2007年9月2日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます
(詩145:1〜12)

■日本の女性の中に三浦綾子という女の人がいます。その方は、クリスチャンです。本を書いたのを読んでみると「私はとても貧しい夫に会った、それで山の谷間のとても小さい家を借りた。道が危険なので、夫がいつも待ってくれて家に帰る。私は日本で一番幸せな女だ。そして、家がとても小さくて、常に私たちは対話ができる。私は台所で食事の仕度をして夫はお手洗いで話せる。神様は私たちをこのように幸せにさせて下さった」と書いてありました。皆さんは内心、狂ったかと思うでしょう。ところで、この人が「氷点」「道ありき」という小説で日本にとても影響を与える文章を書いたのです。一時、日本の人々を変化させました。この人の中から感謝が出てくる内容です。
■米国に初めて行った時、ある長老が、その人の深い中に多くの不平不満が積もっていました。正しい言葉なのかは分かりませんが、私には本当に役に立ちませんでした。信徒が見る時や、信仰が弱い人々が見る時は、損を与えるという気がしました。それよりさらに重要なのは、その方自身に損だと考えました。その方の話しは、みな正しいかもしれません。しかし、損であることも確実です。救われた方が、信仰生活で最も重要なことを考えなければならない必要があります。
■今日の本文は、ダビデの詩ですが、感謝の詩です。皆さんだけ知ることができます。私が本当に感謝するのか、そうではないのか、本人は知ることができるでしょう。そして、感謝のレベルを見れば、その人のレベルが分かります。感謝するのを見れば、何のために感謝するのか、それがとても重要です。私がこれから祝福を受ける人なのか、そうでないのか、それを見れば知ることができます。大きいことができない人は、見て分かります。必ず自分の中に隠された不平、人に対する不満が隠されているのです。成功できる人ではありません。普通、成功する人々は、未信者でも中に良いものが入っています。今日、皆さんがここに対する考えをしてみなければなりません。私が本当に祝福を受ける人なのかチェックすることができます。私が本当に神様の恵みを受けている健康な人なのかをチェックできる方法です。
■サウル王は、とても大きい恵みを受けたのに、感謝がありませんでした。どれくらい感謝なことでしょうか。ベニヤミン族の代表です。王になりました。自分が王なった時、とても国を担うほどの有名な人物が婿に入ってきたのです。幸い、自分の息子ヨナタンが欲がなくて、王をダビデ王に任せるべきだと話します。どれくらい感謝なことでしょうか。全くサウル王には感謝がありませんでした。
■イサクとイシュマエルを見てください。同じ親の下で生まれました。今でもイシュマエルの子孫、イスラム圏が世界を乱れさせています。聖書をよく見てください。ヤコブとエサウ。同じ親の下で育ったのですが、ヤコブは神様の恵みに感謝しました。エサウは、神様の恵みは必要ないと言いました。男らしいエサウでも、その部分ではそうでした。ヨセフの兄は、いつも衣食住で不平を言いました。ものすごい家系の祝福の子どもに生まれたという事実に対して、感謝が全くなかったのです。サムエルは、神殿に少しの間いた時に、とても感謝しました。エリの二人の息子は、神殿でいつも主人なのにもかかわらず、感謝がありませんでした。今日、ダビデと他の人との差異点がそれです。
■さらに重要なことがあります。感謝を知らなければ、サウル王にどんなことが起きたのでしょうか。Iサムエル18:10,19:9を見れば、悪霊がサウルに入ったと言われています。皆さんが手助けしなければならないが、精神病患者は、絶対に感謝しません。しても、自分に肉体的に良ければ有難いと言うので、中からの感謝が出て来ません。驚くべきことに、感謝するダビデにIサムエル16:13〜23を見れば、主の霊が臨んだと言われています。私たちはまた残念なことに、小さいことために感謝をのがして、大きいことをのがすのです。ある人が結婚をして暮らしてみたら、うつ病になったということです。夫も嫌いで、世の中も嫌いでした。住んでみたら経済に困難がきます。それしか仕方がなかったのに、それに崩れたのです。ある時は、病気になったりもします。小さいことなのに、そこで感謝をのがすのです。
■それよりさらに怖いのが、私たちがいつも日常的に生活するので、感謝を知りません。健康なこと、感謝することを心よりしてみたことがありません。私は病院に行ったところ、あるガン患者がこのように話をしました。一番うらやましい人が誰かと尋ねました。その言葉を聞いて驚いたのです。手術室に入る人がうらやましいと言いました。なぜうらやましいのかと聞いたところ、生きる可能性があることためだということでした。自分は手術も不可能なためです。それで、手術室に入る人が、とてもうらやましいと言ったのです。私たちは何の異常がなくても健康に感謝することはありません。真の感謝が出てこないのです。
■タリバンに捕えられて出てきた人々は、気持ちの中にまちがいなく感謝が出てくるでしょう。どれくらい長い時間、困難にあったか、今は気持ちの中に感謝が出てくるでしょう。私たちはこの部分の点検を良くしなければなりません。私たちが礼拝もささげます。恵みも受けます。フォーラムもします。キャンプもします。人々が集まって食べ物も食べます。そのような中に、不平不満が出てくるのです。どれがその人なのでしょうか。それが問題です。キャンプは、その人ではありません。共にフォーラムしたのがその人ではありません。自分も知らない間に生じる不平不満がその人なのです。その人生がどうなるでしょうか。それが問題です。人々の前に歌を歌って楽しく見えます。うれしい歌も歌うのですが、一人では悲しい歌を歌います。どれがその人歌なのでしょうか。その人のたましいに含まれている歌はどれでしょうか。私は一人で悲しく歌う、それがその人の歌と考えます。それがその人の人生です。
■私たちは奉仕して、伝道して、実を結んでがんばります。その一方で否定的です。どれがその人なのでしょうか。私たちは簡単に評価できないのですが、その人自身は別にあるでしょう。ところで、困難にあったのに、ダビデは感謝しました。作り出したのではなく、感謝してこそ信仰が良いということでなく、感謝が出てきたのです。その人がダビデです。今日、この祝福を回復しなければなりません。
