祖先が生まれるようになったのです。神様の中にいる時だけが真の安らぎ、真の平安が持続できるのです。ところが、人間が罪を犯してしまいました。神様を離れる罪を犯したのです。神様のみことばに聞き従わない罪を犯しました。サタンにだまされて、神様を離れてしまったのです。サタンにだまされる瞬間、罪に堕ちました。そして、霊的に神様と交わりが切れました。神様と共にしなければならない人間が、神様を離れたのです。ここからすべての問題が人間に訪れてきました。その時から人間に苦しみが始まったのです。苦しみにその時から受け始めるようになったのです。その時からさまよい始めました。結局、神様なく生きていく人生に転落するようになったのです。神様なしで生きていこうとして見たら、偶像崇拝をせざるを得ません。運命の中に陥って、生まれた日による運命の中に縛られて生きていくしかありませんでした。なぜ多くの人々が偶像を崇拝するのでしょうか。その理由があります。本来、神様に仕えるべきなのに、神様を離れて他のものを崇めなければならないためです。運命の中に陥った者は、結局、偶像崇拝の中で永遠な苦しみに、その人生が行かざるを得ません。本来、神様は私たちの人間を神様の祝福された子どもとして、私たちは神様をお父さんとして崇めるようになっていました。神様を離れて見たら、神様でない「うその父」を探すようになったのです。「うその父」は何か分かるでしょうか。「他人の父、南無阿弥陀仏」と言わざるを得ないのです。神様が私のお父さんなのに、なぜ他人の親父を探すのでしょうか。神様のなかで神様と一緒に暮らさなければならない幸せな人間が、神様を離れてしまったのです。偶像崇拝をすればするほど、霊的な苦しみが伴います。精神の問題が従うのです。肉体問題が従います。永遠な来世問題まで従います。これが私で終わるのではなくて、子ども、子孫に霊的な遺産で受け継がれます。神様を離れた人間は、霊的無知の中で生きています。霊的に無知なのに、霊的に無知であることすら分からずに生きています。多くの人々が悪霊がどこにいるかと言いながら、悪霊に仕えています。それが法事です。人間にたましいがどこにあるかと言いながら、人間のたましいを慰める、そのような供養をします。地獄がどこにあるのかと言いながら、大きい苦しみの状況を迎えれば地獄のようだと言います。
■ 何日か前、私がインターネットを通してこういう記事を見ました。真昼に都市の真中で2才になった豚が手足が裂けて死ぬことがありました。京畿道にある都市に軍部隊が移転されるために抗議デモがあったのです。市民1500人程度が集まりました。そして、この豚を両手、両足をひもで縛って、両側から引っ張ったのです。豚が悲鳴をあげ、うまく裂けないので、4箇所にメスを入れたのです。都心全体が血の海になってとても惨めに死にました。それを見た市民とネットを見ていた人々が抗議をし始めたのです。動物愛護連合会が、市に抗議をして抗議集会をしました。そのために豚の霊をなぐさめる儀式を何日か前にしたのでした。豚の霊をなぐさめる場所も作りました。私は人々が、その場で頭を下げたことを想像するだけでも笑いが出てきます。人間が霊的に無知ならば、このようになるのです。してはいけないことですが、豚には霊はありません。いくらなだめても霊はないのです。この頃、過ぎ去りながら道路周辺で、時々、動物病院を見ます。動物病院もこの頃はたくさんできています。その病院の窓の前に大きい文字で書かれています。真っ赤な文字で、応急室、電話番号、診療科目、内科、外科、X-Ray科、産婦人科もありました。私がそれを見ながら笑うのです。ところで、一つがないのですが、精神科がありません。動物は精神科がありません。人間にだけ精神科があるのです。人間が霊的に無知ならば、神様を離れて結局、偶像崇拝に陥って、生きながらそれが苦しみかもわからないのです。たましいが死んでいきながらも、そのたましいがなぜそうなのか理由を知らないのです。神様が私たちにここから解放される道を開いてくださいました。救われ道が何でしょうか、それがまさにキリストです。
■聖書が話しているのに、ローマ16:25に世々に渡って長い間、準備したと言われています。ローマ1:2に、預言者によってあらかじめ約束されました。それが創世記3:15節です。女の子孫を通して、イザヤ7:14、処女のからだを通して、一人の男の子がこの世に来られる。ガラテヤ4:4に、時が来たので神様がその男の子を女から生まれるようにされたと記録されています。マタイ1:21に、その方は、私たちと共にするために私たちの所に来られたのです。イエスという名前を持って、私たちの罪の問題を解決しに来られました。マタイ16:16その方がキリストとして来られました。それで、そのイエス様がキリストとなるのです。その方はキリストの働きをするために来られました。イエス・キリスト、その方だけがキリストの働きができるのです。この世の霊的な問題は、キリストだけが解決することができるのです。Iヨハネ3:8、その方が悪魔のしわざを滅ぼされました。ヨハネ19:30十字架でみな成し遂げられたのです。創世記3章の問題によって人間が苦しみを受けなければならない、そのどんなことも今は残っていないのです。私たちのすべての罪、呪い、災いの問題をキリストがみな終わらせました。私たちはこれ以上、何かを守って、祭りを守って、問い詰めて、絶対にそうではありません。キリストが十字架でみな解決されたのです。
■この事実を信じるのが信仰です。ヨハネ1:12に、主を信じて神様の子どもになることを聖書は話しています。これを信じる者に、主は途方もない身分と権威を与えられました。この世で身分と権威を持って、信仰で生きていけるのです。今日も、これらすべての人々に向かって主は話されます。心の門をあけて、神様を主人に迎えるように言われるのです。黙示3:20に、見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。ひょっとして、この場にまだイエス様を救い主として迎えていない方がいるならば、この時間、迎える祝福があることを希望します。友人に付いてきた人、夫に付いてきた人も、本当にイエス様を救い主として受け入れることを希望します。イエス様だけが私たちの唯一の救いの主となります。イエス様だけが、私たちのすべての創世記3章の問題を解決することができるのです。使徒4:12に、世界中でこの御名の他に救われるべき名としては、どんな名も与えられていません。ただ一つの名、キリスト。その名しかありません。なぜでしょうか。神様がその名前だけを与えられたからです。それなら今日の本文を見ながら、すべての人がみな神様に会うことを望みます。ところで、神様を離れた者がいます。心が主から離れた者がいるのです。
■今日の大きい三番目、心が主から離れた者に対して話しています。本文5-6節のみことばです。心は人間のたましいの中心機関です。5節に人を信頼しとありますが、私のたましいの保護者をなくせば、人を信じるしかありません。お金を頼るしかないのです。経験を頼るしかありません。しかし、それは永遠ではありません。結局、さまようのです。本文に見ると、肉を自分の腕とし、肉体の力は制約的です。神様の永遠な祝福をみなのがして生きるのです。創世記3章の呪いをうち砕く方法はありません。押し寄せる暗やみの勢力の攻撃を防ぐ方法がないのです。6節に、そのような者は荒地のむろの木のようだと話しています。荒地のむろの木を想像してみてください。霊的な飢え渇き、孤独さ、虚しさ、結局は、神様がない人生がそうなのです。荒地のむとの木のような人生、今日そのような人生に向かって神様はおっしゃっています。わたしのところに来なさい。わたしの中に真の平安、希望がある。今日、主の招きに皆さんの心がパッと開かれるように願います。なぜそのように多くのお金を持っていながら自殺をするのでしょうか。お金ならば、全てのことがみなできると私たちは物質万能主義の中に生きています。それにもかかわらず、お金でも解決できない、その何かがあるということです。なぜそのように多くの人気、名誉を持ったのにもかかわらず自殺するのでしょうか。その人気、名誉が解決できない、何かがあるということです。その何かは何でしょうか。私たちはそれを正しく知らなければなりません。人間のどんなのでも解決できない霊的な問題があるのです。ただキリストだけしか解決できないことがあります。今日、キリストが皆さんの人生に、真の主人として根をおろすことを祝福します。それで、荒地のむろの木のような人生を生きるのではなく、神様を見上げて、神様を頼って生きることを希望します。
■四番目、主を頼る者です。今日の本文7、8節を見ます。主なる神様はどんな方なのでしょうか。詩46:1に、神様は私たちの避難所です。私たちの力であり、私たちが危機の中での大きな助けです。神様だけが永遠な、唯一の力になります。聖書の本文7節に、その人は恵み受けます。主なる神様を頼る者、その人はすでに恵みを受けました。私たちはすでに福音の中にあるすべての恵みを受けた者です。すでに神様が私たちにくださった恵みを受けたという事実を記憶することを希望します。恵みを受けようと努めずに、すでにくださったことを受けて、探して味わうように願います。創世記12章に神様がアブラハムを呼ばれます。アブラハム、あなたは祝福の根源になる。新改訳聖書では、名が祝福になると言われています。アブラハム、神様が呼ばれた子どもであること自体が祝福です。私たちはすでに最高の恵みを受けた者たちです。神様の子どもは祝福のかたまりです。信じることを希望します。皆さんは祝福のかたまりです。イエウォン教会に私が核心を行けば、時々、私に挨拶する人がいます。私はその信徒が誰なのかは知りません。私たちの教会の信徒のようでもありません。ところで、何度かその方が、私に「祝福の根源の牧師先生、こんにちは」と言うのを聞きました。私がそのように挨拶をして、後ろを向いて静かに行くのですが、考えれば私の心がうれしいのです。そうだ、私は祝福の根源だ。救われたすべての神様の子どもはそうなのです。子ども、レムナントを祝福することを希望します。皆さんの子どもは、祝福のかたまりです。両親がとても寂しい悪口を言わないように願います。口にできない悪口を言わなくなるように願います。腹が立って悪口が出てきても、唾を一度ぐっと飲み込みましょう。「コラ、祝福のかたまりのレムナント!」そのようにしてでも、子どもたちの胸の中にこの奥義が植わることを希望します。
■ 8節に見ると、その人がどういう者なのかを表現しています。水のほとりに植わった木のようだと言われています。主を頼る者は、水のほとりに植わった木のようだということです。木が水のほとりに植わっていれば、どうなるのでしょうか。聖書にあるように、日照りにも心配ありません。暑さがきても、何の心配もありません。なぜでしょうか。根が川辺に沿って水側におりているためです。木の根が水がある側にのびて行くことは事実です。主を頼る者は、福音の根をおろしています。主を頼る者は、永遠ないのちに根をおろしています。この世のどんな問題が来ても、恐れる必要がありません。主を頼る者は、恐れる必要がないのです。荒地のむろの木のように、その心が主から離れた者は、当然、心配しなければなりません。しかし、水のほとりに植わっている木のように、主を頼る者は恐れる理由がありません。今日、このみことばが皆さんの胸に再確認されることを希望します。私たちのアイデンティティーです。私たちは誰でしょうか。私たちは主を頼る者です。私たちは水のほとりに植わった木のような者です。今日、この確信が皆さんの胸にあふれることを希望します。みことばの結論を結びます。神様の子どもは神様を頼りながら生きるのです。神様の子どもが人を頼ってはいけません。お金を頼ってはいけないのです。名誉を頼ってはいけません。世の中の、どんなことも頼って生きてはいけないのです。それは全部過ぎ去ることであるためです。ただ永遠なのは福音しかありません。ただ永遠なのは、創造主なる神様、救い主しかありません。ただ福音にあって、神様を頼る信仰をもって勝利することを祝福します。今は子孫レムナントに、この奥義を伝えてやる皆さんになるように願います。私たちに会うすべての周辺の人々が、神様を頼るように証人の生活を送ることを希望します。
■私たちは私たちの人生自体が人生キャンプです。私たちの人生自体がキャンプなのです。人生自体が福音を表わす人生です。神様が私と共にされる事実を多くの人々に証しする証人の人生です。世界福音化の祝福の中に入ってきた皆さん、今日、この祝福のみことばが皆さんに根をおろすことを希望します。今日、伝道総会聖日を迎えました。主が来られるその日まで、この福音だけを伝える総会になることを祈るように願います。私たちが福音を伝えることために、どれほど多くの困難にあったでしょうか。いろいろ、聞くことができない話も聞きました。しかし、この福音が間違いないから、私たちはこの祝福の隊列から離れません。この福音が最後まで、主が来られるその日まで宣べ伝えられる、そのことに私たちの教会、家庭、産業、総会が用いられることを願うように望みます。今週一週間、神様を頼る信仰をもって勝利することを主の御名で祝福します。お祈りします。

<契約の祈り>
主の恵みをありがとうございます。永遠な滅びの中で苦しまなければならないのに、私たちに真の福音をくださったことをありがとうございます。この福音を持って信仰の中で生きるようにされたことをありがとうございます。この福音を言える証人の生活を送るようにされたことをありがとうございます。今は、この福音を持って、この時代と、民族と世界を生かすことに用いられるようにさせて下さい。このために、私たちと教会と総会を呼ばれたことをありがとうございます。主が来られるその日まで尊く用いられるように、主が働いて下さい。生きておられる主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



2部/幸いな教会
(使徒2:17-21)
  (ペク・ウンギュ牧師)

■聖日礼拝のメッセージは、負担です。時々、聖日礼拝の司会はしたことはありますが、メッセージは初めてです。私はだいぶ震えているのですが、負担があるのは通訳者でしょう。通訳者がいやがる何人かの中で私が一番です。今、時空を越えて働かれる神様の聖霊が、私たちの礼拝をささげるこの時間に、米国での働きを主が準備しておられるでしょう。シカゴは、別名、海外在住の韓国人の間でこのように呼ばれています。「真っ黒でまっ暗で大変疲れている(ハングルで、シカゴという発音がこの言葉に似ている)」ということです。キャンプと集会を通して神様の最高の光が臨むと思います。レムナント聖歌隊を見ると、生まれた時から見ている子がいます。あの子たちは私を見ながら、とても老いたと言うでしょう。柳先生を近くで見ていたら、とても年をとられました。ずっと、先生の五つの力のために祈らなければなりません。霊力、知力、体力、経済力、人材をおいてずっと祈って下さらなければなりません。特別に、ワシントン、ペンシルバニアなどで重要な働き人も立てて、聖餐式もあって、いろいろことがあります。ボストンでも働き人を立てます。最高の福音運動、教会運動によって、実際に暗やみの勢力が米国で晴れる、そのような働きが教会運動で起きなければなりません。
■私たちが受けなければならない最高の祝福は、私たちのインマヌエル教会をはじめとして、すべての教会が幸いな教会にならなければならないのです。時々、出張して通うと、信号に引っかかって車を停車する場合があります。そばを見れば壁に何かついています。私たちの地域で最も水が良いところ、○○○ナイトクラブとなっています。自分の地域で最も水が良いところだという話です。一度は、釜山に入ってくるのに、その入口に見ると釜山で最も水が良いところ、○○ナイトクラブとなっていました。私は見る時ごとに、こう考えます。「笑わせるな、釜山で最も水が良いところはインマヌエル教会だ」水が違うのです。ヨハネ5:24に見ると、私たちを死からいのちに移されたと言われています。私たちは遊ぶ水が違います。多くの世の中の人々は、申し訳ないですが、死の水で遊んでいます。私たちは世の中の人と比較することができない生活を送っていると思っても、私たちはいのちの水で遊ぶのです。そんなことを考えれば、私たちが今、礼拝をささげている教会がどれくらい幸いな教会かわかりません。
■特別に、衛星でも共に礼拝をささげている教会があるでしょう。だれが何と言っても私たちの教会が最高です。この場だけでなく、それぞれの教会も最高です。なぜでしょうか。いのちがある教会が、最も幸いな教会なのです。それで今日の本文を中心に聖書に現れる幸いな教会の祝福を私たちが確認しなければなりません。
■どんな教会が幸いな教会なのでしょうか。教会にきたのですが、教会で礼拝をささげる時ごとに、幸福の真の味をずっと感じる、これは私たちが最も願う姿です。こういう教会があったでしょうか。もちろんありました。初代教会がこういう祝福を受けました。使徒1:12-15に見ると、約束された主の契約を捕まえた人々が集まって祈って誕生した教会です。ここに使徒2:1-4に見るので、誰も予想できなかった聖霊の祝福がこの教会に臨む姿が見られます。
■多くの方が幸せに対して誤解をしています。おもにいつ皆さんは幸せを感じるのでしょうか。何をするのも、お金が少しあれば幸せです。ポケットがいっぱいならば幸せです。そんなことより、もう少し幸せを感じる時があります。経済より、むしろ名誉側で幸せを感じる人もいます。それで、おもに幸せいうと、人から認められる時、幸せを感じます。おもに仕事を良くする、私たちの教会で最高で献身する執事から、素晴らしいと言われたら幸せになります。福音を持った人はみな素晴らしいので、福音を持ったので素晴らしいと、ただ外見的な面で言われると、幸せになる場合があります。人であるから、こうした話をしてくれないより、した方が良いでしょう。問題は幸せの真の味をここで探そうとすれば問題になるのです。
■教会での幸せの真の味をここで満足感を得たら、その教会はだいぶ問題になる教会となります。もちろん、人であるから認められないより、認められた方が良いでしょう。しかし、それが目的になってはいけないのです。私たちはだいぶ幸せに対して、このように誤解することもできます。果たして私はなぜ幸せで、どこで幸福感を得るのか。教会の中を見れば、宗教的な心理のために幸福を得ようとする人がいます。前に教会で男の執事が私にこのような話をしました。「私は教会にいる時、刺激されなければ良い」と言いました。簡単に話せば、訓練を受けろという言葉をちょっとしなかったら良いという言葉です。私は生きるのに精一杯なので、そのまま聖日に教会くることそれ自体が良いから、私を刺激しないでくれということです。そのようなことがあるでしょう。今は訓練を確かに受けているようです。ひょっとしてインマヌエル教会で礼拝をささげているのにも「刺激するな、私はこのままで良いから私を刺激するな、受け入れもさせずに何もするな」と言う人もいるでしょう。表情、礼拝の雰囲気、牧師先生の見えない名声などがあるので、それ自体が良くて来られる方がひょっとして2人くらいはいるのではないしょうか。私たちは時々こうしたところでも幸福感を感じようとします。海外キャンプ行って来られた方は分かるでしょう。どの教会から来たかと尋ねられて、釜山インマヌエル教会からきたといえば感嘆の声を出されます。そのような時、気分が悪い人はありません。そのようなところで、幸福感を感じることはあるでしょう。
■しかし、それが私たちが探す幸せの根源になってはいけないのです。幸せの真の味を正しく教会で味わわなければなりません。教会に礼拝をささげにきたが、幸せの真の味がずっと感じられたら、その教会が幸いな教会ではないでしょうか。いつ私たちが幸福の真の味を感じるのでしょうか。私が本当にクリスチャンになったんだなあ、本当に私が神様の子どもになったんだなあ、その時が一番幸せではないでしょうか。パウロは、この事実を発見した時、私は死んでも良いと言いました。牧師夫人の合宿講義の中で、柳先生が弟子訓練の中で最も重要なのがこれだと言いました。そうです。私たちが本当に幸せはどこで探さなければならないのでしょうか。本当にクリスチャンだということから探さなければなりません。
■少し別に話してみれば、教会にきたのに、私がクリスチャンということがとても幸福感を持つようにさせる教会が真の教会で、幸いな教会なのです。クリスチャンということは、人々が皆知っています。自分がイエスを信じて教会に通っている人だということを知らない人がどこにいるでしょうか。クリスチャンというものが最も幸せだということを知らせる教会、その味を見せる教会、これは大きさが問題ではありません。こういう教会になったら、これを最高の教会であり、幸いな教会です。一歩外に出て行けば、ひとまず捕えられれば拘束、死刑が待っているのが初代教会でした。特にユダヤ人であって、イエスを信じてユダヤ教から教籍を剥奪された人は、ユダヤ人が石で打たなければならないほどの敵に思われていました。そのような対象になる人が集まった教会が、マルコの屋上の間の教会でした。ところで、教会に集まる時ごとに最も幸せだったのです。その教会の信徒という理由で、命の危険を感じながらも幸せでした。それなら、なぜその人々がそのようにしたのでしょうか。味わったということです。この味がものすごく良かったということです。クリスチャンになったとのことが最高の幸せだったということです。
■福音を正しく知ることが、最高の祝福でしょう。マタイ16:16で「あなたはキリストです」と言われています。主がキリストだという事実を正しく知っている人、この人が最高の幸せを感じる人です。時々、私たちの信徒にこういう質問をします。キリストの意味は何ですか。皆さんの心の中で思う、その意味です。「油注がれた者」です。私たちは油の商売人でしょうか。その言葉と私と何の関係があるのでしょうか。油を注がれた者なのに、それが私と何の関係があるのでしょうか。「あなたはキリストです」という言葉、その奥義私のものになったということです。英語で見れば、'You are the Christ'として、指を示しながら「あなたがキリストだ」と話しています。それを発見したとのことは、とても大きい祝福です。本当にクリスチャンになったということは福音を分かったということです。イエス様がキリストなので、私たちに、私に新しい生きる道が開かれたのです。
■ヘブル10:19-20を見ると、主が十字架で血を流してくださって、ただ一度の死なれることによって、神様に行く新しく生きる道をぱっと開かれたと言われています。イエス様が死なれることが、私と何の関係があるのでしょうか。約2000年に死なれたその事件が、私にどんな影響を及ぼすのでしょうか。今日も神様に会える新しくて生きる道を皆さんにぱっと開かれたのです。福音を知る者、その人がクリスチャンです。これを分かる時、クリスチャンになったということがどれくらい幸せな話でしょうか。
■2回、3回、死ぬ必要もなく、ただ一度、死なれて完全に解決されました。何を解決されたのでしょうか。ヘブル9:11-12を見ると、一度の死なれることによって、私たちの罪に対する部分を永遠にあがなわれたのです。この質問を初めて聞いた方もあって、何度も聞かれた方もいるでしょう。韓国の男の平均寿命が74才で、女性は82才です。それでは、だいたい何年来て、あと何年残っているでしょうか。十代の人もいて、もっと残っている人もいるでしょう。今まで生きてきた私のすべての人生が、今この場の私という存在を作った過去があるのです。その過去が愛しいでしょうか。私が色々な階層の人に尋ねました。年をとった勧士に尋ねたました。過去の人生が愛しいですか。何で、そのような話をするのかと言われました。年が幼いティーンエージャーに、生きていると言っても、どれくらい生きたか分からないその子たちに尋ねたところ、考えもなく、いいやと答えます。深く考えもなく、正しく知っているのだと答えました。なぜそうでしょうか。なぜ愛しく感じられないのでしょうか。何か確かに言い表すことはできなくて、話せないのですが、何かに縛られている罪の意識のためです。何か罪の意識を持っているのです。それのためです。キリストがただ一度の死なれたことによって、永遠な罪のあがないをしてくださいました。罪と死の原理からあなたがたを解放したと言われました。罪と死の原理に縛られたのが、罪の意識です。そこからみな解放したということです。
■それでは、皆さんの過去はどうでしょうか。愛しいではないでしょうか。その過去がなかったとすれば、皆さんがこの席に座っているでしょうか。キリストを分かったのでしょうか。その過去がキリストを知ることによって土台になるでしょう。皆さんの青少年の時、私がなぜそうだったのだろうかという傷を持っている方がいるでしょう。
■その傷がどれくらい愛しいでしょうか。福音の上に立つので、福音を受けて見るので、レムナントへの情念ができるでしょう。「あなたはキリストです」クリスチャンです。
■なぜイエス様は死なれるという方法を使われたのでしょうか。ある賢い天才は、イエス様が自殺したと言います。なぜならば、他人の手を借りて自殺した、死ぬことを知って行ったのではないかと言います。これ以上言えません。なぜ主は死という方法を選択されたのでしょうか。ヘブル2:14にその答えがあります。死という方法に、主が入られた理由があるのです。「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」と言われました。その方がキリストで、私のキリストであるというその奥義が、私たちを永遠な呪いからみな救い出したということです。ここで最高に本当に味わわなければなりません。
■マタイ16:16に「生ける神の御子」と言われています。「あなたはキリストです」と多くの方が告白します。この問題を解決されたその方だと言います。そこまでは良いのですが、その次が問題です。生きておられる神様の息子だということは、何の話なのでしょうか。ペテロが見ると、主がキリストであることに間違いない、することもいろいろ見た時、イエスがキリストに間違いない。その一方で、生きておられる神様の息子だ。何の話なのでしょうか。それは私にもキリストであるということです。それにならなければなりません。多くの方が、主はキリストで、あなたの神様だと言います。主はキリストで、私たちの子どもの神様。主はキリストで、証拠あるあの人の神様。私たちが必ずクリスチャンとして最高の幸せを感じる時、私たちが探さなければなりません。今はキリストを体験しなければならないのです。事実的な体験になられなければなりません。私にも生きておられる神様の息子として体験されなければなりません。その時、私たちに救いの確信が与えられます。救い、祈り、勝利、導き、罪の赦しの確信がくるのです。こういう部分を体験する時に、私がクリスチャンであることが最高の幸せだと感じるでしょう。
■それと共にマタイ16:17にこういう言葉があります。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われました。それは、何の話なのでしょうか。今は私たちがどの程度、神様の祝福を味わえば良いのでしょうか。もう私の人生がキリストによって調整されれば良いのです。実際にその方のものすごい力を知って、実際にその方のその力によって生きていく人。こういう人生になります。これをキリストを味わう人生と言います。このようになる時、最も幸せなのです。それだけではありません。こういうペテロに、主がヨハネ22:18を見ると、イエス様から愛の告白を受けた後に「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。その話をしながら「これからは、自分で帯をしめて働くのではなく、あなたは殉教するようになり、そのことのためにあなたの人生に対する部分をささげるようになる」と話されました。
■私たちが本当の幸せはいつ感じるのでしょうか。この福音の真の味、ものすごいことが本当に私の命をかける価値があるんだなと感じる時です。私たちは、この価値が発見できなければなりません。この中で命をかける価値が発見できなければ、申し訳ないのですが、OMCは負担でしょう。これが発見できなければ、申し訳ないのですが、四つの献金は負担でしょう。その負担を負担で感じないように捕まえた契約が「隠された経済」です。出すのが負担でしょうが、出せばgive and takeで、与えればくるようになることが分かるでしょう。私たちの信徒が誤解する部分が多くあります。隠された経済というので、地から突然、経済が上がってくるのだと思うのです。皆さんが隠された経済を体験する絶好の機会がきました。世界レムナント大会が6月4日まで延びました。インターネットで放送しないと広告しました。子どもたちを送らなければならないでしょう。送ろうとすると、負担になるでしょう。行けないようにして押さえられていたレムナントが、リーダー修練会まで要求します。参加費を合わせれば50万ウォンを越えます。今、私が切りつめて集めて、他のことをしなければならないのに、子どもがレムナント大会に行こうとするのです。私がしないようにして、子どもたちのために、教育のために投資するのです。レムナント大会に行けと言います。一ケ月後に、私がしようと思っていたことができなかった、そのようになったでしょうか。できているでしょう。そのような経験はないでしょうか。二つのうちの一つは一ケ月後にして、一つは今、直ちにしなければならない場合、これを出せばないのに信仰が先だと言いながら先のことをします。その後、残りこともできるのを経験していないでしょうか。それを隠された経済だと言います。本当です。
■神様が皆さんにいくら与えられたら世界福音化ができるでしょうか。今、あるだけすれば、世界福音化できます。牧師先生が知らないからであって、マイナス通帳を使ってカードで回して防いでいるのに、大変で死にそうだと言う人もいるでしょう。そのようにして、世界福音化をするのです。実際にそうです。隠された経済に対して誤解してはいけません。本当に神様が皆さんが価値を知って、投資するだけのことはあるといって仕事をする時、できないと思ったのに、みなできるのです。そうするうちに小さいことに忠実であるから、あなたが小さいことに対して分かるから、もう大きいものを与えると言われるのです。この時から本当に天からあふれ注がれます。
■二番目、幸いな教会です。礼拝が生きている教会です。礼拝が生きていなければなりません。この教会が幸いな教会です。神様が選ばれた民族がイスラエル民族です。このイスラエルの民が奴隷、捕虜、属国になりました。それは、私たちが霊的イスラエルなのです。それでは、霊的なイスラエルである私たちも、奴隷、捕虜、属国になりうるということです。このようにならなければ良いのですが、このようになる時もあるということです。ひょっとして、私と皆さんの中で変に家庭や個人が捕虜の気配がある場合があるでしょうか。確かに契約であれ何であれ、みなつかんだのに、献金の契約もみなつかんだのに、変に経済的な困難が来る、確かに祝福を受けなければならないのに、そのような場合はないでしょうか。朝に起きれば、私たちは信仰の人であるから「主よ」と言いながら祈りもするでしょう。朝の祈りにきてもするでしょう。朝「主よ」と言いながら、頭の中で「今日のお金」に連結しないでしょうか。そのような時が、捕虜の気配があるということです。確かにそのようではないのに、そのような場合があります。私はそのような場合があります。
■ 何週間前に1部の時、柳先生がおっしゃった内容です。病気が突然きた、からだがちょっと良くなかったががまんしていたが、病院に行ってみたところ、内視鏡もして、他の検査もしたのですが、もっと深く検査しないと分からないと言われたとします。単純なこぶなのか、癌なのかは、開けてみてこそ分かると言われます。そのような診断を受けることはあります。イエス信じるとそのような診断が出ないでしょうか。私でなく、私の直系の家族、母親、奥さん、子どもたちがそのような診断を受けたとする時、気持ちが変になるでしょう。今まで感じることも出来ない情緒を持つでしょう。こういう時があります。それと共に家庭問題が生じたりもします。私たちのレムナントは祈らなくてもかまわないのに、レムナントは分かるから、家庭に問題が来たら縛って自分が倒れないようにしようとします。それからして、もうさまよっていることです。それは、しなくても良いことが入ってきたということです。こういうものも捕虜の気配に加わります。それと共に私が大きくなって何になることかということのほか、未来を心配するようになります。こういうものが問題です。こういう部分が極度に混乱して、霊的問題にとらえられるようになるのです。ここにサタンの集中攻撃を受けます。多くの人々が攻撃を受けるのです。多くの人々が葛藤する問題、イエスを信じる人が自殺することができるのかと尋ねるのですが、あります。ある日の朝に日が昇ること見て気持ち良いと自殺する人はありません。少なくともその気持ちがクリスチャンなのに、そのようになったとすれば過程があったのです。その程度にならずとも、大きい犯罪に陥るのです。世の中で、執事、長老が、こういうものすごい詐欺をするのかという事件が生じることもあります。世の中で、私たちの牧師があのようなことがあるのだろうか。講壇の上と下が違って、それは二重人格であるのかと思えるでしょう。今すぐこの事実をよく知らなければ、あらわれた状況、事件を見て解釈をするのです。ここに引っかかると、どれくらい気落ちするでしょうか。潜伏をする程度となります。タラッパンで最高の使命者で、最も多い弟子、最も多い実結んだ人が未信者になっています。そのような場合があります。これが捕虜の気配があるということです。こういう部分がありえます。
■それと共に、しょっちゅう試みにあって、人間関係で試みにあいます。私たちの信徒の中にも、福音の中に入ってきているのに、嫁と姑の葛藤があります。皆さんの間にラインはないでしょうか。私が望んで付いていくラインがあるでしょう。私は、兄弟になろうと言われる人が多くいます。私はその兄さんたちに、こういう話をします。私たちが20年間、仕事をしながらポジションをくれと言ったことはあるでしょうか。私たちはそんなこと全くありません。ただあなたたちだけが見ているのでしょう。ところで兄の中には、ラインがあります。onenessしなければなりません。教会にもあります。これが最も近い、生きる間にぶつかる人間関係です。ここで捕虜、属国、奴隷の気配を感じるのです。祝福をみな奪われるのです。それで、これら全部問題を解決できるのが、毎礼拝が答え受ける礼拝になるのです。私たちの教会がどれくらい感謝しているでしょうか。皆さんが礼拝をささげるその教会がどれくらい感謝でしょうか。礼拝をささげる時ごとに、神様の契約が回復して、礼拝をささげる時ごとに感謝が出てくるほかはありません。だから確実な人生を生きるのです。確かに祝福を受けて、答えを受けるために、うつわをそろえるのです。それで、私たちが一番私たちに、みことばの重要性を分かるようにする、生きている教会にならなければなりません。皆さんが捕まえなければなりません。五つのメッセージを常に記憶しなければなりません。講壇、週間、産業、核心、レムナント伝道学メッセージを分からなければなりません。もう一つつかんだら、伝道神学院、宣教師訓練院、総会神学校から降りる伝道学メッセージをよく捕まえなければなりません。
■最後に今日の本文で見れば、使徒2:17-21に出てくるビジョンをあたえる教会にならなければなりません。聖霊のみわざが起きて、子どもは預言をして、青年は幻を見て、老人は夢を見ることが行われました。私たちに、主が重要な正しく所有すべきことを与えられました。何を持っているかにしたがって、何を見るのか決定されます。私たちはキリストという奥義を持っています。ここにしたがって、私たちは正しいビジョンができます。私たちは聖霊内住の祝福から世界福音化という神様がくださった身分と権威が、私たちのビジョンです。すでに私たちのレムナントにはビジョンが与えられました。ここによって何を見るかにより、正しい行動が出てきて、正しい人生が出てきます。ここで20個の伝道戦略から今、最高の祝福OMCまで与えられました。価値があります。この祝福の中で、正しい共同体生活にならなければなりません。
■幸せの真の味を感じる教会、礼拝が生きている教会が必要です。なぜでしょうか。私たちが現場に出て行けば、捕虜の気配に私たちが捕えられます。この席に違ったふりをしながら座っているでしょうが、あるでしょう。それなら礼拝をささげる、そのすべての時間が全部答えにならなければなりません。それと共に実質的なビジョンをあたえる教会にならなければなりません。そばの人に話しましょう。本当に良い教会に来られました。前後に挨拶しましょう。逃げないように。私たち1分間祈りましょう。この幸いな教会の祝福の中に、最も大きい祝福としてくださった最高の祝福が担任牧師で、柳光洙牧師をくださったことです。立たれたところに、今週、神様の最高の福音の光が全アメリカの地に臨むように、立てられた働き人、地域の中で、弟子が起きるみわざが起きるように、今週間、私たちが生きていかなければならない産業、学業、キャンパスのすべての歩みの中に、今日くださったみことばが成就されるみわざが起きるように1分間祈ります。

<<契約の祈り>>
幸いな教会の祝福をくださったことを感謝します。幸せの真の味を分かる信徒にならせて下さい。こういう信徒がささげる礼拝が生きている礼拝になるようにしてくださって、私たちが一週間生きていく人生が正しいビジョンの中で生きる人生になるようにさせて下さい。今週、アメリカ地域を主が覚えてください。立てられたしもべを通して、立てられる重要な働き人と弟子に、神様が最高の祝福を下さい。アメリカ地域にメッセージを与えて下さい。真の光が宣べ伝えられて、すべての暗やみが崩れるようにさせて下さい。愛する主のしもべに五つの力のみわざがあるようにさせて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン