[ 2006年6月3日/産業宣教メッセージ/ソウル メイフィールドホテル/金ドンゴン牧師]


共同体と産業宣教(105) -産業宣教師のモデルを作ろう
(ローマ16:25-27)


@序論:産業宣教師のモデルを作りなさい。今、福音の中に入っているので、多くの部分に私たちがモデルが出てこなければならないのではないかと思います。特に、教会だけにしても、福音を持った確実な伝道するモデル教会、モデル牧会とか、色々な部分が出てこなければなりません。私たちの産業宣教も同じです。今、10年間、メッセージを聞いたのですが、産業宣教もモデルが出てこなければなりません。こういう産業宣教のモデルとチームが形成される時になったのです。10年間、土台をよく敷いたのですが、専門モデルが出てきてこそ、レムナントもインターンシップができて、全体に影響を与えられるのです。私は、産業宣教会に参加して、私たちの教会の産業人を見ながら多くのことを感じます。教会の役員や産業人が、実際にさらに多く崩れていて、さらに多い傷があって、さまよっているということです。牧会を長くしてみたら、教会の中に産業をする人を見れば、正しく産業をする人がいないようでした。福音ではなかったので、熱心で、そして私が教会を通うので、神様が祝福しないだろうかと思う心でしたでしょう。今は、私たちが福音と訓練の中に入ったので、まちがいなく神様が奇跡のようなことをなさると考えます。ところで、問題は、簡単にはやくできないことです。
* 霊的部分-祈り(恵み)、福音、訓練:産業人に一番重要なのが、私は霊的な部分だと思います。もちろん、牧会とすべての部分でもそうでしょう。私が牧会を始めた時、祈りで準備しました。祈りながら、恵みを受けるので、そのように神様がともにされて、導かれることを分かることができました。ところで、率直に、聖霊充満を受ければ、事実的信仰も来て、神様の導き、働きをみな感じられます。
* 産業:韓国教会の産業する方たちが、仕事をする人が、ほとんど福音が確実でなくて、恵みを受けて神様がともにされるレベルで事業をしています。他の見方をすれば、産業人が産業がうまくいくために神様に祈って、神様の恵みを受けるレベルなのです。ところで、産業人が産業現場が忙しいので、祈りもうまくできないでしょう。そして、人々の考えが肉体的だから、産業だけうまくいけば良いと思うのです。役員と産業人が、礼拝や祈りとか神様の恵みが重要なことでなく、産業が良くできるために世的に行くのです。ところで、逆になっているのです。祈りがうまくいけば産業になるようになっているので、産業がうまくいくために祈りを活用するレベルしかだめなのです。
* 自分-幸福:事実は、事業する前に産業人自身が崩れているのです。教会を見れば、ほとんど崩れた産業人がたくさんくるのですが、崩れたということは、事業にほとんど失敗した人々が多いということです。これが崩れれば、自分自身がどれくらい崩れているのでしょうか? 一緒です。不信仰と否定的な考えが一杯になっているのです。
* 家庭-エデン:産業が良くできるので、家庭がみな崩れているのです。韓国の現実で、事業を良くしてみようとするなら、事業に狂わないといけないので、それでは家庭がみな崩れているのです。私がこのように32年、牧会をしたのですが、初めに恵みの中で牧会をしたので、不思議に牧会ができたのです。ところで、恵みが持続していれば良いのに、恵みが持続できなければ、私自身が崩れているのです。その恵みを持って私の家庭を維持できなかったのです。家庭で多くの問題が発生するのです。だから、ただ恵み、神様を見上げて、主だけ頼る信仰にしたのですが、この程度で神様の答えと働きの中に入れば、自分自身、家庭、牧会が問題があってはならないのに、そうでもないのです。霊的専門家である私が、自分の霊的生活の、霊的問題の答えを知らずにいるということです。神様のしもべ、神様のしもべのいる家庭が幸せでないということは、通常の問題ではないのです。神様がともにおられたら、私の牧会がなるべきなのに、時々試みにあって教会が崩れるということが理解できないのです。このような形で、私の人生はそのまま牧会して行くという、ある方法で見れば、これ以上、希望がなかったのです。そのような私に、救い主が現れたのです。15年前、柳牧師に会って福音を聞きました。ヤンスリ修養館で福音を聞いた瞬間‘しまった’と思いました。初めての時間に、イエス・キリストの福音を聞いて、しまったと思ったのです。私は祈りと恵みが全部だと思ったのですが、誤っていたんだなあ。私は祈りが絶対的で、祈りが全部だと思っていました。ところで違ったのです。それで、柳先生のメッセージを聞くのに、最初のボタンを掛け間違えたことを分かったのです。キリストが全部なのに、それを知らなかったのです。それで3日間、泣きながらメッセージを聞きました。書斎で神様に言いました。これはやり過ぎではないですか? ゴミのような放蕩者が神様に会って、神様が良くて、神様だけながめて、思い通り生きようとしたのですが、やり過ぎではないですか? 聖霊がいつも悟りを与えて働かれたのに、少しだけイエスがキリストということと人生の問題の解決ということを悟るようにされたら、このように苦労をしなかったということです。それで、私の場合には、霊的生活に情念を持ったのです。本当に霊的生活だけうまくいけば幸せです。環境のためにくるのではありません。この事実が、恵みの中に入って聖霊充満すれば良いのです。ところで、祈りが持続できないのです。私もだめだから、聖徒もだめなのです。その時、私の胸の中に、私が祈りでこの恵みで結論をくださなかったが、福音で結論を下すと思って、真の福音を多く聞きました。私は他のものより福音をずっと聞いたのです。初期の柳先生の、ただイエス・キリストだけ、これをずっと聞いたのでした。チームの働きが出てきました。多くのタラッパンでチームの働きがあふれたのです。私は、それではなく、福音になればチームの働きになるようになっています。福音の価値が発見できなければ、チームの働きはだめになっているのです。それでも、私はチームの働きの訓練をおろそかにはしませんでした。これから私に事実として届く答えなので、訓練を粗雑にすることはありませんでした。まちがいなく、これが答えで来ることなので、チームの働きを分かっておかなければならないのです。そして、ミッションホームに行くので、働き人だけ育てれば良いとし、ミッションホームに傾いたのです。ミッションホームの時代になったのではなく、私が福音になれば働き人は立てられるのです。柳先生のメッセージが戦略的に行っても、常に福音に心を寄せました。17-8年牧会をしながら、福音に答えがなかったので、私の人生を福音にいのちをかけると、それでずっとテープを聞いたのです。テープの内容は全部、福音でした。7-8年聞いたら、たましいに根をおろして、私が何かをして祝福されたのではなく、この福音を聞くことがうれしいのです。この福音をずっと聞くのに、力が出て、喜びになって、福音が良いのです。そうするうちに、ある日、祈りができるようになったのです。祈りぐらい大変なことはありません。聖霊充満の中で祈りはやさしいのです。事実的な信仰が開いているので、神様と交りもできて、祈りに事実的なみわざが起きるのです。ところで、私たちが試みにあって、不信仰があれば、祈りになりません。いくらもがいてもだめです。ところで、不思議に思うことが行われたのは、福音を聞いてみたら、祈りが簡単になって、負担がなくて良くなるのです。私はいつも教会の中で祈っていました。朝に祈って、退勤時間に祈って、教会でいつも9時の祈り時間に祈ったのです。そのような理由が、私は恵みなければ生きることができない人生になったためです。本当に不思議に思いました。祈りが良くできるようになりながら現れた症状が、揺れることがなくなったのです。福音とは岩ではないでしょうか? イエス・キリストの福音をずっと聞くので、キリストがすべての問題の終わりだ、問題ない、問題があればキリストが解決するというキリストに対する考えが、岩のように強固に根を下ろして揺れないのです。そして、柳先生のメッセージで、いつも福音を聞いて祈りながら、また一つ証拠がきました。事実、私が訓練の必要性が福音の中から来たのです。
* 訓練:福音の中に入れば、現場が見られます。この現場は、福音がなくてさ迷っていて、福音がなくて完全にみな崩れているのです。恵みを受けたので、伝道がなったのですが、これは証し程度でした。もう私も人も生かさなければなりません。現場も知って、正確な福音を分かれば、生かせないでしょうか? 結局は、訓練を受けなければならないのです。他の人を弟子としてたてる前に、先に私が訓練を受けて弟子として立たなければならないのです。柳先生が、現場で答えを受けたとすれば、私も現場で答えを受けなければならないのです。ところで、すばらしいことには、この中に入ったら、ある日、訓練自体が良くなったのです。初めには、とても大変だったのですが、時間が経つほど、訓練の必要性を知って、霊的な世界で牧会の秘密、産業、聖書的な方法を知るようになり、これを知らなければ、どのように牧会をして弟子をたてるかという気がしました。私は柳先生に影のように付いて回っています。だから、序論がどんな影響を持ってきたでしょうか? ずっと福音の中に、恵みの中に、訓練の中に入るので、私自身に大きい変化が起きたのです。私が恵みの中で不信仰で陥って、試みにあっても、問題ではないのです。私が自殺までしようとした者なのに、どれくらい傷が多いでしょうか?ところで、傷が癒されるということではなく、福音の中に入って持続して見たら、いつのまにか自分が癒されていたのです。ある日、自分の胸の中に真に幸福だという感じがしたのです。そのまま福音と訓練の中にずっと入ったら、本当に幸せなのです。実際、私は幸せに暮らしています。ところで、ある日、私の家庭を見たら、これがエデンの家庭になったのです。牧師夫人が幸せだから、幸せなのではなく、私が福音の中で幸福を感じるので、エデンの家庭になるのです。私は牧師夫人と3回峠を感じました。私が神様を知らない時は7年間、敵のように暮らしました。神様に会って、恵みを受けた時は、私が耐えて許す次元で生きていたのです。ところで、福音の中で15年住んで見たら、妻が愛らしくて大事な女だということと、叱ることがない人と感じられたのです。私が柳先生に15年間、付いて回った証拠です。ところで、牧会が私ががんばるからなるのではなく、牧会になるようになる祝福を感じたのです。私の人生も神様の恵みを味わって、私の家庭も神様が主人になった祝福を味わうのに、人生の主人が私にならなければならないのでしょうか? 産業や牧会も、神様が主人にならなければならないのです。商うのも、個人のことでなく神様の事です。ヨセフが奴隷生活したのが、ヨセフの仕事なのでしょうか? 違います。その律法で神様の生きておられる栄光を現わすのです。神様の栄光を現わすのは、三つで現れます。私個人を通して、神様の栄光を見られます。家庭を通して神様がともにされることと働きを見られます。私の仕事を通して見ることができるのです。役員、産業人が、産業も教会の奉仕も緊急ですが、私が感じるのは、福音を正しく味わうことができずに、役員の役割を正しくできるかということです。私が柳先生に会って、15年訓練を受けながら私に来た証拠です。今は、なった、この程度で満足しないで、これから15年を、またこのように生きるでしょう。私は65才ですが、これから15年後ならば80才です。その時になったら、本ゲームをすると思っています。それで、今、私はこのようにして終わるのでしょうか? とんでもない話です。私に福音が染み入って、祈りで幸せになり、訓練が幸せになれば、その影響が教会に行くようになっています。直ちに行くしかありません。私がいつも講壇上で、この話だけするのです。よく考えなければなりません。どこから出発すべきなのか? 恵み、祈りから出発するのではなく、福音から出発しなければなりません。戦略がすごいのですが、福音から出発しなければならないのです。不信仰があれば祈りになりません。それで、何の話もせずに、オリジナルの福音を聞くならば、不信仰が崩れて、傷が癒されて、訓練の中に入るのに、訓練は必ずすべきことです。それで、私たちは役員、産業人が重要なのは、産業を良くするために頭を回すのではなく、福音に流れれば良いのです。東部教会は小さい教会ではありません。教会が広がっていけば、心配と思い煩うべきなのに、そんなことがないのです。福音の主人公なるキリストが、私の人生を生きておられるので、私が味わって、家庭も、牧会も、主がなさるので心配することがありません。責任を負うことも、力を使うこともないのです。私たちの産業人に、こういう祝福があることを希望します。

1.役員のモデル-訓練、家庭、伝道、教会、文化:それで、今日は役員のモデルです。必要です。役員が、モデルになってこそ、新しい信者と一般信者が正しい道を行くことが出来るのです。役員が礼拝も正しくささげず、献金も正しくしなければ、どのように良い道に行くのでしょうか? よっぽどでなければ、柳先生が役員を選抜して、1年間、試験を通過した人を立てなさいと言われるでしょうか? 受け入れたばかりの初信者も十分の一をするのに、役員が十分の一をしないのです。これは神様の前に驚くことです。大部分、しない人が多いのです。だから、柳先生が継続して言われるのが、十分の一で教会が維持できるようにしなさいということは、本当に残念で言われるのです。それで、これから役員を立てる時、柳先生が訓練が重要だと思われたのです。正しく根をおろして、体験できなければなりません。そして、正しく役員の家庭が起きなければならないのです。役員の家庭で、正常な十分の一、建築献金、宣教献金、RUTC献金をささげられるほどにならなければなりません。これから長老になることは難しいでしょう。負担になるでしょう。事実、信仰でだめなのです。それで、少なくとも役員は、一地域を担当できる、賢い伝道に対する何かがなければなりません。地域を生かせる役員にならなければならないのです。役員と関係なく、教会に対して献身を味わう人にならなければなりません。ローマ16章の人物と同じ役員にならなければなりません。事業を通して文化を変えるほど、事業と土台にならなければなりません。先に長老になった人は良いのです。柳先生に話して、先に長老になった人も、こういう訓練があったら良いと思います。先に長老なった人がさ迷っていれば、下にいる人を訓練させても、また、さ迷うようになるのです。初心に帰って、長老になっている人も、長老になる人も、こういう過程を経るのが、教会としては有益ではないだろうかと思います。
(1)使徒1:12-14:彼らは誰でしょうか? マルコのタラッパンのこの人たちは、福音と伝道のためにいのちをかけた人です。
(2)使徒2:41-42:群衆を見てください。使徒の教えを受けて、本当に交わりながら、パンを裂きながら、祈りに専念する中にいたのです。
(3)使徒6:1-7:按手執事を立てたのですが、ほめられて、信仰と聖霊が充満した人です。
(4)使徒9:1-43:アナニヤのような人はどうなのでしょうか? 地域を担当して、パウロのような人に会う祝福を味わった初めての人です。
(5)使徒10:1-6:皮なめしのシモンも重要な役割をしました。
(6)使徒11:19:一時代に今まで影響を与えている散らされたアンテオケの人々が、すばらしい人々です。こういう役員が土台になって教会が立てられて、アンテオケ教会が今まで影響を与えているのです。これから一般信徒、役員を中心に、地域で福音運動が起きる、こういう教会がこれから多くなると信じます。
(7)使徒12:1-25:主のしもべが困難にあった時、役員が心を共にして全体が祈ったのです。このようにしなければならないのではなく、福音と祈りと訓練ができれば、これからこういう役員が立てられるでしょう。良くやってみようとするのは、みな崩れます。教会を復興させて、何をするのでしょうか? また崩れるでしょう。今は、私たちが崩れない教会、主のしもべ、役員になりましょう。

2.弟子のモデル-地域:それと共に、私たちの役員は、弟子のモデルにならなければなりません。地域を生かすほどの弟子のモデルにならなければなりません。私は福音の中に入って多くの部分を考えました。教会で謝礼をもらう人だけが伝道すると思っていました。訓練を受けて聖書の伝道方法を見ると、一般信者の役割が大きいのです。自分の産業現場で産業をしながら、伝道しながら、弟子を育てる、すばらしい影響力を与えるのです。ある面では、一般信者が働きをもっと良くします。一般信者は、自分の現場が伝道現場です。
(1)使徒9:1-15:アナニヤのような場合、どれくらい良くしたでしょうか? 70人メンバーとして、自分の地域で静かに弟子を育てたのです。事実、産業人が産業にだけすがっているのですが、それだけすがるからできるのではありません。私たちが持続的に福音の中に入れば、ある日、私たちが伝道弟子になるのです。事業をちょっと献金をよくして、教会に仕えるという考えを捨てるべきです。むしろ産業も産業ですが、私たちは産業を通して正しく伝道運動をする土台になって、拡散の門にならなければなりません。
(2)使徒9:36-43:タビタです。静かに産業をしながら、その地域にどれくらい影響を与えたでしょうか? 一つの地域で伝道運動が起きる、ある執事の現場に行って、周辺の人々の告白を聞きました。教会に登録しない人もいたました。その方の話が、この執事のゆえにみな生きているということでした。一般信者なのに、どのように、その一人の影響がこのように大きいのでしょうか? ある面では、伝道師より良いのです。その人一人だけ立てれば終わるという気がしました。その人が地域教会を担当すれば、その人中心に福音運動が起きるのです。
(3)使徒10:1-6:皮なめしシモンもそうです。
(4)使徒16:15:マケドニアで初めての町にルデヤがいました。すばらしい役割をしたのです。
(5)使徒17:6:ヤソンのような人です。
(6)使徒18:4:プリスキラは言うまでもありません。いのちを出したのです。パウロと共に世界福音化のために、いのちをかけた、こういう弟子がどこにいるでしょうか? 普通の人ではありません。
(7)使徒28:30-31:そして、世界福音化のために共にした人々です。この人たちが、ローマ福音化した弟子たちです。教会で見て、役員が今は産業だけするのではなく、地域を生かす弟子のモデルにならなければならないのです。

3.共同体のモデル:特に私たちの宣教師や役員が、共同体のモデルにならなければなりません。私が何を感じたのか分かるでしょうか? 自分自身も共同体にならないということです。うまく行っても、試みにあって‘神様’と崩れるのです。私たちは本来、神様のかたちになれば、神様と共同体になるということです。愛する妻であり、子どもなのに、なぜ共同体にならないのでしょうか? 教役者、役員が共同体にならないのです。神様、家庭、社会と共同体になれば、働きが起きるしかありません。ところで、すごいことを発見したのですが、福音だけ味わっていたら、ある日、神様が私と共同体になっているのです。言葉だけでインマヌエルでなく、事実的なインマヌエルになって、神様がともにおられることを事実的に感じられるのです。ある日、これを味わっていたら、家庭と私が共同体になったのです。徐々に、この祝福に入って、この福音を小出しにしたら、役員と教役者が福音で共同体を成し遂げながら、私が祝福を味わっているのです。柳先生が、この部分を強調するしかはないのが、これでなくてはいけないのです。
(1)保護者(ローマ16:1-2):フィベ。色々な人と私の保護者。
(2)同労者(ローマ16:3-5):プリスキラ夫婦です。同労者です。パウロの牧会、世界福音化にいのちをかけた人です。本当に、教会の役員や産業人が、教会のこういう役割をすれば、教会は終わるのです。いつも役員に対して心配になるのです。昔に、福音を正しく知らない時は、役員がどんなことを起こすか?何か話をするのか?心配になるのです。
(3)家主(ローマ16:23):ガイオのような家主を見ましょう。全教会の家主になったのです。私の教会、あなたの教会がありません。全教会の家主になるのです。
(4)親戚(ローマ16:7):
(5)愛する者(ローマ16:5):どれくらいパウロが喜んだでしょうか?
(6)苦労する者(ローマ16:12)
(7)認められる者(ローマ16:10)これが私が見るので、任職式に行って役員にあたえられるならば良いでしょう。それで、私たちの産業人と役員は、聖書でモデルになる役員や弟子のモデル、共同体のモデルを契約でつかまなければなりません。私もこういう役員、こういう弟子のモデル、共同体のモデルになるようにしてくださいと祈るのも重要ですが、福音と訓練、祈りがさらに重要なのです。私は産業宣教メッセージを聞く時ごとに、これがものすごいことで、すばらしい戦略なのに、もしこれが事実化されれば、世界を思うままにできるので、私たちの産業人がこの祝福の中に入る根源的な祝福を受けて、レムナントを立てなければなりません。柳先生は、急いでおられます。産業宣教のモデルが出てきてこそ、レムナントにインターンシップをしてモデルになるのです。今、教授チームがきています。私は牧師として、私の子ども、子孫をどのように育てるでしょうか? 序論で育てる気持ちで語りました。学業の現場で最高の技能人も重要ですが、霊的な戦闘です。彼らの中に、まちがいなく弟子がいます。福音の中に、祈りの中に、訓練の中に入れば、想像できない弟子が立てられるでしょう。
-要約-
<共同体と産業宣教(105) -産業宣教師のモデルを作ろう(ローマ16:25-27) >
1.役員のモデル
(1)使徒1:12-14  (2)使徒2:41-42  (3)使徒6:1-7  (4)使徒9:1-43
(5)使徒10:1-6  (6)使徒11:19  (7)使徒12:1-25
2.弟子のモデル
(1)使徒9:1-15  (2)使徒9:36-43  (3)使徒10:1-6  (4)使徒16:15
(5)使徒17:6   (6)使徒18:4   (7)使徒28:30-31
3.共同体のモデル
(1)保護者(ローマ16:1-2)  (2)同労者(ローマ16:3-5)  (3)家主(ローマ16:23)  (4)親戚(ローマ16:7)
(5)愛する者(ローマ16:5)  (6)苦労する者(ローマ16:12)  (7)認められる者(ローマ16:10)