■どのように回復するのでしょうか。それ以前に、ダビデが本当に感謝を味わうのに、どんな感謝を味わったのでしょうか。神様は心より感謝する人をご存じです。その人に神様の祝福を任せられます。皆さんがもし財産があるならば、誰に任せられるでしょうか。皆さんが重要な物があるならば、誰に任せるでしょうか。簡単です。人物が良い人ではありません。親しい人でもありません。家族でもないのです。誰に任せるのでしょうか。これを保管できる人に任せます。そうでしょう。そのようにしないでしょうか。皆さんに息子が千名いても、保管できないならば任せません。皆さんが少しの間でも貴重品を預ける時は、親しい人に任せるのではありません。これをよく維持する可能性がある人に任せるのです。神様が天の霊的な祝福を誰に任せられるのでしょうか。心より神様に感謝する人に任せられます。それが皆さんの未来です。
■ダビデは何を感謝したのでしょうか。1〜6節を見れば、救いのみわざをなされた偉大な神様に感謝しました。救われなければどうなるのでしょうか。時間がたつほど人生に困難がきます。これは全く信者、未信者、関係がありません。ダビデが救いのみわざを行われた神様にとても感謝しました。少しの間、本文を見ましょう。「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。」「日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。」「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。」「代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。」「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。」「人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、私はあなたの偉大さを述べるでしょう。」
■救いを与えられた偉大な神様に感謝しましょう。感謝のレベルがあります。パウロは何に感謝したのでしょうか。私たちは祈りの答えに感謝します。健康に感謝します。危機に陥るところだったが感謝します。事故がおこるところだったが起こらなかったと感謝します。息子、娘が良い大学に入ったことに感謝します。どれくらい幸いなことなのでしょうか。感謝がない人々よりは幸いです。しかし、さらにレベルが高い感謝は、それではありません。何かを見たのです。救われた神様に感謝します。この福音をくださったことに感謝するのです。
■ところで、これよりさらにレベルが高い感謝があります。パウロが告白しました。福音のために苦しみに会うようになるので感謝すると言いました。次元が違うのです。こういう働き人を防ぐ者はいません。一番最初に暗やみの勢力が崩れます。私が福音のために監獄に入っているので、とてもうれしくて感謝する。これは、神様の時代的な計画が成就されるのです。やさしい話ではありません。私たちの教会はそうでないのですが、一部の普通教会はどうなのでしょうか。苦難に会うので感謝しているでしょうか。私たちが少しだけ非難されても気分が悪いのです。だれかが私に気分が悪い話をしても3日間、食事がのどを通りません。だれかが私を少しだけ誤解しても耐えられないのです。それが私たちです。今はなぜかわかりませんが、歌う時ごとに申し訳ない賛美歌があります。他のはみな良いのですが、賛美歌355番は、私に一番恥ずかしい賛美です。「召されたこの身は、いずこもわれ行く」私は田舎はだめです。アフリカに行ってみて死ぬ思いをしました。主よ。ありがとうございます。アフリカに送られなかったことをと思いました。そこで息をして座っているのが宣教です。私は息も休めませんでした。「けわしき谷間も」と賛美ではよく歌います。しかし、どれくらい私たちと合わない賛美かわかりません。「さかえも力も、すべては主のもの。さげすむ十字架をわれ負い従う」と言います。真に言葉は良いのです。言葉は何とでも言えるでしょう。
■今、大邱では、教会でけんかになって大騒ぎです。警察がきて大騒ぎになっています。それが聖霊の働きなのでしょうか。それが福音に間違いないのでしょうか。何のために耐えないのではなく、耐えられないのです。今、大騒ぎになっています。大変です。知ったところ、大邱は一箇所だけがけんかをしているのではなく、いろいろな所でけんかをして、止めるのも大変です。僧侶は戦えば、さらに怖くなります。竹を持って叩くので、さらに難しいのです。大邱では竹がないから、げんこつで殴ってけんかをします。私たちのそばに教会も、私たちの教会を一番悪口を言う教会なのに、担任牧師が副牧師の歯を三本折ったということです。本当にいろんなことがあります。どうして、そうなったのでしょうか。これが問題です。みな、のがしたのです。どこに感謝が出てくるのでしょうか。だから、その賛美を歌う時、恥ずかしかったのです。私たちが救いのものすごい味を知った人は違います。偉大な神様を毎日毎日賛美するのです。
■ 7〜10節、11〜14節を見れば、ダビデが二番目の感謝の内容を言いました。この祝福を神様が私に恵みでくださったと言いました。7節に「人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を熱心に語り、あなたの義を高らかに歌うでしょう。」8節に「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。」神様が皆さんに恵みを与えられなければ、ここに座っている人はいません。ひょっとして、皆さんは座っているかも知れませんが、私はここに立っていられません。神様が恵みを与えられなかったら、すでに呪われています。私たちが神様の恵みでなければ、私たちがこの世に生きる間に、どのように生きることができるのでしょうか。未信者は知らないからであって、神様が恵みを与えて、期限をくださるからであって、みなほろびなければなりません。9節に「主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」ダビデがそのように悟って神様に感謝したのです。10節には「主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。」14節からは「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。」このようにダビデが感謝しました。
■三番目に、この世に生きる間、必ず味わうべきことを11〜13節に出てきます。神様の国に対して感謝しました。11節からを見れば「彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。こうして人の子らに、主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を、知らせましょう。」正しく悟ったのです。皆さんが本当に感謝だけ回復すれば良いのです。ダビデが話したのと、パウロが話したことが全く同じです。神様が皆さんの運命を変えられました。占う必要もありません。恐れる必要もないのです。偶像崇拝する所に行ってはいけませんかと尋ねるのですが、行かなくても良くて、行ってもかまいません。ある人は、法事の食べ物を食べても良いのですかと尋ねます。わざわざ食べる必要はないのですが、食べても関係ないのです。偶像崇拝する所に行ってもかまわないのかと尋ねるのですが、あえて行く必要はないのですが、行っても大丈夫です。終わったのです。どれくらい感謝しているでしょうか。
■それだけなのでしょうか。神様が私たちに皆さんが勝利できる立場でもなかったのに、皆さんの子孫と共に勝利するように恵みを与えられました。皆さんが行く所ごとに知らないからであって、神様の国が成就されるのです。家に泥棒が入りました。警官が泥棒をつかまえに来れば、だれが震えなければならないのでしょうか。泥棒が震えるべきで、警官が震えても良いでしょうか。皆さんが行く所は暗やみ勢力がぶるぶる震えるようになっているのです。ダビデがこれを分かったのです。神様の国です。ここに対して神様を永遠にほめたたえますと言いました。
■今も全く同じです。神様が同じ神様で、真理が同じであるためです。皆さんが救われたということは、サタンの手から完全に解放されたので、偶像崇拝をしなくても良くて、法事をしなくても良くて、みな終わったのです。これ一つだけでも、ものすごく感謝することなのです。占う必要がありません。運命が変わりました。罪と死の原理からあなたを解放した。ひょっとして、はじめて来られた方、イエスをはじめて信じる方々、初めには不安でしょう。しかし、不安に思う必要がありません。私はイエスを信じたところ何が誤ったことか、たびたび夜ごと悪霊が訪ねてくると言うのですが、いくら訪ねてきても関係ありません。来るほど益です。神様が皆さんを子どもとして見ておられるので、皆さんの子どもが危険なら親が世話するように、見守ってくださいます。これまで習慣のために生きてきたことのためにそうなっても、何の関係もありません。法事をしなければ、どうするのかと言うのですが、何の関係もありません。
■ある学者は、親に仕えて親孝行することが、祀ることだと言います。それは親が来るのではなく、悪霊が皆さんの両親を装って来ることであるから、完全に追い出さなければなりません。易者が叔父や親を呼ぶのではなく、親のまねをする悪霊を呼ぶのです。それが解かってみれば、ものすごく危険なのです。目が開かれないからです。前世があるということも、すべて悪霊のしわざです。どこかへ行ったところ、マリヤから涙が流れるのですが、それはどうなのかと尋ねます。密陽に行けば、汗を流す石もあります。湿気があれば、水が出てくることもあるのですが、それで人々がそこに信仰を捧げるのです。霊的世界と人間の構造を分かったら、私たちは不安に思って恐れて揺れれば、とても損なのです。
■もしか困難がきても答えはあります。神様はご存知です。神様は皆さんに恵みを与えられます。皆さんが行った通りすれば、みなほろびなければならないのですが、神様は恵みを与えられる神様です。これをダビデが告白しました。それで神様に本当に感謝したのです。どれくらい感謝しているでしょうか。災いがきても、千人が万人が倒れても、災いがあなたたちに近づけないと聖書は話しています。感謝なことではないでしょうか。詩103篇の最後を見れば、ダビデが告白しました。神様のみことば臨む所ごとに、神様の軍隊が動員されるので、神様の国が成就されるのです。
■どうして、そのようにダビデが感謝できたのでしょうか。3つをダビデは知っていました。最初です。事実を見たのです。サウル王が幸せな人、偉大な人ではありません。きて戦うと大声を上げるゴリヤテが偉大な人物ではないのです。イスラエルを攻撃してくるペリシテが強大国ではありません。皆さんが幸せに見られる人が幸せなのではないのです。事実を真っ直ぐに見なければなりません。この前に、黒いサングラスをかける歌手が、麻薬をして捕えられました。そうでなければなりません。そのような程度ではないのです。ソウルに行って雰囲気を見てください。集団に集まって、いろいろなことをします。幸せがないのです。だから、ダビデが事実を正しく見たのです。何でも事実をよく見なければなりません。どれくらい自分が神様に祝福され人なのか、ダビデは分かっていました。サウル王が何千人を率いてダビデを殺そうと来くるかといっても、死ぬのではありません。福音運動をしない多くの人々が皆さんを非難するからといって、非難されるのではありません。ダビデを殺そうと数多くの人々が攻撃したのですが、殺されるのではありません。ダビデは事実を見たのです。
■二番目です。ダビデは霊的な目が開いたのです。このサウル王が悪霊が入って、とても苦しんでいるのが分かったのです。霊的な目が開いて見れば、目で見るのではなく、心で見ることができます。どうして、保険金を受けるために、父母を殺すでしょうか。これが何でしょうか。これが簡単に話せば、悪魔に捕えられたのです。どうして、お金何万円を持って出てこようと、子どもがおばさんを、そのように刃物で刺して殺すでしょうか。これが人間がすることでなく、サタンがすることです。人が少しの間、失敗は誰でもします。これはそれではありません。どうして、幼い子どもたちを捕まえて行って、強姦して、精神を狂うようにさせるのでしょうか。これがどうして人がすることなのでしょうか。ダビデは早く霊的な目が開かれたのです。だから、神様の恵みがどれくらい感謝でしょうか。
■三番目です。大きい苦難の中で神様の恵みを見ました。だから感謝したのです。捕虜が戻る時、この歌を歌ったということです。これを私たちはそのまま読んだのですが、ヘブライ語ではアルファベット順になっています。アルファベット順になっているということは、それをいつも歌ったということです。
