[2006年9月9日/産業宣教メッセージ/ソウル メイフィールドホテル/柳光洙牧師]


共同体と産業宣教(119) -改革の主人公(8) -個人に対する神様の祝福
(ピリピ3:1-20)


@序論:ピリピ3章にパウロがこういう話をしました。8節を見れば「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、」と言いました。また9節を見れば「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」と言いました。今年は改革が始まる時間です。産業人と役員は、必ず記憶しなければなりません。
* 文化改革- RUTC:私たちは文化改革のために始めのがRUTCです。これは簡単なことではなく、文化を改革する開始です。当分の間、レムナント大会と宣教大会をすれば、建物がないので、あってはならない混乱があります。他人のものを借りて使わなければならないためです。そして、予算もほとんど人に与えるようになります。それで、ひとまずRUTCから作って始めなければならないのです。じっくり考えてみましょう。全世界の人材がここにきて訓練を受けて、平安な中で恵みを受けるのです。それで、一箇所ずつRUTCが作られます。これが文化改革の開始です。必ず神様の計画なので、大きい働きに変わるようになります。
* 教会改革-役員:その次が教会改革です。教会改革のためには、職分者、その中でも役員が先に恵みを受けなければなりません。聖書には役員中心に伝道運動や宣教運動が起きました。私たちがこれを回復しようとするのです。聖書を見れば、地域ごとに弟子の名を知ることができます。それは何を言うのでしょうか? 教会の中の集いもあるのですが、普段の時の集いを言うのです。それでは、どんな団体も勝てません。いくら妨害と迫害があっても、初代教会は成功したのです。これを立てようというのです。まずいくつかの教会が始めます。役員改革が始まっています。それで、多くの人を立てて、多くの人を派遣して、多くのところで働き起きるようにしなければなりません。これを神様が喜ばれるのです。それで、大きい教会改革が始まるでしょう。
* 人生改革:そして、この2つのことより重要なのが、私たち個人に対する改革です。私の人生に対する人生改革です。その理由は、個人に対する神様の祝福が大きいためです。働きも重要で、文化も重要ですが、皆さんがさらに重要です。これから伝道することか、宣教することか、なんとも言えないほど重要ですが、皆さんがさらに重要なのです。

1.準備:それで人生改革を行おうというのですが、神様が準備されたことが大きいのです。
(1)創世記1:3,創世記1:27-28,創世記3:15:本来、神様は私たちの人間のために創世記1:3節に見ると、光を創造されたということです。そして、1:27-28節に見れば、ご自分のかたちに私たちを創造されて、万物を征服するように創造されたと言われています。ところで創世記3章でサタンに倒されたのです。それで、神様は直ちに福音を与えられました。これが創世記3:15節です。
(2)解放:その後にも人間はずっと失敗したので、聖書を見れば3ケ所、解放が出てきます。この祝福を皆さんにくださるために準備をしておかれたのです。
(3)契約的:そしてこれをするために神様が備えておかれたのが契約的祝福です。ある面では当然です。すべての人間が祝福をのがして奴隷になっているので、ここに先に立つ人が祝福の根源になるのです。私たちがこの言葉だけわかれば、聖書66巻がみな解釈できます。聖書66巻の核だけ選んで入れたのです。

