20150322 インマヌエル教会聖日1部


死に直面したダビデ
(詩23:1-6)


序論
▶もしも病気の中におられる方は、神の力を体験する時刻表となることを願います。私は特別、困難な問題があるという方もいるでしょう。私たちは人間ですから、ときには倒れることもあるかと思いますが、神の力を体験する祝福の1週間となるように願います。
▶イスラエル民族が出エジプトをしてカナンの地に入りました。その間、14人の士師が起こされ、指導者たちが変わりました。そして、大まかに見て20年は統治したとしても、14人で考えると、300年ぐらいが過ぎたと考えられます。300年以上が経つ間に、一つの問題がありました。エジプトから出エジプトしたものの、ペリシテから続けて攻撃されていました。あの有名なサムソンの話もペリシテとの戦いの話です。数百年の間、一度も欠かさずペリシテはイスラエルを攻撃していました。彼らはただ攻撃するだけでなく、穀物も奪い、子どもや奥さんも拉致してどこかに売ってしまうのです。そして、多くの人々を現場で殺しました。この勢力に対しては、誰も勝つことができませんでした。その時、神様が備えてくださった人物がダビデです。皆さんもご存知のように、ダビデの話をすると、代表的な内容がゴリアテとの戦いです。ゴリアテは身長が約3メートルほどの巨人でした。そして、鎧を着ていたとしてもものすごい重さがあったのですから、それくらいの巨人でした。そして、槍を持っていましたが、その一つの矢だけでも約3kgの重さがあったということです。このようなゴリアテがいきなり来て戦争をしようと言ったのではありません。「まずは、私と戦って勝てるようなものがいるならば出てきなさい」と言ってきました。「私と戦って勝つことができなければ、君たちの国を私にくれ」という話でした。つまり、反対に考えると、自分に勝つことができるならばペリシテをあげるということと同じです。あまりにも大きな巨人であったために、誰も立ち向かうことができませんでした。皆さんも知っているとおり、少年ダビデがゴリアテを一気に倒してしまいます。それは大きな噂になりました。その時から、ダビデという名前はペリシテだけでなく、全世界に知らされるようになりました。その時から、ダビデには考えたこともなかった問題が発生して行きます。皆さん、問題の中で一番大きな問題とは何でしょうか。それは死です。この死に対する危機がダビデにずっと追い迫る問題でした。普通に楽に暮らすことができないくらいです。誰か一人が皆さんと人間関係がこじれて、皆さんを苦しめるとしても大変だと思うのに、ダビデは多くの人々が自分を殺そうとしていたのでどのくらい大変だったでしょうか。
▶さて、このような問題をダビデはどのように解決して行ったのでしょうか。それ以前に知っておくべき3つがあります。私の問題をどのように解決しようかという前に、考えていただきたいことをお話します。それは聖書が語っています。重要なことを3つに絞ってお伝えします。
1)聖書の中で最高の約束とは何でしょうか。創造の話ではありません。多くの方々が創造について、また聖書の話を語りますがそうではなく、また歴史の話でもありません。聖書は歴史を記録した本ではないからです。そして、多くの人々は聖書が理解しにくいと言いますが、聖書は、人々を理解させるために記録された書物でもありません。聖書で最も重要なポイントは、人間の問題を解決するために、キリストが遣わされたということです。今も皆さんの子孫代々に受け継がれている創世記3章、6章、11章の問題を解決するキリストを遣わすということが一番大きなポイントです。これが旧約聖書です。新約聖書は、キリストが来られたということです。ダビデは、この契約を堅く握っていました。
2)そして、2番目に覚えていただきたいことがあります。世の中は簡単なところではありません。世の中で大きな問題にぶつかるとき、どうすればよいのでしょうか。救われた私たちが世にあってぶつかるこの問題、様々なことに対して、どうすればよいのか。実際的に問題というのは、人との関係で発生します。通常このような時、ある人は、このように選択します。戦う。喧嘩をする。絶対に負けてはいけない。ダビデがサウルに対して戦って勝つなら簡単だったと思います。なぜなら力があるし、ダビデは優れた将軍でした。けれども、サウル王が続けて、続けてダビデを苦しめました。普通の人であれば、この時点で相手を裏切るでしょう。なぜなら、力があるから。しかし、それは滅びる道です。また、多くの人々は無理やりに我慢します。そうすると、病気になります。そうですよね。ダビデは、どのような聖書のみことばを握っていたのでしょうか。それが今日の本文です。主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。この契約を選択したのです。
3)これを選択して終わったわけではありません。3番目は何でしょうか。これを選択した時から来る力があります。ダビデは、まことに霊的な力がありました。皆さんにこの力によって、今日、大きく回復される一日であるように願います。その日以来、主の霊がダビデに激しく下ったといわれていました。▶死に直面するほどのダビデ、立て続けに来る問題に対し、一体、どう対処したらよいのでしょうか。昔、一時期で終わったことですが、ある団体がずっと私にずっと追いついてきたことがあります。どのように追いかけられたかと言いますと、車に乗っていると来るまで追いかけられ邪魔されたりということもありました。ある時、光州で寝ているときでした。深夜2時頃だったと思うのですが、電話がかかってきました。明らかに全羅道の方言で話していたので、その地域の人だと思いました。「牧師先生、私です。」と言われました。だから、誰かと尋ねました。男性でした。「先生、私は今、先生の部屋に向かいます」ということでした。私もその流れで何気に「分かりました」と言って、電話を切ったものの、瞬間、これはおかしいと思いました。そして、すぐにホテルのフロントに電話をしました。「この時間帯に知らない人が私を訪ねて来ると言うことなのですが、どなたかわかりますか」と聞いてみました。そのタイミングで、ちょうどエレベーターが早く動かなかったので、エレベーターがゆっくりと降りてくる最中に、下で待っていたその男性に、従業員が行って聞きました。「どちら様ですか」と尋ねたところ、相手は焦って逃げてしまったということでした。本当に私に用事がある人ならば、なぜ逃げて言ったでしょうか。私はその頃、毎週、光州の方に行っていたのですが、本当に変なことだと思いました。その次の週には、私がこの建物の玄関のところに立っていたら、ある人が向こう側の玄関のところで、ガラスの窓越しにじっと私を見つめているのです。だから、ドキッとするではありませんか。そういうことを経験したので、私はドアのすべてのロックを確認しました。横になっても中々、眠れませんでした。人はそのようなことを経験しただけでも大変なのに、ダビデを見てみてください。
▶ダビデは本当に死に直面する危機が、生涯の間ありました。一体、ダビデはどのようにこの困難を乗り越えたのでしょうか。本当に私たちは答えられるのだろうかと考えてみましょう。私に立ち向かってきた危機は解決できるのだろうか。私たちの中の虚栄心などはさておき、実際的に科学的に解決されることができるのだろうか。私は今死ぬような病気にかかっているけれども、本当に信仰によって、それをいやすことができるのだろうか。このように多くの質問が、皆さんの中にあると思います。そして、疑いも生じるでしょう。皆さんが本当に信仰を持つというのは、医師に聞いてみてください。そこにも科学的な力が現れるはずです。皆さんに聖霊様が働かれるならば、最も早く病気はいやされていくでしょう。神様の驚くべき御力によって起きたことは、歴史の中にも多くの証拠が残っています。
▶一体、ダビデはどのようにしてこのような問題を乗り越えて、また勝つことができたのでしょうか。

1.羊飼いだったときに受けた恵みを堅く握っていた
▶今日の本文を見ると、「主は私の羊飼い」というのですから、羊飼いでいたときの契約を堅く握っていたということです。これがどういう意味かと言いますと、本来持っていた信仰と霊的な力、つまり、皆さんが神様の子どもとして、皆さんが握っていたことが重要です。子どもの時から、契約を聞いて育てられたことは重要だと思います。
1)ダビデは、羊飼いをしていたときから、多くの祈りをしていました。羊飼いをしていたときから、賛美と祈りをもって黙想していました。詩篇はほとんど、彼によって記録するほどの者でした。
2)彼の祈りの課題は、特別なものがあったわけではありません。ダビデは祈りました。自分は羊飼いをやっているわけですから、一匹も羊を逃すことなく、よく飼うことができるようにと祈りました。つまり、最高の羊飼いなれるようにと祈りました。
▶皆さんの職業は何ですか。皆さんが道で掃除をされる方でも構いません。その瞬間、その仕事が、最高になれるように祈ればよいのです。それが答えの第一歩となるはずです。羊を飼っていくときに、獅子と熊がどれほど恐ろしいでしょうか。その動物たちと戦って勝ちました。
3)その信仰が、ゴリアテを倒すときにもベースになったわけです。力が強く動作が速い獅子と熊に勝ちました。主を侮辱するゴリアテから私を救い出してくださるという信仰を告白しました。実際的な信仰と力がありました。何もないかのような小さな信仰に見えるかもしれませんが、問題の前ではこの信仰が大きな力になっていくはずです。未信者は危機が来れば、自分の考えをもって動きますから滅びてしまいます。神様の子どもは、問題や危機の前でも、この信仰をもって祈ることができると思います。まことの聖霊の働きが起きるならば、神様は偉大な方であるということを、皆さんが体験できるようになるでしょう。この信仰をもってダビデはゴリアテとの戦いに勝利しました。その信仰を持って困難にすべて勝っていったのです。

2.本当に困難に会ったとき、主なる神様がダビデの羊飼いになってくださる体験が始まった
▶ところが、どうしたことでしょうか。また更なる問題が生じます。ダビデがゴリアテとの戦いで勝ったため、町中が大騒ぎになりました。特に、女性たちがこう言いました。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」。Ⅰサムエル18:7-9に記されています。これが問題です。その時代の王、サウルが千で、ダビデが万だと、ダビデを注目し始めたのです。その時から、サウル王はダビデを憎み始めたのです。その時から、サウル王はダビデを殺そうと企んでいきます。その時、サウル王の心の中に悪霊が入ってしまいます。こんな形で苦しみが始まってしまいます。普通の問題ではありません。女性たちが言いました。サウル王は千で、ダビデは万だと言いました。男性というのは、女性たちがすごく自分に注目し、キャーキャー騒がれると、そのように歓迎されたいという気持ちが若干どこかにあります。だから、女性から侮辱を受けるのは、大きな侮辱だと思います。考えてみても、あの恐ろしいゴリアテに勝利したわけですから、ダビデにどれだけ憧れの目で見たでしょうか。女性が当たり前のように、サウル王は千で、ダビデは万だと言ったでしょう。この日から実際的に、死という危険性がダビデに向かってきたのです。ダビデの苦しみが始まったのです。
▶このような部分に対する危機にどのように勝つことができたのか。それが今日の2番目の答えです。最初の苦しみは、羊飼いをしていたときの本来の信仰をもって勝利しましたが、二つ目の危機に対しては、主がダビデの羊飼いになることを体験したわけです。今までは、自分が羊飼いをしていたけれども、大きくなった後の危機は、自分の人生の羊飼いが主であるという体験をするようになります。皆さんも人生にあって大きな問題の前で、主が皆さんの羊飼いとなる重要な体験をしていただきたいと思います。▶この聖書の記録によりますと、ダビデを殺そうとする事件が10回にもなりました。
1)Ⅰサムエル18:10-16を見ると、ダビデが琴を弾いているときも、槍が投げられました。つまり、ダビデが王宮の中で琴を弾いていたときに、サウル王は槍を投げてしまったのです。サウル王も将軍でありますから、どれぐらい正確に投げたでしょうか。でも、それをダビデは速やかに避けました。その時から全民はダビデのために祈るようになったと言われています。
2)そして、2番目の危機は何か。Ⅰサムエル18:18-21を見ると、サウルはダビデを殺すためにわざと自分の婿にします。義理の息子にしてまで殺そうとしていたということです。その後、ペリシテの戦場に彼を出して行きます。しかし、ダビデはそこで完全に勝利を治めて帰ってくるのです。
3)3番目の危険な場面は、多くの家臣たちを呼びます。サウルの息子ヨナタンを呼びます。Ⅰサムエル19章によりますと、サウル王は命令を下します。ダビデを必ず殺さなければならないと。そこで、注目すべき人物ヨナタンは言います。ヨナタンは自分の父親サウル王に言います。「ダビデは何も間違いがありません。優れた人物で、彼は国を勝利に導き、また、このような人物は育てなければなりません」と言いました。それを聞いたサウル王は言うことがありませんでした。
4)そして、4番目のダビデを殺そうと企みです。ダビデが勝利して戻ってきて琴を奏でるときに、サウルがまた彼に対して攻撃するのですが、その瞬間、ダビデはここにはいられないということで、王宮の外に出ます。
5)5番目の危機です。サウル王が自分の娘をとおしてまでダビデを殺そうとしました。Ⅰサムエル19:18-24を見ると、ダビデが寝ているときに暗殺者を送ります。ところが、ダビデの妻で、またサウル王にとっては娘であるミカルに殺すようにお願いしたが、この妻はダビデに言います。今夜、父が暗殺者を送ってあなたを殺そうとしますと教えてあげました。そして、ダビデが寝ているところに人形を寝かして置きました。人のように作ってダビデの代わりに置きました。
6)6番目の危機です。ダビデを殺そうとするので、ダビデはラマの方に逃げていきます。ラマはサムエルがいるところです。そこに逃げていきます。それを知って、サウル王は多くの人々によってダビデを殺そうとしました。
7)7番目の危機です。ノブの地に逃げていきます。ダビデがノブに逃げたということを聞いて、ノブにいた多くの祭司長たちが殺されたりしました。
8)だから、今度は誰もいないところに逃げていきました。自分のせいで他の人が犠牲になってはならないからです。ダビデは洞窟の中に逃げていきます。その洞窟の名前がエン・ゲディというところです。ところが、サウル王がどのように知ったのでしょうか。ダビデがエン・ゲディに隠れたということを知ってしまいました。これはダビデを殺そうと企んだ8度目です。洞窟の中に隠れていたのですが、その洞窟の中に誰かが入って来ました。それがサウル王だったのです。軍人と王がする話が聞こえました。サウル王は、ダビデを殺す前に、少しこの中で休んでから行こうということで、洞窟の中に入ってきたのでした。明るい外から来たサウル王は、洞窟の中は真っ暗ですから何も見えません。でも、中にいたダビデは見えますから、サウルを殺すことができます。ダビデにとってはサウルを殺せるチャンスだったかもしれません。サウルがダビデを追いかけて殺そうとして逃げていたところでしたが、逆に挽回するチャンスでした。自分は中にいて、余裕をもってサウル王を見ることができます。いくらでも殺すことができたに、そうしませんでした。その場面で、ダビデの面白い面を見ることができます。ダビデはサウル王が寝ているわけですから、自分の剣を抜いて持ってサウル王のところに行きました。しかし、王を殺すことなく、王が着ていた服の裾を切り落としました。そして、サウル王が眠りから目覚めるのを待ちました。それで目覚めたサウル王が立ち上がって行こうとしたとき、後ろからダビデが呼びました。「父よ」と呼びました。父上と呼んだかもしれません。サウル王があまりにも驚いて見てみると、ダビデでした。そして、振り向いた瞬間、切った布きれを見せました。どういうことでしょうか。私はあなたをいくらでも殺すことができたが殺さなかったということです。そのときサウルはこう言います。「本当に申し訳なかった。私が間違っていた。謝罪する。私はあなたを殺そうとしたが、あなたは私を殺そうとしなかった。神様があなたを祝福してくださる」と言って別れます。その後、お別れしますが、家に戻ってみるとまた心が変わるわけです。やはり、ダビデを殺さなければと。
9)ダビデはその状況を聞いて、また逃げます。今回はハキラの丘に逃げました。これが死に直面する9番目の場面です。ダビデを殺そうとたくさんの陣営が陣を敷いています。そのときダビデはこうします。サウル王の横に行っても王ですからたくさんの兵士がいます。それで兵士の水筒と槍を持って帰って来ました。どういう意味でしょうか。いくらでも私はあなたがたを殺すことができるというパワーを見せたのです。そして、ダビデは「なぜ私を殺そうとするのか」と言います。すると、サウル王はまた話します。「本当に今度こそ申し訳なかった」と言います。
▶私はこれを見て、ダビデが自分を殺そうとしたサウル王の服の裾を切り落とす場面だとか、また、王を警護している兵士たちの水筒と槍を持って帰って来たということは、どういうことなのかと思いました。私はここで多くのことを学ばせていただきました。非常に重要な部分です。ダビデは、あれだけ激しい苦しみを逆に味わっていたのです。自分の苦しみを楽しむ人だった。つまり、霊的な大きな力を持っている人物だったということです。私たちは普通、問題がくれば、それに捕らわれてしまいます。けれども、ダビデは問題を楽しむくらい味わっていました。なぜなら、すべての場面、場面で、主がダビデの羊飼いだったからです。
10)そのあとも、まだ飽きずにサウル王はダビデを殺そうとします。ダビデはもう行き場がなくなってしまいました。それで、皆さんご存知のように、ペリシテのところに逃げていきます。それが最後の10回目です。ペリシテの人々は、ダビデが自分のところに逃げてきていました。ダビデがある家にいたら、隣の部屋でする話が聞こえてきました。「実はあの人がダビデという人物だ。その昔、ゴリアテの将軍を一気に倒したあの将軍だ。あの人は今、サウル王から逃げてここまで来た。今、絶好のチャンスではないか。あの人をこの場所に置いておくというのは、ペリシテの敵をあのまま放って置くのだから、これは私たちが殺すチャンスが来た」という声を、ダビデは聞きました。ダビデは、サウル王以上の恐ろしい場面にぶつかるわけです。そのときから、ダビデは演じます。自分がきちがいになったかのように、よだれを垂らしながらその人たちの前で演技をするわけです。どれぐらい確実に演技をしたかというと、相手のペリシテ人たちが本当にあの人は気が狂ってしまったなとだまされるくらいでした。ダビデは、演技もうまくやりました。周りの人は言います。「かわいそうだ。どれだけ苦しんだからあんな風にきちがいになってしまったのか。精神的におかしくなって、殺すにはかわいそうだから放って置こう」となりました。それで結局、生かされたのです。
▶このように、ダビデは10回の死の危機に遭います。

3.ダビデは死を越える深い祈りに入った
▶ダビデは言います。主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。このように詩篇23篇で告白しますが、今日の本文の3番目に、ダビデが死を超える本当に深い祈りの中に入っていく姿を見ることができます。詩篇142篇の中に出てきます内容を見ますと、ダビデが洞窟に隠れ、神の前で恵み受けた内容の記録があります。死を超える深い祈りの中に入っていく場面です。ダビデは、このように信仰の告白をしますが、実際的にダビデは死の危機を深い祈りの中で解決したということです。結局、ダビデは勝利します。そして、その勝利をした後は、自分が大きな祝福の座についているということを見ることができました。どんな祝福があったのでしょうか。
▶3つの答えがきました。
1)忠実な家臣たちはすべてダビデについていました。
2)戦争に出て勝てるほどの力のある将軍はみな、ダビデについていました。
3)その中で民の心はみな、ダビデに向けられていました。そんな中で戦争が起きたのですが、ダビデはもう遠くにいますからダビデを呼ぶこともできない。それで、サウル王が直接、戦場に出て行きます。それがギルボア山です。サウル王が直接、馬に乗って戦場に出たところ、相手のペリシテの軍人が矢を撃ちます。その矢はサウル王の心臓に突き刺さりました。でも、サウル王もすごい将軍で、すぐには倒れません。最後まで戦いました。その心臓に刺さった矢を抜こうとしたら、途中で折れてしまいました。サウル王が最後の場面で死ぬ時、どうしましたか。一人の軍人を呼びこう言いました。「私はペリシテ人の手で殺されるわけにはいかない。私はイスラエルの王である。あんなにとるに足らないペリシテ人の手によって死ぬことはできない」。それで隣にいた軍人に自分の剣を渡し、それで自分を刺せと言いました。私はペリシテ人の手で殺されるわけにはいかないということです。すごい王ではありませんか。その軍人は非常に恐れて、とてもその気になれません。どれほど緊張していたでしょうか。刺すことができません。でも、戦争は完全に敗北しました。一生の間、ダビデを殺そうとしていたサウル王は完全に敗北して、自分も国も滅びるようになりました。隣にいる軍人はさせと言われても、王ですから指すわけにはいきません。だから、結局は、サウル王は自分の剣を持って自分を刺し自殺したのです。そして、すべての問題は終わって、ダビデが王になりました。ダビデがイスラエルの王になった後、ペリシテを完全に打ち壊し、国を堅く立てていく歴史が始まりました。

結論-さらに重要なのは祈る人が見る目
▶もっと重要なことは、祈る者が持つ目です。
1)ダビデは祈る者でありましたから、自分がサウル王に追われ逃亡生活をしているときに、こう言うような話をしていました。「主は私の羊飼い」と告白します。だから、「私は、乏しいことがありません」と言いました。
2)そして、とても危険な山に逃げ、丘を通って森の中に逃げていきます。そんな中でどう告白しましたか。そんな険しい道のりの中なのに、「主は私を緑の牧場に伏させ」と言うのです。
3)ある時は川を渡って逃げました。それをどう表現しましたか。「主は私の羊飼いだから、主は私をいこいの水のほとりに伴われます」と言いました。
4)そして、「神様は御名のために、私を義の道に導かれます」と言いました。
5)洞窟の中に隠れたり、軍人たちの目の前で基地外の演技をするくらいのダビデ王でした。しかし、彼はこう言いました。「死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」。つまり、この杖というのは、一つのスティック、棒にも見えるかもしれませんが、その使い道が違います。一つの棒にすぎないものとしても、目が見えない人にとっては、道を歩くときの案内の役割をしてくれます。また、自分に害を与える者に対しては、その棒をもって攻撃することもできます。そのような表現をしました。
6)そして、主のいつくしみが自分を永遠に導いてくださる。
7)その危機の中でも、「私は主の家にいつまでも住まいましょう」と告白しました。
▶これは子どもの時に、羊飼いをしながら神の恵みを体験したダビデの告白です。すべての危機の中で、主は自分の羊飼いであるということを体験しました。本当に死に直面するくらいの大変な問題にぶつかったときには、深い祈りの恵みの中に入る体験をしました。皆さんに、どんな問題があるのでしょうか。この祝福を味わっていただきたいと思います。
▶私も人に言えないくらいの本当に苦しい時期がありました。あまりにも大きな苦しみだったので、とりあえず何もできませんでした。何もすることができません。皆さんも本当に苦しみが来ますと、仕事は成り立ちません。本当に苦しくて、本も読めません。文字が頭の中に入って来ません。正直、「神様」と言えるわけですが、祈ることもできません。とても大変だったので聖書も見えてきませんでした。そのときに、聖書の一節を思い出しました。それがエレミヤ33:3でした。3.3.3だから忘れずに覚えています。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」。これをずっと見ていると、その前には何と書いてあるのかと思いました。そこを見ますと、「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる」。そんな主が私を呼べと言われたのです。祈りなさいと言うより、もっと切実な表現です。私を呼べ。そうすればわたしはあなたに答える。あなたの知らない、理解を越えた大いなることをあなたに告げよう。これだけしか見えてきませんでした。他は開くことも見ることもできません。これをずっと読んで黙想しました。すると、ある日、33:1が見えてきました。「エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった」と書いてあったのです。まだ閉じ込められていたときに、「地を造られた主。それを形造って確立させた主。その名は主である方がこう仰せられる」。つまり、このような出来事すべてを、主が許された、主がなさるということが分かるようになってきたのです。「地を造られた主。それを形造って確立させた主。その名は主である方がこう仰せられる」。主の名をかけて、私に言ってくださったわけです。私を呼べと。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」。私はこの聖句一つをもって、本当に2ヶ月間、祈りました。何もしないで、2ヶ月間、祈りました。本当に死ぬほどの問題でしたから、あれこれやれるそんな余地はありませんでした。切実に、本当に主を呼ぶしかありませんでした。すると、本当に答えられたのです。でも、答えられたということが問題ではありませんでした。答えられたということが良かったというわけではありません。2ヶ月間、祈って行く中で、私は多くのことをメモしました。最初はすごくどん底でしたが、祈りながら少しずつ力がわいてきたので、そのときに覚えたことを全部メモに残しました。なんと驚くことに、そのとき取ったメモが全部答えられました。中にはいまだに成就されているものもあります。神様はみことばを私に悟れるようにしてくださいました。本当に振り返ってみますと、当時、私は悟りというものがありませんでした。神様は私たちが理解を越える大いなることをして、私たちを生かそうとしているのに、その問題、出来事しか目に入ってこないのです。それくらい悟りがありませんでした。
▶ダビデをご覧ください。ダビデが10回に及ぶ、死の危機に直面しましたが、彼を大いなる王の王に立たせるための、神様が確立させたことです。今日、皆さんがどのように大変でも、ダビデのように契約を握って祈りを始めてみてください。
1)羊飼いをしていたときに握ったみことば。つまり、最近の言葉に言いかえると、講壇メッセージを握ってくださいということです。
2)そして、もう一つは、主が皆さんの羊飼いとなる、つまり、これは現場メッセージを握ってください。
3)そして、時代と皆さんの家庭問題やすべてを解決していく、深い契約を握ってください。
▶私は人を一切見ないで2ヶ月間、みことばだけを握って主だけを見つめ祈りました。そのときは、祈り方も分からない時期でした。ただただやりました。祈り方も分からない。方法もない。ただずっと一人で座って定刻礼拝し、祈りました。それだけしかやっていませんでした。そして、神様が答えてくださいました。しかも、あまりにも驚くべき答えを。神様は、今までの私ではなく別人に私を変えてくださいました。おそらく、その当時の私を知っている人は、今の私を見て驚くと思います。どうやってあの人にあれだけの伝道の門が開かれていくのだろうかと。
▶皆さんは、皆さん自身のことばも、周りの人の話も聞かず、ただ主のみことばだけを握っていただきたいと思います。お祈りします。

(祈り)
感謝と賛美を主にささげます。今日、まことの私の問題が解決されていきますように。肉体のためではありませんが、病気に勝つ体験ができますように。豊かに生きるためではなく、神に栄光をささげるための体験ができますように。世の中が与えることもできない、奪うこともできない神様の深い恵みの中に入って行くことができますように。イエス•キリストの御名によってお祈りします。アーメン。