2003年 03月 30日 インマヌエル教会聖日メッセージ


1部 /救われていない者の働き
(マルコ14:10-11)
 
・ある人が冗談だと言いながら、こういう話をしました。天国に行ってみたら、一名ずつ天国を入るときに、神様が一人一人を喜んで迎えておられたのですが、牧師が入ってきたので、立ち上がられて席を与えてくださいました。それで、長老がとても不思議に思って尋ねました。私たちは、教会でも毎日悪口を言わず、献金して、牧師に仕えて、教役者に仕え、教会に仕えてきたのに、どうして神様は長老が入ってきたら、そのようにされなったのに、牧師が一名入ってきたら、世の中でもそのように多くの栄光を受けたのに、ここでもまたそんなになさるのかと尋ねたら、神様がこのように返事なさったということです。牧師は誰も来ないのに、一名きたことがうれしくて、そのようにしたと言われたということです。そのような冗談もあります。救われていない者が働くこともあるのです。
 
・今日の本文が、まさにそれです。今日、見ながら、よく考えて知恵を得なければなりません。より知恵を得るべきことは、イエス様がマタイの福音書 24章に、最後の時に起きるはずのこと、25章には教会に関して話された時、半々と言われました。10人の乙女の中で油を準備した乙女、しなかった乙女、しなかった乙女は、外で歯ぎしりして泣いたと言われました。救われなかったということです。そのようなことが、教会にはあるということです。タラントをもらった人ともらわなかった人、また羊とヤギ、全く同じく草を食べて生きているかのように見えるけれど、羊がいてヤギがいます。救われていないヤギがいることもあるということです。イエス様が与えられた教訓の中で、ほとんど最後の教訓です。だから、救われることができなかった人も少しの間はできるということです。ここを見れば、イスカリオテのユダは、簡単に話せば、牧師をしたことです。イスカリオテのユダは、使徒をしていました。この頃の言葉で言うと、牧師をしていたということです。イエス様の弟子としてついて行っていましたが、そうしたあと滅んでしまいました。自殺してしまったのですが、ここを見ると10節に十二人の中に、十二弟子の中にということです "ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。"敢えてイエス様の弟子が、十二使徒の中の一名が、イエス様を売り払う所を知らせて金を受け取ったのです。このようにする、色々なことが出てきます。
 
・このようなことがあるでしょうか。私たちは、そのように考えるけれど、私が知っていることでは、そうです。救われなかったのに、牧師をすることがあります。また救われなかったのに、牧師夫人をすることもあります。救われなかったのに、いくらでも執事、長老ができるのです。救われなくて、神様の民でなかったのに、聖歌隊をすることもあります。これが深刻です。ただ私たちにはわからないのです。神様だけがご存知で、私たちにはわかりません。あの人が救われた、救われていないと簡単に口に出して言えないのです。しかし、いくつかの症状は出てきます。それが救われていない条件ではないのですが、症状が出てきます。もし救われていない牧師が牧会をすれば、どのようになるでしょうか。いくつかの症状が出てきます。どんな症状が登場するかというと、ただ他の人に見えないように、自分の為にするはずです。教会のために、聖徒のために、福音のためにではなくて、自分の為にするはずです。それしか仕方がありません。自分の為に生きることは誰にでもあることですが、ただそれだけのためです。そのようなになるしかないのが、救われていない条件だと言うのではありません。しかし、救われていない牧師が牧会をすれば、まちがいなく自分のためにします。ここに今日、イスカリオテのユダを見ると、イエス様に付いてまわりながら見たら、本当にすごいと考えました。力あるわざを行われ、水の上を歩かれ、弁当一つで5千人を食べさせられたのを見たので、まちがいなく世界的な王になる可能性が見えたのです。時代的な人物であることは、まちがいありません。そのまま行くのを見ていると、それではないようです。雰囲気が、捕えられて、イエス様が死刑を受けるようになってきたので、これを見て違うようだという判断をしたのです。まだ死刑にもなっていず、捕えられることもしていないのに、イスカリオテのユダが感じたのは、これではないということでした。こういうことでは、いっしょに死にそうだから、あらかじめ先手を打ったのでした。行ってイエスがいる所を教えてあげると言ったら、この人たちがとても喜びながら、あなたに報償金を与えるという約束をして、イエスがいる所を探して与えると言いました。弟子で付いて回ったゆえに、どこに行くのか知っているから、知らせてやると言ったのです。イスカリオテのユダは、最後には心から後悔して、自殺することが出てきます。聖書は自殺したとはなっていず、自分の行く道へ行ったと書いてあります。本当にせつない人物が滅びたとせず、自分の道に行ったと書かれています。ある人々は、このように話します。大韓民国に多くの牧師が恵みをたくさん受けて、力あるわざも行った人が高慢になったら、ブン・センメイ(統一教会)のようにもなるとい言います。そうではありません。その牧師は、本当に神学と福音を知らない人です。元々福音がなかった人です。元々福音がない人が、色々な知識、サタンの力、色々とできるのです。しかし、最後に問題になります。そして、後が問題になるのです。だから、救われた人が途中で変わってそのようになるのではありません。イスカリオテのユダは、一度もイエス様を主よと呼んだことがありません。いつでも聖書を見れば、ラビと呼びました。先生として対していたのですが、主と呼んだことはありません。イスカリオテのユダは、自分自ら選択を良くしたのです。時代が今、危機へ行くのについて行けば殺されると思って、イエスさまがいる所を教えてあげて寝返ったのでした。だから、こういうことを見る時、それしか仕方がありません。 
 
・もし、救われていない牧師がいるならば、その牧師はまちがいなく全部、自己中心で、自分の為にすべてするはずです。それしか仕方がありません。ところが、こういう人が多くなる時、宗教改革がおきるのです。あまり多くなってはだめです。だから大邱にもそのような事件があったのです。キム牧師が牧師を終えて庭に出てくれば牧師の奥様とけんかをします。全国にうわさが立ったのです。牧師夫人は、なぜ私のことを話すのかと言って、牧師は話すべき言葉がないのです。だからけんかをするのです。あなたが教会で私に侮辱を与えるのかと言います。教会と何と福音ではないと、そのままけんかをします。何度もけんかをして、全国にうわさが立ちました。それで、牧師を辞任したのです。離婚はできなくて、息子もいたので、それでも牧師なので、離婚もできなくて、あちこち回り、中国、ロシアに回っています。
 
・だから、救われない人も牧師夫人をすることができます。それで、いくらでも福音に反対になることをすることができるのです。救われていない人が、役員をすることもできます。おもに何をするのでしょうか。おもに自分の利益を測りながら主導権の争いをするはずです。これが救われていない条件になるのではありません。しかし、救われない人は、そのようにするしかありません。それがおもにすることです。いつも前後を測りながら主導権争いをします。献身すれば良いはずなのに、いつでも様子をみながらします。率先してすれば良いはずなのに、雰囲気を見ながらして、それしか仕方がありません。主導権を握ろうとして、それしかありません。福音を伝えて、恵まれて、祝福されれば良いはずなのにということです。それができないので、主導権を握ろうとするのです。教会が大きくなれば、深刻になります。だから教会に例えば何万名集まる教会が、けんかをする理由が主導権争いです。これを握ろうとけんかをします。福音を伝えれば良いはずなのに、しばしばけんかをするのです。それしか仕方がありません。
 
・救われずに教会に通う一般信者ならば、明らかです。肉体的なことだけを考えます。そして、肉体的なことが出来なければ、出て行って回ります。それしか仕方がありません。救われていない人が宣教師になることはあるでしょうか。できると思います。多いと思います。すると、どのようにするのでしょうか。宣教する国に行って、いくらでも味わうことができます。よくすれば、後援も受けて、いくらでも掘り下げて、みなすることができます。福音より、そこに関心が多くなるのです。それしか仕方がありません。救われていない人々が教団を作れば、教団の暴力が出てきます。それしか仕方がありません。中世教会がそうで、パリサイ教会がそうでした。救われない人がよく信じようとすれば、まちがいなく律法を強調するはずです。よく信じることであるからです。そうでなければ、力を受けなさい、恵みを受けなさいと強調して、でなければ多くのプログラムを強調するはずです。そのような方法以外にありません。それで出てきたことが、新神学です。新神学が何か知っていますか。イエス様を信じて救われるのではなく、色々な政治を正さなければならず、経済を正しくしなければならないとデモを行いながらすることが新神学です。こういうものなどが出てくるようにならざるをえないのです。福音を防止する理論が出てくるしかありません。参考にしなければなりません。
 
・ところが、マタイ24,25章を見ると、多くなるはずだと言われています。人は誰でも弱くて、誰でも完全でなくて、誰でも失敗することがあります。しかし、福音を持った人は分かります。表に現れます。その人は音楽が好きだということは、分かります。私たちの友人が音楽が好きなのですが、どれだけ好きか、家に行ってみると、むかしのCDがいっぱいありました。この人は、音楽を好きだということが表に現れるのです。福音が好きな人は、表に現れます。どこか表に出ます。違うのです。それで、多くのことがおきるのです。
 
・今日、あなたがたがイスカリオテのユダを見ながら、どんな考えをすべきでしょうか。救われた者は、本当に救われたなら、絶対に滅びることができません。皆様、どこかで違った話を聞いてはだめです。救いは変わることもしません。学生達が考えます。勉強もよくできなくて、この頃、父母の話も聞かなくて、この頃、私が良くない友人と交わって、私がこのようにして救われているのかという考えをする人もいます。早く振り返らなければ、救いとはなんの関係もありません。皆様は、救われたゆえに、どんどんその道に行けば、神様が殴って連れて来られます。救いは変更されることがありません。復興師がこういう話をしました。幼い時、聞いたことです。天国ならばみな天国でしょうか?天国に行けば、金の冠をかぶった人もいて、犬の毛をかぶっているような人もあって、わらをかぶった人もいます。皆様が伝道して献金することに従って変わるということでした。話はもっともらしいことです。幼い時に聞いた時は、正しい話のようでした。しかし、間違った言葉です。天国には、犬の毛の帽子はありません。救いは変わらないのです。イスカリオテのユダが、そのようなことが出来るのでしょうか。そのように恵まれていて、そのようなことが出来るのでしょうか。そうではありません。元々救われていなかったのです。そうしながら、時刻表によって崩れたのです。
 
・皆様は、イエスがキリストだと信じる者、聖霊を受けた人です。絶対に滅びません。それでもし救いの祝福を知らなければ、少しの間、落ち込むことがあります。しかし、早く抜け出さなければなりません。救われた者の祝福をよく知らなく、私たちは自分中心で、人間中心主義で行くことがあります。それは、早くなおすようになります。救われた者は、絶対に滅びません。
 
・最初、聖書が証拠です。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフがなぜ滅びなかったのでしょうか。神様の民は、どんな場合にも滅びません。モーセ、ヨシュアとカレブは誰でしょうか。神様の契約の民は、どんなにエジプトの中にいても、抜け出てくることができます。荒野を歩いていく神様の民は、水がなくても生きて、海がふさがっても生きて、川がふさがっても生きるということです。皆様が説教を誤って聞けば、大きいことが起きます。聖書は、解釈をこのようにも、あのようにもできます。しかし、絶対にそうではありません。今、はなはだしいことには、大きい教会を作って戻ったパク牧師は説教を確かにそのように言われました。イエスを信じて救われのではない。イエスを信じて救われるということは、条件で、行為で救いを成し遂げなければならないと言いました。そこで問題が起こったのです。本当に、これは異端理論、間違った理論です。私たちの行為では救われることができなません。行為をいいかげんにしなさいということではなく、私たちの行為では救われることはできません。皆様、行為が天使だとしても、それが救いの条件ではないのです。そのために錯覚しやすいのです。イスラエル民族が捕虜になって、イスラエル民族が完全になくなったのに、神様の民は生き残りました。それが旧約聖書です。どんなに迫害が起きて、ローマが押さえて、あのマケドニアが押さえて、誰が押さえても神様の民は死にません。新訳聖書です。これから終わりの世に霊界にものすごい事が行われます。サタンのしわざが途方もなく起きても、神様の民は絶対に滅びません。ヨハネの黙示録です。それで、皆様の中で神様の民は、早く神様の恵みを受けなければなりません。ここで早く解釈ができなければならないのです。神様の恵みを受けられなければ、結局、殴られて帰ってくるようになります。なぜでしょうか?それが神様の民です。神様の民は滅びる資格もありません。神様の民は他の道がありません。救われた神様の民です。どれくらい驚くべきことなのか分かりません。それが、聖書が証ししていることです。
 
・教会史が証拠です。強大なパリサイ人が、小さい初代教会をなくそうとしましたが、なくすことができませんでした。なぜでしょうか?救われた人は、なくすことができないのです。伝道者を防止することは、できません。皆様、歴史をみてください。途方もない中世教会でした。王を勝手に立てたり、下ろしたりした強大な中世教会です。その教会が、小さい何名かをなくそうとしたのです。福音を持ち出したマルティン・ルター、ヨハン・カルヴィンをなくすことができませんでした。なぜすることができなかったのでしょうか。神様が救われた者を守られ、神さまが伝道者を祝福なさるからです。銘記しなければなりません。絶対に変わることがありません。ここにチョウ氏がいたら、チョウ氏であり、どんなに行動を間違っても、チョウ氏が変わることはありません。皆様は、神様の子どもです。これは変わらないのです。そうではないでしょうか。救われた者は、どんな場合でも滅びません。では、救いとは何でしょうか。簡単に話せば、救われたということは何でしょうか。創世記3章の事件から解放されたということです。それが救われたということです。創世記3章の事件は何でしょうか。神様を信じないで、サタンの誘惑を受けて、神様を離れて偶像の中に陥ったことです。そこから抜け出すことが救いです。それを成し遂げるために、創世記3:15の主人公がいらっしゃったのですが、その方がイエス・キリストです。救われたら、どのようになるのでしょうか。身分が変わります。だからイスカリオテのユダは、救われていないのです。救われれば、身分が変わるのに、変わらなかったのです。そのようにならざるをえません。
 
・皆様が今日、この契約を捕まえてくださることを願って、救われたあなたがたは、死からいのちに移っているのです。間違いありません。ローマ8:2に罪と死の原理から解放されたとあり、ローマ8:12-16には、養子の霊を受けたとあります。養子の霊ということは、法律のことを言います。養子の霊を受けました。皆様は絶対に暗闇の権勢に自分の力では勝つことはできません。しかし、今日、あなたがたが確信をもって契約を捕まえるように願います。へびとさそりを踏んで、敵のあらゆる力を制御する権威を与えると言われました。これが救われた者です。ものすごいのです。だから、私たちは他のところに行く理由もありません。救われた者は、身分が変わりました。どこに関心があるのでしょうか。これから早く回復しなければなりません。今日、神様のみことばの意味は何でしょうか。イスカリオテのユダのようになってはならないということです。知らないではだめだということです。救われた者は、既に身分が変わってしまいました。奴隷の身分から、しもべの身分から変わったとしてもものすごいのに、ヨハネ8:44を見れば、サタンの子どもの身分から神様の子どもに変わってしまったのです。
 
・どれくらいすごいことでしょうか。この祝福を味わわなければなりません。すると、救われた者には途方もない祝福があります。皆様の中に、神様の聖霊がいらっしゃるために、皆様は絶対に滅びることができなくて、誰も皆様を触ることができないのです。信じてくださることを願います。ある人々は、自分の家に悪い霊がくると心配するのですが、どんなに来てもかまわないのです。皆様の家に悪霊が総動員して来ても、かまいません。関係ありません。皆様の中に誰がいらっしゃるのでしょうか。聖霊がいらっしゃいます。ある人は、イエスを信じたのに、それでもそれまでしてきた先祖供養はどうするのかと言います。何も心配ありません。イエスを信じる瞬間、皆様の中に聖霊がいらっしゃるのです。ところが、なぜ私はイエスを受け入れたのに、問題がそのままなのでしょうか。皆様がこの契約をよく捕まえて祈ってみるように願います。イエスを信じる瞬間に、神様の子どもとされる特権が与えられました。どれくらい大きい祝福でしょうか。その次に、なぜ私は問題が解決できないのでしょうか。イエスを信じるあなたがたは、礼拝をささげてみことばを受ける理由が、最も良い方法の聖霊の導きを受けることです。皆様は、本当に新しい力を得なければならないのですが、聖霊の充満を受けなければなりません。これが信じる者の祝福です。聖霊の内住、聖霊の導き、聖霊の充満。みな聖霊の働きです。必ず記憶しなければなりません。今日初めて教会に出てくる方達は、記憶しなければなりません。皆様の運命は終わりました。イエスを受け入れる瞬間に、神様の聖霊が皆様の中にいらっしゃったので、何をすれば良いのでしょうか。聖霊の導きを受ければよいのです。すると、 力がなければならないから、聖霊充満です。それで、イエス様の最後のメッセージが使徒1:8で、聖霊充満が臨まれれば、力を受けて地の果てまで証人になりますと、確かにそのように話されたのです。本当に驚くべきことです。これで終わることがありません。皆様が行く所ごとに、神様はあらかじめ、モーセが行く前にモーセに先立ち主の使いを送られたように、主の使いを送られています。驚くべきことです。これは、一般の人々は知らないことです。はなはだしきは、イエスを信じる人々も知らないことです。反対する話です。ある人々は、反対します。なぜこういう話をするのかと言います。聖書にたくさんあります。ダニエルがひざまずいて祈る瞬間、明らかに神様の天使を送られたとされています。ヨハネの黙示録を見ると、祈る時ごとに神様は天の御座で主の天使を送られ、皆様の祈りをみな受けて、あらかじめ働かれるとなっています。ものすごいのです。私は確かに信じます。目に見えない主の天使を送ってくださって、すべての道を開けられるので、行って答えだけ確認すればよいのです。聖霊充満を受けるように願います。
 
・今日の礼拝時間に、聖霊充満を受けるべきです。少しだけ祈れば力が生じます。聖霊充満を受ければ、その時から皆様は世の中の人々に勝つことができる力が生じるのです。世の中と全く同じくすれば、どのように勝てるでしょうか。勝つことはできません。それで聖霊の充満を受けなさいと言われました。それで、終わることではありません。すべての宗教は偶像崇拝です。サタンをおがんで、悪霊をおがむことです。しかし、信じる者たちが行く所ごとに、暗闇の勢力、あらゆるサタンの勢力は縛ばられて、悪霊は追い出されるようになるはずだと言われました。本当に驚くべきことです。信じる者たちが行く所ごとに、神様の国が臨むのですが、私たちは神様の国に行くはずなので、行く所ごとに神様の国の祝福が臨むのです。死んで天国に行くということは、正しいのですが、この地にいる時、神様の国が臨むのです。皆様の家に神様の国が臨む祝福があることを希望します。最後の祝福のひとつが何でしょうか。弟子を探すことです。すると、世の中の終わりまで、わたしがあなたがたといつもともにいますとおっしゃいました。今、私が話したことが救われた者の祝福の要約です。地から天まで。ものすごいのです。だめなはずがありません。今日、あなたがたがこの祝福を味わい始めるように願います。すると、世が終わるまで、いつもあなたがたとともにいます。今、私が話したことは、救われた者の祝福を要約したのです。地から天まで、すごいことです。ならないことがありません。今日この祝福を味わうように願います。すると救われた者の実と未来は永遠です。
 
・今日、最も至急なことが何でしょうか?救いの祝福を回復しましょう。神様の子どもとなった祝福を回復しましょう。それが、今日、イスカリオテのユダを見ながら暗示されている部分です。イスカリオテのユダを見ながら私達がせねばならない最も大きい祝福は何でしょうか?神様の祝福を回復しましょう。タラッパンで伝道運動をしていたら、私の所にきて詐欺を働いた人があります。普段の時、よく信じる人なのに、それを見たら、失敗したのではなくて、詐欺を働いた執事いて、牧師もいます。長老はまだそのような人は、出てこなかったのですが、執事、牧師が出てきました。その人々が、外に行ってクリスチャンだと言われるのではないでしょうか? 深刻な問題です。私の所に来て詐欺を働くのですから、普通の問題ではありません。私の特徴は、一度入っても陥っていずに出てくることです。ずっと祈ることも知らずに本当に足りない人々が多いのです。また信仰生活をよくしていて、聖霊充満を受けてハレルヤしていても、利益損害が起これば人がぱっと変わってしまいます。それを見る時‘あれ'と思います。そのような衝撃を非常に多く受けて、表情の管理をするのが難しいのです。すっかり人が変ってしまうのです。失敗したのではなく、人がすっかり変わってしまうのです。いつも祈っていて、聖霊充満を受けていても、お金の問題が出てくれば狂ってしまいます。そのような人が多いのです。そのように別人に変われるのでしょうか? 昨日まで聖霊充満していたのに、今日見たら別人です。なぜ、そうなのかと詳細にみつめれば、お金ゆえにそうです。こういうことがあるのかという場合が多いのです。人が別人になります。しかし、その問題が解決した後に、また聖霊充満になります。分かるすべがありません。天国に行けば分かります。その人がお金をよりたくさん愛しているのか、福音をより味わっているのか、天国に行けば分かることであって、とにかくこういう事が多いのです。皆様が答え受けることは簡単です。今日、皆様が必ず早く至急に解決しなければならないことが、救いの祝福を回復しなければならないのですが、そうしてこそ家系、家庭、個人の霊的問題が解決します。どれくらい大きい祝福でしょうか? これより大きい祝福があるでしょうか? 皆様の家系、家庭、個人にある霊的問題、私は偶像崇拝を多くした私たちの国家、家庭を見ながら、私が福音を受けたことは、ものすごいことだと思います。どれくらい感謝するか分かりません。そのようなことが、私の家にまた再現して良いのでしょうか? 福音の秘密を持って、至急に解決すべきですが、霊的問題が解決になることで、特にマタイの福音書24:25節にあるように、近づいてくる未来の問題が解決するのです。今日、この祝福を受けるように願います。
 
・これは何でもないことのように見えても、ものすごく重要な問題です。救われた者は、どのようになるのでしょうか? 本当に感謝と喜びが出てきます。パウロは、いつも喜んで、絶えず祈って、すべてのことについて感謝しなさいと言いました。大部分の人を見れば、救われたのに、体質ゆえにそのような人があります。それを変えるべきです。これほど大きい祝福はありません。あなたがた、教役者が必ず記憶すべきです。教会のなかで、地位の心配は全くする必要がありません。副教役者が本当に神様の祝福を受ければ、仕事をする時がものすごく多くなります。度が過ぎることが多くて、行く時も多くなります。そのような心配は、つめの先ほどもする必要がありません。ある方が、病院を立てたのですが、そばに何万名もが集まる教会がありました。この教会から圧力をかけてきて、あなたはインマヌエル教会に行かず、柳光洙の教会に行かず、ここに来なさい。私たちの教会は、何万名もいます。それでこそ、あなたが商売ができます。牧師がきて、そのようなことを言ったそうです。この人が葛藤を覚えて、前の教会に行けば商売になるはずだけれど、こういう葛藤が生じたのです。それで会って、私がこのような話をしました。聖書にあるルカのような医者になりなさい。本当にとても影響を与える医者になりなさい。ルカのように、お金をたくさん儲けて世界宣教するほどの医者になりなさい。最後に自分の業務を整理して、世界福音化に飛込んだルカのようにしなさい。実力だけあれば、みな来るようになっています。そうではないでしょうか? 私達が食堂に行ってみれば、食事の仕度をしている空気がみな分かります。どんなに防止しようとしてもだめなのです。人は実力だけ揃えて、正しくすれば、いくらでもできるようになっています。皆様、そのような心配は全くする必要がありません。救われた者の祝福を早く回復すべきです。パウロは、いつも言うのに、本当に神様が私を救ってくださったことを感謝するでした。なぜでしょうか?知っていたために言う話です。クロスビーという人は、救われたことがどれくらい感謝だったでしょうか。それを持って賛美をみな作りました。この中に全部みな入っています。今日、これを回復する、その奥義があるべきです。
 
・皆様に率直に福音を伝えながら、どれくらい私の家が偶像崇拝をたくさんしたか、無知だったかと分かります。むかしはみなそうです。私の父の故郷は、陜川ですが、そこに一度行ってみました。行くのに、その当時 5時間かかりました。5時間かかったのに、息がつまって、どれくらいたいへんだったでしょうか。大層運輸というバスに乗って行ったのですが、ものすごく人が多くて、ちょうど棒を一本持っていました。私が幼いから、人々の間にはさまっていたのです。息をすることができないので、棒で押さえていました。棒がないならば、大変なことになったのですが、5時間ほど、ほとんど死ぬ思いでした。行ってみると、ものすごい田舎でした。私の父は、こういう所で住んでいたのだなあと思いました。すっかりみな偶像の町で、柳氏が集まって住んでいたのですが、柳氏がすっかりみな偶像の町でした。どれだけ話をできなかったか、入っていくやいなや、私を見て悪口を言いました。おとなが集まって、朝夕に集まって手をついて礼をします。何で忙しい時代に挨拶すれば良いのに、お辞儀をするのでしょうか? ものすごく悪口を言うのですが、お前は母親がよくない。 私たちの柳氏の家系は、本当に良い家なのに、お前は母が良くないと正面から話すので、なぜそうなのか? と小さな声で尋ねたら、お前の母がイエスを信じることによって、家の中にはイエスを信じる人がいてはならないのだ。おとなが私に正座させて、正式にお前の母親が良くないと言って、それでお前の父が早く死んだのだと、当然のように話をして、今でも機会はあると言いました。私たちはイエスのようなものを信じない家系であるから、信じないで、お前だけでも精神をちゃんとして帰ってきて、お前の母を説得しなさいと言われました。その時は、信仰がない時でした。その時、信仰が少しもなくても、その話を聞いて腹が立ちました。そうなのかという気がすべきなのに、内心ものすごく腹が立ったのです。おとなの前で話はすることができなかったのですが、イエスを信じる人々が都市に行けば、より良い生活をしています。私が信じることがないから、話はすることができなくて、イエスを信じる人々が米国のような所では、より良い生活をしています。私に染まったと言われたのですが、一度は私の家、母を訪ねて来ました。どれくらいものすごかったでしょうか。私の母に向かって攻撃したのですが、イエスを信じるから攻撃したのです。思わしくなく攻撃するので、誰が誰なのかも分かりません。系図がどうなのかも分からないのですが、結婚式があっても、何かがあっても、来てすごく攻撃しました。その時、私の母が答えた話を記憶しています。私の母も感情を悪くして答えた内容です。私が息子を育てて、勉強させながら苦労しているのに、その時は、柳氏は人が一名も来なかったのに、今はなぜこのように多く来るのか? 私の母がそのように話したことを思い出します。私は息子を勉強させながら、神様を信じて今まで来ました。内に対する干渉しないでください。簡単に話せば感情を悪くして、ひどく話したのです。この方達が行きながら、話すらできない家庭になったと言いながら行きました。それが私の家系です。私の家だけイエスを信じていました。家系全体が、すっかり偶像でした。それを見て、ひとつずつ崩れるのを見るようになりました。
 
・私の内心見たら、偶像崇拝がどれくらい怖いか、私達が救いの祝福を回復するということがどれくらい感謝でしょうか。残念なことに、今日の本文をよく見なければならないのは、残念なことに、イスカリオテのユダのようにならなかったけれど、私が教会に通いながらずーっと見るなかで、こういうことをとてもたくさん見たのです。今日、信仰生活をしながら変えるべきです。イスカリオテのユダのような姿の信仰生活をあまりにもたくさん見ました。子どもに大変なことになります。私が教会に通っていた時、おとなが教会でけんかをする姿をたくさん見ました。教会のなかで、信徒が集まって座ったら、隅々に座れば、人の顔色をうかがいます。また、私の場合は、家に帰ると両親の顔色をうかがいました。私が学校に行く時、金を受け取って行くべきなのに、両親の表情が良くなければ、その翌日に受け取ったのです。表情を見てしたのですが、おとなの話を聞いて、否定的な話、信仰がない話は、子どもの中にみな入っていくのです。教会が問題です。教会の中にも、どれくらい激しい葛藤と問題が多いでしょうか。そして、貧しいのです。こういうものがどのように私の胸中に何がきたのかというと、教会に対する魅力が全くありませんでした。私が学校や官公署に行けば、書類を出す時、宗教欄に書きませんでした。私が堂々とキリスト教と書くべきなのに、書かなかったのです。恥ずかしくて、私の母だけが、ただイエスで、通っている私はそうではなかったのです。これは、小さな問題ではありません。これが、小さな問題ではなくて、神様が私に救われた神様の民なのに、帰ってくる過程で、どれくらい大きい困難があったのでしょうか。それほど、教会が重要です。本当に残念なことです。絶対に私たち教会が良くて、私たち教会は優秀だという話ではありません。私が教会に行って、多くの牧師、長老を見たでしょう。見たら、別にイスカリオテのユダと違わないな。別に背信することが表からは見えないのですが、目に見えないように、どれくらい多くの背信をしているか、そのようなものを見て、本当に残念でした。あまりそのような具体的な話をする必要もなくて、することも出来ません。私が今回行って、フィリピンにいる牧師に対して言いました。絶対にひとつになりなさい。その話をなぜするのでしょうか? ひとつにならないので、ということです。どれくらいけんかをしているのか分かりません。ひとつになりなさい。私たち韓国の人々、米国、ヨーロッパ、こういう所でどれくらいけんかをしているか分かりません。クリスチャンがそれで噂されました。韓国人は、仕事は良くするが、韓国人教会は、よくけんかをする。教会をよく立てて、けんかをよくするといううわさが立ちました。あまり違わないのです。
 
・一度、1900何年度に、大統領府でキム・カンギ長老が、国際春秋というコーナーに、何の文を書いたのかというと、イスカリオテのユダが、イエス様を裏切ったこの事件を書きました。この方が、書いたのはこんにちのクリスチャン、こんにちの牧師. イスカリオテのユダよりましなのか? こういう意図で書いていました。それまでは良かったのに、高い論法で書いていて、最後のほうにイスカリオテのユダがイエス様を裏切らなかったならば、私達がどのように福音を聞くことができただろうか? 相手側がよくなったように書いたので、イスカリオテのユダ礼讃論だと老会から呼ばれて是非を論じたのです。その時、判事を止めて弁護士をしていたのですが、それで良いのか? イスカリオテのユダを礼讃して良いのか? と言われて、そうではないと言いました。イスカリオテのユダを礼讃したのではなくて、あなたと私をイスカリオテのユダよりましなことはないと言ったと言いました。イスカリオテのユダは、救いの門も開いたがあなたと私はなになのか?と言いました。そして、釜山大学の国文学の教授に依頼しました。名前をみな抜いて、この文を読んでみて、イスカリオテのユダの悪口を言っているのか、礼讃しているのか? 公式的に釜山大学の国文学教授に送って教授の名前をみな取って、原文だけ送って、この文がイスカリオテのユダを称賛する文か? イスカリオテのユダを誤っていると言ったのか? その判断をしてくれと送ったところ、国文学者が読んで、この文はイスカリオテのユダを礼讃している話ではない。反省するということだ。私達がイスカリオテのユダよりましだろうかと尋ねているので、文自体が反省する話ではないだろうか? それを持って裁判したのですが、相当な部分を占めました。私たちは、実際には私が見る時、このイスカリオテのユダが救われていない人です。救われていない人が教会の中にたくさんいると見ています。私は、むかしでも今でも、そのような人をたくさん見ました。 救われていない人が、教会に通うという話が道理に合うでしょうか? ところが、より重要なことは、救われていない人が教会に通うか、通わないことは構いません。救われた神様の民が、救いの祝福を回復できないならばだめなのです。この祝福を回復してこそ、すべての答えの門が開くはずなのです。事業と関係あるのでしょうか? 関係あります。皆様、レムナントを育てる理由が、このレムナントを育てるなかで事業する人が出てくれば、キリストが出てくる人が出てくることで、レムナントの中に大統領が出てくれば、本当にキリストを知っている大統領が出てくることではないでしょうか? だから、救われていない者の生き方も参考にせねばならないのですが、今日、私たちはイスカリオテのユダを見ながら、祝福を回復する大きい祝福の時間にならなければなりません。
 
・今日、教会に初めて出てきたり、この頃、教会に通いはじめたばかりの方達は、どのように始めれば良いのかと言うと、キリストはどのようなことをなさったのか? その事を知っていれば、簡単に理解することができます。キリストという言葉は、油を注がれた者ということです。王、預言者、祭司長に油を注ぎました。イエス様がサタンに勝つ王として、私たちのすべての呪いをなくす祭司長として、神様が会う道を開ける預言者としていらっしゃったということです。すごい話です。そのイエス様を信じて受け入れる人々は、救われるのです。すると救われたならば、救いの祝福を味わえばよいのです。それが信仰生活です。このように新しい家族は、信仰生活をすべきです。すると、まちがいなく答えられます。これがだめで、違うことをたびたび聞けば、皆様の信仰生活が不思議に良くならないのです。こういうくやしい事がどこにあるでしょうか? 私たちインマヌエル教会に初めてきたり、私たちのタラッパンに初めて来た人がまず最初に悟らねばならないことが、キリストという重要な話は何の話か? ということで、するとそのキリストはだれか? で、それはイエス。イエスがキリストなのです。私たちは、その方を救い主として信じるのです。信じれば、どんなことが行われるのでしょうか? 聖霊が私たちの中に働かれるのです。すると、その証拠で、今日からイエスの名前で祈れば、聖霊が働かれるのです。イエスの名前で祈れば、悪い霊が逃げるようになります。イエスの名前で祈れば、いやされるというみわざが起きました。私たちインマヌエル教会が最初に始まった時、東三第一教会の時、私が先ず一番にしたことが何でしょうか?按手を受ける必要がありません。自分の手でイエスの名前で祈ってみましょう。按手は必要ですが、本当には必要ありません。証拠を体験しましょう。
 
・僧侶だったのが、私たちの教会に来た人も多くいます。タラッパンの中にたくさんいます。僧侶も私のメッセージを聞こうとしています。悪口を言うのではありません。仏教が誤っていると言うのではありません。 私は寺に行ってみたら、とても静かで、核心の時も話しましたが、どれくらい良いのか、芝も敷かれていて、どれくらい良かったでしょうか。後に川の水も流れて、仏像にお辞儀をするテントも張ってあり、ご飯もよくて、仲良く話もするのですが、救いがないのです。教会に行ってみましょう。いればけんかをして、上の階はカラオケ、下には何かがあり、説教は複雑にして、そのようにしているではないでしょうか? そのように良い寺でも、ただ霊的問題の解決できません。僧侶がご存知であるでしょう? いつでも私に尋ねてください。自分が苦しめられる問題は、解決できません。後ほどは、悪い霊が目に見えて、行ったりきたりするということです。私が引っ越ししてきて、天理教を勉強しました。ものすごく良いお話です。心はどのように治めなさい。考えはどのように治めなさい。とても習うことが多いのです。ただ、肉体的なことしかありません。違ったことは一つもありません。ただ救いはないのです。間違っているとは、話していません。みな良いのです。みなよく生きようとする話です。しかし、皆様にある霊的問題、家系、皆様が持っている数十年押さえている暗闇の問題、これを解決する道はひとつしかありません。その単語が、まさにキリストです。そのキリストを送られたのですが、そのキリストが誰でしょうか?イエスです。今でも聖霊で働いておられます。その名前で祈ってみるように願います。間違いありません。初めて信じる人は、そのように信じれば良いのです。皆様の中で、信仰生活を長くしている人、役員の方達は、もちろんその契約を捕まえねばならないけれど、一段階上を走るべきです。全世界が急に洪水に会ったように死んでいくのに、どのように福音を早く伝えるのか。そこに感覚があるべきです。その時から答えを受けるのです。その感覚がなければ、うまくできません。今、急いでいます。急な風がすごく吹いているのに、これから世界の現象は、どんなことが行われるか分かりません。今、韓国にもどんなことが行われるか分からない状況です。世界は、今、霊的問題に包まれています。私達が今、イラク戦争に反対することも賛成することもできない立場です。もしかしたら米国が北朝鮮を攻撃するかもしれません。仮りにするようになれば、飛び火がそのままやってきます。状況がこれだから、事実は深刻です。私達が祈らねばならない立場です。それよりもっと大きい霊的問題は、私が見るのには、教会が福音を伝えないことで、霊的問題の速度がより早くなっています。それで、私たち役員は、何の感激があるべきかというと、早くこの福音を大韓民国と全世界に伝えねばならないということです。ここに契約を捕まえれば、あなたがたに答えが来ます。そして、ここに牧師と多くの教役者が、教会のために犠牲になっても、主の民のために犠牲になっても、この福音に関する弟子だけ育てても、世界は生かされるようになっています。この考えで結論を出すべきです。牧会は成功して、宣教も成功します。今日、本当にこの祝福を受けるように願います。今日、貴重な答えが開く祝福の日になることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様。イスカリオテのユダのように救われていない者にさせずに、私たちに救いを下さったことを感謝します。これから、この祝福を味わう私達になるようにさせてください。キリストが何かを知って、新しい祝福を受ける聖徒たちになるようにさせてくださり、この奥義を全世界に言える組織を見て祈る役員になるようにさせてください。これを見て弟子を育てる霊的な目が開く教役者になるようにさせてください。それで、今日、真の答えの門が開く重要な日になることをお祈りします。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


2部 / 感謝と賛美の理由
(詩33:1-22)
 
 
・伝道する中に多くのことがありましたが、いくつか想い起こされることは、何年も前に集会をしたのですが、誰かが車椅子に乗って集会に参加したのに、一度も抜けずに参加していました。それで‘一度も抜けないで参加しているよ'と思っていたら、一度は私が驚いたことに、雨が降って多くの人々がくることができない状況だったのに、その時もきたのでした。それで、私がとても気にかかったので、その人は誰かと尋ねました。その方は、交通事故にあって、からだももちろんですが、足を全く使うことができなくて、みことばを聞こうときたということでした。それで、私がメッセージでも言いましたし、通り過ぎながらも言いました。ずっと祈っていれば、神様があなたの足を立ててくれるはずです。なぜなら、急な治療法や多くの宗教界で急に立てるよりは、神様のみことばを聞きながら本当の霊的な力を得ながら、そのように立ち上がらねばならなくて、立たなくてもみことばの力を得るべきだからです。そのような力を得ねばならず、歩いて通う人よりもっと大きい力があるべきだからです。そのような意味で言ったのでした。そのようなある日、その方が歩いて私の事務室にきました。神様がなさったんだなあ! 今、その方は私たちの教会に通っています。そのようなことも思い出しました。一回は、ある夫婦が癌の宣告を受けて、まったく病院では治療を受けられない状態になったのに、とても契約を捕まえて祈っているのを見て、私の胸の中に考えが行ったりきたりしました。癌がそのようにして、よくなることがあるだろうか? あの方は、本当に祈るならば、神様の力、聖霊充満が臨むならば可能なことではないだろうか? とても熱心に参加して、それも前の席に座っていたので、そのような気がしました。ところが、ある日見たら、癒されて回復して、正常で帰ってきたことを見て、神様の力は、私たちの頭では理解できないのだなという考えを多くしたこともありました。ある時は、私は単に福音だけを伝えてきたのに、その人が良くなる場合が多くありました。こういうことがあるんだな。神様の力は、私の力と関係なしで、福音によって働かれることができるんだな! こういう気がします。今日も来る時、3年前に交通事故にあって、全く首の下からは使うことができなくなった姉妹が、中国に治療を受けにいくからと、ここで少しの間祈りました。本当に聖霊充満を受けて、非常に私が時間がないので、いつ行くのか知りませんが、私と話すことができる時間が一回だけあったならば良いのですが、色々な祈りをどのようにするのでしょうか。確認してみて、私が祈りに対する話もして、そのような時間があったならば良いのにという気がしています。神様がものすごく祝福なさる恵みがあることを希望して、私が知っていることでは、真に神様の前にささげる礼拝、教会にきてささげる礼拝、その次に他の人が理解することができません。私が神様の前に深い恵みを受ける礼拝、これなしでは難しいのです。他の人が私を見て、よく理解できないらしいのです。
 
・米国にいる、ある忙しい方が、米国で自分が一番忙しい人ですが、その方が私を見て、自分が米国一番忙しい者なのに、柳牧師はもっと忙しいなと言いました。それが忙しいというより本当にそうです。私もなぜこうなのか分かりません。いつも通うようになっています。ここで伝道して、あそこで伝道して、何でそのようになります。また私がメッセージだけ一週間するのではありません。私の相手は、メッセージの聞き手は知らない人ではなくて、訓練をずっと受けている人です。死ぬこともせず病むこともなく、ずっとついて来るために、いつでも新しいメッセージが出さなければなりません。それのみならず、私の秘書たちは知っている内容ですが、私が一週間に一度ずつ書かなければならない宿題があります。これがまた、文を書かなければならないのです。文を書かなければならないので、普通の人が理解できなく、私も理解できないのですが、私はポケットに紙を入れて通うキャビネットです。それで、私が私の秘書に言いました。私を最も手助けするのが何でしょうか?次の週に説教すること、来週に講義することの 聖書本文を複写することです。なぜでしょうか?皆様と私は、立場が違います。私は、聖書をおいてみる時間がありません。たまに乗るのではなく、飛行機にもずっと乗るので、聖書も荷物になります。そうすると深く見ることができないから、聖書本文を複写してくれれば、ポケットに入れていつでも見ることができるのです。一般の人々は理解することができないでしょう。ずっと通わなければならないから、私も理解することができません。また私をよく知っている人々は、理解が良くできないのか、しなかったら良いのにと言いますが、それでもその話を聞くと、もっと苦しくて、やめれば良いのに、私がなぜそうするのでしょうか? ここ来なければ良いし、他の人にしてもらったら良いのに。私がなぜそうしているのか分かりません。こういう残念な話をする理由は、神様に私が祈ることができる、礼拝の中でも、祈ることができる力。こういうことが、とてもすごいのです。他の人ことは、知りませんし、他の人が病気が良くなることは私はよく知らないし、他の人にどのようなことが起きたのか私はよく分かりません。私が私を見たら、奇跡です。私はそのように考えると、とても驚くべきことです。一年、二年ではなく、この生活が私個人で30年目です。公式的に皆様と会って走ることは、15年目です。私個人で熱心に走ったのは、30年目です。30年間、事故がおきたり、病気で中断したことはありません。私が考えても理解できません。そして、どれくらい複雑なことが多いでしょうか? 神様の恵みです。その中でも礼拝の中で、とても重要なことは賛美で、賛美をするのにとても重要なことが感謝です。今日、ここで感謝と賛美の理由、それで今日、中国に治療を受けにいく理由がある姉妹や訓練を受けるために参加した方達や、新しい家族の方達、長い間信じている信仰人も、みな真の感謝と賛美、そこで多くの重要な恵みを受ける祝福が今日から始まることを望みます。
 
・いまは亡くなりましたが、金海地域で車が上がれない所に祈梼院を小さく立てて置いて人を2名以上受け入れない所がありました。この方は本物の使命者でした。どんな人かというと、患者を2名以上受け入れたら、手助けすることができないということでした。一家族の中から一名だけ来なさいと言いました。それで、人を直したのですが、勧士をしておられたのですが、この人は誰が呼んでも行きません。自分は講師ではない。祈る神様の娘であって、特別な人ではないと言いました。本当に謙遜な人でした。自分の家を拡張もしませんでした。山の中で、車が上がることができなかったのです。釜山に住む人々は知っているでしょう? 精神疾患者や、難しい人を連れてきたら癒されたのですが、何で癒すのかというと、それが驚くべきことです。一度、私が行ってみました。車が上がれないので、歩いて行かなければなりませんでした。家も、別に飾っていない、山中にそのままある家でした。自分は死ぬ時まで、そのようにして行ったということです。おもに精神疾患者を直したのですが、家族も一名だけ来なさいと言いました。いろいろな人を連れてきて神経を使ってはならないと、ひとりだけ一家族からくるようにします。ほとんど癒されて行きました。癒されたら、その人を教会や家に送ります。本当に貴重な方でした。顔を見ながら、祈梼院を運営しようという表情が全くありませんでした。普通そのような感じがするのに、この方はこれをして自分の難しい部分を満たそうという、そのような表情は全くありませんでした。どのようにすれば、この患者たちがキリストを知って、良くなって行くか? その心がいっぱいだと見ることができました。それでとても不思議に思って尋ねました。何で直すのですか? 賛美です。この方の特徴です。聖書を読んで、いっしょに賛美を歌うのだそうです。それを持っておもに霊的な患者をいやしました。年齢が若くないから、働きが出来ないと言っていたら、亡くなりました。その次に祈梼院がどのようになっているかは、知りません。賛美がどれくらい重要でしょうか? 今日の本文みことばに、賛美と感謝の理由が出てきました。私たちの聖歌隊が恵まれることは、もちろんで、 私達が必ず神様の祝福を受けて行かねばなりません。
 
・第一に考えねばならないことは、人間は神様を賛美して感謝せねばならない存在として創造されたゆえに、必ず記憶すべきです。私たち人間は、神様を賛美して、神様に感謝する存在として創造されました。大邱に行ったところ、教団の神学校で仕事をしているパク・キュンホ課長が私にこういう話をしました。日本で実験をしたのですが、水を入れておいてとても呪って悪口を言うのと、水を入れておいて感謝をして賛美をして祈れば、どのようになるかを科学的に実験をしたそうです。ところが、水を入れておいて呪いと悪口を言ったら、水の中に私たちの目に見えない六角数がみな破れて出てきたということです。その水が話がわかのでしょうか? 水を入れておいて祝福していたら、六角数がみなできたということです。こういう差が出ることを、日本で証明したということです。ところが、この水が私たちのからだのなかでは、70% 占めるのに、どれくらい重要でしょうか? その話を執事がしました。私はある日、ニュースで見たのですが、鶏を育てるのに、音楽を聞かせて鶏を育てていたのですが、タマゴをよく産んで、鶏も健康でした。音楽を再生しない所では、とても差が出たのです。放送報道で見せてくれました。また、ある人が時間も多いのか、ネズミを置いて、ずっとストレスを与えて検査をして、ネズミに歌も再生して喜ばせて調査をしたところ、ストレスをかけたネズミの全身に網のように癌細胞が広がっていたということです。証明され話です。それを見たら、動物でもそうなのに、まして、あの植物もそうなのに、私たち人間は神様に感謝して、賛美するように造られたのです。
 
・今日の本文で悟らなければならない最初は、歌と賛美は違うということです。歌を歌うなと言うのではないのですが、歌と賛美は違います。この話を早く理解しようとすれば、皆様が何を理解すべきかというと、天使が堕落したのが悪魔です。それは常識的に知っているでしょう。天使が堕落したのが悪魔ですが、それがルシファーです。この程度は知っているでしょう。黙示録12章を見れば分かります。黙示録12章に天使が変わって悪魔になったことが分かります。すると、その天使は何をしていたのでしょうか。神様に賛美をして、神様に栄光を帰すことを担当した天使でした。この程度まで知っているでしょう。しかし、そのように見ると、ただの話ではありません。全世界の多くの人々が崩れるのは、歌で崩れるのを見ることができます。静かに計算してみれば、50%以上 60,70%聞こえる音がラジオ、TVで歌です。そうではないでしょうか? そうしたあと見ると、青少年が崩れるのを見れば、ほとんどみな歌です。これは、普通の事件ではありません。それで神様が私たちを見て賛美しなさいと言われるのです。私は痛感し始めました。以前に話しましたが、米国に行ってTVを見たのにですが、私はそのような光景を初めて見ました。歌手が出てきて歌を歌うのに、大きい講堂に子どもたちがいっぱいいました。前にまで歌手が歌を歌って踊るのをとても良くして、私はそれを見て、上手にするのだなと思っていたのですが、すこししたら参加した子どもたちが中学生、高等学生でした。中,高等学生が参加しているのに、わあわあと泣くのです。歌を歌うのに、わあわあ泣きます。歌を歌うのに、感動してそうなのか! それまでは良かったのです。あらかじめ準備をしていました。子どもたちが、わあわあ泣くだけでなく、気絶したのです。私がTVを見た時間が 5-10分くらいなのに、4-5人が倒れて行きました。人があまり多くて、下に行くことができず、子どもたちが上に出して行くのに、そのようにして行った子どもが4-5名も行きました。子どもたちが歌を歌っている途中で気絶するのです。深刻だなと思いました。これが歌なのです。それで、私はあの有名な歌手、エルビスプレスリーとか、今現在、全世界を驚かしているマイケル・ジャクソンとか、こういう人々が霊的問題がくるのを見て、歌と賛美は違うのだなという気がしました。ますます確認ができたのですが、ある日、誰かが情報提供してくれて、歌の中に現れるサタンのしわざという本をもらったのですが、それを読んでみてはっと驚きました。本当に私が考えたことは、想像でないなと分かりました。皆様、率直に話せば、ミュージシャンで福音がないミュージシャンは、ほとんど霊的問題で死んでいきます。それを発見するようになりました。むかしは平気に思っていました。そうかなと思いました。それで、昔のことを思い出します。
 
・私が神学校に入って初めてアルバイトをしました。私は教会や学校に借りて使うことができません。私がかせいで勉強しました。それでどこへ行ったかと言うと、土方を一ケ月だけ仕事をすればお金たくさんくれると言われました。それで行ったのです。はじめに、私の図体を見て、できるだろうかと尋ねられたのですが、その時、チョ・エンテ牧師と一緒に行ったのですが、チョ・エンテ牧師を見てそのように言わず、私に対してできるだろうか、させてみようと言ったのでした。何日が過ぎた後に考えが変わりました。チョ牧師は足を上げることも難しいのに、私は軽くきたり行ったりしました。そこに頭がちょっとおかしい変なおじさん一名がいたのですが、仕事も正しくしなくて、哀れで連れてきたのに、仕事をしないのです。私が見るのにも、その人は異常なように見えたのですが、昼食を食べようと弁当をみな出したら、弁当はきれいに作ってありました。奥さんがとてもしっかりしているということです。そのように弁当をきれいに作ってあるのは初めて見ました。それを開いて食べるのに、それまでは良かったのです。ところが、ある日、仕事をしている時に、誰かが通り過ぎるおいたのか、ギターがあったのです。そこで、この人がギターで歌を歌ったのです。歌を歌ったのを聞いて、衝撃を受けました。私もちょっと弾くのですが、完全に衝撃を受けました。どれだけギターがうまくて、歌もうまかったでしょう。その人はたいした人だなと思いました。知ってみたら、音楽大学を卒業して、声楽を専攻して、それだけでなく、ほとんどの楽器をみな弾くことができる人で、学校の音楽先生もしていたのに、なぜ土方をしているのでしょうか? この人がおかしなことを多くして、学校から追出されて、土方をしていたのでした。私は、これを見て、本当にそうだな! 歌、賛美は完全に区分されていることが分かりました。それで、あなたがたが賛美、神様の民が当然せねばならない賛美です。今日の礼拝以後に賛美を回復することを願って、皆様個人が賛美回復することを願って、礼拝時間に、本当に賛美回復することを願って、皆様が深い賛美と感謝を回復しながら、本当にいやされる驚くべき働きが起きるように願います。
 
・今日の本文に2番目、感謝と賛美せねばならない理由が出てきました。‘正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい’とあって、また見ると4-5節に、私たちは神様の力を信じるでしょう?‘まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。'だから当然、 神様を賛美するしかないのです。そして、6-8節を見ましょう。神様は創造主なる神様です。‘主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。'創造主なる神様を信じる私たちは、賛美するしかありません。私はそのような考えで祈っています。何日か前に、オ・チャンホ(音楽担当)執事に会ったのですが、私が深く祈っているのに、どのようにすればこの賛美を本当に良くすることができるでしょうか? 理由があるでしょう? 私がずっと祈っています。そのような中に浮び上がる考えです。その中のひとつ、これからは、全世界に文化の働きの一番は何でしょうか。執事に会った後にずっと祈りの考えが出てきました。本当に私たちの文化の働きに一番が何でしょうか? 賛美ではないでしょうか? こういう気がしたのです。ずっと祈る中に、本当に私たちの長老や執事達の中で世界を見下ろしながらメッセージと正しい賛美をできる学校をたくさん作って、多くのタラッパンを作るようにすれば、暗闇の勢力を破るのではないでしょうか? こういう気がしています。これをまた具体的に、どのようにすれば良いのでしょうか? たぶん出てくるはずです。私の特徴は、頭が悪くて、長く祈っていたら出てくるのです。ある人のように、早くできなくて、私は頭が悪いのです。頭が悪くても、聖書から伝道戦略 20個を発見しました。頭が悪くてもかまわないのです。祈っています。それで、賛美学校を所々に作ったり、全世界に許可を受けた賛美学校を作ったり、大韓民国の隅々にメッセージと賛美の使命を持って人を作って集めれば、全世界に広まって立ち上がれば、それが賛美です。全宇宙に賛美することではないでしょうか。そのような気がしています。
 
・とにかく、私たちは賛美しなければならない理由、今日見ると‘主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。’10節にあります。神様は、国々のあらゆる思想も、国々の計画もむなしくすることができるのです。私は、中国に行ってみて悟って、ロシアに行って悟りました。神様は、フィリピンの裏路地に行けば貧しいですが、それは理解できます。ところがものすごかった国、ロシアに行ってみて、このようにむなしくなるのかと悟りました。私はものすごい国、中国に行ってみて驚いたのです。どれだけ遅れているでしょうか。話す必要もありません。このように強かった共産主義も崩れるのです。神様が人間の思想と計画をむなしくされるのです。それで12節に‘幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。'と言われました。私達が神様を賛美できることが、どれくらい大きい祝福でしょうか。これが理由です。皆様がよく聞いて、賛美を回復するように願います。すると癒されるのです。どのように感謝して賛美すべきなのでしょうか。1節を見ると‘正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。'賛美が楽しくなければなりません。大きい恵みと祝福が私に臨む時、楽しくなります。方法が出てきました。2節に‘立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。'と言いました。3節を見ると‘新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。' 毎日新しい歌を作ろうという話ではありません。新しい歌は、救われた者の新しい歌を主にあって歌いなさいということです。神様を賛美するのも、楽しい心で、感謝する心で、新しい歌で賛美をするのも、いいかげんにするのではなく、巧みにしなさいと言われています。とても巧みに技術を持って賛美をしろと言いました。こういうみことばが出てきました。
 
・これから詩篇には、賛美がたくさん出てきます。それで、神様が私たちに詩篇を読むようにされているのですが、私は詩篇がものすごく重要だと思って、賛美がものすごく重要だと見ています。それで、産業宣教に行って、産業人にも頼みました。私個人は聖書を見て、そのように発見しました。私は個人礼拝の時、賛美するのに、そのように良いことがありません。声を出す時もあって、出さないこともあります。ところが、皆様に率直な告白をします。私は一時、賛美が重要だという考えが出来なかったのです。率直に言うと、礼拝の時に賛美を歌うのも、単に歌うので、重要だということを知らなかったのです。そして、誰かが賛美、合唱を非常に良くすれば、よくするなと考えたのですが、賛美が良いと感じることができませんでした。私がそれをなくしたのです。ところが率直に車に乗って、一人行く時、私はどういうのか、賛美を聞いて行くより、歌曲や流行歌を聞く方がはるかに恵みなりました。不思議にそうです。すこし感動を受ければ、流行歌の方向へ行くことが、はるかに恵みになります。すると、私には賛美がありません。そして、賛美が良いと考えてもいません。賛美を聞いたら、気分がとても悪くなることはありました。いつかというと、市内に行ったら、もの乞いをする人が、なぜか賛美を歌っていたのでした。もの乞いする人が賛美を歌っていたので、気分が悪かったのです。イエスも信じないのに、なぜ賛美を歌うのでしょうか。あの人は愚かだという気がしたのです。あの賛美を歌っても、クリスチャンは気分が悪くてお金を与えるはずはなく、仏教信者は、いらいらしてお金を出さないでしょう。むかしに‘私の住んだ故郷は'という歌や‘半月'という歌がどれくらい多いでしょうか。それで私が、あの乞食を集めてチームの働きをすべきだと考えました。その賛美を聞くのに、どれくらい悲しくて、気分が悪かったでしょう。皆様は、いつ賛美を歌いますか。私は賛美が本当に心の底深くまで良いと考えたことが、むかしにはなかったのです。なぜかこの頃は、文化がカラオケ文化なので、私の嫁がカラオケに一度行こうと言ったのですが、行くことができませんでした。行くことを考えています。そこに行って何を歌うのでしょう。いったいなにを歌うべきでしょうか。それが率直に皆様に告白するのに、賛美をなくしたのです。
 
・ところが、私が賛美はこのように良いと感じて回復し始めたのです。個人礼拝の時です。重要な時間に‘神様、本当にこういう集会を残しており、こういう困難の中にいて、また、こういう重要なことの中にいます。私が神様にささげる礼拝を受けてください、神様が本当にこの時間に働いてください'と祈って、賛美を歌うのに、どれくらい恵みになるか分かりません。これが賛美です。賛美がこういうことだなと、私は感じられました。私の水準はそれしかなりませんから、私はそのように感じられたのです。ところが、少しの間でもできます。悪魔以外に奪う者はいません。皆様が朝起きて顔を洗いながら賛美をして、礼拝してみましょう。 必ずひざまずいて教会に行って礼拝をささげることが礼拝ではありません。皆様が神様の前に、車に乗って行くときに‘神様、この車がまさに世界福音化する車です。今日、この車の中で神様に礼拝するのに、神様が礼拝を受けて下さい'と賛美を歌ってみましょう。賛美を聞いてみましょう。驚くでしょう。こういう新しい体験をしました。それで私はおもに40番(輝く日を仰ぐとき)、 446番(いわなるイエス)、またそうでなければ、福音ソングの中の‘今日、家を出る前に祈ったのですか'という賛美を歌います。どれくらい良いか分かりません。すると、その時、その時、恵みが与えられるのですが、問題は賛美が良いということを感じました。良いのです。これが一般の名曲とは比較できない状況になりました。
 
・そして、私の場合、聖書を見ると、いつも聖霊にあって祈りなさいと言われています。ダビデは‘私の唇の告白と私の心の賛美が主に受け取られるように願います'と言いました。ところが、私はいつも祈るというそのことが、私が理解できたのです。とても仕事が多くて、不思議にそうです。力はないのに、あまり多く、することが多くて、考えることがあまりに多いのです。それで、私を手助けすることができる人は、多いけれど、どのようにみな手助けすることができるかという気がして、それで鋭敏になりました。時間があってもご飯を早く食べます。これは病気になり始めたということです。時間が確かにあるのに、早く食べます。どのように人がみな理解をしてくれるでしょうか。してくれることができません。ずっとメッセージして、行って通うことだけでも大変です。車に乗って行ったり来たりしなければなりません。それで、ほとんど人はストレスを与えます。正しい言葉でもストレスで、間違った言葉もストレスで与えます。これをどのようにするのでしょうか。私は24時間思い出せるまま、祈るようにしました。それが私に恵みとなります。私は聖書箇所の中に最も恵みになることが‘いつも聖霊にあって祈りなさい'ということです。それをしないならば、私は死にます。何もすることができません。維持ができないのです。私が常時祈りをするこの祝福を味わうことができなければ、まず考えが違います。なぜでしょうか?疲れているためです。忙しいから、考えが違ってしまうのです。判断がどんどん違うようになります。それで、私がいつも常時祈りをする中に賛美をします。これがどれくらい重要か分かりません。私は皆様に必ずその祝福をすすめたいのです。すると、それだけ祈りではありません。
 
・今、地球上で唯一、他人の学校の講堂を借りて、ソウルに2000弟子を植えるためにいのちをかけています。これをしなければだめです。それで、これから教会が始まったのですが、私がここに説教しようと来ています。私は1部、2部の説教で全世界の霊的な存在と戦っています。ものすごいことです。それを悟ることが祈りです。それならば、重要なことに会った時、断食もします。皆様の霊的問題が本当に解決にできないと、深い集中祈りもしてみましょう。神様の前で、いろいろなことが起きます。それが特別祈りです。この世界が理解できれば、その時から教会にきて祈ることは、全部答えで、祝福として来ます。長老達、執事達の代表祈りをすることが、全部答えで、神様のみことばが全部祝福で来ます。このようになります。このように出来なければ、聖日礼拝が意味なくなります。以前の祈り三つが成功してこそ、これがくるのです。個人が祈りして、賛美すること、皆様が 24時間、この考えの中でからだをいつも治めるために、ストレスを受ければ、生きる道がありません。ここで祈りの祝福を味わって、賛美するということは、まず最初にくることが何でしょうか?健康の祝福です。そうでなければ、私は維持ができません。私達がみなこれから、忙しくなるのですが、維持できなければなりません。そうしながら、時間に沿って、神様の計画を追って祈ります。‘わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。'神様、私は世界福音化をしなければならず、今、多くの霊的に難しい人々を助けるべきで、私たちのレムナントを生かさなければならないので、神様が私に健康を下さいと祈れば、くださいます。そのような時ごとに、神様は礼拝に祝福を下さるのです。
 
・たぶん、神様が詩篇を読むようにされたことは、重要な理由があるでしょう。相当に、長い間賛美と祈りに対する祝福を味わいなさいとおっしゃるのではないでしょうか。賛美しなければならない理由と、感謝しなければならない理由が出てきました。それになると、前の3つになれば、まちがいなく、礼拝ごとに祝福されます。礼拝の時ごとに答えを受けます。皆様がもし重要な問題な解決ができないとすれば、特別祈りをしてみる必要があります。それで、この三つを回復しなければならないのです。皆様個人が神様の前にする賛美と祈り、礼拝、皆様が 24時間考えを持って、神様の前に祈るこの平安の驚くべき祝福、これができれば、全てのものが回復できる中に、健康が回復します。私が体験することでは、そうです。この考えと皆様の肉体とが関係あります。関係があるために息をふきかえす道がありません。私たちの考えが崩れれば、目に見えなくずっと入っていくのです。考えがどれくらい重要でしょうか。ロックフェラーは、癌にかかったということを知って、癌は病気であって死ではない、癌にかかったのか、良い、私が癌にかかったのではなく、 癌が私に捕えられたと、癌を殺そうとずっと祈りました。結局、40年生きました。癌にかかって40年生きたのでした。だから、この考えがどれくらい重要でしょうか。スポルジョン牧師は、このように解釈しました。パウロが監獄に行ったのではなく、監獄がパウロに捕まえられたのです。考えがどれくらい重要でしょうか。その考えを持って祈りなさいということです。多くのことを回復するなかで、健康が回復するはずです。その後、私たちには時を識別する特別な祈りが必要になります。この三つを悟れれば、礼拝の時ごとに祝福を受けます。これができれば、最後に現場に行ってみるならば、正確な答えが発見できます。すると、その次のことをするようになるのです。
 
・昨日、牧師達にもお願いをしました。私のメモ紙の後を見れば、私が一週間に書かなければならない文章のタイトルがあります。みな書いて送らなければなりません。どのように書くのでしょうか。これをみな書くのには、図書館を持って通わなければなりません。これを持ってどのようにするのでしょうか。とても簡単な方法があります。先週の主日にしたタイトルと本文です。すると、説教はどのようにすべきかと本文なかでの解釈は、牧師の自由ですから、この聖書のどこを強調しなければならないかも牧師の自由です。ここで問題がでてきます。ここで失敗をするのです。自由であるからです。先週の主日に受けた本文の中で、その次に神様がどのように働かれたのかによって、今日の本文の方向をつかむのです。そのようにすべきです。私の思い通りにするのではありません。今日は、詩篇33篇ならば、来週は34篇です。34篇を読む時、単に読むのではなく、今、神様がどのように働いていらっしゃるのか、それを正確に見て34篇を解釈します。すべてのメッセージがそうです。それで、あなたがたが死ぬこともせず、付いて来たのですが15年間、核心をずっとしたのでです。難しくありません。これがまさに、どれだけ答えを正確に受けるのかに従って、その次が正確になるのではないでしょうか。すると、神様が答えられたことを見ることができなければ、違った道に行くということになります。答えがないことを捕まえれば、錯覚する道に行くということではないでしょうか。それを見ることが重要です。これが、すべてです。あなたがたが重要な深い賛美を、深い祈りで、皆様も知らない霊的問題がたくさん解決します。
 
・私は学生修練会に行くと、必ず朝の礼拝を11時にして、その前は自由詩間を与えなさいと言います。ご飯を食べてもかまわなくて、食べなくても良いのです。ご飯が欲しいと言う子どもには与え、可能ならば食べないでと言います。ほとんどの学生達は、行って食べます。とにかく、そのように話します。最も気楽な時間にして、ただ一つだけしなさいと言います。最も静かな所や林に行って、聖書を読んで祈ってみなさいと言います。それが違ってくるのです。そのような所に行って聖書を読んで、祈れば違います。この時、本人も知らないで相当な癒しが起きます。たぶん、本人は知らないことです。子ども達にわざわざさせます。 一、二回したら、過去の霊的な問題が解決します。このように、祈りということ、黙想と賛美するということが重要です。ですから、わざわざ私は学生集会では、そのようにします。ものすごく助けになります。
 
・今日、あなたがたが必ず記憶すべきです。祈りは五つで理解すれば良いのですが、事実、五つと言っても簡単なのです。皆様個人が神様の前に祈りながら、賛美しましょう。そして、残りは考えで祈りましょう。皆様が時間にしたがって、神様の計画を発見することが三番目の祈りです。そして、皆様が教会にきて礼拝する時、神様の最も祝福を受ける時間で、この時間に賛美する時間は、癒される時間で、賛美する時間は、すべての悪霊が出て行く時間で、賛美する時間に奇跡がおきる時間です。これくらい賛美が重要です。そのような後、私達が現場に行けば、答えが確認され始めます。皆様の中でもし、自分に霊的な問題があると考えられる方達は、早くしようせずに、祈りの深い所に入っていけば、解決し始めます。その中の核が賛美です。賛美の中の核が感謝です。それで、感謝と賛美の理由です。今日、あなたがたが癒される全世界で賛美する民がおきる大きい祝福があることを希望して、今日、神様のみことばを見ながら、私たち教会の聖歌隊はもっと祈るように願います。どんな使命を持たなければならないのでしょうか。私たちの教会は、賛美はもちろんで、全世界の青少年を賛美で生かすべきです。今、あの先進国、後進国に賛美学校を作って、その子ども達を生かすべきだというビジョンを持つべきです。今日、あなたがたが賛美する中で癒される驚くべき力の働き、大きい祝福のみわざがあるようになることをイエス様のお名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
 神様に心より感謝申し上げます。これから礼拝を回復するようにしてくださって、祈りを回復するようにしてくださり、賛美を回復させてください。それで、完全に癒される神様のみわざが起きるようにしてください。私たちの主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン