2010年1月24日 聖日礼拝  場所:インマヌエル教会 講義:柳光洙牧師


第1部:祭司の装束
(出エジプト記28:1-5)

要約資料
→序論
▲イスラエル民が出エジプトをして、ものすごい栄光を得たようだったが、そうではない。出エジプトして、直ちに祝福があふれると思ったが、そうではない。最も近く迫ってきたのが衣食住の問題だ。カナンの地に行くことは後ほどの事で、エジプトから出たことは過去の事で、今、最悪の境遇だ。数多くの人々が、良い服を着て、化粧も可愛くして、整形までして通うが、実際には最悪の境遇だ。衣食住問題は他人に言うことも大変だ。事実上、通常の問題ではない。なぜそうなのだろうか。基本的な問題だ。そして、いつどんなことが近づくかも知れない危機が荒野を行くのにずっとくるのだ。未来の心配はさらに多い。はたして、カナンの地に入れるかと話す人もいる。入れば私たちが生きることができるのか。私たちが入って勝てるのか。恨んで、対抗する人も出てきた。
▲かなり以前の聖書の話のように見られるが、私たちの話でもあって、世の中の話でもある。本当に神様の恵みでなければ私たちが生きることができない状況がとても多い。外に出て行ってみると、世の中はどんな危機が迫るか分からない。これが荒野の道だ。
▲ところで、この時、神様が重要な話をされた。話をされる前にくださったみことばがある。どんな問題、どんな危機でも答えがある。確かに神様が答えを与えたが、私たちが見つけられなかっただけだ。このような時に、神様が重要なみことばを与えられた。
1.すべての民はシナイ山(ホレブ山)に上がりなさい(出20章)
▲ここには大きい意味がある。
(1)今まで私が生きてきたことを振り返ってみて答えを見つけなさい。
▲皆さんがいくら難しいことがあっても、後ろを振り返ればすばらしい答えが出てくる。イスラエル民族がなぜエジプトに負けたのか。どのように、ヨセフが入って総理になったのか。400年間、生きる間にどのように福音をのがしてしまったのか。イスラエルの民はやむを得ず奴隷に変わってしまった。それを正確に分かろうとするのだ。それで、みことばを与えられた。そのように振り返れば、簡単に答えが出てくる。それで、シナイ山に登って、神様のみことばを握りなさい。出エジプトして出てきたといっても、まだ過去から、サタンの権威から出て来ていなかったのだ。だから、みことばを真っすぐ握りなさい。
(2)今、働く神様のみことばを堅く握りなさい。
▲過去に埋まっていなさいという言葉ではない。今、働く神様のみことばを握りなさい。エジプトから出る時、どのように出てきたのか。その神様の力を握りなさい。荒野に行く間に、どれほど多くの奇跡が起こったのか。それを握りなさい。
(3)これから働く神様のみことばを握りなさい。
▲アブラハムが信じる時、その信仰を義と認められた(創世記15:6)。信じる時に働きが、科学者が知らない聖霊の働きが起きる(ヘブル11:1-38)、信じる時、聖霊が働かれる(ヨハネ14:26-27)。
▲今でも過去、現在、未来を見てみことばを握れば確かに働きが起きる。
2.幕屋を作りなさい
▲なぜ幕屋を作れと言われるのか。
(1)幕屋の中に契約の箱を(十戒、マナ、アロンの芽が出たツエ)置きなさい。それは何の話なのか。幕屋を作って、行って力を得ろという言葉だ。みことばを真っ直ぐに見たら、それからは力を得なさい。
(2)幕屋中心に全部天幕を張りなさい。祈りの力を得なさい。
(3)そして、その上にともしびを絶えずともしていなければならない。幕屋で光を照らして、暗やみに負けてはならない。
3.服を変えて着なさい。
▲今、何の服を着ているのか。エジプトにいた時、何の服を着ていたのか。奴隷の服を着ていた。
(1)服-身分(ルカ15:11-32)
▲昔にはすべての人の身分により服を着た。身分が世界福音化する人々なのに、エジプトに行って奴隷になって、奴隷の服を着て暮らしていた。それから変えなさい。
▲ルカ15:11-32、家出をしていた放蕩息子が戻った時、お父さんが一番初めにした事は何か。入浴をさせて服から着替えさせた。身分を言う。ですから、霊的にすばらしい意味だ。服を着替えなさい。服を着替えなくてはだめだ。
(2)アロンには祭司の聖なる服を着なさい。
▲この服を着たということは、その聖なる意味を知りなさいということだ。2節を見れば神様の栄光を表わすためだ。その服を着た人の中にすべての祝福がある。その話だ。
(3)Iペテロ2:9節に、あなたがたは王である祭司...救われた皆さんが、すべてみな祭司だ。
4.結論-キリストで服を着なさい!(ローマ13:14、ガラテヤ3:27)
▲さらに重要な結論はローマ13:14、ガラテヤ3:27節に、キリストで服を着なさい!私たちがキリストで服を着てしまえば、暗やみはみな逃げるようになっている。光は現れるようになっている。今でもこの服を着なさい!服をどのように着るのか。
(1)エペソ6:10-20節に一番よく現れている。
▲救いのかぶと(感激)、義の胸当て(感謝)、腰の帯(今日のみことば)、福音の履き物(伝道)、大盾(信仰)、剣(みことば)
▲皆さんが信仰生活する間に確実なメッセージがなければならない。神様は今でも伝道の働き、みことばの成就、祈りに答えておられる。それならこの祝福の中に私がいなければならない。この祝福の中に私の考えがなければならない。その中に私の心がなければならない。そうしたら、世の中に向かって四つのことが見られる。私が行く所に私の人生を通してこの祝福が伝えられる。私の人生を通じて、みことば運動が起きる。私のタラントを通して専門性ができて、福音運動が起きる。私の事業、学業、仕事に祝福が来て、みことば運動が起きるようになる。
(2)ジョン・バンヤン-天路経歴
▲ジョン・バンヤンが監獄で16年刑を受けた時、ジョン・バンヤンは、そこで重要なこと、みことば、祈り、伝道、世界福音化、自分のタラント、自分の人生、経済までみな見つけ出した。それで書いた本が天路歴程だ。今まで地球上で聖書の次に最も多く売れた。神様の契約をはっきりと握ってしまえば明らかに始まる。
▲皆さんが今日、キリストで服を着なさい。そうすれば、目に見えない働きが今日から始まるだろう。祭司の服を着なさい。その中に全てのものがみな入っている。今日、皆さんが本当に答えを受け始めるそのような日になるだろう。皆さんに重要な証拠がくるだろう。
(The end)

録音資料
→序論
▲ある青年が山を登っていました。行く時、虎に会いました。虎に会った青年は殺されそうになりました。青年は戦うしかなかったのです。青年は力をつくして戦っても虎に勝てません。そのような中、どうしたのか、青年は力を使って虎の背中に乗ったのです。そして虎の首をつかみました。虎は青年を落とそうともがきました。青年を絶対に号泣しませんでした。なぜならば、背中から降りれば死ぬためです。青年はいのちをかけて握りました。すると、虎が疲れて、そのまま青年を背中に乗せて歩き始めました。行く時、あるあぜ道を通り過ぎました。農作業をしている人々が青年を見て話しました。あの人を見ろ、虎に乗って行く。立派な人だ。どのように虎に乗って行くのか。良く言われる言葉で、運が良い、私たちは馬にも乗れないのに、どのように虎に乗っているのか。他の人は知らずに話すが、青年は降りれば死にます。おかしな昔の話ですが、それは、単なる話ではありません。私たちがしばしば言う言葉で、「よく光る満州のあんず」という言葉があります。通訳することはできないでしょう。通訳はしなくても良いです。形だけ良いあんずという話です。食べることもできないあんずです。どう思いますか。そのような人は、あまりいないと思うのでしょうか。私は本当に多いと思います。こういう人が多いではなく、大部分がそうだと考えています。
▲出エジプトをして、ものすごい栄光を得たように見えるのにそうではありませんでした。出エジプトしたということは、すばらしいことではないでしょうか。このように出てきて、直ちに祝福があふれると思ったのに、そうではありませんでした。最も近く迫ってきたのが衣食住問題でした。ひとまず食べて生きるべきなのに、それが大変だったのです。それがどれくらい大変でしょうか。私が今、カナンの地に行くことは後の話で、エジプトから出たのもそれは昔の話なのに、今、死にそうになっているということです。数多くの人々が、乗用車に乗って通いながら、事業するように見えるのですが、お金に追われて、借金に追われて最悪の境遇です。数多くの人々が、良い服を着て化粧をきれいにして、整形して通うのですが、実際には最悪の境遇です。他人に話をすることもできません。衣食住問題があるためです。何か事故がおきたら、話でもするのですが、言うことも大変です。事実上、通常の問題ではありません。なぜならば、基本的な問題であるためです。大きいことをくれと言ったのでもなくて、ご飯を食べて生きようとするのに、それがだめだということです。イスラエル民族がものすごい神様の力に出てきたのですが、直ちに押しかけたのが衣食住問題でした。どう思うのでしょうか。これが多くの人々にある問題だと見ないのでしょうか。それならば、大丈夫です。いつ近づくとは思ってもいない危機が、荒野を行く道にずっと来るのです。それもみな基本的なことです。行く時、水もなくなって、行ってみれば寒くて暑くて。これが最悪の境遇です。また見ればある時は敵もきて、私達を殺すかもしれません。そのような程度ではありません。未来の心配はさらに多いのです。はたしてカナンの地に入れるのかと話す人々がいます。入れば、私たちが生きることができるのか。今入れば七つの部族、王が31人いるというのに、私たちがどのように勝てるのか。より大きい問題は、心が一つになっても不十分な時に恨んで分派をする人々がいます。それでコラ、ダタンのような人々は、仲間を作って対抗しました。信仰を持って力を合わせても成るか成らないかというのに、不信仰の話をとことん行って、力を合わせてけんかをしてもできるかできないかという状況の中で、分派を作って、ある人は帰ろうと、ある人はモーセを殺せと、あらゆる話がみな出てくるのです。
▲遠い以前の聖書の話のように見えるのですが、私たちの話でもあって、今日、世の中の話でもあります。ある方が、私に悩みを言いました。自分は教会に行くのに、とてもうれしくて良いが、心が痛いと言ったのです。なぜかと尋ねたら、RUTC献金もして建築もしなければならないのに、自分がとても難しいということでした。他の人が見る時は自分がよく暮らしていると思うのに、そうではないということです。夫の事業がどれくらい難しいのか、マイナスカードを使っていると言いました。それで、マイナスカードとは何かと尋ねたところ、お金を入れて使うのでなく、お金を借りて使うカードだと言いました。ですから、どれくらい緊急で難しければ、そのようにするでしょうか。このように、毎日、毎日、生きるのが、このように難しい。こういう人々が多いのです。その上に、ある人は健康問題まできます。その上に、子どもまで心配をかけます。本当に、私たちが神様の恵みでなければ生きられない、こういう状況の中にいる人がとても多いのです。
▲外に出てみれば、世の中はそんなに気楽でしょうか。どんな危機が迫ってくるのかわかりません。これが荒野の道です。ところで、この時、神様が重要な話をされました。話をされる前に、先に与えてくださった答えがあります。確かにどんな問題でも、どんな危機でも答えはあります。捜し出せないのが問題であって、確かにあります。確かに神様は私たちに答えを与えてくださいましたが、私たちが見つけていないだけです。ある医師は、このように話しました。地球上に神様がすべての病気を必ず直せる植物をくださったのですが、私たちが見つけていないだけだと言いました。確かに答えはあります。皆さんがいくら困難の中に置かれていても、必ず錠前があれば鍵があります。この鍵をなくしたのです。ですから、開けられないのです。鍵だけ見つかれば良いのに、これを見つけられずに難しいのです。いくら極限状況がきても、人生には答えが確かに神様にあります。
▲これを大部分が知らないから、ある人々はあきらめて、ある人々は罪を犯して、ある人々は自殺するのです。これが悪魔に完全にやられているのです。イスラエル民族の中で、ある人々は反論して戦おうとします。こういう人も多いのです。家庭に問題がくればけんかをします。会社に問題がくれば、どのようにすべきでしょうか。会社が力を合わせるべきなのに、争うのです。教会に問題がくれば、教会が力を合わせて祈るべきなのに、争います。これがほろびる道です。
▲ところで、このような時に神様が重要なみことばを与えられました。それを今日、私たちは必ず握らなければなりません。出エジプト記に出てきます。

1.すべての民はシナイ山(ホレブ山)に上がりなさい(出20章)
▲最初が何でしょうか。すべての民はシナイ山に登りなさい。そのようにおっしゃられました。みな上がりなさい。シナイ山がまさにホレブ山です。同じ山です。モーセが昔に恵みを受けた山です。そこに上がりなさい。そこに上がって行って待ちなさい。何を待つのでしょうか。みことばを待ちなさい。そして、この言葉を石の上に刻みなさい。それが荒野を行く中で最初の命令です。みことばを受けなさいということです。それが出20章です。ここには大きい意味があります。何のみことばなのでしょうか。
(1)今まで私が生きてきたのを振り返ってみて答えを見つけなさいということです。それで、みことばを与えられるのです。
▲皆さんがいくら困難の中であっても、後を正しく振り返れば、すばらしい答えが出てきます。私たちはどのようにするのでしょうか。私が何を誤ったのか。私が前は牧師の悪口を言ったので、そのために罰を受けるのか。私が長老の悪口をよくしたので、神様が罰を与えられるのか。十分の一献金をピンはねしたので、このようになったかと、いろいろなことをみな考えます。それが私たち人間です。ところで、神様がみことば与えられたのはそうではありません。みことばを握って振り返れということです。
▲私が知っている先輩なのですが、この方は事業だけすれば無条件にほろびます。ところで、その方はすれば、これからもまたほろびることもあるでしょう。私が分かることではそうです。私は牧師でしょう。自分は事業する人なのに、牧師に自分が訪ねてきて、やたらお願いすると言います。この方は、これから私が見てもだめなようです。かなり事業を大きくした人で、勉強もよくできました。しかし、この話をすることができなかったのです。先輩はだめです。先輩はこれからもほろびるという話をしてこそ真実なのに、それが言えません。うまくいくでしょう。頑張って下さい。こう言ってしまいます。こうすれば力が出るのでしょうか。この人は私たちのタラッパンでもないのですが、タラッパン団体が大きいから何があるのかと思って度々来るのです。タラッパン家族が30万人だと聞いたので、尋ねてきました。数えてみていないため、知らないと言いました。どんどん難しく、継続しています。その奥さん、家族、ずっと難しくなっています。私はその方に対して少ししか知りません。ところで、だめな理由は分かります。その方は幼い時から、とてもお金を多く使いました。100ウォンを儲ければ50ウォン、90ウォンまで使うべきで100ウォン儲けて110ウォン使ってはいけないではないでしょうか。その方が6年の時、私は3年でした。6年の時、財布にお金をたくさん持ち歩いていました。家がよく暮らしていたのです。それで食べたことが多いのです。付いて回れば買っていました。6年の時、革の財布を持ってお金を出しながら買ったのです。そして、後には小学校そのようにずっと育ったのですが、中学校に行って、その人について知らなくなりました。ところで、その方は信仰生活をしています。それで、どのようになったかというと、それがぴったり体質になったのです。遊んで、使って、食べて、飲むのが体質になりました。そして、人の前で格好つけてするのが体質になって、見たら年を取ったら問題がきたのです。そのお金がないのです。それでは、家族を生かさなければならないのに、この人の心の中には他の悩みができ始めたのです。ただイエスでなく、ただお金でした。そうしたら、そろそろ他人のことを借り始めたのです。ところで借りて返さなかったのです。返さないのでなく、返せなかったのです。そのように、その方がそろそろ詐欺を働いたのです。詐欺を働こうとするのでなく、お金だけできるとなれば、何でもくっつくのです。こういう方法でして、刑務所も行ってきて、この方がとても難しかったのです。その言葉を言うことができなかったのです。先輩は、とても秩序がありません。この話をしてあげなければならないのに、することができるでしょうか。息子ならば話しますが、先輩だから、それができなかったのです。イスラエル民族がなぜエジプトに負けたのでしょうか。イスラエル民族がどのようにヨセフが入って総理になったのでしょうか。400年間生きる間に、ある人は215年と言うのですが、生きる間に、どのように福音をのがしてしまったのでしょうか。イスラエル民族はやむを得ず奴隷に変わってしまいましたそれを正確に分からなければなりません。それでみことばをくださったのです。みことばをくださったということは、単なることではなくて、従えとくださったのです。そのように振り返れば、簡単な答えが出てきます。その先輩は事業をするのではなく、お酒から切らなければなりません。先輩はお酒から切らなければなりません。お酒をそのようにたくさん飲めば、どうしますか。この話をしてあげたいが、することができません。お酒も単に飲むのでなく、すごいのです。ところで、ひとまずカードが問題です。カードはひとまず切れば良いから。返すこともできません。それとともに、神様はいないと言います。神様がどれくらい笑われるでしょうか。その人はあたえられる祝福を自分がみな捨てたのです。本当に祝福を受けた家であったのに、自分がみな捨てました。そして毎日、遊びます。よく歩き回ります。私はその方が本を読むのを見たことはありません。
▲イスラエル民族がどのようにして奴隷になったのでしょうか。そこに対して答えを得るべきではないのでしょうか。それでシナイ山に登って、神様のみことばを握りなさい。出エジプトして出たといっても、それは出てきたのではありません。エジプトから出ただけで、出てきたのではありません。まだ過去から出てきていないということです。まだサタンの権威から出てこれずにいるということです。ですから、みことばを真っすぐ握れということです。なぜみことばを受けろとおっしゃったのでしょうか。
(2)今、働く神様のみことばを堅く握りなさい。
▲過去に埋められていなさいという言葉ではありません。今、働く神様のみことばを握りなさい。証拠がないでしょうか。エジプトから出る時、どのようにしたのでしょうか。これぐらいならば、良いのではないでしょうか。それを握りなさい。荒野を行く間に、どれほど多くの奇跡が起こったのでしょうか。それを握りなさ。
(3)さらに重要なことは、これから働く神様のみことばを信仰で握りなさい。
▲創世記15:6に、アブラハムが信じるので神様がその信仰を義と認められました。ヘブル11:1-38節に信じる時、人々が知らないみことばが働くと言われました。信じる時、科学者が知らない聖霊の働きが起きるのです。この信仰を正しく握った者、ヨシュア、カレブを見なさい。カナンの地まで入りました。
▲それでイスラエル民族は、シナイ山にみな上がってきて、みことばを受けなさい。それが、みことばを受ける方法です。皆さんが今でも、過去、現在、未来をぴったり見て、みことばつかめば、確かに働きは起きます。この体験をしなければならないのではないでしょうか。みことばが生きているんだな、この体験をすべきで、それをできないのに信仰生活すれば良いでしょうか。ですから、未信者を生かさなければならないのに、未信者よりできないから、私たちが助けられないのです。

2.幕屋を作りなさい
▲神様が二番目にくださったのです。シナイ山から降りてからなさったみことばがあります。それが何でしょうか。幕屋を作りなさい。それが二番目の命令です。聖書をよく見ながら、今日、どんな答えなのか関連しなければなりません。なぜ幕屋を作れと言われるのでしょうか。
(1)幕屋の中に契約の箱を置きなさい。
▲それは何の話なのでしょうか。契約の箱の中には何があるのでしょうか。モーセが受けたみことばが入っていました。荒野を行く時、飢え死にそうになった時、マナを与えられたのですが、それを入れた壷があります。アロンが実際に杖を地にさしたが、それから芽が出ました。それが入っています。これは、話ではなくて歴史的証拠です。何の話なのでしょうか。幕屋を作って行って力を得なさい。その話です。みことばを真っ直ぐに見たら、今は力を得なさい。
(2)幕屋中心に全部、天幕を張りなさい。何の話なのでしょうか。祈りの力を得なさい。
(3)そして、そこにともしびを絶えずともしていなければなりません。幕屋で光を照らして、やみに負けてはならない。すばらしいメッセージです。私が見る時は、神様はこのように完ぺきな答えを与えられたのです。

3.服を着替えなさい。
▲三番目にくださった命令があります。服を着替えなさい。今まで何の服を着ていたのでしょうか。エジプトにいた時、何の服を着ていたのでしょうか。奴隷の服を着ていました。それ着ていてよいでしょうか。皆さんは今は、この服あの服を思いのままに着ていますが、その時はそうではありませんでした。軍人が思いのままに服を着るでしょうか。軍人が将軍になれば自分お思いのままにいろいろなことをつけて現れれば良いでしょうか。ところで、昔にはすべての人が身分によって服を着たのです。この身分が世界福音化しなければならない人々なのに、エジプトに行って信仰がみな落ちて奴隷になって、奴隷の服を着て暮らしていたのです。それから変えなさい。なぜならば、今は行かなければならないから。
(1)ルカ15:11-32に何のみことばがあるのでしょうか。家を出た放蕩息子が悔い改めて戻ってきます。その時、父が一番最初にしたことは、入浴をさせて服から着替えさせました。ですから服は身分を言います。その当時の服は、今と違って完全に身分です。この頃、TV放送を見たら、チュノラという番組を見ました。多分、チュノラという意味は逃げた奴隷をつかむという意味のようです。その史劇だけ見ても、昔のものでもないのですが、これよりはるかに後の事なのに、服がすでに違います。同じ人が現れても服がみな違うのです。これが身分です。ですから服を着替えろという言葉は、霊的にとても大きい意味を持っています。皆さんが服を着替えなくてはだめです。王子と乞食という本があるのではないでしょうか。王子は外で遊びたくなりました。王宮が嫌いです。あの外を見たら乞食が1人いました。乞食の願いは王宮に入ることです。それで、服を着替えたのです。服を着替えて、王子は乞食の服を着て行きました。乞食は王子お服を着て入ってきました。ここで問題が発生したのです。乞食の服を着て行くから、だれが王子なのか分かるでしょうか。人々がとても殴りました。王子はこいつら無礼だと言うから、人々はまた殴ったのです。私が王子だと言うから、人々がまた殴りました。それで、また戻る内容です。子どもたちに言うことですが、それが意味が多いのです。
(2)ここでアロンは祭司でしょう。聖なる服を着せなさい。
▲その言葉は、何の話なのか分かるでしょうか。今でも、ある牧師はガウンを着て説明される方が多いでしょう。なぜ着るのでしょうか。理由があります。ガウンを着る人は二人しかいません。牧師がガウンを着て判事がガウンを着ます。検事は着ません。なぜ着るのでしょうか。判事がガウンを着る理由は何でしょうか。私の個人感情で裁判しないということです。神聖な法によって、そのままするということです。今回、論議されたのも、個人意見が入ったということです。違うということです。何かの思想が入ってもだめです。政治が入ってもだめなのです。その意味でガウンを着るのです。私がすることではない、その話です。それで、牧師がガウンを着るのは、私を伝えるのではない。私の人格を言うのではない。私が神様のみことばの代わりをしてお手伝いをする。それで着るのです。それでは、私はなぜ着ないのでしょうか。着てもかまわないし、着なくてもかまいません。着るのは旧約時代を尊重することで、着ないのは新約時代で終わったことを尊重するのです。それでは、着てはいけないのでしょうか。着るのが良いのです。着るのが、ある面では意味がより大きいのです。それで、献金委員が着ているでしょう。聖歌隊が着ているでしょう。聖歌隊は歌手でなく、神様を賛美する人ということです。皆さんは税金でなく、献金をおさめる人々です。それで着るのです。それでは、私も着なければならないのでしょうか。着てもかまわなくて、着ないでもかまわないのです。なぜならば、旧約時代はみな終わってしまったからです。だれかが私に必ず着なければならないと、文句を言うならば、話す言葉はあります。それでは朝の祈りも着なければなりません。それでは、水曜礼拝の時も着なければなりません。それでは、訪問に行っても着なければなりません。それでは常に着てしなければなりません。それでは僧侶になります。神父らは常に着て通います。そのような面では正しいのですが、違ったりもします。この服を着たということは、その聖なる意味を分からなければなりません。
▲2節を見れば神様の栄光を表わすためです。今日ここに、糸、宝石、金縁、ずらっとみな出てきました。これは何の話なのでしょうか。今日、着るその服の中にすべての祝福がある。その話です。
(3)Iペテロ2:9に何と出ているのでしょうか。あなたがたは王である祭司、救われた皆さんがみんな祭司です。イエス様が十字架で勝利された日、至聖所の幕が裂けてしまいました。それで、着てもかまわなくて、着ないでもかまわないのです。もし、みなさんが通えばどうなのでしょうか。それも聖書的です。皆さんも祭司です。王である祭司。皆さんが王の服を着て通っても不法ではありません。だれかが見れば狂ったというでしょうが、王の服を着て通っても皆さんは王のような存在です。それが正しいのです。ところで、内容を握れということです。今日、服を合わせて着ろという言葉ではありません。内容の服を合わせて着ろということです。皆さんが本当にみことばを握るということを理解しなければなりません。幕屋を作るということを理解しなければならないのです。そして、服を変えるという言葉を理解すべきです。これはとても重要な言葉です。

4.結論-キリストで服を着なさい(ローマ13:14、ガラテヤ3:27)
▲さらに重要な結論です。ローマ13:14、ガラテヤ3:27を見ればキリストで服を着ろと出ています。これはとても重要な言葉です。警察が警察の服を着て現れれば泥棒はみな逃げます。軍隊の隊長が軍服を着て現れれば、すべての兵士は気をつけます。私たちがキリストで服を着れば、暗やみはみな逃げます。これを契約で握らなければなりません。皆さんがキリストで服を着れば、全部、光は現れるようになっています。今でもこの服を着なさい。服をどのように着るのでしょうか。
(1)エペソ6:10-20を見ると、一番よく現れています。軍服で説明したのが、私たちと違いが生じますが、説明がよくされています。パウロが軍服で説明しています。
▲救いのかぶとをかぶりなさい。かぶとをかぶらなければどうなるのでしょうか。相手が刃物でくれば、死なないでしょうか。そのかぶとをかぶりなさい。刃物が突き抜けて入ってくることができないのはかぶとだけです。皆さん救いという感激のかぶとをかぶりなさい。胸には義の胸当てを付けなさい。胸あては防ぐことではないのでしょうか。どんな槍も入ってくることができません。それが義の胸あてです。皆さんの胸の中にいつも毎日、救いに対する感謝が感じられれば、これが義の胸あてです。そして腰の帯を結びなさい。これはまた別の話です。腰の帯をなぜ結ぶのでしょうか。今日のみことばを握って腰の帯を結びなさい。ですから、今日の私にあたえられる確実なみことばの腰の帯を結びなさい。確信がなければなりません。神様のみことばの腰の帯を結びなさい。私たちが中学校に通っていた時、先生が授業時間にはやく入ってきませんでした。それで子どもたちがクイズ大会をするのに、ある子が出てきてクイズを出したのです。私は聞いていました。ナポレオンがアルプス山を越える時、真っ赤な腰のベルトを結んだと言いました。なぜ真っ赤な腰のベルトを結んだのか。いくら考えても、私は考えが思いつきませんでした。だれも返事ができなかったのです。なぜ真っ赤な腰のベルトを結んだのか。言わばナンセンスクイズでした。この子が返事をおもしろくしました。ナポレオンが真っ赤な腰のベルトを結ばなければ、ズボンが降りてくるからだと言いました。ナンセンスクイズなのに、これはおかしな話ですが、静かに聞いてみれば意味ある話です。皆さんが昔に韓国民族衣装を着て、結ばなければどうなるでしょうか。これがみことば、真理の腰の帯を結びなさい。履物を履きなさい。福音の履物を履きなさい。私が今日どこに伝道できるでしょうか。それが履き物です。履き物を脱いで通えるでしょうか。車に乗って行けばやさしいこともあるのですが、脱いでは通えません。そして、大盾を持ちなさい。その大盾とは何でしょうか。信仰の大盾です。そして剣を握りなさい。攻撃するみことばの剣を握って行きなさい。こういう確実なメッセージを神様がパウロを通して下さったのです。このように服をぴったり着ます。
▲皆さんが信仰生活する中で、いくら難しくても確実な契約がなければなりません。今週のメッセージは重要なメッセージがたくさん出ました。神様は今でも伝道の働きをしておられます。今でもみことばを成就しておられます。今でも祈りに答えておられます。それでは、この祝福の中に私がいなければならないのです。祝福の中に私の考えがなければなりません。私がたとえ年をとって力がなくて、行けないといっても、その中に私の心がなければなりません。それが今週のメッセージです。それから世の中に向かった4つのことが見られます。私が行く所に私の人生を通してこの祝福が伝えられます。私の人生を通じてみことば運動が起きます。私のタラントを通して専門性が起きて、福音運動が起きます。この時から私の事業、学業、経済の祝福が現れて、みことばが伝えられるようになります。確実なものとして握りましょう。
(2)皆さんがおわかりの通り、ジョン・バンヤンは、とても困難にあいました。濡れ衣を着せられて、福音を伝えるのに監獄に行くようになったのです。私たちならば、はやく出てこようとするはずなのに、ジョン・バンヤンは、監獄16年刑を受けました。もし年をとっているならば監獄生活して死ぬこともあるでしょう。この時、ジョン・バンヤンは重要なのを発見したのです。そこでみことば、福音、祈りをみな発見しました。監獄の中にいながら、世界福音化をみな見つけ出したのでした。自分のタラント、自分の人生、全てのものをみな捜し出しました。そこで経済まで捜し出したのです。この7つをみな捜し出しました。一週間の間のメッセージ中に訓練に何も参加しない人は、核心も聞かなければ、これが何の話かわからないでしょう。私たちの団体がレムナントとみことば運動しているから、一度に一個は聞かなければなりません。大韓民国国民が大韓民国ニュース聞かなければ困難な人になります。それでジョン・バンヤンは、それを握って監獄生活を送ったのですが、みわざが起きました。それが天路歴程です。今まで地球上で一番たくさん売れた本です。タラント、経済、すべて回復できました。重要なこと握っていれば、枠を作るのではありません。神様の契約をはっきりと握っていれば確かに始まります。
▲この内容が、クリスチャンが天の都に向かって行くのです。それで天路歴程と言います。天国に行く経歴という話です。ところで、この地を見て滅びの城と言いました。滅びの城とは、将来にほろびる町です。そのように行くのです。天の都に向かって行くのです。簡単な話です。この人が監獄にいながら、人生全体を見て、私たちの人生が結局は滅びの城を離れて、天の都に向かって行くものです。行く間に重要なことがあるという話です。真理を持って行かなければなりません。偽りではなく、本物を持っていなければなりません。それで市場に入りました。真理を買おうとして行ったのです。その市場の名前が虚栄の市です。華麗で、内容がない空の都市です。真理の商品を買おうとしても、いくら歩き回ってもありません。ありえないのです。ところで、友人二人と一緒に行きました。1人は絶対に付いて行かないと言いました。その友人の名前が固執です。1人は付いてきました。虚栄の市を歩き回るのに、とても良いと言いました。ショッピングしてみたらとても良いと言ったのです。ここは天国で、真理があると言いました。そこで居座ってしまったのです。その友人の名前が軟弱です。それで、しかたなく一人で行きました。真理の商品を買うことができないためです。ところで真理の商品を買う所を知りました。ジョン・バンヤンは、本当に本をよく書きました。真理の商品を買わなければならないのに、買う所がないのに知ったのです。それで行ったのです。そして町を発見しました。その町には真理を売っていると言われました。真理を見つけなければならないといって、入ろうとしたら、いくら入ろうとしても入れなかったのです。ですから、門番が見ていて、それでは入ってこれないと言いました。門番はあなたは、今、知らずにいるものが背中にあるので、背中にある荷物を脱ぎなさい。その荷物が門より大きくて入れないと言いました。それで後を見たら、後にを大きな憂いの荷物を背負っているのに、あまり大きかったのです。脱いで入って、ある方に会いました。輝ける者という人に会ったのです。暁の人、輝ける者に会いました。その方が贈り物を二つくれました。これが真理です。一つは服でした。この服が重要です。それで、服を着替えなければならないのです。その服を持っては勝てないのでした。そして服を着たのですが、輝ける者がこういう話をしました。この服は絶対に恐れてはなりません。どんな槍も、どんな刃物も入って来ないと言いました。そして着たのですが、不思議に前かけのように、背中にはなかったのです。服になぜ背中の部分がないのでしょうか。ひとまず着て行ってみなさい。また、それだけではだめです。小さい刃物を一つ与えました。真理の刃物です。この刃物に勝つ者はいません。この刃物は何でも突き抜けます。この刃物は何でも切り分ける。いのちの刃物です。そのようにして行ったのです。行くのに悪魔に会いました。背丈は何倍もあり、翼もありました。町を守っていて、私の許しなしでは行くことができないと言いました。道を防いだのです。その時、輝ける者がした話を思い出したのです。この小さい刃物を持って戦ったのですが、とても大変でした。飛びながら刺すのに最悪の境遇でした。戦術の中に最も優れた戦術が、だめなときは逃げることです。背を向ける瞬間、思い出しました。背中がない。背を向ければ死にました。良い。最後まですべきだ。最後までするのに、悪魔が胸を刺すのに死ななかったのです。これを悪魔が知らなかったのです。いくら刺しても死ななかったのです。この悪魔が飛びながら刺すのにも、死にませんでした。悪魔がなぜ死なないと思いました。突かれれば死ぬべきなのに死ななかったのです。簡単に話せば、悪魔が試みにあいました。その時でした。この刃物を持って悪魔を刺したのです。その小さい刃物が、ものすごい鎧を着た悪魔の胸を突き抜けて入りました。そのように勝つ内容です。ですから、聖書の次にたくさん売れた本です。私は幼い時、読んだので、正確な内容は知りません。
▲皆さんが今日、キリストで服を着なさい。それでは目に見えないみわざが今日から始まるでしょう。祭司の服を着なさい。その中に全てのものが入っています。今日、皆さんが本当に答えを受けることを始めるそのような日になるでしょう。皆さんに重要な証拠がくるでしょう。祈ります。
(祈り)
神様に感謝します。重要な日になるようにしてください。新しい恵みの日になるようにしてください。奇跡の日になるようにしてください。それよりさらに重要な恵みを受ける日になるようにしてください。世の中にだまされないように、世の中を生かすようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
(The end)



第2部:いのちまでかけた同労者
(ローマ16:3-4)


要約資料
→序論
▲私たちのレムナントは正しく努力したら、神様の子どもだから、必ず勝利することができる。恐れてはならない。聖書と教会史を詳しく見れば、とても重要なことにいのちをかける人に働きが起きて、時代的な答えを与えられた(モーセ、ダニエル、シャデラク/メシャク/アベデ・ネゴ)。勇気を持って生きれば良い。神様の計画ならば死んでも大丈夫だという勇気を持たなければならない。私たちのレムナントが本当に素晴らしくエリートに育つことを願う。幼い時から経済も正しく習わなければならない。
▲私は30年間伝道しながら、ローマ16:3-4節に対する答が出てこなかった。今回、私が答えを得た。生きている人なのに、私と伝道者のためにいのちをかけたと言われている。どのようにしたので、そう言われたのだろうか。
1.プリスカ夫婦の生活全体を見た
(1)AD52年頃、使徒18:1-4節を見れば、ローマから追放された。この夫婦がきてパウロに会った。それで、そこで天幕を作った。このようにして、全てのものを宣教費にみな出した。
(2)Iコリント16:19、行き来するすべての人々に、自分の家を提供して伝道するように助けた。この時は、入ったり、出たりしていたら、殺される。ところで、それを恐れないでこれを通して、一人ずつ一人ずつ伝道者にした。これが、いのちをかけることだ。
(3)Uテモテ4:19、法が解けた後に、またローマに入ってまた使命者がいるエペソに行った。自分に良い道がいくらでもあるのに福音のために行かないのだ。
(4)ローマ市アベンティン地域に埋められている。それは、結局、ローマ福音化をしに行ったということだ。
▲いのちをかけてできないことはない。レムナントは勉強するのが神様のみこころであるから、道が見える時までいのちをかけてしなさい。
2.すべての教役者、異邦人のすべての教会を助けた
▲人は、お金をどのように使っているかがその人だ。このように、こういう者のために私の金を使うのだということを悟ったのだ。神様のみこころを悟って正しくして、正しく答えを受けなければならない。
(1)私だけでなく、他にもすべての異邦人
(2)すべての教会、教会ということは、多くの教役者、彼らが感謝しているということは-
(3)レムナントと弟子を助けたということだ。
3.死んだ殉教より生きた殉教がさらに重要だ
▲生きた殉教とは何か。この人らがすることをしなくて、自分が持った貴重なのを持って世界福音化に仕えた。
(1)福音が何かを分かった。福音が重要だということを分かったことは、私に本当に重要なことが何かを分かったのだ。
(2)伝道が何かを本当に分かった(他の人)
(3)宣教が何かを本当に分かった(急速に広がる文化だ)
▲これを分かったら、どうして、いのちをかけずにいられるだろうか
4.結論
▲ICC注釈を見れば、細かく当時の最高の財閥で立った人物がプリスカ、アクラ夫婦だと記録してある(使徒2:9-10、ローマから来た旅人...)
▲今からこれをしなさい。神様は必ず全てのものを持っておられる。それとともに、今でも3つのことをしておられる。
(1)救い→ (2)みことば成就→ (3)祈りの答え、これの中に深く入りなさい。無理にでも入りなさい。驚くことが行われる。この時から-
(4)私の人生が全部ストーリーになって、福音の門が開かれる。
(5)世の中に神様のみことば運動が行われる。
(6)私のタラントが専門性を持ちながら、文化を征服するようになる。
(7)この時から本当に未信者ではなく、本当の経済が私にくる。
▲これを原理で握りなさい。皆さんが今日この話をわかって、しっかりと握りなさい。全国、世界のレムナントが本当に答えを受けるようにイエスの御名で祈ります。レムナントは世界征服する力を神様がくださるだろう。
(The end)

〓録音資料〓
→序論
▲1部の賛美は神様にささげることで、2部は私たちが味わう中心ですれば良いでしょう。1部の指揮者、水曜礼拝指揮者が聖歌隊と参加するから、美しくて良いです。モンゴメリーはこういう話をしました。一番美しい服は謙そんの服だ。また多くの方たちと私たちのレムナントが参加して午後には賛美を味わう時刻表になったら良いでしょう。
▲今日のタイトルが、いのちまでかけた同労者としました。いのちまでかけた同労者ならば、すべて持ったのです。特にレムナントに話します。また献身する多くの方に話します。またすべての海外にいるレムナントに話します。恐れてはなりません。死も恐れてはなりません。皆さんが神様の子どもだから努力すれば勝利するようになっています。時々、本を読む時に見れば、お金をたくさんもうけた人々の本を読んでみると、このようにしてお金を儲けたとういことを学べます。韓国人の中でお金をたくさん儲けた人々の本をほとんどみな読みました。チョン・ジュヨン氏、キム・ウジュン氏、李明博(イ・ミョンバク)氏の本をみな読んでみたのです。もちろん、作家が書いたのでしょう。外国人が書いたのも読んでみました。何か違うものを感じました。韓国の人々が書いたのを見れば、何か上がってくるようです。何というか、ひと勝負すべきだという気がします。少し浮き立ちそうな感じがするのです。そのような形で、ずっと出て行けば、私が詐欺師もよいと思ったそのような考え、感じがします。ところで、外国人が書いた本を見れば、ちょっと物静かになります。それとともに、申し訳ない気がします。どれが正しいかというのは、人ごとに違うこともありますが、私がレムナントに言ってあげたいのは後者です。その中で読んだ中で、金持ち父さん、貧乏父さんという本です。私はそれを読みながら恥ずかしいと思いました。私は時間がなくて私の子どもたちに教育できなかったと感じました。自分の息子に1ドルがどれくらい重要なことかを教育させます。それが正しいのです。それでその父と息子が世界を動かすほどの経済人になりました。それが正しいのです。それで本当に恥ずかしいと思いました。私たちのレムナントが正しく努力したら、神様の子どもだから、必ず勝利することができるでしょう。そして恐れてはなりません。死がきても恐れてはなりません。なぜでしょうか。聖書を詳しく見れば、いのちをかけた人にみわざが起きました。そうです。怖がって生きようとする時は、みわざが起きなかったのですが、モーセが、わかった、私がこの年だが命をかけて行くと言った時、みわざが起きました。これから私たちのレムナントは、そのように育たなければなりません。来ることを持って生きてはいけません。神様の計画を成し遂げる正しいことならば、死んでも大丈夫だという勇気があるべきで、来ることを持ってしてはいけないのです。私たちのレムナントと全世界にあるレムナントが、本当に素晴らしくエリートとして育つように願います。幼い時から経済も正しく習わなければなりません。お小遣を使う時も、必ず使わなければならないのか、祈らなければなりません。そして、お小遣をみな使ってしまわずに、集めなければなりません。必要ならば、宣教師を助けて教会に献金もしなければなりません。そして、さらに重要なのは、一生生きていかなければならない部分を見て今から貯蓄を始めなければなりません。それでいくら集まるかとしても、それは関係ないことです。また時刻表になれば経済にも挑戦するのです。そのように育てば、必ず道が出てきます。その時、恐れずに挑戦するという言葉、命をかけるという言葉は、命を失うのを恐れるなということです。とても重要です。
▲今でも心痛いことが一つあります。私は人を難しくさせれば、心が苦しいのです。今まで教会の働きをする中で、重要な弟子なのに仕事をさせなかった人々が何人かいます。そのような人々に申し訳なくて、心が痛いのです。そのような人々は、どんな人々でしょうか。ずっと経済の事故を起こした人々です。そのようにして、未信者に、他人にずっと被害を与えれば、その人には仕事をさせられません。その一方で心が痛いのです。なぜでしょうか。神様はそれもすることができるのに、私の状態がそのようにさせて待てる状態にならないので申し訳ないのです。明らかなのは、レムナントの時、誤って育ったのでした。それでそうなのです。
▲だから、レムナントは今日から、ここにみなレムナント座ったが貯蓄通帳を作りましょう。お金があってこそ作れます。10円で貯蓄しても通帳をくれます。それで今から四つの献金を置いて全世界、未来を見通しながら祈り始めて、本当に始めなければなりません。そして、危機がきても神様の計画が確実で正しいことならば、恐れる必要はありません。ダニエルを見てください。死ぬことが当然です。調書に印が押されたことを分かっても祈りました。それでも一日に三回ずつ窓を開けて祈ったのです。それで奇跡が起こったのでなく、それ自体が正しいのです。シャデラク・メシャク、アベデ・ネゴが火の中で入れば死ぬのを分かりながらも、偶像の前にお辞儀をしませんでした。だから聖書を、教会史を詳しく見ましょう。とても重要なことに命をかけた人に、神様は時代的な答えを与えられました。ある人は実際に死んだ人もいます。しかし、死んだ後にさらに働きが起きました。
▲パン・ジョンファン先生はこういう話をしました。死者の中で生きている者がいて、生きている者の中で死者がいる。すごい言葉です。今、生きているのに死んでいる者がいて、死んだのに生きている人がいるのです。アン・チャンホ先生はこういう話をしました。とても若い子どもたちの中に老人がいて、老いた人の中に青年がいる。レムナントならばとても若くて、このような時なのに、その中にも老人がいます。高齢な老いた人の中にも若い人がいます。それを老いたと言わず、熟したと言います。若い子どもたちの中で老人がいます。毎日遊ぶところがないかと遊びまわって、毎日お小遣を使って回って、それは老いるからでなければなりません。老いて90歳になって、遊ぶところはないか。私がどれくらい生きるでしょう。老いて死ぬ時になれば、もうすぐ死ぬから、おいしいものがないかを探せば老いたのです。
▲私は30年間、伝道をしたのですが、ここに対する答えが出てきませんでした。今回、私が答えを得ました。伝道を30年したが答えを得られませんでした。生きている人なのに、私と伝道者のためにいのちをかけたと言われています。死ななかったのに、いのちをかけたと言われているのです。どうするからなのでしょうか。私がそこに対していつも考えていたが悟れませんでした。何か立派なことをしたようだけれど、何か分からなかったのです。いのちをかけたと言われました。

1.プリスカ夫婦の人生全体を見ました
▲プリスカ夫婦の人生全体を見ました。
(1)AD52年ごろ使徒18:1-4を見るならば、ローマから追放されました。今で話せば難民になったのです。この夫婦がきてだれに会ったかとすれば、パウロに会いました。そして、そこで天幕を作ったのです。このようにして、全てのものを持って、やっとご飯を食べるほどなのに宣教費にみな出しました。簡単なことでしょうか。簡単なことではないと思います。可能なら、食べないで節約して、それを全部伝道することに使いました。それが可能なことなのでしょうか。これが簡単なことではありません。可能なかぎり少なく食べて、可能なかぎり節約して、教会に献金して。私はこの聖書でプリスカ夫婦を見ながら感じました。先週にも話したのですが、私の母が本当に節約して使いながら献金するのを見ました。昔にはそれを知らずに、母に悪口を言いました。儲けるのは本当にいくらにもならないのに、それを節約して使ったのです。前に話したのですが、市場に行けば、捨てる直前で傷ついていないもの、安いから、それを買って、私たちを食べさせました。いつでも。それを食べさせてお金を集めたのです。ところで、食あたりが一度もなかったことを見れば、私の母がよく選んだということになります。捨てる直前、安いこと、傷がないものを捜し出そうとするなら、ものすごく専門性があって霊的な目がなければなりません。それでお金を集めたのです。十分の一献金を一度抜けずに。私はそれを知らなくて悪口を言いました。お小遣もくれないと。それを集めて教会建築献金を出しました。お金がある人も出さないのに。私はそれが命をかけたのだと見ます。神様のみわざがどれくらい正確なのか、千人、万人が私達を知っている人はみんな知っています。神様が単に祝福された程度でなく、何百倍、何千万倍に祝福されました。私はそれを見たのです。
(2)Iコリント16:19を見ると、行き来するすべての人々に自分の家を提供して食べるように、伝道するように助けたのです。今、そのようにしようとしても大変なのですが、その時は出入りすれば殺されます。今、皆さんの家に昼夜なしに人々が出入りしてもどれくらい面倒でしょうか。ところで、この時は入って出て行ったというなら殺されました。ところで、それを恐れませんでした。このようにして、一人ずつ、一人ずつ伝道者にしたのです。これが命をかけたことです。命をかけるといえば、必ず死ぬべきでしょうか。
(3)ところでUテモテ4:19を見るならば、どんな記録があるでしょうか。法が解けた後にまたローマに帰りました。ところで、ローマに住まないでエペソに行きました。じっくり考えてみてください。その当時、ローマに暮らすということはものすごいことです。当然、ローマに住むべきなのに、みな切ってまた使命者がいるエペソ地域にきたのです。私が見る時、信仰人でした。一般信徒は大丈夫ですが、多くの教役者、宣教師が見れば、全部、結局、自分の有益な方に従うのを見ながら、そうだなと思いました。この人たちは、本当に自分の有益のとおりしようとするならローマに行かなければなりません。タラッパンで子どもたち教えると献身する人々を見てください。日本人が話しました。アキコの日本語は日本人と全く同じだと言いました。この人が今、外に出て行けばお金を儲けるでしょう。ところで、お金をもうける覚悟せずに、ここで仕事をするのです。だから良いところに嫁に行きました。こうしたことが命をかけたことです。他のことがあるのでしょうか。自分に良い道がいくらでもあるのに、わざわざ福音に傷なるかと思ってしないのです。それが信仰生活を上手にすることです。
(4)ローマ市のアベンティンという地域に埋められているということです。それは、結局、ローマ福音化しに行ったということです。時刻表になった時。この程度なら本当にいのちをかけたのです。私はこれを見ながら、いのちをかけたということが本当に分かりました。
▲かん養指導者学校行ってみたことがありますか。初めにはそこがちょっと良くありませんでした。ところで、今はそこにきてエリートが信仰生活を良くして、勉強しながら世界へ動いています。本来は学校をしようとしたのではありません。家を出てきて教会で寝ている学生三十人を連れて勉強をさせたのです。皆さんならば、皆さんの仕事をやめて、そこに入って学生たちと数年いるでしょうか。そこにいる先生が、みなそのような人々です。月給を少しもらえます。その人たちは、そんなことに全く神経を使いません。子どもたちを置いて正しく育てなければならないと言います。ユン・ジェスク伝道師をはじめとして、先生たちみんながそうです。キム・ウイソンは、そこに行って完全に町の人になりました。町内で町長に出馬しろと言われたそうです。それで町長に出馬する可能性があります。どれくらいこの人たちが模範になったでしょうか。初めには、町内で学校入ってくること反対しました。今は、その町内の人々が互いに手助けしようとしてくれます。子どもたちが行事をするのに、来てくださいと言えば、全部みなきます。また学生がナンタを打ったのですが、町内のおばさんたちが見て、ナンタを習って軍大会に出て行って1等になりました。全国大会出て行くと大騒ぎをしています。これだから、その町内で学校の事ならば何でもみな手助けしようとするのです。そこの学生たちも良いのですが、その先生たちの犠牲がなかったとすれば、そのようにはならなかったでしょう。
▲学生たちが幼い時から英語、福音、エリート教育を始めるべきだと、RGS(Remnant Global School,レムナントグローバルスクール)を始めました。そこにいる先生1人1人を詳しく見てください。本当に人材です。ところで、自分の利益を考えずにそこで献身しています。特にソラ夫婦の場合は、弁護士の勉強をするとアメリカに行こうとみな決めていました。ところで、私が子どもたちを育てるのがさらに重要だと言ったところ、そこで献身しています。
▲ここにペルーの人々が来ています。本当に難しいのです。商いながら、韓国で50万ウォン(5万円程度)儲けます。ちょっとたくさん儲ければ70万ウォン儲けるということです。それを儲けて、自分の家の家族に送らなければなりません。そのような中でも献金してRUTC献金する人もいます。献金をしたので話すのではなく、その人々の中心を見てください。私たちはそれより状態がはるかに良くても、考えもしません。それで、私はプリスカ夫婦がいのちをかけたということが分かります。いのちをかければ、恐れることがないのです。レムナントも勉強することが神様のみこころであるから、道が見える時までいのちをかけて勉強しなさい。

2.すべての教役者、異邦人のすべての教会を助けました。
▲今日の本文を見ると、すべての教役者、異邦人のすべての教会を助けたと出てきます。簡単なことではありません。物質だけ与えたためではありません。レムナントは必ず記憶しなければなりません。お金をどのように使っているかが、その人の姿です。このように、こういう者たちのために本当にお金を使うのが全部というものをこの夫婦が悟ったのです。信仰生活を無理にして、答えも受けられないことが何かあるのでしょうか。本当に神様のみこころを悟って正しくして、答えを正しく受けなければなりません。物質があるからするのではありません。何と記録されているのでしょうか。
(1)私の他にもすべての異邦人
(2)そして、すべての教会。教会ということは、多くの教役者を言うのでしょう。
(3)その人々が感謝しているということは、多くのレムナントと弟子を助けたということです。
▲これは、そんなに簡単なことではありません。いのちをかけたのです。

3.死んだ殉教より生きた殉教がさらに重要です。
▲ところで、私がここですばらしいことを一つ発見しました。それが三番目です。死んだ殉教より、生きた殉教が重要です。ある面では死ぬのがさらにやさしいのです。ある面では私がいのちをかけるということは、やさしいのです。しかし、実際に死ななかったが殉教したように生きるということはすばらしいのです。どのことが難しいのでしょうか。私はこのことのために命をかける。やさしいのか難しいのでしょうか。私は世界福音化のためにいのちをかける。やさしいのです。言葉だけ言えば良いから。言葉だけ言えば良いでしょう。私は世界福音化のために命をかけます。やさしいでしょう。ところで、私はインマヌエルソウル教会に1億献金します。難しいのです。現金なので難しいのです。私はこれから命をかけます。これは後から支払うことなのでやさしいのです。
▲生きている殉教とは何でしょうか。この人たちが実際に自分がすることをせずに、貴重なものを持って世界福音化のために仕えたということが生きた殉教です。
(1)この話はとても重要な福音が何なのかを本当に分かったということです。福音が重要だということは、私に最も重要なのが何なのかを本当に分かったということです。
(2)それで伝道が何かを本当に分かりました。これが他の人に必要だということを分かったのです。
(3)宣教が何か本当に分かりました。急速に広がる文化を分かったということです。
▲さっき重職者の企画集いに行ったところ、こういう報告を聞きました。アン00勧士が軍の働きをするのに実を結ぶ働きをするのを見ながら大切だと思いました。ある軍人が脱営しようとして福音を聞きました。ある軍人は自殺しようとして福音を聞きました。どれくらい大切でしょうか。それよりさらに尊いことがあるでしょうか。事故を起こそうとした子どもたちが福音を聞いて起こしませんでした。これのような愛国はありません。ところで、それが人の思いどおりになるのではありません。勧士の話によれば、3人中1人がうつ病や精神の苦しみや無気力症に陥っているということです。勧士が見て、礼儀正しい方なので、良いように表現していました。勧士がちょっと紳士的に表現したのですが、私が見るには10人中7、8人が無気力症でなければ、うつ病、精神の苦しみを受けています。その中で一番多いのが無気力です。学生が勉強するべきなのに勉強する力がありません。良くできても、できなくても、戦うべきなのに、する力がありません。お金を儲ける力がないのです。私を維持する力がありません。そのまま歩き回りながら、遊んでお金を使って堕落して、私を維持する力がありません。それで軍隊にきたのです。だからすでに霊的問題が来ています。レムナント、青年たちはよく聞かなければなりません。ある日、そうするうちに霊的問題がきます。その時になればコントロールもできません。表に出ないように全部死んでいくのに知らずにいるのです。これで韓国はおかしくなっています。韓国ために祈らなければなりません。世界福音化が起きるように見えるのですが、所々、みんな食べて遊ぶ所です。外国の人が来たら、びっくりします。食べるのも正しく食べるのではなく、全部、遊んで食べる文化です。ヨーロッパの人たちが、エリートがきて、精神がおかしな国のようだと言います。本来、無気力な人は遊ぶのは上手です。本来そうです。無気力な人が本当に仕事するのには愚かですが、食べて遊ぶには天才です。その勧士が軍で働きをしながら発見したのです。本当に働きをする人は知るようになります。正常に生きているのに、ほとんど狂っています。だから、軍隊で事故を起こして自殺するのです。これをすべての軍牧が知って1人一名ずつ食い込まなければなりません。無駄に教会に人を集めようとせずに。集める必要もありません。集めてみても教会の信徒になりません。大変です。昨年にウェストポイント士官学校で数十人が自殺しました。どのようにいのちをかけられないのでしょうか。これを本当に分かったら。
▲ICC(International Critical Comment)という注釈があるのですが、よくされた注釈です。例は少し難しいのです。ヘブライ語が出てきて、ギリシヤ語も出てきて英語でなっていて難しい本です。とても原語がたくさん出て、私のような者も読むのが難しいのです。これを私が神学生たち読みなさいと総会神学校に寄贈しました。ここを見れば詳細に説明されています。当代、最高の財閥で立って人物が誰でしょうか。プリスカ、アクラ夫婦です。そこに対する細かい解釈が出てきます。そうなるしかないでしょう。どのようにして、このようにできたのでしょうか。使徒2:9-10を見るならば、福音を味わった最初の現場にローマから来た旅人。
聖霊に満たされたその現場にローマから来た旅人。ここにプリスカ夫婦が参加したのでしょう。そうでなければ、ここに参加した人を通して福音を聞いたのでしょう。それなら確実です。その力を持ってすることができるのです。
▲今日、霊的に難しい人、問題がたくさん来ている人がいるでしょう。また、すでに習慣が悪くなっている人は、だめだと思いながら、やむを得ずしています。そのような人々は、今からこのようにしてください。神様は必ず全てのものを持っておられます。それとともに、今でも3つのことをしておられます。
(1)救い、(2)みことば(成就)、(3)祈り(答え)
この3つのことをしておられます。これの中に深く入りなさい。無理にでも入りなさい。入ってみてください。霊的問題がある人は、他のものは絶対に聞かずにこれだけしてみなさい。驚くことが行われるでしょう。マルコの屋上の間でこれを10日間したのですが、使徒2章に奇跡が起こりました。エペソ地域で2年間したのですが、奇跡が起こったのです。だから霊的に苦しめられる人は、しばしば他のものを思って小耳に挟むのですが、この部分だけなれば確かに働きが起きます。初めには考えてみれば、私とはとても遠くあるでしょう。私と遠くにあるんだなと感じる瞬間に聖霊が働きます。私とは合わないんだな、このように感じられれば、むなしく生きていることなのに、それを感じるだけでも聖霊が働きます。もし私がこの話を味わって、この人にあの人に三人に話せば働きが起きます。これの中に深く入ってしまえば、それからは、こうしたことが行われます。
(4)それまでの私の人生が全部ストーリーになって、福音の門が開かれます。
(5)私がそれまで難しいと思った、その世の中に神様のみことば運動が広がり始めます。
(6)それまで、私のタラントが小さいと思ったのですが、これが専門性を持ちびながら文化を征服し始めます。
(7)未信者だけ良いと思ったのですが、この時から本当に私に不信経済でない本当に経済が答えできます。間違いありません。
▲これをすべての人、レムナントが原理で握らなければなりません。この救い、みことば、祈り3つがなくても可能です。最も重要なこと3つがなくてもお金を儲ける人が多いのです。それで精神が狂うのです。この3つなくても、文化に優れた人が多いのです。それで苦しめられる人がたくさん出るのです。苦しめられて長くなったので、すぐ良くなりません。これがなくても、世の中をよく生きる人が多いのです。ですからずっと災いが臨むのです。そうなります。今日、この話をわかって握るように願います。全国、世界のレムナントが本当に答えを受けるようにイエスの御名でお祈りします。目も覚ますように祈ります。寝ても見て寝なければなりません。そうでなければ答えが来ません。レムナントに世界征服する力を神様がくださるでしょう。
(祈り)
神様に感謝します。世界を生かす私たちのレムナントと全世界で伝道人を立ててくださったことを感謝します。献身礼拝に呼んでくださったことを感謝します。神様が栄光を受けて、新しい力を与えてください。新しい目を開いてください。私たちはできませんが、神様は開始できます。私たちは滅びましたが、神様は新しくされます。私たちは霊的問題がきたのですが、神様はそれで祝福の門を開けられます。神様が働いてください。イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン
(The end)