[2008年5月24日 産業宣教 場所:ソウル産業宣教センター]


共同体と産業宣教(201) - OMCの使命(44)
主にあって労した者
(ローマ16:6,12)
(イ・ビョンム牧師)



☆☆☆要約資料☆☆☆
1.主にある者
(1) 福音によって答えを得た者は、すべての答えを見つけることができます (ローマ1:16-17)
(2) 恵みを受けた者は、働きの方法が異なります (Ⅰコリント15:1-16)
(3) 感謝を味わう者は考え、人間関係が異なります (Ⅰテサロニケ5:16-18)
(4) 神様の栄光のために生きる者は目標が異なります (ピリピ3:1-20)
2.労した者
(1) 神様の愛を受けた者は愛することができます (Ⅰコリント13:1-13)
(2) 愛する者は労することができます (ローマ16:6、12)
(3) 望みを持っている者は忍耐すること、労苦することができます
また、労苦だと考えません (Ⅰテサロニケ1:3)
3.初代教会の労苦
(1) いのちのあるいのち的な献身
① 主にあって - 12回くらいの記録がローマ16章に現れる
② 使4:12
(2) すべての使徒が殉教したいのちをかけた献身
(3) 誰も止められないいのちを生かす献身
(The end)

☆☆☆説明資料☆☆☆
→序論
▲ローマ16:6,12節にあなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。主にあって労している、ツルパナとツルポサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。
▲今日のタイトルは主にあって労した者です。柳光洙牧師が伝道弟子にあたえるメッセージの中で、第1番が主の中に立ちなさい!です。キリストの中に立ちなさい! 私たちは主の中にある時、キリスト中にある時だけ真の存在価値があります。それで、使徒パウロが一番多く使う単語が、主にあって、キリストにあってです。パウロが監獄の中に入っても、監獄の中にいたのではなく、キリストの中にいたのです。それで、監獄がパウロを捕まえたのではなくて、パウロが監獄を変化させるみわざが起きたのです。どんな現場にいても、それがキリストの中にある現場だからです。
▲私はキリスト中にいる時が多いのか、キリストの外にある時が多いのかを考えてみなければなりません。まだ、私たちは律法的にする時が多くて、創世記3章側にする時が多いのです。私たち自身を一度よく見る時間になることを希望します。例えば、ある人が私を困らせる時、福音的な愛が先に出てくるのか、怒りと恨みが先に出てくるのか、一度考えてみるように願います。慣性の法則というものがあるのですが、動こうとするのはずっと動こうとして、じっとしているのはずっとじっとしていようとするのです。私は福音側に慣性が作用するのか、そうでなければ律法側に、創世記3章側に作用するのか、一度比較してみることを望みます。それで、どんな状況、どんな条件の中でも、キリストにあって福音で体質化される私たちにならなければなりません。
▲それで、私たちは主にあって私たち自身のアイデンティティーを確立しなければなりません。私が私を見る時、私をどんな人だと認定しているのでしょうかを、メッセージで確認しなければなりません。メッセージで自分自身の新しいアイデンティティーを確認していかなければならないのです。すべての福音の人々はメッセージを通して、自らのアイデンティティーを確認した人々です。
(1)モーセは80歳の老人、おじいさんの年齢で神様の前に招かれました。神様がモーセの所に行かれ、わたしの民、イスラエルをエジプトから救いなさいと命令されたのです。モーセはその命令を受けた時、びっくり驚いたのです。私がだれなので、パロに行くのかとうろたえました。送るべき人を送ったくださいと拒否したのです。私は口が重くて、話もできないと言いました。出エジプト3、4章を見れば、モーセが10回も不信仰を言います。後には、神様がモーセを殺してしまおうとされました。モーセの妻チッポラが息子に割礼を行って、血の夫だと大声を張り上げたので、モーセが生き返ることができたのです。私たちは人間的にその当時のモーセの状況を考えれば理解ができます。年齢は80歳のおじいさんであって、40年間、羊飼いをしていて、全てをあきらめた状態だったのでしょう。ところで、神様はモーセにものすごいメッセージをくださったのです。はじめに拒否したモーセが、ずっと神様のメッセージを聞いて考えが変わりました。神様が私とともおられるのだな、神様がともにおられれば、力、奇跡が現れるんだな。ツエが蛇になったり、蛇がツエになったりもするんだな。手に持たせたハンセン病が治ったりもするんだな。メッセージを聞いて自分自身の方向を新しく変えたのです。自分自身のアイデンティティーを確立したのです。彼は奇跡の人になりました。その当時、モーセの状況と私たち自らの状況を比較すると、どちらがより良い条件を持っているでしょうか。私が先週にモンゴルに行ってきました。その羊肉市場でも羊たちをたくさん見たのですが、頭が痛くて吐き気がするほど、その羊の臭いがものすごかったのです。私と一緒に行った牧師は、市場に入ることができなくて、途中で飛び出してくるほどでした。ところで、モーセは40年間、羊飼いをしたので、多分、モーセには羊の糞の臭い以外はしなかったでしょう。羊も自分の羊でもなくて、妻の実家の羊です。韓国にには、どんなことがあっても妻の実家の世話にならない言葉があるのに、モーセは40年間、妻の実家の世話になっていました。だから何の自信や勇気や力があったでしょうか。ただ恨みだけが強くなっていたでしょう。しかし、夢も消えて、ビジョンもないと思った、そのような絶望的な状況だったでしょう。
▲私たちはどうですか。まだ若いです。モーセのように80歳になろうとするなら、まだまだです。私たちは柳牧師を通して、どれくらいものすごい世界福音化のメッセージを受けているでしょうか。産業宣教、経済宣教、OMCのメッセージをどれくらい受けて味わっているでしょうか。モーセと私たち自身の条件を問い詰めたら、私たちがはるかに良い条件です。ところで、その条件が悪いモーセは、メッセージを受けて自分のアイデンティティーを確認して変化したから、奇跡の人になりました。民族を生かして、世界を掌握する人になったのです。モーセが環境、条件が変わったのが一つもありませんでした。ただし、メッセージをつかんだのです。自分のアイデンティティーを確立したのです。私たちも、この時代的なメッセージを握って、本当にアイデンティティーを確立しなければなりません。私たちが主にあって、このメッセージが成就して実践される祝福を味わわなければなりません。私たちすべての重職者が、産業宣教師になって、OMCになって、ユダヤ人を超越して未信者を助ける、この祝福の時刻表の中に入らなければなりません。真に残念なのは、多くのタラッパンメンバーが、メッセージだけ聞いて恵みだけ受けるのですが、そのメッセージが真に成就しないというのが悲しみです。
▲私たちは主の中にいなければなりません。どのようにすれば、私たちが主の中にいるようになるのでしょうか。イエス様がおっしゃったのは、わたしはブドウの木で、あなたがたは枝だとおっしゃいました。枝はブドウ木についていさえすれば、自然に実を結ぶとおっしゃいました。私たちが枝ならば、どのようにブドウ木であるイエス様についていることができるのでしょうか。メッセージを握るのです。イエス様がおっしゃるのに、あなたがたがわたしの中にとどまって、わたしの言葉があなたがたの中にとどまれば、何でも願うとおりに求めなさい。そうすれば、成し遂げるとおっしゃいます。私たちは柳牧師を通して、いつも主のみことばを受けます。メッセージを受けます。そのメッセージを本当に私たちの中心で握って、アイデンティティーを確立していれば、そのみことばが私たちにみな成就するでしょう。柳牧師がおっしゃるのに、祈りの答えよりさらに重要なのが、みことば成就だとおっしゃいます。柳牧師は、本当に自信を持っておっしゃるのが、タラッパンでメッセージが出てきて成就できないことがあるのか!真に驚くべき恵みです。柳牧師がメッセージをされて、成就しないことは一つもありません。徳平にインマヌエル教会を作ろうというメッセージがこの前に出てきました。今はインマヌエル・ソウル教会は徳平にたてられるのだなあ! 私はそのような考えになりました。なぜなら、柳牧師がメッセージをして成就しないことはないから...
(2)ダビデもこのメッセージを握ってアイデンティティーを確立したので、最高の人になりました。ダビデは幼い時、自分の家でも、それほど認められることもない、そのような弱い存在でした。サムエルがエッサイの家に礼拝しに行った時、エッサイはダビデ除いて兄だけを連れて行きました。ダビデ、お前はそこに行く必要もなく、羊でも守っていろと言ったのです。ダビデが本当に愛されて認められる存在だったら、そのように冷遇しなかったでしょう。ところで神様がダビデを捜し出されたのです。サムエルを通して油を注がれました。油を注いだと、火が降って力が入ったのでしょうか。それではありません。サムエルがダビデにメッセージを与えたのです。契約を植え付けたのです。あなたは王になる人だ。ダビデがただ一度メッセージを受けたのですが、そのメッセージを持って自分自身のアイデンティティーを確立したのです。私は王になる者だ! それで羊を飼う時も王になる準備をして訓練をしました。民を守る気持ちで羊を守りながら、獅子と熊と戦って勝利しました。ゴリヤテに出て行って戦う時も、どうして理由がないのかと言いながら挑戦して勝利しました。私がゴリヤテと戦って死ぬなら、何のために神様が私を王として油を注いで、そのようなメッセージをくださるでしょうか。
▲メッセージを握って、アイデンティティーを確立するのが最高の人になる勝利の秘訣です。本当に私たちの産業宣教会のメンバーが、イザヤ60章のみことばが成就することを希望します。ユダヤ人を超越して、未信者を助けるOMCの祝福、柳光洙牧師のメッセージであるから、必ず私たちに成就する答えを受けなければなりません。私はそうなる人だとアイデンティティーを確立して、そのメッセージが私を通じて実践されるように祈らなければなりません。お金をたくさん儲けて実践しようとせずに、今から実践しなければならないのです。今、レムナントを生かすのにお金を、経済を投資しなければなりません。お金がいくらもない時に、ポケットにあるものをみなはたいてすることが、より大きい祝福を受けられます。今、難しい時、持っているもの、少ない時、私たちはOMC役割をしなければなりません。今、貧しくて弱い時、私の持っているものをみなはたいても、教会を生かす重職者の役割をしなければならないのです。
▲メッセージを握るのが、主の中にいる道になることと信じます。それで、メッセージを見ます。
1.主にある者
(1)福音で答えを得た者はすべての答えを探せます(ローマ1:16-17).
▲ローマ1:16-17節に、私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。私たちはすべての問題を福音の中に入れてしまわなければなりません。すべての問題をメッセージの中に入れてしまわなければなりません。そうすれば、そのメッセージが私の問題を通して成就すると信じます。問題と困難は確かに私たちの土台になるでしょう。私たちに敵対する敵の勢力が、私たちの土台になるでしょう。使徒2:35節にダビデが告白します。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい...敵の勢力、悪魔の勢力、敵対する勢力が、私たちの土台になってくれるでしょう。それで私たちはどんな状況の中でも、神様の恵みの中にとどまることを希望します。
(2)恵実を受けた者は、働きの方法が違います(Iコリント15:1-16)
▲Iコリント15章のみことばが復活の章です。復活信仰を持てば死んでも生きるという信仰で献身すれば、みわざが起きるでしょう。
(3)感謝を味わう者は考え、人間関係が違います(Iテサロニケ5:16-18)
▲私たちは主の中にいるから、真に感謝を味わう生活を送るべきです。すべての人間関係の中でも、福音的な人間関係で感謝して、喜んで、祈る関係にならなければなりません。
(4)神様の栄光のために生きる者は目標が違います(ピリピ3:1-20)
▲使徒パウロのように、神様が上に召してくださる神の栄冠を得るために走って行かなければならないでしょう。主の中にある者はこういう真の栄光が臨むようになります。

2.労苦する者
▲2番目に、私たちは主にあって私たちは労苦する者にならなければなりません。柳牧師がおっしゃるのに、私たちは持っているものはないのですが、体で奉仕すれば献身する者というみことばを聞きました。これから世界経済を掌握するOMCにならなければならず、専業宣教になるように祝福を受けなければなりません。
▲今私たちが持っているものがなくて弱い時、さらに福音のために献身して労苦できなければなりません。Iコリント1:27-28節に、神様が知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのですとおっしゃいます。私たちが力がなくて弱い時、さらに福音のために労苦する者として献身したら、神様はより大きいうつわに祝福されるでしょう。
▲この労苦する者という単語は、マタイの福音書11:18節に疲れて重荷を負っている者は、わたしのところに来なさいという単語と同じ単語です。原語の意味を見ると、熱心に仕事をして、疲労を感じる、衰弱するという意味があります。どうせすべての人生は労苦する人生です。福音ない人は不信仰と罪とサタンに縛られて労苦して苦労します。私たちも使命を持てなければ、肉体的なもの、世的なものために労苦する人生を生きるようになります。事実、労苦しない人は誰もいません。ところで、私たちが何のために労苦する者になるかが重要です。せっかく労苦するなら、福音のために労苦して、教会のために労苦して、レムナントのために、伝道のために労苦しましょう。真に神様の愛される者になったので、神様を愛する労苦をしましょう。福音のためにしても、肉体のために生きても、同じように労苦するようになっています。ですから、心でも、考えでも、計画でもちょっと変えなければなりません。福音のために、レムナントために、教会のために、宣教のためにOMCで労苦しましょう。神様を愛する気持ちで労苦できることを希望します。
(1)神様の愛を受けた者は愛することができます(Iコリント13:1-13)
▲Iコリント13章は、愛の章です。私たちの産業宣教師は、弟子の精神を持つべきなのですが、弟子が持たなければならない最初の条件が愛です。愛がなければ何でもないためです。愛がなければ私たちは、ドラの音と同じです。愛さない者は神様を分かることもできないと話しています。イエス様は弟子ペテロに、あなたはこの人たちより、わたしのことをさらに愛しますかと尋ねられます。私が主を愛することを主がご存知ですと告白します。この告白が私たちの告白になることを希望します。柳牧師が、伝道合宿メッセージの中で、私たちすべて主を愛するという告白があるようにして下さい!と祈るのを聞きました。できれば、皆さんも私が主を愛します!と告白しながら祈るように願います。告白しながら愛して、愛で労苦する恵みがあることを希望します。
(2)愛する者は労苦できます(ローマ16:6,12).
(3)希望を持った者は忍耐できて、労苦できて、そして労苦だと思いません(Iテサロニケ1:3)
▲テサロニケ教会のように愛の労苦と希望の忍耐がある答えを受けるように願います。

3.初代教会の労苦
▲初代教会の労苦を見習うことを希望します。
(1)いのちある、いのち的献身をしました。私たちも7人のレムナントのように、インマヌエルの祝福を味わう献身がなければなりません。
①主にあって- 12回ほど記録がローマ16章に現れること
▲ローマ16章の中に主にあってという単語が12回も出てくるということです。私たちが真にいのち的献身をするために、主にあってインマヌエルの祝福が確認されられなければならないでしょう。それで柳牧師は、3つ確認しなさいと言われます。みことば確認、答え確認、伝道確認です。こういう3つが確認できれば、インマヌエルが確認できるでしょう。こういうインマヌエルの祝福を味わえば、労苦して献身するようになるでしょう。
②使徒4:12
(2)初代教会はすべての使徒が殉教したいのちをかける献身でした。
▲使徒がなぜいのちをかけて殉教しながらも、献身したのでしょうか。あなたがたは行ってすべての民族を弟子としなさいという主のメッセージを成就したのです。私はこの間、洗礼式をしながら、もう一度自分自身を振り返りました。すべての民族を弟子として、バプテスマを与えなさいと主は命令されました。ところで、私は弟子としてバプテスマを与えることが一度もないように思いました。バプテスマを受けるというからバプテスマを与えたのであって...それで私が悔い改める心を持ちました。いのちをかける献身は弟子になって、弟子を探す献身です。
(3)誰も防止できないいのちを生かす献身を私たちも味わえることを希望します。
▲世々に渡って長い間、隠されていた祝福が今や現されたのです。RUTC時代にレムナントを生かす献身があることを希望します。OMC時代に本当に産業と経済を持ってレムナントを生かして、教会を生かして、未信者を生かして、世界福音化の答えを味わえることを希望します。重職者時代に本当に教会を生かす弟子になることを祈ります。祈ります。
(祈り)
神様、私たちが主にあって生きることができることを感謝します。キリストにあって、すべての問題が解決されることを信じます。キリストにあって、柳牧師を通して、ものすごい世界福音化のメッセージをくださったことを感謝します。このメッセージの中で、生活で、主の中に生きる祝福を味わえるようにして下さい。モーセのように、ダビデのように、主にあって私のアイデンティティーが確認できますように。愛の労苦をするようにさせて下さい。いのち的献身、いのちをかける献身、いのちを生かす献身で勝利するようにさせ下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
(The end)