12009年5月14日 RUTC- RUTCの朝(礼拝) 講義:柳光洙牧師 (整理:チャ・ドンホ牧師)
RUTCの朝-タラッパン方法の理解 (使徒1:12-14) 1部:礼拝 序論 弟子とは何か、このように尋ねれば返事が色々なものが出てきます。ところで、私がRUTC放送を他の方々と共に一週間に一回ずつ私がするようになるから、ここは事実はRUTCメンバー各パートの重要な方々がみな集まるようです。また、私たちRUTCに関心がある方々がまた放送を通して、みな見るようです。それで、これがまさに弟子の集いだ、そのような気がしました。それで、時間あるまま1週に一度ですが、このような話をちょっと分かち合わないといけない、そのような考えをするようになりました。それが何の話なのかというと、ひょっとして皆さんがネビゲイト、CCC、こういうところで深い訓練を受けなかった方たちが、その本を持ってしてみると、うわべはできますが、実際にはだめです。なぜだめかというと、その人々が自分たち自らの何かがあるからです。CCCはCCC自らの良い点があって、ネビゲイトはネビゲイト自ら維持していく何かがあります。それは文章では表現できないことです。しかも、個人個人のキャラクターの差があるので、簡単に表現ができません。それで、ネビゲイトでは、牧師がネビゲイトに入ってくれば、いくつか約束する中の一つが、本を書かないという約束をします。その約束をなぜするのでしょうか。不十分に、むやみに書いてはならないということです。そんなに簡単な団体ではない、その話です。それほどまで、自ら何かがあるのです。 それなら、30年間、現場で皆さんと共に伝道する中で、私たちが何か自ら20の戦略ではなく、その後に隠れている多くの戦略があります。こういう部分を、私たちの弟子がちょっと理解すべきだと、RUTCが作られるのに私たちのレムナントがそのような部分をちょっと理解すべきだと思っています。時間がちょっと過ぎながら、自らの伝道が何でしょうか。もちろん聖書にあることです。ところで、聖書にあるものをどのように受けて説明するのかが重要です。祈りが何か、こういう部分です。祈りは聖書にあります。あるのに、すべての方がみなするのが祈りです。しかし、それでは私たちは聖書をどのように見て、どのように祈るかという部分、こういう部分を短く一つずつ話をしていったら良いように思います。 ・それで、今日は、タラッパンが何で、タラッパン方法が何かをお話しします。今さらなぜこれを話すのでしょうか。と言うのではないでしょうか。タラッパンに今十数年をしても、理解できない方々もいます。また、ある方は、中間に入ってきている方々もいて、またある方々は、今、始める方もあります。いったいタラッパンとは何かということです。こうしてみるから、今、重職者時代が起きて、多くの重職者が参加しています。その方たちが、いったいタラッパンが何かということを理解しなければなりません。その次に、多くのまた皆さんではなく、若い副教役者が起きています。この方たちが、どのように理解しているでしょうか。理解を正しくしなければなりません。特に、RUTCが作られれば、レムナントが理解をしなければならないのですが、どのようにそれを理解するのでしょうか。実に重要なのです。どれだけ聖書的なのかが重要で、どれだけ福音的なのかが重要です。そのように見る時、必ず私たちは理解をしなければならないということになります。本当に聖書的で福音的ならば、理解をしなければなりません。 ・それで、タラッパンは多くの部分の中で一般の他の教団と違う部分が何かという時、直ちに違うことがあります。それが、私たちがどのように始めて、今まできたか、それから違います。一般団体では集まって、協議会を作って、組織を組んで、このようにします。私が見るには、違ったことではないのですが、できていくことではありません。いくら教会で集まって、協議体を作っても、それは協議体であって、だめになります。それで、そういうことをする必要がないというのではなく、それが重要なのではないということです。タラッパンは、これが違います。それで、皆さんが初期からいる人もいます。オ・チョンロク牧師も、初期からすでにした人々です。 私たちは開始をどのようにしたのかというと、一番、今たくさん集まっている核心、それも私が説教した通り、私たちの教会で核心なる人々を呼んで伝道がこれだと話したのでした。教会がみな終れば10時を過ぎます。それで10時半から核心集会をして、10時半に開始をしたのです。核心集会が、本来、釜山で10時半に始まったのは、みな終わると夜10時半だったからです。それで、その時間に呼んで集めたのです。あなたが私たちの教会の核心メンバーなので、伝道が理解できないでも良いのか。その話です。それで、それが大きくなったので、私たちの教役者が少しずつ恵みを受けたから、他の人が知ってどんどん参加したのです。他の教会から教役者たちが来るということです。例えば、キム・テウン牧師、こういう人々が来たということです。くるから地下から移していったのです。それで黒板を置いてしたのです。それが核心集会です。それで、初めてする人は理解できないでしょう。核心集会とは何か。理解ができません。そして、歴史性をなくさないために、その単語をそのまま使っているのです。核心集会というのがそれです。それで、核心集会に、あるところでは、カンウォンド、こういうところから集まりました。ある人は、カンウォンドからきて、雨が降ったりしたり、また名節(韓国固有の盆・正月)だと車が込めば決まった時間に来ることができません。この方たちがみな終わってからきて、紙一枚持って帰って行っていました。それで、私がチョ・キボム長老のような方を見て感じたのは、その方は軍医官の時、カンウォンドに勤めていました。毎週、核心に参加していたのです。車を運転して。ですから、あのような人もいるんだな...それで、色々な所を行き来しながら、夜に駆け付けて来なければならないから、それが普通の無理ではありません。それで、事故が何箇所か起きたせいで、私が悟ったのです。これは、このようにすることではない。神様がさらに広げろと言われたのです。これで時間を分けて切ったのです。それで、テグはテグ、このようにしたのです。これが私たちのタラッパン方法です。一般の人々はまねることもできなくて、理解もできないでしょう。私たちが全く作り出しません。そのまま行くのです。 ・そして、今まで出てきた本の中で私が書いた本は一つもありません。私は本を書きません。私は本を書くスケジュールは別にあると思っています。私がこれ以上、動くのが難しくなった時、書こうと思っています。動けば私が行くべきで、行くことができない時、書くのであって、その時刻表は別にあるのです。それで、今、出てきている本は、みな私が不十分に講義したのを資料局で編集をしたのです。それで出てきたのであって、本を作らなければならない、こういう場合はまだなくて、これからも当分はないでしょう。私が年齢がちょっと多くて、行くことは行ってみなければならないけれど、力がなくて行けない、そのようになった時、書かなければならないのです。そんなものであって、今は足に力があるから、そのまましているのです。ほとんどみながそうです。 ・それである日、キム・チョリョン牧師のお父さんのキム・インソク牧師がおられますが、高齢な方...その方が生きている聖者だと噂になった方でうが、この方が年を取って引退されて、祈梼院に入られました。そこで学生たち何人集めては農村神学校を作られたのです。総学生が3人しかいませんでした。ところで、この方が意志が強い方です。私を呼んで、伝道学の講義をしてくださいと言われたのです。それで見たら、学生三人であるから、部屋に座ってしたのですが、それが毎週増えて、その祈梼院全体が満杯になるようになりました。だから、これは神学校でもなくて、集会でもなくて、そうなったのです。ですから、その神学校は神学校としてしなければならず、祈梼院は祈梼院としてしなければならないでしょう。いつまで柳光洙牧師中心に何千人が集まれるでしょうか。それで、その祈梼院から出て、ナムサンに場所を移して、新しく伝道運動を始めたのです。新しく講義を始めたのですが、それがどんどん大きくなって、これが、全国、世界伝道神学院になったのです。そのままデコボコできたのではありません。中間に消えたことは、みな急いでぱっと立てるからです。それでこの話を理解させるのが、本当に大変なのです。カン・ホイン牧師に会う時ごとに神学院たくさん立ててはいけないと言います。神学院を立てる時は、親しいからと立ててはいけないのです。神学院は、がんばって立てるのではありません。神学院は親戚だからと立てるのではありません。神学院は友人だからと立てるのではないのです。何度も強調しました。私の弟は、神学院をしないとすねて違う所に行きました。行きながら、お兄さんは人間主義の極致を走る人だと、それで、それでも話して送りましたが、このように理解できないのです。これがタラッパンを理解できないことです。 ・タラッパンとは、私たちが作り出した特殊な団体ではありません。聖書にあることを見てください。聖書のマルコの屋上の間(タラッパン)です。これを理解しようというのです。この人たちが、どんな気持ちで集まったか、それを理解しようということで、この人らがどんな中心で働きをしたか、それをしようということで、私たちが何か特殊な方法があって、誰よりも優れていて、その話ではありません。むしろ、あまり優れていません。上手にする方を見れば、とても上手にして、仕事になりません。私たちはよくできないのに、その中心を持って今までしてきたのです。それが神学院です。 ・そして、神学院を卒業したら、伝道ということが正しく分かろうとすれば、伝道の中に全てがあると見えなければならず、伝道を理解したら、全世界が見えるのが当然です。毎日、毎日、門が開かれるのが見られます。それがキャンプです。キャンプとは何でしょうか。毎日毎日、開かれる門を見て行くのです。それがキャンプです。ですから、これを理解させようと宣教師訓練院をまた作ったのです。そして、現場の自分のパートがなければならないから、専門の働き院を作って、これが私たちのタラッパンです。ずっとこのように来たのです。 そして、私たちのタラッパン経済戦略は他のことではありません。他の団体では会費を取るのですが、私たちはそのようなこともせず、他の団体では賛助金を取るのですが、私たちはそのようなこともしません。それをとって良い場合がありません。他の団体では、多くの組織によって後援を受けるのですが、成功した例がただ一度もありません。それしかないから、そのようにするのですが、私たちはそのようにしません。私たちはただメッセージです。メッセージを聞くために献金しなさいということです。牧師も名札を付けて列に並べと言ったのです。これが私たちのタラッパン戦略です。聖書にあるとおり、教役者が一般信徒と一緒に恵みを受けて、現場を走って、それです。これが私たちの方法ということです。 ・そして、私たちは伝道戦略が今現在、多くの団体が伝道するのが違っているということでもなくて、悪いということでもありません。そのようにしなければなりません。ところで、私が見る時は、それでは伝道がだめだと思うのです。私が見るには...本当に伝道しようとするなら、どのようにするのでしょうか。システムです。伝道がなるしかないシステムでなければなりません。それが弟子です。これを今、作っているのです。ですから、この部分を牧師が理解をはやくできなければ、教会の中に適用させることや、教会を生かすことに方向をつかめないようになります。これを理解してしまえば簡単なのです。絶対にシステムなしで伝道持続はできません。どんな場合もだめです。皆さんが神ではない以上...神ならば良いでしょう。人はだめです。そのために、いつでも人はいくら立派な人も、暑ければ服を脱がなければならなくて、いくら立派な人も寒ければ服を着なければなりません。人間は仕方ないのです。そのために、システムでなければ、だめになるということです。 ・そして、私たちのタラッパンの進行方法も他のところと違います。他のところでは、何か多くの資料と情報と、それが悪いのではありません。先んじる、優れた、いろいろな多くの機能を持ってするのですが、私たちはそのようにしません。それも悪いのではありません。悪いことではないのですが、私たちは24時祈る人々が中心を集めて、聖霊の導きを受けていくのが私たちの方法です。他の見方をすれば、無知に見えるでしょうが、絶対にそうではありません。その証拠として、無知な私たちが集まってしたのですが、立派な方々がすることはみな門が閉まりました。私たちはよく進行していっています。ですから、心配しなくてもよいのです。 ・私たちのタラッパンの最も大きい未来は持続です。この運動福音運動をきれいに持続することができるか、できないか、これが私たちの未来です。私たちの未来は他のことではありません。私たちの次世代が、この福音をそのまま持って味わいながら、また行って皆さん子どもたちが、皆さんよりもっと良く悟って、福音を味わっていって、私たちが悟ったことはやむを得ず悟ったのだとすれば、皆さんの子どもたちは、正しく悟って行って、私たちはやむを得ず霊的問題に苦しめられて悟ったとすれば、皆さんの子どもたちは、それを先に突き抜けて行くのです。その運動をしようというのが、私たちのタラッパンです。 ・その純粋な人々がここに集まったのです。これをこれからこの精神を持ってRUTCも作って、この精神を持ってRUTCの働きもして、このようにしていかなければならない、その話です。 1.タラッパンにないこと4つ それでタラッパンでないこと四つがあります。そうすれば、この運動になります。どのように、この運動をして行くのでしょうか。 (1)動機(マタイ9:35-39) 最初です。タラッパンは四つのことがないのですが、最初、動機がありません。動機があれば、いつかは時刻表がきます。終わる時刻表が。絶対に動機がなくなければなりません。 ・動機は私たちは一つしかありません。イエス様が、かわいそうに思われました。あのようにさまよう羊が多いのに、刈りいれる穀物は多いが、刈りいれる者がない、それでイエス様は祈りなさい。刈りいれる者ができるように...このイエス様が心苦しくて残念に思う心で...これが私たちの動機です。私たちは他の動機がありません。ひょっとしてある方々は変えれば良いのです。皆さん私がいつもする話です。 ・信仰が良いか、そうでなければ頭が良いか、そうでなければ性格が良いか、それであるべきで、信仰もないのが頭も悪いうえに性格も悪いとすれば、それは本当に頭が痛いのです。それは世の中の人々がすることです。信仰がなければ、計算だけでもはやくなければなりません。計算を正確にしてみてください。私がもし動機を持っているならば、皆さんが私に従うでしょうか。計算をはやくしてみてください。そうではないのか、最後までくるでしょうか。あの方が本当に動機、それもレベルが低い動機を持って、それも自分の義のための動機があれば、どうしてこういう立派な方々が付いてくるかということです。計算をしてみなさい。信仰を抜いてしまっても。本当に私が正しい純粋な動機を持ってしてこそ、その方たちがいのちをかけるでしょう。常識ではないでしょうか。私たちが本当に動機がなくてこそ、多くの重職者などがこれから起きて付いてくるでしょうが、私たちが私の動機を持っていれば、何のために重職者が私の動機を満たしてくれるでしょうか。そのようなわけがありません。それはしないということと全く同じ言葉です。ところで、大部分、教会の大部分の牧師が、一般教団で見れば、今、こうしています。動機を持ってするのです。教会復興、なぜ復興させるのでしょうか。教会を復興させてこそ、何かなることがないかと思うのです。何になるのでしょうか。何かなることではないのか。何ですか。よく分かっていません。だから、だめなのです。私たちが動機ない時、聖霊が働かれるのです。 ・心がきよい者は幸いです。その人は神を見ます。私たちが動機がなくて、何かが見えるのです。本当に見えるのです。それで私たちは今までタラッパンに来て帰って消える方々は、動機のために消えました。結局は、神様が出来ないようにされるのです。自分はしようとするのにだめなのです。ところで、本当に、不思議なことに、ある方は、それでも行って、また戻ってきたら、今は皆さんが訓練が全くできていないようですが、訓練がたくさんされていて、格差が出てしまったのです。やさしい例で、LAの良い友人パク牧師を見てください。真に良い人です。ところで、この方がちょっと緊急な心で、はやく教会を復興させなければならない、こういう心が多すぎるから、タラッパンを活用してみたら、緊急にうまくできなかったのです。しかも、自分の思うとおりにできず、タラッパン組織があるので、この方が出て行ってしまったのでした。関係なくて、そうだったのですが、この方がまた人が真実な方です。そうするうちに良くならないから、また、戻ってきたのです。兄もきて、みなまたきました。タラッパンまたします。そうですか。またきてみたら、もう前にいた人々と、あまりに違いが生じていました。何が違いが生じるのか分からないのですが、違いが生じています。そうするから、不思議についていられないのです。それで自らまた出て行きました。残念で、真の良い人なのに、とてもしっかりした人なのに... (2)人間主義(使徒15:36-41) 私たちのタラッパンには何がないか、二番目のことがありません。私たちはどんな場合も人間主義を使いません。これひょっとして使っているなら、悔い改めなければなりません。使徒15:36-41に、パウロが初めてバルナバと争って、マルコをつれていくか...バルナバが、マルコが自分のおいだから連れていこうと告げる、そこにパウロは怒ったのです。おいはおいで、福音は福音だと。おいが福音を受ければ良いことで、しかし、だめなことを無理においだから福音を変質をさせたり、おいだから無理にしたり、それは大きな罪だということです。それでパウロがそのために怒ったのです。それで、バルナバと争いました。それで、私はパウロが正しいと思います。バルナバが違ったのです。それで、パウロは世界福音化に大きく最後まで用いられました。そして、パウロの働きは今でも起きています。。 (3)手柄(ピリピ3:1-20) 私たちはこういう手柄はなく、ありのまま。手柄があるようにする方はたくさんいますが、私たちはそうではありません。私たちはみな得たので、ピリピ3章にパウロが話した通り、全てのものを得たのでキリストを得たので、他のものはみな必要ないのです。また私たちは地のこともみな得たので、上のことを見上げて。私たちはすでに征服みなできる確実な根拠を持っています。そのために得たのでもなくて、つかんだのでもありません。キリストの手で捕えられた、それ、その復活に参加しに行くのです。私たちは地のローマ市民権がうらやましくありません。なぜでしょうか。すでにその祝福を私たちは持っているからです。ない人がうらやましいことで、ある人はうらやましくありません。そのために、その祝福を私たちは天の市民権を持っているのです。パウロのこの話は、普通の話ではありません。そのために、とても重要です。私たちはこうしたことがありません。どのような手柄になるかと計算して、こうしたことはありません。 (4)偏見、先入観(聖霊の導き) 私たちは四番目にタラッパンは何がないかというと、ある部分に対する偏見、先入観、こういうことはありません。人は違っていきます。昨年と今年、私がものすごく違うのです。私が見ても私が驚きます。これが神様がなさることです。ですから、人は違うのです。昨年のオ・チョンロク牧師と、今年のオ・チョンロク牧師とは違います。そして、皆さん自身も違います。私たちが聖霊の導きを受ければ違うのです。そのために、いくら足りない人も、神様は変えられて、いくらなにもない人でも神様は立てられます。みなすることができるのです。そのために、私たちはこういうことはありません。それで、いつも神様の前で契約を握って行くのです。実際、神様が私たちをどのように導かれるでしょうか。聖霊の導き。これがタラッパンにある、隠れている方法です。 2.タラッパン行政三つ (1)事実的(過去) そして、タラッパンはどんな行政をするのでしょうか。行政3つがあります。第一に、私たちは可能ならば事実的なことを見ようとします。それで現場を真っ直ぐに見るのです。事実的なことを見なければなりません。すべての伝道、行政において事実的なことを見て、しなければなりません。 今現在、人の家を訪ねて行って伝道して通う、そのようなことは変えなければなりません。その伝道はだめな伝道です。もちろん、時々行って信じる人はいます。しかし、他の多くの人を救い出すには、支障になる時間です。訪問伝道をするなということではありません。エチオピアの宦官のような人が尋ねるのに、あえて話さない必要はありません。しかし、その戦略は多くのことをのがすようになります。 それで、私たちは今、事実的なことを見て行くのです。未信者状態や実際、私たちが起きる伝道のシステムや簡単に話せば20の戦略が、事実的な戦略です。それで、皆さんそれを見て行くのです。 (2)必ず必要(現在) その次に、私たちは必ず必要なのをするのです。その時その時に必ず必要なこと。いつもそのようにしてきました。必ず必要なこと。誰が見ても必要なこと。私はどの程度かするかというと、何かを進行していくのに、ひょっとして私が言い出したが、長老の中で1人でも理解できない人がいるならば、進行しません。なぜでしょうか。その方のためにではなくて、神様の前で必ず必要なことをすべきだから...ひとりの意見も重要だから...それで、初めから今までそうでした。ちょっと驚くでしょう。私が弟子訓練をして、タラッパンでとても皆さんが私を手助けして、祈るから、簡単に話せば私が世の中の言葉で、ちょっとカリスマであるように物事がなされないでしょうか。私が話せば皆さんが手助けしてするから。教会では全くそのようにしません。教会では全く、私たちの教会に初めにきてファン・サンベ牧師がとても難しいと言います。とても驚いたのです。なぜなら、ほとんど重職者中心に、すべての働きをするからです。なぜなら、その方たちが現場の人々だから、そしてその方たちが主役です。私たちはお手伝いする神様のしもべだから、私はそのような考えを持っています。それで、初めにはちょっと難しいようでも、神様は難しくされません。この頃、きてみてください。釜山もそうで、ソウルもそうで、長老を見れば、本当に本物の神様の導きを受ける、こういう祝福が見られます。 ですから、私たちが必ず必要なことだけするのです。これが私たちタラッパンの戦略です。 (3)未来 そして、私たちはいつでも未来を見通してするのです。今するのが理解できないようでも、未来を見れば未来を見るとき必ず必要なこと。(2)番は、これは現実的に必ず必要なことで、未来に必ず必要なこと。事実的に見たということは、すでになくなってしまったのですが、すでに過去から必要なことではないでしょうか。それを見られないから、そうなのです。それで、過去、現在、未来の必要なことを見ることです。これが私たちの方法です。私たちの行政です。そのためにタラッパンに対する理解をはやくしなければなりません。 3.タラッパンの方法3つと基準 そして、私たちは今、タラッパンがする方法3つがあるのですが、基準があります。説教も戦略も、みな基準3つがあります。 (1)みことば成就 それが何かというと、みことばが成就しただけする。ここまでが私たちの基準です。それで説教もとてもやさしいのです。なぜなら、みことば成就した、その次のことだけするからです。そのようにすれば良いのです。 (2)祈りの答えに従って そして、祈りの答えに従って、どこまで祈りに答えられたのか。そこまでして、その次にしていくのです。これが私たちの方法です。 (3)神様の計画(ピリピ1:9-10) そして、三番目は、いつも質問して、この2つをすればこれが出てきます。神様の計画に従うのです。神様の計画を捜し出す一番はやい方法はピリピ1:9-10です。真にすぐれたものを見分けなさい。 私はどのようにするのかというと、私たちの秘書も知っているでしょうが、私の教会の中でも私の子どもでも、私の周囲にいる人が、いくら良くなくても、人を許して悟るようにして、より良い道に導きます。それで悟るようにさせるのです。それが私は神様の方法だと思います。皆さんがひょっとして私がシステムを動かす時は、多くの祈りをされなければなりません。それが何かというと、私は人を害しないでシステムを補完していくのが神様のみこころであって、私たちがとても戦って、人を害して、そんなことはしません。そうするうちに見ると、ただ見る時は、あれは何をするのかと言いたい時があります。どうして、あんな人を置いておくのかと。そうではありません。どんな人でもその人を癒して、その次に、その人がより良い道により良い神様の計画に向かう、それが神様のみこころです。そうではないでしょうか。それが私たちの方法です。これがタラッパンの方法です。それで、皆さんが理解がよくできなければ、自分の周囲にある秘書たちは、多く見ていますし、初めから私に付いて回っているキム・ヨンギ牧師のような人は、いつも見ています。本人が優しいが理解できないというのが、とても多いのです。後ほど、そうだったねと分かるのです。ですから、私たちの重職者も、会議をすれば、正しい、正しくないことを問い詰めるのですが、正しい、正しくないことより、さらに重要なのが神様の計画です。それで、やさしい例で、今はよく分かったから言う話ですが、実際に初めに私たちの米国から来たパク00牧師のような方、今は完全に使命者ではないでしょうか。もうこの方は正しく宣教師です。初めにきた時、その方がしばしば周囲に問題が起きるから、重職者が全部、いっせいにだめだと言ったのです。それは違って、人をそうしてはいけません。お客さんへの言葉であって、来られた方に対して、当然、あなたの家にお客さんがくれば食事をもてなすでしょう。食事をもてなして、あなたのお客さんがくれば、寝られないようにしますか。それは当然の乞食で、それでなぜそうなのですか。私がそれ止めさせるのに往生しました。そうしていたら、後ほど時間がたってみたら、その娘、婿、そのような人がいることも知らなかったのです。こういう人々が使命者で、この方が見ると、本当に完全に宣教師です。だから、見る人がそのように何かの問題が起きるからといって、みなそのようにしてしまえば、この世の中に生き残る人は誰もいません。それで可能ならば、これが私たちのタラッパン方法です。・こうしてみると、弱点が一つあって、何かというと、恐れないのです。それは少ししてから。話を聞かなければ、恐れをなすでしょう。子どもたちも話を聞かなければ、何発か叩けばしっかりしてしまいます。ところで、話でしてはいけないのです。これが少し問題です。全く恐れをなしません。私を恐れないのです。私がながく見て行くから。皆さん1人がどれくらい重要でしょうか。来なさいといって、みて行くのです。それで、これが今まで私たちの方法です。 これは本当に信仰告白です。私たちの特殊な自慢でなく、当然、そうでなければならないのですが、私たちは、とても重要視するということです。 4.3つの準備 そして、私たちは3つのことを準備する団体です。 (1)一生の祈りの課題 全体メッセージの中で、一生の祈りの課題を作るのです。私たちが作るのではありません。メッセージの中で一生の祈りの課題を発見していくのです。ですから、全体メッセージをたくさん聞くほど熟していきます。太陽、雨、風、たびたびあえば熟すでしょう。そのように、全体メッセージを通して、一生の祈りの課題を神様から作るのが私たちの団体です。そのように理解すればはやくて、重職者などもそのように考えれば、はやいのです。 (2)一生の伝道図表 二番目には、20の戦略を持って行くのですが、戦略は聖書に20があるということが確認されたからです。20の戦略を持って、一生の伝道図表を作るのが、私たちのタラッパン戦略でタラッパンの準備です。 (3)一生の献金計画 その次に三番目は、多くのシステムの中にあって、システムいう言葉をよくわからなければなりません。これからたくさん敷いておいたシステムの中で、私たちが一生の経済、一生の献金計画を立てるのです。これは個人もあるのですが、タラッパン全体も今、一生計画と一生献金が何かを見て、システムを作るのです。このように出て行くのが、ある面では、みな必要ですが、特に私たちのタラッパンの方法です。それで、タラッパンというものをはやく皆さんが理解しなければなりません。 5.3つの目標 そして、タラッパンには目標3つがあります。 (1)ただ福音 最初は何かというと、ただ福音です。これが私たちの目標です。 (2)ただ伝道 次の二番目の目標はただ伝道です。 (3)唯一性 これのために学業、産業、企業すべての部分に唯一性を備えるのです。それで、私たちのRUTC放送がたくさん苦労していますが、皆さんの心の中にいつもそのように考えてください。これが福音を伝えることです。他のことではありません。それで、伝道することだから一番重要です。それで、私たちは唯一性に行くと思えば良いのです。今、私がいくら難しくても、私たちは唯一性に行くのです。今、ひょっとして施設がある面で、条件が話になるでしょうか。だめですが、が私たちは唯一性に行く、こういう心でぴったり決めて行かなければなりません。これが私たちのタラッパンの目標です。ただ福音、ただ伝道、それと共に唯一性に行くのです。 @総会、協会 そうするうちに見ると、いくつかが出てきます。私たちは他の団体でないこと、聖書にだけあるのです。総会があって、協会があります。この二つがあります。一つ持って絶対にだめになっています。初代教会は、総会側にはペテロと、伝道側にはパウロでした。このようにまっすぐ行くのです。この二つを合わせるために、常任委員会というものを作ったのです。それで、皆さん弟子訓練ということは、一度ぴったりすれば一生行くのではないでしょうか。しかし、総会はそうではありません。民主的です。それは投票をします。こういうものも必要です。しかし、一度すれば永遠に行くこともなければなりません。これが二つが併行をしてこそ物事がなるのです。それで、総会、協会。 Aパラ(para)、ローカル(local) それで私たちはまたパラとローカル。パラは全体を見るのです。ローカルは私の教会、地域を見るのです。簡単に話せば、個教会を見て、全体を見て、この二つが一緒に行くべきなのです。 B個人、ワンネス(Oneness) それで、私たちは個人も見て、ワンネスも見るのです。この力を得て個人が答えを受けるというけれど、ワンネスを見るのです。 C教会、RUTC それで私たちは個教会も重要ですが、同時にRUTCも見るのです。これは全世界的に見ます。教会とRUTC、このように同じように見るのです。 D重職者、OMC そして私たちは重職者をたくさん立てますが、また同じく見ることは何でしょうか。OMCを見るのです。このように共に併行して、ずっと出て行くのです。こういう重要なタラッパンに対する流れが、中に入り込んで行くRUTCになるのです。何か行事を行おうが、入り込んで行かなければならず、私たちのレムナントが、このように分からなければなりません。そして、緊急なのが、今、総会神学校を卒業すれば、直ちに牧師になります。私は総会神学校さらに緊急だと思います。総会神学生が理解しなければなりません。玉虫色でしていれば、牧師になってしまうのです。ですから、私がある時見れば、まだだめな人もいて、しなくなければならない人もいるのに、牧師になるから、これが苦労するのです。ものすごく苦労します。こういう人がとても多いのです。ですから、どの程度かというと、牧師という時は教会の信徒と礼拝もささげて、祈って伝道して、こういうことではないでしょうか。ところで、それがだめならば、礼拝もできず、祈りもできず、伝道もみなだめならば、それは違うのです。こういう方々を作り出してはいけません。どの程度、礼拝をささげて、共に祈って、うまくいこうがだめでも伝道もして、そうであるべきで、とても伝道も損して祈りも崩れてしまい礼拝もだめで、それでは違います。それで、ある程度こういう部分を理解して出てこなければなりません。それで今日は少し長く話しましたが、次からは一つずつ実際に、私たちのタラッパンで見る伝道は何か、実際に私たちのタラッパンで見る祈りは何か、こういうものを一つずつ一つずつ少し検討していきながら、弟子を集める、こういう時間を持つようにします。祈ります。 (祈り) イエス・キリストの恵みと、私たちの神様の愛と聖霊の働きとが、一時代生かす弟子の上に、今からのちとこしえまで、いつも共にありますように。アーメン (The end) |