2007年9月9日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/希望をどこに置いたのか?
(詩146:1〜10)

■何度も外国に出て行く時ごとに、私がこのような知らせを聞きました。外国に出ていけば、秘書が便りを伝えてくれるのです。一度は、ドアの下に紙が入っていたので、見たら何かの便りらしかったのです。1行で書いてあったのですが、韓国の財閥が自殺したということでした。少しの間だったのですが、衝撃でした。
もう一度、外国にいたときに、政治家、市長が自殺したということでした。必ず不思議に、外国にいる時だけ、そのような知らせを聞きます。もう一度は、ある財閥の娘が自殺したということでした。また、芸能人の誰かが自殺したということです。その方たちが、なぜそうなのでしょうか。その方たちは、皆さんがとても好きなお金をたくさん持っています。その方たちは、人気もすごいのです。ある財閥の娘は米国で自殺をしたのですが、残したお金がものすごかったのです。
■聖書にだけ答えています。聖書にだけ、サタンに対する強調をしています。必ず記憶すべきことは、聖書にだけサタンはいくつかの戦略を使うとあります。皆さん個人を最後まで倒そうとするのです。目に見えなくです。そのまま人々が全く知らないから、最後まで倒そうとします。二番目の戦略は、ノア時代のように、世の中をとても発展させるように見せながら倒すのです。たくさんあるのですが、大きい三番目の戦略が、イスラエルが滅びた記録を見れば、福音をよく聞かないようにさせます。聞いても味わえないようにするのです。そのようにして、神様が旧約聖書に約束されたことが一つあります。この問題を解決するために、メシヤを送るということです。この問題を解決しようとメシヤがこられたのですが、その単語、名前がキリストです。
■キリストという言葉は、三つの職務を含んでいます。人間が受けなければならない罪、呪いを、神様になくしてくれと祭司の役割を言うのです。今でも皆さんを攻撃していくサタン、この勢力をうち破る王の役割を言います。そして、最後に私たちは神様に会うことができないから、神様に会える道を開かれた預言者、このように三つの職務です。ところで、なぜ明らかな事実なのに、答えを受けられなくて、味わえないのでしょうか。それが今日の本文に答えが出ています。本文を詳しく見なければなりません。
■恐れることでもなくて、高慢になることでもなくて、詳しく見ながら恵みを受けなければなりません。韓国でもそうですが、時々、大きい教会の牧師の子ども、家族が惨めに滅びることが多かったのです。そうなるなということでもなくて、そうなれということでもないのですが、その理由を分からなければなりません。どんな方法を使っても、サタンは個人を倒そうとします。良く暮らすように見られるのですが、社会を倒します。最後の目標が福音を知らないようにさせ、分かっても味わえないようにするのです。こういう場合がとても多いのです。
■聖書を見れば、エリの息子二人が神殿で罪を犯して盗みをしていました。それをサムエルが見て、なげいたのですが、サムエルの息子たちもそのようにしたのです。外国に出てみれば、長老の息子、娘が惨めになっていることをとてもたくさん見ました。もちろん、福音がないからですが、理由は分からなければなりません。福音を聞けなかったり、味わえなかったりすることは事実です。そうするうちに、教会に通うのに、とても葛藤が多いのです。教会も人を生かす所なのに葛藤が多く、信仰生活をすることは大変だと言う人もいます。私たちはそれはそうとして、必ず起きる3つの事にやられてはいけません。特に皆さんがメッセージを聞きながら、過去、家庭の背景のある方々は記憶しなければなりません。例えば、私たちの家庭がちょっと両親が揺れるという人々は、祈りを別にしなければなりません。例をあげれば、結婚する時、慎重に福音的に良くしなければなりません。例をあげれば、皆さんのお父さんが肝臓ガンで亡くなったら、肝臓を注意しなければならないのです。霊的なことも同じです。そのような意味で、福音をよく理解しなければなりません。今日の本文を見て、何を理解しなければならないのでしょうか。どのようにしたので、福音を受けたのに答えを受けられないのでしょうか。くやしいことです。大きい教会で信仰生活をがんばったのに、私が答えを受けられないならば、くやしいのです。私が最高の祝福を受けた役員の家族で、牧師の家族ならば、祝福を受けなければならないでしょう。今日の本文に答えが出てきています。詩146:1を見れば、ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよとなっています。ここに、ハレルヤという単語が出てきました。147篇にも、ハレルヤが出てきます。148:1にもハレルヤが出てきます。149、150編にも、ハレルヤが出てきます。最後の詩篇五つをハレルヤの歌とも言います。ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。これが簡単な話ですが、重要な言葉なのです。私のたましいの状態を言います。これが重要です。ハレルヤという言葉も重要で、賛美も重要ですが、私のたましいよ。主をほめたたえよと言いました。
■ここで、信仰生活で重要なことがあります。皆さんが教会に出てくる時は、人も重要で、私も重要ですが、神様の子どもとして出てこなければなりません。もしダビデがサウル王のように神様の前に進む時、王で進んだとすれば失敗したでしょう。ここで問題がくるのです。ここで多くの祝福を知らなくなります。サウル王は、いつでも自分が王だと思っていました。そうでしょう。しかし、神様に出て行く時は、王でなく神様の子どもです。ダビデは神様の前に出る時、神様が私の王だと言いました。ダビデがいつも使う言葉が、私の王である主よ、でした。何が重要なのかということが、とても重要です。
■英国の有名な科学者が、教会に行ったのですが、教会がこの人にとても行き過ぎた関心を見せたのです。特に牧師がそうでした。理由が何でしょうか。救われた神様の子どもでなく、科学者が来たからです。それに関心を持ったのです。この人は事実、教会に来る時、とても飢え渇いた状態です。それでは、牧師は結局、この科学者を殺すことになります。科学者が科学者として重要ですが、神様の前に立った子どもです。福音を知らなければ、福音を知らなければなりません。それが重要です。ニコデモがイエス様を夜に訪ねてきました。その話は、誰も見ない時に来ようとしたのです。もちろん、静かに話すためにでした。結局、ニコデモは、イエス様と対話して、みな仕上げすることができないで行きました。わからなかったのです。ものすごい知識と背景を持ったニコデモが、イエス様と対話して、対話にならなかったのです。その時、イエス様がこのように話されました。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。それとともに、とても簡単な話をされました。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。あなたの質問よりさらに重要なのが、あなたが救われることだといわれたのです。そのような意味ではないでしょうか。色々な働きよりさらに重要なのが、あなたが神様の恵みを受けることだという話です。それで目に見えないサタンは、どのようにしようが皆さんがこれを受けられないようにします。たびたび難しく混乱を与えるのです。皆さんが教会に来る時ごとに、神様の子どもで神様に出てこなければなりません。これがとても重要です。
■ナアマン将軍がいます。世界を動かすほどのアラブの国の将軍です。この人が多大な王の信任を受けていました。ものすごい軍服を着て通っていました。馬車もすごいのです。ナアマン将軍に、王が特別新任を送ったので、ナアマン将軍の威勢がすごかったのです。ところで、中東地域では直ることができないらい病患者でした。誰も知りません。自分の家族と自分だけが分かるのです。他の病気は、待てば静かに死ぬのですが、この病気はからだが崩れ落ちます。それをものすごい軍服で隠して生きていたのですが、自分は難しかったのです。誰も答えを上げませんでした。くれないからです。どのように与えるのでしょうか。ナアマン将軍は毎日毎日死んでいくのです。ところで、その家に少女1人が捕まってきました。この少女は、近くの家にいたので感づいたのです。私たちの将軍は、今、らい病患者だな、この人が深刻ならい病患者だなと分かったのです。だから簡単です。取立てて言う言葉は必要ありません。簡単に話しました。イスラエルの国の預言者に行って祈ってもったら良くなると言いました。この話に、ナアマン将軍の目がキラッと光ったのです。生きるというので目が光りました。それで直ちに王の前に行きました。王は知っていたのです。私がこういう病気があるので、イスラエルに行けば直す人があると言いました。王様が手紙を書いてくれと言って、もらって行ったのです。イスラエル王の前に行って、王がどのように直すのか。それで、エリシャに送れと連絡をしました。エリシャの家の前に将軍がきました。ところで、将軍のところに出て来ず、人を送ってヨルダン川に入浴をして行けと言ったのです。それも七回入浴をして行けと言いました。ナアマン将軍が腹が立ったのです。なぜ腹が立ったのでしょうか。あなたがヨルダン川に行って入浴すれば良くなるはずだという言葉に腹が立ったのではありません。それはうれしい知らせです。これが問題ではありません。なぜ腹が立ったのでしょうか。この人が、私が誰なのに出てきてみることもせず、あえて私が誰なのにと思ったのです。アラムの国、世界を動かすアラムの国の将軍なのに、私に出てきて挨拶もしないで、なぜああ言うのかということです。だから、この人は自尊心が傷ついたのです。行こうと副官に話しました。ヨルダンで入浴をするとは、我が国には川がないか、帰ってわが国により良い川があるとしながら、怒りながら帰ろうと言いました。もちろん、その人が腹が立ったことは理由が別にあります。しかし、自分の身は深刻です。そばについて行った副官が話が上手だったのです。どうせ来られたから、入浴して行かれるのがどうかと言ったのです。率直に話したのです。どうせ来たのだから、入浴して行こうと言いました。悪い話ではありません。ある面では、真実な言葉です。日も暑いが、どれくらい良いでしょうか。勝てなかったふりをして行きました。七回しようとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。ひとまずしなければならないことがあります。入浴する時、バーバリーを着てする人はいません。ひとまず脱がなければならないのです。すべての軍服をみな脱がなければなりません。そして、入らなければならないのです。七回ならば、単に数が3回程度の時間ではありません。入って頭だけ入れることでもありません。確かに入って出て行って七回しなければなりません。誰も知らないこの恥ずかしい部分を神様の前に出せということです。あなたが軍服を着て神様に出て来るのではなく、そのまま来いという言葉です。そのような意味が含まれています。
■芸能人が信仰生活をできないと言います。神様を信じたいが、どんなに牧師が証ししろと言うか、教会はそんなことする所ではありません。信仰生活をできないほど、しばしば証ししてくださいと言うのです。信仰生活ができません。ある芸能人が話しました。韓国教会で信仰生活する所がないと言いました。自分は死にそうだと言ったのです。ところで、行きさえすれば、前に出すので難しいということです。長官出身一人が学校で共に勉強をしました。その方が講道師の試験を受けながらこういう話をしました。私は司法試験も簡単にパスしたが、講道師の試験がさらに難しいと言いました。その方もそのような告白をしました。いったい自分は何を学びに信仰生活するのか難しい。長官、それが特別なものでもないのですが、前職が長官だったと挨拶する時も、話す時もさせて、信仰生活ができないと言っていました。多くの芸能人が恵みを受けることができなくて、右往左往しながら崩れるのです。
■それで、ダビデは言うのに、私の王である主よ。私は主の御名を永遠にほめたたえます。先週に、この部分を言いました。私たちは信仰生活する時、この部分がとても重要です。反対に、あまりに私が過去に捕われて神様の前に出てくる時、難しくなる必要がありません。放蕩息子は家を出たのですが、お父さんのところに帰れば生きます。私がこれみな解決して行くべきでとすれば、帰れません。反対に、皆さんが来る時、私がとても醜くて、私はなくて、私は貧しくてと言う必要もないのです。いくら醜い人でも、教会にくる時は神様の子ども、いくら成功した人でも教会にくる時は神様の子どもです。この簡単なことで、大きな違いが生じるのです。
■私が、昔に釜山で大きい教会の副教役者をしていました。私たちの韓国で、ドンファ飲料といえば、認められていました。その時、会長は女の方でした。私が行っていた教会の勧士だったのです。大きい会社のグループ会長であるから、保護しなければなりませんでした。この方が、教会にくれば皿洗いもしたのです。その運転手が見てびっくり驚いていました。笑いながら、いや会長が皿洗いをしていると言っていました。すると、その勧士が、私は会社にいて皿洗いすることがあるだろうか、私は会社に行けばグループの会長なのに皿洗いすることがあるだろうか、教会に来るからこのようにするのだと言いました。なぜでしょうか。教会は神様の家、私は神様の子どもということでした。こうした話が、何でもない言葉のようでも、とても重要な言葉なのです。
■もちろん、職業も必要なくて、位置も必要なくて、ポジションも必要ないという言葉ではありません。私たちが本当に恵みを受けるには、神様の子どもでなければならないのです。じっくり考えてみましょう。韓国、世界の教会の問題は、これのために起きるのです。教会の中での多くの事もこういうもので起きます。ある地域に牧師夫人が、教会問題を起こして、教会が粉々に砕けることがありました。重要な人がきて牧師夫人に寄りついたのです。牧師夫人が賢くなければならないのに、分別ができなかったのです。くっついて、すべての教会の信徒を連結させました。すべての信徒が、その人とお金の関係でみなからまってしまったのです。さらに不思議に思えるのは、献金しなかった方たちが、どのようにみな集めて出したのかは分かりません。このようにして、逃げられて問題が生じたのです。それですべての教会が試みにあいました。主謀者が誰でしょうか。牧師夫人でした。ところで、牧師夫人がわざわざしたのではありませんでした。知らずにしたのです。だから、偉い人だと思ってそのようにしたのでした。教会は偉い人や、立派な人が必要ではありません。その方に一番必要なことは神様の恵みです。それでこそ、立派さが生かされます。教授は、神様の子どもで祝福を受けてこそ、教授職が生かされるのです。本当に事業をする方ならば、神様の恵みと祝福を受けてこそ、その事業が祝福されるのです。私たちが食べて生きなければならないといえば、それをしようとするなら、神様の恵みが必要です。個人も団体も全世界の問題がそれで来たのです。
■今日の二番目です。146:3〜6。あなたの希望をどこに置いていますか。あなたのたましいをどこに置いたのかは、ものすごく重要な言葉です。あなたの希望はどこに置いたのでしょうか。3〜6に出てきます。146:3に見れば、君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。5節に、幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。6節に主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り。とても重要な言葉です。私たちがどこに希望をおいたのでしょうか。人は私たちが愛して手助けしなければならない対象であって、希望の対象ではありません。主に希望をおく者は幸いです。
■序論の部分を記憶しなければなりません。皆さんを最後まで倒そうとする暗やみの勢力は、皆さんがどこに希望をおいたかを知って攻略します。何の話なのかと思うかもしれませんが、詳しく見れば、とても重要なみことばです。これは牧師も、一般信徒も同じです。どこに希望をおいたかによって、すばらしい答えが行き来します。
■ 7〜9節です。私達の目はどこに置いているのでしょうか。神様がどこに目をおかれたのでしょうかしいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、9節には主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる。これが何の話なのでしょうか。神様は金持ちを嫌って勝利した者を嫌って押さえられた者が好きだという言葉ではありません。むしろ神様はどこに目をおかれているのでしょうか。神様は神様の恵みが必要ないという者には目を向けられません。地獄とは何でしょうか。神様の恵みが少しもない所です。それが地獄です。この世に生きていく間、神様の恵みを慕い求める者に目を向けられるのです。貧しい者と押さえられた者でなく、神様の恵みを慕い求める者に目を向けられるのです。イエス様がなさったたとえですが、地獄に行った金持ちが何と言ったでしょうか。アブラハムよ。あのラザロをよこしって水一滴だけくださいと言います。たくさんではなく、水一滴を落として、私の舌にくれと言ったのです。何を言うのでしょうか。どれくらい難しかったか、水一杯ではありませんでした。アブラハムよ。水一杯だけ、これはあまり緊急ではないのです。一滴だけと言いました。指に濡らして私の舌を濡らしてくれと言ったのです。イエス様が表現されたのです。昔には乞食が多くいました。腹がいっぱいな乞食は、言葉が違います。腹がいっぱいな乞食は、ご飯を一膳くださいと言います。本当に空腹な乞食は、一さじだけくださいと言いました。そうでしょう。水一滴だけ私の舌を濡らしてくれということは、何を言うのでしょうか。神様の恵みが地獄には一滴もありません。普段に神様の恵みが必要ないと言ったのです。その人々が行く所が地獄です。神様は今でも神様の恵みを慕い求める者に、視線を転じられるのです。必ず記憶しなければなりません。皆さんは祝福を受ける条件を神様が与えられたのです。
■なぜ世の中に希望をおいてはならないのでしょうか。10節に、主は、とこしえまでも統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々にいます。ハレルヤ。永遠に、皆さんの子孫まで代々、統治する方は、主なる神様なので、そこに希望をおかなければならないのです。
■結論的に契約を捕まえなければなりません。サタンの力はすごいのです。ひとまず目に見えません。すごいのです。それで多くの人々が、いないと思います。聖書にだけ記録されているのです。完全な神様のみことばにだけ記録されています。サタンの力がどれくらい強いのでしょうか。想像を超越します。未信者にはものすごい権威を持っています。ところで、信徒には勝つことができないと思ってだますのです。他のことをだまさないで、皆さんが神様の前に出てくる時間が最も大切な時間だということを知らなくさせるのです。この福音の力が皆さんの家系と代々に及ぼす契約という事実を知らなくさせます。私たちはやや下手すると、私がどうだ、あなたがどうだ、だれかが優秀で、こういうもので時間を過ごすようにサタンはさせます。そのようにして、目的が皆さんを失敗させようとするのです。これがサタンがすることです。ここにやられる必要はありません。
■聖日に、教会にいる時ごとに、私の王である主よ。永遠に代々に主を賛美しますと告白しなければなりません。私の希望は主にありますというその祈りに私は答えられました。長い祈りが必要なのでなく、私の希望を主に置かなければなりません。どれくらい副教役者生活の時、難しかったのか神様に祈りました。ともすると、教会がどれくらい難しいかわかりません。それで神様に祈ったのです。事実です。私は背景もない、神様が私の背景です。私は持っているものがない、神様が私の財産です。私は優れた世界的な学閥もない、神様の私の学問です学閥と言いました。私は祈ったのです。伝道が思いのままにできる教会を開いてくださいと祈ったのですが、釜山と皆さんに会うようにされました。本当に感謝なことです。神様の前に、私たちは希望を神様に置く者にならなければなりません。今日、とても短い時間に答えを受けることができます。私の未来と私の職業と私の全てのものを神様に任せます。私の希望を神様に置きます。そうすれば、答えられます。驚くことです。ある人は、外ですることがどれほど多いのか、神様に希望をおいてもいいのでしょうか。彼らを動かせる方が神様です。分からないのです。人の心を動かされる方が神様です。
■ある牧師夫人が、とても教会が難しくて伝道運動して追い出されたのです。道を行って見たら、土地があったので回りながら祈ったということです。こうしたところに教会を作れば、どれくらい良いかと祈っていたら、ある男が来たということです。何をするのかと尋ねて、土地がとても良いから回りながら祈っていると言いました。買うかと、買いたいのかと尋ねて、買いたいと言ったということです。その人が、事務室に連れていってお金がいくらあるのかと尋ねて、お金は一銭もないと言ったということです。お金もない人が何の土地を買おうとするのかとして、お金はないが、あまりにも土地が良くて祈ったと言ったのです。行けと言われたのですが、その翌日、その人が電話をしてきて、土地を買えと言ったということです。お金ないと言ったが、なくても買うようにしてあげるから買えと言ったのです。その日の夜に、その人の気持ちに、そのような気がしたということです。この人が寝られなかったということです。耳に心におっしゃられる方が神様です。これで教会をすてきに作りました。そんなことなどを見ながら、人の心を動かされる方は神様です。考えは私たちがするのですが、その歩みを導かれる方は主なる神様です。皆さんの職場の中に事業する所に、どれくらい困難が多いのでしょうか。その方の心を本当に動かれる方は神様です。人は動かせません。ある程度、対話をして、ある程度はできますが、本当にその心を動かされる方は神様です。
■さらに重要なことを3つ結論を出さなければなりません。決断を下すべきです。色々な事は神様が責任を負って、未信者も助けられる神様です。皆さんがどれくらい大切なのでしょうか。神様がみな導かれます。神様は野草も養っておられるのに、野の草より皆さんが確かに尊いのに、神様は皆さんを導かれるでしょう。その代わり、下さなければならない決断が3つあります。それが個人問題です。決断を下さなければなりません。何の話なのでしょうか。皆さんだけ分かる、皆さん家系から降りてくる個人問題は決断を下さなければなりません。例をあげれば、私は自分の父が私の記憶では、熱心に仕事をしたが、病気になったのです。自分の父がいつも病気で、もたれて座っていたのをたくさん見ました。そのようにして亡くなりました。そのまま見るのでうちの父の家に、結局、わが家ですが、霊的問題が多かったのです。偶像崇拝もたくさんして、結局、健康問題が多くありました。その部分で、私は決断を下しました。今でも私は運動をがんばってします。なぜでしょうか。私が下さなければならない決断の部分です。個人的にくだす決断が必要です。霊的に難しく生きれば、そこで崩れます。それを土台とした人々が、レムナント7人です。とても重要な言葉です。ヨセフが代表的な例です。家庭がとても変だ。自分をとても難しくさせる。ヨセフは、それを土台にしました。その決断を皆さんもくださなければなりません。レムナントに必ずお願いしたいのです。親が実力がある方々もいて、たくさん学べなかった方もいるでしょう。このような時は、勉強をしようとするなら決断を下さなければなりません。私たちの家系にたくさん学んだ人々がいないんだな、それで、神様が私を呼ばれたんだなあ、私は正しく勉強して、福音でこれを変えなければならないな、こういう決断を下さなければなりません。そうでなければ、自分も知らないうちについて行きます。とても重要です。個人に対する決断を下してこそ、祈りも変わって、みな変わります。そうでなければ、いつもじっとしているのです。年を取りながら、皆さんに、過去に、問題が迫ってくるのです。イスラエルが受けた問題です。必ず記憶しなければなりません。今でも暗やみの勢力は皆さんを攻撃しています。いくら違うと言っても、皆さんの家を攻撃しています。今でも皆さんの子どもを攻撃しようと狙っています。皆さんは神様の子どもで、勝利したので、その時からすべての門がみな開かれるのです。気持ちで失望したり、座り込んでいずに、気持ちで決断を下すよう願います。信徒はそれだけすればよいのです。残りは神様がなさいます。
■聖書の初代教会は死んでも良いという決断を下しました。年を召された方々も、私が年をとったためだと考えれば、とても損をします。年を取ったが、私がどのように素晴らしく神様に仕えるのかという決断を下さなければなりません。年を心配していれば、そのまま崩れます。特にレムナントにお願いします。今、決断を下せば、何でもできます。特に、皆さんがあまりにも親に傷をたくさん受けたということもあります。親が別れて、自分はここでちょっと暮らして、あそこで暮らしたりしていました。母の都合でうまくいかずに、父の家でもちょっと暮らして、父が新しい奥さんをもらって問題が生じて、再び母と暮らした。この子が育つ間、5、6回あちこち転々としたのです。だから、勉強が良くできません。言葉には言わずに、笑って通っていたのですが、傷を受けたのです。ところで、問題は、決断を下さなければならないのに、育って結婚する時ぐらいになっておかしな男に会ったのです。まったく信仰生活をしない男でした。それまで良いでしょう。信仰生活しなかった人でも良いでしょう。ところで、ほとんどやくざでした。信仰生活もしなくて、ほとんどやくざのレベルでした。希望がありません。私たちのレムナントを、どのように指導しなければならないか気がしました。結局、自分も知らない間に行っているのです。特にレムナントは決断を下さなければなりません。個人の家庭を土台にして、決断を下さなければなりません。サタンは皆さんをだまそうとします。
■二番目は教会問題です。教会では、ただ福音だけでなければなりません。これで決断を下さないならば、時間が過ぎるほどまたなくなります。時間が過ぎながら、またパリサイ教会のようになるのです。この決断だけ下せば、皆さん1人のゆえに、たくさん生き返ります。教会では、ただ福音だけです。
■皆さんが外に出て行って社会生活をするようになります。そこで決断を下さなければなりません。伝道がなるほど、勝利しなければなりません。ただ伝道だけ。教会生活は福音が何か十分に説明するほど、教会生活しなければなりません。社会生活は、福音を伝えるほど、社会生活をしなければなりません。こういう決断を下さなければならないのです。そうでなければ攻撃されます。
■今日の詩篇146は、イスラエル民族が捕虜以後にいつも礼拝の時に歌った詩だということです。捕虜以後に戻って、この詩をいつも歌ったということです。捕虜時代にあった絶望に陥る必要もなくて、出てきたことに対して勝利感に陶酔する必要もありません。今日の聖書にある通り、皆さんの希望を神様におく祝福があるように願います。多くの言葉、理由があるでしょうが、少し考えればよいのです。前に私が知っている方を紹介しました。とても信じる家の人で勉強もよくできたのです。成功もしました。ところで、この方は信仰生活をしなかったのです。信仰生活をしないのに長官もなりました。信仰生活をよくしなかったのです。ところで、韓国の秘密ですが、重要な事件にまきこまれて監獄に入ったのです。ひとまず死刑宣告を受けました。その時になって、お母さんが来たということです。勧士がまったく訪ねてこなかったのに、訪ねてきたということです。将軍になった時も、長官になった時も来なかったのです。私はその方の証しを直接、聞きました。お母さんが刑務所を訪ねてきました。初めてソウルに来たのです。お母さんが一言だけ言ったということです。今は時刻表になった。あなたは神様に希望をおきなさいと言いました。あなたは、今までとても出世をして、人に希望をおいていたが、今は神様に希望をおきなさいと言ったのです。その長老の証しです。ずっと分からなかった言葉であったのに、その時、胸にぶつかったということです。前はそのやさしい単語が理解ができなかったが、その時は長老ではなかったのですが、ぶつかってきたということです。しばらく神様に希望をおいて祈ったのですが、監獄の中で奇跡が起こったのです。死刑宣告を受けた人が解放されました。その程度の事件が起きたのです。この方が出てきて信仰生活をするのに、神様の前で伝道して通ったのです。この方が長老になって、さらに多くの伝道をしました。皆さんは少しの間でも良いのです。皆さんの重要なことを神様に任せる、希望を神様に置く祝福が始まるようにイエスの御名でお祈りします。

<<契約の祈り>>
神様に感謝します。私たちは神様の子どもです。その恵みを味わう時間になるようにして下さい。いくら私たちが弱くても、神様の子どもで、いくら勝利しても神様の子どもです。今日、その恵みを受ける希望を神様におく日になるようにさせて下さい。真の答えを味わう開始になるようにさせて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



2部/神様の奥義を何で分かるのか
(Iコリント2:10〜14)

■今日、この時間に講義することは、皆さんが一番理解できないこともあります。私は一番理解できるのに、皆さんはできないこともあります。また理解できてもよくできないのです。これは今、福音手紙6回目の出会いで補充しなければならない説明です。いったい救われた私とあなたはどのように変わったのか。その話をする時間です。ところで、別途に説明するために、神様の奥義は何で知ることができるのかとタイトルをつけました。皆さんが新しい家族に会った時や、重要な人に会った時、必ずしなければならない部分がこの部分です。先週にもあったのですが、福音の手紙の各課ごとに私たちが話す部分があります。いったい救われた私はどのように変わったのか。それでは神様と通じる奥義は何か。こういう質問が出てきます。これはとても重要なのです。それで聖書箇所いくつかで、ひとまず説明をします。
■聖書は救われた皆さんがこのように変わったとなっています。何も変わったことがないのに、一つが変わったのです。皆さんが救われても、性質は変わりません。少し変わって、また戻り、レベルが変わることでもありません。性質、体質、絶対に変わりません。一つが変わります。皆さんが救われれば、一つが変わるのですが、皆さんが神様の神殿なのですが、それ以後、神様の聖霊が皆さんの中にとどまられます。ここで未信者と違う点は、未信者はいくら自分ではそうではないと言っても、その人の中には悪霊がとどまります。それで占いに行けば、卦が出てくるのです。また占いをしなければなりません。そうでなければ、悪霊にいつもやられてしまいます。皆さんが救われる瞬間、それは追い出されて聖霊が働かれます。これだけ違って、その他には何も違うことがありません。
■それなら、私の主人が変わったのです。ここで信仰生活の全てが解釈されなければなりません。ところで、皆さんが今日、わかるのが難しいというのは、私は信仰生活をしながら、これら全部の問題が、神様のゆえではなくて、人のゆえだな、それで、この人間が問題だなそのように悟ったのです。神様は全く問題がありません。私が信仰生活で悟ったのが、この人間の問題です。それで昔にはしばらく大学で悪口が、獣のような奴といえば一番悪口なのに、この頃は人間といえば一番の悪口です。ところで、私が時間が経つほど信仰生活をしながら悟ったことが、神様のゆえではなくて、私たちのゆえだということです。ますます理解できないでしょう。知ったところ、私のゆえです。これを悟れないのです。悟っても、直すことができないのです。直すつもりもありません。直すこともありません。それで毎日、苦労をするのです。これのためにそうです。それで、私は昔に伝道師、牧師として働いていると思っていました。ところで、分かってみれば、そうではなかったのです。皆さんがした献金を持って謝礼まで受け取りながら、単に迷惑をかけていたのです。正確な私を見ればそうでした。皆さんよく分からないでしょうが、私はいつも教役者、牧師をするということが、ないわけにはいかないし、なければだめだから、そのような存在だと思っていました。私はそのように感じていたのです。神様が完ぺきになさるのに、私がそれを妨げなければ良いんだなとある日悟ったのです。それにしても眠いのに、難しいでしょう。私は、そのように感じられたのです。神様が皆さんを祝福して、教会で働きをされるのに、私はさまたげず、お使いだけすれば良いと思ったのです。私はこのように感じられたのです。しかし、大部分が、そのように感じないのです。ところで、このように問い詰めれば、外で熱心に努力をしなければならない人々は、何の話かと言うでしょう。だから、世の中と教会が合わないということです。ところで、私はそのように考えません。本当に、世の中ならばどうでしょうか。私はこれが正しいと思います。例をあげれば、本当に公務員ならばどうなるのでしょうか。国と法律は良いのですが、私たちが間違うからだということです。法は誤っていることはあまりないのですが、私達が守らないのです。正しい軍人に会えば、国家は私たちにすることが多いが、私たちが国家に正しく献身をできないとみなそのように考えています。ところで、それが正しいのです。それなら、救われた私たちは、途方もない体質と考えを全部すべて持っているのです。これがこれから新しい家族にどれだけの被害を与えるのか知らせなければなりません。それほど理解できないのです。私はこれが分かった人をそれほど見たことがありませんでした。全部、自分が正しいと言います。全部、自己主張が正しいとだけ言うのです。私はこういう人だけ見てきて、自分が間違っているという人は見られませんでした。だから、時間が経てば教会は自然に毎日、葛藤、戦いが起きるしかありません。ある人は、未信者が話すように、イエスを信じる人は対話できないから、対話をするのをやめようとしたりもします。この程度までなったのです。この頃、分別がない子どもたちを教育させるべきですが、ネチズンがキリスト教を見て犬の宗教(訳者注:韓国語での発音が似ている)と言います。もちろん精神が正しい人は、インターネットで時間をたくさん過ごしませんが、それでも、その子たちがキリスト教を犬の宗教だと言うのです。それだけ私たちが対話ができないのです。皆さんが何の話なのか理解をできるかどうかは分かりません。ただ努力で昇進して、努力に走ったが何の話かと尋ねます。しかも、死ぬほど走って、いのちをかけて眠ることもせずに走るべきなのに、何の話かと質問をすることもできます。正しい言葉ですが、その正しい言葉のために、下手すると知識人が多くのことをのがすようになるのです。これはその話ではありません。
