2002年12月01日 インマヌエル聖日礼拝
1部/ 幸いな財産
(マルコ10:17〜31)
・皆様が祈るように、神様がなさったと思います(しばらく、マイクの音が出なかった)。朝に結婚する人が、私に挨拶をしようときたのですが、私が見て感じたことがありますが、その人は本当に印象が良いと思いました。私は印象が本当に良くないと言う声を多く聞きます。私の印象は、ちょっと負担になる印象だと言われます。私は全く負担にならないのに、他の人がそのように考えるのです。それで、その方は本当に印象が良い人でした。たぶん時期が良い時期に生まれて、よい背景で育ったのでしょう。ところが、私はちょうど6.25(1950年朝鮮戦争)の時で、私の家の下を見れば、英語で書かれたあき缶が多くありました。それを買って食べたのではなくて、もらって食べたていたのですが、私は変に思っていました。
・私たちの村に夜におとながけんかをしていたのですが、なぜけんかをするのかわかってみたら、米国から来た救済品を分けるのに、お互いに良いものを取ろうとけんかが起きたのでした。不公平だとけんかになったそうです。私はなぜかその時、私が
2-3年くらいの小学生の時でしたが、なぜか異常に思いました。確実には知らないし、幼かったのですが、何となく変に感じたのです。恥ずかしいと考えました。こういうものだけが不思議に私の目にたびたび見えたので、私は印象がよくありません。
・教会に行ったら、長老、執事がけんかをして、勧士が後からいらないことを話すのを見ました。それを見て、こういうことではないという考えを多くするようになって、こういうものがたくさん重なって、私の印象がこのようになりました。表情の管理をしているので、このようになったのです。それで、教会生活をずーっとしてみたのに、イエスを信じれば良くて、福音を伝えれば良くて、みな終わることなのに、間違ったことを捕まえているのです。そのようなことを見ながら、それではないと考えるようになりました。私はそれほど人々に会ってする話がありませんでした。福音を伝えることでなく、する話がありませんでした。なぜならば、ないことを捕まえて重要なことのようにしているのかと思われて、それを説明するのが、あまりに大変で、また他の人の趣味を変える理由もなくて、他の人がしていることをみな変えてあげなければならないという理由もないからだと考えているのです。普通、話すことを聞いてみれば、間違ったことをたくさん話しています。それは間違ったことであるのに、あのようにすれば良くならないのにということをしているのです。私が誤って感じることがあります。
・それで、今でも心に引っ掛かっていることですが、私の親戚を見れば、それは間違っていると話をするのですが、終わりまで間違いないと言います。それでは出来ないではないでしょうか。ところが、それがだめになりました。そのようなことが、何度も繰り返しました。後ほどは、感情まで傷ついてしまったのです。私が相手をしてあげなかったためです。その人が、牧師が、全世界を伝道しようと通う人が、愛もないと言って回っています。そうではありません。間違ったことをずっとするから、それで、誤解が生じたことが総合されて、私の印象がこのようになりました。そうではないのに、なぜそのようにするのでしょうか。それは、私達が失敗することとは別の話です。例を上げると、道を行く途中で、車の事故がおきました。こういうこととは他の話です。わざと事故に合おうと考える人はいません。そのように話すのではありません。でないのに、なぜしばしばそうではないことをするのか?
こういうことを言うことは、難しいのです。言うことが大変なので、そのようにしているので、人がこのようになります。
・その中で2つのことが本当に問題です。そのうちで、2つのことが聖書に出てきています。ひとつは何でしょうか?経済観です。そして、もうひとつは救い観です。この部分が、本当に苦しい部分です。あのようにすれば、まちがいなくお金を儲からないことのにするのです。あのようにすれば、まちがいなく貧しくなるのに、そのような方法をするのです。しかし、それを言ってあげることが難しいのです。
・中央アジアに行きました。私たちのかばんをみな中まで調べるのです。来る人々が気分を悪くします。そして、空港職員がかき回して見て、お金を見つけると自分のポケットに入れて持っていくのです。私達があぜんとして、あとでかばんを持って、また行ったら、調べられるのです。ずっと調べるのです。お金を渡しながら、出してくれと言えばくれます。あれで国が生きるでしょうか?
私達が宣教をしようときたのに、単に来たのでしょうか?
そこに投資をするのでしょうか? 投資しなければ、結局、その国が貧しくなるのに、結局はかばんを調べるその人が貧しくなるのです。頭がよく回りません。そのうちで、一番せつないことは、教会に通っている人が救い観に対して誤って知っていることです。とても残念なことです。そして、世の中の人々もそうで、信徒もそうなのが、物質観です。人は2つだけ見れば、未来が分かります。その人の物質観がどうなのか?
を見れば、分かります。その人がお金をどのように取扱うのか?
その人がお金をどのように扱うのか? これを見れば、この人の人格、未来、信仰がみな出てきます。その人が救いに対してどのように思っているのか?
それを見れば、全部みんな知ることができます。今日の本文の青年が、二つとも間違ったのです。驚くべきことに、大部分の人々が、この青年のように思っているのです。
・私たちは、今日の神様のみことばを見ながら、よく考えるべきです。本当に真の幸福は何か、真の財産は何でしょうか?聖書にみなあります。これを確かに知らなければなりません。教会に通っている方が、失敗していることが、他の教会は違う、正しい、この話を強調することではありません。そのように聞く人がいますが、その話ではなくて、教会に通っている人が救いに対して違うように知っていて、違うように説明する場合が多いのです。これだから、教会が変に見られるのです。そして、あまりに物質観が誤っています。今日、長老も祈りをしましたが、私たちは物質観も誤っていて、献金観も誤まりました。すると、絶対に祝福を受けることができません。いくらしても、それがならないのに、それで徹夜祈りしてなることではありません。変に私の目には、そのようなことがよく見えて、今の印象のようになったのです。首都圏に上がってきたのに、はじめに見たら‘40日明け方祈祷会’と書いてありました。ところが、私が感じたのは、40日お寺で何かをするような感じがしました。良くしようという動機で、そのように考えます。ところが、なにか私達が違うように思っているのです。これはどれくらい損なのか分かりません。多くの部分を見れば、教会が建ててあるのに、そばに他の教会が入ったらけんかをするのです。教会がひとつあるのに、そばに天理教が入ってきたら、けんかをしません。そのことが本当に異常です。なぜそうなのでしょうか?
どれくらい間違っているのでしょうか? 教会がもう一つ入れば、ハレルヤと言うべきなのに、教会が入ってきたら、けんかをするのです。そして、寺が入ればけんかをしません。なぜか友人がきたのかのように、けんかをしません。そのことが本当に異常です。どれくらい人々が違うように思っているか分かりません。これで、老会に行ったのに、そこでけんかするようになったのですが、こちらの教会、あちらの教会とけんかしました。
300m の以内には、教会を立てることができないのに、あの人が
295mに教会を立てたと言うのです。あぜんとすることです。それは、むかしに村が離れていた時、一つの村に教会が二つもある必要がないから
300m 離れなさいということであって、今、アパートが密集しているのに、今、アパートがひとつ入れば数百、数千世帯が入るのに、言わばスーパーや教会がひとつあっても良いでしょうか?
このように時代に合わないけんかをしているので、変だと思いました。人々が間違ったことだけを続けるのです。けんかする必要もありません。皆様が教会に行ってみてください。ある人が言うのには、ある人が教会に座ってちらかして、礼拝もささげないでいるので、本当におかしな教会だと言いました。しかし、それは間違っているのです。この教会が異常なのでなくて、その人がおかしいのです。人がそうだということです。教育をよくしてあげればよいのです。
・私たちは、なにかはじめから終わりまで間違った物質観を持っていて、間違ったことがひとつあるのですが、2つのことは影響が及びます。間違ったことは、間違っても過ぎ去ります。2つのことは、間違えば苦労するようになります。物質観が違えば、良い生活をすることができません。そして、救い観が違えば滅びます。赤いものが好きだというのは、自分の自由です。それは間違ったことではありません。真っ赤な服も来て、真っ赤な靴も履いて、両足を真っ赤にしても、誰が何と言うでしょうか?
自分の趣味なのに、それを話すのではありません。自分は髪の毛がないほうが良いと、僧侶のように剃ってしまっても、自分の自由です。それが間違った、正しいということではありません。しかし、この二つを間違ってしまえば、深刻な問題がきます。長い話をする時間がありません。私は聖書のみことばを読む時ごとに、どうして聖書は正答だけを話すのか?
と思います。今日ここを見ると、間違った人の財産観と救い観が出てきました。どれくらいの答でしょうか?
私達がやられる問題で、私達が必ず知っていなければならない部分です。今日、多くの話をして、考える時間がないために、いくつかのことだけ考えてみなければなりません。
・第一には、錯覚する金持ちの青年です。この青年がなにを錯覚したかというと、普段の時、お金をたくさんもうけるならば、誰でも良いということは知っているのですが、お金をたくさんもうけるならば、すべての問題が解決して、全く苦痛がないかのように思っていました。これが青年の錯覚です。もし学生達がそのように思っているならば、困ります。私たちはお金を治めるべきで、絶対にお金の奴隷になってはなりません。私が一度、ジン・ウくんを見てそのような話をしました。この子は中学校、高等学校の時から勉強を良くしました。この子は成功できる子どもです。私が見る時には、誰かそばで保護だけしてあげるならば、それで私がある執事にお願いしたのです。良い働き人であるから、よく手助けしなさいと言いました。良い働き人です。ところが、この人がとても状態がむずかしいのです。それで、この子がソウルに上がってきて、さまよっているようでした。それで、私がジン・ウくんを見て言ったのです。“強く大きくなりなさい。君は大きい人物になりなさい“
そのように話しました。この子が話を分かったのです。少し前に私の誕生日にカードを送ってくれたのに、先生が強い人物になれと言われたことに、私が心に留めていると書かれていました。私の話が、胸の中に入っていったんだなあと思いました。私たち青年達は、成長しながら誤って入っていけば、一生続きます。それで、私が開拓を始めながら、講堂でそのような話をしました。申し訳ないけれど、私たち信徒は、物を買ったり、なにかをしたり、自分の家に持ってこないで、皆様に有難いのですが、これを度々持って来るならば、どんな結果が来るでしょうか?
私は子どもが二人いますが、子ども達は、もらう子どもとしてずっと学びます。他の人に仕えて、持って行くべきなのに、子ども達を静かに見てみてください。どこかに出てみれば、牧師の子どもは、ほとんど図々しいのです。‘普通の問題ではないな’と思いました。これが誤った物質観を持っていることです。人がくれるし、救いも恵みで受けたので、これも恵みで、あれも恵みで、全部みな恵みだと言うのです。そのようにして良いでしょうか?
私が確かに助けを受ければ、努力をして助けに報いて感謝をしなければならず、このように大きくなるべきなのに、救いを恵みで受けたから、お金も恵みで受けるのだと理解しているのです。何かしばしば誤って知っています。私たちクリスチャンが、これだから、だめになるのです。しかし、今日の聖書の青年はどのように思っていたのかというと、お金だけあれば、すべての問題が解決すると思っていたのです。ところが、解決しません。深刻な問題がきたのに、どんな問題がきたのか明らかにされていはいません。なぜでしょうか?
とにかく、この人がイエス様を訪ねてひざまずいたということです。‘尊い先生’と話しました。それとともに、とても重要な質問をしたのです。「私がどのようにすれば永遠のいのちを得ることができるのでしょうか?」このように質問しました。質問も悪い質問ではありません。この人は、お金をたくさん持っている人だと今日の聖書に記録されています。
・今日、青年達とすべての信者の方達が記憶すべきです。皆様がおわかりの通り、お金をどれだけたくさん儲けたか、浴場を実際に金の浴槽にして、それも黄金で、お金をどれだけたくさん儲けたのか、実際に門の取っ手も純金でできるかぎり最大限に飾りました。それほどお金をたくさん儲けたのです。お金さえあれば、なんでもみなできます。この人が
38歳で死にました。その人が今でも人々には多く惜しまれているエルビス・プレスリーです。とても歌がうまい人でした。ところが、この人が迫ってくる問題が分からなかったのです。皆様がおわかりの通り、どれだけお金をたくさん儲けたかというと、計算ができない程でした。「誰がために鐘は鳴る」その本一冊だけでも、ロイヤリティーがものすごいのです。全世界で売れなかった所がありません。その人が、まさにアーネスト・ヘミングウェイです。この人が途方もない富と名誉を得ました。幸福でなければならないのに、しかし、この人におかしな問題が迫り始めたのです。解決しませんでした。人間がこれを知らないのです。この人は、その部分を知らない人でした。ヘミングウェイは、重大な決断を下して自殺しました。それも自分がいつも使うハンティングの銃で自殺をしたのです。もちろん、記録を見て話しているのです。この人達が、ほとんどみな幸福でなかったのです。この人はお金をもうけるならば、ほとんどできると思っていたのでした。もし私たちの学生達や青年達がそのように思っているならば、大変です。私達がお金を支配すべきで、お金の奴隷になれば、悲惨になるのです。ですから、夫に保険をかけて、他の男性とたくらんで、夫を殺して保険を奪うことではないでしょうか?
そのような精神病者がどこにいるでしょうか?
その金をもらって、何をするのでしょうか? それをもらって、ご飯を一日に100杯も食べるのでしょうか?
200杯食べるのでしょうか? 奥さんがどこかに行くようにさせて、他の人に奥さんを殺させて保険金をみんなもらいました。保険会社では、変に見えます。なぜ、この人が突然に保険にたくさん入って、みな持って行くのかということです。法的に保険金を与えるようになっているけれど、異常なので、調査を静かにしてみたら、奥さんを殺したのでした。なぜ殺したのでしょうか?
保険金をもらおうと、こういう狂ったことをするのです。兄弟間で、助け合いながら生きるべきなのに、父の葬式が終わって、けんかになりました。財産を分配する過程でけんかになったのです。もう兄、弟もなくなりました。兄、弟もなくて、お母さんもなくて、父と何と誰もありません。このように成長しても良いのでしょうか?
本当に哀れで悲惨です。少なくとも、私たちは実力を揃えて、お金を動かすことができなければならず、お金の奴隷になってはなりません。
・私はこういう祈りを多くしながら、決断を下します。本当にこれが必要か?
すると、お金がなくてできないのです。それは、ものすごく恥なことです。本当に必要ならば、すべきです。神様の計画であることが明らかならば、せねばならないことで、神様のみこころでないならば、小さなものでもしてはなりません。そのようなことであって、私達があまりに誤った物質観を持っているのです。この人は、そのように思っていました。この人は、どのように思っていたかというと、律法で救われるかのように思っていたのです。私が何をせねばならないのか?
とても錯覚をしたのです。私が何をせねばならないのか?
イエス様がおっしゃって、「人を殺すな。姦淫するな。盗むな。みな守ったのか?
」「私はみな守りました。」「それならば、あなたの財産全部みな売って、貧しい人に与えなさい。」与えることができるでしょうか?
「それはできません。」そして、去って行きました。イエス様がこういう説明をなさいました。もしその青年が財産を売って、貧しい人に与えたとしても、救われることはできないのです。それを知っているのか?
まさにその説明です。もし、そのようなことが出来るならば、ラクダが針の穴に入っていくことと同じです。金持ちが救われるということは、ラクダが針の穴に入っていくことと同じです。救われないということです。その話は、お金が多い人は救われることができないという話ではありません。お金で救われようとすることは、あたかもラクダが針の穴に入っていくようなものだということです。
・不可能な話です。物質を正しく知っていなければなりません。物質で神様を買うのではありません。私達が使うべき一つの道具に過ぎません。あなたがたの大部分は、よく知らずにいます。私が可能ならば、他人の宗教を話さないのですが、逆に教えるのです。お金を大きくささげるならば祝福を受けて、多くのことをすれば祝福を受けると、逆に教えています。死ぬ時もお金を多く出せば、煉獄にいて、天国に行くことができると、カトリックでは今、逆に教えています。こういう嘘の中の嘘をついています。収入は多いかも知れませんが、それは途方もない嘘をついていることです。私が正しい福音を伝えようとしているので、週ニュになりません。千名以上信徒が来るのに、収入がないのです。かと言って、お金をもうけるために、あなたがたを欺いて良いでしょうか?
献金するように強調して、そのようにすべきでしょうか?
そのようにすることは、正しい信仰ではありません。救われたものすごい祝福がどれだけ大きいでしょうか?
神様の前に考えてみましょう。私が世界宣教のために、どのようにしなければならないか、それで救われるのではありません。途方もない祝福を既に受けました。私が宣教とこの教会が何の教会でしょうか?
今、世界がどんな時代でしょうか? 私はどのようにしなければならないのでしょうか?
答が確かに出るはずではないでしょうか? それが正しい献金観です。
・私は、ソウルには、良い教会がたくさんあると思っています。しかし、皆様を通じてインマヌエル教会が立てられたことは、福音を伝えるなかで神様が重要なことをしろとおっしゃったことであることは、確かです。その重要なことがなにか、皆様がよく知っているでしょう。それならば、私がどのように献身をして、どのようにせねばならないのか?
答が出てきます。その時に祝福を受けるのではないでしょうか?
あまりにも誤った経済観、献金観を持っているのです。今日、解決すべきです。
・本当に、秘書にさせていることがあります。車にも献金封筒をたくさん置いておくように。そして、私の机にもたくさん置いておくように。なぜでしょうか?
私がそれを持ってなにかをするということではありません。率直な話で、いそがしいのです。忙しいので、礼拝をささげにいく時、献金の準備ができませんでした。このような時が多いのです。こういう方法で信仰生活して良いだろうか?
献金を封筒に置いて、自分自身が祈ってしなければならないのに、そういう雰囲気にならない時があまりに多いのです。皆様は、時間が多いからできるけれど、私はできません。それでたくさん置いてあるのです。
・江西路教会が、予算の祝福をたくさん受けるだろうな!
と感じました。いつでもあります。私が献金するために見れば、いつでもあります。椅子にもあります。そして、封筒にも穴をあけてあります。たくさん考えました。具体的に穴があるということは、お金が入っている、入っていないがすぐに分かります。それだけたくさん考えたのです。私達が献金を多くするから、祝福を受けるというような幼稚な信仰生活ではありません。なにか正しい献金観と、なにか正しい経済観を持っていなければならないのです。これがどれだけ重要か分かりません。あなたがたが貧しく育ったとしても、物質の奴隷になってはなりません。あなたがたが生きていく間に、物質を何でもないように見ないようにしましょう。皆様が生きていく間、教会の前に献金して、世界を見て経済生活をしているではないでしょうか?
これがどれくらい重要か分かりません。ところが、この人は無条件にあくせくもうけて、持っていれば良いかのように思っていました。霊的問題が押し寄せるのに、解決できません。自分は救われたかのように思っていたのです。救いの錯覚です。私がそのようなことをたくさん見ました。
・ギャンブルをしてお金をたくさんもうけたと言うことがあります。絶対に幸福になりません。私はいままで、人が良い生活をするのに、どのように良い生活をするのか?
というと、ギャンブルで成功したというようなことは、見たことがありません。その人がしっかりと良い生活をするのに、どうしてお金をもうけたのか?
というと、花札をしてそうだという人を、見たことがありません。どんな人を見たのかというと、むかしには良い生活をしたのに滅びたとか、麻薬患者なったが、なぜそのようになったのか?というと、ギャンブルをしてそのようになったという人は見ました。むかしの話があります。‘ギャンブルをして失った者はいても、もうけた者はいない’
もし私達が物質観、経済観、こういう祝福を正しく知らなければならないのです。今、この青年が錯覚をしたのです。救いに対して錯覚をしました。律法に対して錯覚をしました。物質に対しても錯覚をしたのです。多くの説明が必要でしょうが、今日の本文にみことばが出てきていますが、私たちは神様のみことばを見ながら、無条件にお金だけ集めれば良いという、お金の奴隷にならないようにしましょう。また、お金も知らない、あまり世の中のことを知らない人になってもいけません。それで、物質を見ればすぐに分かります。私達が、三日くらい、一週間くらい、一年くらい交われば理解できます。「この人は大きい人物になることができる。この人は、正しい信仰、この人は貧しく育った。この人は貧しく育っても、正しく育った。この人は変に育った。」みな分かります。すぐに目につきます。私達が物質を見て、人を見れば、すぐに分かります。ほとんど理解できます。いくら持っていなくても、物質がなくても、格好が良いようにする人もいます。いくら多くても、お金に対してけちな人もいます。
・変にタラッパン訓練をしても、そのようなことをたくさん感じました。なんの関係もないのに、タラッパンにたくさん集まるのです。たくさん集まって、お金の計算して、こういうことでけんかをするのを見ました。本当に異常です。計算して落ちればポケットに入っていくのでもないのに、なぜそのようにするのでしょうか?
本当に変です。それでけんかをするのを見れば、分かります。物質観が、本当に異常です。またある人は、教会のなかで会計を引き受けようとけんかする人もあります。それも異常です。引き受ければ、何がお金になるのでしょうか?
本当に異常です。けんかする内容ではありません。こういう所から物質観が分かるのです。
・私が知っている牧師一人は、土曜日に会えば、卓球をしようと言うのですが‘お金をかけてしよう’と言うので、5千円かけようと言うと、完全に聖霊充満したように、力を入れて打ちます。人は、もちろん、そのようになることはできます。そのままおもしろくなくすることより、そのようにすることがあります。それほど物質ということは、動機を発生させたり、色々なようになります。しかし、私達は2つのことは、本当に注意すべきです。お金の奴隷になってはならず、物質観を正しく持ちましょう。そして、献金観を正しく持ちましょう。一時代を見ながら、献金観を正しく持っていなければなりません。この物質で救われるのではありません。この物質は、他の条件があるのではありません。この人が物質に対して誤って知っています。悩みながら去って行きました。物質で救われるということは、ラクダが針の穴に入っていくことよりも難しいのです。そうしたら、弟子たちが「だれが救われるのですか?」と言いました。
27節にイエス様がこうおっしゃっています。‘イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」’特に記憶すべきです。ラクダが針の穴に入っていくことは、私達が救われるぐらい大変です。ところが、神様がなさるというそのことは、なんのことでしょうか?
真の幸福は、どこから来るのでしょうか?真の救いから来ます。
・ここにイエスを信じに来た人々がたくさんいますが、あなたがたが錯覚しやすいのです。イエスを信じれば、世の中と断絶されるのではないか?
そのようなことではありません。誤って知っているのです。キリスト教会をあまりに違うように説明したのです。イエスを信じれば、何にもできなくて、じっとすべきではないか?
そのように思っています。そうではありません。ある人は、自分がイエス様を信じて、すべてのことは断ち切って、あらゆることをみな捨てると言うのですが、何を捨てるというのでしょうか?
あなたには、捨てるものがあるのでしょうか。なにかキリスト教を誤って思っているのです。
・福音は、そのようなことではありません。真の幸福を得ようとすれば、重要な救いの奥義
3つがあります。 救われたということは、神様の子どもになることですが、神様の子どもになる道がないために、神様がキリストを送られたのです。それで、キリストを知って、受け入れる瞬間、神様の子どもになるということですが、神様の子どもになる瞬間、家系の問題、呪い、過去、すべての霊的問題が解決してしまいます。どれくらい大きい祝福でしょうか?
これで何か世の中のことを捨てたり、切ったりすることがあるのでしょうか?
皆様が神様の子どもになる瞬間、どのようになるのでしょうか。今現在、神様の子どもとなって救われるのです。皆様が神様の子どもになる瞬間、地獄をはじめとして、すべての未来の問題は解決してしまいました。だから、過去、現在、未来がみな解決したのです。これが救いです。皆様がこの祝福を受けたのです。だから、真の幸福があるとすれば、皆様の家系に入る呪いの問題を解決することができなければなりません。‘罪と罪過で死んだあなたがたを生かし’今日、皆様が軽んじてはなりません。この祝福を必ず受けるべきです。もし皆様の中で知識人だと考える方は、より一層そうです。
・神様が何ゆえにイエス様を十字架に釘付けられたのでしょうか。それほど私たちに救われなさいとおっしゃったのでしょうか。人間が受けるしかない、今全世界が捕われている霊的問題を解決するためにキリストを送られたということです。これから解決されてこそ、真に幸福になることで、そのようにして得たその金が真の祝福になるのです。そうではないでしょうか。
・救われる瞬間、後ほど天国に行くのではなくて、この話に接する瞬間!!
カトリックは、天国は後ほど行くはずだと言いますが、聖書にはそのようになっていません。後ほど救われるということではなくて、今、神様の子どもになるのです。今、皆様の家に神様の国が臨むのです。聖書はそのようになっています。それで、聖書にあることを違うように教えてはなりません。今、私の放送をカトリックも聞いているでしょう。間違って言ってはなりません。救いはいつ受けるのでしょうか。信じる瞬間に受けるのです。‘受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった’と言われました。
・すると、いいかげんに生きなさいということでしょうか。そういうことではありません。良い生活をしても救われることはできません。‘受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には!!’
皆様が神様の子どもになる瞬間に、地域と暗闇とあらゆる未来に対して解放されるということです。真の救いを知っていてこそ、真の幸福を受けます。この時から、私たちには霊的な権威が回復するのです。個人、家庭、家系に。無視できません。
・あなたがたは、よく知っているはずです。私達が救われることができなくて、お金をたくさんもうけて、救われることができなくて成功したりすれば、大きな問題がきます。これを私たちは知っているために、福音を伝えるのです。それで、あなたがたもよく知っているでしょう。救いの奥義を知らず、霊的事実を知らない人、彼らの中で歌手が問題がきます。救いの霊的な奥義を知らない人々が美術をしたりすれば、問題がきます。自分自身も仕方がありません。それで、真の幸福を受けようとすれば、真の救いから受けなければならないのです。
・ところが、ほとんどすべてが救いを違うように思っているのです。あなたがたは違うように知っていてはなりません。正確に知っていなければならないのです。救われる瞬間、皆様に聖霊が臨むために、神様の国が臨んだのです。皆様は、神様の子どもになる瞬間、皆様が行く所ごとに神様の国が。世の中の人々はよく知ることができません。あまりに科学的な事実です。皆様が行く所ごとに霊的問題、暗やみが解決するために、神様の国が臨むのです。そして、皆様は後ほど天国に行くことになります。驚くべき奥義です。
・これからならないのに、人間には、困難が来るしかありません。だから福音を違うように伝えるのです。‘あなたがイエス信じて死ねば天国に行く’と言います。間違った言葉です。その言葉自体は間違ってはいませんが、知ってみれば間違った言葉です。今、イエスを信じて後ほど死んで天国に行くという話ではありません。イエスを信じれば、今、神様の子どもになるのです。そして、後ほど死ねば天国に行くのです。
・病院に行って伝道を真っすぐするように望みます。病気になって不安で横になっているのに‘それでも死ねば天国に行くべきでしょう’すると、内心、何といっているか知っていますか。‘
私が死ぬようになったんだなあ’ そのようになれば、福音は聞くことができなくて、悩みからするようになります。間違った福音です。‘
顔を見ると色合いが良くないですね。今、イエスを信じて天国に行きましょう’
もちろん正しい話です。 しかし、それはその人は、福音を聞くようにできないことです。とても間違った話です。‘まず、あなたが受けねばならない祝福がひとつあります。本当に祈るために、本当に病気に対して祈って戦うためにすべきことがあります。何か?というと、神様の子どもになることです。そうでないでしょうか。いままであなたは悪霊を拝み、偶像を拝んで、占って、いままで人の話を聞いてきたではないですか。今、神様の子どもにならねばならないのです。簡単です。受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々。その名とは、だれでしょうか。イエス・キリスト。すると、イエス・キリストとは何の話でしょうか’
説明だけでも受け入れる、その瞬間、霊的なみわざが起きるのです。すると、祈りはその後にできるのです。このように伝えなければなりません。すると、率直な話で、その人が死んでも天国に行くのではないでしょうか。
・正常に仕事をしにいく人に ‘あなたは、今、幸わせでしょうか。あなたは真の幸わせを得ることができる方法があります。’
このように伝えるべきで、正常に仕事をしにいく人に
‘あなたはイエスを信じて天国に行こう’と言うので、今、忙しくて死にそうなので‘君が行きなさい’と言うのです。‘私の家内が今通っているので、あなたも一緒に行けば良い。冗談で言うのか’と言います。それは違うように話したからです。
‘あなたは今、どこへ行きますか’ ‘職場です。’
‘あなたの歩みを本当に祝福に導く方がいらっしゃいます。その方が、まさに神様で、神様の子どもになる道がキリストです。’
このようにしなければ、バタバタと違うようにしてはなりません。
・ある人は、このようにします。思い切り苦労して、後ほど天国に行くと言うのです。すると、誰が受け入れるでしょうか。ひたすら未来だけ準備する人の中に、受け入れる事があるかもしれないけれど、そのようにしてはなりません。聖書は、そのようになっていません。皆様の先祖が犯した偶像崇拝、皆様の家系の呪い、災いがあるでしょう。イエスを信じる瞬間、解決します。イエスを信じる瞬間、神様の子どもになるのです。イエスを信じる瞬間、未来問題が解決するのです。心配する必要がありません。これが真の幸わせです。このようにした後に、真の物質の祝福が来るのです。
・マルコ福音 10章 29節です。特に、29節 30節は誤解することがあります。誤解しないように望みます。
“イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。”
この話は、福音ゆえに息子も家もみな捨てれば、100倍受けて、永遠のいのちも受けるということではありません。もし福音のために生きていて、迫害を受けたり、福音ゆえに皆様が献身をするのに、人を生かす働きをするのに、家族が苦しみにあったり、皆様が苦しみにあえば、より大きい祝福を受けることではないでしょうか。そのことです。当然の話です。100倍で。そして、来世に祝福を受けるのではないでしょうか。
・皆様が、この福音のためにお金をもうけて生きれば、どのようになるでしょうか。水いっぱいも報いを失いません。間違いありません。あなたがたが今、誤って教えてはだめで、誤って聞いてはなりません。聖書を正しく見なければならないのです。とても驚くべき祝福を。あなたがたが少しだけ決断すればよいのです。
・本当に許して、私の言うことを聞いてくださるように願います。絶対に高慢ではありません。多くの
200ケ所の教団で牧師を作りだすのに、この福音を伝えるべきだという方はたくさんいません。それで、私が‘私が伝道すべきだ’
と心に決めたのです。ほとんどみな、教役者を見ると、未来がどうであれ、将来の心配をするのに、どのようにするでしょうか。私だけでも福音を伝えるべきだと思ったら、神様が祝福なさったのです。証人がいるではないでしょうか。
・私がこの福音がどれくらい良かったか、日曜学校を預かった時、私は
9時に行きませんでした。明け方 4時に行きました。ある時は3時にも行きました。行って何をするのでしょうか。あらかじめ行って、明け方祈りして、朝を簡単に食べて子ども達を訪問しました。行けば、子ども達が寝ています。日曜学校が難しいのでしょうか?
そのようにするので、子ども達が 1,000人集まりました。難しくありません。ある方を見ると、9時が礼拝開始なのに、正確に9時に来ました。その時間に合せようと苦労したのです。私の所にきて、どのようにすれば復興にするのか?
その秘訣がなにか? と尋ねたのです。秘密が別にあるでしょうか。私は、
内心、眠るのをちょっと少なくしようと言いたかったのです。何が難しいでしょうか。することもありません。教会を見ると、教役者が、長老達がけんかするのに、何ゆえにそうなのでしょうか。この良い祝福の現場で。国も福音を伝えながら生きるべきだと決定したら、神様が祝福を下さいました。私がどれくらい祝福を受けたかは、話ではよくできません。神様がなさるはずです。
・以前にも私が話しました。することはひとつしかありません。途方もない祝福が降り注いで、門が開くので、私が受け取ることができませんでした。うつわが元々6.25(1950年朝鮮戦争)のうつわになっていたからです。受け取る準備をせねばならないのですが、それしかすべきことがありません。あまりに祝福があって、受け取ることができないほどです。どれくらい簡単でしょうか。
・今日、正しい経済観、正しい救い観を持ったあなたがたは、3つのことを記憶するように望みます。結論を結びます。未信者とすることを全く同じく上手にやる3つがあります。
・皆様がなさること、事業には世界で最高になるほど、人生をかけるように願います。他の人が見て、本当にこの人はすてきだと言うほどに、人格をかけるように願います。会社で数十ケ所から皆様に仕えようと来るないように、技能をかけましょう。この三つは、未信者と全く同じく、一番目にしなければならないことです。これは未信者もすることです。青年達は必ずそのようにするように願います。福音があるために、少しだけ努力すればよいのです。3つのことにかけましょう。人生をかけましょう。人格をかけましょう。専門性をかけましょう。すると成功します。親戚でなく、息子、父でも、その3つができなかった人が保証人になってくれと言えば、保証しないようにしましょう。
・その次に信者だけがかけることがあります。それは何でしょうか。あなたがたが、すべての人に答を与えることができる福音を準備しましょう。皆様は重要な働き人を生かすことができる弟子訓練の準備をしましょう。これは、信者だけができることです。
・最後に準備することがあります。これは特別な人だけが持つことです。皆様の事業と皆様の職業、学業を持って伝道と世界宣教の方向を定めることです。間違いなく成功します。あなたがたが、どこに行っても利益、損害で戦わず、皆様が物質を動かすことができる人になりましょう。私は確信します。祈っています。今日、全世界にインターネットでみことばを受ける私たちの弟子が起きて、長老達が全教会でこの契約を捕まえてくださるように望みます。
・私は確信します。私たちの長老と信徒がこの二つのことを悟れば、世界的な答えを確かに受けるはずです。聖書を見ましょう。ヨセフゆえに、ヨセフ一人ゆえに。ダビデひとりゆえに。パウロひとりゆえに、皆様もおわかりの通り、マルティン・ルター一人ゆえにヨーロッパを祝福なさいました。皆様がおわかりの通り、ジョン・カルヴィン、ヨハン・ノックスゆえに神様はヨーロッパ全域と英国とスコットランドを祝福なさったのです。簡単ではないでしょうか?
ここに米国から来られた方達がいらっしゃるでしょう。米国がどんな国なのか知らなければなりません。米国の人々はよく知っているはずです。ヨーロッパでは、正しい伝道運動をすることが難しいので、伝道運動をすべきだという何名かが心を集めて行った所が米国です。それを見て、神様が米国を祝福されたのですが、今、米国はよく知らずにいます。
・私は、皆様が正しい物質観と正しい福音を持って祈り始めるならば、神様は驚くべき祝福を確かにくださることを確信します。間違いありません。私たちは、とんでもない間違ったことを捕まえる理由がありません。今日、本当に捕まえて、神様の答えを受ける重要な祝福の日になることをイエス様のお名前でお祈りします。
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。今日、みことばを受けたすべての神様の人々に、神様のみことばを与えて下さいました。愚かな経済観と間違った救い観を持たないように、神様が真の祝福を与えて下さって、この方達に新しい時代的な祝福を受ける最も幸福な日になるようにさせてください。最も大きい祝福の天の門が開く日になるようにしてください。特に、私たちの長老達、役員、産業する方達に、時代的な代表的祝福を下さることを信じます。それのためでなくて、他の理由があるために、真の福音運動をするために、この方達に驚くべき時代的、象徴的な祝福を下さることを確信します。衛星で礼拝する教会とすべてのインターネットでみことばを受ける弟子の上に、神様の祝福があるようにさせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン。
2部/ 神様に向けたダビデの祈り
(詩17:1〜15 )
・ある方のご主人が、交通事故にあって病院に横になっていたのに、意識が戻らなくて、全く対話も出来なくなりました。医者が言う話は、だいたい正確な診断をすることができます。医者の方達が、長い間治療をすることは不可能です。生きることも不可能で、また、実際に息をふきかえすとしても、これほどの事故がおきた場合には、考えを回復することができません。過去の考えを回復出来ないために、実際には何にもすることができないでしょう、と病院で話をしたのです。問題は、そのように話されたら、人々が異常なのです。この人と普段に話をした人々が、お金を与える人は一つも来ずに、もらう人だけが来るのです。また、今はいっしょに事業をしたある人が、普段に信仰が良いと、聖霊充満も受けたと言っていたのに、うそをついたのです。病院に横になっているこの人に、みなかぶせるのです。こういう方法でみな抜け出したのです。ところが、この方は、とうてい目覚める可能性がありませんでした。それから、この家が完全に滅びるようになったのです。それから奥さんは、事業に対する事業も知らずに、内容もよく知らずにいたために、まずこの人にすべての問題がみなくるようになったのでした。ところが、奥さんがどうも普通の問題ではないのです。実際にその方を見たのですが、この人が全く病院を離れないで、その病室に夫が横になっていて、意識もなく、話もできないから、ベッドの下でずっと祈ったのでした。ベッドの下で祈りをずっとしたら、とにかく、そのご主人が回復することはもちろんで、その病院でも全く同じく看護婦、医者、みんなが話をしたのには、「自分たちは、こういう場合を見たことがない。」ということでした。少しずつ意識が戻ってきて、その次に少しずつ考えも戻ってきて、そのような時、注意をしていると、また回復して、このようになるのに、突然に人が目覚めて起きて、意識が戻ってくる場合はほとんどないということです。この人が突然に目が覚めたのです。考えも、全てのものがみな回復したのでした。もちろんうそをついた人は、ものすごく不利になったということです。それが驚くべき祈りの人であるということです。ですから、人々はよく知らないのです。それで、病院で言うことには、ある医者は、自分は長い間、医者生活をしたが、こういう場合を見ることはなかったということでした。どうして完全に死んでいたような人が、身動きできなかった人が、意識がなかった人が、このようにすぐに目を覚ますことができるのかということです。こういう場合を私は見たことがあります。
・私たちの前に総会長をしたチャン・スンチュル牧師が、あまりにも京畿道の郊外周辺で非常に力強く走ってくる車に当たって死にそうになったのですが、私が行ってみて、私の感じで‘これは難しいだろう’完全に意識がみななくて、鼻に酸素呼吸器を入れて、人が突然にそのようになっているので、どれくらい異常だったでしょうか?
昨日までいっしょに話をしてした人が、突然に意識なく、病院に横になっているのに、もちろん、これから神様の計画を見て祈ったのですが、ところが、私がすこし驚いたのが、その奥様です。この奥様の顔が何ともなかったのです。その程度になれば、人は苦しくなるでしょう?
全くそうではなかったのです。私が見ると、何か楽しい事でもあるような、そういう顔でおられました。ですから、神様が皆知っておられるのです。それで、どれくらい祈りをしたのか、みことばテープをずっと再生したということでした。ずっとメッセージを聞かせてあげて、祈りをしたのでした。年が若くて健康な人も教会堂を建てることができないのに、その方は病院に横になって、植物人間のように数ヶ月いたのに、教会堂を建てました。それで、教会堂を建てて私を見て、必ず説教をしてくださいとお願いをされたので、行ったところ、この職分者も立てて、教会も立ててあったので、私がはっと驚きました。この方が、司会をしたのですが、司会はむずかしいのです。普通、教会に行事があれば、司会はどれくらい難しいか分かりません。私たちの副牧師を見れば、すこし震えてすることが見えるでしょう?
それほどむずかしいのです。あなたがたがそのようなかと言うでしょうが、実際に立てばよくできません。ある長老達、執事達を見れば
“牧会をそのようにするのか?” と言いますが、この人に司会をさせると、賛美も抜いてしまい、頭に混乱がきて、難しいのです。それで
‘この方は、このように長い司会ができるだろうか?’と思ったのですが、とても司会程度ではありませんでした。ユーモアまで言いながら、司会をされたのです。それで、本当に神様の力は本当に想像もできません。1つや2つではないのです。教会も復興して、教会も建てて、牧師が回復したことはもちろんで、医者が話すこととは完全に違うように、この方が精神と全てのものがみな戻ってきて、今、講壇に立っていらっしゃいます。そのようなことを見ながら‘
祈りの力は大したことなんだな!’と悟りました。
・皆様にどんな問題があるかは知りませんが、祈ればよいのです。私が知っていることでは、祈りは最高の科学です。そのまま私たち人間を創造なさる時、未信者でも、信者でも、そして、間違っていようが、正しかろうが、祈れば良いようになっています。それで、祈りが重要なのです。あなたがたが今から間違った祈りをすれば、間違った答えがきます。正確です。すべての宗教を違うと言うのではありません。宗教生活をすると、そのままの答えがくるのです。祈りはあまりにも科学なのです。私達が、神様の前に真実に祈ることは、本当に真実に話せるのは、神様しかないでしょう?
それで、皆様が祈るという特権は、途方もない特権です。それで、未信者でも、信者でも、祈るようになります。未信者も困難にあえば、どこか知らないで、祈りをするようになるのです。それも答えになります。それで、皆様が持っている考えがどれくらい重要か分かりません。そのまま答えになります。皆様が、もし仮りに外れている考えを持っていれば、外れているとおりに答えがずっときます。それしか仕方がありません。人間がそのように創造されているからです。皆様が、むなしさがあれば、ずっとそのような答えがくるのです。これくらい祈りはそのまま答えられます。それで、私が悟ったのは、祈りは信者でも、未信者でも、福音でも、宗教でも、悪霊でも、とにかく祈るまま、答えがくるのです。神様が人間をそのように創造なさいました。ところが、神様を信じる私たちは、神様の前に真実に話すことができるために、全てのことをみな言えるのです。どれくらい重要でしょうか?
それで、あなたがたが見れば、人前で言えない言葉があるでしょう?
それを祈りでできるのです。
・それで私は、カトリックで告白して懺悔することは聖書的でないと思います。直接神様に祈るのです。イエス様が、私達が神様のところに行くことができるように垣根を崩してくださったゆえに、幕を裂いてくださったから、私達が誰かの前に話をするということは、あまりにも非聖書的です。あまりにも非福音的です。この頃、また団体の中で賛美して、倒れて、再告白することがあるでしょう?
それも聖書的ではありません。ある家は、試みに会うようになりました。あまりにある人が感動して、話をみなしたので、それが後ほど問題になったのです。そのようなものも聖書的ではありません。私たちは、神様の前に何んでも祈ることができるのです。どれくらい驚くべきことでしょうか?
祈りぐらい大きい祝福はありません。それで、あなたがたがすでに祈りの奥義を持っているということは、救われた人は、全てのものをみな持っていることと同じです。それで、皆様が人の前に不平を言って話すことは、すでに祈りができないでいるということです。祈れば、そのような必要がないのです。私達が苦しい事がどれくらいたくさんあるでしょうか?
祈りをすることができなければ、それを消化することができません。また、私達が重要な霊的な部分に答がないならば、どのようにそれをすることができるでしょうか?
ですから、神様が私たち救われた者達に救いの祝福の次に与えられた祝福があるならば祈りです。どれくらい大きい祝福でしょうか?
祈りはとても科学的です。そして祈りは神様が人間を創造なさった原理にとても合うのです。そのために、祈りはどんな祈りをするのかが重要で、いかなる考えを持つのかが重要です。皆様が持っている考えがものすごく重要です。そのために、その答えがそのままくるようになるのです。
・それで、私はこのように祈りに対する結論が出てきました。祈りは霊的な事実をまず味わうことです。一般の人々は知りません。祈る時ごとに聖霊が働かれて、祈る時ごとに反対に悪い霊達、暗闇が崩れるために、祈りは霊的な事実を味わうことです。どれくらい科学的でしょうか?
・ところが、祈りをずっとすれば、どんな結果が出てくるのでしょうか?
霊的なことと、肉的なものの間に変化が起きます。これを人々がよく知らないのです。私たち人間は、たましい、肉体がいっしょにあるために、その間にすばらしい変化が起きます。例を上げるならば、皆様が祈りをすれば、すぐに天井に穴があいて、お金が落ちてくることはありません。ところが、祈れば、神様が霊的なことと実際的なことと関連させることができる、そのような驚くべき事件が行われるのです。祈りはそのようなことです。祈りは肉体的な証拠がくるのですが、それを持って霊的な理由を悟るようにさせるのです。どれくらい重要なのか分かりません。
・今でもあるのですが、過去に見れば、私がこういう話を一番たくさん聞きました。伝道する以前ではなく、教会生活をして伝道運動をしてから、一番多く聞いた話があります。それが何かというと、いままで総合してみれば、一番多い話が、私がいるインマヌエル教会とか
(以前には東三第一教会でしたが) また、私のする働きで、下にいる人の行政とかが、簡単に言えば、あいまいで変だということです。一番多く言われました。私が認めます。総合的に見れば、そのような話が最高に多くありましが。ですから、教会に行ってみたら、とても田舎のようで、簡単に話せば、水準が低いのです。異常です。こういう話を一番多く聞きました。ですから行政がどうだ、というのが最高に多くありました。15年前から今まで、絶えず聞く話です。私にたくさん話をしてくれます。それで、間違いないと考えています。しかし、必ず2つのことをその方が知らずにいるのです。話すその方には、いままで全く答えがないという事実と、祈りの奥義がないという事実です。それは間違いありません。ですから、たくさんばかにされましたが、それでも結果は違うように出てきています。これからも、違うはずです。
・皆様が祈りを知らないということは、みな知らないことです。私達が救われたことは、恵みで受けました。しかし、祈りを知らないことは、すべて知らないということです。皆様にどんなに困難が来ても、祈りの奥義を理解するならば、祈りの深い所に入っていくことができるのです。皆様が本当に死にそうになるまで行く状況になるとしても、祈りの奥義を持った人は、深い祈りに入っていくことができるのです。祈りは、それがすべてです。ですから、皆様の考え、思考、過去に習ったことが、全部祈りと関連するために、全部だと言うことができます。祈りは無条件にしたら、答えられるということではありません。私の経験、思想、信仰全てのものが関連するために、全部のことです。それで、どれくらい祈りが重要か分かりません。
・それで、今日、あなたがたがダビデが祈った内容を見る必要があります。今日、まずダビデがどんな祈りをしたのか見たら、2つの祈りをしました。ダビデが必ず祈りの答えを受ける秘密があったのですが、どんな秘密を持って祈ったか?
という時、7節や15節に見ると、このような話が出てきます。“立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。”と言って、15節には
“しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。”と言いました。これは今、どんな姿なのか分かるはずです。“身を避けて”と言って、“目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう”と言いました。これは信者でなくては出来ない話です。これは本当に救われていない人は、出来ない話です。私が寝ていて、朝に目を覚まして起きる時に、主の御姿に満ち足りるのは、これは信者だけができる話です。私が朝起きる時、疲れていて、私が朝起きる時、難しいこともあって、私が朝起きる時、からだが痛くて、色々なことがあるのに、私が朝起きる時、気分が良いこともあり、私が朝起きる時、気分が悪いこともあり、色々なことがあるではないでしょうか?
私が朝起きる時、やっとのことで起きたり、色々なことがあるのに、“目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。”と言いました。“身を避けて”と言いました。この話は、誰もが言う話ではありません。救われた神様の子どもであるダビデの祈りです。救われた神様の子どもがする祈りですが、どのように祈ったのかというと、
・1節, 3節にこういう話が出てきます。“主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。”と言いました。この話は、皆様が全く嘘をつかない人で、ダビデが全く嘘をつかない人だということではありません。神様の前に正直な祈り、皆様が事実そのままする祈りに神様が答えられるのです。それで
3節を見ると、“主あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。私は、口のあやまちをしまいと心がけました。”
口で罪を犯さないということです。口で恨んだり、口でそのようにしなかったということです。神様の前に真実の祈りをしたのです。
・皆様、そのような時がなかったでしょうか?
‘本当に苦しい’ そのような時はなかったでしょうか?‘本当にむずかしい’そのような時はなかったでしょうか?
あったでしょう。そのような時は、どうするのでしょうか?
‘これは私は、どうすることもできない’ そのような時はなかったでしょうか?
皆様が生きていくならば、そのような時があって、どれくらいそのような時が多いでしょうか?
神様の前に、そのまま皆様が救われた神様の人ならば、正直に祈りをすれば、神様はそのまま答えられます。本当に驚くべきことです。
・それで、今日、皆様や学生達が、祈りをできないと言います。そのまま祈れば良いのです。学生達が私に手紙をくれました。祈りが出てこないと言っていました。出てこないということ、それも祈りです。“神様、私は祈りが出てきません。出てくるようにしてください”
それが祈りです。ですから、祈りはそのまますれば良いのです。普通、学生達は神様が信じられないと言いました。それも祈りです。“神様、私は神様を信じねばならないのに、信じられません。私が神様を信じることができる霊的な悟りを下さい”と祈ればよいのです。ですから、そのまますることが祈りです。
・皆様が友人の前で話をみなできないこと、はなはだしきは、子どもが親の前でみな話をできるでしょうか?
できません。親だと息子に話をみなするでしょうか?
できません。皆様、夫婦だからと、みな話をすることができるでしょうか?
できません。私達が実際に、そのまま話をできることが祈りで、神様の前での祈りです。本当に驚くべきことです。これが答えになるということです。皆様がどんなに断食して、駄々をこねる祈りをするよりは、神様の前に正直な祈りをせねばならないのです。それが早く答られるのです。もちろん、皆様が山に登って本格的に本当に祈る重要ですが、それよりもっと重要な祈りが、誰も人は知って与えることができません。神様の前でする祈りです。この祈りに神様はまちがいなく答えられるのですが、私はこの祈りを少し、ほんの少ししてみても、答えを受けないことはありませんでした。
・ むかしに私たちの子どものことが心配になったのですよ。私はどうすることもできないではないか?
“神様、私は本当に時間がなくて、会っても話すこともできなくて、そして、子ども達は既に成長して私と立場が違っています。神様が、私の子ども達が福音をわかるように導いてください。本当に神様の手に任せます”
この祈りがいつでも答えられました。それが事実ではないでしょうか?
それ以上する祈りがないでしょう? ある時には、とても疲れています。どのようにするのでしょうか?
いのちを支配して、私に健康を下さることができる方は誰でしょうか?
神様です。医者ではありません。私にいのちを下さって、守ることができる方は神様です。それならば、“神様が私に健康を下さって、いのちを守り、力を与えて下さい”
それよりも真実な祈りがないでしょう? ダビデがどのようにいつも祈りをしてきたのかが出てきます。正直な祈りをしたのでした。
・4節, 5節を見ると、みことばにいつもついて行ったということになります。“人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。”と言いました。ダビデが神様のみことばによく従ったのでした。
・皆様が今からでも、救われた神様の民であることが間違いないために、あなたがたは神様のみことばだけよく理解しても、大きい答えを受けます。実際には、皆様が家に帰って聖書をたくさん読まなくてもかまいません。皆様が明日から忙しいのに、ある面では、事業する方達がもっと忙しいのですが、聖書を一日に、何百章ずつ読まなくても良いのです。皆様があまりに忙しくて、聖日に聖書を探して教会に来るだけでも、いそがしいのです。それがもっと正常です。しかし、神様のみことばをよく聞けば、これで答えがくるのです。
・ダビデがした祈りが、答えを受けた秘密を表しています。このようになる時に、神様が滅亡の世にいるダビデを救われたのです。特に
7節を見るとこのような話が出てきます。“あなたの奇しい恵みをお示しください。立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。”と言いました。右の手です。ここに例外はあります。皆様がもし左利きならば
“左の手に来る者を救う方”と言わなければなりません。ダビデが左利きならば、まちがいなく7節に
“主の左の手に来る者を救う方”といったでしょう。ところが、ダビデはたぶん右利きのようでした。大部分の人々が右利きです。米国には左利きが多いのです。右手ということは、力がある手を話します。ですから、神様の右手であるから、どうでしょうか?
私達が人間の右手と左手の差が出るのに、神様の右手です。この手で私を救ってくださり、くすしい事を行って下さるのです。これがダビデがいつも体験した部分です。
・祈ればどんなことが行われるのでしょうか?
8節に “私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。”と言いました。皆様のからだ部分は、みな重要です。しかし、瞳が最も鋭敏な部分で、重要なのです。
・私が幼い時から苦労をしたことは、鼻が痛くて苦労したことはありません。また、幼い時から歯が痛くて苦労したこともありません。時々、目にちりが入って苦労しました。私がいまはこのようになっていますが、幼い時は、現在よりはハンサムであったし、目が大きかったのです。いまはこうですが、目が大きくて、二重まぶたになっていて、良い顔でした。他の人が、私の目に光があると言いました。眼球がちょっと出ていたほうなので、風が吹くと何かが入って来るのです。それで、以前に風もたくさん吹いて、道も土で、風が吹くと入ってきて苦労していたのですが、瞳のように鋭敏な部分はありません。
・神様が祈る皆様を、どのように守って下さるのでしょうか?瞳のように守られるのです。皆様、何かがくれば目が自動的に閉じるでしょう。瞳があるからです。そして、なぜ目が少し中に入っているのでしょうか?
飛出している人もいますが、大部分の人は入っています。なぜでしょうか?
当たっても、まず大丈夫なように、そのようになったのです。ボクシング選手が、他の所を殴って、目はあまり殴りません。神様が瞳を保護するようにしておかれたのです。ですから、鼻も他の所に作って置いてもかまわないのに、なぜこうのようにさせたのでしょうか?
目のために、めがねをかけるように、このようにされたのです。耳も後につけたり、頭の中に隠したりすれば、より良いのに、これが目のためにめがねをかけるように、このようにさせられたのです。私がこういうことを見る時、目が最も保護されています。
・それで、障害者の中で最も苦しい人は、見えない人です。私が見るのには、そのように感じられます。もちろん、口に出して言えなくても苦しいでしょうが、最も苦しい方がいるならば、目の見えない人ではないでしょうか?
ダビデが告白するのに “神様が私をひとみのように守られる”
そのように告白して、また “御翼の陰に私をかくまってください。”
どれくらい平安で恵み深いみことばでしょうか?
神様が祈る皆様を、本当に真実に祈る皆様を、頼るところがなくて祈る皆様を、瞳のように守って、主の翼の陰にかくまってくださるのです。かくまったということは、保護したということですが、ものすごく隠密な話です。“かくまった”と言いました。
・神様が10節, 11節, 12節, 13節をずっと読んで見ると、敵から救われました。10節を見ると“彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。”
11節に “彼らは、あとをつけて来て、今、私たちを取り囲みました。彼らは目をすえて、私たちを地に投げ倒そうとしています。”と言いました。多くの未信者が悪い者が皆様を倒しますが、そこで神様が守られるのです。12節に
“彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。”と言いました。皆様を倒そうとして、皆様の弱点と皆様に困難を与えるために、待ち伏せしている獅子のようですが、こういう世の中からあなたを保護するはずです。神様はそこから救われたのです。これはダビデの告白です。ダビデがたくさんやられたのです。ダビデを捕まえて殺そうと、山の中に兵士が隠れているのに、どれくらい凄じいでしょうか?
そこから神様が救ってくださったのです。またダビデが隠れているのに、ダビデを探しにきたのです。多くの兵士が槍を持って、刀を持ってやってきたのに、ダビデが洞窟の中で、どれくらい祈りをしたでしょうか?
詩篇 142篇を見れば、穴の前に来たり行ったりしたと言われています。どれくらい中で祈ったでしょうか?
神様が、このように祈る時、保護されたのです。
・また14節を見れば “主よ。人々から、あなたの御手で。相続分がこの世のいのちであるこの世の人々から。彼らの腹は、あなたの宝で満たされ、彼らは、子どもらに満ち足り、その豊かさを、その幼子らに残します。”
この人たちは、物質しか知らずに、物質を子どもに渡し、幼い子どもに伝えて、これを神だとして、これを力だとみなしているのです。そこから私を救い出されたという告白です。
・皆様、今日、難しくありません。本当に、一度体験をする、そのような祝福があることを願います。皆様が信仰生活をするのに、一番確信がある時がいつでしょうか?‘祈る時、答えられるんだな!’
このように感じられる時、最も確信がきます。皆様が最も信仰が揺れる時がいつでしょうか?
'祈ってもよくならないよ!’ このように感じられれば、どのようになるでしょうか?
すると、信仰が弱くなるでしょう? まちがいなく、答えられます。皆様に重大な困難が来れば、神様は重大な計画を持っておられると理解して、祈るように望みます。私は長い間伝道しながら感づいたのです。問題がくれば
‘神様が重要なことをなさるのだ!’この頃は、ちょっと少なくなりました。以前に伝道運動をあれこれ体験した時、このようにしようとするなら、問題が起きました。家庭でも問題が起きて、外でも起きて、その時は知らなかったのです。今、考えてみれば,‘神様がこういう重要なことをされる時ごとに、私を祈らされるのに、困難がくることは、答えが来るというサインだな’
ある時には、外国に行く時に見れば、ものすごく難しい時があります。むしろ私はそのような時、迷信的な考えを嫌うために‘そのようなことはある’と考える人ですが、詳細に見れば、そうではありません。神様が重要なことがある時ごとに、祈るようにされたのです。それで私たちは、あらかじめ感づかなければなりません。ダビデが神様の前にした祈りです。
・すると、私と皆様が、どのように祈りをせねばならないのでしょうか?
ダビデは旧約の人です。ところが、ダビデは私が見る時は、旧約の人ですが、今、私たちのようにいくつかのことを悟ったのです。皆様が祈るのに、いかなる祈りをすればよいのかが重要です。今から3つの祈りを始めれば、まちがいなく答えを受けます。その最初が何でしょうか?
福音的な祈りです。福音を知らなければ、重要な答えを受けることができません。イエス・キリストによって、皆様を暗闇から救い出され、神様の子どもに、救われた子どもにされたたゆえに、福音的な祈りをしましょう。祈りを律法的にすれば、律法的な答えがきます。祈りを神秘的にすれば、神秘的な答えがくるのです。しかし、祈りを福音的にすれば、福音的な答えがきます。ものすごく重要です。私は詩篇を読みながら、ダビデがとても福音的な人で、福音を明らかに悟ったと感じられました。それを見る時、あなたがたが、今から祈りの答えを受けるのは、福音的な祈りをしましょう。すると、答えを受けます。福音的な祈りが何かと尋ねれば、答える内容が多いでしょう。しかし、簡単に考えればよいのです。皆様が祈るのに、まちがいなく答えられる祈りなのですが、これをずっと律法的にするとか、これをずっと皆様の体質でせずに、福音的にしましょう。私は神様の子どもであるゆえに、神様が与えられた恵みで生きるために、私は救われた神様の子どもであるゆえに、その内容を祈りなさいということです。救われた者に7つの祝福を下さいました。それを持って祈りましょう。すると、まちがいなく答えがきます。ダビデがこういう細かい部分を知っていたと、私は思います。
その次に、祈りの答えを必ず受けなければならないでしょう?
今は福音的な祈りだけをするのではなくて、皆様が考える時、判断する時、色々なことをすべきです。このような時に、福音を味わいましょう。すると、すべての考えが答えになります。考えが重要です。祈りも重要ですが、私たちの考えがものすごく重要です。それで、考えがほとんどすべてです。私が見れば、否定的な考えを多くする人がいます。その人はまちがいなく、否定的な答えがきます。考えがほとんどすべてです。
・福音的な祈りをして、福音を味わう考えをしましょう。すると、本当に正確な答えがくるようになります。ダビデがどんなに困難が来ても、この契約を捕まえて祈りました。来週にも出てきますが、ダビデは
“私の力である主よ”と言いました。今日、ここに見ると、“主よ私の正しい訴えを聞いてください”と言いました。答えが来るしかないのです。それで、ダビデは旧約の人ですが、私が見る時は3つのことが確かに入っています。ダビデは福音を悟った人です。旧約で既に福音が出てきたということです。皆様が今から福音的な祈りをすれば、皆様が知らない間に霊的な相当な答えがくるはずです。今晩に持っている否定的な考えまでも、みな出してしまいましょう。皆様が持っている不信仰的なこともみな出してしまいましょう。ほとんどみんなが持っています。皆様は弱くて、足りないけれど、今晩に福音を味わうことができる考えに変えましょう。すると答えになります。すると、正確な答えがくるようになっています。
・三番目のことは何でしょうか? あなたがたが、これから福音を伝えることと、神様の栄光のために伝道という使命を持って行動すれば、神様は驚くべき答えの門をずっと開けてくださるのです。
・私が見る時、ダビデはこの三つのことをみな持っていました。ですから、祈りの答えを受けたのです。今日、本当に大きい祈りの答えを受けることを主の名前でお祈りします。“私はなぜ祈りができないのか?”
“いや、先生、福音的な祈りとは何の話ですか?”
それがまさに奥義です。管理者には、忠実であることが要求されますとおっしゃった時に、Iコリント4章を見れば
“私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。”と言われました。その奥義が、まさに重要な福音です。奥義があれば、答えを受けます。“私はなぜ祈るのに、そんなに答えが来ないのでしょうか?”
と言うでしょうが、そうではありません。秘密を回復しましょう!
福音的な祈りをしましょう! すると、答えがくるようになっています。奥義とは何でしょうか?
皆様は宗教人ではありません。神様の子どもです。あなたがたは、すべての答えの体質、根をなぜおろさなければならないのでしょうか?
すべての過去と呪いから既に解放されたのです。それで、主は生ける神の御子キリストです。エリヤも必要なくなって、モーセも必要なくなりました。この話が分かるでしょうか?
すると、答えがき始めるのです。主は生ける神の御子キリストです。すると、答えがき始めるのです。その奥義を持って祈りましょう。その奥義の中には、7つの祝福が付いてくるようになっています。それを持って祈りをなせば良いのです。
・“先生。私は、なぜ経済が良くならないのですか?”
“私はなぜ就職が良くできないのですか?” 早く3つのことを回復しましょう。皆様に、そちらに多くの専門性と人格と皆様の人生です。早く回復すべきです。それを持って祈れば答えがきます。皆様が絶対に専門性がなかったり、皆様の人生がわなにかかっていたり、皆様の人格的体質と一致しない事業はしてはなりません。すれば他の人がしようとしても、止めなければなりません。そして、保証人になってくれと言われたら、絶対になってはなりません。崩れるようになっています。そして、学生達は早く悟らなければなりません。3つのことを悟らなければならないのです。これは、未信者が悟っていることです。私達が早く悟ってこそ、私達が福音を伝えることができるのです。‘どんなに祈りをしても、私はこれで金儲けができないのだろうか?’‘私はなぜ祈るのに就職が良くできないのか?’‘私は職場でみわざが起きないのか?’
3つのことからまずしなければなりません。早く、そのようにしなければならないのです。私は社会に行って、どのようにすれば良いのでしょうか。皆様、社会に行って、世の中の人々に答を与えることができるならば良いではないでしょうか。‘私は、教会にきて、なぜこのように葛藤が多いのでしょうか’
早く使徒の働き 2章 24節を回復しましょう。使徒の教えを受けて、“講壇”です。交わりをして、この方達がどれくらい重要な方達かという目が開いてこそ、正しく目が開いたのです。そのような人が、パンを裂いて
"聖餐“です。そして‘祈りに専念していた’
教会にくる時ごとに、祈りの課題を捜し出すのです。
・だから、一般信者の役員修練会の時したお話ですが、聖書箇所
5つは、必ず記憶してこそ答えを受けるのです。
1. 福音を味わって生きるということは何の話でしょうか。Iコリント全書
4章 1節にキリストの働き人として、神様の奥義の管理者だと考えなさい。奥義がなければならないのです。それでこそ、神様の奥義を持って仕事をするのではないでしょうか。
2. どのように生きるのでしょうか? 使徒の働き
18章 1節から4節です。聖書に皆様が必ず専門性がある部分。そして、皆様の人格がかかった部分。皆様の人格がかからないと、しないように願います。皆様の人格、人生がかかった部分をしましょう。それをやった後に
福音が出てきます。
3. そして、社会性はどのようにするのでしょうか。ローマ16章13節
14節。キリストの服を着て行きましょう。そうでなくては勝つことができません。
4. 教会生活は、どのようにするのでしょうか。使徒の働き
2章42節です。
5. 家庭は、どのようにするのでしょうか。使徒の働き16章
31節。必ず神様のメッセージがあります。それを捕まえるのです。するとなるようになっています。
・ダビデは、福音的な祈りをして、ダビデは福音的な思考であって、ダビデは福音的な生き方を送りました。すると、答えを受けます。皆様の答えの門が確かに開かれるようになっています。今日、皆様に祈りの答えが回復する祝福があることを主の御名でお祈りします。すると、教会は皆様が来るなと言っても、来るようになっています。伝道になるなと願っても、なるようになっています。答えがどんどん来るので、そのようになるしかありません。考えてみましょう。
・以前にも話したことです。どんなに服をきれいに着て、格好良くしていても、お金がなければ人が見て分かります。どこを見れば分かるのでしょうか。目を見れば分かります。何かが違うのです。どんなにきれいにしていてもそうです。どんなに、いろいろなことをしていても、お金がない人は分かります。しかし、人が服を良くないのを着ていてもお金があれば、何かが違います。そうではないでしょうか。どんなに教会にきて、いろいろな働きをしても、祈りの答えを受けて、神様の前に祈る人は違うということです。どこか説明するのが大変です。何かが違います。このようになってこそ、働きがなっていくのです。すると、教会の復興、献金しなさいと言う必要があるでしょうか。ずっと答えを受ければ、献金をしないでしょうか。ずっと答えを受けられないのに、どのようにすることができるでしょうか。心だけです。皆様が教会にきて、ずっと恵みを受けて答を得るのに、献金ができないでしょうか。なるしかありません。
・こういう事がずっとなれば、主のしもべや長老達を見れば、みな尊く見えます。この方達が、皆、祝福の門です。これがだめになるので、長老がどうだ、といろいろ話すのです。主のしもべがどうだという話が簡単に出てきます。それは答えがだめになっているからです。私が教会祝福をずっと受けていれば、この方達を見ても貴重に思えます。長老達が、講壇で祈れば恵みになります。すでに聖歌隊が賛美すれば、恵みになるということです。
・すでに祈りの答えがなければ、そのような角度が変わってしまいます。ダビデが本物の祈りをする人であったため、福音がある祈りをする人で、ダビデは思考が福音的であったし、すでに生き方が福音のための生き方でした。新約時代の人でなかったのに、そうでした。それで相当な祝福を受けたのです。すると、まちがいなく答えがくるようになっています。すこし前に話したように‘では、私はなぜだめなのでしょうか?’
聖書箇所5つを記憶しましょうということです。今でも記憶すればよいのです。すると、答えがくるようになっています。あなたがたに、祈りの答えが新しく始まる貴重な祝福があることを主イエスの名前でお祈りします。インターネットでみことばを受ける、あらゆる主の外国の弟子に神様の祝福があることをイエスの名前でお祈りします。
<<契約の祈り>>
ダビデの祈りをお聞きになった神様。私たちの祈りを聞き入れてくださったことを感謝申し上げます。人は私たちを知らなくて、友人も家族も私たちを理解できないけれど、神様の前に真実な祈りをする時、私たちを知っておられるので、祈りに答えてくださる神様の前に感謝申し上げます。福音的な、また、福音ゆえに生きている主の民が、この場に集まりました。衛星で礼拝するすべての教会に、またインターネットでみことばを聞いている弟子達に、神様は新しい答えを下さいますと信じます。ダビデにともにおられ、ダビデに罠をかけようとした人が、かえって罠にかかったように、主の民が行く所に、まず暗闇が縛られるようにしてくださり、真の答えを受ける祝福が始まるようにしてください。祈りの答えを受けるだけでなく、祝福を味わう生活が始まるようにしてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。
- アーメン -
|