地域(区域)教材 2015.03.01

9課
礼拝本質の回復
(ヨハネ4:23-24)

  

*地域(区域)教材資料*
▲礼拝の本質を正しく悟って、これを回復することは、キリスト者が成功する礼拝を神様にささげられる最も重要な部分です。最も重要なのは礼拝する者が自分を先に神様にささげることです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
▲神様に栄光をささげるようにして、神様を喜ぶことが礼拝の本質です。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Iコリント10:31)と言いました。これはキリスト者のすべての行為が神様の栄光のためことでなければならないことを結論的に話したことで、礼拝、賛美が人を喜ばせることでなく、神様の栄光のためでなければならず、私の祈りが、私の要求が受け入れられることを望む前に、神様に栄光にならなければならず、ささげる献金が神様が受けてくださるささげものにならなければなりません。
▲神様にささげることが礼拝の本質です。礼拝が何なのかを最もよく現わすことばは「ささげること」(offering)です。根本的に賛美と感謝と敬拝と栄光を神様に帰して、ささげる行為が礼拝です。礼拝に含まれる内容は、賛美、祈り、献金、説教ですが、説教を通して感動を受ける前に、自分の生活を神様にささげようとする決断が必要です。
▲キリストのあがないによる救いに対する告白が礼拝の本質です。キリストが十字架で流された血は、神様のみことばである聖書を貫いて、唯一のあがないによる救いの川を成して流れています。礼拝で「あなたは生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)という告白がないならば、それは中身がない虚構の礼拝になってしまうでしょう。旧約の祭事で幕屋とその中のすべての器具とささげたささげものまでも、すえてのものがキリストのあがないによる救いを象徴しているので、礼拝の賛美、祈り、献物、メッセージは、当然、キリストのあがないによる救いを含んでいなければなりません。
▲イスラエルの信仰の失敗は、祭事儀式に問題があったのではありません。問題は、外側の儀式捕われて、まことの祭事の本質を忘れたことでした。祭司はみことばを正しく教えないで、自分たちの肉的なことだけ肥らせようとして、国民はみことばより快楽と豊かさを乱発するバアル宗教に陥っていたのですが、神様は彼らの祭事儀式は神様の神殿の広場を踏むだけだと叱責されて、(イザヤ1:12)イエス様も神殿を強盗の巣にしていると震怒されました。(マタイ25:12)礼拝の本質回復は、教会の本質を回復することであることを記憶して、まったき礼拝の回復がなされなければなりません。
(The end)



*地域(区域)教材9課-録音資料*
*序論
▲今回の教材は、礼拝本質の回復です。聖書はヨハネ4:24です。礼拝する時ごとに私たちが「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いますが、その本文です。はやく解釈からして入らなければなりません。神様は霊だと言われています。寺に行けば、仏像が座っているのですが、それは人が作ったものです。そこに悪霊が臨むようになります。神様はそんなことではありません。神様が私たち目に見えれば神様ではないのです。すべてのいのちを主管する神様は霊です。それゆえ、私たちが礼拝するとき、それを知って霊とまことによって礼拝しなければならないのです。それも少し解釈をするべきなのですが「聖霊」と「真理」で礼拝するということです。私たちが聖霊の働きに従って、神様のみことばで礼拝するということです。なぜでしょうか。神様自体が霊であるからです。それでとても重要なみことばになります。霊だということは、自らおられる者、創造主という意味です。ですから、礼拝を正しくささげようとするなら、それを知らなければならないのです。みなさんの中で悩みも多いでしょうが、礼拝を通して解決できなければなりません。みなさんが礼拝を通して、祈りを通して、解決できる答えがあってこそ勝てるのです。
▲私たちの全国の多くの重職者の方が、このように早く出てきて参加をしています。何年か前に、私がよく知っている将軍が釜山にきました。たぶん、海雲台側の師団長として来たようです。その方が、私が釜山にいるということを知って、私たちの教会を訪ねてきました。訪ねてくるとき、連絡がくるでしょう。秘書を通して、ある将軍が1部礼拝のときに牧師先生にお目にかかるために礼拝に参加すると連絡がきたのです。土曜日ぐらい連絡を受けました。名前は何といったのか。誰誰と言います。知っている将軍です。分かったと言いました。それで聖日、私は8時頃教会を行くのに、礼拝は10時半です。ところで8時に教会に行ったら、軍人ジープが一つ駐車してありました。それで私が事務室で見通してあれが何かと尋ねたところ、将軍が来られると思って、この地域に大隊長が既に出てきているということでした。当然でしょう。それで9時頃になって、10時近くなったら、また誰か一人が現れました。それはもう少し良い車だったのですが、このあたり全域の連帯長でした。簡単に話して、その人は大佐です。前に来た人は大尉で、この人は大佐です。師団長が10時半に礼拝をささげにくるというから9時半に来たのでした。それで10時頃になったら、連絡が来たのです。私たちの師団長の食事スケジュールがどうなるのか確認をしたのです。そのとき、あらまし共に食べたのかとにかく知らないですが確認をしました。それで、この方が礼拝は10時半なのに10時頃教会に来ました。何年かぶりに会うからうれしくて握手して証しも少し話しました。信仰が良い人です。その方が祈りの課題を話したのですが、釜山の中の軍部隊の中にとても事故が多くて、麻薬する人たちもいると言いました。それで自分がいる間には、そのような人が1人も出てこないのが祈りの課題だと言いました。本当にそうなりました。それで後ほどソウルに行ったのですが、私はそれを見ながら、もちろん軍隊ですが、多くのことを思いました。ロックフェラーは毎日そのように礼拝したのです。
▲そして、みなさんは今、重職者です。みなさんの子どもたち、レムナント、教役者を育てなければならないのに、そのように余裕あるように育てなければなりません。聖日の朝、神様の恵みを受けるように、余裕あるように育てれば、それだけでも信仰生活になります。それで、必ず私たちのレムナントにずっと話して、蔚山だけでも、私たちのレムナントは、聖日に早く起きて整えて準備して祈って聖日に恵みを受けなさい。それでこそ六日、勝てます。ところで、聖日に遅くあたふたして、気が動転します。そして、忙しく飛び出して、鍵をおいてきて、また跳ね上がって行って、それでは恵みを受けられません。人材か、そうでないかの特徴がその差です。その子がこれから大きなことができるか、できないかは、そこで違いが生じるのです。もしかして、事故がおきたとき、あわてる人は必ず事故がおきるようになっています。ですから、私たちのレムナントに教えなければならず、みなさんは聖日に恵みを受けて、六日間は味わわなければなりません。聖日にやっと教会にきて、この人あの人の話を聞いて試みにあって、あちこち不信仰を持って現場に出て行くのを10年すれば死ぬのです。
▲私が昔に副教役者をしていたとき、聖日礼拝は9時だったら明け方4時に起きました。なぜでしょうか。早く行って教師たちが食べずに来る人がいるのでご飯を準備しておいたのです。4時に行く理由は、5時の朝の祈りに教師をみな呼んで集めなければならないためです。一週間に一回程度は夜明けに起きるのが健康に良いから出て来なさいと言いました。そうしたら、優れたが子ども弟子が80人で千人になりました。とてもにりっぱな人物、人を見てもあいさつもあまりしないりっぱな人物である金光一長老が自分の家に私を招いてくれました。私が何の大変なことをしたのでしょうか。当然なことをしただけです。ですから、言わばそのような方たちが恵みを受けたということです。私が大学勉強していたとき、伝道師1人を教会に紹介しました。ところで、この人が礼拝は9時なのに9時5分にくるのです。狂いそうでした。私が呼んできたので責任があるのではないでしょうか。それで、なぜそうなのか、ちょっとはやく来なさいと言ったところ、車が混んでいたということです。それを参考にしてはやくくるべきだと言いました。そのときに車が混んでいて来ることができないなら、今はまったく来ることができないでしょう。驚くべきことに常に9時前後にきわどくくるのです。ですから、部長さんが按手執事なのに頭にきているのです。それで、入口で毎日伝道師を待っているのです。ぶつぶつつぶやきながら待つのに、何の話をつぶやいていたでしょうか。悪口を言っていたでしょう。私がその口を見たら、舌打ちをしているようなことばを言っていました。
▲主の仕事がそんなに難しいのでしょうか。神様を愛して仕えることが、そんなに難しいことなのでしょうか。私は尋ねたいのです。何がそのように重要で忙しいのでしょうか。私がこの話をなぜするのでしょうか。礼拝を正しくささげれば、みな終わるからです。

1.先にすること
1)マタイ4:19、マタイ11:28
▲イエス様がおっしゃられました。わたしについて来なさい。わたしがあなたがたを人をとる漁師にしてあげよう。すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。
2)山上垂訓(マタイ5章、6章、7章)
▲マタイ5章、6章、7章を見て山上垂訓だと言います。イエス様の初めての教えです。山で教えたので山上垂訓と言います。山の上で宝物のような教えをしたという意味で山上宝訓と言います。ここでその有名な6章に主の祈りも出てきます。イエス様が山上垂訓を教えられるのに、先にすること3つを言われました。
(1)マタイ5:24、礼拝する前に兄弟とかたき同志となっていることがあれば、仲直りしてきて礼拝しなさい。もっともこのごろは、非常に多く戦うから、仲直りするなら時間がとてもたくさんかかるでしょう。福音を悟った後に、私は人に良くない話をほどほどにすれば、私はその人に祝福がみな回復する時まで気にかかります。それで他人の悪口をそのようにがんばって通うということは、それが正しい、正しくないという以前に、その霊的状態が完全にゴミなのです。そして、他の人に対して理解できなくて、怒りが上がってくれば、本当にガンの予防注射を打たなければなりません。生きることができないのです。それでおもに優しい人々がガンになるのではないでしょうか。なぜなら耐えるから。かなり、よくない人はなりません。おもに耐える人々がガンになります。みなさんを見ると、それほどなる可能性はありません。このように、人がとても腹が立つのを耐えれば病気になって、どのように生きられるでしょうか。
(2)マタイ6:33、だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(3)マタイ7:1-4、兄弟の目にある欠点をさがさずに、あなたの目にある梁を先に取り去りなさい。
山上垂訓で3つの先にすることを言われました。
3)マタイ16:13-20
▲そして、一番最初に尋ねられたことがあります。人々はわたしのことをだれだと言いますか。いろいろな返事をしました。あなたは生ける神の御子キリストです。この告白をし終えた後に祝福されます。
4)Iコリント10:31
▲私たちは教会にきたり仕事をすると、このような、あのようなことを判断しなければなりません。そうでしょう。こういう話を聞いて判断しなければならなくて、ああいう話を聞いて判断しなければならないのです。なぜなら、教会にはいろいろな種類の人々が集まっているためです。教会にはおかしな人もいます。ところで、どのようにおかしな人が教会にきたのか、私たちの教会がなぜこうするのか、教会はレベルが低いな。このように話す人は、申し訳ないが福音と関係がありません。こういう人が幸いに神様の前に来たなあ!そうすべきです。そうでしょう。泥棒も教会にきて恵みを受けて盗みしなくなればよいのです。それを見て、この教会は泥棒がいる、こういう方法でしてはいけません。売春婦も教会にきて恵みを受けて、売春婦をしなくなればよいのです。そうでしょう。それを見て、この教会は売春婦だけいると、そのように言ってはいけません。ところで、普通そのように言います。信仰生活で正しく答えを受けられない人々を見れば、教会にきて「この教会」という表現を使います。その人は、事実上、答えとは関係ありません。「私たちの教会」です。そうではないでしょうか。みなさんの家に帰って嫁が「我が家」と言うべきで「この家は」そう言えば、その女は終わった女です。そうでしょう。すでに頭が空っぽです。我が家です。そうではないでしょうか。私たちの教会、私たちの信徒です。
▲このように多くの人々がいるのに、どのように判断しなければならないのでしょうか。普通、福音を悟れなかった人々は正しいことだけが正しいと思います。しかし、そうではありません。Iコリント10:31、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。正しい言葉も、今、神様に栄光にならなければ言わないのです。私が損をちょっとするようになったが、神様の栄光が現されるなら損をするのです。そうでしょう。誰かが間違った話をしたのに神様の栄光が現れないのではなく、少し栄光が現れたら理解してあげなければなりません。私たちが話をしなければならなくて、会議もよくするでしょう。神様に栄光なるのはすべきです。それがとても重要です。
5)献金(信仰)
▲そして、みなさんの生涯で最も重要なことの中の一つが何でしょうか。教会にくる時は多くでなくても、心の底から本当に祈って、私の次世代を置いて私の生涯を置いて献金も準備しなければなりません。これは心を込めて私が神様の前に私の生活をささげるのです。準備しなければなりません。多くのことがありますが、礼拝が重要だからこのようにしなければならないのです。これは私たちの信仰でするのです。
▲アメリカの教会は献金が出てこなくて、どれだけ信仰がないのかと思えば、よく暮らすのに献金が出てこなくて教会が門を閉めています。特にアメリカ人の教会がそうです。それで、この頃は流行になって献金かごを回さないで皿を回します。皿で回せば、はるかにたくさん出します。なぜなら、見られるから。封筒の準備をしなかったのに、皿で回せばそこにコインを置くことは申し訳ないから。事実上、献金は後に入ってきながら神様に出して入ってきて礼拝しなければならないことなのに、みなさんもそのようにすれば教会運営になりません。それが事実は不信仰の礼拝です。私たちの教会は献金かごを回さないのに、自発的にするのにいっぱいになってあふれたら、それが信仰です。そうではないでしょうか。神様の前で。私が堂々と神様の前で、世の中で祈りの答えを受けて神様にいつも感謝して堂々とすることであって、人を基準にしてすることは献金ではありません。神様の前でしなければならないのです。
▲私はちょっと不思議です。蔚山にくれば小言を多くします。なぜそうかわかりません。私が蔚山をちょっと愛しているようです。ソウルではおよそ20分すれば降りて行くのに、ここは20分したが序論しかできていません。

2.本質の回復
1)マタイ16:16(3種類)
▲ほかのことは、みな必要なくて、あなたは生ける神の御子キリストです。すると、バルヨナ・シモンと言われながら、神様が3つの大きい祝福をくださいます。あなたは岩です。あなたに権威を与えます。そして、鍵を与えます。このように礼拝する資格がみなさんにあるのです。みなさんが本当にこのように(1番)礼拝をささげても、聖日ものすごく答えがきます。
2)マタイ28:16-20(権威)
▲イエス様が言われました。礼拝とは何でしょうか。天と地のすべての権威を持って世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。弟子として、父、御子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。教会化です。
3)使徒1:1-8,14
▲それとともに、この人たちだけオリーブ山に呼ばれました。この契約を持って14節に、マルコの屋上の間に降りてきたのです。これが礼拝のはじまりです。
4)使徒2:1-47,42
▲すると五旬節の日に、風のような炎のようなみわざが起きました。そのときから42節に使徒の教えを受けて、交わりながら、パンを裂いて祈りに専念したのです。
5)使徒3:1,ローマ12:1
▲このようになるから、そのときから何になるのでしょうか。使徒3:1、午後三時の祈りの時間に。みなさんが礼拝の時に受けた答えが現場に移ります。午後三時の祈りの時間に。この祝福がローマ12:1に、みなさんの生活の現場に入ります。生きた供え物。
▲ここまで行きます。この礼拝を回復しなければなりません。それで、重職者のみなさんはこれを持って、毎日しなさい。

3.毎日
▲今日1部礼拝の結論で少し話し、今回の新しい家族修練会で細かく話そうとしています。
1)深い祈り
▲礼拝堂で恵みを受けたのを持って深い祈りの時間に入りなさい。そうすれば、いやされます。深い祈りの時間に入るとき、みなさんは驚くべき人生の変化が起きます。これを(1番,2番)をもってそのまま
2)確認祈り
▲みなさんが、これを持って、今はうろたえていずに世の中で確認してみなさい。この祈りに入るのです。みなさんが確認する祈りです。少しだけ、このみことばを握ったが答えがくるのです。
3)証人祈り
▲それから人々を見つめればとても難しくて苦労しているので、その人々に伝達するのです。証人祈りです。
▲これがみなさんが礼拝を回復したことです。どれくらいおもしろいでしょうか。それで、みなさんが病気になっても心配しないで。病気を握ってとても苦労すれば、ずっと問題が生じます。本当にこれの中に入りなさい。ここに医師の方々もおられるからご存知でしょうが、みなさんがもし気をおとしたり、心配に捕われれば、どんな病気でも直せません。反対に、みなさんが霊的な力の中に入ってしまえば、どんな暗やみも病気もはね除けられます。そうすれば神様の答えが見える働きが起きます。これが礼拝です。私たちの人間がする行為の中で最も美しい行為が礼拝です。それで1番は礼拝以前。これも礼拝です。そして、2番は礼拝のときに起きる答え。3番は礼拝以後に継続されることです。
▲それで全国にいる私たちの使命者、重職者の方が、必ずこの答えを受ける資格があります。特別な人がするのではなく、救われた者は誰でもできるのです。さらに重要なのは、みなさんが完全にほろびてしまったら、このように始めれば良いのです。私は何の力がなくて、することがなくてというときも、このように始めれば良いのです。これは未信者はとうてい理解できないのです。また、することもできません。してもだめなのです。ところで、私たちはこれで受ける答えです。ただ、こういう問題の中で深い祈りの中に入ったとき、はやく答えを受けられる方法は「神様の前で」です。多くの答えが起きます。また3-2)番(確認祈り)は、今回の新しい家族修練会のときに話します。神様との対話です。一度してみなさい。不思議な悟りと答えがきます。そして3-3)番(証人祈り)も少し違います。これは答えを待って伝達するのです。
▲今回の火曜日、新しい家族修練会にみなさんがよく参考にしなければならないでしょう。なぜでしょうか。私たちがもう答えを受けなければならないことではないでしょうか。毎日、答えも受けられないで未信者に負けて、それでは申し訳ないのではないでしょうか。未信者が私たちを見て、あなたが神様を信じたためか、とても気楽で良い、雰囲気が本当に違う。このように話さなければならないことではないでしょうか。ヨセフを見た人がみなそうでした。あなたを見ると、本当に祝福の人であるようだ。本当に素晴らしい。ところで知ったところクリスチャンだ。そうだったね!私も神様を信じようか。このようになります。そうではないでしょうか。ところで、いつもおかしなことをして、さ迷って、それで他の人が見て、あの人はどうして私たちの会社にきたのだろうか。そうすれば、ちょっと頭が痛いのです。あの人のために仕事をすることがあまり荷が重い。あの人がちょっといなければ良い。こうすれば困ります。ところで見たらクリスチャンだ。そうすれば、キリスト教にダメージを与え始めます。それではそうとも、タラッパンなのか。ところでタラッパンを誤解していた人も、なぜあの人を見て誰が異端だと話すでしょうか。韓国教会が本当に変だ。このようでなければなりません。尋ねたら、あのように謙虚で知恵ある答えを出すのに、他の人が本当に誤解するようだ。このようにならなければならないのです。それでは難しいとき、答えを与えるのです。それでは、この人が心の門を開けます。そうすれば、神の子どもになり始めるのです。それが継続されたら祝福を受けるでしょうか、受けられないでしょうか。受けるしかないのです。特に、今、みなさんが教会で訓練しなければならないことが伝道も重要ですが、外に出て行くレムナントが、こういう力を持って出て行かなければなりません。ところで、今回も宣教師が蔚山に来てみて、伝道現場を見て、多くの力を得ましたが、多くの方が答えも受けられないのに歩き回るから浪費なのです。それで、私がカン・サンモ牧師に話しました。蔚山が祝福をたくさん受けて、これから受け取るのに、世界の伝道者が集まるほどの本部にしなさい。それで金00牧師のような、あんな良い働き人をこの教会で作ったのですが、全世界に送りだして世界化させなさい。
▲そして、今は現場に入ってたくさん歩き回る時代ではありません。教会を強固に守りながら弟子を派遣して弟子を作り出さなければならないのです。そうでしょう。今は矢を撃つ時代ではありません。ただ核一つだけ投げれば終わります。そうでしょう。今は昔に李舜臣将軍のように行って撃つそのような時代ではありません。ミサイルを飛ばして、破ってしまう時代です。それで、今はここでアメリカ、ヨーロッパ、全世界に人材を育てる目を開かなければなりません。それではどうなるでしょうか。神様が私が祝福をあそこのソウルで与えようとしたが、この祝福を蔚山に送らなければならない!このようになるのです。そうではないでしょうか。そうすれば、しかたなく答えを受けるのです。私たちでもそうでしょう。私がお金をたくさん持った企業家なのに、この事業を分配しようとするのに、することがいつも変ならば与えられないのです。いくら私と親しくて、いくら私の息子だとしても、することがいつも変ならば、会社がほろびるのではないでしょうか。人が私とは親しい人でないにしても、とても大丈夫にする人がいれば、あの人ならば私たちの会社になるという気がするのではないでしょうか。それで、みなさんが神様に祝福をくださいということを言わなくても、私たちが神様が願われるのをしていれば神様はするようになっています。
▲重職者の方が最高の力を得る機会なることをイエス様の御名で祝福します。

(祈り)
神様に感謝します。蔚山にいる重職者と、全世界の重職者が、神様の前で恵みを受ける日になるようにしてあげて下さい。食べて寝ることしか知らな未信者を生かせる霊的な目を私たちに開いてください。世の中の成就しか知らない知識人に神様のまことの平安を伝達するようにしてください。私たちが先に恵みを受ける大事な日になるようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
(The end)