メッセージと資

1部世界中で記念になることマタイ26:1-13

2001年10月7日
東三第一教会 聖日メッセージ

序論

今日の本文の中にものすごく重要な話が出てきました。13節に「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と言われました。いままでイエス様が言われたみことばの中で最高の祝福をなさったということができます。ペテロが信仰告白をした時にくださった祝福ぐらいの祝福を下さったのです。「ハデスの門があなたに勝つことができません」と言われ、「天国の鍵をくださる」とペテロに祝福されました。

今日ここを見ると "世界中"と言われました。また、どこででもと言われたのです。世界中のどこででも、この女の行ったことが記念になるはずだと言われたのです。私たちは普通に考えることができる部分ですが、イエス様が最高の祝福をなさったのです。

1.価値があることを見ることができる目があってこそ神様の答えを正しく受ける

今日、ここで悟らなければならない部分があります。私達が価値あることを見ることができる目がなければなりません。仕事はたくさんありますが、それほど価値がないものがあって、価値ある仕事があります。それを区分できる目があってこそ、神様の答えを正しく受けることができるのです。また、全く同じ現場でも価値があることを見ることができる目がなければなりません。人がどのようなことを好むのか?にしたがって結果が変わります。もしかすれば、私たちは価値観にしたがって変わってしまうこともあります。それで私達がなにをせねばならないことか? も重要ですが、なにを見るのか?より重要なのです。

一度、私達が学校に通っていた時、ソウルで勉強をするようになりました。全国の神学生達がみな集まるのでした。私も釜山にいて、勉強をしに月曜日になればソウルに行って、金曜日や土曜日になれば釜山に帰ってきていました。そのようにして、この神学生達が全国に散在して、自分の教会を見るという式でした。いっしょに勉強してみるならば、こんなこと、あんなことがありましたが、その中でひとつ事件がおきたのです。

水曜礼拝の時、ソウルのある教会を訪問しました。だいぶ希望が生まれたことの中のひとつでした。あらまし私達が回るとき、大きい教会に行きました。ある水曜日、韓国で一番復興している教会に行ったのです。私を含んで 5名の神学生が参加したのですが、説教を聞いて出てきました。ところが、私以外の4人は一様に‘説教でもない!' と言いました。4人がとてもはっきりと言うので、私はなんの話もできませんでした。なぜならば、私はその日ものすごく恵みを受けていたのです。‘あのように説教をするのに、どうしてこんなに多くの人が集まるのか?’とも言いました。それは価値観が違ったのでした。私は内心‘この人たちは、これから大きい教会はできないだろう!'と思いました。説教を聞く耳が違ったのです。私はその日、ものすごく恵みを受けたのでした。今日こなかったら後悔しただろうな、というほどに恵みを受けていたのです。

人によって違います。その方達が立派でないということではありません。私はむかし釜山である方達の説教を聞たのですが、スヨンロ教会のチョン・ピルド牧師の説教を聞くと眠たくなると話す人もいました。私も説教を何回か聞きましたが、私はそのように感じませんでした。その方の説教はとても具体的だな! と考えました。この方は人をたくさん集めることができるな! と考えたのですが、幸い私の予測は外れませんでした。聞く耳によって変わるのです。あらゆる部分がみなそのようなことです。

私達が何を見て感じるのか?がものすごく重要です。私達も知っている通り、アブラハムのおいのロトはどのようにすれば、よく食べて良い生活ができるのか?にあらゆる精神を集中していました。アブラハムにもそのような部分がないことはなかったのですが、それでもアブラハムは苦闘するなかで、神様がなにをお望みのかを探すことに苦闘しました。それが小さなことのようだけれど、ものすごく大きいことなのです。イサクの家庭にはエサウとヤコブがいました。エサウは男らしくて素晴しいのに、神様はヤコブを祝福なさいました。ヤコブの見る目が違ったためです。これが小さなことのようですが、ものすごく大きいのです。ひとつが違ったためです。ヤコブは神様の恵みを考えました。エサウは立派でしたが、それに対する考えが全くなかったのです。私達が少しだけ神様の前で考えても、たくさん変わります。

これから、うれしいことや悲しい事が生じるでしょう。また、理解できる事件が起き、理解できない事も起きるでしょう。生きていく中には、いろいろな事が起こるのです。そのような時、少しだけ神様の前で考えれば、とても簡単に解けます。そして、祝福を受けるようになるのです。未信者はそのように考えません。未信者は人を殺しても、人々だけが知らなければ良いと考えます。私たちは、その人々とひとつが違うのです。 "神様が" ということが違うのです。

私達もよく知っている通り、ヨセフとヨセフの兄達は、全く同じ家で全く同じご飯を食べていました。差はひとつだけでした。ヨセフの兄達は、普通の人々と同じく食べて生きることだけを考えたのですが、ヨセフは違いました。世界の福音化とその祝福を知っていたのでした。

サウル王とダビデは違いました。サウルは一般の他の王と同じでした。‘私がどうすれば王を上手に、長くできるだろうか' という程度でしたがダビデは違ったのです。‘私が何故王になったのか? 神様が私を何故王にさせたのか? では何をせねばならないのか? 神殿を建てねばならない'

今日の礼拝も重要ですが、恵みを受ける悟りがより重要です。私達が何かをすることも重要ですが、何を見るのかも重要です。ペテロが毎日祈ろうと神殿に行ったり来たりしました。知っている通り、生まれつき足のきかない者が神殿の美しの門に座って、お金をもらっていました。大部分の人々がかわいそうだと考えたのでしたが、ペテロは見る目が違ったのです。‘この人に小銭が必要だけれど、本当に小銭が必要なのか? これがまさに暗闇と呪いの勢力ではないか?' ある日、ペテロの目にこの人が創世記3章の事件に埋もれていることを知るようになったのです。それで、祈ることも重要だけれど、ペテロが確信を持ちました。‘金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい!' 見る目が重要です。

2.本文

今日、一時間、ある人は一日中礼拝をささげます。全く同じ礼拝をささげるのですが、悟りによって祝福が変わるのです。今日、単なる聖日になることができます。しかし、今日、祝福をものすごくたくさん受ける時間になることができるのです。今日見ると‘世界中で’

この事件をすこし説明します。 "イエスは、これらの話をすべて終えると"とあります。何のみことばでしょうか? 最後の時に起きることです。最後の時に全世界に起きる苦しみに関する話をされたのでした。最後に教会がどのようになるか? を説明なさいました。そのことをおっしゃられた後のことです。パリサイ人達がイエス様を捕まえようとします。それとともに 6節を見ると、最も重要な最後の週にらい病人シモンの家に入って行かれました。たぶん私ならば、違ったでしょう。‘今週が最後の週だ。どこか空気がきれいな所に行って、休息をせねばならない'というようにしたかも知れません。皆様ならば、最後だと考えた時、どのようにするでしょうか?

その時、イエス様がらい病人の家に入って行かれたという事実です。その人の名前がシモンでした。このみことばは、何をおっしゃっているのでしょうか?それは、イエス様の胸にいつもあったことです。最後の週に、最も切実に行きたかった家が、らい病人の家でした。私がらい病患者のいる所に行ってみました。いろんな臭いがたくさんあって、われ知らず早く出て行きたかったのです。できれば、食事は出てすれば良いと考えたりもしました。生きるのがあまりに難しいのです。普通の人々が持っている、そのような感じではありませんでした。

もし私にここで一生、生きなさいと言われれば、考えが変わったでしょう。少しの間行ったのにそうだったのです。ところが、イエス様はらい病人シモンの家で食事をされたのです。もちろん、弟子を連れて行かれました。その時、一人の女が入ってきて、イエス様の頭に香油を注ぎました。とても高価な香りが出る油でした。他の聖書に見ると約 5人家族が1年ほど食べて生活できる程の価格ということです。少なくとも、今のお金で1~3百万円から1千万は越えるのです。それをイエス様の頭にみな注いだということです。見ていた弟子達が怒ったとされています。そのように高いものを捨てて良いのか? ということです。

その時、イエス様がおっしゃった返事が 10節にあります。より重要な答が 12節にあります。"この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。" この女性は、単に香油を注いだのではなく、なにかを知っていたということです。今日、単に礼拝をささげるのではなく、何かを知って礼拝をささげなければなりません。多くの神様の民が単に神様を崇めていますが、なにかを知っていなければならないのです。ものすごく重要です。今日、一時間の中で一生の祝福を受けることができます。

この女性は香油をイエス様の頭に注ぎました。イエス様がおっしゃって、世界中で記念されるはずだと言われました。皆様が、もし世界中のどこででも永遠に祝福を受けるとすれば、どのようになるでしょうか? 油を注いだとなっています。むかしは、王、預言者、祭司長に油を注ぎました。このことを成就されたイエス様の頭に油を注いだのでした。  

3.どのようにして、このように悟ったのか?

あらゆるサタンの勢力を破ってくださった真の王であり、神様に会うことができる真の預言者であり、私達の罪を完全に終えた真の祭司長です。これらすべての問題を十字架で完全に解決なさいました。この意味を知って、この女が油を注いだのでした。どのようにして、この女がこういう祝福を受けたのでしょうか?

神様の恵みです。誰でもが分かることではありません。私達がどんなに上手にやってみたくても、神様の恵みがなければ上手にやることはできません。ここに学生、青年達がいます。もし神様が、学生と青年達に恵みをくださるとすれば、誰も防止できません。私と皆様に最も必要な恵みがあるとするならば、神様の恵みです。恵みは代価ではありません。私が何かを多くしたところ祝福を受けた! というすることは補償です。私は死ぬしかなかったのに、神様の恵みで悟るようになったのです。これが神様の恵みです。

それまでみことばをよく聞いて、旧約聖書とイエス様が教えられたみことばをよく聞いたのでした。今日、祈りの答えを受ける道は簡単です。神様のみことばをよく聞かなければならないのです。ここで悟らねばならない秘密があります。"福音を知っていれば、永遠な祝福を受けるという事実です。" 福音を知っていれば、世界的な祝福を受けます。福音を本当に知っていれば、私達は記念碑的な祝福を受けます。今日、福音を本当に知る瞬間、私達の家系で記念碑みたいな祝福を受けるはずです。今日、福音を知るようにしてくださいと祈らなければなりません。あらゆる世代をおいて言われた言葉です。

この女の年齢がどれくらいなのか、どのような人だったのかはわかりません。しかし、弟子達ができない事をしました。たとえ名のない一人の女であっても、弟子も悟ることもできない事をしました。私たちはお金を惜しんむこともよく知っていなければなりません。お金を使うことや権力を見れば、その人がわかります。イエス様の弟子達のように、何も知らずにお金を惜しむことは愚かなことです。それ以前に、神様の祝福を受ける道を知っているべきです。今日、神様の恵みを受けるならば、あらゆる人が受ける祝福より、もっと大きい祝福を受けることができるのです。たとえ名のない女であっても、福音を知っていたので、世界中に記念碑的な祝福を受けたのです。

今、タラッパンで女牧師に対する話が出てきています。老会で女牧師に対して是非を論じました。 "女性に牧師となる按手をして良いのだろうか?" 総会で返事をしてくださって、柳牧師が返事をしてください! ということです。なにぶん、私とともに伝道運動をいっしょにしていると見て、私にたずねたようです。

確実な返事はしませんでした。祈ってみてくださいと言いました。しかし、私の個人の考えは別にあります。実際には、男性も牧師になるだけの資格はありません。牧師になるということは、ものすごく難しいことだと言えるでしょう。女だ、男だと正すこと以前に、牧師はいいかげんにすることではありません。正すこと以前に、牧師という職に対して知っていなければならないのです。

たぶん釜山に長く住んでいる方は知っているはずです。一人の長老で教会によく仕えた方がおられます。ところが、どんな心になったのか、長老が神学校を行って牧師になりました。そうしたところ、いまは2種類すべてがだめです。考えを誤ってしたのではないでしょうか? 私達が、女、男という以前に、神様が与えられた召命を持とうとするいうことであって、牧師は誰もがすることではありません。

むかし、私の家のそばに‘姜執事'という人がいたのですが、ホテルのコーヒー喫茶で偶然に会ったことがあります。3ケ月 ぶりに見るようになったのでした。ところが、私に名刺をひとつ出したら‘牧師'でした。確かにこの人は 3ケ月前には執事だったのに、牧師になっていたのです。どのように、そんなに早くなれたのかとたずねたら、神様の恵みでそのようになったと言いました。牧師とは、そのようなことではありません。

どこかに行って、免許証を取るように取ってくることではないのです。どれくらい私達にとって重要なことの中にひとつではないでしょうか? 少なくとも、神様の召命がなければなりません。タラッパンで女牧師の話が出てきています。私はこのように考えます。私どもの総会が生まれること以前に、女牧師は100名余りがいました。より重要なことは、男、女を敢えて分離することは、キリスト教思想でなくて儒教思想です。福音は女は低く、男子は高いということではありません。そして、今の時代が女を蔑視して男を高める時代ではないのです。

神様のみことばには、どのようになっているでしょうか? 聖書は単なる本ではありません。他の本は話を良く書きますが、聖書はそのまま出してきます。ダビデ王が失敗したこともそのまま出ています。信仰の先祖のアブラハムが失敗したこともそのまま出ています。それが聖書です。聖書にヤコブの家庭に不和が起きたことは事実であって、今でもそのようにしろということではありません。むかしは、時代が子供と女を人として取扱わなかったのです。だから聖書には‘男だけで1000名余り' こういう方法で記録されているのです。かと言って、今でも男だけ人の取扱いをしなさいということではありません。その当時に、子供と女を無視して蔑視したということであって、その思想を今でもそのようにしろということではないのです。

そして、聖書を見れば、そのような時代なのにもかかわらず、デボラのような女預言者もいて、ヘブル11:4にはイエス様が十字架にかかられて万人が祭司長になりました。私達が知っているとおり、カトリックからプロテスタントが抜け出した時、万人祭司ということが私たちの主張でした。すると、確かに万人の中には女性も入っています。そのようなことを持って、この期に及んで騒々しくする必要はありません。私たちは福音に有益な事ならば、悪い事でなければみなできるのです。

今、無視された時代の女だったのですが、使徒が悟れないことを悟りました。イエス様が世界中で記念されるはずだと言われました。私たちはもう一度みことばを見ましょう! 女、男の問題ではありません。これはイエスをどれくらい信じたのか? 職分が何か? とう問題でもありません。今日、本当に礼拝をささげるなかで、本当に神様の恵みを受けねばなりません。一瞬悟るのに、永遠な祝福を受けることができます。

私が神学校に通いながら、一瞬‘伝道せねばならない'ということを悟ったのです。ところが、永遠な祝福を神様がくださいました。10年余り前に‘キリストはあらゆる問題の解決者だな!’ということを悟ったのです。その時から神様が私に途方もない祝福を注いでくださったのです。今日、私達が本当に悟ったのでしょうか? 神様の永遠な祝福を注がれるのです。職分の区分もありません。今日、皆様に本当に祝福を受ける日になることをイエスのお名前でお祈りします。

契約の祈り

神様に感謝申し上げます。今日、祝福を受ける日になるようにしてください。最も恵みを受ける日になるようにしてください。私たちは知らないのですが、神様の祝福が予備される日になるようにしてください。私達が知らずにいる問題まで解決する日になるようにしてください。私達が知らない病気までいやされる日になるようにしてください。私達が出来ないことを神様が解決してくださる日になるようにしてください。もし病気の者があれば、主がいやされる日になるようにしてください。食べ物と空気と全てのものが祝福になることを神様が祝福してください。飲む水も祝福してください。今日、この席におられる牧師をはじめとする外国人がおられます。この方達の頭の上に主の手を当ててください。十字架で勝利なさった手を当ててください。この方達の国を生かすことができるように主が働いてください。天と地の祝福が予備される時間になるようにしてください。今日、この席には多くの若い方達がともに礼拝をささげています。神様が私たちのレムナントに祝福を注いでください。国内外にいるレムナントに主が両手をあげて、天の祝福を注いでください。今日、役員と一般信者がともに礼拝をささげています。世界中に記録されるほどの祝福を与えて下さい。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン