2002年10月27日 インマヌエル聖日礼拝


1部/信じる者には、どんなことでもできるのです
(マルコ9:14〜29 )
 
  
・教会行事の中で最も重要なのが、聖餐式です。今日、聖餐式がある日なので、できるだけ簡単にみことばをお分かちします。しかし、今日の本文を見れば、ものすごく重要なみことばです。17節を見ると、おしの霊につかれた息子を連れてきました。18節に見ると、ところかまわず泡をふいて倒れたり、倒れれば死にそうになると記録されています。これは何の話かというと、私達が見る時、てんかんということでしょう。てんかんがあったり、話すこともできないような息子でした。聖書にこの記録がされているのですが、こういう部分がたくさんあります。あなたがたが、この部分を詳しく見るべきなのは、家にこういう子供がいることもあると、私達が普通は考える部分ですが、そうではありません。こういう子供がいたり、こういう親戚がいる時、ものすごく深刻なのです。これは現れた問題であるだけで、現れないのでこういう問題がある人が、ものすごく多いのです。人は、生きていると、こんなこと、あんなことがあって、また生きていれば、離婚をしたり、そのような場合もあります。ところが、前に一度、幼い時、仇名が「7つのお嬢さんの家」と呼ばれた家がありました。娘ばかりが七人の家でした。それで仇名が「7つのお嬢さんの家」でしたが、私達が見ると、父母がとても老いていなかったのですが、娘達がたくさんいました。驚くべき事実が、一つの町で何十年か、ともに暮らしていて、七人の娘がすべて離婚をしたのでした。もちろん、同時にしたのではなくて、少しずつしたのです。いろいろな理由で離婚をしました。それで、最も良い男の人一人が娘婿の中にいたのに、この人も結局は離婚したのでした。なぜ耐えられないのか、この女の人が男の人を静かに置いておかなかったのです。近所にうわさが立って、あの家は男の人を生きることができないようにする家だということでした。私はその時、「あの家がなぜそのようになるのか、娘が七人なのに、みな離婚をするのか、人が生きていれば、そのようなことはあるだろうけれど」という考えたのです。
 
・私達が目に見えないで生じる問題がものすごく多いのです。この子供は、泡をふいて倒れて、てんかんになっているのは、目に見えるように現れただけです。目に見えないで生じる問題が、この地にあまりにも多いのです。今回も、占う人を訪ねたお金がすでに千億を越えると発表されました。それほどに今、人々がたくさんさ迷っているのです。ところが、この原因を聖書は明らかにしています。聖書の17節を見ると、“すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。」”と言われています。聖書が神様のみことばなのに、このように記録されています。ある団体では、すべての問題は悪霊につかれているからだと話して、ある団体ではそうではないと、神学的な論争になっています。簡単に話せば、今、私たち韓国のベレヤという団体では、全部、悪霊につかれて生じる病気だと話して、反対に保守教団では、そうではなく、人が今、病気にかかって死ぬようになったのに何で悪霊、悪霊と言うのかと話しています。その二つの意見がぶつかっているのです。ところが、私はその二つの意見がそんなに重要だとは考えていません。今日の聖書が重要なのです。聖書には、この子供は、確かに記録されているのが "おしの霊につかれた私の息子を" と記録されています。そのために私たちは、この聖書をそのまま受け入れさえすればよいのです。この子供は、今、悪霊につかれておしになって、悪霊につかれててんかんになったと確かに記録されているのです。すると、それ以上、以下を考える必要はないのです。この本文をよく見るべきです。敢えて私たちに合わせて聖書を解釈する必要はありません。問題は、これを解決できなければ、ずっと持続するということです。他の場合もあるのです。
・今日も少しの間そのような話をしたのですが、おもに悪霊につかれて困難に会ったムダン(霊媒師)は、自分にだけ困難がくるのではありません。自分だけの困難で終われば良いのですが、これは確かに子孫に行って、家系に伝えられて、家庭に影響が及びます。これがもっと深刻なのです。この答を聖書にだけ明らかにされています。それで、私は伝道しなければならない理由と、神様のみことばがとても重要だという理由を、聖書を見ながら知るようになったのです。大部分の人々が隠しているのですが、こういう問題があります。ある重要な勉強も多くした方が、私に告白しました。裕福な家で生まれて、勉強も良くしたのに、中学校の時から感じた心があったということです。あまりに不安で、生きるのがいやだったと言いました。それで、家を出ようかどうしようかという考えを苦しくて、いつもしていたということです。家を出て行く言い訳がなくて、出来なかったということでした。結婚をしたのに、良い男の人に会って良い生活をしたのですが、生きていながら、ずっとそのような考えをしたということです。どのようにすれば、私がこの家から出て行って、逃げることができるかという考えをしたということです。苦しくて、そうなったということです。ところが、逃げる理由がなかったのです。家も良くて、夫も良くて、みな良いのに、何の言い訳があるでしょうか。いつも苦しめられていました。そのようなある日、福音を知るようになったのですが、イエス・キリストを知って、受け入れた後、その病気がいやされたのでした。この病気は、自分だけが持っていることでした。それで、とても不思議だと驚いて米国へ行って、親戚の家で誰に会おうが福音を伝えたということです。もしかしたら、話すことができない苦しみにあっているのではないかと思えて、そうしたということでした。だから、これは何をいうかと思えば、目には見えないように、こういう霊的な問題にものすごく苦しめられているということです。ものすごく重要な話です。
・皆様は、人をよく理解しなければなりません。バタバタと私の事務室に入って会おうとする人があります。他の人が見て、その人はなぜあのように礼儀がないのか、順序がみなあるのに、というように考える人が多いのです。ところが、その人はそのようなことではありません。その人は、ものすごく苦しめられているために、早く牧師に会えば何とかなるかと思うから、そのようにするのです。そのような人が多いのです。それは、いつもそうなのではなく、突然にそのようになるのです。牧師一人が退屈ならば私に電話をします。電話をすれば、私が受けないからイ・カンソン牧師が受けるのですが、イ・カンソン先生は理解できません。なぜあの人は、退屈ならば電話をするのか?退屈ならば、電話をして柳牧師に変わってくださいと言うので、理解できないのです。それで、私が説明をしてあげました。「電話に出てあげてください。」と言いました。電話で話をすれば、ちょっとよくなるようです。この人は、瞬間、瞬間、なにかが中から上がってくるのです。上がってくるために、牧師ですが、牧会をする中にも、教会もうまくいって、子供達がほとんどみなよく育っていて、奥様もとても良い方なのですが、自分一人だけ受ける苦しみなのです。奥様は理解しています。ある程度は理解するのですが、この人には解決策がありません。とにかく、何かが生じれば、私に電話をします。これは、何かが生じたのではなく、自分で思いつけばそうするのです。こういう人があまりにも多いということを知っていなければなりません。ある人は、財布を持って占いの家の路地を一日中回る人もいます。皆様、これを理解できますか。これを理解できない人が、どのように伝道をするのでしょうか。普通の人は、これを理解できないのです。
・一度は、ある夫婦が離婚をする言って来ました。夫の話を聞いてみると、夫は未信者でした。奥さんのことを理解できないのです。夫人は、以前はそうでなかったのに、タラッパンに会ってからは、ずっと集会だけ参加して、ご飯もよく作らないので、こういう人とはこれ以上住めないと言いました。それで私が「そうですか。そのようなことではありません。あなたが夫でありながら、それも知らなかったですか。この人は、元々ものすごく苦しめられていたのです」と話しました。そうしたところ、その婦人がそうだと言ったのです。嫁に行ったからではなく、嫁に行く前から苦しめられていたと言いました。それで、この男の人に会って、良くなるかと思ったのに、より激しくなったのです。それしか仕方がありません。負担がもう一つ生じるので、より激しくなったのです。とてもさ迷ったのです。夫が理解できません。タラッパンにきて福音を聞けば、少しずつ少しずつよくなるのです。人々がそれを知りません。救いは一気に受けるのですが、いやしは少しずつなるのです。この人はしばしばメッセージを聞こうとします。すると、家に帰ってもずっとテープを聞くのです。夫は理解ができないのです。以前はそうではなかったのに、なぜそうするのかと言うのですが、夫がよく知らなかったのです。このようなことが多いのです。あなたがたが、こういう部分を理解できないことは、色々なことが理解できなくなります。これにものすごく重要な答が聖書にはあります。私は聖書を見ながら、こういう正しい答が聖書にあるのかと、本当に驚きました。皆様、この話だけ悟れば、本当に伝道ができるのです。
・皆様が、悪霊につかれた人が良くなったのかという程度に思っているならば、聖書の理解がよくできないのです。それで、皆様は見かけは正常でも、患った人がものすごく多いのです。ある地域に集会に行った時です。大使が、それも長官級の大使夫婦が訪ねてきて祈ってくださいと頼みました。なぜならば、この奥さんが苦しめられるのです。普通の苦しみではなくて、どのように苦しめられるかと言うと、考えることは正常なのに、苦しめられるのです。ただ苦しめられたり、異常ならば病院に連れて行けば良いのですが、この人はすることをすべて苦しめられます。どれくらい飢え渇いていたか、ひょっとして世界の福音化をする人々がここにきたから、ひょっとして祈れば良くなるのではないかと考えて来たのです。彼らは信仰も信仰ですが、飢え渇いているので、そのようにするのです。今日、こういう子供を連れてイエス様の前にきました。私たちはこれを解決できなければ、ものすごく続くということを知っていなければなりません。家に霊的な問題を持った息子や娘が一名あれば、実際に話はしなくても、他の人は持つことができない傷を父母は持つようになります。そして、他の人が感じることができない雰囲気をこの家族は感じるようになります。では、この人達が福音を正しく知らないで、霊的な世界を知らなければ、自分はそうだと言わないけれど、自分も知らない間に霊的な問題がくるのです。自分も知らない間に霊的な問題が来ているということを自分自身も知らなくなります。そうすれば、深刻になるのです。それで、自分自身があることに出会ったり、困難が来れば、からだが弱くなったりすれば問題が生まれるのです。こういう部分を私達がよく理解しなければなりません。
・では背景をちょっと見てみましょう。これが、なぜそのようになるのでしょうか。ヨハネの黙示録 12章 1節から 9節を見れば、聖書に確かに明らかにしているのは、暗闇の勢力が天から落ちて堕落した部分が出ています。私たちが知っているのは、神学者も知っているのは、賛美する天使が堕落したと見ています。それで、賛美が重要なのです。私達が礼拝する時、最も重要なのが祈りも重要ですが、賛美が重要です。この賛美を担当する天使が堕落して悪魔になったのです。ですから、賛美が重要で、それで多くの歌手や歌う人が、霊的な問題がくる理由もそこにあるのです。黙示録12章に現れた内容です。これがどんなことをしたかというと、創世記 3章にとても力があって信仰が良かったアダムとエバを倒したのでした。その事件が創世記 3章の事件です。そして、そのまま終わったのではなく、創世記 6章を見るとノア時代です。ネフィリム時代がきて、家庭全体が偶像で、霊的問題でみな滅びるようにさせたのです。このように働いたのでした。そして、今日はマルコ福音 9章を読んだのですが、マタイの福音書 8章を見れば、各種いろいろな病気を起こしたり、問題を起こしたりしたのです。もっと重要なことは、神様がパウロを呼んで送られました。パウロを呼んで送られた時にされたことは何でしょうか?それは、使徒の働き 13,16,19章です。それが何でしょうか?使徒の働き 13章を見ると魔術師ひとりが町中を掌握して病むようにさせていたのです。使徒 16章を見ると、悪霊につかれた占いの少女ひとりが、町中を乱れさせていました。偶像、迷信が使徒 19章を見ると、エペソ全体を乱れせていました。何日か前に資料を見たら、今、全国、世界で全部一番で盛んなことが占いです。そして、今現在、最もお金をたくさん儲けているのも占いです。こういう深刻な問題があります。しばしば苦しめられるからそうなるのです。
・今日、三番目に、この本文を見ながら考えなければならないことは何でしょうか?苦闘しても解決しないということです。できることがありません。試み自体が誤った試みであるためです。あまりに苦しいから、宗教に頼って、あまりに苦しいからおかしな迷信のようなものを捕まえたり、どうしてもだめだから、あきらめたりするのです。ほとんどみなあきらめます。心の底でだめだと考えます。私の息子はだめだと考えて、心の底で実際にあきらめるのです。私の娘が精神的に良くならないと、本人とは関係なく家族があきらめてしまうのです。それでも、ひょっとしてと思って、この人達がイエス様に連れて行ったのでした。ところが、イエス様の弟子達は直すことができませんでした。イエス様に連れて行ったこの親が何と言ったかというと、“もし、おできになるものなら”必ず直してくれという言葉ではありません。できるならば、私たちの子供を直してくださいと言います。その時、イエス様がこうおっしゃられました。“できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです”と言われました。それとともに、18節に‘その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。’と言いました。だからイエス様が19節に‘イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」’イエス様が信仰がないことを叱られたのです。そして弟子達が出来なかったと言うので、‘不信仰な世だ’と責められたのでした。これは何の話でしょうか。信者の姿です。信者は、大部分こういう問題が生まれれば、あきらめてしまいます。だめだと考えるのです。今日、重要な答を得なければなりません。実際に、今日、皆様が神様のみことばをよく聞きながら、皆様に最高の祝福が回復する一日になることをイエスの名前で祝福します。
 
・とても重要です。神様が解決策を下さいました。神様が解決策を下さったのですが、先ず一番に理解すべきことが、この霊的な問題と世の中の問題を解決するために単語をくださったのですが、その単語がキリストです。キリストを理解しようとするなら、聖書箇所三個を理解しなければなりません。Iヨハネ3:8‘神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです。’この悪い霊的問題を起こす霊的勢力を打ち壊すためにいらっしゃったのです。それが順序で一番目なのではないのですが、私たちが実際的問題では一番目です。ここに苦しめられている人を伝道するのに、この部分を知っていなければなりません。すこし私たちの教会では準備しなければならないのです。何を準備しなければならないかというと、ムダン(霊媒師)であった人々が正常な人は抜け出てこようとします。抜け出そうとするのに、抜け出す道がありません。そうしながら福音を聞くようになれば、抜け出てくるようになります。一番の問題が、30年40年ムダン(霊媒師)生活をしていて抜け出てきたゆえに、生活ができません。これが一番の問題です。親戚が助けてくれれば良いのですが、それがだめになれば、ほとんどみな難しくなります。一時、むかしに集会した時、集会に行く場所ごとに、食堂でうどんやコーヒーを売っていた人々が、易、シャーマニズム人をしていて帰ってきた人々でした。その人々が福音を受けた後に、生きる道がないから、コーヒーも売っていたのです。それも人々がするなと言うこともありました。道がないのです。それで私たちの教会が、そのような部分をおいてたくさん祈るべきです。なぜならば、これから伝道をすれば、そのような人々がたくさん帰ってくるはずであるためです。神の子が現れられのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです。
・もしかしたら、ここにいる知識人がいて、勉強をすこしした人の中には、こういう部分が理解できないかもしれません。私は行ってみていないのですが、行ってきた人々がする話によれば、ソウル大学の精神科病院の入口に、聖書のようなものを持って入るなと書かれていたということです。ここで少したくさん習った 人々ということは、一方の面をたくさん習ったのです。学校に行って勉強をすこし多くした人々が、こういう部分の理解が良くできないのです。それで私たちの韓国には 100万のムダン(霊媒師)が住んでいるということです。だから私達がだまされているのです。ここにもし博士はいますか。こういう方達は、たくさん習ったと思っていますが、片方をたくさん習ったのです。正確に話せば、片方の面をたくさん習ったのに、こちらの面は全く知りません。そして、私たちの国民は、ここに苦しめられているのです。どのようにするのでしょうか。おもに政治家を見れば、ソウル大、高麗大、ヨンセ大といった一流大学を出てきて、あるいは中央大、西江大こういうことです。おもにこういう人々が何をしたかというと、法律関係、弁護士でなければ、高試出身とか立派な政治家たちはほとんどみなそうです。この方達が、勉強をする中でこちらの面は習いませんでした。それだけを習ったのです。そうして、本人に霊的な問題がきたら、やられるしかありません。ひどい場合は、苦しくて大変だから、占い師を訪ねるのです。政治家たちが占い師を一番たくさん訪ねるという統計が出てきました。ひょっとして、私の説教を聞きながら理解ができない方達のために、もう一度話をします。韓国から出ている放送、雑誌、全部みな占いの宣伝しています。これはなんのことでしょうか? それを宣伝して金をもうけるということではありません。探す人がそれほど多いということです。それでもひょっとして、神学者や勉強をちょっとした人たちが言うかもしれませんが、勉強をちょっとしたということは、片方の面をすこししたということです。蠅の頭だけ研究しても博士の学位を受けます。その人々が勉強を多くしたということではなく、蠅について勉強を多くしたのです。蠅の頭について研究を多くすれば、博士の学位を受けます。それで自分が博士だとあまり自慢する必要はありません。こういう人々が、こういう部分を知らないのです。それで、深刻な問題が迫れば解決できないのです。すると、神様のみことばを何かこういう部分だけで生きるべきだということではありません。こういう深刻な問題をどのようにするのでしょうか。今、韓国はほとんどみなこのようになって、全世界がこのようになりました。
・それで、神様がエリートの中のエリートであったパウロを呼ばれて、どこに送られたのでしょうか。使徒13章に見れば、ムダン(霊媒師)の手伝いをしていた総督の所でした。道をみな防止してマケドニアに送られたのに、行ったとたんに悪霊につかれた少女を直しました。エペソに送ったところ大きいツラノ運動がおきたのですが、それが全部偶像、迷信を防いだのです。そして、まさにローマに送られました。ローマでもパウロにそれを行ったということです。先進国にいる方達、オーストラリア、カナダ、米国、ヨーロッパなどの先進国にいる方達は、そのようなことは私たちは違うと考えます。それこそ錯覚です。先進国には、よりこういう側が科学的に掘り下げられていて、インターネット方向に掘り下げられていて、深刻な問題が今きているのです。また、そのような事実がないとしても、これは事実であるゆえに、私たちには避ける道がありません。神様が “神の子が現れられたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです” Iヨハネ3:8
 
・その次の2番目の聖書箇所は、ヨハネ14:6 “わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。” なぜでしょうか? 他の道がないからです。信じられないことが正常です。それで神様が道を開けられたのです。マルコ10:45 すべての私たちの罪を赦されるために、あがないの代価として十字架につけられるという記録が確かにされています。この三つを合わせたことをキリストと言います。どれくらい驚くべきことでしょうか。それでキリストに会った人々は、全部解決し始めたのですが、単に解決し始めたのではありません。この三つを中心にして解決したということです。皆様がついにこの部分が正確に体験できるようになれば、その時から違ったことまでも勝つことができて、これから信仰の相当な段階に上がるようになるのです。「あ、そうだな」と知るのではなく、体験ができれば、皆様がこの部分を体験すれば、相当な段階にアップするようになります。イエス様は、イエス様なので、すぐにいやされることができます。それで、私たちはイエス様の名前で祈るのです。同じ原理です。私たちはイエスではありません。私と皆様はイエス様でないために、「下がれ。サタン」と言えないのですが、イエス・キリストの名前でできます。なぜでしょうか?その名前で解決したためです。それで、イエス様が十字架を負われる前に、最後になさったみことばが何でしょうか。ヨハネ14:14 わたしの名前で求めれば、何んでも答えられるということでした。ヨハネ16:24 “あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。”確かに私たちに名前を与えられました。マルコ9:28〜29 そのような意味で読んでくだされば良いのです。“イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」”イエス・キリストの名前で祈れば解決するということです。私たちはキリストではないために、イエスの名前で。これをペテロが知るようになったのです。それで、「金銀は私にはない。私にあるものをあなたにあげよう。ナザレのイエス・キリストの名前で起きて歩きなさい。」これを知ったパウロが汚れた悪霊に向かって命令したら、解決したのです。これが信仰生活の大きい秘密です。
・今日、あなたがたがこの部分を捕まえて、新しく始める大きい祝福があることを望みます。この福音を悪魔はものすごく防止しようとします。それで、あなたがたがこの福音を持っていれば、多くの妨害もあるでしょうが、勝利するようになっています。私は率直に、幼い時から私の頭の中になにがひとつ入っていたのかというと、私の頭の中から抜けないことがあったのです。6.25(1950年朝鮮戦争)に会って、火災に会って、私の父が亡くなったのです。火災に会って困難に会ったので、その当時で大韓民国で最も安い地に住んだのです。なぜかというと、火事が起こって、みんなが集まって住んだためです。それで私は、そんなに頭が鈍かったのではありませんでした。よく勉強できる頭でした。ところがそのような困難を幼い時にずっと受けたのです。ですから、私も知らない間に「できない」ということが入っていました。これが小さな病気ではありません。私が福音を知る前には、こういう考えがいつも私を支配したのです。これが私にある霊的な問題です。いまはそうではありませんが、道を歩きながら、よい家を見たら不思議に「なぜ私たちはこうで、あの人々はたいした人々のようだ。どのようにあんな人々はあんな所に住んでいるのか」こういう考えが幼い時に持っていました。歴史的な背景を知らなくて、そのようになるしかないでしょう。火災と戦争が起きて、それしか仕方がなかったのに、自分も知らないうちにこういう気がしたのです。何んでもしている途中で勇気を失いました。だめだという気がしたのです。これは小さな病気ではありません。これが、私が持っている霊的な問題でした。私がキリストを知ってから、答を得たのです。その時から反対の現象がおきました。あまりにも多くの門を神様が開いてくださいました。皆様、これは単なる話ではありません。大学教授、学校の先生が、こういう部分を知っていてこそ、子供達と相談も正しくできるのです。裁判官や警察の多くの方達が、こういう部分を知っていてこそ、犯人を正しく分析できるのです。医者や薬剤師がこういう部分を知っていてこそ、薬を作ってあげる時、正しく話すことができるのです。これがほとんどすべてです。牧師、宣教師が、これを正しく知っていてこそ、みことばを正しく解釈することができるのです。こういう部分を知っていてこそ、私達が問題に会っても、どこが神様の計画かを知って、分析することができるのです。とても重要です。それよりも重要なことは、皆様がこの契約を捕まえる瞬間に、皆様に途方もない力が生じるのです。この祝福が皆様にあることを主の名前でお祈りします。
・今日、必ずこの祝福を回復することを希望して、今日の礼拝を終えてから聖餐式をするようになりますが、すべての人が参加しても良いのですが、洗礼を受けた人だけが聖餐式に参加するようにします。それは、ひょっとして信じない人が参加してはならないからです。初代教会は、すべての信じる人がみな参加しました。私は逆に習いました。聖餐式をする時、牧師が目をいからして良心に呵責がある人は、聖餐式に参加するなと幼い時多く言われました。それこそ逆に悟ったのです。皆様の中で問題がある人、皆様の中で罪を犯した人、皆様の中で病んだ人、こういう人が聖餐に参加しなければなりません。それで、皆様がいやされて、今日最高の祝福の日になる、そのような祝福を受けるようになることをイエス様の名前で祝福します。
 
<<契約の祈り>>
今日このみことばを忘れてしまわないように、神様が主の民に新しい目を開けてください。実際に今、多くの世の中の人々がこの事にやられているのに、悟ることができないでいる人がたくさんいます。神学者が悟ることができなくて、信徒達が悟ることができなくて、すこし習った人々が小さな知識を持って悟ることができなくて、あまりにも世の中は霊的な困難にあっています。神様が、この時間にキリストが悪魔のしわざを打ち壊すためにいらっしゃったし、キリストが罪の問題を解決しようといらっしゃったし、キリストが神様に会う道を開けるために来られたという事実を知って、今からイエスの名前で勝利できるように、今からすべての神様の民に働いてください。イエスの名前で祈って答えを受けることができるように、あらゆるしもべに霊的な権威を回復させてください。私たちの主イエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン
 
 


2部/私たちを豊かにあしらわれる主
(詩13:1〜6 )
 
 
・今日は聖餐式があるために、1部のようにメッセージを簡単にします。メッセージをしたり、聞いたりする時、どれだけ多くの体験をしたのかいうと、神様のみことばにしたがって、現場で多くの答えになるのを見ることができました。私達がマタイの福音書 24章を読む時、私たちは祈っているのに、その時 9月11日(ニューヨークのツインタワー崩壊)の事件が起きたり、本当に驚くべきことに、神様がみことばを知るようにさせられることと、いままで核心集会を続けてきている中にみことばがずっと成就する部分をたくさん見ました。ある時には、怖いほどでした。今、旧約聖書を読むために詩篇をずっと読んで行っているのですが、詩篇には苦しみが多いのです。私はもしか皆様が苦しみにあうのだろうかと心配することもあります。また 150篇までありますが、詩篇 150篇をみな読もうとするなら、何年もしなければなりません。かと言って、私達が信仰生活をするならば、詩篇を見ずにはいられません。旧約聖書、新約聖書を見るのに、区分をよくすべきです。
 
・それで、結論から言います。詩篇はほとんどすべてが、ダビデが作った詩です。いろいろな事があっても、神様の民のダビデは勝利しました。その話です。ですから、事が出てくるのです。こういう苦しみを受けたということです。それで、聖書をよく見ることができなければこまります。神様のみことばであるゆえに、よく見なければなりません。皆様、聖書 66巻の主題がそれです。一言で、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの4人の話が“創世記”ではないでしょうか? この人達を、どんなに暗闇の勢力が殺そうとしても、できなかったという話です。そして、イスラエルの国をなくしてしまえば、神様のみことばがなくなるはずです。それで、エジプトもバビロン、アッシリヤがみな起きてもなくそうとしてもできなかったということです。ある牧師は、ヨハネの黙示録をたくさん説明されますが、あまり多くする必要はありません。ヨハネの黙示録を見れば、最後の時に霊的に混乱がおきても、救われた人は滅びないということが、一言で結論です。私たちは結論をよく知って読まなければなりません。そうでなければ、ダビデの部分だけ見れば、詩篇 13篇だけ見れば、ダビデの詩ですが、あの有名なダビデが信仰が一つもないことのように話したかのように見えるでしょう。この部分だけ見れば、ダビデはずっと苦労だけしたかのように見えるでしょう。どれくらい苦しんだか、次の14篇を読んで見ればよりわかります。‘この人はすっかり苦しみにうめいて、死んだのか’という気がする程です。こういう事があったのですが、ダビデは完全に勝利しました。その話です。あなたがたが、神様のみことばをよく理解してこそ、正しく答えを受けるのです。神様のみことばを紛らわしく理解すれば、紛らわしい答えがくるはずです。神様のみことばは、必ず今でも成就しているゆえに、皆様が必ずよく捕まえて祈らなければならないのです。
・一言で詩篇全体を統合してみようとするなら、どんな話でしょうか? 苦しみの中でも信仰の人は勝利したということです。ですから、150篇もなる詩の中で、ダビデの詩が多くて、その中には賛美もあります。ところが、苦難の中で賛美したことがより多いのです。そして、ぱっと見ると、また苦しみを受けている話のように見えることもあります。このような中で信仰の人は成功しました。
・立派な軍人は、いつ分かるかというと、訓練を受ける時に分かるのではなくて、戦争が起こる時に分かるのです。‘あ! あの人は良い軍人だ’ということは、戦争がおきれば分かります。また有名な船長は船に乗っていてわかりません。暴風がおきたり、難しいことがおきるようになれば、立派な船長は分かります。‘あ! あの方は立派な船長だな’ということが分かるようになるのです。
・私がいつか一度TVで見た映画なのですが、実際にあった事を映画で作ったのかは分かりませんが、ある飛行機が飛んでいるときに事故がおきたのです。この飛行機は着陸をしなければならないのに、故障したから着陸をすることができないのです。着陸を地面にすれば、みな死んでしまうでしょう? ですから、どこにしなければならないかというと、海でしなければならないのです。それで飛行機に乗って海の方向へ行ったのですが、本部の管制塔から連絡が来たのです。「それでも半分程は死ぬ覚悟をしなさい。そうしてこそ、残りの人が生きるようになる。」というように、このようにしろと指示を与えられたのです。可能なかぎり多くの人を生かそうとすれば、何名かは犠牲にならなければなりません。そのようにしようとするなら、このようにしなければならないと指示が管制塔からきたのですが、前の半分の人は死ななければなりません。そのような指示を与えたのです。ところが、この機長が終わりまで管制塔の指示を受けないで、終わりまでしてみな生かしたのです。そういう映画でした。それで、私がその映画を見ながら、「ひとりの機長がそんなにも重要だな。」もちろん、映画だったのでしたが、そのような映画を意味あるように見たことがあります。立派な機長と船長も、危機が起これば分かるのです。
 
・私達に問題がくれば、人間性が分かるようになって、危機がくればうつわが分かるようになるのです。ダビデに対するそのような話がたくさんあります。今日一番目に知っていなければならないことは、ダビデはいかなる困難にあったのか? こういう部分を早く検討してみるべきです。ダビデの苦しみという話をずっとしていますが、いかなる苦しみをダビデが受けたのかを私たちは早く一度理解してみる必要があります。おもに見れば3つのことでした。
 
・ひとつは何かというと、サウル王の誤解です。このサウル王は、霊的な問題を深刻に持っていた人です。ところが、権力があって周囲の環境がそうだから、サウル王がダビデを困らせたのです。権力がない人ならばかまわないのに、サウル王は王がだったのです。Iサムエル 16章を見れば、サウル王は悪霊につかれたり、霊的な問題が深刻でした。ですから、サウル王はダビデを誤解したのでした。‘あ! あのダビデが私を押し出して王になろうということではないか?’ こういう誤解をするようになったのです。このようにして、サウル王がダビデを困らせたのでした。
 
・そこにどんな困難がきたのかというと、目の前だけ見ていた臣下が嘘を続けたのです。「今、ダビデが王を追い出そうとしています。今ずっと仲間を集めている。」このように難しい嘘をずっと言うのでした。これでサウル王が頭にずっと混乱が来たのです。
・その程度で終わることでなく、臣下の中には悪い臣下がいます。この悪い臣下が陰謀を企んだのでした。仮りにダビデが王になれば、自分たちはみな死ぬのです。それでサウル王がずっとしなければならないので、サウル王をずっと王にして、ヨナタンを王にしようとすれば、ダビデを殺すべきだということです。この陰謀をたくらんだのでした。このようなものが合わさって、ダビデにすべてがくるから、ダビデが苦しみにあうのです。たぶん、私たちは想像が出来ない苦しみだったのです。少し政治の一線にいる方達は、少しある程度は分かるはずです。
・私が知っているある方は、県知事に出馬したのですが、どれくらい苦労したか、落ちることはもちろんで、どれくらい苦労をしたか、終ったらすべてのことが失敗したそうです。そして、どれくらい苦しみを与えられたか、どこかに行ってお金の取引をしたことまで、みな調査されたということでした。人を生きることができないようにさせるということです。この人が驚いたと言いましたよ。このようにまで困難にあうとは知らなかったということです。自分は単に政治を清潔にして行こうとしたのですが、そのようなことにあったのでした。
・たぶん、ダビデが受けた困難は、それよりもひどいはずです。ダビデを殺そうとするから、それでダビデが詩篇13篇全体だけ見れば、いつも困難にあったかのようになっているのです。たぶん苦しみがものすごく大きかったのでしょう。ところが、今日、理解しなければならない2番目のことは、この時、神様はダビデに多くの恵みをくださったのです。今日、13篇 6節を見れば “私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。”となっています。神様が恵みをくださったということになります。ダビデが困難にあうなかで、神様の恵みを最もたくさん受けました。神様が豊かにあしらってくださったということです。
 
・先週に私が説教の時少しの間、話をしたのですが、私は6回ほど死にそうになった経験をしました。6回ほど死にそうになった経験をいつしたのかというと、私が 3歳の時、火の中で何時間かをさ迷ったことがあります。私がその時たぶん 3歳-4歳だったのですが、火の中で何時間をさ迷ったから、どれくらい大変だったでしょうか? ガスや煙で、死ななかったことが幸いです。青年たちも死んだのに、ということです。それを今考えると‘本当に神様の恵みです’ その時は、私が信じていた者ではなかったのですが、神様が保護しないと、どのように私が3歳だったのに、火の中で何時間も這って回ることができたでしょうか?
 
・そうしながら、この前、話をしたように 10歳くらいになって、水に落ちてそのようになりました。そこは人が過ぎ行く所ではありません。今、考えてみると、‘あ! こういうことを神様の恵みと言うのだな’ 救われる所ではなかったのに、ということです。そこは、山でした。中腹に畑があって蓮池があったのですが、そちらは人が過ぎ行く所ではありません。時々、近所を通り過ぎる人が、そこを過ぎるので、誰も過ぎないのです。そこに私が落ちたのです。幼い時に、私が大丈夫だと思っていたのに、入って行って落ちたのでした。ですから出て来られなかったのです。深い水の中に落ちたのでした。ところが、どのように、その時、人が過ぎるでしょうか? 考えてみましょう。そこは何時間過ぎても人が通らない所です。ちょうどその時間に、私が落ちたのを通り過ぎる人が見たのです。この人が私を救い出してくれたのです。どれくらい気が動転していたか、その人の顔を見ることができなかったくらいでした。神様がその時、その時ごとに恵みをくださったのではないでしょうか? 私が中学校 1学年の時、私は火とどれほど関連があるのか、私の家にまた火事が起きたのです。私が中学校 1学年の時には、私たちの村に電気がそれほどありませんでした。電気がないから、ランプをつけていたのです。それを置いて机でひざまずいて、勉強をしていた途中で、それが倒れて家に火がついたのでした。その時、一度また死にそうになりました。その時には、どれくらい気が動転していたか、その火を私の母が消したのに、その時、初めて私の母を尊敬しました。私の母を見て‘やー! すごいなあ’と思いました。私は気が抜けて、私の母がする所にだけ付いて回ったのです。火を消すのを見ると、かけぶとんを掛けて消して、そのようなことが一度ありました。
・伝道師になって、修練会に行く時、水で事件がありました。そのような死ぬ危機がたくさんありました。 一回はアメリカ文化院で大学院 1学年の時でしたが、米国文化を勉強しようと座っていたら、外でアメリカ文化院の建物が揺れる程に“ドーン!!”という音が起きたのです。私は‘これは何か’と思ったら、すぐそとに出てみたら、カーペットに火がついて広がって来るのです。人が瞬間的にやられるから、ひやっとしましたよ。それで人々が声を叫びながら、内側に逃げてきたのです。内の方向に入っていけば、火がいっしょに来るのです。それである人は死んで、ほとんどみんながやけどをしました。私は瞬間的に2階に上がったのでした。なぜなら、2階に上がれば火がゆっくり上がってくるではないでしょうか? 2階に上がって行って、その時みたら、門がなくて行けないですが、鏡の扉があったのです。それを破ってあけてみたら、開いたので、そちらから出てきたのでした。他の人は出られなかったのに、私はそこから出てきました。そうして見たら、‘あ! 人は、このように神様が恵みを与えられなければ、死ぬほかないな!’こういう峠をたくさん渡ってきました。
 
・ダビデがこういう困難の中で、いくつの困難を乗り越えたことがあります。サウル王がダビデを殺そうとするのに、最も敵である息子のヨナタンがダビデを支援したのでした。これは、普通の神様の恵みではありません。サウルがダビデをなぜ殺そうとしたのかというと、ダビデを殺してヨナタンを王にしようとしたのです。私たちには理解できない内容です。政界で起きることですが、ダビデを最も手助けた友人がだれかというと “ヨナタン”です。これも神様の恵みです。サウルがダビデを殺そうと刺客を送って殺そうとしたのに、その時にダビデを手助けして、父の話を聞かないでダビデを生かした人がまさに“ミカル”サウル王の娘でした。これも神様の恵みです。ダビデはいろいろな死の危機をたくさん経験するようになったのです。この困難の中での話です。それで、困難にあう時、6節を見ると“私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ”と言いました。どんなに困難の中にいても、5節を見ると“私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。”と言いました。こういう困難をたくさん体験したのでした。
・ダビデがエン・ディゲの洞穴に隠れていたら、サウル王が軍隊をつれて捕まえにきたのでした。人が殺そうと付いてまわることは、どれくらい大変でしょうか? ダビデがエン・ディゲの洞穴に隠れていたら、サウル王と兵士達が入ってきたのに、中が真っ暗だから、よく分からなかったのです。そこまでサウル王が入ったのでした。ところが、そこになぜ入ったのか分かりません。聖書には、その記録しかないからです。寝ようときたのか、休もうときたのか分かりません。とにかく、その洞窟の中にまでダビデを捕まえにきたのでした。そこでダビデを見ることができなくて、出て行ったのではないでしょうか? そして、ダビデが山の中に隠れていた時、 山にサウル王の軍隊がいっぱいやってきたのでした。ダビデを捕まえようということです。ところが、その山の中を探し回っても、この兵師達がダビデを捕まえることができませんでした。全部、神様がダビデを保護されたのです。ある時は、洞窟の中にダビデが入っていった後に、サウル王の兵達が入っていこうとしたら、クモの巣がはっていたのです。クモの巣を見て、兵士が入って行きませんでした。なぜでしょうか?ここには誰もいないと思ったからです。これくらい神様がダビデを保護されたのでした。行く所がなくて、ダビデが逃げていてペリシテの軍隊に行ったら、ペリシテの軍人がダビデをわかったのでした。ペリシテ軍人がダビデをわかって、自分たちの将軍ゴリヤテを殺した将軍だということを分かりました。自分の足でやってきたと、ダビデを殺す絶好の機会がきたのです。ダビデを殺そうとしたのです。この時、あなたがたも知っている通り、ダビデがひげによだれを垂らして、気が狂った人のまねをしたのです。だから、人々が気が狂った人を殺してどうするかとダビデを生かしたり、ダビデが多くの困難にあったのに、神様が瞬間、瞬間に生かされました。ところが不思議なことに、正しい臣下がサウル王について行かないで、ダビデに付いてきました。ダビデが死の危機の中にいるのに、アビシャイ、ヨアブなど、重要な将軍が死の中で逃げて回るダビデを手助けしています。このようにしながら、ダビデは神様の多くの恵みを受けるようになったのです。ダビデが苦しみを受ける内容が、詩篇のいろいろな箇所にあります。今日、皆様の中に困難の中にいたり、また困難の中で力を失った方達は、ダビデが持った信仰を回復なさる機会になることを望みます。
・ダビデはいくつの信仰観がありました。最初、この福音の契約を持った者は失敗しません。これが聖書 66巻の話です。絶対にだまされてはなりません。「あなたはこれから王になるはずだ」と大祭司長が話しました。「だから注意しなさい」と話したのです。幼いダビデに「あなたはイスラエルの立派な王になるから、心配してはならない。揺れてはならない」という話をしたのでした。それで、ダビデが絶対に揺れませんでした。これは何でもないかのように思えるかもしれませんが、重要な話です。福音を持った人は、優秀であっても、なくても、まちがいなく世界の福音化ができるために、神様はその働きを任せられるので、揺れてはなりません。聖書66巻の話がその話です。間違いありません。この契約は簡単ですが、重要な話なので、捕まえねばなりません。
・今、こちらにはレムナント達がたくさんいます。本当に福音を理解して、福音を捕まえるとすれば、皆様の生涯は、勉強とあらゆる機能にずっと答えを受けるようになっています。ダビデがこれを知っていました。私が私たちの教会にきて15年前に始めた時、確信したのがその部分でした。福音を持っていて伝道すれば、どんな場合も関係なく、勝利するようになります。どんなに貧しい町でも勝利するようになります。その時、新聞に TV聴視料を出さない町として東三道が出ていました。その時にニュースに出てきたのです。大韓民国で TVを見て聴視料を出さない町でした。ニュースに出てきたのを見て‘私が一番お金を出さない町に来たんだなあ’と思いました。しかし、関係ありません。それとは何の関係もなく、神様は働かれました。福音の力です。理解がよくできないでしょうか。
・私たちの学生達が福音を悟ったのに、何が特別ですか? このように理解することがあります。そうではありません。今日から考えを変えるべきです。どんなことがおきても大丈夫なのです。あなたがたはよく知らないのです。ここにいる牧師達は分かるでしょう。牧師でも普通の牧師はよく分からないでしょうが、朴牧師や神学勉強を多くされた方達は分かるでしょう。今現在の信仰の戦いが何の戦いでしょうか?パリサイ人やカトリックや中世教会の主張が何でしょうか? 福音で救われるのではなくて、行ないで救われるということです。その主張をしばしばするのです。それが簡単に話せばカトリックです。カトリックは、私たちとまったく違います。しかし、カトリックは不思議にイエスを信じれば救われると言いながら、行いを主張するのです。ユダヤ教会は、いっそのことイエスを否認します。カトリックはイエスを認めながら、キリストを認めながら、それでも救われるのには、功績を立てなければならないと言うのです。献金を多くしなさい、力を注げということをカトリックは多くします。養老院を立てて、孤児院も立てて多くするのです。それでこそ救われると教えるのです。私たちは、養老院を立てることができなくても、嘘をつくことはできません。
・それで救われるのではありません。マルチン・ルターが、そこに対して質問しました。マルチン・ルターは、抗議をしたのではありません。立ち向かったのではないのです。マルチン・ルターは、イエスを信じるので救われるのではないのか? これを質問したのです。その質問をしたら、あのように強いカトリックがマルチン・ルターをずっと打ちました。私たち韓国でもイエスを信じてこそ救われる、しかし、それではないと主張する牧師が出てきました。「イエスを信じてこそ救われるが、それではない。行いを良くすべきだ。」このように持ち出したのです。それが西部教会です。おわかりの通り、西部教会では、何の救いを話しているのかというと‘建設救い’ 建設救いというない単語を持ち出しました。なぜなら、救われることではなくて努力すべきだということです。ぱっと聞けば、正しい話のようです。それが 50年たって崩れてしまいました。
・米国からある方の手紙がきたのに、先生のメッセージを 8年間聞いています。とても恵みが深くてよく聞いているのに、一つ質問します。何か?「イエスを信じさえすれば救われるのか? そうではないでしょう。」牧師がそのように質問してきました。イエスを信じさえすれば、救われるか、それは違うのではないか、こういう質問をしてきたのです。だから本当にせつない質問です。‘まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。’ 聖書はまちがいなくそう言っています。しかし、その方の話は正しい話でしょうが、救われることとは関係ありません。‘しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。’
 
・今日、ダビデの信仰を見ながら、一つ確かに習わなければならないことは、絶対に高慢になる必要もなくて、気落ちする必要もありません。なぜでしょうか? イエスを信じると救われるようにされました。ダビデはどんな人でしょうか?契約の民です。目の不自由な人がイエス様に何と言ったのでしょうか? ダビデの子、イエス。私をあわれんでください。
 
・今日、聖餐式をして、洗礼を受ける方は、本当にイエスを信じるならば、永遠に神様の子供です。確かにそうです。その反対になる理論があります。それがカトリックです。反対の理論を出しました。
 
・公園に伝道運動をしようと行った時、私たちの青年達と伝道師とが行った時、その時青年達がいまは牧師になったのですが、伝道師の時、私は後について行ったら、ある女の人が座って見ていて、「イエスを信じるますか」と言ったら、「イエスを信じる」と言いました。「どの教会に通っているのか」と言うと、「聖堂に通っている」と言いました。「するとカトリックですか?」カトリックだと言うので、「救われましたか」と言うと、すぐに言う話が「とても簡単に救いをどのように受けられるのか?」「するといつ受けるのですか?」いつだと尋ねたら、「それは死んでから分かる」と言いました。「教会でそのように教えてくれるのか? 」「そうです。」「私達が献金もして、良い行いもして、救済もして、それを全部みな計算して点数を与えてもらえるので、それをどのように今、受けられるのですか?」「すると聖書のこういう話をどのように考えるか? ‘信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。’どのように考えるか? ‘この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。’どのように考えますか?」すると、この女の人が「聖書にそのような言葉があるのか?」「あります。」信仰の話をするので、静かに深刻に聞いて考えていました。それを見て、どれだけその教えがあったのか知りません。絶対に錯覚してはなりません。福音の人、契約の民ダビデは、どんなに多くの軍隊が殺そうとしても大丈夫でした。パウロはこういう告白をしました。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」ここに対する信仰が確実だったのです。
・皆様が生きているならば、家庭に困難がくる事もあり、会社でも困難がくることがあります。皆様が生きていくならば、生活に困難がくることもあります。ある時は、信仰が強いときも、弱い時もあります。しかし、錯覚してはなりません。そのような時、高慢になってはなりませんが、錯覚してはならないのです。神様の子供は、いつまででしょう? 永遠にです。まちがいなく、神様のみことばの中にそのように書かれています。信じないためにそうなので、信じれば永遠です。
・ダビデが2番目に知っていたことです。敵は神様がみな滅ぼされるということです。今日 13節1節から6節です。ローマ時代にイエスを信じる人を殺そうとした10人の皇帝とその国務総理級なるとても高官の20人が。完全にみな目に見える程滅びました。中世時代には、福音を防止した強大なものがみな滅びました。だから心配する必要はありません。ダビデはそれを置いてずっと祈りました。今日、ここで習う絶対的な信仰です。福音の契約を持った人は、どんなことがおきてもかまわないのです。地震がおきて、飢謹がおきて、戦争がおきても、この福音があらゆる民族に宣べ伝えられた後に終わりがきます。これは確実なメッセージです。これは皆様の人柄をおいて話すことではありません。世の中の人々の実力をおいて話すことではないのです。真理で話すことです。ダビデが揺れなかった一番目です。どんなことがおきても、神様は勝利するようにされます。福音を防止する敵は、神様がみな滅ぼされます。ダビデの周囲をよく知っているでしょう。サウル王をはじめとして神様がみななくしてしまわれました。
 
・たぶん、途中から私たちの教会に来られた方達はよく知らないでしょう。今、教役者の中でも途中からいらっしゃった方達もあって、はじめから私とスタートをした方達もいます。そのような人々の中で、釜山に私と伝道運動をされた方達は知っているでしょう。どんな過程の中で私達がきたのか? そして福音運動するのに、どれくらい難しく防止しようとする人々が多かったのか。するとその人々がどのようになったのか? 皆知っているでしょう。そんなに戦う必要はありません。その人々と戦う時間もなくて、私たちは戦う体質でもないのです。その人々は昼夜なく戦いだけするために、私たちはまず体質がありません。他の人を捕まえて戦って、議論して、そのような体質になってこそできるので、体質ではないので、できません。時間もなくて、神様がみななさるのです。すこし口にすることが足りないほど、そのような話を敢えてして良いのかというほどにその人々に問題がきました。影島の中にいる人々の中にそのような人が多くて、私たちの教会を最も悪口を言って、行く所ごとに、集会をすれば集会現場に行って、英語もできないのに翻訳して、いのちをかけてチュンヨン教会のシン・スンジュン博士がチュンヨン教会の担任牧師だった時、悪口の電話100本を受けたて、死ぬ思いをしたということでした。この人があまりに驚いて手をあげました。電話は大げさに100本だと言ったのかもしれませんが、その人が眠れないほどだったということです。脅迫もして、そのような人もあったのでした。本当にこういう話しをしてはならないのでしょうが、神様に祈りだけしました。本当に神様があまりにもはっきりと静かに呼んで行かれました。神様がなさったことで、人がすることではありません。私達が何ゆえに戦って受けて立つのでしょうか。そのような時間はありません。心配せずに、あなたがたが信仰生活をしながら、神様があらゆる敵はみな滅ぼして下さいます。
・ダビデは、三番目にすべての事を、すべての問題を神様の前で機会としました。困難がくる時ごとに、全部機会としたのです。シムイが呪ったことも神様の恵みだと見ました。ダビデは王だった時、神殿建築する準備を完全にしました。今日、あなたがたが真の答えを受ける最も大きい恵みを受ける祝福の日になることを希望します。なぜでしょうか? 今日は、聖餐式です。聖餐式は血に変わったり、肉に変わる、そのようなことではありません。聖書を見るとIコリント10章を見れば記念しなさいとなっています。あなたがたが礼拝をささげるなかで、聖餐式ほど良いことはありません。私が見る時には、按手祈祷を100回受けるより聖餐式に一度参加するのがよいのです。
・初代教会では、集まれば聖餐式をしました。毎日したのです。集まる時ごとに。私達がその時と状況が違うのです。初代教会は、集まれば丸いパンを持って行って、全部そこを取り囲んで座って、裂いて食べて葡萄酒を一緒に飲んだのです。聖餐式をしたのです。初代教会では、人数も少なく、部屋の中に集まったりしたのですが、今、私たち信徒は何千名いるから、裂いて食べていれば礼拝になりません。初代教会は、毎日集まる時ごとに聖餐式をしました。そのように理解をすべきです。原則は毎日すべきです。初代教会に一旦集まって聖餐式からしました。それが原則です。それを原則だと知って、今日、聖餐式をしますが、参加する方達の中で病気もいやされるように願って、本当に霊的問題も解決にすることを願って、神様のみことばを聞いて、本当に大きい恵みを受ける、最も良い日になることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様、真実に感謝申し上げます。世の中には話や出来事や、色々な種類の人々がいます。今日、神様の民として呼ばれたことを有難うございます。永遠な救いを下さったことを感謝申し上げます。弱いのにもかかわらず、神様の恵みを与えられて有難うございます。ダビデに死の苦しみがきたのに、勝利するようにされたことのように主の民達にこの恵みがあふれ出るようにしてください。今日、聖餐に参加するあらゆる方達に霊的な病気がいやされるようにして、すべての方達に肉体の病気がいやされるようにして、すべての方達の問題が解決される聖霊が充満する日になるようにしてください。また初めて信じる方達が、聖餐に直接参加しなくても、礼拝に参加して、同じ恵みを受ける日になるようにしてください。私たちの主イエス・キリストのお名前で感謝してお祈りします。アーメン