■今日、結論的にダビデが胸に刻まれていた感謝を話したのです。これは歌が良くて賛美するのではありません。歌が良くて賛美をするのですが、ダビデはそのような賛美ではありません。詩が良くて詩を書く人がいます。それも良いのですが、本当の詩はそうではありません。ダビデは賛美が良くて賛美するのではないのです。それで、霊的問題がきます。詩が良くて詩を書けば霊的問題がきます。詩人を見れば、作品はよく残しても、人は変です。ある詩人は、作品を見れば、本当によく書いているのに、顔も洗わずに通っています。昔に死んだ人ですが、その詩人がどれくらいよい作品を書くのかわかりません。人は変です。詩が好きな人です。歌手が見れば歌が好きな人がいます。私は歌が良いのです。だから音楽家となります。しかし、ダビデはそのような音楽家ではないのです。ダビデは歌が良くて歌を歌って、詩が良くて詩を書いた人ではありません。それでは、問題がくるのです。
■ダビデは17〜21節に感謝、賛美する理由を説明しました。17節から「主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。」皆さんの心に何が含まれているのかが重要です。ダビデの心に含まれていることで結論を結びました。
■ 2、4節を見れば「あなたの御名を世々限りなく賛美します。」と言いました。ダビデに与えられた答えが、どれほど多いのでしょうか。ダビデが行く道に、神様は一番良いものを与えられました。同じように、この答えを皆さんが受けられます。神様がサウル王をご覧になる時、どうでしょうか。二つを対照して見ることができます。今日、このみことばはとても重要なみことばになります。なぜ本当に感謝がないのでしょうか。これがはやく悟れなければなりません。今日、みことばを聞きながら、ダビデを思いながら考えてみなければなりません。私が霊的な病気が多ければ、感謝が出て来ないのです。霊的な病気は傷を通してきています。傷が私の胸に根をおろしていれば、霊的なことが育ちません。皆、知って悟れるのに、真の感謝が出てこないのです。人に感謝して、手助けしてもらったことに感謝するのですが、神様に対する真の感謝は出て来ません。また哀れで手助けしなければならないのですが、病気の中で最も残念な病気が精神病です。この精神病になった人は、心から神様に真の感謝が出て来ることができないのです。皆さんがとても罪を犯すことに陥れば、感謝をなくします。
■私がとても暗やみの中に関わっていれば、感謝が出て来ないのです。売春婦になって歩き回る人が、神様に感謝してもできません。恥ずかしくて隠れて通います。泥棒が盗みをしながら、神様に今日もしっかりとさせてくださいと言えません。良心があるので、隠れてします。この霊、たましいがどうなのでしょうか。人々がそこに陥れば、感謝が出てこないのです。私たちはまた、あまりに経済問題に陥れば、感謝が出て来ません。神様は私をこのように生きてきたのは、私に重要な計画を持っておられるんだな。私はなくても大丈夫だ。私に恵みを与えられたら何でもできる。このようにしてこそ感謝が出てくるのですが、押さえられていれば、どんどん暗くなります。
■私は昔に若い時は、大学に行かないと言いました。母に大学に行かずにお金をもうけると言ったのです。私が狂っていました。何のお金を儲けるつもりかと言われたので、技術を習って事業をすると言いました。大学にお金を捧げる必要はなくて、私が儲けると言いました。節約して最後まで集めておいたものを売って私が事業をしました。20才だった私が事業ができるでしょうか。少し狂ったのではありません。昔に私はがりがりでした。今は肉がついていますが、以前は痩せていたのです。20才なのに、他の人は17才で見ました。私がまた顔が童顔です。何の事業になるでしょうか。他の人が見て、お手伝いをしている者だ思ったのです。当然、やられて、食い尽くされて、傷ついて、神様が私になぜこのようにされるかと思ったのです。人はおかしくなります。
■聖書はこのように話します。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これは、あなたがたに向かった神様のみこころです。このような時、神様のみこころが見えるのです。今まで神様はみことばや歴史を見れば、本当に信じる者を失敗させたことがありません。そして、神様は伝道する教会と個人と時代を捨てられたことがありません。常に汚名を着せられ、少しの間、異端の寃罪をこうむったのですが、一度も失敗したことはありません。それでは答えが来ることが確実です。感謝しないのでしょうか。こういう隊列に立っていることが、どれくらい感謝でしょうか。真の感謝を回復し始めれば、多くのことが見られます。癒しの中で、最も確実な癒しが感謝です。真の感謝。皆さんが感謝を回復するよう願います。家でも家族に感謝しなければなりません。米国人は嫌いでも感謝します。‘No, thank you’と言います。米国人らは悪口を言いながらも神様のことを言います。とても、ものすごい状況で‘Jesus Christ'と言うのです。その人々は、エレベーターに乗っても、いつも挨拶をします。私たちはエレベーターに乗ってしばらく行くと苦しいのです。ある女性は、片方の面を見て、反対側を見ています。長くかかります。米国人は挨拶します。私たちはとても生活でもそうで、実際に感謝がありません。
■これほど祝福を受けたのに、感謝がありません。私はタラッパンにきて感謝がない人は、本当に悪い人だと思います。ひとまず天国に行って、死ぬほど殴られて入らなければなりません。どれくらい感謝しているでしょうか。皆さん、今日、本当に神様の恵みを感謝する大きい癒しの日になるようにイエスの御名でお祈りします。

<<契約の祈り>>
神様に感謝します。本当に感謝が回復する日になるようにさせて下さい。今は霊的な目を開いて下さい。事実を見る目を開いて下さい。私たちの未来は、神様の御手に祝福されていることを悟る目を開いて下さい。イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン




2部/私は福音を真に味わっているのか
(Iヨハネ5:11〜13)

■私は福音を真に味わっているのか。五回目の出会いを持って補充で申し上げます。福音を真に味わえば、どうなるのでしょうか。多くの人々が、こんな話、あんな話をするのですが、それはみな言い訳です。皆さんが福音を真に味わい始めれば、今日からすべての問題は解決されます。残りの他の言葉は全部、嘘です。正しい言葉のように聞こえるのですが、嘘です。教会が初代教会のようになれるのでしょうか。福音だけ正しく味わえば良いのです。
■私が今まで長い間、いくつかの心を痛めていることがあります。3つほどあるのですが、それが何かといえば、教会に行く所ごとに人々は紛争をしています。私たちの教会だけないので、ほとんどあります。それで、私は初めに開拓を始めた時、話をしました。信徒どうしけんかをする人々は、出て行きなさいと言いました。教会はたくさんあって、聖書を持ってけんかをする所は多いから、はやく行きなさいと言いました。私たちの教会はそのような人々はいません。けんかしても、表に出ないようにけんかをしていますが、そのようには戦いません。ある教会は表に出るようにけんかをします。それが教会なのでしょうか。ひどすぎるようにけんかをして、警察が止めにきます。この前も前の教会がそうでした。けんかをひどすぎるようにしたので、警察が止めにきて、青年と長老がけんかして、歯も折れたのです。他の人が聞けば恥ずかしいことであるから、私達でする話ですが、後にもある教会がけんかをして、副牧師の歯が三本も折れました。幼い時から見ながら、変だと考えたのです。教会にきてなぜけんかをするのでしょうか。その時、心が痛かったのですが、答えを受けました。
■大きく問題になる必要はないのですが、今でも記憶に残っていることがあります。伝道をがんばっていたら、教会が復興しました。福音を伝えたので、中高等部も生き返って、青年も生き返って、みな生き返ったのです。ところで、私が知らなかったことが二番目のことでした。他の教役者が、そのように嫌うとは思わなかったのです。私が知らなかった部分でした。私は喜ぶと思っていました。とても嫌われて、どれくらい嫌いだったのか、ご飯を食べる時、私だけ放っておいて自分たちどうし行ったりしました。私が知らなかった部分でした。それを知っていたら、私が努力を他の方向にするのに、知らなかったのです。
■もう一つ、私が三番目に受けた痛む心がありました。影島にきて伝道をするのに、まさに私たちの教会のそばで始めたのですが、嫌うとは思っていませんでした。そのように嘘を確かに作るのに私は驚いたのです。さらに恐ろしいのは、その嘘が全国、世界へ翻訳されて広がったのです。いくら違うといっても、聞かなかったのです。本当に不思議なことです。それで、私が悟ったのは、神様がなさることだと思いました。それで、神様が福音を伝えろとおっしゃるのだという確信を得たのです。
■私が神様に感謝することが一つあるのですが、私の生涯で本当に福音を味わう人を何人か見ました。立派だという言葉ではなくて、本当に福音を味わう人でした。2-3人程度見たのです。見るだけだったのですが、聖霊が働かれました。この人は本当に福音を味わっているということを分かったのですが、私の運命が変わりました。福音の力がどれくらい大きいのか、そのどんな理由も問題にならないほど、神様が今まで働かれました。それでは、これから私が受ける答えと、皆さんが受ける答えを私は確信しています。皆さんは信じないかも知れませんが、私は確信しています。私は12坪、35坪の地下にいた時、こういうものをくださるだろうと確信していました。私はこちらに来ながら、すでに神様はレムナントのための大きい訓練場をくださり、訓練させられると確信していました。
■私は本当に福音を味わっているのか。一度、皆さんがだまされたと考えて、一度してみてください。詐欺師にも人生投資をするのに、何のために神様のみことばに投資できないのでしょうか。ある人は、教会献金はしなくて、一生、集めたものを詐欺師にすべて取られたりします。皆さんが福音を本当に味わえば、いくつかのことが変わります。
■事件を見る目が変わります。他の人が見れば、ほろびたと思うでしょうが、福音を味わう人は、それがほろびたのではありません。皆さんが見る時は難しいと考えられるでしょうが、そうではありません。福音を味わえば、人を見る目が変わるのです。福音を味わったら、必要ない人があまりいません。本当に必要ない人はあまりないのです。私が初期に伝道をしていた時でした。教会にくれば、礼拝もささげないで変に座っていた人がいました。それで誰なのか尋ねたら、昔にやくざだったということでした。それで、やくざでも教会にきたら礼拝をささげるべきで、それならば来ないでくれと言いました。ところで、私たちは初期に駅に伝道に出て行っていました。ところで、どれくらい妨害が多かったのか、乞食やちんぴらがきて、電気線を抜きました。そして、騒々しいと人々が妨害をしたのです。不良たちが電気線をみな抜きました。私たちが、それでも戦うでしょうか。それで、また妨害をされました。その時、思い出したのです。それで、そのやくざだった執事を連れてきました。そして、話をちょっとしてみてくれと言ったところ、すぐお兄さん、弟と言いながら、電気線をみな差してくれて行きました。天国にはごみ箱がありません。福音を味わえば、人を見る目が変わります。こういう人はこのように使って、ああいう人はあのように使って、みな必要です。貧しい人もいなければならず、金持ちもいなければならず、高齢な人もいなければならず、みんないなければならないのです。皆さんが福音を本当に悟って味わうようになれば、未来を見る目が開かれます。だから、未来を見るしかありません。
■皆さんが福音を味わうようになれば、教会を見る目が変わります。教会は何もない人が集まったように見られるのですが、全てのものがあります。教会は、そのままいい加減に人々が集まって行くようでも、そうではありません。もしかして、皆さんの中に教会を見くびっている人がいるなら、見間違っているのです。教会は何もないように見られることもあります。パウロが告白をしたのは、教会はない人が集まったようでも、みな成し遂げられるのです。
■そして、皆さんがそんなにも悩んでいる、物質を見る目が変わります。福音のために、世界福音化のための物質は別にあるという事実を知るようになります。神様の祝福は別にあるということを知るようになるのです。
■それでは、この福音をどのように本当に味わうのでしょうか。簡単に3つで話します。皆さんがこの時間に、眠たくなるので、とても長くすれば居眠りするので、簡単にします。この頃、変です。時間が過ぎると、私も寝られないのです。昨日もまた5時過ぎてから寝ました。寝ようと思ってメッセージを整理していたら、目がさえて寝られませんでした。それで、6時頃に寝ついたのですが、起きようとしたら、その時はまた起きるのが嫌でした。それで、下手すると眠たいように思えました。この頃、変です。聖日ごとに、そのようにしています。それでも集会のような働きは、良くできるのですが、ひょっとして皆さんの中に、そのような方らがいるならば、おやすみになってもかまいません。
■祈りで四つのことを味わいましょう。福音を本当に味わって、祈りで四つを味わいましょう。救われた者に何があるのか、いのちがあります。この話は、何の話なのでしょうか。イエス・キリストの御名の権威を祈りを持って味わいましょう。それでナザレのイエス・キリストの御名で。この祈りをしたことは、まちがいなく答えられます。キリストの中にある七つの祝福を、行く所ごとに祈りで味わいましょう。主の聖霊が私に働いて下さい。主の聖霊が、目に見えないように私を導いて下さい。この場に主の聖霊が充満して働いして下さい。そうすれば、健康も回復します。驚くべきことが行われます。今、この時間に主の天使を送って、神様のみことばが成就させて下さい。イエス・キリストの御名で、今、暗やみの勢力が崩れるようにして下さい。これが祈りです。神様の国がこの場に臨むようにして下さい。私の手に弟子を付けて下さい。七つの祝福です。この福音の中には重要なことがあります。
■信徒に与えられた権威があるのです。これを祈りで味わいましょう。皆さんに六つのものすごい権威が与えられました。それが何でしょうか。皆さんが行く所ごとに、偶像と創世記3章の事件が崩れるのです。それを祈るのです。皆さんが行く所ごとに、皆さんが知っている通り、暗やみ、霊的な問題は崩れ始めます。皆さんが祈る所ごとに、偶像がみな崩れます。押し倒しに行く必要もなくて、祈ればみな崩れます。前にわたしの家の上にムダン(霊媒師)の家があったのですが、私が、ムダン(霊媒師)の家をとらえてずっと祈りました、だからムダン(霊媒師)をすることができなくなったのです。前に一度、光州に行ったのですが、牧師先生といた時、ムダン(霊媒師)がグッ(降霊術)をしていたのを静かに見ていました。面白いように、刃物の上で踊って、いろんなことをみなしました。そうしたところ、そのムダン(霊媒師)が突然に来て、ここになぜいるのかと尋ねました。それで、ここにいるのが何で問題なのかと尋ねたのです。そうしたら、他に行ってもらえないのかと尋ねました。わざわざ分かっていたのですが、なぜかと尋ねました。すると、変にあなた方がいるので、不思議にグッ(降霊術)をしても神の霊が来ないと言いました。来るはずがありません。皆さんが知らないからですが、イエス・キリストの御名はものすごいのです。最後まで、行かずにいました。前にインマヌエル教会の初期に経験をしました。その時、密陽に聖歌隊が遠足に行ったのですが、その場でグッ(降霊術)をしていました。ところで、私たちのためにグッ(降霊術)にならなかったのです。皆さんが行く所ごとに、権威が現れるのですが、神様の国が臨むのです。実際に、皆さんが行く所ごとに祈れば、肉体の病気のように病魔も退くみわざが起きます。皆さんが行く所ごとに、地獄の権威が、すでにキリストの御名で崩れ始めるのです。だから、その家の家系に流れる霊的な問題が崩れ始めるのです。他のものは、することもなく、これをすれば良いのです。
■そして方法。記憶しなければなりません。これが五回目の出会いの話です。五回目の出会いに、なぜ確信がないのか尋ねました。いのちが何かわからないからです。私たちが受けた祝福が何かわからないからです。信徒が受けた権威が何かわからないからです。私たちが、どんな方法で祝福を受けるかも知らないからです。聖霊の働きです。怖くなることがありません。私たちの方法。聖霊が私と一緒におられるという確信が最初です。確実です。聖霊がみことばと祈りを通して働かれます。聖霊の導きです。それを捕まえて、皆さん個人が力が受けるのを聖霊充満と言います。こうすれば良いようになっています。今日から皆さんが実際に回復しなければなりません。この祈りを1分だけしてもできて、一時間もできます。してみましょう。本当に信じられればできます。この祈りだけするのに、答えがずっとくるのです。
■二番目です。皆さんが今から全てのものを見る時、真の告白、真の感謝がいくつか出てこなければなりません。今日の1部はダビデの感謝が出てきました。今から皆さんの真の告白と感謝が出てこなければなりません。その四つです。ある人々を見れば、立派でたくさん習った人もいます。そのような人々が、やや下手すると福音を分からなくなります。
■最初です。私たちの人生にすべての答えがキリストだから福音は答えです。ここに真の告白、感謝。すべての政治家にも答えはキリストです。あの米国にも答えはキリストです。ここに対する真の告白と感謝になられなければなりません。レムナントは、よく知らないこともあります。私も知りませんでした。私は完全に滅びた時、そのどこでも答えが出て来なかったのです。私は聖書で答えが出てきました。旧約が何か、キリストを送る。新約は何か、キリストが来られた。何をしに来られたのか、あなたの呪いをなくしに来られた。あなたが受けなければならない災いをなくしに来られた。あなたとあなたの家系を倒した悪魔をうち破りに来られた。私は100%アーメンです。それが答えです。そうではないでしょうか。これ以上、何が必要でしょうか。どれくらい感謝するのか、知らないから感謝が出てこないので、私はそのとおりだったのです。どんな本も私には答えになりませんでした。孔子の本はさらに答えが出なくて、頭だけ複雑になりました。そうでなくても、母から小言をたくさん聞くのに、孔子がこうしなさい、ああしなさいと言います。うちの母は、昔のおもな特技が小言でした。おばさんたちは、子どもに小言を言うのを少しやめなければならないのですが、私の母は、どれくらい細かくしたのか分かりません。学校から帰ってきたら、カバンもひっくり返して見ました。寝ていれば、ポケットもひっくり返しました。幼い時です。ところで、うちの母よりも小言を言う人が孔子で、こうしなさい、ああしなさいと言います。私は死んでも私とは合いません。ところで、仏教は孔子より少し良かったのです。山に行って、風も吹かれながらです。ところで、実際に行ってみると、私とは1、2つのことが全く合いませんでした。ひとまず私は座って絵を見れば、気分が良くありません。その次に、教理が私とは合いませんでした。自分が犯した罪を自分がみな解決しなければなりません。本当に話にもならないことです。それは私を見て自殺しろということです。私は解決しません。本当に合わないのです。それで見れば、さらに話にならないのが髪を剃ることでした。神様が髪を伸ばせと与えられたのに、剃れと与えたのではありません。頭を丸坊主に剃って、それからして、私とは合いませんでした。人がある時、一回決心をする時、一回剃るのです。それを毎日、削っていても良いでしょうか。ひとまず合いません。そして、内容が全部、嘘でした。私とは合いません。功徳を立てよと言われても、あってこそ功徳を高めることができます。善行をしなさいと言われるのですが、質が悪いのに、善行をどのようにするのでしょうか。
■それであなたを暗やみの力から解放すると言われたのが、合ったのです。私は昔に何が縛られていました。絶対に努力をしてもだめでした。刑務所にたくさん行く人々が、人が悪くて行くのではなく、良い人なのに行く人が多いのです。訪ねてみてください。刑務所にいる人は優しい人が多いのです。サタンに縛られていて、おかしなことをよくするのです。ある人は、一、二回ではなくて、十回、二十回も行くのです。サタンに縛られているのです。これが答えです。私はどれくらい感謝か分かりません。これが単なる感謝ではなくて、私の告白です。これが福音を味わうことです。歌を絶対に歌わないのに、どのように歌を味わうのでしょうか。そうでしょう。これが告白です。私が常に持っている告白です。
■二番目の告白です。ある人は、自慢することが本当に多いと言います。ある人は、教会で功績を本当にたくさんあげたと言いました。タラッパンでも、多くの功績をあげたと言います。私はそのように言う勇気がありません。神様の恵みで、神様の恵みで今まで生きてきたのです。どれくらい感謝でしょうか。これが皆さんが、常に心より、無理矢理ではなくて、本当にそのとおりだという気がしなければなりません。それが福音を味わうことです。だから、これを知らない人は毎日、自分を誇ります。自分がすごいと言います。しかし、本当に福音を味わうようになれば、神様の恵みであることが分かります。また福音を知らない人は、年を取れば取るほど、どんどんポジションの心配をします。しかし、本当に神様の恵みで福音を味わうようになれば、そうではありません。私の残ったすべての人生を神様に栄光を帰します。私は自慢することが他の人はあるかもしれませんが、私にはなく、全てのものは神様の恵みです。他の人が違ったことを答えだと言いますが、福音が答えです。誰も奴隷から解放されなくては生きられません。先週のメッセージ、奴隷、荒野です。これを新しい家族にも話をしなければなりません。そして、皆さんが本当に味わわなければならないのです。
■私の切なる祈り。これから年を取ったら、神様の栄光が現れるようにして下さい。とても重要な祈りです。その次に何でしょうか。多くの人々が働きをどのようにするのか、どれだけ献身すべきか、そのように話をします。私はそのように考えません。神様の恵みにとても感謝で、神様の愛をとてもたくさん受けて、万分の一もだめだが当然なのです。これが皆さんの告白にならなければなりません。これが私の告白です。今回のレムナント集会、賛美集会の時にした告白です。これは聞く人、誰でも生かせます。本当であるためです。だから、これが福音です。この福音を味わうのです。皆さんが福音だけ味わえば、驚くべきみわざが起きます。時々、こういう錯覚をすることがあります。私は一度も私が大丈夫な人だと思ったことがありません。皆さんが知らずにだまされるからであって、恥ずかしい人です。率直に話せば、そうです。それで、私は福音で生きて、神様の恵みで生きてきたのです。今後も、もし私の力で行ったら、皆さんは損害を受けるのです。神様の栄光のために。これから私がいのちを捧げるとしても、それは当然、万分の一もならず、神様に感謝をしなければなりません。これをさらに正確に話せば神様の愛です。とてもたくさん受けました。それで、これに対する感謝です。理解できるでしょうか。皆さんがこの福音だけ味わってみてください。本当にどんなことが起きるか見て下さい。
■三番目です。これからは、皆さんが四つの現場に視線を転じなければなりません。なぜなら、こちらに神様の目が行っているからです。皆さんの目を今から四つの現場に向けましょう。最初です。神様は救われる者を置いて、世界の時刻表を動かしておられます。神様は救われる人を置いて、すべての時刻表を動かしておられるのです。そこに私の目が。これが本当に正しく味わうことです。この中には必ず忠実な者がいます。
忠実な者ということは、福音のみことばを聞こうとする人です。聞いても、つまらなくて聞かないとする人もいるのですが、聞こうとする人がいます。この人達に視線を向けるのです。います。私がこの間、中国の使命者の話をしたでしょう。私たちの副教役者、秘書に指示をしました。無条件にすべての訓練をみな手助けしなさい。なぜか。神様はここに目を向けておられるからです。この中に弟子がいます。皆さんがこのように目を向けなければなりません。他の人は戦うこともなくて、そのまま一緒にいて手助けすれば良いのです。大部分、答えを受けられない人々、福音を味わえない人は、この3つのことは放っておいて、他のものを持ってしばしば人生をかけます。この中に使命者がいます。この四つに視線を転じなければなりません。残りはだいたいしていれば良いのです。残りはなるようにすれば良いのです。そのまま手助けすれば良いのです。なければ手助けできないでいて、手助けすれば良いでしょう。私たちの目はここにあります。これが福音を味わうことです。あなたがたは、行ってすべての国の人々を弟子としなさい。わたしが世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。ローマ16章の働き人を見ましょう。使命者、ここに神様のすべての目が。神様のみことばを受けるために、Uテモテ、忠実な人にゆだねなさい。信仰の結論はたましいの救いです。すべての民族に福音が伝えられた後に終わりが来るでしょう。終わったのです。難しいだろうとは言われていません。この3つだけなれば、福音を味わうのです。やさしいから、してみましょう。教会だけ座って、この祈りをするのです。そして、これを感謝するのです。メッセージをする時や、どんなことをする時でも、その時ごとに告白しなければなりません。そして、考えなければならないのです。思い出すでしょう。味わうという言葉を思い出すでしょう。そして何でしょうか。目が開かれるのです。神様が最も望まれる祝福の中にある、そちらに私の目が。たくさんしなくても、このようにすれば、まちがいなくなるようになっています。福音を味わえば、どんなことが行われるのでしょうか。聖書にある答えが来ます。全世界にある多くの牧師が、なぜ伝道がだめなのでしょうか。福音を味わえば良いのです。だから、皆さんがすべての話にだまされずに、聖書のみことばに答えを持たなければなりません。
■結論、最後に一つすることがあります。私たちはこのようにしておいても、しばしば動機ができます。そうでしょう。私はこのようにしておいても、また動機ができます。私は時々、どんな動機ができるのかというと、はやく復興させるべきだという動機ができます。悪い話ではないのですが、動機ができるのです。RUTCを作って、それで私に悪口を言った人々、今に見てろ、これが動機です。そのたびに私は悔い改めます。釜山で、本当にすべての人が見られる教会を作る。それも動機です。それで神様が願われる教会を作るようにさせてくださいと祈るのですが、動機がしばしばできます。これは簡単な復興ではなくて、欲です。ある意味では野望です。教会を私の野望を成し遂げるのに使っても良いでしょうか。だから、私がこれを持っていつも祈るのです。
■二番目です。時々、高慢が飛び出してきます。やっと祝福を受け取っておいて、またそのようにするのです。恵みをタダで受け取っておいて、また出てくるのです。皆さんで演奏する人々は高慢にせずに、がんばらなければなりません。私が最初に教役者を引き受けた教会だったのですが、その人が声楽家でしたが、その時から歌を歌えなかったのです。残念でも指揮はしました。その日、行った時、前にいる信徒が話をしたのです。とても歌が上手な人だったのに、とても高慢だから、首の手術を一度してそのようになったということでした。私たちは自慢することがないのに、しばしば高慢になるのです。私は時々そのようになります。そのたびに祈るのです。昔にはだれかに認められれば、不思議に力が湧いたのですが、他の人がよく認めなければ気分が悪くなることがありました。以前には多かったのですが、今はありません。今は恥ずかしいのです。レムナント集会に行けば、拍手をしてくれますが、恥ずかしいのです。なぜならば、そのように受ける理由がありません。
■そして、今でも一回ずつ未来が心配になります。私がこういう方法でして、突然、倒れればどうするのか。私もお金をちょっと貯めるべきなのに、老いてお金がなければ、どうするのか。あるお金でレムナントを手助けして、みな手助けすれば、私はどのようにするのか、こういう気がします。そのたびに、このバカ、お前が今、生きているのは、神様が働きも与えて、ご飯も与えるのに、死ねば終わりだ、保険にいっぱい入っておいても、死ねば終わりだ。お前が死ねば妻がみな使うのに、何をするのか。あるだけ使って死ね。アーメンとします。私たちは、しばしば、むなしい心配をするのです。今回の集会の時も話をしました。昔に、ある人が私に本当に恵みを受ける人なのですが、お金を私に渡して、それと共に自分の人生を話したのです。牧師先生に会って、私たちの子どもが霊的な問題が治った、だから、このお金は牧師先生が宣教費で使ってくださいとくれたのです。封筒を見ると、お金がかなり多かったのです。これで一週間、持っていました。ひょっとして、なくなったかと思いながら、確認しながら、ずっと祈りました。ところで、祈りを継続するのに、引っかかったのです。そして、ある時はどん欲が起きました。これを貯めて、後ほど年をとって使えば良い、老いれば力もないから、その時、使えば良いと考えたのです。米国のようなところに行けば、家の良いところを買って、海で釣りもして本当に良いだろう。お金がなければだれが分かってくれるか、お金がなければならないという気がしたのです。このように考えて教会に来たのですが、その時、私たちの教会が一番難しい時でした。借金を返せなくて、緊急に返さなければなりませんでした。よりによって、その時ただ一度だけ、私たちのタラッパン本部が難しかったのです。長老は昼夜なしに知恵をしぼって、祈っているのに、本部は難しいのに、私だけ通帳にお金があることが話にならなかったのです。それで献金することに決断をくだしました。私は信仰なしで献金をよくする時は、封筒に入れないで長老に与えました。お金を数えてみなさいということです。その時、それで3千万円程度の献金を出しました。したら少し残ったのです。それで余ったお金は銀行に入れてもかまわないと思ったのですが、残りは本部に与えました。そして出して気がせいせいしたのです。私たちは未来の心配をして、どん欲が生じます。神様はすでに福音を持った者を完全に責任を負われるのに、私たちはしばしば心配をするのです。
■神様の愛をそのようにたくさん受け取っておいても、私は時々、他のものがより良いのです。私は昔に悔い改めました。賛美より流行歌がより良かったのです。それで私一人通う時は、車に入れて通いました。名曲、歌曲、こういうものらを入れて通ったのです。賛美歌は教会に行けば歌うためです。もう少し中には、もう少し深い歌を入れていました。このようにして秘書が付いて回るので、皆片付けました。一度は、チョ・ウンテク牧師の車に乗ってみたが、完全に歌謡曲しかありませんでした。流行歌がありました。それは大丈夫です。私は前に私たちの勧士を見て驚きました。祈りの課題が、私を連れて遊びに行くことでした。それで、行ったのですが、勧士がいつも賛美を歌ったので、今日は流行歌を歌ってはいけないのか尋ねたので、そのようにしてくださいと言いました。それで心の中では、私と同じだと考えました。いつも賛美を歌っていたためです。ところで、本当に驚きました。次に一度行ってみるように願います。私たちの勧士の歌い方がすごかったので、とても驚きました。さらに驚いたことは、ものすごく敬けんそうな尹ドンヒ勧士を見て驚きました。尹ドンヒ勧士は、完全にMC水準を越えていました。本当です。とても驚いて、表情に出すこともできずじっとしていました。勧士が普通のコメディアンの水準を越えていたのです。歌も上手でした。それで、本当に上手だと驚いていました。ところで問題は、この方たちが、歌を歌う時、顔をよく見たのです。賛美を呼ぶ時よりはるかに恵み深い顔でした。それが問題です。私たちは思い切り恵みを受けておいて、また他のことをするのです。本質的にそんなことではないのですが、いつも時々そのようにするのです。
■それでは、どんな結論が出てくるのでしょうか。福音を少しだけ味わってもみわざが起きます。私たちがあまりにも福音を味わわないからであって、少しだけ味わえばみわざが起きます。この祝福をタラッパンのすべての家族、すべてのレムナントが受けるようになることをイエス様の御名でお祈りします。あなたは福音の人です。祈ります。

<契約の祈り>
神様に感謝します。福音の人々を呼ばれたことを感謝します。真にこの福音を味わうようにさせて下さい。イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン