2004.03.06 ルツ記(01) - (核心訓練)
ナオミとマラ (ルツ記 1:19-22) 聖書みことば (ルツ記 1:19-22)
19/ それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか。」と言った。
20/ ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。
21/ 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」
22/ こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。
要約
▲神様の力を、私中心に信じることが神秘主義
▲神様のみことばを、私中心で習うことが律法主義
▲神様の働きを、私中心に解釈することが人間中心主義
1.ベツレヘムに帰ってきたナオミ(ルツ1:19)
(1)自分中心の信仰(ルツ1:21) 3種類
(2)カナンとベツレヘムの意味(ルツ1:19, ルツ1:22)
(3)自分中心の悔い改め(ルツ1:21, ルツ1:22)
2.ナオミとマラ(ルツ1:20-21)
(1)信仰の本質
(2)考えと答え
(3)言葉と名前
3.旧約信仰を悟るべき - 影
(1)福音のための律法
(2)福音のための祭り
(3)福音のためのイスラエル
(4)福音のための伝統(制度)
(5)福音(救い)のための影
4.キリスト以後のみことばを悟るべき - 実体
(1)律法の完成
(2)祭りの廃止
(3)新しいイスラエル
(4)新しい戒め
(5)実体(主人)の受肉
(The end)
説明資料
→序論
▲‘ナオミ’という名前は、喜びという意味です。ところが自分の名前を‘ナオミ’と言わず‘マラ’と言ってくださいと言います。マラとは、苦痛、辛い、つらいという意味です。今日、私たちは伝道運動をしなければならなくて、福音を持った者であるという重要性を知っています。しかし、なぜ実際には、祈りの答えがだめなのかを知っていなければなりません。
(1)私
1)律法主義 - パリサイ人
▲なぜ律法主義をしてはならないと言うのでしょうか? 福音にあって、律法は良いことです。ところが、なぜ律法主義をしてはならないと言うのでしょうか? 確かにパリサイ人のようになるからです。理解ができないでしょう。神様のみことば通りによく暮らそうとするのに、滅びるのです。それで、律法主義をするなというのです。
2)神秘主義 - 偶像崇拝
▲何ゆえに神秘主義をしてはならないと言うのでしょうか? 良いことなのに、これは後ほど基本を失って、聖書に現れたおかしな偶像崇拝をするようになります。自分自身も知らないで...
3)人間中心主義 - 政治家
▲何ゆえに人間中心主義をしてはならないと言うのでしょうか? イスラエルの国民が、良い生活をしたのに、最後になって、特に、政治家たちが崩れました。それで、するなと言うのです。理解がよく出来ずにいます。
(2)考え- 不信仰(サタン) ? 言葉
▲今日、ナオミはは相当なことを話します。私はナオミではなくて、マラです。これは、簡単な話ではなく、この人が生きてきた多くのことを説明することです。そして、この人が持っている、直さなければならない重大な部分を言うのです。ここには私たちの考えが含まれています。ナオミの考えです。考え、信仰をみな合わせて出てくることが言葉です。
こういう部分を、皆様は普通に考えるのですが、ものすごく重要なのです。いかなる場合にも、皆様の子どもに話をむやみにしてはなりません。まちがいなく話をむやみにする人は、霊的に誤った人です。言葉という ことは、ものすごく重要です。
皆様がいつも不信仰の中にいれば、いつも苦しいでしょう。すると、後ほど死ぬ時も、この中で死ぬのです。 これがサタンの通路になります。これを悟れば、重要な部分が変わらなければなりません。考えも変えて、言葉も変わらなければなりません。これが変わらないと、ここで崩れるのです。私たちは、普通に過ごしてしまいます。私達が持っている考えは何のようかというと、カメラで話せばフィルムと同じです。そのまま現象されるのです。皆様の言葉は何でもないようですが、後ほど未来と関係があるのです。これはとても重要です。皆様の考えが福音的ないのに、どんなに聖書勉強して、祈って、また考えが明るくなければ、徹夜祈りをして、苦闘してもだめです。それほど考えが重要です。ユダヤ人たちが持っている考えは、断食だけをしばしばすることです。だめになります。根本を考えなくて、行為だけをするのです。
▲だから、一言で律法主義ということは、神様のみことばを私中心でしばしば見ることが、律法主義です。これらの共通点は‘私’です。
▲神秘主義は、神様の能力を、私中心に信じることです。
▲そして、神様の働きを私中心に解釈することが人間中心主義です。これが何でもないことのようですが、私中心です。どんな場合にも、私の水準以上ではないのです。
▲皆様は伝道者です。今日、これを理解できなければ、皆様の残った生涯が、ずっと苦しいでしょう。これを理解できなければ、後ほど、年を取るほど難しくなります。生活もどんどん大変になります。私はこのように 人生を終えるクリスチャンをたくさん見ました。人生を悲惨に終える人をたくさん見たのです。それで、完全に変えなければなりません。行動だけでなく、考えまで変えなければなりません。
律法、これが何でもないことのように見えますが、結局は、律法主義へ行くことが良く見えるのです。律法主義は、敬虔に見えて、善良なように見えて、みな良いのに、後ほどに行けば失敗するのです。そして、あちこちで力を受けて祈れば良いように見えるのに、後ほど変になります。全く違った道にいるのです。
▲今日、皆様が聖書のみことばを見ながら、皆様が良い生活をしてもしなくても、よくできる、できないという間に、皆様の考えを福音主義の考えに完全に変えなければなりません。
なぜなら、ここによって言葉が出てきて、考えと実が出てくるようになっているからです。
1.ベツレヘムに帰ってきたナオミ(ルツ1:19)
(1)私中心の信仰(1:21)
▲この人の信仰は、結局、私中心の信仰(ルツ1:21)です。
皆様が今日、問題にあった時、神様はご存知であって、神様はなさることができるのです。神様の計画が何かを尋ねればよいのです。すると、簡単に答が出てきます。ところが、私中心でするのです。
▲今日の21節を見れば “私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。”正しい話のように見えるけれど、まさにここに答があるのです。神様がナオミに苦しさを下さったのではありません。契約が成就するカナンの地、ベツレヘムへ帰ってくるようにされたのです。早く悟らなければなりません。家族が死んで困難にあったように見えるけれど、神様がイスラエルに最も重要なメッセージをくださったのです。
このように、全部私中心で悟ってはならないのです。
▲皆様に問題がきますか? 神様がなぜ、このようになさったのでしょうか? 皆様が、おかしな家族に会って苦しいでしょうか? 神様が、なぜ私にこういう人をつけられたのかと考えれば、簡単です。そこに連続して答えがくるはずです。
▲ところが、ずっと私中心に考えると苦しいのです。これは神様ではありません。全部‘私’です。律法も私、力も私、答えも私、全部‘私’です。救いとは全く関係ありません。だから、問題がくるのです。これは、神様の水準である時にだけ可能です。しかし、私たちは神様の水準ではありません。私達が死の道を行っていることも知らずに、私たちは神様のことも知らない時が多いのです。だから、私中心はいつでも失敗します。
神様のみことばを、いつも私中心で悟るので、信じることができないみことばも多いのです。
▲私が見る時は、ナオミは話をうまくしました。正しく福音を悟れば‘神様、有難うございます’と言わなければならないのに‘全てのものをみな失ってきたから、私をナオミと呼ばず、マラと呼んでください’と言いました。この話が何をいうかというと、ナオミとイスラエル民族の普段の時持っている信仰を言うのです。これがものすごく重要です。
(2)意味
▲今、カナンとベツレヘムに帰ってくる意味を知らないのです。私が悲惨に帰ってきたと話すのです。だから、ナオミと言わずに、マラと言ってくださいと言うのです。これは苦しみ、にがい、つらいという意味を持っています。問題がきたのです。
(3)私中心の悔い改め(ルツ1:21, ルツ1:22)
▲悔い改めをしても、全部、私中心の悔い改めをするのです。
福音はこれではありません。強く話せば、福音は神様中心です。福音と律法の差は、人を見る時、律法を中心でみることが宗教で、神様を中心でみることが福音です。ものすごく重要な話です。
皆様が神様の前にずっと重要に用いられるか、用いられないかということが、ここにかかっているのです。皆様の努力も重要ですが、それではありません。伝道運動を3-5年以上する人がいません。自分が伝道運動を すれば、自分自身が崩れます。牧会をすれば、最後の引退する時になれば、教会がよくなっている所がありません。牧会も自分がしたためです。そのままパリサイ人になるのです。結局、聖書通りになります。
2.ナオミとマラ (ルツ1:20-21)
▲ナオミとマラということは、
(1)本質
▲信仰の本質が出てきたのです。簡単になることではありません。私は神様の民だ、私は神様のみことば通りに生きてきたのに、神様のみことば通りに生きられなければどうなるのか? 私はマラになって帰ってきた。苦痛だ、ということです。これが一般のクリスチャンとパリサイ人の姿です。
(2)考え - 答え
▲だから、考えを持った、そのまま答えを受けるのです。救われた皆様は、早く知っていなければなりません。ある人が‘悪霊につかれて、イエス様の名前でいやされたのに、しばしば悪霊が見える’ということです。それで逃げるなと言いました。来てもかまわないの
です。来れば来るほど益です。これが救われた者の特徴です。私たちの考えが重要なのです。考えそのまま、答えになるのです。
▲ヨブ3:25 ヨブが普段の時、いつも考えたそのまま問題がきたのです。子ども、財産、家を心配したのです。
▲Iヨハネ 4:18-19 恐れには必ず刑罰がきます。
▲Iペテロ5:7-8 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。ものすごく大きいことも、小さなことも、みな主に任せなさいということです。‘身を慎み、目をさましていなさい。’理由があります。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。私達が勉強を多くして、本をたくさん読んで、説教をたくさん聞く理由も、これを悟るためです。
▲歌をよく歌うことはよいことです。ところが、ある人は歌を歌うときに、悲しい歌を歌うのですが、これはこの人の人生が悲しいということです。苦しめられる人は‘ケセラセラ’と歌うのですが、これは‘後のことは分からない’ということです。この頃は、ナイトクラブが大騒ぎだということです。クラブに行くことが問題なのでしょうか? 歌を歌うことが問題なのでしょうか? 私たちは、こういう狭い見解を持っているのではありません。彼らの考えが問題なのです。結局は、考える通りになっていくので、後ほど揺れる人生になるのです。
(3)言葉、名前
▲言葉がものすごく重要なのです。言葉ということは、こういう部分がなっていくのです。
そして、また名前が重要です。それで名前を変えたりするのです。名前がマラとすれば、どのようになるでしょうか? そのようにいつも生きてきたということです。幸いに、ルツゆえにこの人が大きい祝福を受けるようになります。
▲私たちが生きている歩みの中で、困難が生じます。一度も生じなければ良いのですが、そうではありません。伝道者になれば、教会の中で色々な問題が生まれます。一度も生じなければ良いのですが、人生はそうではありません。すると結局、人生はこのようになるのです。これを完全に変えなければなりません。
▲私は聖書を見ながら、これでイスラエルが滅びたということが分かりました。私たちは聖書を見ながら、無条件に‘アーメン’と言うのですが、パリサイ人のことを見て‘アーメン’と言ってはなりません。聖書は事実の本なので、そのようになった事を、そのまま記録しています。だから、間違っていることも記録したので、そこに無条件にアーメンと言ってはだめです。聖書は伝記や自叙伝ではないので、無条件について行くのではなく、信仰でついて行かなければならないのです。
3.旧約の信仰を悟るべき - 影
▲旧約の信仰は何でしょうか? これを知らなければ、大変な事になります。旧約の信仰は影です。何の影でしょうか? 律法はなぜあるのでしょうか? 福音のための影です。祭り、いけにえを捧げる儀式はなぜあるのでしょうか? 福音のための祭り、儀式です。イスラエルは、なぜあるのでしょうか? 福音のためのイスラエルです。あらゆる伝統と制度も、福音のためにあるのです。それで、あらゆる旧約は、福音(救い)のための影なのです。これを知っていなければならないのに、知らないのです。
4.キリスト以後のみことばを悟るべき - 実体
▲旧約は全部、影です。それで、キリスト以後に私達が受けたみことばが、福音の実体が来られたということです。福音の深い中で考えを悟らなければなりません。
▲話を普通に考えてはなりません。これは、未信者の話のように、皆様の運命をそのまま左右することです。皆様が持っている過去の傷が、そのまま運命の中に入っているのです。それで言葉が重要なのです。
▲そのような意味で考えは、もっと重要です。これが、今日のクリスチャンの姿かも知れません。
▲皆様は悟らなければなりません。キリストが実際にいらっしゃったということは、律法を完成されたのであり、犠牲のいけにえを廃止されたので、羊の血が必要ではないのです。これからは、信仰によって新しいイスラエルです。私たちは、律法の戒めではなく、新しい戒めで、実体(主人)の受肉された神がいらっしゃったということです。実体として来られるキリストの影を 明したのが、旧約です。ところが、この影を捕まえて、いつも正そうとするので失敗するのです。皆様が一番普通に考えることですが、一番、重要なのです。
クリスチャンが最も知らずにいる部分であり、サタンが最もよく使うことです。銘記しなければなりません。
皆様が持っている考えと話しは、皆様の未来を左右します。皆様の律法主義に陥った考えは、まちがいなく、パリサイ人の考えです。早く直しましょう。皆様の中で、神秘主義に陥ったことがある人は、イスラエルがどのように偶像を崇拝したのか? と言うのですが、神秘ならば、そのようになります。私達が持っている人間中心主義は、国家に大きい災いをもたらすはずです。そのようになってはなりません。そのような中で、ナオミが言うのが、私の名前はマラだということです。
▲すると、律法が必要ないということでしょうか?
▲みことばの働き
もし福音のなかでみことばを回復すれば、律法でなく、大きいみわざが起きるはずです。早く変えなければなりません。福音のなかで、神様のみことばを悟れば、律法でなく神様の働きです。
▲生き方 ? 人間中心主義
もし福音のなかで生き方を悟れば、人間中心主義ではない神様の大きい祝福なのです。
▲力 - 奇跡
福音のなかで神様の力を悟れば、神秘主義でなく、神様の大きい奇跡の働きです。
▲悔い改め - 祝福
皆様が律法のなかで悔い改めれば、罪の中の罪に陥るしかないのですが、福音のなかで悔い改めれば、神様の大きい祝福を受けるようになります。
▲私たちは、律法が必要ではないということではなく、福音のなかで悟れば、神様が働かれるということです。福音のなかで悟った生き方は、人間中心主義ではなく、神様の力というのです。福音のなかで悟った力は、神秘主義ではなく、神様の奇跡です。私達が間違いを犯しても、福音のなかで悔い改めて悟れば、神様の祝福が臨むのです。のがさないようにしましょう。
私が見る時は、伝道者に一番言いたい話しがこれです。役員にチームの働きをしたいことがこれです。
5.結論
▲どのようにすれば、問題が解決できるのでしょうか? 初代教会の姿へ帰ればよいのです。
▲福音を本当に味わっていれば良いのです。すると、どんなことがおきるのでしょうか?
(1)聖霊- 本当に自分自身を変えることが祈りなのですが、自分自身を変える祈りで勝利すれば、聖霊が働かれるのです。今日から神様に完全に任せて、皆様の過去を神様に完全に任せて、皆様の傷も、家庭も完全に任せれば、祈る時、聖霊が働かれるようになります。福音のなかで.... 年を取って問題が来たら、止めることができません。
(2)証人- 皆様が福音のなかで本当に祈っていれば、初代教会のみわざが起きるようになっています。証人、伝道運動です。
(3)みことば- 福音の中にいれば、神様のみことばが成就するようになっています。神様のみことばの成就です。
(4)弟子- 福音のなかで祈って、味わって、正しい福音の考えを持っていれば、皆様の周囲に弟子が起きます。
(5)現場- 神様のみことばを正しく伝えて、味わっていれば、周囲の現場が変化します。これがマルコのタラッパン教会です。
(6)宣教- 神様がアンテオケ教会を立てられた理由は、宣教をするためです。
(7)成熟- 初代教会の中で、一番成熟した教会は、テサロニケ教会です。信仰、希望、愛のメッセージが、ここから出てくるのです。力と聖霊と大きな力です。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。このみことばも、ここから出てきたのです。
▲私はこのように考えました。長い間、私の息子ゆえに妻も母も心配しました。私の息子が敬虔でないということでした。むかしに... 私も心配しました。神秘主義にはならなくても、祈るふりでもしなければならないのに、しないのです。幼いころから教会に通ったから、信仰生活の安易主義に陥っているので、だめだったのです。ところが初めて軍隊を行ってきたら、軍で礼拝をささげたら、説教の時に眠ってしまうということでした。福音を伝えないと話したのですが、それなら、あなたが福音を理解しているということなのかと確認しましたた.. 私の息子と私が通じる信仰は‘神様があなた祝福されるはずだ’と話すことです。結局、恵みを受けようと息子が苦闘しました。神様ではなく、父親に失望を与えないためでした。そうしたあと見たら、信仰が 入って行きました。時刻表があるのです。
父母が子どもに不信仰なことを話せば、その子どもは決定的な時刻表に崩れます。しばしば心配すれば、Iペテロ5:7-8節がくるのです。
結論で、色合いが出てきます。これを無視することはできません。
▲なにかになるようなことが信仰です。私達が信仰を説明する時は、漠然としていますが、なにかなるような ことが信仰なのです。
なにか、どんどん献身したいということが愛です。なにか神様に前に祈りたいことが希望です。
▲今、私たちの教会が、なにかなるようだということが信仰です。信仰という単語がわからない人が、どこにいるのでしょうか?
ここで多くの人が生かされて、多くの祝福がくるのです。そして、他の人が見る時、なにか安息を感じるのです。聖霊と力と大きな確信です。
▲私たちが、この考えを持っていないと、ある日、かたちは違っても、ナオミのようになります。ナオミではなく、マラだ。呪われたと言う日があるのです。
序論を知らなくて、1番のように悟るようになります。そして、マラになるのです。これが1番からくることで、より食い込めば、序論から来るのです。すると、ここに陥ります。すると悪くても2番にくるのです。だから契約をとらえて、世界福音化をしなければならないのです。世界福音化すれば、皆様に新しい力が現れるはずです。
▲祈りの課題
(1)15個(準備)- 20個の訓練の中で、15個は全部、準備だと見ることができます。
(2)答え- 残りの5個は答えです。続いて来ます。
1)レムナント- その中で逃してはならないのは、レムナント核心、レムナント共同体、レムナントが集まってする訓練です。どんどん来る答えです。
2)子ども- それとともに、この時代に正しくできる子ども宣教、専門の働きで来る答です。
3)病院伝道- そして、タラッパンでする唯一の働き、病院伝道を本格的にしなければなりません。チョン・カンス牧師に話しました。技術が問題ではなく、正しく病院伝道をしてください。ここにいのちをかけてくださいと言いました。
4)相談- 中・高等学校の相談
(3)賛美チーム- これから、教会が今から専門性ある賛美チームのために祈りましょう。なぜなら、世界のあちこちでレムナントが起きれば、賛美チームが必要なのです。これを皆様が進行して行って、本格的に祈りましょう。
(4)3月 14日(総神聖日)- すべてのタラッパンのメンバー、総会会員が一致協力して祈らなければなりません。全く同じ方向で祈らなければなりません。 ‘総神聖日’です。どんなことが行われるでしょうか? 同じ方向で祈らなければなりません。3月 14日に、牧師と伝道師を正しくさせることだけが、生きる道であるので、これを置いて全国と世界教会が一緒に祈らなければなりません。ここに対するメッセージもさがすはずです。
(The end)
|