2001年9月30日
東三第一教会 聖日メッセージ
世の中には色々な問題がたくさんあります。しかし、解かってみれば一言で霊的な問題です。問題は数万種類以上ありますが、原因はひとつです。それで一つだけよく解決すれば、みな解決するのです。
幼い時からしばしば家出をする子供がいますが、その子供がおとなになれば、どのようになるでしょうか? 家での環境が良くないから出ると考えるのでしょうか? もちろん、そのようなこともあります。幼い時からずっと家出をする子供は、年をとりながら完全に家出をしてしまうのです。私は環境のためだけではないと考えます。それがまさに世の中の人々がわからない霊的な問題です。分からないので、私たちは誤って解決しようとするのです。
ある人は、幼い時からしばしば嘘をつきます。それで大きくなって、盗みもします。後ほど貧しくなると強盗もします。後ほどは人も殺します。皆様は、どのように考えるのでしょうか? それは、簡単に勉強ができないからとか、家庭環境のためでしょうか? それが、まさに霊的な問題です。より驚くべき事実は、人を何人も殺した人を捕まえて裁判をするのに、はじめに自分ではないと嘘をついていて、後ほど完壁な証拠が出れば、その時になってはじめてそうであると言うのです。それで、刑務所伝道する方が、福音を伝えたら、はじめには福音を受けません。伝道しようと行った人が言うのには、その人がなん名かを殺したのに、驚くべき話をしたということです。人を殺す時、死ぬ人が苦闘するのを見て、それがうれしいと言ったということです。皆様はその人をどのように考えるのでしょうか? 人が死ぬことをみつめる瞬間がとてもうれしいので、人を度々殺すと言いました。それは単純な問題ではなく、霊的な問題です。
ある人が大事故を起こしました。いろいろな人が住んでいるビルディングに火をつけたので、後ほど捕えられて、何故そのようにしたのかと言われて、自分も分からないと言いました。こういう人が、この地に1,2名ではありません。これが何かの本で解決できるのではないのです。カウンセリングで解決できるならば簡単なのですが、霊的な問題がない人であればカウンセリングが通じますが、霊的な問題がある人はカウンセリングが全然できません。カウンセリングということは、ある程度正常な人がすることであって、狂った人には必要がないのです。この地にこういう人々がぎっしりといます。
今でも釜山駅に行けば、ホームレスがたくさんいます。空港に行けばいません。もちろんいないようにしているのですが、そこにはいません。元々ホームレスは、清潔な所は嫌います。ホームレスは駅や橋の下に集まっているのです。日本にも行けばたくさんいます。ところが、この人達に共通点があります。家を出ていることがはるかに気楽だということです。そして、回りながらもらって食べたり、拾って食べることがとても気楽だということです。‘なぜお金を儲けていつそのように食べなければならないのか? もらって食べるのがはるかに気楽なのに...’そして、家を出てふとんひとつを持って他の家の前で横になっていれば、そのように気楽だということです。冬にはどうするかと聞いたところ、服もたくさん来て、覆って生きると言いました。
その人々をどのように考えるのでしょうか? もちろん、その人々にうどんも作ってあげなければなりません。しかし、私が見る時はそれではありません。簡単に話せば、精神疾患者です。一言で霊的問題です。
問題は数万種類に見えるけれど、ひとつで要約されるのです。また、そのような人々は、神様を信じなさいと言っても信じません。それとともに、見れば石や木を見て手をついて礼をするのです。干した魚を見ても手をついて礼をして...豚の頭を見て手をついて礼をすることは、それでも理解できるけれど、なにか異常なものを作って置いてお辞儀をして... そうしながら、大きい問題がくればグッ(降霊術)をしたり、宗教を選択したりするのです。結局、だめなことを知るようになるはずです。すると、二つの中のひとつを選択します。あきらめたり、自殺したり... ある人は、暴力的なことをしたり...
これがこんにち、人々が生きていっている方法です。もちろん、今話した人々のように生きていない人もたくさんいます。ところが、そのような人々も大部分は、このようにしていないだけで、そのような可能性をみんなが持っているのです。ひとつをよく知ることができないからです。これがまさに霊的な問題です。
それで、神様が私たちに福音を下さったのです。だめだと知っておられるために福音を下さったのです。今日私は、皆様に事実を話しますが、福音を悟った11年後に答をもらいました。私は1974年に福音を正確に受けました。その時、福音を受けたのですが、答にはなりませんでした。教会に通いながら失敗する人々をたくさん見たのです。私も全く一緒でした。私も教会に通っていたのですが、なんにもならなくて全く同じ状況でした。伝道もしました。イエスを信じれば救われるという事実を知っていたために伝道もしたのです。
1985年くらいになった時、東三第一教会に来る3年前に、福音を悟って11年が過ぎた時、その時になってキリストはあらゆる問題を解決された方だという答を得ました。‘キリストはあらゆる暗闇の勢力をみな破ったんだなあ!’という答を得たのです。その時になって‘私はだめだけれど、キリストは完全だな! ’‘私は日ごとに弱いけれどキリストは完壁な救いを成し遂げられたのだな!’とその時になって感じたのです。福音を受けて11年後に...その時、私は牧師でした。その時になってはじめて‘キリストはあらゆる問題の解決者なのだな! ’その時にはじめて‘キリストが創世記 3章の問題を解決したんだなあ!’私が真実にその時に悟ったのです。‘イエス・キリストが悪魔のしわざをみな滅ぼしてしまったんだなあ!’それ以前にもたくさん聞いていたのですが、私が感じることができなかったのです。それならば‘イエス・キリストはあらゆる問題の解決者に間違いないのだな!’その答を私の姿は少しも変わらないで悟り始めたのです。
ところが、神様が働かれ始めたのです。その時からいままで、神様はあらゆる祝福を注いでくださったのですが、錯覚ではなくて、最高の祝福を受けました。肉体的にもそうで、霊的にも私より幸福な未信者を見ることができませんでした。その時になって‘キリストは本当にあらゆる問題の解決者なのだな!’その時からずっと答えがき始めたのです。他の物をみな置いておいて、私が受けた答えを見ようとするなら、未信者が何故滅びているかを見始めました。それで、未信者状態ということを説教しながら話すようになったのです。その時からずっと答えが来るのに、キリストは私たちのあらゆる問題を解決しただけでなく、どんな祝福を私たちにくださったのか?をひとつずつ、ひとつずつ知るようになったのです。マルコのタラッパンで、伝道はどのようにしたのか?を知らされました。
率直に1985年までは祈りもできませんでした。わざわざ山に登って、断食して倒れる程、祈りができませんでした。ですから、くやしくて祈梼院に行って座っていたのです。平常時に全く祈りがだめでした。キリストがあらゆる暗闇の勢力に勝たれたのだな!と知って、祈りが少しずつ少しずつできるようになり始めました。その時から、現場の秘密が少しずつ見え始めたのです。その時から、神様の前に多くの証拠を見始めました。それで、私が「福音の手紙」という本を書いた時は、信徒を見て一度行ってみなさいと気楽に書いたのです。東三第一教会の初期でした。それで、福音の手紙という本を見れば、未信者状態や信者が受けた祝福に対する内容がすこし足りません。なぜならば、その時まで私が受けた答えは、それしかなっていなかったので... 私が答えを受けた、そのまま書いたゆえにいまはまた違います。
神様が、毎日毎日答えを下さいました。それで、キリストを理解するということは、並大抵のことではないということがしきりに感じられました。私が考えることには、キリストはあらゆる問題の解決者、完壁なのに、私がその部分をあまり確信しているから、今は私がその部分をちょっと節制せねばならないと考えています。私はあまりたくさん走りすぎて疲れたので、ちかごろは、私があまりたくさん走らないようにと考えるようになっています。私は、走りすぎるほど、それほど確信があったのです。
神様が、キリストを知るようになった1985年からいままで、祝福をものすごく注いでくださったのです。答えを受けている時、1988年にここにくるようになりました。私が影島に足を入れたのが87年 10月です。それから88年オリンピックが開いたその年にここで本格的に教会を始めるようになったのです。時間が経てば経つほど答えがきました。
それで、今日の本文にあるとおりに私が痛感するようになったことがあります。教会の中には羊もいてヤギもいるんだな、ということです。それは私が長く信仰生活をしながら信じるようになったことです。むかしに私は、教会に行けば全部天使だけがいると思っていました。 そして、教会に通えば天使のように、そのように生きねばならないと思っていたのです。ところが、信仰生活を長くしながら‘教会の中には羊もいて、ヤギもいるんだな!’と分かるようになりました。もちろん、主のしべの中にも羊もいて、ヤギもいます。最後の時、これが混ざっているのです。簡単に話せば、救われる人もここにあって、救われていない人もここにいることです。最後の時には、完全に表れるでしょうが、確かにいるという事実です。
そのように知って、皆様は信仰生活に参考にしなければなりません。最後の時は、マタイの福音書 25章に見れば、油を準備した乙女がいて、しない乙女がいます。福音のために全く生きないで、土地にタラントを埋める人もいて用いる人もいるのです。
より簡単に、今日は羊もいて、ヤギもいるということです。私たちは、羊はなにかを知っています。ここにヤギの特徴を話しています。ヤギということは、簡単に話して、救われなかったということです。
私は、他の人の話を一度確認してみることもあります。他の人は、何と話しているか参考にするのです。大部分の注釈家が、この部分を解釈するして、貧しい人々や、難しい人を手助けしないと祝福を受けることができないと注釈をしています。ほとんどあらゆる注釈家は、そのように解釈をしています。難しい人を手助けすれば祝福されて、手助けしなければ祝福されないとしているのです。
もちろん、ある程度正しい話です。ヤギを見て、永遠な地獄へ行きなさいと言われました。右の方にいる羊を見て、創世前から備えられた祝福を受けなさいと言われました。それもイエス様が再臨してこられる最後の時にそうになるとされています。このように重要なことを、難しい人をひとり手助けした、手助けしなかったという基準を持って解釈するのでしょうか? そのようなことではありません。
ヤギに、救われていない人に現れる数種類の現象があります。せきをするからといって、肺病にかかったことではありません。そのように解釈してはだめです。しかし、肺病にかかったら、せきが出てくるのです。大部分はせきが出てきます。かと言って、せきをしたとしても肺病ではないのです。ここに救われていない人々の特徴、数種類が出てきます。
(1)福音を知らない- 救いの福音とは、全く関係もなくて、関心もありません。この人達は、地獄に行くしかありません。せつないことには、牧師達が号泣しなければならない事があるのです。今、外に行って、クリスチャンに尋ねれば、救いに対してほとんど知りません。それで救い派に巻きこまれて、ベレヤに巻きこまれて、右往左往するのです。これは全世界の牧師達が早く悟らなければなりません。皆様が現場に伝道しにいってみれば、未信者が問題ではなく、信者が問題です。私は現場に入っていって、そのように悟りました。信者に福音がないだけでなく、福音をわざわざではないけれど、知らずに防止するのです。この人達が教会に来れば、教会の権力争いをするしかなくて、教会で争いをするしかないのです。救われていない牧師が教会や総会に行けば、教会権力に生きるしかないのです。救われた牧師が教会に行けば、福音を伝えることにいのちを捧げるしかないことと全く同じことです。ヤギである兆しが出てくるのです。今日も35節に "わたしのために..." と言われたところ、羊達は‘私達が主のためにいつそのようにしたでしょうか’と言いました。
(2)福音には関心もありません。ヤギの2番目の特徴です。福音に対して関心もなくて、伝えることもありません。そうしたあと見れば、自然に三番目の結論が出てきます。
(3)人中心で動くしかありません。そうしたあと見ると、難しい人、貧しい人々に関心が行くことができません。同情心でなく、することができないのです。人の力について行くしかありません。救われなかったゆえにそうするというよりは、救いの条件でなく、救われていない人はそれしか仕方がないのです。
時々、選挙になれば国会議員が挨拶をしにきます。私はその方のために祈ってあげてあいさつさせてあげます。できない理由はありません。ところが、その方は何故きたのでしょうか? 礼拝をささげようときたのではありません。恵みを受けようときたのでもありません。何故きたのでしょうか? 皆様を見て、私の顔をみつめて、自分に投票してくれということです。それしかする理由がないのです。小さい教会に行って、そのようにする理由はありません。何故ないのでしょうか? 何名も集まらないのに行って、得票できるでしょうか? 当然なのです。
救われていない人の当然の結果です。イエス様の水準が高い話を悟ることができないのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」と言ったところ、羊たちがそのようなことはしていないのに、私達は主に仕えただけで、いつ行って主にしたのでしょうか? とたずねたら、主が「あの小さな者にしたことが、すなわち私にしたことである」と言われました。かと言って、小さな者=イエス・キリストではないということです。ホームレスがすなわちイエスだということではありません。福音を持った人々の関心は、あのホームレスに福音を伝えねばならない!と関心が行くしかなくないでしょう。
むしろ、ヤギ達は、私達は主を助けてあげていないでしょうか? そのようにたずねました。しかし、あなた達がこの小さな者にしなかったことは、私にしなかったのです。そのような結果が出てくるしかありません。それで外側の暗闇に、永遠な地獄に行って苦労をしろと言われたのです。特に、地獄に行く人は地獄の研究を多くしなければなりません。何故でしょうか?行かなければならないために... 救われていない人は、本格的に地獄の研究をすべきです。救われない人々は、ヤギがどういうものか研究しなければなりません。どんな人を見て言った言葉なのか...福音を知らないのです。この説教に来て、寺に行ってそのまましてもなんの関係もありません。
それならば、今、あなたがたが牧師たちや注釈家がマタイの福音書 25章を注釈したことを見てしてみましょう。貧しい人を手助けしてこそ祝福を受ける、はなはだしいことにある人は、貧しい人を手助けしてこそ救われると出てきました。それでは天理教や仏教と違わないのです。全く同じことです。ムダン(霊媒師)理論や南無妙法蓮華経と全く同じことです。だから世界の教会はこのようになるのです。そうではありません。注釈が間違っています。
今日の本文はものすごいのです。主が再臨して来られる日、教会を審判される最後の現場です。羊とヤギを分けられるのですが、ヤギの特徴はどうなのでしょうか? ヤギは羊ではありません。福音がないのです。ですから羊飼いも必要ありません。福音に関心もないのです。伝えることもしません。関心は一ケ所しかありません。人の考え、人の集い、人の利益にだけ関心があります。このように結論が出たのです。たぶんヤギは、地獄に行っても分からないでしょう。私たちは何故そうなのか? イエス様は本当に悪い人だな...と良いながら行くはずです。私達が捧げたのが悪かったのかとしながら...
私は、一度はどれくらい腹が痛かったか分かりません。むかしの友人に会いました。私が教会に通っているということで驚いていましたよ。それで、私が教会は通う所ではなくて、イエスを信じるようにと言いました。行く道で偶然に会ったのにいう話が、自分たちも幼い時、教会にたくさん通ったとしながら、その時、教会に良いことを多くしたと言いました。それでどんな良いことをしたのかと聞いたら、献金をたくさん持って行ったと言いましたよ。それで、そばにいた人が言ったのは、その代わりたくさん食べさせてもらったではないか? と。私が生まれて初めて、むかしの友人に会って福音を伝えないでそのまま帰ってきました。これは福音を受ける人々ではないなと。やー! ヤギと言うよりどうしようもないな!
ヤギの特徴は福音がないのです。福音に関心もなくて、伝えることも出来ないのです。全ての中心は人です。教会権力が悪いということではありません。教会の権力の方向へ行くしかないのです。教会の献金は絶対にしないのに、お金を1億円ずつ使って総会長に出馬します。昨年、ある教団では 2億円使ったということです。どこで起きたかは知らないけれど... 私たちの教団は、総会長をお互いにしようとしないのに...まだ私たちの教団は純粋です。教団が小さいからそのようなことではありません。今、私たちの教団が全国で七番目です。数字上でそうです。しかし、集まることを話すならば、最高にたくさん集まっています。来年には、最高の教団になるように最善を尽くそうと思います。あなたがたが覚悟して祈らなければなりません。救われていない人が牧師になれば、どのようになるでしょうか? 想像してみてください。救われた人が牧師になったとすれば、どのようになるでしょうか? 自然に福音の人は、感激があります。救われていない人が牧師になれば、マタイの福音書 25章で結果が出てきます。どこか大きい所はないか? と見回して、どこに利益があるか? どこに自分のポケットに良い人はないか? 信徒の中で自分の側は誰か? この教会はどれくらい謝礼をくれるか? 老会に行けばいつ老会長になって、総会に行けばいつ総会長になる夢を成就できるか? それしか仕方がないのです。マタイの福音書25章、あまりにも重要な話です。これをでたらめに解釈しては大変なことになります。
私達が受ける祝福です。マタイ25:31に "人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。"34節に見ると "そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。" これが天国、救いの祝福です。こういう祝福を説明したのに、かわいそうな人を手助けしないからだという、そのような話ではないのです。
今日よく記憶しましょう。
(1)福音とは何でしょうか?福音はいのちです。福音を持っていることが確かならば、私達はどんどん育つようになっています。私達は、信徒をよく教えて、子供達をよく教えるべきですが、行き過ぎるようにする必要はありません。木はいのちがあれば育つようになっています。ある程度よく育てることは必要ですが、行き過ぎるようにする必要はないのです。何故でしょうか?いのちです。
(2)福音は何でしょうか?光です。私一名ゆえに、私達の家、産業はみな生かされるようになっています。何故でしょうか?光が照らすならば、暗やみはみな変わるようになっているからです。
(3)福音は何でしょうか?道です。私達が行けない道を、神様が開けてくださって、神様と通じる道です。
(4)福音は何でしょうか? 私たちを欺かない真理です。
(5)結論的に福音は何でしょうか? 神様の子供になることです。それを救いというのです。
私達は、今日から良く考えなければなりません。後ほどある祝福を知って、今から信仰を整えるべきです。急ぐ必要もありません。神様がある日門をあけてくだされば、その時私たちは味わえば良いのです。確かにいのちは育つようになっています。
またある面では、伝道をするべきなのですが、伝道をしようと悩まなくても良いのです。何故でしょうか?その人が福音を持っていれば、そばにいる私が未信者でも分かるようになります。この人が福音を持っている人なのか、教会にだけ通う人なのか、私が理解できます。この人は、教会に通う人なのに、神様の子供となった祝福を持っているか、そうでないかは、未信者の私がよく分かるのです。すると、いつか私が救われるためにこの人に接触するようになっています。その人は、簡単に説明だけしてあげればよいのです。それで、私が救われたなら、私の中にいのちがあります。私が育つようになっているのです。私の弱い部分を神様がご存知であるために、神様が力もくださるようになっています。
それで、皆様一名がイエスを信じたのに、皆様の行き先に全部光が照らすのです。ヨハネ福音 1章に光と言われました。いのちと言われました。救いと福音に対して、私たちはとても違うように思っているのです。今日、皆様にこういう祝福が臨むようになることをお祈りします。
神様に感謝申し上げます。今日、いのちの光が臨む時間になるようにしてください。創造の光が照らす時間になるようにしてください。今日この時間に神様の子供になった祝福が回復する時間になるようにしてください。私達が真にヤギのように不信仰の者にならないようにしてください。永遠な祝福を受ける羊と同じ祝福を味わうようにしてください。私達が真の福音ゆえに生きる教会になるようにお祈りします。今日、この時間にあらゆる主の民に天の祝福を与えて下さい。ヤギにだまされないように、天の知恵を私に与えて下さい。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン