20140831 インマヌエル教会聖日1部


限りなく大きな恵み
(Ⅱコリント12:1-10)

序論
▶伝道40年間を通して、私が下した結論があります。未信者の伝道以上に急務なことはまず信徒から正しく伝道し、目を覚ますべきだと悟りました。信者の方がより難しいと分かりました。私たちにとって難しいことは何でしょうか。
1)私に実際的な力がないということです。自分に力があるならば、他の人を生かすことも助けることもできる。しかし、力がないということです。
2)そのうえ、他人には言えない霊的問題があるという部分があります。人には言えません。人にとても言い辛い霊的問題を抱えています。
3)そんなある日、肉体の病気にまで発展していきます。そうすると、人はやはり弱くなってしまいます。そして、揺れてしまうようになります。
▶それよりもっと深刻なことは何だと思いますか。私は神様の子どもとして誇りを持って堂々と生きられるはずなのに、それができない。会社で「私はクリスチャンです」と言えないまま、生きている人も多いと思います。わざとではなく、そうするしかない人生であったということです。ヨセフが行く道にいろいろな奇跡が起きました。「どうやってあなたにこんなことが起きたのですか」「いや、私は恥ずかしくてそんなことは言えない」という立場ではなかったのです。主がヨセフととともにおられた。恥ずかしいことではありません。未信者が見て主があの人と一緒にいるのだなということ。だから、すべてのことについて本当に健やかにさせてくださったのだ。そのように言えないという部分が恥ずかしいということなのですが、では、いかがでしょうか。皆さんが受けるべき祝福が神様の祝福なのにそれが受けられない、味わえないから恥ずかしいのです。ダビデも堂々たる人生を生きていました。主はわたしとともにいたために、すべての獣から私を助けてくれたとダビデは堂々と言いました。ゴリアテの前に行っても堂々と言葉を語りました。私は主の御名によって立ち向かうと堂々と言いました。けれども、私たちは堂々たる生き方ではありません。ですから、恥ずかしくなったり、力が無くなったりもします。 ▶しかし、それよりもっと深刻な状態とは何でしょうか。二重生活をしてしまうことです。つまり、顔が2つも3つもあるわけです。教会生活や現場、会社での自分の姿が違うわけです。実はそのような生活というのは非常に難しく大変な生活です。でも、学生たちは三重生活をしています。家庭内で使う言葉が違う、学校で使う言葉が違う、教会に行って使う言葉が違うという生き方をしている学生たち。なぜなら、自分には答えがないからです。未信者から見るにも「あの人はどうしてあんな祝福を受けるのだろう」ということではなく、恥ずかしいからそうなってしまうのです。そして、「あなたにはなぜこんなに大きな知恵があるのですか」と王はヨセフに言いました。ヨセフは堂々と答えました。「主が私とともにおられるので。主が王様を愛しておられるので。主がエジプトを救おうとなさいますので」と堂々と答えていました。だから、パロ王は感動を受け「あなたは今日からこのエジプトの総理になりなさい」と言います。しかし、私たちに答えがなく、物事がうまくいかなければそのようにはなれないと思います。いろいろと赤面してしまいます。例えば、自分にお金があって、大変な人には助けてあげながら「神様を信じてください」とは堂々と言えるのですが、逆にお金を借りる立場であると、お金を借りながら「神様を信じてください」というのは難しいのです。また、学校の名誉をあげるくらいの成績があって、神様の御名を高めるくらいのものであるなら「神様を信じてください」といくらでも言えるのですが、いつも、勉強ができない、最下位な者が「神様を信じてください」と言うのは、やはり、口が開かないわけです。実際、こういう部分が昔の私にとって一番大きな悩みでもありました。神様は確かにいることはいると思うけれども、私はなぜこんなに違うのだろう。大きな伝道者であるパウロにも実際的にはそのような悩みがありました。体の病気があって三度も祈ったようです。ところが、神は言われました。パウロに対し、あなたに私の恵みは十分だと。それは神様の恵みのために、あなたを高ぶらせないために神様からの大きな恵みである、サタンの使いだと言われました。
▶今日、伝道者であったパウロが用いた言葉をよく思いながらメッセージを聞いていただきたいと思います。パウロはこのような単語を用いました。私は第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったか、肉体を離れてであったか知りませんと表現しました。とても重要な部分です。今、ここで言っている第三の天とは飛行機が飛ぶような空ではありません。私たちは大きな風船や、人間の道具を用いて天に昇ったときの空を意味しているわけではありません。この第三の天というのは、私たちが思う空ではなく、とても重要な単語ですので覚えていただきたいと思います。

1. 御座におられ私とともにおられるキリストを体験しなさい
▶では、パウロは何を悟ったから、このようなことが言えたのでしょうか。一つ目です。神学的に、つまり、活字や文字を通して学んだキリストではなく、御座で働く私とともにおられるキリストを体験したうえで言えた第三の天という言葉です。この祝福を受けなさいとパウロは言っているのではなく、私たちはすでにこの祝福を受けられる資格があるということを強調しています。皆さんはこの契約を信じて少しだけ祈るだけでそうなれるということです。私は子どもの頃、また自分の生い立ちから神学校で勉強をするまで何の背景もありませんでした。また、そんな自分にどれくらい背景があったとしても行けなかったと思います。多くの人々はバックグラウンドがあってこそ大きなことができると思いますが、本当のしもべになるためにはそんなものは要りません。私は少しばかり主に祈りました。「神様、私には背景も必要なく、お金も必要ありません。しかし、私が必ず見るべきことは見られるようにさせてください」と祈りました。そして、最初に私に来た答えが何だと思いますか。それは活字で伝えるキリストではない。神学的に語るキリストではない。今も第三の天において、御座で私とともにおられるキリストを体験することになったのです。この祝福を受ける資格が皆さんに十分にあります。
1)女の子孫が蛇の頭を打ち砕くと言われました。
2)神の子がこの世に現れたのは、悪魔のしわざを打ちくだすために来られた。これを文字通りに覚えるのではなく、本当に生きておられる、御座で働かれる主の力が私とともにおられるという部分を体験することがとても重要です。これがパウロの告白です。これは本当に言い尽くせない恵みを持っているということです。本当は自分が病気になっている。本当に弱いと思っていたが、神は世を生かすために自分にまことの恵みをくださるためにそうしたのだということを悟りました。実際、今、未信者よりもクリスチャンが問題です。クリスチャンに一番大きく与えられた祝福です。ある意味、キリスト教という、このようなカテゴリーも必要ないと思います。神の子どもに与えられた最高の祝福です。
3)マタイ8章によりますと、イエス様がすべての病気をも担ったということです。バルテマイは思いました。「ダビデの子孫、イエスよ、私をあわれんでください」と告白しました。そのキリストを実際に出会ったときにバルテマイはいやされました。皆さんがこの祝福を受ける資格もあり、体験しなければなりません。キリストを本当に体験したときから、御座に座っておられる、今も私たちとともにおられる実際的なキリストを体験するようにお願いします。
4)ある学校で私を招待してくださいました。私が一番難しくて苦手な伝道方法がそれなのですが、それは何か。例えば、会社だとか軍隊もそうなのですが、聞きたくもないような講義を講師陣を招いて聞かせるというのがあるでしょう。そのようなやり方の伝道の講義が一番嫌です。それよりももっと嫌なのは予備軍たちを集めておい説教するものです。まったく聞きません。それと同じように、学校で何も伝道も興味がないような学生たちを無理やり集めている場所での集会は嫌です。私たちのレムナントであればメッセージをすれば、ノートを書いたりとかしますが、この子たちは一般の未信者たちでまったく興味がないのです。それで、メッセージをしている最中に、男女共学の学校だったのですが学生の一人が発作を起こしてしまいました。以前もその子は発作を起こした体験があったようです。だから、まわりの人たちが慌ててそれを止めようとしましたが、想像を絶するような発作の姿でした。とても重要な時間でしたが、たくさんの生徒たちの目の前でそんなことをしてしまったのです。その瞬間、神様は私に力をくださいました。その子を私のところにまで連れて来てくれました。もちろん、発作が起きている最中ですから、一人では来られないので複数の子たちに支えられてきました。本当にその場で私はまことに祈りました。「今も生きて働くナザレ人、イエス•キリストの御名によって」。すると、この子は完全に泡を吹きだしている状態、精神的にも完全に狂っている状態でした。数千人の学生がそれを見て驚きました。それで、そのナザレ人、イエスの名によって離れて行く姿を見て、そのときから何千人もの学生たちがものすごく静かにメッセージを聞くようになり、そして、数百人の学生たちがイエス・キリストを受け入れました。あるときは軍隊でまた予備軍の訓練がありました。予備軍を集めて置く訓練の代わり30分くらいメッセージをしてほしいと言われました。私は1か月前にお願いされて、1か月間ずっと私は悩みました。もちろん、やるとは言ったものの負担でした。女性たちは分からないかもしれませんが、韓国では軍隊を除隊した人たちがある程度の期間、予備軍という名のもとに軍人としての訓練を受けます。ですから、現役の軍人でもなければ、普段に、決められた時間に行って訓練を受けます。だから、軍服を着た瞬間、状態がおかしくなってしまい、最初から聞く耳も持っていません。当日、講義をしに行くと、中佐の方が「ヨンドのところの○○先生です」と私を紹介してくれました。その瞬間、私は神様から与えられた知恵がありまして、チャンスが来たと思いました。「何年何月何日にこういうことがありましたが、それはイエス•キリストの御名によって、そのようなことが起きました」と伝えました。何年何月何日、どこでこのような問題があった人がキリストの御名を聞いて治ったということを話しました。本当に物静かに集中して聞いてくれました。そして、「私は今日もたくさんいろいろ語りたかったのですが、30分だけという時間制限がありますのでこれで終わりにします」と言いました。すると、背の高い人がいきなり手を挙げて、「私たちがこれから余っている時間、遊ぶのもなんですから続けて聞いてみましょう」と言うと、皆、大賛成してくれて、また続けてメッセージをしました。もっと深い話を霊的に説明しました。約1時間、落ち着かない予備軍の人たちが本当に静かに感銘を受けて聞いてくれました。でも、あまりにも皆が集中してくれて盛り上がってしまったので、受け入れの祈りをさせるのを忘れてしまって講壇から降りてきてしまいました。本当はとてもいいチャンスなわけで、皆さんもこのような問題がある方は、イエス・キリストの御名で受け入れましょうと言えばいいものを、いつもはそういうことをするのですが、その日はあまりにも自分も興奮して、頑張ろうという気持ち一つで忘れてしまい降りてしまいました。
▶とにかく、今も第三の天にまで引き上げられた、その体験、そのキリストが皆さんとともにおられると本当に信じるならば変わるということです。しかし、クリスチャンがこの祝福を受けたにも関わらず、味わうことができていないので偽物のようになってしまっているということです。皆さんはこの祝福をすでに受けている方です。ですから、これを見つけていただきたいと思います。見つけられないままだと、本当に顔が何個もあるような奇妙な二重生活をしてしまうわけです。
5)長血を患っていた女性はイエス様がここを通りすがるという噂を聞いてその場に向かいました。そして、イエス様の衣の裾を握っただけなのに、その力が女性に伝わりました。どれくらい実際的な信仰を現しているのでしょうか。
6)百人隊長を見てみてください。自分のしもべを助けてほしいとイエス様に言いました。イエス様が「では、あなたの家に行こう」と言ったところ、百人隊長は何と言ったでしょうか。「いえ、イエス様は忙しいのにここまで来る必要はありません。私も百人隊長ですから、私が命令するだけで皆しもべがついてきます。イエス様も私に命令だけしてください」。イエス様は驚き、あなたの信仰どおりになると言いました。その瞬間に実際的な聖霊が働きました。
7)パウロが今日の本文に、自分の体に病気があり、少し祈って答えられたというようなことで感想を述べているわけではありません。皆さんに病気があるでしょうか。第三の天に、つまり、御座に座っておられるキリストを体験して下さい。また、経済が大変でしょうか。皆さんは神様の子どもです。それは問題ではなく、御座におられるキリストの奥義を体験してください。本当に信じて少しだけ祈れば結構です。
▶私もなぜそれが信じられなかったのでしょうか。私は昔にそれが信じられず、いつも苦労してばかりでした。苦労はともかく、私はいつも自分がクリスチャンだということが恥ずかしかったです。伝道どころかクリスチャンだというそれ自体が私にとっては恥なのに伝道ができるでしょうか。周りが私を恥ずかし者扱いをしているのに、伝道できるでしょうか。けれども、行く所々で、御座におられるキリスト、第三の天とは空中を意味するわけではありません。その御座の力、キリストがともにおられる祝福が私に現れるようになりました。

2. 第三の天にある恵みの中で、私があまりにもすばらしい恵みを受けなさい
1)今日の4節を見ますと、そこには人間には語ることが許されていないということ。
2)そして、7節には、本当に大きな恵みだと言われました。
3)そして、様々な素晴らしい啓示があるということ。
▶つまり、自分にある弱さというのは誇るしかない。このような恵みに預からせるために主がなさったのだということについてパウロは告白しています。
▶では、パウロはどれくらい大きな恵みを受けていたのでしょうか。パウロは言いました。今まで自分が誇っていたすべてのことをちりあくただと言いました。パウロは本当に偉大な人でした。本当にそれこそ偉大な人だったのですが、自分の偉大さ、それは全部ちりあくただと言いました。なぜなら、キリストを知る知識が一番大きな知識であると悟ったからです。何かを見た者の告白です。実はこのパウロが見たものが、この地球上に無いために、地球が災いの時代になってしまいました。野党や与党の議員たちがどんなに争いをしても、世の中の災いは終わりません。これらはすべてキリスト教の責任です。今後、どんな世の中になっていくか見てみてください。聖書は預言しています。この世の災いは終わらないと記録されています。私たちに目を覚まして起きていなさいと言われました。各地に地震、飢饉、戦争、テロ、ものすごいことが起きると言われました。地球上のすべての宗教の書物は、パラダイスが来ると言っていますが、聖書はそう言っていません。災いの時代は続くと言いました。偽物の言葉を信じてはいけません。だから、すべての民族にこの福音が宣べ伝えられたあと、終わりが来ると聖書は預言しています。
▶皆さんがこの第三の天に引き上げられる大きな祝福に預かり、人々を生かしていかなければなりません。今日の本文にはとても大きな恵みがいくつかあります。
▶これからは創世記1:27を回復した新しいものであるならば、すべてを再解釈する力が必要です。皆さんが成功するということは、基本の基本であり、物事を再解釈する者になっていかなければなりません。神様はパウロに第三の天に引き上げられる祝福を与えるために、体にとげを与えて高ぶることのないようにしてくださいました。つまり、パウロは別世界にいるということです。だから、パウロは自分の口どう言ったらいいかわからない表現を第三の天だと言いました。皆さんはいかがでしょうか。皆さんが持っている問題や病気が病気ではなく、本当の恵みを受けるためのチャンスだと思ってください。
▶このように災いが来てしまったのは、この恵みを知らないクリスチャンのせいだと思います。これは宗教の責任ではありません。日本に行きますと、非常に真摯なクリスチャンが多いです。しかし、日本は偶像の地になっています。それは政治家の責任ではありません。そうだと思いませんか。政治家がどうやってそれに対して責任が持てるでしょうか。日本には精神疾患者が一つの家庭に一人はいるというくらいです。それは教育の責任でもありません。皆さんが今日このみことばの内容をよく理解していただきたいと思います。今までパウロがどれくらいの深い悟りをえたのでしょうか。世の中のことを誇りに思っていたが、全部ちりあくただと言いました。勉強している学生の皆さんは、キリスト、イエスにあって、物事を再解釈してください。なぜなら、私たちは、新しいものになりましたので再解釈をし、エリートを超えるようなエリートになっていただきたいと思います。私たちの目標は成功ではないからです。成功者を生かす成功です。私たちの目標は、エリートではありません。エリートを生かす、さらなる水準でなければなりません。私たちの目標は、経済を持つことではありません。経済を生かす経済の人になることです。だから、パウロは大変な世界を見たのです。
▶第三の天。覚えておいてください。いや、そんな難しいことを私たちができるのでしょうか。当然できます。見ることができます。皆さんは、実は第三の天を見ないで生きることが難しいのです。私は時々、レムナントのことを思い出しています。海外にいらっしゃるレムナントの皆さん。彼らは一体どんな生き方をしているのでしょうか。どれだけ大変なのだろうか。勉強をしなければならないし。両親は勉強を頑張りなさいと言うし、本人は頑張らなければならないし、どんな力で頑張るのでしょうか。努力でしょうか。熱心でしょうか。一生懸命やらなければ、何か制せられたプレッシャーを感じてしまう。それで何とか卒業したというものの、その結果、本人はどんな状態になっているのでしょうか。普通の問題ではありません。パウロが今日、言っています。この第三の天に引き上げられた恵みの中で勉強することです。その恵みの中にいるならば、人を生かす働きも起きます。自分自身が肉体のままであったのか、肉体を離れていたのか分からないほどの御座の祝福を受けているその恵みの中にいるために、どんな問題も問題にならないということです。第三の天の祝福を見たので、今は他のことは必要ありません。私は世の中に出て事業をするビジネスマンを見ました。大変な姿でした。本当に死ぬ思いで頑張っているなと思いました。お金のまわし方も大変で、お金にいつも苦労している。だから、あれはなんと苦労なのだろうかと思いました。それが苦労なら、未信者と全く同じ姿ではありませんか。だから、神様はビジネスマンにも上から与えられる力を持って事業をしなさいと言われたのです。その力があってこそ今すぐ周囲の死んでいる人たちを生かすことができるということです。これが神様の子どもの身分です。しかし、その部分だけを逃していますと、未信者と同じ生き方ではありませんか。そうすると、未信者以下になってしまいます。なぜなら、クリスチャンだということも言えないからです。恥ずかしい。伝道どころか恥ずかしい。だから、地球上は災いが絶えないのです。
▶レムナントの皆さんは、本当に覚えていていただきたいと思います。私は第三の天にまで引き上げられました。この部分を覚えてください。そして、その天に行っていろいろな啓示を見た。あまりにもすばらしいことを見たということです。本当に大きな恵みを見た。神が私の肉体に一つのとげを与えられたのは、神が私を弱くする理由は、これを見るようにさせるためであった。だから、私は弱い、これを本当に感謝だと告白して誇りに思います。なぜなら、弱いときに私は強くなれるからです。この祝福を知っている人は、もしも病気になれば祈るようになると思います。しかし、この神の恵みを知らない人は、病気になっていることを落胆してしまうのです。また、この神の恵みを知らない人は、危機にぶつかれば自殺してしまう人もいるでしょう。しかし、私たちはこれを知っているので祈るようになると思います。

3. 人生全体、永遠という時刻表、天国という背景を置いて今日を見て答えを探しなさい
▶三つ目です。この第三の天、御座の祝福は何でしょうか。今日は高校3年生の生徒たちにお話をさせていただきました。あなたたちはただ勉強することではなく、あなたの人生全体を見て、今日という一日を過ごしなさいと言いました。永遠という時刻表の中で、自分の今日を見なさい。結局、私たちは天国に行く。天国という大きな背景の中で、今日を見てくださいと言いました。
▶そして、ダビデの話をしました。ダビデはサムエルに出会いました。サムエルを通して、あなたは一生の間こういうことをしなさいというスケジュールを聞かされました。そして、契約の箱の話を聞かされました。そして、神殿建築について、また言われました。そして、あなたは王になるだろうと言われたのです。聖書にはどのように記録されているのでしょうか。その日以来、主の霊がダビデに激しく下ったと記録されています。それを簡単に解釈しますと、このような話です。ダビデはサムエルに出会って以降、第三の天が彼に臨まれたのです。そのミッションを受けたダビデは賛美するときにも、なんとサウル王についていた悪霊が離れて行くくらいのものになりました。その状態でゴリアテに会いました。イスラエルのすべての人は震えていたが、ダビデは違っていたのです。その話を私は今日、高校3年生の学生たちにお話ししました。それが今日のメッセージの中の一つの重要な部分です。大学はいっぱいある、いくらでも行けると言いました。心配しないように。大学生になることが問題ではない。あなたの人生全体を置いて決定しなさいということです。そうすると、自分にある小さなものがなにか見える。でも、そのみる見方、解釈の仕方が違う。たとえ、体が弱くなっても私の人生全体を見れば、「ああ、人は病気の時もある。私はこうだ」と答えが出ます。「この弱い時は、神様が私に恵みを受けるようにすることなのだな」と悟ります。しかし、恵みがなければ私はもうだめになったのだと思ってしまうのです。

結論
▶では、結論です。第三の天という表現をしたのは2つの意味があると思います。まずは、いつかは私たちは天国に行きます。だから、死ぬことも恐れはないということです。そして、いろいろな問題があるけれど恐れない。なぜ私たちは福音運動をするのか。救われた者は永遠の冠として残ることになります。そうですよね。例えば、食事をする。寝て、起きて、またご飯を食べて、寝て、食べて、寝て、食べて、寝て...死ぬ。これが人生でしょうか。それは犬にも劣るものです。最近の犬はどれだけ豊かな生活をしていますか。最近は、犬も部屋の中で洋服も着ます。私も先日、自分の娘のところに行ったら、二匹の犬が本当に豊かに暮らしていました。自分の家もあって。もし私たちが食べて、寝て、食べて、寝て死ねば、犬と同じではありませんか。私たちはそんな人生ではありません。私たちは唯一、この世で神の御座の祝福を味わい、神の国を成し遂げ、人を生かし天国に行く。これが私たちの素晴らしい人生なのです。
1)だから、何の心配もせず、モーセのようにホレブの山の恵みを体験してください。それが第三の天を味わうということです。そして、そんなモーセが出エジプトの奇跡を体験しました。
2)エリヤをご覧ください。信仰生活を本当によくしていたものも、あるとき力が無くなってしまったのです。でも、神はエリヤに力を与えました。そして、ホレブの山に登らせました。昔、モーセが行って祈ったその山、そこに登らせました。そこでとても大きな霊的な力を得ていきます。それが第三の天に引き上げられるということです。
3)初代教会はマルコの屋上の間に集まって祈って、そこでたくさんの迫害がありましたが、しかし、神様の大きな恵みを受けることができました。皆さんはこの祝福を受ける十分な資格があります。この資格を避ける方が難しいです。
▶私は福音が分からない、救いが分からないとき、人生の意味がよく分かりませんでした。物事がうまくいきませんでした。うまく行かないということはともかく、私は自分が誰だかわかりませんでした。だから、ただ遊んで人生を棒に振ったと思いました。いつも仕事もしていなかったので、母は言いました。お金を儲けなくてもいいから、どこかに行って働きなさいと言いました。母の言葉を理解できないようなIQではなかったので、その言葉が正しいと思いました。人生に何の疑問も質問もなく、ただ食べて生きて死ぬというのは動物と同じでしょう。それで近所の向かい側の青年が仕事に出かける姿を見ました。非常に優しい彼だったのですが、わたしより一歳年下でした。「どこかに仕事をしに行くのですか」と尋ねると「そうです」と言いました。それで「私もどこか働けるところがあるか」と尋ねました。すると、「ありますよ。今、人が足りないところだったのですぐに行きましょう」ということでした。「いや、すぐには行けない。ちょっと心の準備が」ということで、明日から行くことになりました。それである工場に行きました。あるものがあったら上から金属のものを押すとあるものが出来上がるという形でした。難しくない作業でした。鉄器を入れて機械を回して取り外す。材料を入れてプレスをかけて作るという単純な作業で、これを一日中やるわけです。私は2日間それをやったのですが、これをやるともういかれる寸前でした。3日目に私は言いました。工場の監督にお話をしました。私はこれを難しくてできませんと言いました。すると、その人が「ちょっとこっちに来てください」と言って、「これのどこが難しいのか」と言いました。自分が模範を見せました。これを入れて回して押すだけでいいのに何が難しいのですかと言いました。私が行っている難しいというのは。そういう意味ではありません。単純すぎて難しいということなのですが、相手は理解してくれませんでした。「こんな簡単なものを回せないのだったら、これから何をするのですか」と言われました。でも、私は「いやこれは私には難しいので」と辞めました。「こんなのが難しいなら、しょうがないですね」と言われました。2日間働いたものはいつ取りに来るかと聞かれたが、私はそれもいりませんと言いました。私はそのような仕事をしている方々が間違っていると言っているわけではありません。自分がなぜこれをしなければいけないのかということが分からなかったのです。自分で理由も分からずに、どこかに引きずられてこんなことをするのかと、それが分からないのです。多くの人々はもがきながら、人を殺しながら、そんなことを見ました。これは違うという結論を出しました。そんな疑問の多い人生から、ある日、本当に福音を悟りました。福音を悟ったときから目が開かれました。そして、そのあと第三の天というこの言葉がどういう意味か分かるようになりました。この祝福なしでは、すべての世界は災いの中に陥るしかないということを悟ったのです。今、パウロの告白は自分にすごい病気があって、そして、祈って治ったからという意味を言っているわけではありません。
▶今週、本当に皆さんの人生にとって生涯、大事な神様の計画を見る恵みを体験するときになっていただきたいと思います。


(祈り)
神様の恵みに感謝します。私たちがまことの信徒として、まことの福音を持っている者として恵みを受けることができますように。この地球上に臨む災いを神から与えられた福音でそれらの勢力に打ち勝つことができるように霊的な目を開かせてください。日々、この地球上には災いが度重なっていきます。神はこのように義人10人がいれば、ソドムとゴモラを滅ぼさないと約束されました。どうか主の民の上にこの力を与えてください。まことの新しい人生が始まりますように願います。イエス•キリストの御名によってお祈りします。アーメン。