20141109 インマヌエル教会聖日1部


真の主人に出会うことが救い
(エペソ1:20-23)


序論
▶今日はバプテスマを受ける方がいらっしゃいます。ほとんどのクリスチャンがなぜ答えを受けられずにいるのでしょうか。その部分について見つけなければなりません。聖書を見ますと、神様はモーセに時代を変える答えを与えられました。どうすればそのような答えを得ることができるのでしょうか。必ず、見つけなければなりません。
▶今日、フランス全地域に放送でメッセージを伝える番組を作っているヨハネス社長がいらっしゃいました。どのようにすればフランスとヨーロッパを変得ることができるでしょうか。今日の聖書を通してその答えを見つけていかなければなりません。私の話として聞かないで、よく聞いていただきたいと思います。皆さんがバプテスマを受けるというこの式が重要なのではなく、このバプテスマを受けるということが重要です。どんな意味があるのかが、そんなにも重要なのでしょうか。教会に通う人々はたくさんいらっしゃいますが、なぜ答えられずにいるのでしょうか。ほとんどの人々が答えられていません。ある意味、未信者以下の人生を生きている人たちもいます。その答えを必ず見つけてかなければなりません。そして、今日の説教は、いくつかの面で非常に重要なのですが、ある意味、少し難しいかもしれないと思います。
▶なぜでしょうか。たくさんの教会が集まると、このような声が聞こえたりします。私たちは一つになりましょう。今日も教会の会議で言われました。ワンネスにならなければなりませんと。でも、うまくいきません。どうしてでしょうか。なぜでしょうか。その答えを持っていなければなりません。モーセは答えられたのに、なぜ私は答えられないのか。私はその答えを見つけるようになりました。それ以降は、答えられるようになりました。ダビデに働いた神様は、なぜ私には働かないのでしょうか。教会がこんなにもたくさんあるのに、なぜ人々は変化しないのでしょうか。その部分についての答えを見つけ出し、どういう部分が間違っているのか見つけなければなりません。私たちの家は3代目のクリスチャンホームです。けれども、うまくいかない。なぜでしょうか。教会が世界福音化のために門が開かれるべきなのに、ある教会はまったく人も増えないしうまくいかない。どうしてでしょうか。その部分はまだよしとしましょう。災いはなぜ絶えないのでしょうか。その部分について知っておくべきではないでしょうか。そして、個人個人が呪われて崩れてしまう。その理由はどこにあるのか。その答えを今日、見つけていただきたいと思います。今日、皆さんがその重要な答えを見つける瞬間から答えられます。確実にそうです。

1.エペソ1:21、世の中の人々の主人であるサタンの手から抜け出して、キリストに私の主人を変えなさい
▶その理由は何でしょうか。それは私が主人であるからです。私自身が主人だとどうなるのか。
人間は生まれてすぐに創世記3章の原罪を持って生まれます。自分が主人だと、その原罪から逃れることはできません。自分が主人になってしまうと、実際的に非常に大変なことになります。世の中はこう言います。あなたの人生はあなたのものです。私の人生は私のものと、とても正統的な言葉を言います。だから、私の人生を思いのままに生きるのだ。ところが、多くの牧師先生たちもそのような信仰生活をします。長老たちもそのような信仰生活をしてきました。私は所有者であり、私は私の自由に自分を動かしていくと。そうでしょうか。皆、そのように信仰生活をしています。実はそこから問題が発展していくのです。とても重要な話です。信仰生活の中で、自分自身が主人であるなら一生涯、創世記3章の中で生きていくことになります。創世記3章はとてつもなく恐ろしい事件なのです。それが原罪の事件です。人間的な言葉で主人とは何でしょうか。このパウロも主人、つまり、私のものです。私のものだから、私が自由に使う。これが主人です。皆さんは皆さんの自由にすべてができますか。人生を自由にできますか。違います。そこから錯覚が始まります。ここから人類の災いが始まっていくのです。この部分から、全世界は発展すればするほど問題に陥っていくのです。だから、戦争が起きます。だから、テロが起きます。だから、殺人が起きます。泥棒が生まれたりします。自分が主人だからです。神様が主人ではないということです。そうですよね。だから、すごく苦しいことが絶えなくなっていくのです。私が主人だと思っている人が5人集まれば、絶対にワンネスは不可能です。完全に永遠にワンネスはありません。自分が主人だと思っている夫婦が住んだら、その夫婦は一生涯、喧嘩して終わるでしょう。私が主人だと、サタンにすぐに捕らわれることになってしまいます。どういう意味か分かりますか。この部分を聖書のみが教えています。
▶たくさんの宗教があるのはなぜでしょうか。なぜ宗教がこんなにも増えてしまったのか疑問ではありませんか。実は宗教が多いように見えますが、特徴は一つです。私、私が主人になっている。自分が道を磨き、自分が仏になって、自分が拝んで、自分で達成して、自分で成就させる。いろいろな宗教、たくさんの種類があるように見えますが、特徴は一つ、自分で自分をなんとかしていくということです。それは福音ではありません。福音は主人を変えることです。長老の皆さん、お分りでしょうか。すべての教役者の皆さん、お分りでしょうか。聖書が教えている最も重要な教え、教義です。私が主人ではないということです。私が主人=サタンの奴隷になるということです。絶対に成功することができません。原罪とは何でしょうか。私は神様を信じないということです。それが原罪です。神様はいるのか。私は神を知らない。私は神を信じなくてもよい。私は神様を信じられない。それが原罪です。深刻です。それはサタンに捕えられているからです。創世記3章、あなたがこの善悪を知る木の実を取って食べるとき、あなたは神のようになる。あなたは神のようになる。ここに騙されました。だから、取って食べたのです。その日からサタンに捕らえられてしまいました。だから、幸せはありません。この福音を全ヨーロッパに、全世界に伝えていかなければなりません。それは主人が変わることです。
▶受洗されるということは、バプテスマを受けるということは、私が主人ではなく、神様が私の主人となりますということです。本当の答えがそこから来ると思います。本当の答えだけではなく、皆さんの根本問題が解決されていきます。
▶今日、3つの契約を握っていただきたいと思います。まず、エペソ1:21です。21節にはこう記録されています。すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。このキリストが私の主人になったということです。すごいことです。これが21節です。
▶イエス様はこう言われました。ヨハネ10:1に信仰生活する人にこう言われました。あなたがたの牧者は窃盗であり強盗だと。どういう意味か分かりますか。イエス様は信仰生活を熱心にしているユダヤ人に対して、あなたがたの牧者は窃盗であり強盗だと言いました。つまり、自分で信仰生活をしても、私の主人が窃盗であり強盗犯であるなら幸せはありません。自分の信仰が信徒のためのものではなく強盗とのためのもの、自分で一生懸命、儲けたものを信仰生活のためではなく強盗のためだということです。どうしてそんなことをおっしゃられたのか理由を分からなければなりません。そうではなく、すべての主権、権力、その力のある方があなたの主人になるように人生を変えてください。これが21節です。聖書のみに記録されています。
▶聖書で一番重要な事件、それは創世記3章の事件です。創世記3章の事件は何でしょうか。あなたがこの善悪を知る木の実を食べるとき神のようになるということです。だから、取って食べた瞬間、サタンに捕らえられました。それを知らなければなりません。
▶そして、創世記6章です。私の人生は私の自由にする。だから、果てしない堕落が開始しました。それがノアの時代です。そのときに、創世記6:4-5を見ると、ネフィリムという言葉が出てきます。サタンに捕らわれています。
▶そして、創世記11:1-8、バベル塔です。神様は必要ない。神様がいないわけですから、私たちが天に届く高い塔を建てようという事件です。私が主人になっているなら、絶対に勝てません。皆さん、信仰生活は簡単です。この世の宗教生活は二つしかありません。私が主人なのか、神様が主人なのか。どちらかです。この言葉の意味がわからなければ大変なことになります。だから、本当に一生懸命、信仰生活をしていたユダヤ人に対して、あなたがたの牧者は窃盗のようだ。強盗のようだと言いました。主人が自分になっているとサタンにだまされる文化が始まります。主人が神ではなく人だから、使徒13章、16章、19章の文化が始まります。では、主人が自分になっている人たちの結末があります。それが、あなたがたの父、悪魔、未信者の6つの状態の結末が立ち向かってきます。目に見えないサタンに捕らわれて、ずっと人生を引きずられて行き、それで生きて死んでしまいます。教会生活も同じです。
▶そこから逃れるように、主人を変えるようにということです。宗教と福音は、だから違います。宗教はとにかく人間が何かをすることです。福音は自分でやるものではありません。福音は神が私たちに来てくださったということです。例えば、子どもが沼に落ちてしまいました。沼に落ちると、そこから這い上がってくることはできません。沼はそこに落ちた瞬間、動けば動くほど下の方に落ちていきます。ならば最初から動かない方がいいのです。その沼に落ちている子どもに対して「どうしてそこに落ちたのか。気をつけなさい。どうしてそんなことになったのか」ということをいちいち聞いて、相手から答えを貰おうとするのが律法です。「あなたの力で上がって来なさい」。それ宗教です。絶対に自分の力では出て来られません。子どもはそこから出てくることができないのです。そこに大人がロープを投げてロープを引っぱってあげること、それが福音、救いです。今、想像以上に人生、人間は悲惨な形になっています。
▶皆さんが今、主人だと思っている窃盗や強盗をキリストに変えてください。

2.エペソ1:22、私の人生のまことの主人が変わる日、神様の働きが始まる
▶22節です。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。すべての支配、権威、権力、主権の方、その方が私たちの教会のかしらとなられたということです。
1)まことの主人に出会うこと。創世記3:15に、蛇の頭を踏み砕くその方を受け入れます。そして、主人を取り替えてください。箱舟の中に入れば生かされると言われました。そして、出エジプト3:18に、羊の血を塗った瞬間、解放されるとあります。この聖句ひとつひとつに対して、感動がなければ救いに対して疑っていかなければなりません。その部分に確信がありませんと、まず救いに対して疑ってみる必要があります。救いの確信を持てないということは、生きるということが生きることになりません。当然に答えられなければならない人生が、未信者よりも苦しい人生を生きるようになるのです。未信者はさんざん遊んで地獄へ行くが、私たちは地獄にも行けませんが苦労だけの損する人生になってしまいます。お酒もまともに飲めない。遊ぶこともまともに遊べないというような中途半端な人生になってしまうのです。イザヤ7:14に、処女がみごもって男の子を産む。その名をインマヌエルとせよ。その方を受け入れる日、主人を取り替える日です。
2)三位一体の神様が私たちの中にともにおられる。
3)エペソ1:20、その方は御座の右に立っておられる。この方はすべての主権と権威を持って支配するだけではなく、今、そして、これから来たる日もすべての名の上に優る方である。そして、その方はこの教会のすべてのものを支配するかしらとなられた。
▶これが教会です。これが理解できませんか。そうすると、教会ではありません。昨日もレムナントの結婚式がありまして、そのような話をしました。キリストの中にいるなら答えられる。キリストの中にいないと偽りである。また偽りというものを握っている人生になってしまう。教会にいらっしゃる皆さんは偽りごとを話してはなりません。神が皆さんのかしらとなり皆さんのすべてを支配され導いておられます。サタンの元に置かれて聖歌隊をやって、教会の会議をやって、それで教会のすべての仕事をやるということは一切あってはなりません。今日、柳先生はすごく叫んでいるなと思う方、いらっしゃいますか。私はなぜ今日はこんなにむきになってお話をしているか分かりますか。何十年も見てきたものです。
▶信仰生活はそんなに難しいことではありません。重荷をわたしのところに持って来なさい。わたしが負わせるくびきはそんなに重くない。わたしがあなたがたを休ませてあげると言いました。すばらしい答えです。必ず記憶しなければなりません。

3.エペソ1:23、私の実際の生活の中でキリストが主人になれば来る答えを受けなさい
▶3番目です。 23節に、教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。どういう意味でしょうか。実際的な私生活の中でキリストが私の主人になるときに、すべての部分が豊かに満たされていくということです。今日は三つお話しました。人間である私たちは生まれながら神の御怒り、原罪を持って生まれてきます。ですから、私たちは主人がキリストでなければ教会に通うことが解放の道にはならないということです。神が私の主人になったときに、ものすごい働きが起きるということです。そのときから、まことの答えが始まります。そして、23節には、そのまことの主人に会った私たちは実生活の中でキリストが私たちを満たしてくださるということです。
▶信者同士の会話を聞いてみてください。そこには神の存在がありません。主人がいません。キリストがどこかに行ってしまっていないのです。そして、教会の会議をよく見てください。人々が語ることやすべてに神がいません。キリストが主人ではない。世の中に出て行って、世の中のすべての祝福を得るべき存在が、神が自分の主人でないからサタンにすべて捕らわれています。皆さんのビジネスもそうです。皆さんのビジネスの中心、かしら、そのセンターには神がおられます。皆さんの人生も悪魔ではなく神様が皆さんの主人です。主人を変えなければなりません。多くの学びの高い人たち、特に知識の高い人たちは、自分の人生について、自分で自分をなんとかすると言いますが、それはどうでしょうか。北朝鮮のキム•ジョンウンに聞いてみてください。その方もそうです。日本の総理も今、どうでしょうか。主人が変わっていません。昔の歴史もいろいろありますが、韓国女性を捕まえて他の所に売っておいても反省しない。日本と私の人生は私のものだと思っているということです。だから、戦争、侵略が起きているわけです。私たちの人生、神様が私たちの主人です。私たちの人生は神様が主人になっている人、自分が主人になっている人、二種類しかありません。これをよく覚えておいていただきたいと思います。生活の主人は誰か。神様です。そのような方は本当の答えを得るようになると思います。この部分について、皆さんが分かるならば、特別に何かをやる必要はありません。
▶だから、皆さんは信仰生活をする中でばれないようにしてください。ばれないというのはサタンにばれないようにお願いします。私たちはすぐに会話を交わして見ると分かるでしょう。5分、10分話しても、この人が大学を出たか出てないかということもすぐわかります。5分話せばわかります。なぜなら小、中、高校で教えていることは一つしかありません。例えば「1789年にフランス革命が起きた」と教える。しかし、大学はそういう教え方はしません。「1789年にフランス革命が起きたという説がある。でも、その反対の説もある。また、ある学者はこう言っている。あの学者はこう言っている。だから、あなたも一度、研究してみなさい」。これが大学です。大学も工学の専攻か、それとも文学部専攻の方なのかはすぐに分かります。工学専攻者というのはネジを取り付けたりるとき寸法が正確でなければなりません。ネジがはまらないと物がつくれないためです。だから、この人はどういうタイプの人なのかというのはすぐに分かります。ある方はいつも理想的な人がいます。いつもあの空の夢を見ているような文学系の人たちがいます。
▶私がなぜこの話をするのでしょうか。祈る人かどうかはすぐわかります。神が主人になっている人の特徴は、あまり自分の意見を強く主張しません。相手に押し付けません。なぜなら、神様がともにおられますから、自分で勝手にすることはできません。古いことわざがあります。「ソウル行ったことのない人と、行った人がいるとしたら、ソウルについて会話をするときにソウルに行っていない人が勝つ」という言葉があります。例えば、ソウルに行ったことのない人は、東大門の横にある食堂があると無条件に言い張ります。でも、行ったことのある人は、食堂がたくさんあったので、確かにそこにあったかどうか、私がたぶん見ていないのか、忘れたのかよくわからないと言います。でも、行ったことのない人はとにかくある、そこにあると言い張ります。そうやって言っている人の方が勝つということです。つまり、それは本当に勝つという意味での勝津ではないのです。祈りの祝福を本当に味わっていらっしゃいますか。すると、問題が来ても大丈夫です。何事があっても悩み事があっても大丈夫です。なぜなら神様が責任を持っておられますから。責任という言葉では、神様の祝福はその中に全部、盛ることはできません。それ以上の世界ですから。キリストが主人ではない場合は、自分が主人になっていますから偽りごとをいつまでもしていることになります。皆さんは救われた神様の子どもです。そうです。今までの神様の言葉を通し、また歴史を通し、神様は神が生きておられることを証明しているのではありませんか。
▶アブラハムをまず、例えてみます。アブラハムは神様が主人になったものの、まだ生活の主人が変わっていません。神様に言われたとおりに故郷を出た者ものの物事がうまく行かない。うまく行きそうでうまく行かない。だから、ある日、私生活全般の主人も神様に取り換えていく。創世記13:18の重要なターニングポイントを迎えるようになります。次は誰でしょうか。40年の間にエジプトで一生懸命学んだ人がいました。でも、道がうまく開かれない。それはモーセです。そんなモーセがホレブの山で祈った後、自分の人生の主人を取り替えます。モーセの主人は、神様になります。モーセが行く所々に神様の御働きが起きた。ダビデはこういうことを言いました。主は私の羊飼い、私はなにも乏しくありません。今言ったことはダビデが羊飼いのときに告白したことで、ダビデが王になったときの告白は、主は私の王であると言いました。主人が神であるということを証明しています。そして、戦場に行った時、ダビデはどう言いましたか。主は私の岩、主は私の砦と言いました。あの死の中でもダビデの告白は、主は私の盾と言いました。
▶今日、皆さんの人生の主人を変えてください。よく考えてみてください。皆さんの生活全般、誰が主人になっていますか。神様でしょうか。自分でしょうか。私が知っているある牧師先生は人格が本当にすばらしいです。本当に優しい人であり、善良な人です。そして、これっぽっちも良心的で悪いことを一切しない先生です。その先生は喫茶店も行かないそうです。なぜなら、喫茶店に行くと女性が多いから、女性を見ることはできないと、そんな感じの人でした。しかし、牧会がうまくいかないのです。あんなに立派な先生が、なぜうまくいかないのでしょうか。すべての基準は自分自身にあるのです。その先生は自分が基準なのです。この教会に行くのか、あの教会に行くのかを決定することも、自分が主人です。例えば、自分の息子がどこの大学に行くから、どの地域に行く、どの教会に行く、それも全部、息子の基準です。宣教する国を選ぶのも、自分の息子がどこに留学するのか、その国によってそこに合わせて宣教する国を選ぶ。何かを決定するときも自分の妻の顔をうかがう。嫌っているかいないかどうか、それを参考にしている。ある意味、自分の息子を尊重し、妻のことを思いやってそうやるのは、一般的にはすごく優しい人です。奥さんの立場で考えれば、すごく良い旦那さんです。けれども、中心に神がいません。一生、苦労します。その人は自分だけでなく、他人まで苦しませます。牧師がそのように牧会をやりますと、信徒が一緒になって一生、苦しみます。長老の皆さんが自分が主人になって悪魔の元で悪魔に仕えるようなことをやっていますと、皆さんひとりだけではなく家族までともに苦しみます。人はサタンという存在についてあまり意識がありませんので、自分が主人になって動くということがいかに最悪の状態に陥るのかということを分かりません。だから、ニューエイジが教えているのは、あなたが神のようになるということです。そう思って動けば、本当にサタンが働きます。霊媒師は何をさせますか。悪霊を祓うのではなく、悪霊に乗りつかせてしまうようなことをしてしまうのです。私たちは主人を変えていくことをしていかなければなりません。
▶今日、皆さん5分で構いません。5分で本当に答えられる祝福が始まっていくと思います。私は聖書の中で今日の部分が本当に重要だと思っています。皆さんが答えられるためには、今日の部分が重要です。そして、いくつかの質問が必要です。例えば、伝道をどうしますか。教会復興はどうしますか。そのような質問は一切、捨ててください。必要ありません。私が何をどうしたらよいのですかということは捨ててください。そんな質問はしなくてもよいほど、神を主人に変えるだけで答えが見えます。そして、答えが見えたら、未信者を生かす力が生じます。私は未信者の中でどのように勝てばよいのですかとか、競争ということ自体が間違いです。なぜなら、皆さんがすでに答えを受けますと、すぐに答えが見えてくるのですから、皆さん、まことの答えを得るように願います。
▶特に今日、バプテスマを受ける方、永遠な神様の祝福を得るようにイエス様の御名によってお祈りします。私はこの本教会に6つの教会に仕えて、7つ目の教会としてここに来ました。本当に私は信徒たちひとりひとりを見て悟りました。すべての教会の教役者、信徒たちが、主人が神様ではない。だから、当然、失敗するしかないということが分かりました。だから、私は祈りました。私がもし牧会をやるなら、私の主人は神様ですと祈りました。皆さんの人生の主人が神様になりますように祈ります。


(祈り)
全能なる神様、御名を賛美します。今日、まことに救われた者としての祝福を得ることができますように。そして、まことの答えを得ることができますように。そして、これからは未信者を生かす信仰者となりますように。会社も生かす社会人となりますように。神様がともにおられる、神様が主人となる、その祝福を味わうことができますように。イエス•キリストの御名によってお祈りします。アーメン。