20150405 インマヌエル教会聖日1部


イエス様の復活は科学的である
(マタ28:16-20)


▶今日は全国が守っているイースターです。そのためか、昨日、ある信徒さんから文書をいただきました。慶尚道のおばあさんが使っている言葉で書いた文書です。おばあさんの一人が「イエス様が死んだ」とおっしゃっていました。それで、隣にいたおばあさんと「どうして死んだのか」「なんか聞いた話によると釘に打たれて死んだという話らしいよ」という話になりました。すると、もう一人のおばあさんが「そのイエスは誰なのか」と尋ねた。「うちの嫁がいつも父なる、父なると言っていたから、私たちの親戚かもしれないね」「死んだということじゃ、私たちも葬儀にでも行かなきゃでは」「いや葬儀に行こうと思ったけれども、突然、生き返ったらしいよ」そんな面白いストーリの文章をいただきました。
▶多くの人々が信仰生活をしていますが、最もミスをしている部分があります。どんなミスでしょうか。まず一つ目ミスは、神のみことばを自分の立場で理解しているということです。そういう方は、おそらくあまり答えられない人だと思います。イエス様が十字架でかけられ亡くなるということは、何百回も預言されていた言葉です。しかし、その部分を信じていません。いや人間が一体、死んで生き返るなんてと皆思っていました。その事件一つでもそう考えているのに、毎週のこの講壇のメッセージを考えてみてください。「今日のメッセージはすごく気に入った」とか、または「これは私とは合わない」と話をしている人がいるのですが、講壇のみことばをそのように考えているということが、答えられないミスをしているのです。自分の基準で物事を考えて判断して行う問い生き方が私たちの習慣になっています。説教をそのように聞いていたのではいけません。みことばは、神のみことばとして受け入れなければなりません。その時、皆さんの人生にとても大きな御働きが起きます。これはとても簡単なことです。皆さんは神様の子どもですから、信仰生活を難しくしないで、みことばを神様のみことばとして聞くだけでも御働きが起きるということを覚えていてください。イエス様が道を通りすがるときにイチジクの木を見ました。そして、皆お腹がすいていました。しかし、イチジクに実がありません。すると、イエス様がイチジクの木をのろいました。また、その道を通り過ぎて帰ってくる際にもイチジクの木を見たのですが、枯れてしまったわけです。ペテロが見て、昨日、イエス様がのろったあの木が枯れてしまったと思いました。イエス様が呪う瞬間、聞かなければなりませんでした。「なぜイチジクの実を探しているのでしょうか。他の食べ物もあるはずなのに、なぜイチジクの実を探すのでしょうか。しかも今は季節的にイチジクが実を結ぶ時期ではありません。当然ながら知っていらっしゃるイエス様が、実を結ぶ時期でもないのに、なぜイチジクの実がないといってのろわれたのか」と問いかけるべきでした。そのように質問したならば、時代的なメッセージが彼らに働いたかもしれません。けれども、誰も問いかけませんでした。イエス様がいたずらにイチジクの木をのろったわけではありません。そこにはすごいメッセージがあったはずなのに、誰も聞きませんでした。ただその日泊まって、翌日の朝に出てしまいました。翌日のイチジクの木を見てのろった後、翌日枯れてしまった葉を見てペテロは気づきました。昨日のイチジクの木が枯れてしまった。そのように質問したわけです。私たちの信仰生活もそのような感じかもしれません。つまり、何が言いたいかと言いますと、神のみことばを普通に毎回聞いていて、突然、何かがあれば「どうしてこんなことが起きたのだろう」と思います。また自分が死ぬような病気にかかってしまうと、こんな感じで私は死ぬのかと考えたりします。また、答えられると、これが、答えなのかと、信仰生活がまるで連日の流れが読み取れず、ただ単に、目先で起きていることで判断するということです。
▶イエス様の復活は、イエス様の復活は、何千年も前から聖書に数百回預言しています。そのイエス・キリストがよみがえられるということ、そして、よみがえられました。誰も自分がイエス・キリストがよみがえられたという記録された聖書を持っているのにも関わらず、自分の立場でいました。
1)ローマの人はローマの立場から政治的な立場で見ていました。
2)ユダヤ人はどうだったでしょうか。ユダヤ人は、イエス・キリストがよみがえられてしまってはこれから多くの世論はどう動くのか。本当にあの人がメシアなのか。メシアではないということで殺したのに生き返ってしまった。これからの世論はどのようになるのかという見方をしていました。
3)長い間、信仰生活をされた牧師先生や長老の方々が、祈りの答えを受ける方法は簡単だと思います。初代教会はどうだったでしょうか。とまどいました。初代教会がイエス・キリストの復活を本当に信じていたならば、お墓の前で待つべきだったのに、誰も待つ人はいませんでした。一体どうしたことでしょう。本当に生き返ってしまったのです。ユダヤ人は感激、信仰だとかの前に、とにかくショックを受けとまどってしまいました。本当に生き返ったのかと。
▶Ⅰコリント15:3-5を見ると、聖書が示すとおりに葬られ、よみがえられたと言われています。信仰生活をよくする方法を知らなければなりません。聖書の示すとおりにと記録されたのは、聖書が約束したとおりに死なれ、聖書が約束したとおりによみがえられたということを意味しています。
▶私は皆さんに賭けごとがあります。韓国には立派な教団がたくさんあります。私たちの教会は、そんなに大きな教会ではありません。これからどのように、どのような内容をもってどれだけ正しい方法で復興していくか、その部分を多くの韓国教団のたくさんの教会と賭けごとをしてみたいと思います。それは肉的な戦いではなく、本当に聖なる神の御前にあってよいゲームをしてみたいと思います。
▶イエス様の復活は、科学的です。それが今日の説教のタイトルです。それは六何原則によって雅楽だと思います。いつ、どこで、誰が、何を、どのように、なぜ。これは六何原則です。私たちが祈るとき、ポンテオ・ピラトのもとに苦しめられ」と祈るでしょう。ポンテオ・ピラトは、イエスには罪を見つけることができないと言いました。イエス・キリストを十字架にかけたのはユダヤ人です。それなのに私達は、毎週、韓国も世界中の教会もこの使徒信条を告白しています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と。地獄に行っているポンテオ・ピラトはいつも耳がかゆいと思います。なぜなら、自分にはまったくの間違いがなかったのに、なぜ人々が毎週、私の名前を呼んでいるのかと。裁判官、そして、このポンテオ・ピラトは、自分の目にはイエス様に罪はないと言っていたのです。それでユダヤ人が言いました。私たちにイエス・キリストのことをまかせてほしい。もし彼に罪がなければ、イエス・キリストに罪がなければ、そして、たとえ私たちがやっていることがもしも間違っているならば、この罪を自分の子孫たちに降りかかるようにすると言いました。ですから、1800年ぐらいの間に、ユダヤ人の子孫たちは、国を失い虐殺されてガス室に送られ殺さました。親は言葉を気を付けなければなりません。慶尚道にはこういう話があります。例えば、子どもたちがよくないことをしたりしますと、直訳するとこうです。「舌が1万メートルぐらいに伸びて死ぬように」。舌がそれだけべろっと出てしまうということは、自殺をするときに首をつって自殺すると舌がよく出るらしいのですが、冗談でそういう話をよくします。「あの怠け者は、ああやって舌が伸びて死ぬように」と言うように話します。データーで見ますと、本当に慶尚道には、首つりをして自殺をした人たちが多いということです。あとは「らい病人でもなれ」ということもよく言うのですが、そういう患者さんも多いということでした。イエス・キリストを十字架にかけることが、私たちの間違いであるならば、そののろいは全部、私たちの子孫に降りかかるようにと言ったその言葉。そのとおりになってしまいました。私たちは何も考えずに言葉を吐いてはいけません。イエス・キリストのみことばをみことばとして受け入れていかなければなりません。牧師になる人たちも、簡単に牧師になろうと決めて、そして、簡単に牧師になっていく姿を見ると、本当にイエス・キリストを恐れることもなく、敬うこともないと思います。
▶ユダヤ人たちがどれほど傲慢に、彼らの言葉を吐いてしまったのでしょうか。自分たちが十字架にかけたイエス・キリスト、その血ののろいが自分の子孫たちに降りかかるようにと言ったとは。
▶私はあまりテレビを見ませんが、たまに見ますと、教育放送などである教授の方がソウル大などのエリート学生の前でよく講義をなさるのですが、その方の講義はもちろん有名な方でいい内容ですから、たくさんの知識人が講義を聞いていたりします。その人が言っている知識は、一理あることがたくさんあります。しかし、聖書の話をするときがあるのですが、それはまったくのでたらめの話をします。全く間違っているようなことを勝手に聖書の話だと話しています。その人が聖書をそのように語るから、どういう考えがよぎるかというと、あの人が学んだ、あの人が磨いた、研究をした学問もあのようにでたらめではないのか。偽りではないのかと疑ってしまうようになりました。皆さん、神様のみことばを軽んじてはいけません。70年前に共産主義が言いました。銃を撃ちながら聖書は必要なく、神はいないと言いました。そう語った以降、共産主義は滅びてしまいました。ニーチェは、牧師の息子なのに、「神は死んだ」と言いました。言葉をむやみに話してはいけません。ニーチェは非常に若い年齢で精神病を患い、精神病院で死にました。人々はあまりにも言葉を軽んじて話しています。
▶イエス•キリストは亡くなりましたが、よみがえられました。ピラトは何も間違いをしたわけではありません。けれどもピラトの名前が毎週、語られているのには理由があります。使徒信条にピラトの名前が記録されているのは、歴史的な証拠が確かにあるということを意味しているのです。ポンテオ・ピラトが総督でいた時、イエス・キリストは裁判を受けて処刑された、十字架につけられて死んだということを科学的に説明しているのです。Ⅰコリント15:20には、イエス・キリストの復活は、すべてのことに対して初穂になると言われています。これは科学的です。地球の終末は確かにあります。そして、みなよみがえられると言われています。そして、すべてよみがえられますけれども、よみがえられたあとにどのような体に変わっていくのか。天国に行く人は天国に行くかたちで、地獄に行く人は地獄に行く体として変化して行くわけです。当然ながらそうです。その復活の初穂となられたのが、イエス・キリストです。イエス様の復活は、私たちすべて救われた信徒の初穂となられました。とても科学的です。▶私たちには、3つの科学が存在します。最初の科学は、自然科学です。自然科学者がいなければ、私たちはこんなに恵まれた生き方をすることはできなかったと思います。世界中が発展して豊かな生活になったのは、自然科学者たちのおかげであると思います。非常にありがたいことであったと思います。その次は、精神科学があります。この精神科学が分からなければ、世の中はたくさんの精神病で患う人が増えてしまうでしょう。そして第3つ目は、霊的科学です。霊的科学が分からなければ滅亡を受けてしまいます。とても重要な部分です。

1.イエス様の復活は霊的科学だ
▶イエス•キリストの復活は、とても科学的である。その理由は?人間が神様を離れて完全に滅亡してしまったからです。
1)主なる神は、唯一の神、一つの神です。私は今回、日本に行っても、その話をしました。日本と韓国は、実際はアダムの子孫であり、一つの民族である。日本は勤勉な方々が多くて、島の方に泳いで行っただけです。すべてアダムの子孫です。だから、形的な神を崇拝して行くというのは、神々を崇拝しているわけであって、唯一の神ではありません。しかし、人々は科学的にだまされています。例えば、ここに鐘があります。これは礼拝を知らせる鐘として、音で知らせるために作っただけであって、この形を崇拝するというのはよくありません。形というのは無い方がよいと思います。人間の手で作った者に対して崇拝し、それを神だと思って崇拝するということは、それこそが精神病です。だから、地球上は、病人だらけになってしまいました。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝すべきであると言われています。クリスチャンがたくさんいるのに、なぜこのように世の中は苦しくなってしまったのでしょうかという質問に対して、福音をよく知らずでたらめに分かっているからです。私がこのような言葉をあまりにもストレートに語りすぎて異端だと言われてしまいました。でも、皆さん、そうだと思いませんか。外国の方がいらっしゃいまして、夜、飛行機に乗って韓国を見ますと、韓国はすごい国だ。こんなに十字架がいっぱいあると言われます。日本に行くと、十字架の建物を見つけるのは珍しい話かもしれませんが、「韓国にはこんなにたくさん赤い十字架がある。韓国は天国のようかもしれませんね」とある方が言われましたが、でも、私は「いやそれでも地獄です」と言いました。赤い十字架があるからといって天国になるわけではありません。重要な部分を科学的に知るということが肝心です。
2)そして、人間は唯一、神を信じることができる霊的な存在として創造されました。これが最初の霊的科学です。人間は神を離れては絶対に生きることができない。それを知らない人に対して、無神論者と言います。だから、地球はずっと戦争とテロが起こるのです。すべてサタンの間違いではありませんが、でも、このサタンに惑わされ誘惑されて倒れたのが人間です。そうやって神様から離れてしまった人間は回復する道がありませんでした。
3)だから、神はすべてを知ったうえで、あらかじめキリストを遣わすと約束されたのです。まことの人間が神のかたちを回復するために、イエス・キリストを遣わされると約束されました。その約束が旧約聖書に記録されています。そのメシアがキリストとして来られたという証拠が新約聖書です。
▶その中に重要な約束があります。キリストを遣わす。神の約束です。多くの証拠がありますが、一つの証拠があります。その一つが、十字架にかけられる。すべての人の罪を背負って十字架にかけられる。そして、キリストだという証拠として十字架から復活する。それが証拠です。聖書の約束です。この聖書は一人によって記録されたのではありません。たくさんの者によって記録されたのに、聖書はキリストの復活を預言しています。イエス・キリストは預言者たちによって復活されるということが預言されました。700年前も、1500年前にも預言者たちによって預言されています。博物館はそういう意味で非常に大事だと思います。昔の内容がそのまま保存されています。
4)そのとおりによみがえられました。パウロも語りました。聖書の示すとおりに死なれ、聖書の示すとおりによみがえられたと。どうしてでしょうか。この科学的な内容をまことに信じたとき、それでこそ暗やみの勢力、地獄の背景、すべての災いが打ち砕かれています。必ずこれを信じていただきたいと思います。そして、私たち人間という存在が、悲惨な存在だということを覚えなければなりません。そんなみずぼらしい私たちを神は、最も高い位置に私たちをイエス・キリストによって導いてくださいました。なぜイエス・キリストが来られたのかと言いますと、これは人間の力では絶対に解決できないから、神様が恵みによってキリストを遣わしたのです。これは科学的です。
▶もう一度考えてみてください。私たちが自分の力で自分を救うことができますか。最近、変なカルト宗教が増えていますが、本当に自分の力で救えますか。例えば、子どもが沼に落ちてしまった。動けば動くほど、どんどん下に沈んでしまう。水とは違って沼は、動くたびに下に落ちていきます。じっとしていなければなりません。どうしたらよいのでしょうか。その光景を見て、まるで他人事のように自分の力で早く出てきなさいと言えるでしょうか。話になるでしょうか。孫が今、沼に落ちてしまいました。早く、自分の力で出てきなさいと言えますか。人間がまるでこの霊的な沼のように落ちています。暗やみ、呪い、悪魔、その地獄の背景のもとにあるのに、宗教はあなたの力でそこから出てきなさいと語っているのです。でも、絶対に自分の力では上がれません。精神的に患っているのに、自分をコントロールすることができますか。できません。ある学生は言いました。自分は生まれながら、ずっと前から同性愛がしたいと言っていました。その子は自分でしたくてしているわけではありません。生まれながらそのような思想を持って生まれてしまって、自分の思いどおりにはいかないわけです。それを霊的問題だと言います。自分の思いのままにはなりません。自分は正しく生きたいけれど、でも自分の力で自分をコントロールすることはできない。それが霊的問題です。でも、人々は、霊的なことを全く知らないので滅びていくのです。沼に落ちた人が自分の力で上がれるのか。上がれません。また今、沼に落ちて本当に大変な子どもに対して、こういう大人もいます。なぜ気を付けなかったのか。どうやって滑り落ちたのか。左足から入ったのか、右足から入ったのか。注意しなさいとあれほど言ったはずなのに。そんなことを横で言ったって解決できません。それが道徳であり、倫理です。私は今、道徳や倫理が必要ないということを言っているわけではありません。救いには至らないということです。皆さんの孫が沼に落ちて死んでいっている状態なので、どんな言葉も道徳も宗教も解決できないということです。早くその問題を解決できる人がループを投げなければなりません。ループを投げてそれを握って、絶対に逃してはならない。それが信仰です。それを引っぱってあげなければなりません。そして、引っ張って沼から救った後に語るのです。今度は気を付けなさい。本当に沼は危ないところだから、これからは気をつけなさいと言ってあげなければなりません。でも、人間は逆にやっています。絶望で死んでいくのに、別のことをやっているのです。
▶霊的な部分が分からないので、霊的な科学、神のみことばを信じません。神のみことばは信じるとき、働くものです。人間は神を信じたときに、みことばを信じるときに答えられるのですが、みことばを信じていないのに答えがありませんと言います。これは間違っていることです。赤ん坊は生まれたら、とにかくお母さんの乳を飲まなければなりません。砂糖水だとか水を飲んだのでは死んでしまいます。高麗人参などを飲ませたら、新生児は死んでしまいます。母の乳を飲まなければなりません。赤ん坊に金のネックレスも指輪も必要ありません。幼い子どもはとにかく母親が必要なのです。お母さんのふもとにいないと死んでしまいます。すごく飢えてしまいますと、指を吸ったり噛んだり、なんでも口に入れます。運動神経の良い赤ちゃんは、自分のつま先も吸ったりします。食べさせないと死んでしまいます。人間は神に会わない限り、人間らしくあることはできません。このような科学を悪魔が全部だまして、「私は神を信じません」とさせているのです。「神を信じるならば、私は自分のこぶしを信じます」と昔もそんなことを言っている人がいました。人間が人間であることを拒否している行動です。
▶周りは、このユダヤでは、多くの人々はびっくりしました。イエス・キリストは本当によみがえられた。これはどういうことか。
5)だから、ローマ人もユダヤ人もみな嘘をつきました。信じてはいないものの、でも彼らを恐れていました。イエス・キリストがもしかしてよみがえられ手はいけないから、軍隊を動員してお墓の周りを見張るようにしました。日の出の直前だったのですが、軍人たちが一番眠たい時間です。当時のお墓はとても大きく洞穴を作って石門で閉じていましたが、そのお墓の石が動いてしまいました。それは大きな軍人が何人もで押さないと動かなかった石なのに、それが自然と動きました。その聖書を見てお思いました。自動ドアは、この時からあったのかと思いました。とにかく、その石が動いてはその間から光が出てきました。すると、イエス様がそこから歩いて出てきました。だから、軍人はどれくらいショックを受けたでしょうか。それを見た軍人はショックで倒れてしまいました。そして、そのうちの何人かが目を覚まし、報告しに行きました。「大変です。今、生き返りました。イエスが生き返った」。ユダヤの国やローマは本当にびっくりしました。政治しか分からない人達でしたから、その人たちに口止めをされました。静かにしなさいと。聖書に記録されています。その場にいたすべての軍人の目撃者に、お金を与えて口止めしました。見なかったことにしてください。私たちは、それが知られたらみな死んでしまうから、絶対に言ってはならない。それでお金を渡しました。そのお金をもらいましたというところまで噂され、朗報は皆に広まっていきます。その後は、偽りの情報を作っていきます。軍人が見張っている際に、誰かが寝ている際に死体を盗んでしまった。それを盗難説とも言っています。盗まれたというわけですから。本当に生き返った人を見ました。この変貌の姿で、実際に石がどけられてそこは歩いてきたということを見たということです。皆さんもびっくりする必要はありません。私たちの体も変貌した形でなっていきます。死んだ後、私たちはそうやって磨いていくのです。黙示録2章にもそのような記録がありますが、後には500人の人がいるところにも表れて、弟子たちの前にもイエス・キリストが現れました。ユダヤ人たちが、こうやって見ると、証人たちの話を聞くと本当に彼らは見たと言います。「君たちが見たのは、幻想ではないのか」と幻想説を作っていきました。しかし、そんな偽りごとは長続きしません。幻想説や盗難説というのはそうだとしても、最後にこんなことを言いました。「ああ、私たちがよく考えてみると、イエス・キリストは死ななかった。あのときに死んだわけではなくて気絶したものを葬ってしまった。だから、死ななかったと言うようになりました。それを気絶説と言います。
▶とにかく、これらの3つ説は、全部、イエスの復活を証明しているのです。この死体が盗まれたという盗難説は、確かにお墓にはイエス・キリストの死体がなかったと言うことを意味していますし、幻想説を主張したと言うことは、誰かがよみがえられたイエス・キリストに出会った、見たということを証明しています。気絶説は、死んでいない、生きているということを意味しているのです。むしろ、ユダヤ人が復活を否定して拒否しようとしたけれども、彼らのおかげで余計、復活は事実化されていきました。
▶皆さんの人生において、最高の決断を今日していただきたいと思います。今日のポイントは、みことばをみことばとして握る。そのときに人生の変化が起きる。みことばは生きて力上がると言われています。天地が無くなる前までは。みことばの一点一画もなくならないと聖書は語っています。バビロンの捕虜になった時、多くの人々を集めてこう言いなさい。そして、あの屋根の上に登って言いなさい。山の上に登って伝えなさいと言いました。わたし、主のことばは永遠に立つということを伝えなさい。「神様はなぜ悪人たちをすべて殺さないのですか」と質問しました。「なぜ義人がこうやって苦しめられなければならないのでしょうか」とハバクク預言者が尋ねました。神はこのように答えられました。わたしのことばを石の板に刻みなさい。簡単な答えです。わたしのみことばの力がどうなるのか見てみなさいということです。石の板に刻みなさい。神のみことばを科学的に理解すること必要です。霊的な事実が科学であるということが、自然科学がこれからもっと発展すれば証明されると思います。本当にみことばをみことばとして受けていかなければなりません。

2.復活以前の約束を堅く握るべき
▶2番目です。復活の以前の約束があるのですが、それを固く握らなければなりません。復活する前の段階で、弟子たちは、信仰が揺れてしまいました。実際に、イエス・キリストが死んだ後、そのお墓の跡に、女性たちがついていきました。
1)ヨハネ14:16-17。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」と言われました。
2)ヨハネ14:26。復活する前に、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」と言われました。
3)ヨハネ16:13にも語りました。真理の御霊が来ると、あなたがたにすべてことを話して、悟らせてくださる。
4)使徒1:8、ただ聖霊を、みことばを信じていかなければなりません。
▶これは復活以前の約束でした。イエス・キリストの復活を見た弟子たちは、後悔したのではありませんか。こんなことになるのだったら逃げないはずだったのにと。

3.弟子たちを集めておいて復活以後におっしゃられた
▶3番目です。復活以降のメッセージがあります。
1)復活されたイエス様は、3つの権威を語られました。天と地のいっさいの権威を私に授けられたと言われました。皆さんも祈ってみてください。可能であるならば、この講壇ではなく、家で祈ってみてください。イエス•キリストの御名によって権威の祈りをしてみてください。天と地のいっさい権威を私に授けられた。
2)そして、3つの命令が与えられました。あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けなさいと言われました。それが2つ目の命令が、教会化です。3つ目の命令は、わたしが命じておいたすべてのことを守るように。
3)そして、3つの証人になることをお話しされました。世の終わりまで...。私たちが伝道する期限はいつか。それは世の終わりまでです。いつも、あなたがたと、ともにいますと言われました。
▶皆さんが少しだけ、一度だけでも体験していただきたいと思います。実際に、多くのクリスチャンが非常に困難に陥っています。困難に陥っているということは、みことばを確実に信じていませんから困難します。特に、教会の方でも信徒に混乱を与えています。ですから、民族を生かすどころか大変です。私も子どもの時から教会に通っていましたが、本当にうわべだけの信仰生活で人々が争い続けていますから、本当に混乱しているということを感じました。そこで私は副教役者になっているときに、聖書のみことばを握るようになりました。聖書は語ります。天と地のいっさいの権威が私に授けられました。そして、イエス様は弟子たちに語られました。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいると言われたけれども、本当にそうであるなら、私は神様の子どもではないか。悪魔の子どもではなく、偶像崇拝や石に崇拝するようなものではない。私は神の子どもではないか。自分の利益のために動くような人ではなく、私たちは伝道者ではないか。神様、そのみことばどおりの力を私に与えてくださいと祈りました。復活された主は、今、助け主を持って、聖霊の御霊でともにおられますから、私に働いてくださいと本当に祈りました。そして、祈りの課題ではないけれども、私は課題を作りました。それは、「神様。私には何の背景もなく、実力もなく、お金も何もありません。ただ福音だけ伝える者になっていきたいと思います。教会を利用しません。信徒を難しくさせたくありません。私の利益のために牧師になっていくようなことなんて絶対にないように導いてくださいと祈りました。私に福音を本当に伝えられる教会へと導いてください。福音を伝えられる教会に私を導いてください。私には背景がありません。当時の私の友人や牧師たちを見ますと、お金があって使いたい放題、使っていましたが、私には何もありませんでした。また、人々は人脈を誇りに思っていましたが、私には人脈もありませんでした。嘘ではありません。本当になかったのです。持っているものが何もなかったのです。この手にあるものは何もない。ただ勉強して伝道だけしました。実際に、何もないから何もないと言いますが、本当に何もないので「何もありません」と言うときに、涙が出ました。ある意味、他人から見るに余裕があって欠けてないような人が「自分は欠けているものですから」と言うと、あまりピンときませんが、本当に欠けている人が「欠けています」と告白すると涙が出るのです。だから、祈りました。私自身がそうだったので。人を頼りにしません。神様が私を導かれる場所に、私は行きますと祈りました。そして、これっぽっちも人間主義にならず本当に神様の力を体験するように祈りました。それが人生にとって、よくしたことだと思います。全部、神様の恵みです。神は、正確にすべてを答えてくださいました。実際に、多くの牧師、優れた方々がたくさんおられます。私は福音伝えることが、幸せになることが目的ではありませんでしたが、私は本当に幸せな牧会者だと思います。数多くの牧師先生を始め、レムナントたちが、福音運動する準備をしています。そして、本当に幸いなことは、他のことが気にならないように福音運動をしなさいと言うことで、健康もくださり、今まで導いてくださっています。

結論
▶イエス様は、語られました。世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。これを皆さんが今日の短い礼拝の時間に握ってください。そして、この信仰を持って外に出ると、選択しなければならないことがたくさんあります。その瞬間、瞬間、不信仰にならなければよいのです。何度も私は皆さんにお話ししましたが、それは今考えても祝福だと思います。今のヨンドの教会に行ったことが祝福だと思います。最初にそのヨンドの教会に行く前に、ある長老が「この教会に来ようとしている先生たちがたくさんいらっしゃいます」とおっしゃっていました。だから、私はその長老に最初に会ったときにお話をしました。「では、私は行きません。たくさんこの教会に来ようとしているのに、私もその中の一人であるならば、私は譲ります。みながここの教会に来て、この教会に最終的に誰も来なかったら、私が行きます」と言いました。なぜこのようなことを、皆さんにお話しているか分かりますか。みことばを本当に信じていないから、たくさんの無駄な努力をするようになるのです。今日、皆さんが本当に神様の子どもとしての祝福を味わってください。復活されたよみがえりの主に、今日で会いますようにイエス・キリストの御名によってお祈りしたいと思います。


(祈り)
神様、感謝します。神様のみことばをみことばどおりに理解することができますように。この世の中を正しく見ることができる霊的な目を与えてください。そして、世を生かす証人として、それにふさわしい者になるように、私たちに力を与えてください。すべての主のしもべの方たちに、主の民の上に、この契約が成就されるように願います。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。