■私にとても感動を与えた後輩がいます。一般信徒です。私はそれを忘れません。一度は、この人が久しぶりに来たのですが、家に用事があれば、私が礼拝する教会に礼拝をささげに来ます。ジャンパーを着てやつれているように来ました。それで、顔がなぜそうなのか、どんなことがあるのかと尋ねました。「私が3日ほど断食をしました」どんなことがあったのかと尋ねたのですが、何もなかったと言いました。ところで、断食する理由を説明したのです。この頃、欲がたくさんできてしまったので、断食をすると言いました。その話を聞いて、あっと思いました。それは牧師や副教役者の口からは、死んでも出てこない言葉です。一般信徒が言う言葉が、とても自分が欲が多くて断食をするということでした。それが正しい言葉です。私たちは祈りの課題を持って断食祈祷をします。この一般信徒の執事のレベルがどれくらい高いのか、祈りの課題をなくそうと断食祈祷をしたのです。どれが福音なのでしょうか。私が申し訳なかったのです。そして、断食を3日を終えて降りてきながらおかゆを一杯食べたということでした。おかゆのうつわを持った時、涙が出たということでした。それで、なぜそうだったのか尋ねたところ「神様、私を思いのままにして下さい。私は受けたのも多いのに、なぜこのように要求が多いのですか。私は途方もない神様の祝福を受けたのに、なぜこのように話が多いのですか。私を思いのままにして下さい。神様が私の事業を必要ならばほろびるようにして、必要ならば復興させ、いつでも思いのままにして下さい。私は神様で満足します。」このようだったのに、そのように涙が出たということでした。それで、私が来週から説教はあなたがしなさいと言いました。それが説教です。私たちを見て下さい。何がそのように必要なことが多いのでしょうか。いろいろとみな満たして、おいてまた欲ができるのです。だから、その人が事業をするのに、事業もうまくいきます。することごとに、その人は成功します。ところで、ひとまず誰かがこの人に会えば、とても恵みを受けるのです。ひとまず真実さを感じられます。そして、とても事実的です。自分自身を隠さないで、間違ったこと、良くやったことを話します。それこそ、ガラテヤ2:20節です。
■ところで、こういう部分にならなくなるので、新しい家族がものすごい福音を悟っても、そのままいるのです。私と皆さんが必ずしなければならない部分だと考えます。それで終わった、あなたがたは神様の神殿です。その理由が神様の聖霊があなたの中にとどまっておられるためです。うつわが重要なのではなく、中に入っていることが重要です。いくら険悪な家でも、ずっと大統領が住むようになれば大統領府になるのです。いくらみなゆがんだ家でも、王がずっと住めば王宮になるのです。私と皆さんがいくら状態がこのようだといっても、神様の聖霊が私の中にいらっしゃれば神殿になるのです。ところで、ここからすでに問題が起きるのです。それで私はこの部分が本当に説明しにくいと考えます。ところで、100人ならば100人に会ってみれば、全部、自分が強いのです。
■それで、私は本当にインマヌエル教会が感謝しているのが、ファン牧師を静かに見れば、とても良い人だと考えます。話をするのを見れば、自分のことがありません。他の人が話すのを見れば、全部、自分のものがあります。自己主張があって、自分の固執があるのに、この人にはありません。本来、ファンという名字の人は、人が良いのです。大邱のファン・スガン牧師、ファン・シニェおばさん、こういう人もそうです。ところで、人々に会ってみれば、ほとんどそれになりません。ある人は間違っているのに、とても強いのです。ある人は、自分が間違ったことが現れただけでも怒ります。ある人は、自分はみな良くして、他の人はみな間違っているとクリスチャンがそのように言います。他人の話は無条件に間違って、自分は正しいと言う人もいます。そして、自己主張は絶対に曲げません。イエス様が直接きて話してもだめでしょう。そのようにしてしまうので、話す言葉がありません。これを必ず本当に救われた人と話をしなければなりません。本当に神様の聖霊が私たちの中にあるならば、そのように悩む理由がありません。本当にそれなら、私たちが我を張る理由もないのです。意志が強いのと、固執が強いのは違います。どんどん難しくなるので、牧師先生は、今、何を話しておられるのかと言うでしょう。
■本当におかしな話ですが、その人が救われたのか、救われなかったのかは知らずに、答えを受けられないようになった理由がここにあります。どれだけ信仰が良いかは私達は知ることはできません。ところで、確かに問題はここにあるのです。私たちの問題、私の問題、私がみな陥った問題を、良くても悪くても変えることもありません。だから行く所ごとにそうなのです。これだけなれば、本当にやさしいのにということです。ある人々は、仕事をさせれば、仕事を引き受ければ自分の意向のとおりしなければならないと思います。想像を超越します。牧師が堂会長になった場合、教会を自分の意向のとおりしなければならないという人は、堂会長の資格はありません。私が堂会員になって、堂会を私の思いのままに引っ張っていかなければならないという人は、ひとまず資格がありません。資格の話だけするのに、それが資格がないのです。私たちはお手伝いをするだけです。神様が与えられた部分がこの部分なのに、これがとてもだめなのです。私が前にも話を何度かしました。行く所ごとに全く同じですが、それは代表的に私の胸の中に残っているのです。長老一人がとても人が良い人なのに、とても単純な人でした。話をしてみると、たくさん学んだ人ではないといったことが表に現れます。教会でとても忠誠にあふれるように話をするので分かりません。ところで、分からないのです。ある日、問題が生じました。突然、牧師が私を呼びました。笑いながら、牧師が来週の週報はここに持って行きなさいと言われました。地図を見たら、とても遠い所でした。今までした所は長老がする印刷所で、持って行けば自分がみなしました。釜山にパンソンという所があるのですが、そちらまでバスに乗って持って行かなければなりませんでした。しておいたら、また持って来なければなりません。それをするのにだけ2日かかりました。それまでは良かったのです。印刷技術がまったく違ったのです。持って行ってみたら、週報を刷る印刷所でもなくて、名刺を刷る所でした。さらに、この人はイエスを信じる人ではないので、言葉が通じなかったのです。週報を出す時、間違って文字を印刷していました。しかも、お知らせには、福音大会というのを炒めもの(訳者注:「ボグン=福音」「ポックン=炒めもの」)大会としてありました。私が週報の原稿を渡した時、失敗で「炒めもの大会」と書いて渡したとしても、イエスを信じる人ならば「炒めもの大会」はないから「福音大会」に変えてするでしょう。とうていだめでした。それで、牧師に話をして変えまいた。そうしたら、後ほど分かったのです。私たちはそのような意識がなくてよく知らなかったのですが、後ほど分かったのです。後ほど知ったところ、教会にその長老がしばしば主張して、そちらに持っていったということでした。知ってみたら、名刺を刷るその人が、長老のおいでした。おいを助けるという心は理解ができますが、そこまでする必要はありません。それまでは良いでしょう。この人がその時から私が変えたので、私を敵のように考えたのです。出てくる日まで私に文句を言いました。本当に止めさせられなかったのです。ところで、私たちの大部分がそのようになります。その方はレベルが低くて、低い表し方をしたのですが、私たちはレベル高く、表に現れないように、そのようなことができるのです。
■それでは、どのように信仰生活をすべきでしょうか。聖書箇所を三つで説明します。今日、読んだIコリント2章10-14節。ヨハネ14章16-17節。使徒の働き1章8節。これが信仰生活です。確かに皆さんがいくら拒否をしても、神様の聖霊は皆さんと共におられます。いくらもがいても、神様の聖霊は皆さんと共におられるのです。それでこのようにすれば、事がならなくなります。それで、こういう部分だけ悟ってしまえば誰でも答えを受けられるのです。それでは、どうやって行くべきでしょうか。Iコリント2章10節に、何か出てきたのでしょうか。神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。聖霊の神様が、私とともにおられることを信じるというと、ものすごい知恵が生まれるのです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。12節に重要な話が出てきます。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。これを信仰と言います。私たちが信じる信仰は聖霊が私たちとともにおられる、この祝福を味わうことを言います。それで、皆さんがこの部分がなられれば、すばらしいことになります。このような時、起きることがあります。聖霊が働くようになっています。皆さんはじっとしているのに、信じる時、みわざが起きるのです。聖霊が皆さんと共におられるということと、働かれるということは、また別の話です。詩編103:20-22に、聖霊が働く時ごとに、天の扉が開かれると言われています。それで、皆さんが行く前にあらかじめ神様は働かれるのです。この祝福を味わうようになるように願います。皆さんには驚くことでしょう。それで、これを信仰生活する人々が捕まえて教えなければならないのです。だから、信じる、信じないで、大きな違いが生じるのです。皆さんが今、ここに座って、そうだ、神様の聖霊が私とともにおられるということを信じる時、この聖霊は確かに働かれるようになっています。聖霊が働かれてしまうので、使徒の働き2章の答えの門が起きるのを見ましょう。これが信仰生活の最初です。
■その次が何でしょうか。ヨハネ福音14章10-16節に、確かにわたしがあなたがたの中にとどまると言われました。これが何の話なのでしょうか。もう私と皆さんは、聖霊の導きを受けるためにだけ動きさえすれば、無条件に勝利します。今日、皆さんが聖霊の導きが何かと質問したとしてもみわざが起きます。大部分がこれができません。このように信仰生活は正確でやさしいのです。今、聖霊の導きを私たちがどのように知ることができるのでしょうか。聖霊の導きは、その時、その時、与えられる神様のみことばを見れば知ることができます。聖霊の導きを受ければ、答えが出てくるのですが、今現在どのようなことがあるのか、神様は分かるようにされます。そして、未来が見えるようになります。それが聖霊の導きです。そのように、聖霊の導きを受けていけば、みわざが起きるようになるのです。
■次の聖日に共同議会をするということは、何の話なのかというと、法的に私たちの働き人を立てるということです。人が良いのと聖霊導きを受けるのは違った言葉です。私が釜山で初めて開始をした時、私は行く時、一つ確信があったのが、合宿訓練をしなければならない、そして、伝道訓練をさせなければならない、それで、初めから訓練させられる教会堂がなければならないということを言いました。ところで、驚くべきことに、私たちの信徒の中で理解した人がひとりもいなかったのです。人の導きを受けるので、「まず作ってもう少し集めてしなければならないと言うべきだ」それではなくて、訓練をさせなければならないという話です。それで今、訓練させる場所を作ったのですが、それをする時まで、いつも苦労したのです。今、私たちは何を言うのでしょうか。ソウルの中には伝道弟子が集まらなければならない場所が多いのです。それができる役員を選びなさい。また世の中の外には多くの人々が必要です。それができる職分者などを選びなさい。多くの資格が必要ですが、それができれば良いのです。このようにしてこそ、今、首都圏内で、暗やみの勢力が砕かれてみわざが起きます。だから、私たちが聖霊の導きを受けるということは、今、現実的に未来を少しだけ見つめれば分かります。ところで、皆さんがいくら頭を使っても仕方がないのです。神様がインマヌエル教会は全国、世界から働き人が集まって学生たちが泊まって、学生たちが休んで訓練を受けるのが神様の計画です。それに合わせなければ、皆さんは死ぬ時まで苦労します。それが神様の計画で、それを合わせていくことが聖霊の導きです。それで聖書にヨハネ福音16章13節に聖霊の導きを受ければ、全てを分かるようにさせると言われました。Iヨハネ2章20-27を見れば、全てを分かるようにさせると言われています。とても重要な言葉です。皆さんが今日、神様の働き、聖霊がともにおられることを信じる時、みわざが起きます。あなたの信仰のとおりになるようにと言われました。なぜなら、長血になった女性が、信じる時にみわざが起きたのです。ところで、これが理解できないのです。信じる時、働くという言葉は、いったい理解できる言葉なのでしょうか。百人隊長を見て、あなたの信仰のとおりになるようにと言われました。その話をした瞬間、しもべが癒されました。この話は、とても科学的な言葉で、信じる時、聖霊が働くのです。皆さんが不信仰に陥る時、事実上、暗やみは皆さんをひきつけます。それで、聖霊の導きを受ける時、神様がすべての知恵、全てを分かるようにさせると言われました。だから、信じるのは時間もたくさんかかりません。聖霊の導きを受ける皆さんは、少しだけ固定観念を捨てて、少しだけ見上げれば導きを受けるようになるのです。今、誰がなんと言ってもインマヌエルを見てください。釜山、ソウルは同じですが、生活が少しずつ違います。今、事実は多くの海外の人材が韓国に来ることを望んでいます。そして、ある人々はインマヌエル教会にきて、場所があまりになくて、礼拝をささげることも大変だと言います。だから、神様の計画が何か祈ることもありません。だから、その導きを受ければ、神様が働かれて、正確な導きを受けるようになります。
■三番目です。皆さんには力がなくて、私と皆さんには限界があります。私たちはいくらしないとしても、習慣もあります。また、私と皆さんは、これから深刻なことと思いながらも、霊的な問題を持っているのです。これをうち砕く方法が、聖霊充満を受けることです。これに勝つ方法が、聖霊の充満を受けることです。そうすれば、地の果てまで証人になります。ゼカリヤ4:6節に約束されました。権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。ヨエル2章28節にも、終わりの日に男女のしもべに水を注ぐように注ぐと言われました。ただ聖霊があなたがたの上に臨まれれば、力を受けて地の果てにまで証人になります。これが信仰生活です。これが新しい家族に伝えられなければなりません。皆さんには伝えられず、新しい家族に伝えられなければならないということでしょうか。暑くて、わかることもできないのでしょうか。ある人は寝ているので、わかることができません。これが皆さんに伝えられて、新しい家族に伝えられなければなりません。だから、必須です。これが私たちにある問題です。とても多いのですが、これが全部、他の人にあるのではなくて、私にある問題です。悟るだけでもみわざが起きます。しなくても、悟るだけでもみわざが起きます。神様が足りない私とともにおられることを信じるだけでも、聖霊が働かれるようになっています。聖霊が働かれれば、天の門が開かれるようになっています。そして、聖霊が働かれれば、皆さんも分かるように、暗やみの勢力は逃げるようになっています。そうすれば、今日、この席に座って、私たちは今、とても大きな答えを受けるのです。信じることを希望します。今日、皆さんがここに座って信じるのに、皆さんが明日行く現場に聖霊が働かれます。間違いありません。いくら話してもこれを信じないのです。聖霊が働かれれば、天の門が開いて、天の軍隊が動員されるのです。この頃の科学時代に何の話かと言いますが、とんでもない話です。そうしている間に、暗やみの勢力は、悪霊、ムダン(霊媒師)が全世界で起きています。それで、神様のみことばを捕まえて、少しだけ明日をながめれば、私たちは聖霊の導きを受けられるのです。今日を土田にして、少しだけ明日をながめれば聖霊の導きを受けます。そして、私たちには力がありません。それで、聖霊充満を求めて、少しだけ祈れば、神様は驚くべき答えの門を開かれます。
■話しを結びます。今からこのようにしましょう。皆さんが聖霊の働きを信じて、少しだけ祈りの深い段階に入ってみましょう。これを定刻祈りと言います。直ちに皆さんの肉体は癒されるみわざが起きます。今日から体験してみましょう。学生たちが少しだけ祈りの深い段階に入れば、変化が起きます。そして、二番目の祈りをしてみましょう。残りは深くしてはいけなくて、心安らかにしてください。皆さんが今日、ここに来たのですが、車に乗って行く時も祈りをしながら行きましょう。神様、この車が行く所ごとに世界征服する門が開かれるようにしてくださいと祈りましょう。行って食事をする時も、ご飯だけ食べるのではなく、霊的に健康を求めて祈りましょう。今日、どこかへ行くのに1千万の弟子の門が開くようにしてくださいと言いましょう。これをいつも連結させてしてみましょう。これが不思議なのです。これをしてみれば、現場の環境が変わり始めます。本当に不思議なことです。朝に顔を洗うだけではなく、たましいも聖めてくださいと言ってみましょう。毎日の顔に何を塗るかではなく、塗りながら、神様、私に1千万弟子がつくようにしてくださいと祈ってみましょう。深くする祈りをしてこそ癒され、そして、安らかな祈りをしなければなりません。人がおかしなことをする時も祈りをしましょう。人がいらいらする時も祈りましょう。単にいらいらすると、血圧が上がるのですが、祈りながらいらいらすると血圧が上がりません。単に、あいつがなぜあんな状態で、と言えば悪口です。ところで、そのまま祈りで、神様、あいつはなぜこうなのですか、こうすれば悪口ではなくて祈りです。あいつが、なぜあのようにと言うと悪口です。そのまま祈りで神様、あいつがなぜあのようですか、こうすれば祈りです。本当にしてみましょう。ある時は、海外に行って飛行機からおりるのに、神様、この地域を主が栄光を受けてくださいと祈れば、すばらしいことがきます。聖霊は確かに働かれるから、ひとまず皆さんの考え、固執に縛られていれば、何もだめだから、これをなくさなければなりません。井戸の中のカエルは出て来るべきなのに、いくら時速500kmで回っても出て来ることはできません。とても得意になって回れば、水の中で汗が出るだけです。
■皆さんはすでに途方もない祝福が来ているのです。ほろびることもできなくて、ほろびる資格もありません。だから、これを私が知って教えなければならないのです。そうすれば、今から聖霊があなたとともにおられることを信じましょう。信じる時ごとに、みわざが起きるのです。それで、あなたの信仰のとおりなるように。この話が普通の話ではありません。この時間に不信仰する席に座って、不信仰する人もいて、ここで信仰が生じる人もいます。この時間に目に見えなくすばらしいみわざが起きるのです。それで、聖霊の導き、聖霊充満を少しだけ受ければ、みわざが起きます。実際に、このようにしてみましょう。その次に、皆さんが病気になったり、大きい問題が生ずる時があります。問題が生じた。突然、わが家の子どもが変になった。夫が変になった。妻が変になった。こういう場合があります。このような時、どのようにするのでしょうか。突然、仕事をしているのに、会社の中におかしな奴が一つできた、そして見る時、突然、教会の中におかしな人ができた。どのようにするのでしょうか。このような時、それだけを持って一日中祈りだけしてみましょう。そうすれば、まちがいなく奇跡が起こります。その強い暗やみも崩れるようになっています。
■ところで、私の場合には、おもに問題がたくさんきて、祈っていたのですが、神様が片づけてくださいました。これが信徒が味わう祝福です。一度、このまましてみてください。ただ聖霊があなたがたの上に臨まれれば、あなたがたは力を受けて、地の果てまで証人になります。この奥義を持って神様と通じるのです。ものすごいことです。これが信徒が受けた祝福です。それで、私は私にあったことが、むしろこのようにいくつかのことに変わりました。前に問題が多くて、また問題がありました。これを置いて、今は祈って聖霊の導きを受ければ、全部、これがこのように来る日があります。土台になるのです。これまでならなければなりません。皆さんの家庭にある問題が、緊急に行動せずに、本当に祈っていれば土台になります。これが土台、祝福になるのです。皆さんが、この人、あの人に話だけ先にするのですが、それではなくて、本当に祈っていれば土台になります。そして、そんなに邪魔になった私の体質がどうなるのか、これを祈っていれば私の体質が完全に方法になります。だから、前は私の体質が良くない体質であったのに、これが恵みを受けて見ればこれが方法になるのです。それでは、皆さんの性質やこういうものが全部、用いられるようになります。それで性質がせっかち人は、はやく用いられて、ゆっくりの人はゆっくり受けて、汚い人は汚く受けて、みな用いられるのです。だから、これが全部、神様の祝福に変わります。さらには、皆さんが今、直せない霊的な問題があるでしょう。これは大きい土台、大きい門になります。特に皆さんが持っている霊的な問題は、祈りをし始めれば大きい答えになります。このように変わってこそ、信仰生活になるのです。ところで、全く出て行くこともできなくて、自分問題、霊的な問題、体質にみな陥るので、苦労をするのです。今日からこの祝福が皆さんにあって、新しい家族に伝えられることを、イエスの御名でお祈りします。神様の聖霊がこの席にいらっしゃいます。隣の人を祝福しましょう、神様の聖霊があなたと共におられます。明日から答えを確認するように、イエスの御名でお祈りします。祈ります。

<契約の祈り>
神様に感謝します。まさにこの時間に聖霊が働かれる時間になるようにして下さい。私たちの暗い考えを開いて下さい。私たちの傷になった部分を癒して下さい。長い間ある霊的な問題を解決して下さい。私たちの無知を解きほぐして下さい。病気になった部分を癒されるようにして下さい。肉体の病気は聖霊の火で癒して下さい。私たちが行く前に主の御使いを先に送って、神様のみわざが起きるようにして下さい。今週に神様の大きい答えを見るすべての信徒が、希望を得る祝福の週になるようにして下さい。新しい発見をする週になるようにして下さい。イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン