2009年6月25日 RUTC- RUTCの朝(礼拝) 講義:柳光洙牧師 (整理:チャ・ドンホ牧師)
タラッパンの目 (使徒3:6) 1部:礼拝 →序論 ▲使徒3章を見ると、ペテロがヨハネと一緒に足のきかない者をじっと見つめたのでした。見るのは、あらまし見ることもできるのですが、見つめたということの意味は、これからを見たということになります。また、見つめたということは、その相手の立場でその人を見る目を言います。さらに重要なのは、見つめたということは、神様の立場で神様がどのようにご覧になるかという観点で見るのです。こういう目を、見つめたと言います。ギリシヤ語では、オハノエトスというのですが、とても詳しく見たということです。 ▲聖書にある初代教会の目です。私たちのタラッパンが何かする時、こういう部分がとても重要です。ところで、私たちが人に会ってみれば、私がイ・ジョングン長老、また、私たちのオ・チョンロク牧師、キム・テヨン牧師、パク・ソンジン牧師など、このように会うのに、会ってみる時、私たちがいつ恵みを受けるのでしょうか。ア、この人は、こういう目を持ったんだなあ、このように感じる時、恵みを受けます。私たちが本を読んで、いつこの本が良いと感じるのでしょうか。格別なことではないね、こうすれば、読んだ意味がありません。私の目がひらきながら、そうだったねと感じれば、それは良い本になるのです。それほど、人に影響を与えるには言葉も必要ですが、このように言葉なく伝えられるものがあります。それが私達の目です。 ▲私たちが、どんな目を持ったかということです。私がほとんど幼い時、多くの牧師、長老に会った時、何を感じたかというと、その方たちの目は、ほとんど現実に汲汲している、このように感じられました。現実がとても難しくて、汲々としてこのように感じられたのです。こういう部分が私たちの子どもに伝えられたら、子どもの教育は失敗するでしょう。子どもが見るとき、私たちの両親は、いつも現実に汲々として生きているんだな、このように感じるなら、失敗した親だと言えるでしょう。学校で先生や教授が、とても汲々としてもがくのを見れば、その学生は勉強を正しくできる状況になれません。いくら教えても。それでは、その教授は失敗した教授だと見ることができます。私たちが難しければそうなるのです。ところで、難しいほど正しい目を持たなければなりません。 ▲これが、私たちの聖書にある精神を受け継ごうというタラッパン運動です。それでタラッパン運動は大きく話せばどんなことを言うのでしょうか。 1.パリサイ教会=初代教会 ▲第一に見れば今二つでたとえます。パリサイ人の教会と初代教会です。その当時、パリサイ人の教会の信徒は違いました。どんな目を持っていたかというと、この人たちは、ほとんどみなが初代教会と対立していました。 (1)理念 ▲パリサイ人は、おもにどんな目を持っていたのかというと、福音も持っていたのですが、ユダヤ人は理念の目を持っていました。理念というのは、知識人に来る結果でもあり、知識人が持つことです。ところで、理念はより大きい知識を持って見れば戦争を起こすのです。他の見方をすれば、戦争を起こす前に2つを意味するのです。自分が持っている良いことをこれ以上発展させられないことを意味して、もう一つは、とても傷ついたものを握っている傷ついた人生だと見ることができます。それが理念です。他の見方をすれば哀れです。 ▲昔に私たちが日本にたくさん苦しめられました。それをもって、今も見てみると私たちの民族、特に北朝鮮で歯ぎしりをしています。私はそのように見ません。日本が私たちを踏んだことは事実です。しかし、正確に話せば、私たちが踏まれたのです。今でも弱肉強食はひそかに進行しています。必ず戦争がないにせよ、経済や文化、スポーツで負けるようになっています。それを反省すべきで、しきりに理念で負けて、傷をもっていれば、それは希望がありません。その次に私が持っていることだけとても良いと満足しているのは、他のものを見られないということになります。これが理念です。それで、理念を持てば無条件にほろびます。理念がないのは無知ですが、しかし、理念があればそうなるのです。 ▲ユダヤ人は傷があるのです。いつもバビロン、いつもアッシリヤ、そのように自分たちの傷を持っています。それは、他の見方をすれば正しいのですが、歴史的に見れば正しいのですが、本当に理念的に見る時は合わないのです。神様がその国々を福音化しなさいと言われたので、戦って征服しろと言われませんでしたし、福音化して世界宣教しろと初めから与えられた思想なのに、合わないのです。ここにユダヤ人は、すばらしい理念を持っていました。 (2)福音 ▲ところで、初代教会は違ったのです。福音を持っていました。それで、ユダヤ人は民族を見て、初代教会は世界というものを見たのです。私たちのレムナントをよく育てておられるキム・ソンジン長老が、こういう話をされました。本人は記憶しておられるかも知れませんが、私と会って話す中に、こういう話をされました。私は大きい教会にいた時、世界宣教というものをよく知りませんでした。ところで小さい教会にきて世界宣教を分かったのです。その方が米国の大きい教会にいらっしゃって、福音運動のタラッパン運動を知って多くの困難があると思いながらも小さい教会に来られたのです。それで私にされた話です。ユダヤ人は、すばらしい理念を持っていたのですが、民族しか知らなくて、初代教会はマルコの屋上の間に集まったのですが、世界というものを知っていました。これが違うのです。それで、私たちはここに目を持っていなければならないのです。 2.知識 ▲二番目には、パリサイ人が持っていて、初代教会が持っている知識の目が違ったのです。 (1)自分のこと ▲パリサイ人らは当然、自分のことを主張しました。当然です。理念を持った人々がくるのは当然で、知識人が正しいことで必要なことです。それで、広告でもあるでしょう。私たちのものが良いものだと。それは悪い話ではありません。ところで、他の面で見る時は、それがとても消極的な話になる事もでき、危険な話になるのです。このユダヤ人は、自分のことだけぴったり守ります。それが最高だと見るのです。それで、この人たちは、正統、制度、儀式、その中に代表的なのが律法。そこにとても作品であるタルムード、トーラー、シェマ、このようなものが出てきたのです。すばらしいものです。それが誤っているということではないのですが、自分のことだけ主張したのです。 (2)信仰 ▲ところで、初代教会はこれをそのように価値あるように見ませんでした。知っているからです。初代教会はここで信仰を主張したのです。そうするから、逆になりました。話にならないと見たのです。このようにずっと戦ったのです。力があるパリサイ教会が見たら、とんでもないことをするということです。私たちが律法を守って、制度を守って、儀式を守るべきで、何の信仰なのか。霊的なことをみな抜いてしまって、このように話をしたのです。そうするうちに見たら、イエス様も出てこられるやいなや、メッセージを逆にされたのです。貧しい者が幸いで、悲しむ者が幸いです。その話は、あなたたちは、悲しんでいないということです。ですからほろびるだろう。悲しむ者が幸いで、柔和な者が幸いです。なぜでしょうか。高慢だということです。それで逆に全部話したのです。貧しい者がどのように幸いでしょうか。ところで、心が貧しい者が幸いだと、全部、逆に。義に飢えて渇いた者が幸いです。イエス様のメッセージは逆でした。主の祈りも全部、その人々が思うのと逆でした。みな必要なくて、日用の糧だけあればよい、その祈りです。こうするから、完全に信仰を主張したのです。この目が違うのです。この人たちが見る時は、大工の息子が現れて、ガリラヤの人をかき集めておかしなことをすると見たのです。見間違ったのです。目がなかったのです。 3.生き方 ▲そして、初代教会とパリサイ人は生き方の目が違いました。 (1)肉 ▲ですからパリサイ人は、全部、肉的な目だけ持っていたのです。このように生きなければならない、あのように生きなければならない、体面が何だ、私たちが宗教の正統が何だ、結局は、茶碗争いをすることになったのです。 (2)霊的 ▲ところで初代教会はとても霊的な目を持ったのです。代表的な例が今日の本文です。金銀は私にはない。私にあるものをあなたにあげよう。ナザレのイエス名で起きて歩きなさい。これはすばらしい目を開いたのです。それで、こういうものを持ってメッセージをしたのですが、奇跡が起こったのです。どうなるでしょうか。それも肉的なものですが、どうなるでしょうか。足のきかない者が起きてしまったので。 ▲皆さんが、もし病院の医師が足のきかない者を一人直してしまったとすればどうなるでしょうか。そうでなければ死んでいく人一人を生かしてしまったとすればどうなるでしょうか。町中が大騒ぎになるでしょう。それで、全世界に広がったのです。ですから、その足のきかない者を通して起きた戦い、証拠、働きが多いのですが、結局、その人々は肉的なものだけ持っていたのですが、肉的なものの前で負けたのです。ペテロがこのように話しました。それでは足のきかない者を立て起こしたのかと尋ねられました。ナザレのイエス名で立てたが、足のきかない者を立てられるのか。それでは足のきかない者を起きろということと、あなたの罪が許されたと、どちらがさらにやさしいか、このように尋ねたのです。その人たちは、二つともみなできないのです。そのように肉的であることを自慢するので、それではこの足のきかない者を立てられるのか。パリサイ人はすごいでしょう。それでは、立てられるのでしょうか。このように質問したのです。昔の無知なペテロがそのように論理的に出てくるので、そして、とても霊的に出てきたのです。ただ救われるべき名としては、どんな名も与えられていない、このように出てきたのでした。このように出てきたので、4章を見ると、大宗教人、知識人がとても驚いて、ひとまずどこに衝撃を受けたか、あれはペテロではないのか。そうだ、と驚いたのです。なぜでしょうか。とても話を上手にして、言葉の内容が別なのです。このように今、目が違うのです。これでひとまず足のきかない者は立っているから証人で、足のきかない者は立ったのが証拠で。そばに立っているのに何、足のきかない者に尋ねて、そのとおりか。そうだ。顔を見たら、そうだから。どのように起きたのか。この人が起きろと言った。何と言ったのか。ナザレのイエス名で起きろと言った。話す言葉がないでしょう。それでこの人たちは、ひとまず訓戒の措置をしたのです。なぜでしょうか。そこで捕まえて入れてはいけないからです。訓戒措置しながらも、した話があります。絶対にキリストを話すな。それでペテロが何と言ったでしょうか。世界中でこの御名の他に名をくださったことはない。そのようにして戦うようになったのです。 ▲今でもサタンはキリストを話すなと言います。怖くなるからです。そうではないでしょうか。皆さんも度々、弱点を話せば怖くなるでしょう。今でもキリストを話せば、サタンはぶるぶる震えるのです。このように目が違うのです。 ▲更新(目) どんなことでも必ず結果がくるようになっています。それはもう変えられません。ある人は、神様も結果は変えられないと話すほどです。その結果は、何をしたかに後ろから追いついて並んでくるようになっています。その次に何をしたかが重要なのではありません。何を見たのかが重要なのです。見たとおりに私たちはするようになっているからです。見ることよりさらに重要なのが何でしょうか。私たちは見るのも重要ですが、今日の主題が、見ることだが見ること以前に隠されたことがあります。それが何でしょうか。持ったものです。私にあるものをあなたにあげようと言いました。私が持ったものとおり見るのです。皆さんが今、知識があることだけ見られます。どこへ行こうが、旅行に行っても、博物館に行っても、遊びに行っても、私が持っているだけ見られます。私が福音を持っていれば全部、福音中心で全部見えるのです。ですから、持っているだけ見えるので、私にあるものをあなたにあげよう。ナザレのイエスの名で歩きなさい。 ▲こういう驚くべき祝福を神様が初代教会にくださったのです。この祝福が伝えられてきた中で、私たちのレムナントに伝えることを神様が願っておられます。私たちのタラッパンがすごくて、あなたたちは誤っている、そういう話ではありません。神様が願われるのはそうでなくて、この契約をレムナントに伝えなさいということです。レムナントに正しい目を開いてあげなさいということです。理念の目でなく、正しい目を開いてあげて、単純な思想でなく、正しい信仰の目を開いてあげて、肉的なものだけあるのでなく、霊的な目を開いてあげなさいというのが神様の計画です。それで私たちがこのことにお手伝いすれば、どれくらい感謝なことでしょうか。私たちがこのことをして失敗しても、大丈夫なのに、このことをすれば神様がこの地で最高の祝福をくださると言われました。それでは私たちはこれ以上、話すことはありません。もしRUTC放送をしたら、みな無一文の乞食になるとしても、しなければなりません。そうではないでしょうか。RUTC放送をすれば無一文の乞食なることがあってもこれはすべきです。ところで無一文の乞食になるのでしょうか。神様がご存じで、豊かにしてくださるのですが。だからどれくらいこれが重要でしょうか。皆さんがレムナント運動をするところに、これ以上さらに重要なことはありません。それで、私たちは毎日毎日神様は毎日答えられるから、毎日更新の目を持たなければならないのです。 ▲その中で、今、時刻表は何でしょうか。こうしてこそ、答えを受けるのです。いつも更新する中に、今、時刻表は何かということです。ですから、今、私たちのタラッパンはものすごく答えられるから、みんなが毎日、更新しなければなりません。昔にはこの宣教センターが入ってきて空っぽでした。ところで今は足りません。だから毎日毎日、更新しなければならないのです。みんなが更新しなければなりません。今、見ればこれから老会、総会、国内、国外、神学校、ぱっとキャンプが起きます。更新しなければなりません。それでオ牧師の場合は、全体キャンプを置いてスケジュールを置かなければなりません。全体の意見を聞かなければならなくて、全体のメッセージを伝えなければならなくて、ここに私たちヘッドがどんな考えを持っていると伝えてあげて、その人の意見を受けてするこういう時刻表です。そんなことを速く、よくしなければなりません。 ▲そして、今はRUTCも同じです。RUTC状況室では今は何をすべきでしょうか。続けて見て、今は例えば私たちが多い重要なことがあるのですが、今は今まで献金した人が恵まれてこそ祝福を受けます。ですから、あるおばあさんがしたこと、ある方が一生の間、教師をしながらプレゼントされたものをみな集めて持って来られました。こういうものでも見れば、ある教会は小さい教会が集まって、自分の教会の予算中にRUTC献金を一番たくさん決意しました。その次に実際に外国のようなのに誰もいないのに集めて、外国から100ドルはものすごいのです。そこで千ドルずつ集めて、RUTCへ送って。こういう状況でも、その次に実際にRUTCに参加して受けた祝福、こういうものらを他の見方をすれば、肉的なあることもあるのですが、こういうものをたくさん更新して、照らさなければならないのです。 ▲そして今、重職者企画室も多くのチームを参加させろということは、すべて更新です。全体の話合いをして一緒に行かなければなりません。そして今、放送でもあるものは更新して、大きく見つめて、あるものは引っ張っていって、あるものはおして、あるものは一緒に行って区分しなければなりません。なぜなら、ここで前にすべての映像がみな出て行くから、そのようにしなければならないのです。このように時刻表に従って更新をしなければならないのです。私たちはこれをよく見なければなりません。それを見られなければ、しきりに難しくないのですが、私が困難を感じるようになります。 ▲それと共に、今、私たちのタラッパンは結論から出そうとするなら、他の団体と唯一違うのが何でしょうか。一つにまとめられたのです。それなら私が何をすべきでしょうか。一緒に行く力がなければなりません。可能ならば、私がどんな人なのに、私がパク・ソンジン牧師に報告できなければなりません。そのような気がしないなら、大きい世界福音化はできません。そして、ある面ではオ・チョンロク牧師がキム・テヨン牧師を見てもすべきです。そのように一緒に行くのです。それでは、また例えば下の人に見てもして、一緒に行ってこういうことが必要です。そのような頭が開放されなければ、私たちの団体の特徴が何でしょうか。全世界は絶対に一つになりません。タラッパンだけ一つになっています。例をあげれば、釜山にある合同側の老会、金持ちが住む海雲台のミルラクトン老会は大きいのです。その海雲台教会一つを、私たちの教会で引き受けました。その老会全体がくっついてそれを奪い取ろうとするので、私は与えると言いました。私たちが奪い取ったのではなくて、私たちは法的に落札したのです。それでは延期します。どの程度、延期するのでしょうか。法的最高期間に従って延期します。数ヶ月間もすれば、あなた方がそれを持っていきなさい。それでは、私たちはしません。私たちはその建物が未信者の手にわたって、教会がしょっちゅう落札されれば、それがある面では犯罪行為です。それで私たちがして、教会を作るのです。タラッパンがするのが気分が悪ければ持っていきなさい。機会を与えました。そのものすごい老会、大合同側が、数ヶ月をがんばって頭を使ったのに、そのお金を作り出せなかったのです。それで自分たちがあきらめたのでした。私たちが持っていってもかまわないか。持っていきなさいというので、持ってきたのでした。それで海雲台インマヌエル教会を立てました。ですから、それが何を話すのでしょうか。何もまとまる力がないのです。その人々が力がないのではありません。まとまる力がないのです。団結できません。私たちがRUTCでこのように貧しい人々が集まって誠意を尽くして、皆さんいくら持って暮らしているのか知っていますか。この人たちが、献金をして、むしろたくさん儲ける人より儲けられない人がさらによくします。このように献金をして、あそこに土地をこのようにしていったのです。それなら、これは普通ではありません。それなら、そこに合う更新をしなければなりません。それで、多くの人々がそのような部分に更新が速くできません。一番、信仰生活が上手なのが何でしょうか。更新をはやくすることです。更新は変わるのではありません。更新は蘇生して発展することであって、変質するのではないのです。それで私たちが変化することと、変質することとは違います。教会でも同じです。重職者時代が開かれたとすればはやく感じをつかまなければなりません。重職者時代が開かれたら、すべての重職者は集まって伝道企画しなさいということです。このようにしてこそ、神様の答えを受けるのです。それを知らなければ何もだめです。 ▲それでは、今、レムナントはまた何でしょうか。レムナント運動は今、見ると、当然あちこちで米国ならば米国、日本ならば日本、中国ならば中国のレムナントが起きようとしたら、それを感じをつかんで、それを広めなければなりません。それで最大限にある面で行って集会もして、最大限にそこのリーダーを集めてリーダー修練会をして、このように作業をしてこそ、全体で全体的なことが合うのです。私たちが昔にしたことをずっと維持しようとしてはいけないのです。私が見る時は、初めにはたくさん集まったのですが、むしろ減っているでしょう。レムナントは増加していて、むしろフィリピン一ヶ所だけ行っても、千何百人が集まります。今は、いよいよ日本に行っても何百人が集まります。前は何十人が集まっていました。そして今は米国へ行っても、少なくとも集まったとすれば五百人、千名集まります。ですから、とても発展しているのです。それなら全体を見通して、放送もそちら側にネットワークを置くことを考えて、このように続けて見なければなりません。このように、いつも更新しなければならないのです。私一人の考えを固執してはいけません。そして、ここは会社でもないから会社式でしてもだめです私たちは教会式でしていかなければならないのです。 ▲そのような中に宣教大会やレムナント大会、こういう重要な大会を残しておいています。そのような中で、私たちが今、子どもたちを集めておいて軍隊式にせずに個人的にしてみようということです。キャンプもしてみて、出会いもしてみて、それでホームステイが出てきたのです。それでは全体がはやく感じをつかんでホームステイの意図を理解しなければなりません。例えば私たちが一番初めにした時、オルタナティブ学校の子どもたち、今はそうではありません。今は良い子どもたちだけいます。以前に見たら、何にもだめな子どもたちでした。それで一つでもよくさせなさい。それで行軍をしたのです。行軍をして、初めから最後まで歩きなさい。もし逃げた子どもがいればつかんで行きなさい。そして、もし倒れた人がいれば立て起こして一緒に行きなさい。一つでもちょっと達成させなさい。それで始まったのが行軍です。ところで、今は変わらなければなりません。今はそのような子どもたちではありません。今はオルタナティブ学校にエリートだけが集まりました。その子たちは、勉強しようともがく子どもたちです。それではその子どもたちをあえて握ってたくさん歩いて通う必要はありません。風も吹かれながら行くのです。このようにして、私達の子どもたちのある精神を育てて目標を達成していくのです。このようにあらゆる分野に更新すべきです。 ▲そして皆さん自身が仕事をしていれば、個人的に難しい時があるでしょう。人にみな言えず、難しい時があります。皆さんもあって、私もあります。位置が違うだけであって、みな困難があります。それで、皆さんが個人が神様の前で更新をするのです。神様が皆さんに恵みをくださろうとして、恵みを受けなさいということだから、結局は恵みを受けられなければ、後ほどには元に戻せない結果が出てくるから、私たちが恵みを受けなければなりません。 ▲それで今回レムナント集会しながらもそうで、全てのものをしながら私個人が神様の前で恵みを受けなければならず、こういう考えを固めて結論を下さなければなりません。私が今RUTCで仕事をしながら、神様の恵みを受けなければならない。私が幹事でありながら神様の恵みを受けなければならない。私が撮影しながら、神様の恵みを受けなければならない。RUTC放送に私のいのちをかけて仕事をする間に、神様の恵みを受けなければならない、こういう結論が出てこなければなりません。これがとても重要なことだから、こういう祝福がRUTCに参加するすべての全国、世界、家庭、教会にあるようになることをイエスの御名で祈ります。祈ります。 (祈り) すべての問題の解決者で、万王の王である主イエス・キリストの恵み、私たちを永遠に愛される神様の手厚い愛と細かく導かれる聖霊様の働きとが、一時代を生かすすべての伝道者とRUTCに参加したすべての家族と、またこのことをする放送とすべての仕事をする主のしもべの上に、今から永遠までいつも共におられますように。アーメン |