2.個人:今でも同じ現象が起きるので、神様が祝福を準備して私たちの個人を呼ばれるのです。必ず記憶しなければなりません。
(1)考え-祈り:皆さんはこの答えを受ける人なので、一番最初に考えが変わらなければなりません。これが祈りです。考えが変わらないのに、いくら祈っても何をするのでしょうか? 初めて韓国で伝道運動を始めたので、多くの方たちが来られました。この方たちが、なぜ集まるのか考えてみたら、簡単です。全部、自分の教会を復興させるために資料をもらいに来たのです。それでは世界福音化ができません。そのような考えではできないのです。それで、神様が揺るがされて、福音を伝える人だけ残されたのです。力があるか、ないかは重要なことではありません。考えが違ったのです。私が外国に出てみれば、ここ韓国にいる牧師と外国にいる牧師の考えが違います。少なくとも、韓国にいる牧師は、どの場合でも福音のためにとすればそのままします。外国ではこれができません。これが訓練を受けなかった人と、たくさん受けた人の差です。信徒も見ると、外国で訓練を少なく受けている人と、たくさん受けた人は違いが生じます。他のもので違いが生じるのではありません。資料や訓練の差ではなく、考えの差です。当然、答えを受ける人なので、考えが変わらなければ、答えが受けられないのです。考えがすなわち祈りであるためです。私はそのように考えます。特別な断食祈祷ではなくても、いつもみことばと考えを正しくしたら、それが祈りです。長老、按手執事、役員が、昔の考えをそのまま持っていれば、いくらしてもだめなのです。昔の考えを捨てるべきで、それをそのまま持っていれば、新しいことができないのです。正しいのも多いのですが、間違ったことがさらに多い私の体質を変えるべきで、それをそのまま持ってしようとするなら損害を受けるのです。私より皆さんがさらによく分かるでしょう。皆さんの信徒、執事、長老と対話をしてみる時、違うという気がするでしょう。ある時は、牧師と話をしてみても、そうではないという考えが多くするでしょう。これが昔をそのまま持っているためです。世界の全てのものがみな改革されても、私の考えが昔そのままいれば私ではないのです。地球が千回、万回変わっても、私が考えをそのまま持っていれば仕方がないのです。エルビン・トフラーがこういう話をしました。今、世の中の文化は時速100kmを走るのに、政治家たちは3kmを走っているということです。仕事ができない程度でなく、他のものが行くのにかかるのです。私が分かることでは、皆さんがすることはこれしかありません。その次には、神様が働かれればすることで、しなければできないのです。それで一番注意することが、私たちの考えがいつも正しいようですが、正しくないこともあるということを分からなければならないのです。
(2)みことばと味わい:そして、今はみことばを正しく悟らなければなりません。私の考えが根本的に昔そのまま、間違っていて正しくなければ、みことばを聞いても、みことばが私と関係がないのです。役員がこういう気がしなければなりません。私は、今まで福音を知らずに生きてきたんだなあ、こういう気がしなければならないのです。今、教会が律法に染まってしまっているのでけんかするしかないのです。そうするうちに、後ほどには崩れるしかないのです。なぜなら、律法は暗闇の勢力に勝てないからです。それで、だめなのです。それで、みことばを味わわなければなりません。皆さんに向かった計画が3つです。神様は、祈りに答えることを望んでおられ、みことば成就を皆さんにくださろうとしておられるのです。
(3)伝道と時刻表:この2つに従って出るのが伝道です。これがまさに神様の時刻表というものです。この中に入ることを望まれるのです。ところで、根本的に考えがとても分別がなかったり、考えが違えば、入れないのです。言うべきではない話かもしれませんが、私たちの牧師は一般信徒よりは、もう少し分別がつかなければなりません。牧師がいつも幼稚に行動して話せば、役員は悩みます。そして、牧師夫人も、一般信徒の女性よりはわきまえがなければなりません。牧師夫人が、いつも分別がない話をして、ずるずるとグループになって通えば、一般信徒が見る時、あきれるのです。考えが違うのです。だから、教会で何かが起これば、考えが正しい人は私が神様に何をすべきかと考えるのですが、考えが違う人は、ずっと違うのです。神様が祈りに答えられ、みことばで祝福され、伝道の時刻表の中で全てを生かそうとされているのですが、それは悪いことでは全くありません。これが簡単な話のように見られるのですが、今、6つのことを出したのですが、神様の統治と創造の中に入ることなのです。今年、なぜこれをしばしば強調するのでしょうか? 神様の主権の中に入る方法なのです。予定、摂理、経綸、考えの中に入ることです。だから、まちがいなく答えを受けるでしょう。そして、皆さんに仕事も重要ですが、そのことがこの中にあれば間違いないのです。これ回復するのが人生改革です。これを改革するのが、私を改革することなのです。ぜひとも私が変わらなければどうしようもないのです。

3.基準:それなら、神様がこういう祝福を与えられる時、基準があります。どの程度でしょうか? パウロを見ながら私たちは習うことができます。
(1)世の中の成功-ちりあくた:ピリピ3:1-8節にパウロが自分が受けたとても世的な祝福のことを話しました。そして、パウロは世の中で成功したのです。失敗したのではありません。しかし、パウロはこれをちりあくただと言いました。この程度には、ならなければなりません。失敗したのに、ちりあくただというのは言葉は正しいのですが、その人は間違っているのです。学校で1番の人が「そうだ、世の中のことも正しいが、私はこれが目的ではないのでちりあくたと同じだ」と言えば正しいのですが、最下位ではないかという人がそのように言えば、違うのです。ここで私たちは何か基準が揺れているのです。パウロのように、福音をたくさん伝え、教会を生かしておいても、自分は無益な小さい者の中の小さい者だと言うのが、それが正しいのです。何と話したのでしょうか? それに対する理由を明らかにしました。
(2)キリスト:キリストを分かる知識が高尚なことの中の最高の知識だな。私がずっとこの中で発見されれば良いんだな。これが正しく悟ったことなのです。これが神様がくださった知恵です。
(3)手:ピリピ3:12節に、キリストの手で捕えられたことなった、それをつかみに行くということです。キリストが最も高尚ならば、その手で捕えられた、それをつかみに行くのです。
(4)上からの報い:ピリピ3:14節には、地にいるけれど、上のことを捕らえに行くと言いました。つまらなく地にあるのではなく、上からくださる報いに向かって走って行くということです。だから、正しく恵みを受けたのです。牧師、宣教師、役員が、このようにならなければなりません。教会の働きをよくしても、大したことではないと言わなければなりません。ある時には、これのために試みにあったりもするのですが、これでどのように世界福音化をするのでしょうか? そのように見る時、牧師、職分者を見れば、何でもないちりあくたをとらえて試みに会うのですが、これが全部なのです。
(4)背景:パウロが自分の背景を話したのです。本当にすばらしい背景です。私たちの国籍は天国にある。天国が背景です。米国の国籍を持っていれば、米国の人々が責任を負ってくれます。天国の国籍を持っていると言いました。ローマ市民権を持っていれば、ローマが責任を負います。パウロはローマ市民権を持っている者なのですが、これをちりあくたで、自分は天国の国籍を持っていると言うのです。パウロは地で働きがたくさん起きたが、それはちりあくたで、上から召された報いを追いかけて行くのです。この程度になれば、誰も止められないのです。教会の中に長老が10人がいるのに、10人がこういうレベルならば、どうなるでしょうか? みわざが起きるのです。私たちはすでに祝福を受けて、これから祝福を受けるのが確実なためです。このように、だめな理由がありません。時間が経つほど、正しい言葉です。今、韓国の宗教界の牧師がけんかをするのは、これのためです。パウロが昔に持って遊んで捨てたものを捕まえて戦うのです。未信者が食べて捨てたものを拾って食べようと戦うのです。だから、未信者が見て笑うのです。それで、神様の祝福を受けた人が、これからも受け取るのが確実なので、これがどれくらい重要でしょうか? このようになれば、どうなるのでしょうか? 結局は、パウロは世の中のものがみななくなったのでしょうか? それが用いられるようになったのです。結局、パウロがローマ市民権の背景がなくなったのでしょうか? どれくらい強大な背景を使ったかというと、監獄に行った時、自分はローマ市民権を出して、外にいると言ったのです。この人が世的に強大な人です。外にいるというので、外にいるようにしてくれたのです。弟子を集めるためです。だから捨てたのでもありません。自分の心の底から格別なことではないと思ったのです。ローマ市民権はすごいのです。しかし、パウロが見る時、私が天国の国籍を持ったので、格別なことではないと言ったのです。
* いのち:このように捨てるので、これが見せかけではなく、本物であるから、パウロにはいのちをかけた者が付いてきたのです。
* 財産:このようにして見たら、パウロの後にすばらしいことが行われたのですが、財産を持った者が献身して付いてきたのです。このようにして、一時に世界をひっくり返したのです。本当に、聖霊が働かれたのです。さらに重要なのは、パウロが死んだ後、さらに働きが起きました。想像もできないことが行われたのです。ローマを征服したのです。想像できるでしょうか? およそ200年過ぎて、ローマがキリスト教に完全に変わったのです。彼らがキリスト教を国教に変えて、日曜日を聖日に変えて、礼拝をささげる日に変えたのです。それを持ってSDA(セブンスデー・アドベンチスト)教会が問題だと言ったのです。本来、日曜日はローマが太陽神を崇めた日なのに、その日に礼拝をささげて良いのか?それは知らない言葉です。聖書を見れば、安息後の初めての日という言葉が出ています。それが日曜日です。その日にイエス様が復活されたので、初代教会の信徒が集まって礼拝をささげたのです。あえて話せば、日曜日を聖日というのですが、それも正しいのかと思います。日曜日が聖日ならば、月曜日は何でしょうか? 悪霊の日なのでしょうか? みな聖日です。あえて問い詰めれば、SDA(セブンスデー・アドベンチスト)教会は必ず土曜日に礼拝をささげなければなりません。それでは、米国は金曜日です。科学的に合わない話をするのです。私たちが知らずに無人島に住むようになったとしましょう。日も分かりません。それでも礼拝をささげようとします。その日が火曜日だったら、ささげてはいけないのでしょうか? 話にならない話をするのです。私たちはこれ自体が神様の前ですべての祝福がみな回復したのです。だから、すばらしい答えを受けた人々が初代教会に起きて、ローマを福音化して、世界を福音化したのです。それで、とても強くすることもなくて、この契約をつかめば、個人がみな答えを受けるようになっています。それで、次の土曜日はもう少し教会改革に対して話を分かちあわなければなりません。長老と教役者は、これをよく活用しなければなりません。教会改革を通して、職分者を引き上げなければならないのです。信仰と生活を押し上げなければなりません。それで、この方たちが神様の祝福を受けて、世の中を生かす者にならなければならないでしょう。この祝福の主役になることを希望します。
-要約-
<共同体と産業宣教(119) -改革の主人公(8) -個人に対する神様の祝福(ピリピ3:1-20) >
1. 神様が備えられた祝福
(1) 創1:3、創1:27-28、創3:15 (2) 解放の祝福 (3) 契約的な祝福

2. 個人に向けられた祝福
(1) 考えと祈り      (2) みことばと味わい
(3) 伝道と時刻表
① 創造と統治 (Creation) ② 主権 (Authority)    ③ 聖定 (Predestination)
④ 摂理 (Providence)   ⑤ 決意 (Purpose) ⑥ 定め (Decree)

3. 個人に向けられた神様の基準
(1) ピリピ3:1-8     (2) ピリピ3:9-10
(3) ピリピ3:12      (4) ピリピ3:14
(5) ピリピ3:20