2002年12月15日 インマヌエル聖日礼拝


1部 / 真の英雄
(マルコ10:35〜45)
 
・ KBSの番組の中に「朝の庭」というのがありますが、その司会者のイ・サンビョク氏に会いました。その方が言うのには、ある人が、自分に国会議員になれと言ったということです。それで、ならないと断ったそうです。なぜ国会議員になるのでしょう? 今、朝庭でその人ゆえに放送を見て楽しむ人が、500万人くらいいるそうです。それなのに、なぜ国会議員をするのでしょう? 500万人が見るということは 10%になります。それで、10%くらいになりますねと言ったところ、そうだと言いました。
・ TV番組が多い中で、10%、13%、15%を越せば相当なことです。いまは減ったので出てこないのですが、一時、僧侶のような人が出てきて講演するのが 15%に上がりました。しかし、この頃、視聴率 50%になるのがあります。すると、国民の半分が見るということです。大騷ぎになりました。視聴率 50%ならば、たいしたことです。50%以上になる見込みもあると、新聞やTVで話しています。それがまさに今、出てきている「野人時代」です。この頃、それゆえに帽子がたくさん売れるらしいのです。服もそのような服がたくさん売れるらしいのです。なぜ、そのようにたくさん見るのか? と考えて、いろいろな理論が出てくるのですが、日本をたたき壊すので、気分がせいせいするから見るのではないか? とか、ある人は苦しいので、痛快に戦って勝つから、瞬間ごとに気がせいせいするから見るという人々もいます。またある人は政治家の中に真にはっきりする人がないのに、こういう人が出てきて、代理で満足をさせてくれるので、それでたくさん見るらしいのです。とにかく、色々な理由でたくさん見るようです。見てみたら、度が過ぎるように、一人の人を英雄にして人々を見るようにさせるのです。
・誰でも英雄心がみなあります。人々は、誰でも英雄になることはできませんが、なってみたいという考えも時々するようになるのです。人は、英雄になることはできないのですが、誰でも英雄心は持っています。そのように見ればよいでしょう。特に男の人は、激しいのです。歴代の英雄を見れば、使命よりは英雄心、それがもっと多いような感じがします。ジュリアス・シーザーという人は、戦争から帰ってきて元老会議する所に行くのに、その日の夜に寝たら夫人が夢を見て、夫が全身から血を流す夢を見たから、あまり夢が良くなくて、夫に行くなと言いました。その次に変に予言する予言者がシーザーを見て、今日、あなたはそこに行けば死ぬので行かないで、こういう話をしたのに、このシーザーという人は、英雄心があって、それゆえに私が行かないわけにはいかないと言って、元老会議をする所に行って出てきたら、人々にやられてしまいました。ある歴史の記録を見れば、33ケ所、刀に刺されて死ぬようになりました。そのような英雄もいます。
・私が事業をする、ある方達を見れば、夫人がものすごく苦労していて、家にはお金も持って帰らないのに、事業をどんどん広げる人があります。これは、事業に対する使命よりは英雄心です。英雄心で事業をしようとするのです。こういう方達もたくさんいます。また、ある方達の中で、政治家は政治をするだけの実力がないに、しばしば政治をしようとします。国家に対する特別な使命もないようなのに、しきりに政治をしようと、あり金をみな使います。私が知っている信徒一人は、国会に出馬をするのに、この方はそれでも長老であるゆえに、私が関心を持って見たのに、まちがいなく、落ちるしかない党に入って行きました。‘長老、まちがいなく落ちるのに、なぜ入っていくのですか?’そんなことはない、できると言いました。それで、いってすぐに落ちたのです。お金を私達が知っているだけでも、5億を使ったのに、すこし使ったと話します。この人は、教会には百万円すら献金しません。落ちることが明らかなのに、お金を使うのです。この人がなぜ、このようなのか? と思って見たら、英雄心がぎっしり詰まっていました。政治をせねばならない、それしか目に見えないのです。
・あなたがたは、よく理解ができないでしょうが、青少年がさまよう時が、英雄心が最も多い時です。良くならないまま、英雄心が多い時は、英雄心で犯罪行動を起こすこともあります。おとなは、よく理解ができないけれど、米国や韓国のような所に、やくざの組織の中に入っている子ども達がいます。その人々ががまんできなくなってけんかをするではなくて、わざわざ事故を起こします。それが一つの英雄心です。ひどい場合は、やくざの世界が集まれば、暴力や犯罪をして、刑務所に行ってきた前科が多くなければならないのです。それが多いほど、認められるのです。こういう英雄心が生じます。どれだけ人を残忍に殺すか? ここにしたがって、階級が上がるのです。米国のような所で、青少年が出てきて、「おい、お前。人を一度殺してこい」 それで、銃をめちゃくちゃ撃つという子ども達もいます。英雄心による犯罪、こういうものもあるのです。ある人は、団体の中で突出行動をします。英雄心によって突出行為をして、突出した発言もすることもあります。私たちの教会には判事も検事もいますが、霊的問題で事故を起こす人もあって、雰囲気によってしばしば英雄心が生じてそのようにする人もいます。こういうものが、小さなことではなくて、たくさん起きるのです。
 
・今日、私達が神様のみことばを見なければならないは、信仰生活をする人々の中に、こういう人が多いのです。信仰の内容は知らずに、英雄心理で信仰生活をする人がいます。想像以上に多いのです。さらには、最も重要な牧師の中に、もっと多いという事実に、私たちは驚きます。信仰生活を内容があるようにしなければならないのに、英雄心理でする人があまりに多いのです。
・今日、私たちは真の英雄がどうなのかを捜し出さねばならないし、ここに座っているあなたがたが、祈りの答え受けたいでしょう。また、受けなければならないでしょう。ところが、ほとんどすべての人々は、こういう心理に捕えられていて、にせ物で本物をのがすのです。真の英雄でなくて、違った英雄になって失敗をする例が多いのです。私はこのみことばを見ながら、弟子たちがこうならば、他の人はどうなのか? と思いました。マルコ福音10章35節から読みましたが、ものすごくおもしろい話が出てきます。イエス様は、十字架を背負う相当な苦しみを受けようとしておられるのに、そこで言う話が、「もし主が栄光の座につかれたら、私はイエス様の右に、この人はイエス様の左に座らせてください」この話がなんの話なのかすぐ分かるでしょう。むかしの言葉で言えば、イエス様が万王の王になられたら、一人は左大臣、もう一人は右大臣、ということです。こういうことを願ったという内容です。その話を聞いて、41節に見れば十人の弟子が聞いて、ヤコブとヨハネに対して怒ったということですが、そのように話せば、とても異常だなと考えれば良いのに、腹を立てて「なんでお前が左側、右側に座ろうと言うのか? 私たちは何か?」と言ったのです。イエス様がとてもあぜんとして、43節から「あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」まったく違うことを話されました。誰の話が正しいのでしょうか? イエス様の話が正しいのですが、今、弟子とイエス様とが、とうてい通じない対話でした。これが問題です。
・私たちは、神様のみことばとまったく合わないのです。「このみことばは、間違いない」とすべきなのに、教会で説教を聞いて座っているけれど、皆様がいる現実とは全く一致しません。これが問題です。信仰生活をこのようにする場合が、本当に多いのです。今日、私たちはこういう部分に対して少しだけ悟れば、答えを受けます。難しくありません。皆様が私を見る時に、推測すれば、「先生はIQが低い」というようには感じないでしょう。私もそのような考えをしたことはありません。皆様が考えて、「先生は、学校に通った時に、勉強をあまりできなかったようだ」というような考えは、それほど持たないでしょう。私もそのようなことはありません。「先生は、仕事をしても、よくできない」というような考えはよくあるかもしれません。仕事をすれば、本当に良くできたのに、教役者になって3年間、最善を尽くしたのに、できなかったのです。祈りの答えもなくて、できませんでした。神学校に行って、伝道師を始めるやいなや、とにかく、ある頭、ない頭、みな使ってもできませんでした。過去に、頭がそんなに悪くなかったのに、頭を総動員して実力ある才知を全部投資したのに、できませんでした。私は世の中で、そのように習ったのです。何でも最善を尽くせば良いと習いました。そして、何でも熱心にすべてに最善を尽くせば良いのではないか? 私はそのように思っていました。しかし、できませんでした。実が出てこなかったのです。ものすごく疲れました。他の人の実が出てこないことはかまわないのです。私が疲れたのでした。私が不思議に、聖日を守るのが疲れて、信仰生活することが疲れて、神学校に通うことが疲れて、一週間に一度、教会の奉仕をする、それをちょっとするのに、ものすごく疲れていました。ところが、 あまりにも簡単なことに、答を得たのです。私が、山祈りに行って祈る以前に、神様の前に、自分の良心に、「神様。私は聖日学校を預かる伝道師で、高等部を引き受けた伝道師なのに、なぜできませんか?」こういう考えをするようになったのです。簡単な返事でした。私の心は、私が良く分かります。私は聖日学校を預かるやいなや、遠くの未来を考えて、聖日学校を成功させねばならないと考えたのでした。中高部を預かった時、多くの視線が私にあるので、特に堂会が私をみつめており、多くの指導者が私をみつめていたので、私が今、中・高等部を復興させるべきだというものでぎっしり詰まっていたのでした。全く同じ英雄心理でした。神様は、驚くべきことに、だまされる方ではないので、絶対に聖霊のみわざは起こりませんでした。私の説教を聞いて変化する学生は、一名もいませんでした。時々、後から聞こえるうわさで、説教を良くするという話は聞きました。しかし、私の説教を聞いて変化した人は、ただの一名もなかったのです。本当に神様のみことばは正確です。
・ある日、伝道師をして3年ぶりに悟ったのです。私が本当に福音を知っていて、福音を伝えているのか? これを知るようになりました。簡単な小さなことを悟ったのに、答えがずっと来ました。一つの例で、今日、あなたがたがよく理解すべきです。私は、幼い時から教会に通いました。教会の中で、戦う場面をたくさん見ました。戦わないで、戦いなさい、それが問題ではありません。その人々の中に深く入っている誤った英雄心。それが、戦うしかないようにさせるです。無理に耐えているのであって、戦うしかないことを内に持っています。 私は、幼い時からそれを見ました。どれくらい戦っているか分かりません。私がはじめの教会でもそうでした。こういう時、サタンの働き、それは二番目で、私達が神様に受けなければならない当然の答えを受けることができないのです。そうすると、特に私たちの青少年、皆様の子どもがみな滅びます。私はそれを痛感して生きてきた者です。ほとんどすべてが誤った英雄心です。真の英雄心を持っているべきなのに、誤った英雄心なのです。ほとんどすべてがそうです。祝福をいくらでも受けることができるのに、私がこういう恨みの話をみなする必要もなくて、時間もありません。総合的にどの教会に行っても、その問題にみな引っ掛かっています。関わっていない教会がありません。本当に驚くべきことです。ほとんどすべてが、牧師、宣教師、長老全部、みな重要なことをする人は、全部ここに関わっています。誤った英雄心に全部みな関わっているのです。残念です。皆様は、そのように考えないでしょうか? 今、どのような時間でしょうか? 私は、イエス様の右に、左に、イエス様があぜんとされました。よりあぜんとされたことには、十人の弟子が腹を立てています。君が何で、そこに座るのか? だから、笑わせるのです。あぜんとしたことですから、サタンがどれくらい楽しかったでしょうか? こういうことが絶えず教会の中にあります。ほとんど、みな本当に異常です。
 
・団体的に10年, 20年伝道運動をしてきました。してみたら、タラッパンに人々がたくさん集まりました。席に座った人は、高慢になって、他の人の力をみな抜きます。感謝なことと、高慢になることは、違います。いまはよりよいのです。初期の頃の東三第一教会に行くと、今のインマヌエル教会ですが、冷たい風が吹いたということです。恐れたということです。特殊な私たちの訓練がしたければして、したくなければしないでというような方式でした。だから、どれくらいこういうものが内にあるのでしょうか? これは、何でもないことのように見えるけれど、祈りの答えを受けるか、受けることができないかの分かれ目です。これは、何でもないことのように見えるけれど、サタンにだまされるか? だまされないかの分かれ目です。これは、何でもないことのように見えるけれど、大きい人物になるか? 小さな人物になるか?の分かれ目です。ほとんどすべてが未信者と全く同じなのです。だから、未信者と全く同じだから、毎日、困難に会います。今日、貴重な時間に参加したというのに、試みに会わないで、こういう人にならないように願います。皆様が英雄になろうとするなら、本物の英雄にならなければなりません。答えを受けようとするなら、本物の答えを受けねばならないのです。そうではないでしょうか? 世に英雄が多いのに、違うということでしょうか? そうではありません。成功した英雄には、まちがいなく霊的な問題がきます。失敗した英雄には、まちがいなく社会問題がきます。英雄心とサタンとは、直接的に関係があります。世の中の人々は知りません。政治家たちは、よく知らないのです。正しい使命を持たず、政治の野心を持てば、まちがいなくサタンからやられます。よく知らないのです。それで、政治をする人も神様のみことばを聞くべきなのです。そうでないので、滅びるのです。使命と英雄心とは違います。これを持てば、まちがいなくサタンに捕えられます。聖書にある証拠二つを出すと、サタンが目に見えないようにきて、アダムとエバに言ったが、「あなたがこの善悪を知る木の実を取って食べれば、神様のようになる。」すごいことです。英雄心で掌握したのです。「あなたの目が開いて、神様のようになるかと思って、神様が食べるなと言ったのではないか?」だから、すぐに取って食べました。最後に見れば、イエス様が公生涯を開始なさろうとする時、誰が現れたかというと、あなたがたがよく知ることができない悪魔が現れました。イエス様に何と言ったかというと、パンを作って食べろと言って、それだけなら良かったのですが、あの神殿のてっぺんから飛びおりれば、神様が天使を送って支えるだろう? そして、私を拝めと言いました。「神様を礼拝せず、私にお辞儀をするならば、これらすべてのものを与える。この多くのお金と、この多くのことをあなたに与える。多くの財産を与える。この土地をあなたに与える。私にお辞儀をしなさい。」と言ったのです。これが何でしょうか? 英雄心です。ものすごく重要です。
 
・今日の本文は、そのまま過ぎることではありません。ほとんどすべてが、祈りの答えを受けない理由がここにあります。そして、本当に神様の祝福を受ける理由もここにあります。多くの政治家もここで習うべきです。もし大統領になれば、それまで手助けした側近全部を排除させるべきです。そして、本物の実力家を捜し出すべきなのです。ところが、それができません。全部、英雄心理に浮かれていて、ひと勝負して食べようとして、それを成就させようとするのです。だから滅びるのです。大統領になるやいなや、5年のうちに滅びます。聖書を知っていれば良いのに、これは簡単な話です。しかし、とても重要な話です。今日、信仰生活に本当に重要な祝福があることを希望します。事業をしても使命がなければ、お金を儲けねばならないという英雄心理では、儲けることができません。政治をしても、国家のために使命を持ってせねばならないのに、自分がなにか英雄心理でしてみるのです。それで、失敗するのです。それはサタンと関係あることを聖書だけが明らかにしています。どれほど重要でしょうか。皆様は、祈りの答えを受けたくないでしょうか? そして、真の祝福を受けたくないでしょうか? それが真の英雄です。
・真の英雄になろうとするなら、いくつか持っていなければなりません。ヨハネ福音8章に「真理を知れば、真理があなたがたを自由にします。」これは何の話でしょうか? 皆様はまちがいなく、これからここで3つのことでやられるようになっています。皆様が罪でやられる問題、サタンゆえにやられる問題と、皆様にあった霊的問題にやられるようになっています。これが人間です。それで占いをさがそうとたくさん行くのです。そこで、解放された自由人になりましょう。ローマ8章2節に、罪と死の原理からあなたを解放したとなっています。2節にいのちの御霊の原理、すなわち、真理の原理があなたを罪と死の原理から解放したと、これからできなければなりません。真の自由人です。その時から、真の力を持つようになるのです。ピリピ4章3節にパウロが何と言ったでしょうか? キリストを知って、私は全てのものをちりあくただと思うと言いました。この話は、本当に真の祝福を受けるようになったということです。私が得たことではありません。上から召された報いに向かって走ると言いました。皆様、聖徒が受けた祝福を知っているでしょうか? 聖徒が受けた祝福は、一万以上越えるけれど、私たちタラッパンで七つに要約しました。聖徒が受けた祝福。皆様は救われた瞬間、神様の聖霊が皆様の中にとどまるようになるのです。絶対に滅びることができません。ところが、見て下さい。大それた英雄心を持っていれば、合わないのです。信仰生活は簡単です。皆様が救われた瞬間、皆様が知らない間に、聖霊が印を押されるだけでなく、聖霊が皆様の中にいらっしゃるのです。永遠に滅びることができません。これが救われたということです。すごいことです。救われたという話は、イエスを受け入れる瞬間、神様の聖霊が皆様の中にとどまるということです。Iコリント3:16節、その人が虚しい英雄心を持っているので、いつも合わないのです。
 
・2番目の祝福が何でしょうか? 皆様は、完壁な祝福を受けることができるのに、聖霊の導きを受ければよいのです。これが信仰生活の2番目の祝福です。聖霊が私の中にいらっしゃるのです。ところが、私たちは虚しい英雄心を持っています。虚しい英雄心が胸に燃えているので、できないのです。だから、地域教会戦略を開くことができないでいるのです。地域教会戦略を開けば、地域教会に派遣されれば、虚しい英雄心を持っています。だから残念なのです。
・三番目の祝福は、何でしょうか? 聖霊充満を受ければ、世の中に勝つことができます。祈りの祝福です。どれくらいすごいことでしょうか? これが、聖徒が受けた祝福です。基本の祝福 3つで、その次についてくる4つがあります。神様の民になれば、実際に知らないのですが、行く所ごとに神様が誰も知らないし、目に見えないように、最も科学的に主の天使を送られるのです。すごいことです。皆様が行く所ごとに、また一つの霊的な働きが行われるので、いよいよ悪霊は追い出されて、暗闇の勢力は崩れ、縛られ始めるのです。皆様は、ものすごいと考えないのでしょうか? 一回もそのような考えをしてみたことはないのでしょうか? ものすごく科学的です。どれくらい大きい祝福でしょうか? この秘密を味わう人が、真の英雄です。皆様が行く所ごとに、神様の国がなされるのです。そして、天国に行くようになります。そして、行く所ごとに神様の弟子を探し、多くの人を変化させる力がそこから生じるのです。七つの祝福です。
・タラッパンで、私が聖書を見て、信者が受けた祝福は一万個を越えるのですが、七つに要約したのです。身分と権威で要約しました。どれくらいすごいことでしょうか? この祝福を持っていれば、本物の答えがきます。これが真の英雄です。すると、余裕が生まれます。どんな余裕が生まれるのか? というと、43節に、「あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」これは、単にしもべになるということではありません。余裕です。これは、絶対に高慢ではありません。そこに、キム・イルコン牧師がいらっしゃいます。未信者だとします。私があの人に、どんなに仕えても良いのです。なぜでしょうか? 勝つ自信があるからです。そうです。余裕です。これは、簡単な話ではありません。すると、仕えるしかないでしょう。ものすごく重要なことです。本物の英雄にならなければなりません。にせ物の英雄ではなく。なぜでしょうか? 祈りの答えを受ける自信があり、そして、絶対に高慢ではありません。誰が何と言っても、確信があります。なぜでしょうか? 答えを受けることができるからです。余裕が生まれます。私が知っているある牧師が、教会とけんかになりました。牧師と教会とけんかすることをたくさん見ました。けんかの内容は何でしょうか?けんかの内容が、あぜんとする内容でした。牧師は行かない、教会は出て行きなさい。牧師は死んでも行かない。教会は死んでも出て行かねばならないという状況でした。それで、私が「あなた本当に愚かだ。あなたが行って、黄金漁場に行って、一週間働きをしても、約300人が集まるはずなのに、どうしてそれを捜し出せないで、100人にもならない信徒と押し合いしているのか。」と言いました。なぜでしょうか? その人は余裕がないのでしょうか? それを知らないので、余裕がないのです。知っていれば余裕があります。何も問題になる必要がありません。だから、仕える者になるしかないのです。それが問題ではありません。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」皆様、事業の答えを本当に受けたくないでしょうか? 七つの祝福を回復しましょう。まちがいなく、皆様の事業にこれが適用される時、みわざが起き始めます。皆様の事業に聖霊が働かれるということです。すばらしいでしょう。七つの働きが行われます。すると、暗闇の勢力は崩れるようになっていて、神様は主の使いを送ってくださるようになっています。私が見る時には、信仰生活に直すことはこれひとつしかありません。信仰生活することは、これだけ悟ればよいのです。弟子が決定的な瞬間に失敗しています。その話はなんの話でしょうか? 話が誤って失敗したのではありません。より重要なことは、弟子が普段の時に持っている考えです。これがより重要です。今日、絶対に失敗したのではありません。ペテロがイエス様を知らないと言いました。失敗したのです。なぜ知らないと言ったのでしょうか? 知っているのに、怖がって失敗したのです。しかし、ヤコブとヨハネがこの話をした時、残りの弟子十人が腹を立てました。この人達が持っている考えは、普段の考えです。そうではないでしょうか? イエス様が五つのパンと二匹の魚で5千人を食べさせられて残りました。その時、どんな気がしたのかというと、神様なのだというように感じられるべきなのに、「この人に付いて回れば、仕事をしないでも食べることができる。この弁当一つで5千人を食べさせて余るならば、私達が仕事をする必要があるのか? この人は王の中の王だ」というように思ったのです。それで、「あなたが後ほど栄光の席に行く時、私を右の座、この人を左の座に座らせてください。」本当に問題です。虚しい英雄心です。未信者も誤って悟っています。皆様が本物の祝福を知っていれば、余裕が生まれます。皆様が本物を持っていれば、余裕が生まれるのです。信者が受けた祝福は、相当なものです。本当に英雄の中の英雄が、祝福を本当に回復しましょう。私たちの教会に数多くの人々が集まります。これから、もっとたくさん来るはずです。これから、多くの教役者が起きるはずです。もっとたくさん起きるはずです。万一、この病気を直すことができないならば、一生、苦労するはずです。途方もない祝福を受けたのに、受けられなくなります。ところが、私が見た人の中で、ほとんどみながそうなのです。残念です。
・私は、英雄心がない人、何名かに会いました。それで私が祝福を受けたのです。今でも、その人々を忘れないでいます。私が信仰生活をする中で、本物の英雄は、その他には見たことがありません。真の英雄三人に会いましたが、この三名には共通的な特徴があります。絶対に他人の話は信じません。そして、他人の話を聞いても、記憶に残りません。それなのに、主の仕事は正確にします。一度は、釜山で一番けんかをよくする教会に、私が副教役者で行ったのですが、そこで会った執事、この方がどれくらい福音があって力がある人なのか、大学に通っていた時、キム・ジュンコン博士の前で宣教師で行くことに献身したのです。そして、本物の福音を受けたのでした。むかしには銀行も難しかったのです。ところが、この方がずっと昇進しました。教会にくれば、どうして知ったのか、宣教師で行って少しの間、私たち教会に入ったのですが、昨日登録した信者をどのように知ったのか、ちょっと訪ねてメッセージするのでした。どれくらい祈って祈りの答えを受けているか、支店長の下の階級まで昇進したのです。昇進した日、その次の週に辞表を出しました。自分が神様の前に誓ったことを、いつ守るのが良いか? 最も成功して良い時、その方は、行く所ごとに実を結びました。私は、その人から多くの影響を受けました。私は、その人と似ることはできなかったのですが、真の英雄です。私がある伝道師を見ました。事業を上手にします。事業する所ごとにみわざが起きました。私が前に何度か話したではないでしょうか。その人に会えば、何時間でも恵みを受けます。「本当に、この人がイエスを信じる人だな。」事業はもちろんよくなって、嘘をついても本物は分かります。この人は、本当にイエスを信じる人でした。一回は、私に対して、「先生。私は、三日間、祈祷会に行ってきました。」と言うので、「問題があるのですか?」と聞いたら、「ありません。私があまりに祈りの課題が多くて、あまりに欲がたくさん生じて、動機が多くて、神様の前に恥ずかしくて断食をしました。断食して、私がおかゆを食べるのに涙があふれ出て、難しかったです。」何と祈ったのですか?と聞いたら「神様の私を自由にして下さい。この頃、私がなぜこのように苛酷に動機が多いのでしょうか? 神様が全能で、私の責任を負われるのに、なぜこうなのですか?」と自分にあまりに肉が強くて断食をしたということです。一名は早く死んで、2名は今、生きています。それで、「この人々は、イエスを信じる人々だな。」と思います。私達が、神様が祝福されるなかで、私はその人ゆえにメッセージを悟ったのではなく、その人を見ながら知ったのです。それとともに、私が福音を持って伝道しにでかけ始めました。伝道しながら、私が相当に多くのことを悟りました。それで、「本当にそうだな」と見ていれば分かります。皆様が本当に私たちの教会と皆様と私と多くの神様の人々が、これから見ていれば分かるようになります。誰が知っているのでしょうか。神様は確かにご存知です。私たちは、今、虚しい英雄心を持っているのです。結局は、それゆえに損をします。
・私たちは、本物の英雄にならなければなりません。真の英雄です。私は神様の子どもです。それは、ものすごいことです。皆様がどんな祝福を受けたのか知っているでしょうか? 神様の聖霊は、皆様に3つの作業をなさっていらっしゃいます。皆様の中に内住しておられ、導いていて、皆様に力を与えられます。それが基本です。するとついてくる結果が、4つあります。皆様が行く所ごとに暗闇の勢力が崩れます。皆様が行く所ごとに誰も知らない最も科学的な主の使いを送ってくださって、神様は働きを成し遂げられます。皆様が行く所ごとに天国、行く前に神様の国がなされるのです。皆様が行く所ごとに弟子が立つようになります。これを知っているのが真の英雄です。
・すると、今日、最後に悟らねばならないことは何でしょうか?英雄の中の英雄は誰でしょうか?イエス・キリストです。創世記 3章 15節に、創世記 3章の事件を解決されました。英雄の中の英雄です。誰がこの問題を解決したのでしょうか? ここに知識人がいますか? ここに博士がいますか? 本当に尋ねます。創世記 3章の事件を誰が解決したのでしょうか? 英雄の中の英雄、イエス・キリストです。十分に信じる価値があって、いのちをかけて信じる価値があります。そうではないでしょうか? 知識人とは何でしょうか? 正しく知っているのが知識人です。科学は何でしょうか? 正しく事実通り知るのが科学です。そうではないでしょうか? 哲学は何でしょうか? 正しい論理通り知るのが哲学です。霊的問題が至急なこの地に、霊的問題を解決した方はイエス・キリストです。英雄の中の英雄です。その話です。英雄ではないが、英雄に正そうとするなら、英雄の中の英雄です。どれくらい驚くべきことでしょうか? この途方もない祝福を受けて、弟子が言う話が、今、私達が、君が高いが、私が高いがこれです。話にもならない話です。十二名の中で、イエス様が栄光の中で来られたら、左の座、右の座は私達がせねばならないと、あらかじめ話したのです。それで、十人は腹を立てて、これが何だと憤怒したとなっています。憤怒することもありません。笑わなければならないのです。こういう状況だということです。イスラエル民族は完全に滅びました。その時、イザヤ7章 14節に、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」 この祝福が皆様の事業に現れる時、事業を良くして食べるためではありません。この祝福が、皆様の家庭に現れる時、御利益信仰ではないのです。この祝福が皆様の職場に現れる時、職場で何か横領するという話ではありません。神様の真のインマヌエルの祝福が臨むようになるのです。そして、主は生ける神の御子キリストです。マルコ 10章 45節に、あがないの代価としていらっしゃって、キリストであるという証拠で、マタイの福音書 28節に復活なさいました。ものすごいことではないでしょうか? 私が以前は、実際に、伝道ができませんでした。率直に告白します。これを知ってからは、じっとしているのに、門が開きました。行かざるを得なくなったのです。私は、元々訪ね歩く体質ではありません。行かざるを得なくなったのです。率直に告白します。私はこれを知ってから、祝福の門が開いたのですが、私はそのようなことをさがすことができる頭はありません。率直に話します。皆様が知らずに私は勤勉だと言うのですが、そうではありません。私はむかしにものすごく遅く寝て、遅く起きて、朝起きる時、なぜ遅く寝たのか? 遊び回って遅く寝て、なぜ遅く起きたか? 遅く寝たから遅く起きて。元々それが私の姿でした。私がこういう祝福を知った後には、自分でも知らずに私が変わったのです。昼夜がなかったのです。明け方、昼夜がありませんでした。そのように走っても、大丈夫でした。神様がそのようにさせられたのです。どれくらい驚くべき祝福でしょうか。どのように考えるのでしょうか? 私は苦しいことが一個しかありません。これを知らない人を見たら、残念なのです。「なんで、これを知らないのか?」と言いたかったのです。なぜ、本物を知らずに、にせ物にそのようにいのちを捧げる宣教師、にせ物を捕まえて、いのちを掛ける牧師、にせ物を捕まえてあらゆることを奪われた長老。本当に良くなりません。本物の真の英雄にならなければなりません。
・こういう信徒が、私たちの教会で起きる時、その時から神様はくださることもできるので、物質を祝福を注いでくださいます。その時から、神様が門をあけられるのです。一般の他の宗教と教団が、社会維持のために与えるられるのではなく、本物の福音のために、祝福の門を開けてくださいます。それも考えてみましょう。医者が免許証を取ったその時から手術をしなさいと、無条件に送り出すのでしょうか? 私達が、その時から、神様にはいくら与えても滅びない人であるゆえに、どんどん注いでくださいます。今日、本当に神様のみことばが悟れるように願います。平安で、やんわりと理解するように願います。事実通りに悟ってくださることを望みます。時間がないので、急ぐのでこのようにするのですが、私は、元々軟らかい者です。説教は30〜40分しかしないために、私が強く表現するのですが、私は、元々強い者ではありません。あなたがたが事実通り理解するように願います。ある人が、情報提供して、強い人だと思われていますが、そうではありません。いままで、人の家に何かをもらおうと行ったことがありません。電話することも、ものすごくその人に対して、うれしい知らせ、力が出る知らせでない以上、電話を掛けることができない者です。私がそのような者です。他人に被害になることはできません。そのような私が、どのように敢えて伝道して回るのでしょうか? 神様がするように門をみな開けてくださるからです。どれくらい大きい祝福を受けたのか、私は考えるだけでも気分が良くなります。問題が来てもかまいません。問題をひっくり返して、祝福の門を開けて下さいます。心配する必要もありません。何かを奪われたとしても、かまわないのです。奪われた後に、より大きい祝福を下さいます。私は伝道運動をしながら、たくさん奪われました。奪った人はみな滅びて、私は滅びませんでした。私から奪って行った人は多くいます。みな滅びました。それも完全にみな滅びました。私は滅びません。驚くべきことです。何ゆえに恐れるのでしょうか? 恐れる理由がありません。本物の英雄は、何でしょうか?真の力を持った人です。英雄の中の英雄は誰でしょうか?イエス・キリストです。この祝福が本当に皆様にあることを主の名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。一時代を生かすことができるように、神様の人を呼ばれたことを感謝申し上げます。違った英雄心で世の中が揺れています。誤った英雄心で多くの事故が起きています。私たちは、真の英雄になるように、真の力を与えて下さい。今日、礼拝に参加したすべての聖徒と、みことばを聞く主の民に神様が天から真の力を与えて下さって、行く所ごとに変化が起きるようにさせてくださり、職場を変化させる神様の人々になるようにさせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。
 
 


2部 / 自然に現れた神様の啓示
(詩19:1〜14)
 
・ある人が、がっかりして市内に行って本をひとつ買ったのですが “絶望はない”という本を買いました。それでその“絶望はない”という本を一冊買って読んだら、どれくらい力が出きたか、これで‘私がいままで希望もいだかないで生きていたのか? 私がなぜ気落ちし生きているのか?’こう考えて、大きい計画を立てたのですが、その大きい計画を立てて進行して行っている途中で、滅びてしまったのです。ですから、絶望はないのではなくて、絶望はあります。それで、この人があまりに耐えることができなくて、自殺をしました。そのような場合があります。“絶望はない”という本を読んで事業をして、滅びた人が本当に多くあります。参考にするように願います。なぜそうでしょうか? 聖書には、希望を抱きなさいと話して、立派な人々が希望を抱き、青少年よ、野望を持てと言ったのですが、なぜそうなのでしょうか? では、持たなければならないのか? 持ってはならないのか? ここに青年達がたくさんいるのですが、皆様が希望を持てば良いのでしょうか? もちろん、その瞬間だけは、絶望するよりは希望を持つことがはるかに良いでしょう。しかし、それがだめになる場合には、より大きい問題がきます。
・私たちは、詩篇を見て、聖書を見ながら、信仰生活を正しく習わなければなりません。皆様が事業を開始して、うまくいけばどれくらいうれしいでしょうか? ところが、良くならなければ、人が気落ちするようになります。なぜそのようになるのでしょうか? また私達が今、困難にあったのにどのようにすれば良いのか? こういうことを私が見る時には、世の中には教える本がありません。聖書にだけあるのです。やはり、聖書が神様のみことばです。他の所には本がありません。全部知れば、市中に出てきている本が正しい話のようですが、全部、暗闇に連れて行く本です。すると、どのようにすれば良いのでしょうか? この貴重な時間に多くの話をすることはできません。
・最初です。サウル王とダビデを見ればよいのです。皆様が、こういう計画を立てておいて努力をすれば、成就にすることができます。成就して、霊的問題がくるのです。どのようにするのでしょうか? また、こういう計画を立てておいて、やたら押し進めればよいでしょう。うれしいでしょう。そして、押し進めたのに、できなくなります。それで、がっかりするのです。それがサウル王です。何の話なのか分かるでしょうか? それは、計画しないということではありません。自分自身が計画をみな立てて置いて、正しいか正しくないかではなくて、努力をするのです。いのちをかけて最善を尽くすのです。最善を尽くすだけ損です。サウル王は、滅びてしまったのです。完全にサウル王のように徹底して滅びてしまった人はいません。なぜそうなのでしょうか? これを知っていなければなりません。
・すると、サウル王とダビデ王のどこが違うのかを知っていなければなりません。それで、あなたがたが今から信仰生活をして行く時は、小さなことでも、大きいことでも、あなたがたが失敗をしても、よくしても、問題が来ても、成功しても、いつでも信仰の目を正しく持っていなければなりません。それが重要です。そうでなくては“少年よ野望をいだきなさい!”これが怖い話になってしまいます。ですから、ヒットラーは野望をいだかなかったでしょうか? 後ほど自殺しました。すると、スターリンは野望をいだかなかったのでしょうおか? より問題ではないでしょうか? 野望がない人がどこにいるのでしょうか? 日本の徳川のような人は、野望をいだかなかったのでしょうか? みな抱いて生きていきます。ところが、これが問題がくるのです。これが聖書はとても正答を与えているのですが、サウル王とダビデ王をみれば分かります。どこが違うのでしょうか? 順序が変わったので、問題がくるのです。サウル王は自分の計画を立てておいて、これは肉体でも、霊であることもあり、正しいことも、正しくないこともあります。自分の計画を立てて、神様にしてくれと言ったのでした。これがサウル王です。
・そして、ダビデは反対にしました。「私の命を治める方は、神様です。」順序がすでに違います。「神様は、私の王で、私の要塞です。」詩篇を見ましょう。「私の力である主よ。私は主を愛します。」これがすでに順序が違っているのです。神様が生きておられることをまず認めました。それは違うことではありません。私の命を治める方は、神様であることは間違いありません。今、私の説教を聞いているのに、神様を信じない人も、その人の命をだれが支配しておられるのでしょうか? 神様が治めておられます。間違いありません。神様の悪口を言って死んだ人もいますが、神様の悪口を言う人の命も神様が治めておられるのです。止むを得ません。違うことではないのです。それならば、私たちの全てを神様が治めておられることが確実ならば、その中に私が神様の子どもになったのです。そして感謝です。
・この時、神様の計画が何でしょうか? このように三番目の質問が出てくるのです。神様は、要塞であり、神様は創造主で、神様は生きておられます。それが明らかならば、私は神様の子どもです。では2つのことが出てくれば、まちがいなくついてくることが何でしょうか? 神様の計画が何か? これになるのです。
・そこで4番目についてくることが何かと言うと、神様の計画の中で最も良いことを選択することです。すると、していればどのようになるのでしょうか? 困難もきます。していれば、揺れてがっかりする時もあります。自分の霊的問題で揺れる時もあります。周囲の環境によって崩れる時もあります。しかし、それに勝つことができるために捕まえることが祈りです。
・次元が違います。サウル王の祈りと、ダビデの祈りは次元が違うのです。サウル王は祈りを逆にしました。大部分の人々が、祈りを逆にします。水を注ぎながら、私たちの息子をうまくいくようにしてくださいとやたら祈るのです。神様の計画も知らないながらです。そのような信仰人でも、教会にきて無条件に答えをください祈る人も同じです。事業をみな広げておいて、祈梼院に行きます。そのような信仰人が、サウル王の信仰です。ダビデは、そのような信仰ではありませんでした。いつも、神様が生きておられることと、神様が共におられる証拠の中で、神様の計画を探したのです。その中で、いつもダビデは2番目は何でしょうか? 私が神様の子どもである事実の告白をいつもしたのです。救われた祝福をいつも告白したのです。それとともに、神様の計画を探して、神様の最高の計画の希望を抱いたのです。それで、それを置いてずっと祈ったのでした。これが違います。
・皆様、私が言う話が普通のことで聞こえるでしょうか? すると大変です。大部分が、信仰生活をそのようにしています。神様のものすごい計画を探して、私が祈りながら、ふさがれば押し通せばよいのです。なぜでしょうか?神様の計画であるからです。ところが、それも知らずに、私が違った計画を立てて、神様にしてくれと言うから、問題がくるのです。これが、こんにちの誤った信仰です。これが、サウル王の信仰です。
 
・今、サウル王がするのを見ましょう。私が王になって全国を統治して、私がお金をたくさん集めて、私が力を得ようとすることがサウル王です。そして、私の息子が王となって、私の孫が王になって、代々王になろうということがサウル王です。それを置いて祈ったのです。それが、サウル王の祈りの課題です。ダビデは反対でした。神様が私を王に立ててくださったけれど、神様の計画は何ですか? なぜ、多くの人々の中で私を救われたことも感謝なのに、私を王に立てられたのでしょうか? この時、ダビデの頭に持ち上がったことが何でしょうか? イスラエル民族が、永遠に忘れない神殿を建てるべきだということでした。それで、ダビデは大きい祝福を受けました。すでに人が違っているでしょう。皆様、信仰生活を良くするように願います。難しくありません。順序をひっくり返せばできないようになります。
・考えてみましょう。銭湯に行って、服を正しく脱がないで、手を入れて中にある服から脱いだら良いのでしょうか? 常識ではないでしょうか? まず上着を脱いで、シャツを脱いで、そのようにしなければ、すぐに手を入れて、中の下着から脱ごうとするならば、無理にむしり取れば良いでしょうが、どれくらい時間がたくさんかかるでしょう? なんでも仕事には順序があります。
・私たちの信仰生活を上手にやるには、力がないのではありません。相当なのです。ダビデが神様の計画を発見したのです。すると、皆様の信仰生活で、成功した人々を見ましょう。それが特徴です。神様の計画を発見したのです。ここにこれから自分自身の最善を尽くすのです。なぜなら、神様の計画であることが間違いないから、そして、祈って捕まえようとするのです。そのようなことであって、学生達も無条件にタラントを作ろうとせず、皆様が本当に神様が生きておられることを知って、聖霊の感動を受ければ、最高の知恵が生まれるのです。皆様が救われた神様の子どもです。すると、神様の計画が何ですか?時代を見回して、周囲を見回せば、答が出てこないでしょうか? すると、皆様がそれを置いて祈るのです。それで、答えがくるようになっています。すると、正確になります。 “絶望はない” このようにして、ないことを持って開始すれば、やればやるほど損です。違った道は、積極的に行けば、積極的に損です。そうではないでしょうか? いっそ、行かないほうがましなのに、間違った道を熱心に行くのです。すると、なるようになりません。信仰生活するその部分がものすごく重要です。
 
・例を上げます。ダビデは幼い時、父がダビデが幼いと、ダビデを連れてどこに置いたでしょう? ここにおいて、羊を飼いなさいと言いました。兄達は、外に行っていろいろ良いことをしたのです。ダビデは末っ子です。だから、羊を飼いなさい言われたのでした。ところが、ダビデがそこで何をしたのでしょうか? 賛美も歌って、祈りもして、そのようにしたのです。そのなかで ‘なぜ、私に難しい羊を飼いなさいと言うのか?’と言わないで、そこでダビデが神様の計画を発見して祈ったのでした。そのようなある日、事件が起きたのです。獅子が現れたのです。あらかじめ、凶器で獅子を捕まえようとしても、そのような時間がありませんでした。この獅子が、羊の群れに入りました。瞬間的に、本人も知らないで、ダビデは獅子と戦ったのでした。皆様、獅子に勝つことができるでしょうか? 戦ってみたら、獅子が死にました。ダビデが、サウル王の前に行った時、告白をしたではないでしょうか? “私が獅子の口を破った”と話しました。この時、ダビデは相当な信仰を確認したのです。‘あ! 神様は生きておられるのだな’ 幼い時の話です。私が神様にいつも祈って、羊を飼うことを良くするようにさせてくださいといつも祈って、父の財産をよく守るようにしてくださいと祈ったら、神様がこのように答えられたのです。小さい事件ですが、大きい体験になりました。これがダビデの幼い時期でした。
・皆様がおわかりの通り、Iサムエル 17章を見れば、父のお手伝いに行ったでしょう。行ったら、ゴリヤテという人がイスラエルを侮辱する声を聞いたのです。この時、戦うべきだと、おじけづいたのではありません。戦略を立てたのでもありません。ダビデは、神様の計画を知っていたのです。神様が今まで獅子の頭を捕まえることができる理由があるのです。今まで神様の前に祈ったので、この時、何かを知ったのでした。ダビデが確信をもって行って、ゴリヤテを破ったではないでしょうか? これが、すでに違ったのです。無謀に戦ったのではありません。このダビデが、サウル王の前に行っても契約を話して、ゴリヤテの前に行っても契約を話しました。そうではないでしょうか? 無謀な戦いではありません。私達がこの契約の中に座ったと悟れば、答えを受けるのです。そうでしょう? マタイの福音書 28章が成就する現場で、ダビデが神様の力を証しする現場です。
・ダビデが王になりました。サウル王とは全的に違います。サウル王は、王になったら、この時、お金をもうけようと、この時に集めて、チャンスがきたのだから、することをみなせねばならないという考えを持っていたのでした。ダビデは王がなったら‘なぜ、神様が私を王に立てられたのか?’I歴代29章 10節から14節を見れば、神殿の準備を完全しました。それが祈りです。皆様、それが信仰生活です。難しい時にも、サウル王に追われる時にも見れば、詩篇 23篇を見れば “主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません。”と言いました。その時、ダビデは生涯で最高の答えを受けたのです。U列王記16章を見れば、詩篇 3篇に記録されたことを見れば、ダビデが後半の人生で自分の息子に追われて逃げる時にも、その時にも神様の計画をさがしたのでした。人が違ったのです。祈りが違います。皆様ならば、そのようにすることができるでしょうか? 息子が父を殺そうと兵士を連れて来たのに、ダビデ王は寝ている途中で、裸足で逃げて出てきました。やさしいことでしょうか? ダビデが、すでに祈り、習慣、信仰、その見る目が違ったのです。これは神様がなさることだと見たのです。結局は、ダビデが勝利してしまいました。
・あなたがたが、信仰のこういう部分は、ものすごく重要です。こういう契約をつかんで、今日、2番目に出てくる信仰生活が本文です。本文には、神様を知る秘密が2つ出てきました。1節から6節までは、自然を通じてです。皆様が現場に行って‘あ! 神様が、このようになさったんだなあ’こういう部分を見ることと、もうひとつは 7節から14節には、神様のみことばを見ながらすることです。前のことがものすごく重要です。 1番が出来なければ、その次のことはむなしい事です。皆様が、無条件に作っておいてそちらに祈って、そちらにまた聖書を見てするから、問題がくるのです。神様の計画を追って、皆様が神様の重要な契約を明らかに捕まえた時、その時からは、現場がまさに答えで、神様のみことばが答えになります。それが2番目についてくることです。それが今日の本文です。
 
・今日の本文を見ると、19篇1節に見ると、このようなみことばが出てきます。“天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。”この話が普通の話でしょうか? 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。一日一日が、どれくらい重要な意味があるのかを今、悟ったのです。これが、すでにダビデの秘密です。ですから、現場に行って、神様の秘密を見るようになるのです。だから、答えがくるようになっています。
・その次には何でしょうか? 7節から14節までは、神様のみことばです。このみことばを聞くから、そのまま、みことばを表現したのではなくて、19篇10節を見ましょう。“それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。”と言いました。神様のみことばが、どれくらい甘いのか、蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘いと言いました。これは、前のことができる場合です。
・皆様、大小のすべての事を始めるのに、神様の計画を発見する祝福があることを希望します。神様の計画を発見するために祈れば、正確な答がきます。それを捕まえて祈りの課題を握れば、まちがいなく勝利するのですが、現場に答えが来て、みことばで働かれるということです。どれくらい重要でしょうか?
 
・このみことばを捕まえたら、7節にものすごく重要な言葉が出てきます。皆様がその契約を捕まえて、神様のみことばを捕まえれば、どんなことが行われるのでしょうか? “主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ”と言いました。皆様が神様のみことばを受ければ、たましいが生き返るようになります。その次に、‘主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。’なにが生じるのでしょうか? 知恵が生まれます。この時から、ずっと知恵が生まれるのです。どれくらい信仰生活がおもしろくなるでしょうか? そして、それだけではありません。“主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。”
 
・ 8節に“主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。”と言いました。4つが出てきました。皆様は、このように神様のヴィジョンを知って、神様の計画を知って、礼拝をささげて、みことばを受ける時に、たましいが生き返って、他の人が見る時は愚かな者だと思っていたのに、知恵が生まれるのです。その心に喜びが生じます。そして、目が開かれます。目が明るくなるのです。どれくらい素晴しいでしょうか? このように、信仰生活をするように、主の名前で祝福します。
 
・ 1番だけできれば良いのです。サウル王のようにだけならなければ良いのです。ダビデ王のようにならなければなりません。詩篇を見て悟らねばならないことです。神様のみことばを受ける時、すると、このダビデが信仰生活をしている途中で困難が来なかったでしょうか?来ました。それが三番目に考えをせねばならない部分です。このダビデが、信仰生活をしていて、困難が来なかったでしょうか? 来ました。その時ごとに、14節を見れば“私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。”と言いました。これは賛美があります。私の口のことばと、心の思いが主の前に受け入れられるように。今日、あなたがたが今から必ず信仰生活をする時、3つのことを記憶せねばならないのですが、サウル王のように祈らず、ダビデ王のように祈ろうということが最初で、その祈りの課題が出てくれば、その時から答えがきます。どこから答えが来るのでしょうか? 二箇所から答えがきます。それが今日の本文です。現場に行ったら答えが来て、神様のみことばで答えが来ます。どれくらい素晴しいでしょうか? 前にあることをのがせば、後のことをみなのがします。神様のみことばを聞くと、たましいが生き返って、神様のみことばを聞くと、知恵が生まれて、神様のみことばを聞くと、心がうれしくなって、目が開きます。これが信仰生活です。これが、2番目に覚えなければならないことです。必ず勝利するはずです。今日から新しく始めることを主の名前でお祈りします。
 
・三番目です。ダビデが、困難が来たら、どのようにしたでしょうか? 今日の本文に出てきました。いつも、現場で困難にあった時に、あなたがたが本当に神様の答えを受ける秘密があります。それが何でしょうか? 私たちは、信仰が瞬間瞬間、現場で崩れます。それだけ崩れなければ良いのです。私たちは瞬間に崩れて、現場で崩れるのです。信仰が崩れるということです。そして、気落ちしたりします。むかしの霊的問題に戻ることもあります。ダビデは、それに勝利しました。詩篇 100篇4節に、今日の詩篇 19篇10節に “それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。”と言いました。これがこれから三番目に記憶せねばならない内容です。皆様が瞬間瞬間に起きる時、神様のみことばを記憶して、皆様が瞬間瞬間に現場でがっかりする事が起こる時、今日、皆様がどんな心を持っておられるのでしょうか? この時間が重要です。なんでもないことのようでしょう。私もある時には、考えている途中で、何というか、不安な時がありました。その時が重要です。その時、どれくらい重要な祈りをしているか分かりません。それがとても重要なのです。皆様が信仰生活をする時は、今は既に契約を捕まえています。捕まえたので、瞬間が重要で、現場が重要です。それが三番目に記憶せねばならない内容です。ダビデがそれを上手にやったのです。契約を捕まえたことは、確実です。みことばを捕まえたのも確実ですが、私が瞬間瞬間、気落ちすれば、多くのことをのがすようになります。ダビデは気落ちしませんでした。主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
・イスラエルの人々は、子ども達に聖書をよく教えようと、聖書クイズをしたということです。クイズをしている途中で、子供達が分かるようにするために、分かればパンに蜂蜜を塗って与えたということです。すると、小さい子ども達にはおいしいのです。パンに蜂蜜に塗って食べるので、どれくらいおいしいでしょうか? それを食べようと、聖書勉強しようと集まるのです。子ども達が座っていて、分かれば先生が与えます。何を与えるのでしょうか? パンに蜂蜜を塗って与えるのです。それがどれくらいおいしいでしょうか? それがイスラエルの習慣だということです。ところが、ダビデが何と話したでしょうか? そのパンを食べるために聖書勉強をしたけれど、本当に聖書を知ったら、それよりも甘いと言ったのです。何の話かが分かるはずです。ダビデが神様の前でそのようにしたのです。私達が幼い時、そのおいしい蜂蜜の味がしたパンよりおいしいことが、神様のみことばだなと、ダビデが悟ったのです。詩篇 100篇4節には、どうなのか? “感謝しつつ主の門に”と言いました。
・あなたがたが、これからものすごく重要な3つのことをなくさないようにしなければなりません。サウル王の祈りをせずに、ダビデの祈りをしましょう。簡単に表現すれば、私がそのように話したのです。私が説明をしたということです。その後に あなたがたが現場で神様の計画を発見して、神様のみことばを通じて、あなたがたが答を得るのです。最も重要なことが、このことを進行して行くのに、困難が一度もないでしょうか? 来ます。その瞬間がものすごく重要です。14節に“私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。”と言いました。
 
・皆様が今、気落ちしているでしょうか? 良い時間になることができます。皆様がもし、とてもむずかしいという考えになるでしょうか? 良い時間になることができます。告白を変えましょう。‘この時間が、神様が私に向かった最も良い時間になることができます’ あのミデアンの荒野でなければ、あのホレブ山で全てのものをなくしていた時、モーセには最も良い時間でした。そうではないでしょうか? 神様が最高の計画を持っておられたのです。何にも出来ないと他の人から迫害されて、殺されれば理由もあるけれど、なんにもならないで崩れている時、もうこれ以上できないと判断しました。‘私がこれから残ったことは死ぬことしかない’と判断したのが、エリヤです。申し訳ないけれど、神様はその時、最も良い計画を持っておられたのです。記憶するように願います。皆様が現場が重要で、瞬間がものすごく重要です。皆様、今はこの契約を持っているのに、判断をすべきです。この時、また揺れるのです。
・アブラハムとおいの家族と戦いになったのです。何の戦いになったかというと、財産の戦いになったのでした。人が財産戦いになれば、目がひっくり返って、何も分かりません。おいもなくて、叔父もありません。この時、アブラハムの選択です。“お前がもし山地を選べば、私があの畑を、お前が畑を選べば私が山を、お前が東を選べば、私は西を選択する。選択しなさい” そのようにしたところ、そのチャンスをのがすことがあるでしょうか? ロトがあのソドムとゴモラの油と塩の土地を選択したのです。アブラハムは、山を選びました。そちらでアブラハムが祈ったのです。神様がアブラハムに答えを下さいました。私達が中間に問題が起こる時、選択がものすごく重要です。
・ある日、突然に奴隷で売られてしまいました。それで気落ちすることができます。ヨセフは気落ちしませんでした。‘神様が私を奴隷にくるようにしたんだなあ’ そちらでヨセフは重要な祈りをしたのですが、大きい答えがきました。私たちは、おもにどこで奪われるのでしょうか? 瞬間的に奪われて、現場で奪われます。ヨセフが、ところがより大変な事には、そのようにしたのにもかかわらず、監獄に行きました。そちらでヨセフは、瞬間的なことが重要です。それで気落ちすることができます。‘本当に神様がいるのか?’ということができるのです。ヨセフはそちらでより一層契約を握りました。瞬間です。現場です。神様は大きい答えをヨセフに与えたことではないでしょうか?
 
・私は今考えてみれば、静かに過去を振り返ってみて、私がおもにいつ答えを受けたのでしょうか? 振り返ってみると、もちろん祈り多くする時もあったのですが、おもにいつ答えを受けたのかというと、短い瞬間に信仰を選択した時でした。私たちには紛らわしい瞬間がたくさんきます。私たちにがっかりする瞬間にある時、私たちには困難な瞬間、その時に信仰を、今、考えてみれば、その時ごとに答えを受けました。本当に驚くべきことです。
 
・一つの例で、私が心に一番力がない時がありました。その時がいつかというと、副牧師の時、一番に心に力がありませんでした。なぜ力がないか、伝道運動をしているけれど、どれくらい難しかったでしょうか。なぜこのように教会が毎日けんかして、教会は霊的に力がみな抜けて、教会に行けばとても大変でした。教会はなぜ長老達がけんかを多くするのか、けんかしていたら、感情が対立します。理性がないので、青年達が、長老達を軽く見ていました。長老がいなければ悪口を言って、教会がこういう時でした。その程度になれば、精神を整えなければならないのに、またけんかをします。本当に異常でした。私が一番に力が抜けた時です。その時、どんな気がしたかというと、私が副牧師をせずに、そのままどこにでも行って伝道すべきではないだろうか? こういう考えが心に来ました。来たのですが、どれだけ力が抜けていたかというと、私にどんな悲惨な考えがくるかと思えば、私の子どもが学校に行けないのではないか? こういう答がきました。自分の姿を考えたら、とても悲惨でした。私が確かに教会を止めて伝道をしたいのに、私の子どもゆえに、私の子ども 2名がいるのに、学校も行くことができなくて、ひとりは幼稚園に行かねばならないのに、幼稚園にも行くことができなくて、ご飯も食べることができなくて、そうではないだろうか? こういう考えが、話さないけれどいつも私を支配をしたのです。耐えました。使命ではありません。ご飯を食べるために、また耐えた人生が悲惨でした。その時、私が選択を良くしたのです。明け方ごとに祈って、神様に本当に神様が私をご存知でないですか? この福音を伝えることができる教会に、一生、思いきり福音を伝えることができる教会に、田舎でも良くて、海でも良くて、どこでも良いから、思いきり福音を伝えることができる、その信仰の選択です。私がなぜこうなのでしょうか? 短い祈りです。神様が答えの門をあけてくださって、私がここに来ました。ここに来たのですが、それも 12坪 から始めて、多くの伝道をしました。生きていれば、困難もきます。私たちには困難も、葛藤もあって、人々がそのようにしないでしょうか? また、私が間違って作ることもあって、そのような時もあります。ダビデになぜ困難が感じたし、また皆様になぜ困難がないことがあるでしょうか? その時、私が見るのに‘神様が全てのものを完壁に上手にやるために使われるのではないな! 神様には救われた神様の民が 99種類を間違っても、一つだけ良くしても用いられるのだな。私たち人間は99種類を良くしても、一つができなければだめだけれど、神様は 99種類を間違っても、一つを使われるのだな’
 
・私はある悪口を良くする牧師を見て、牧師がなぜ悪口を言うのですが、神様は悪口を良くしても、なにか良くすることがあるので用いられるので、一回は行ってみて驚きました。どれくらい悪口を良くしているか、こいつ、あいつは基本で、はじめから終わりまで悪口を言いました。はじめには異常でした。悪口もしばしば聞くと、大丈夫になりました。その翌日にもまた行きました。三日、参加したのに、なにか感動があったのです。私の心で祈って信仰生活を良くしなければ、こういう心になりました。その時 ‘神様が完壁な人だけを用いられるのではないな。あんな人もあのような面で用いられるのだな’あなたがたが完壁で良いこともあります。私と皆様が足りなくても、一つだけ神様のみこころと一致すれば良いのです。ダビデが完壁な人だという話ではありません。神様がこのダビデを用いられたのですが、どれくらい多くの栄光を現されたでしょうか? 今日、あなたがたが新しく始めるように願います。
・3つのことを記憶しましょう。祈りの順序が変われば大変です。本当に神様がなさる事と、計画を発見して、そこから計画を最も良いことを立てて、その時から祈り始めれば、答えがきます。サウル王のように祈らず、ダビデ王式に祈りましょう。すべての祈りの答え受けた人、それが第一に重要です。皆様に問題が生じれば、それから捜し出しましょう。仕事をしても、それからしましょう。なんでもそうです。教会に進行する時もです。また、固執がないように。神様の計画に従って行くのに、そうしながら人を見る時、粗雑に見えても必ず成功するようになります。事業もそうで、教会もそうです。違うことがありません。すると2番目についてくる祝福をのがさないようにしましょう。現場に行ってみるならば、答えが隠されています。それがはなはだしくは、自然の中で、昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。すると、神様のみことばを聞けば、皆様が生かされるようになります。答えが受けるか、受けないか、たましいが生き返るようになっています。そんなにも愚かな私達が神様の知恵を心に力を得て、目が開かれるのです。これが2番目です。必ず成功することを望みます。三番目が、とても重要です。ダビデに困難が来なかったのではありません。既にダビデに神様の計画が決まっていました。そして、既にダビデは神様のみことばを捕まえたのです。私達が現場に行く時ごとに、しばしばだまされます。私たちは、しばしば、そこで気落ちするようになります。私たちは、そこでしばしば信仰をのがすようになるのです。ほとんどすべてが、恵みを受けて現場で逃すようになります。ダビデはそれを失敗しませんでした。それで死の陰の谷を歩く時も、わざわいを恐れないのは、主がむちと杖にで、主がすべて導いてくださるのです。
 
・私が以前に紹介したことがありますが、‘in his step’その本の主題がなにかというと、現場で困難な問題に会って、少しだけ考えたのです。イエス様はどのようになさるのか? その考えだけしたのに、驚くべきみわざが起き始めたのです。教会全体に何が流行したのかというと、神様ならばどのようにされるだろうか? 皆様に困難な問題がきたら、神様ならば、この時どのようになさるか? という考えだけしたのに、世界がひっくり返る事が起きたのです。現場で困難にあったら、皆様の目で見ず、神様の目で見ましょう。神様がどのようになさるか? とすれば、ほとんど正確です。祈りの答えを受けるようになって、勝利するようになります。皆様に急な状況がきたでしょうか? 神様のみこころは何でしょうか?
 
・ある夫婦がとてもけんかを多くして、私に相談しに来ました。私がそのような話をしたのです。あなたの立場で妻を見ず、あなたの立場で夫を見ず、神様があなた方を見る目で見なさい。そうでなければ、どんどん他の目で見るのではないでしょうか? 私たちは瞬間瞬間、しばしば信仰が崩れます。ダビデは崩れませんでした。どんな困難が来ても、むしろ大きい働きは、そのような時に起きました。いつもそのように考えればよいでしょう。困難がきました。重要な時です。葛藤がきたということは何でしょうか?重要な時だということを知っていればよいのです。皆様に問題がきたということは、重要な時刻表だという証拠です。この契約を捕まえねばなりません。ダビデは成功したのです。それで、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」すべての口のことばと、心の思いとが。今晩は、いつもある聖日礼拝ですが、皆様に本当に新しく始まる、必ず答えを受ける祝福の日になることをイエスの名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
 神様に感謝申し上げます。新しく始めるダビデの祈りが始まるようにさせてください。ダビデにくださった神様のみことばと現場をあたえてください。私たちは気落ちすることが良くあるのですが、新しい知恵で神様の計画を捕まえて、気落ちしないように、神様が私たちと共におられる霊的な目が与えられますように。それで明日から勝利するように、今から勝利するようにさせてください。まさにこの時間が答えを受ける時間になるようにさせてくださって、この時間が祈りの時間になるようにさせてください。生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン