2003年 04月 20日 インマヌエル教会聖日メッセージ


1部 /オリーブ山でのメッセージ
(マルコ14:27-31)
 
 
・今日は復活主日です。一番重要な日でもあって、一番理解ができない、そのような部分でもあります。子どもの時は、家族や両親がものすごく重要です。幸いなのかは知らないのですが、私の父母が、簡単に他人の話をするとか、他人の話をよく聞くとかいう人ではありませんでした。私たちが横で見ているのですが、時々、けんかをするのを見ると、けんかの内容を静かに見たら、話が間違っている、正しいとけんかをするのをたくさん見ました。そのような時ごとに、私の父と母が、内容を話しながら笑うことを聞いたのです。いらない話をして、あのようにけんかをすると言っていました。そのようなことを見る時、すこし両親に影響を受けたのではないかと思います。何でも確認してみる習慣があります。私は、ほとんどすべて、報告を受けたり、他人の話を聞いたことを確認しないで行動に移したことは、百発百中、すべて失敗しました。ほとんどみなそうです。副教役者が報告をしてくれたり、他のチーム達や大きい団体から報告を受けたりして、報告のそのままをしたら失敗しました。いつでも確認をしてみたら、そうではありませんでした。少しずつ違っていて、正しかったとしても、方向で違っていました。話は正しくても、感情と表現が違うのです。こういうことを私が感じます。だから、たぶん私の頭がそのような部分に問題があるのではないか、ある面では良いことだと言えると思います。
 
・それで、私が聖書がよく信じらられず、復活が信じられませんでした。何で人が復活をするかということです。そして、どんな根拠があるかと、一年365日いつも不信仰で生きていたのですが、最も不信仰になる日が復活主日でした。それで、私自らが葛藤が生じるのですが、自分はクリスチャンなので、教会に行かないわけにもいかず、一年に一度ずつ体育館や龍頭山公園等で連合礼拝をささげるのですが、みんなで行くから、他の人といっしょに行きました。私が行って静かに聞いていると、説教する方も私もほとんどみな似ていているようで、信じられないのです。どのように、このように復活をするということなのか、信じられませんでした。率直に言います。聖書にある話なので、否認することはできなかったのですが、勇気がものすごくあるカナダの牧師連合会会長が、自分は復活を信じることはありえないと言いました。公的に話したのです。まず、私が見る時、その人は信仰がないことは同じですが、勇気があるなと思いました。私は勇気をもって口に出して言うことができませんでした。ケニアに行ったところ、タラッパンで仕事をすると言いました。そうなのかと言ったら、この方が聞きもしなかったのに言う話が、自分はイエス様の復活が信じられないと言いました。そうなのかと言いました。勇敢に話をしたと思いました。
 
・私が幼い時、一番心配した部分で信じられなかった部分がイエス様の復活です。復活してどこへ行ったということなのか等です。一つ、二つの疑問が生じるのではありませんでした。ある日、私がイエス様が復活なさったとのことが分かり始めたのです。分かりながら、信じられるようになり、色々なことがおき始めました。それで、本当に重要です。イエス様の復活を誰も信じなかったのです。ですから、私がものすごく異常なのではありません。ローマ人とローマの兵師達は信じないで、ユダヤ人も信じないで、はなはだしきは、イエス様の弟子も信じなかったのです。イエス様の弟子が信じていたなら、変わったでしょう。ところが、イエス様に付いて回りながら一番みことばを受けたマリヤ、この人も聖日の夜明けに屍体に塗る油を持って行ったとなっています。その時に、イエス様に会いました。だから、ただの一名も信じなかったのです。なぜでしょうか?こういうことがないからです。それで、イエス様の復活は、歴史的な事実であることは明らかです。ところが信じられないのです。今でも、ローマの記録を見れば、その時、イスラエルがローマの植民地になっていたので、ローマ法により殺されたのです。ローマ法で、政治犯でも重要な凶悪犯は、十字架で処刑するようになっていたのですが、世の中的に話して、政治犯としてかけられたのです。政治犯でイエス様が十字架で 処刑されたのですが、ローマではどのように記録されているかというと、十字架で死んで復活したと記録されてはいず、十字架で処刑されたのに死なないで、目覚めたと記録されています。それを見れば、歴史的な事実であることだけは明らかです。それで、私達が‘ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け'と信仰告白します。ポンテオ・ピラトはローマの総督なのですが、イエス様は罪がないと話しました。罪を探すことができないから、あなた達がしなさいと言いました。だから、民たちが、イエス様を十字架で処刑しろと話したのです。それを見る時、ポンテオ・ピラト総督は罪がないと言ったということです。しかし、私達が使徒信条を告白する時は‘ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ'と告白します。その話は、ポンテオ・ピラトという総督の時にこの事件があったということです。歴史的なことを話します。とても重要です。単に、イエス様がある日十字架にかけられて死んで、復活したということではなく、ピラトという総督の時、裁判を受けて、十字架で処刑されました。それでよみがえったという証拠です。
 
・明らかなことは、事実だということです。誰も信じませんでした。特に、誰が信じなかったかというと、ユダヤ人とイエス様を処刑した当局、ローマ政府で信じないで、その話をイエス様があらかじめなさったゆえに、わたしは十字架で死んで、三日後によみがえるはずだと言われました。そして、弟子たちにオリーブ山に来なさいと、みな話されていました。しかし、これが信じられるでしょうか。弟子も信じなくて、みな信じませんでした。ローマの兵士とユダヤ人たちが、イエス様を十字架で処刑して、墓に入れて、墓を守っていました。なぜなら、言葉があったためです。もしかしたら、屍体を誰かが持っていくかもしれないので、守っていたのでした。大きい軍隊が墓ひとつを守っていたのでした。それは、イエス様だけでなく、重大な犯人が死んだり、何かあることにしたがって、そのようにするのです。特別に、イエス様に対しては、おっしゃっていたゆえに守っていました。そのような明け方でした。夜明けにいったい想像できるでしょうか。イスラエルの国の墓は、韓国の墓のようになっていず、家に作られています。家に門があります。門をあけて入っていってみることができるのです。ところが、突然に墓、それは墓でなく家なのですが、その中から光が出てきたのです。あたかも、夜にあかりがある家に光が照るようにということです。異常だと考えたのに、兵士が全く同じくみな見ることはできなかったのですが、守っていた兵士が見たら、異常だと考えたのと同時に墓の門が開いたのです。そこから人が歩いて出てきたのでした。人が歩き出すのに、イエス様が歩いて出て来られました。だから、どんなに行った大きい人も、皆様ならばどうでしょうか。聖書と歴史の記録を見れば、イエス様が歩いて出て来られたので、守っていた人の中の半分程が気絶したと書かれています。ある人は、見て衝撃を受けて、その事実をユダヤ人とローマ当局に報告しました。この人が本当によみがえったと言いました。私達が見ていたら、光が照らして、門をあけて出てきたと言ったのです。本当かと尋ねたら、本当だと言いました。だから、イスラエルの人々が大変なことになったのです。どうして、この人がよみがえったということかと、この人たちにお金を与えながら、とにかく口を閉じろ、この話が本当ならば、普通の問題ではない。とにかく、普通の問題ではなくて、国家が揺れて、政治が揺れると、秘密にしろと言いました。見た兵士たちにお金を与えたのでした。政治をする人達は、普通、そのようにするでしょう。お金を与えて、口を閉じなさいと言いました。けれども、その事で口が閉じられるでしょうか。イエス様が、よみがえられたのを見た人が、このような人々がいた、あまりに衝激的なことが行われて、兵士にお金を与えて、見なかったことにしなさいと、口を閉じろと言ったという、その話しまで広まったのでした。
 
・それで出てきた説がいくつかあります。元々、どの国でも政治をする人たちは、私たちと違います。イエス様がよみがえったといううわさが本当だとか、この人達が最初に作り出した話し、操作説がなぜかと言われるので、どのように死んだ人が生きるだろうか、幻を見たのに違いないと言いました。幻を見たが、どのように死んだ人がよみがえるのだろうかと言いました。それが幻想説です。そうではなくて、本当に見たと、一、二人でもなくて見た証人が多くいました。だから、はじめには、その人々が主張したのが、自分達が夜明けに少し疲れていて、眠り込んだ間に、イエス様の弟子なのか、誰なのかは知らないけれど、イエス様の屍体を持っていったと言いました。それが、復活に対する弁解の1番目の説です。そうではなく、私達が本当に見たと言うので、その次に話したのが、幻想説です。幻を見たので、何で人が死んでよみがえるのかと言いました。正常な人ならば、そのように考えるでしょう。ところが、嘘は長く続きません。そうではなく、本当に見たという証拠がおき始めるので、それで、ユダヤ人とローマ人が言った話が、今でも記録で残っています。自分達は、イエスを完全に殺さなかったので、この人は普通の人ではなく、死んでそのように血を流して死んだのに、私たちは確かに死んだと確認して、墓に移したのに、どのように目覚めたのか。私達が完全に殺さなかったのだ。死んでよみがえったのではなく、気絶していたのが目覚めたのだと言いました。これが気絶説です。こういう言葉が広がり始めたのです。ところが、イエス様があちこちに現れて働き始められました。
 
・この事実を知らなかった私は、むかし、言葉はクリスチャンであって、神様の子どもではなかったのです。なぜでしょうか?信じられないからということです。そのようなある日、聖書を見ながら信じられ始めたのですが、神様のみことばを静かに見ると、皆様の家と全世界がやられている事件が、創世記3章の事件です。ところが、イエス様が創世記3:15の主人公として来られるはずだと言われました。私はその時から、目が開かれるようになり始めたのです。そして、イザヤ7:14を見ると、処女が男の子を生むと言われました。私はこの話がとうてい理解できない話しなのに、あまりにも科学的なことだと分かりました。アダムの子孫は人を救うことができません。その方がいらっしゃったのですが、マタイ16:16に主は生ける神の御子キリストだと告げました。キリスト、この言葉は、預言されたその方で、生きておられる神様の息子だと分かったのです。あまりにも科学的な事実が分かりました。今日初めて教会に出てきた方がいらっしゃるでしょう。私は、私達が嘘をついているということを知っていました。幸福でないのに幸せだと言い、成功という保障もないのに、成功しようとあちこち回ります。幼い時から、勉強を熱心にして、一流大学を出て、高試をパスしたとしても、成功するという保障もないのに、私たち人間は、だまされて熱心に走るのです。むしろ、人間が人間をだまして違うように思っているのです。Iコリント 15:3に、パウロがこういう告白をしています。‘キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、'と言いました。本当に驚くべきことです。こういう人はいません。預言されたとおりに死んで、預言されたそのままよみがえられました。イエスがキリストということが明らかならば、死の中からよみがえらなければならないのに、その方が聖書通りによみがえられました。Iコリント 15:45を見れば、もっと分かる話しが出てきます。最初のアダムは生きた人になったのですが、2度目のアダム、イエスは生きる霊ではなく、生かす霊だと言われています。これは神様と同じです。私たちは霊的存在ですが、生かす霊ではなく、生きる霊です。神様は生かす霊で、人間は生きる霊です。正しい話しではないでしょうか。46節を見ると、その方は肉に属する者ではなくて、天の属す者、御霊に属す者だと言われています。47節を見ると、その方は土に属す者ではなくて、天に属す者だと言われました。そうしてこそ、できることではないでしょうか。時々、米国でも仁川でも、ヨーロッパの空港に行ってみれば、空港入口におりて出てくれば案内する人が出ています。出迎えに来る人がいます。そのような人々が、時々見れば、紙を持っています。こういう紙をなぜ持っているのでしょうか。自分が探す人を聞いているのです。自分のお母さんがくるのに、紙を持っているでしょうか。そうではないでしょう。例えば、イ・ソオン牧師が米国へ行って来たのに、イ・ソオン牧師の奥様が紙に「イ・ソオン」と書いて持っていることはありません。そうでしょう。この紙を持っていることは、名前を持って立っているのに、お互いが知らないから、することです。だから、私がこの人に会うべきなのに、顔も知らず、会ったこともないのです。キム誰かとは知っていても、会わなければならないのに、その人を見たことがないから、サインを出しているのです。私があなたの名前を書いているから、そちらへ来てくださいということです。すると探して来るのです。
 
・この地に確かにキリストが来るはずなのに誰か? ということです。あちこちにキリストだと言うのに、証拠があるべきでしょう。何がキリストなのか。これを聖書にあらかじめ預言されました。釜山中央教会伝道師であった時、二人の学生が来ました。この教会の伝道師かと尋ねたので、そうだと言いました。重要なメッセージをしようときたと言いました。私が見たら異常でした。一名は立っていて、他の一名が立っているその人を見て、この方がキリストだと言いました。あなたは誰かと尋ねたら、自分はバプテスマのヨハネだと言いました。聖書にあるとおりに話しました。そばに立っている人は、キリストのように格好をつけて立っていました。それで、私があなたはバプテスマのヨハネなのかと尋ねたら、そうだと言いました。すると、あなたはバプテスマのヨハネらしく答えなさいと言いました。嘘をついてはならないと言ったのです。精神病院に何度か行ってきたのかと尋ねたら、2度行ったと言いました。私が、また行くだろうと言いました。出て行きなさいと送ったことがあります。それを見ながら、私が何を感じたかというと、そのような方法で出て来てキリストといえば、話すべき言葉がありません。誰がキリストでしょうか。キリストは一人で良いのです。キリストがこの地へいらっしゃって、創世記3章の問題を解決なさって、キリストがきて、私たちを救うことができるのに、だれでしょうか。ここに対して答がないのです。だから、この人もキリストで、あの人もキリストだと言うことができます。マタイ24章を見れば、最後の時、あちこちでキリストと言うようになるのです。ところが、聖書は唯一の証拠を与えたのです。これからキリストが来るはずだけれど、いろいろな証拠でくるはずだと預言されました。みな預言されたのです。どこで生まれるかまで預言されました。生まれた時、王が殺そうとするので、エジプトに逃げて行くはずだということまで預言されたのです。ところが、キリストがくるはずなのに、キリストが生まれて、家で安全にいることができなくて、うまごやのかいばおけにいるようになることまでです。ところが、その方がキリストなのですが、十字架で処刑をされて、墓がなくて他人の墓を借りて埋められ、埋められた後、三日後に復活するはずだと言われました。預言されたのです。その方がキリストです。私はそれを発見しました。イザヤの聖書でそれを発見しました。イエス様に対して説明された書がイザヤです。イザヤ書は、旧約の福音書だと言われます。どれくらい驚くべきことでしょうか。だから、キリストであるならば、復活できなければならないのです。なぜでしょうか?これあから、私たちもキリストのように完全なからだで復活して、天国に行くようになるのです。私はこの部分が分かり始めました。
 
・今日、私たちの信仰を見てみましょう。イエス様が、こういことをあらかじめ知っていていたなら、何ゆえに失敗するでしょうか。今日、マルコ14:27を見れば、イエスが弟子達に「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。」と言われ、28節に「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」確かにあらかじめおっしゃられたのです。こう言われたら、ペテロが「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。これが私たちの信仰です。実際に私たちは、神様のみことばを信じないで、実際に私たちは簡単に誓って、私たち人間がどれだけ弱いかということを説明しています。ペテロが悪い人だということではなくて、私たちもこういうことがあるのです。これが私たち人間です。イエス様が復活なさって、これらすべての問題を解決者としてきたキリストだと本当に信じたとすれば、簡単なことなのですが、このように話したペテロが、否認しました。これはペテロの信仰でなく、私たちの信仰です。私達がそうなのです。私は途方もない祝福を知らなくて、ほとんど失敗して、福音を知った後にも、私たちはよく知らずにいるのです。私が知っていることには、クリスチャン達の中に救いの福音がどうなのか知る人をあまり見ることができませんでした。ところが、それを知る人は一名ももれなく成功したのです。私が見たのです。本当に驚くべきことです。私が見たクリスチャンの中では、ほとんどいませんでした。私は、30年伝道しました。30年伝道した中に、行く所ごとにみわざが起きました。今まで来る悩みで、どのようにすれば伝道できるか、どのようにすれば、多くの人を生かせるのかという悩みをした場合はありません。内部で利益争いが度が過ぎて、それを止めるのにいままで苦労したのです。一度も、外部で苦労したことはありません。そうしたあと、外部から信徒を抜かれると私たちを攻撃して、異端だとされました。それを避けようと苦労しましたが、伝道していて苦労したことはありません。行く所ごとに答えを受けました。物質がどんなになくても、神様は私に物質を与えて、どんなに疲れていても、神様が私に健康を下さいました。だから、どれくらい驚くべきことでしょうか。本当です。本当に、この事実を信じるならば終わったことではないでしょうか。一名も失敗しないでしょう。一名もです。
 
・それで、私達がいつも気をつけなければなりません。何に気をつけるのかというと、少しだけ誤ってもじっとしていないのです。それがクリスチャンです。少しだけ損害があるならば、じっとしていません。いつもそれを経験しました。福音のために譲歩したり、 待つこともしません。待たないのです。それを見て、本当に福音を理解するならば簡単なのに、必ずペテロのようです。ペテロが私達がどのようにイエス様を否認することができるか、そのように話しました。そのように話して、後ほどイエス様見て、前で呪って否認しました。これがペテロです。また後悔もします。これが私たち人間なのかも知れません。誰でもみなそのようなことがあるのです。もしイエス様が復活の主であるという事実を弟子が信じていたなら、どうしてそのようにすることができたでしょうか。揺れないでしょう。皆様が救われた者の祝福を本当に理解するならば、揺れる必要がありません。皆様がこの契約を本当に捕まえてくださることを主の名前で祝福します。
 
・復活なさった主の恵みが、皆様に今日最高に臨むようになることを願います。ほとんどみなそうです。私はいつもそのようなことを感じます。静かに見れば、人々が話すのを見ると、本当に信じれば良いのに、そのようにこういう部分はほとんど違います。何と説明しなければならないのか分からない程に、人々が多いでしょう。私たちタラッパンは、ものすごくたくさん復興していて、ずっと成長するはずです。今回もヨーロッパに行ってみて、とても神様に感謝しました。レムナントがおきて、彼らが信仰がとても良かったのです。私は今回、集会をしながらものすごく恵まれてきました。福音運動がおきているのは、神様の力でしょう。ところが、私たちの大部分の人々は、何でもないことに縛られて倒れるのです。大きいことでもなく、小さいことに崩れます。もしイエス様が復活の主だということを本当に知っていたなら、弟子たちは、揺れる理由もなくて、気落ちする理由もないでしょう。イエス様が復活の主であるという事実を知っていているなら、イエス様に敢えてそのようにできるでしょうか。誰も信じなかったのでした。しかし、その方はキリストだという証拠で復活なさいました。私はこの事実が、そんなにも信じなかったのに、信じられ始めたのです。どれくらい大きい祝福か分かりません。私は復活信仰に対しては、いくつかの答を持っていなければなりません。今日、あなたがたがこの信仰を回復すべきです。創世記1:1-13を見れば、福音でなければ誰も暗闇、空虚、混とんの中で生きざるをえません。この光がまさに福音です。2番目に、私たちは創世記3章 問題から抜け出すことができません。それを原罪と言います。それで、神様が創世記3:15に主人公を送られたのですが、その方がイエスです。その方がキリストならば、十字架で必ず死んで復活なさらなければなりません。
 
・それでパウロがイエス様はキリストで、その方は復活なさったと伝えませんでした。十字架に死なねばならなくて、復活しなければならない理由を説明したのです。パウロは、一段階跳び越えた説教をしました。それが使徒17章です。イザヤ7:14、私たちクリスチャンが理解しなければなりません。処女がみごもって男の子を生む。その名をインマヌエルと名づける。私たちは、金氏や朴氏や柳氏は、キリストになり得ません。 それで、神様の息子、人間の子孫でない処女がみごもって男の子を生み、その名をインマヌエルだと呼ぶと言われたのです。これが信じられなければなりません。この事実が分からなければならないのです。出エジプト3:18に、血を塗った人、この契約を受けた人は抜け出すようになりました。それとともに、三つの祭りが理解できなければなりません。キリストという単語が理解できれば、あなたがたは復活の秘密を味わうようになります。キリストとはなんの話でしょうか。サタンと地獄の暗闇の権勢をなくしました。皆様がこの三つゆえに滅びるのです。これをなくしたのがキリストです。キリストという時、まさに神様の実体です。だから復活するしかありません。私はこの事実が信じられ始めたのです。事実は、この時から祈りの答えを受けました。それとともに、3つの体験がきました。最初、救われたという事実が体験できました。救われていない人も教会に多いという事実を、体験しました。より驚くべき事実は、救いの福音を知らなくても働きをする人が多いのです。すると、全部、反対になる働きをするという事実です。それで私が中高等学生達にこの前、宿題を出したのですが、有名な占い師を訪ねてみろということです。その話をなぜするのでしょうか。私達が救われた事実を知るようになります。あまりにも驚くべきことです。2番目に体験したことが、精神病者を見ながら、精神病者と悪霊につかれた者を見て、イエス・キリストの御名で祈る時、起きたことです。多くの体験と証拠があります。私に三番目の体験が来ました。私が30年伝道しました。イエス・キリストを宣べ伝えた後に、どんなことがおきるのでしょうか。間違いありません。
 
・今回、レムナントに話しました。絶対に揺れる必要はありません。この救われたという事実は、ものすごい事実です。知らずに味わっていないのです。この中に全部すべて入っています。学生が申し訳ないけれど、今、本当にうまくいっているからする話ですが、両親がこの学生と相談をしてくれと言いました。自分の子どもだと言いました。この子どもは、私をみつめることもしませんでした。母が無理に連れてきた子どもが相談の申請をしたのです。私に時間がなくて、私がソウルで飛行機に乗りにいくので、そこで飛行機に乗っておりて行く、その二時間に話をすることができると、代案学校の学生達と一名ずつ相談をしました。しながら言ったのは、学校も放棄して家を出てきて回りながら悪いことをしたが、それは誰にでもありえることだ。私もとても家出してみたかったが、勇気がなくて出ることができなかった。私も君のように学校に通うことが嫌いだったのに、出来なくて通った。だからそのようなことはある。それが問題ではなくて、君は、今、年齢がいくつかと尋ねたら、16才と言いました。本当に驚くべきことだ。私は 27才でキリストを知ったのに、本当に祝福を受けた。君は 16才で知ったから、成功するのではないか。驚くべきことだ。いまは理解できないだろう。どのように理解できるだろうか。ところが、この学生が 3ケ月か勉強して、全科目、みな合格したのです。そして、その後に約六ケ月勉強して、大学に入って行きました。頭も良い学生でした。それを見て、学生達がキリストを知る秘密がわかるのかと思いました。ほとんどのクリスチャンが、この部分を失敗するのです。
 
・復活なさったイエス・キリストという話は、今でも生きておられるということではないでしょうか。イエス・キリストを受け入れる瞬間、あなたがたの霊的な状態は変わるようになります。霊的な目が開いた人は、すぐ理解できます。あなたがたは、キリストを受け入れる瞬間、皆様の中に聖霊で働かれるために、救われた者となります。イエス・キリストの御名で霊的問題を持った人にメッセージをすれば、すぐ分かるようになります。皆様が伝道するという事実、福音を持っているという事実は、時間が経てば経つほど、できるようになっています。これを認めないで信じなければ、実際には持っていないからでしょう。持っていれば、実際に日が経てば経つほど、できるようになっています。どれくらい驚くべきことでしょうか。この福音を神様が私たちにくださったのです。その方がキリストだという証拠で、死から復活なさいました。私たちは信じられないけれど、聖書には預言されています。聖書通り死んで、聖書通りよみがえられました。私は最も重要なこの事実が信じられる前に、どんなに苦闘しても答えが来ませんでした。率直な告白です。どんなに伝道しても伝道がだめでした。復興がだめで、できることがありませんでした。未信者と全く同じでした。未信者と似ているようになる事がありませんでした。最もやぼな人として生きました。すてきなことがあるでしょうか。持ったものがないのに。率直な告白です。教会に熱心に通ったのですが、良くなりませんでした。 この部分が信じられなくて、私と関係なかったのです。私がそんなに仕事ができないことはありません。仕事をちょっと良くするので、他の人達は、信仰が良いと思っていましたが、私は信仰がありませんでした。そして仕事を預かってすれば、イエスを信じようが信じるまいが関係ありません。仕事を引き受けたことは確実にして、不明瞭ではありませんでした。だから、他の人が見れば、信仰が良いと考えることができます。しかし、私は信仰がありませんでした。教会の仕事はみなしました。他人が見れば、信仰がものすごく良いように見えました。私が悔い改めて、週報まで私がみな作ったのです。印刷して、みな作って、どれだけ熱心に研究したか、週報を作るの印刷をしたことがあります。印刷屋で印刷するよりもっとよく作りました。だから仕事を熱心にしたのです。しかし、それと救いとは何の関係があるでしょう。なんの関係もありません。私はよくなりませんでした。どんなに苦闘してもだめで、祈りの答えもだめで、いつも心配で、常に貧しくて、いつもそれが私を脅かして、実際にそれゆえに私の人生をかけるほど、いつも不安でできることがありませんでした。それだけではありません。霊的問題でだめでした。みことばも分からなかったのです。それで、説教を準備するのに、他人の説教をどれくらい線を引きながら読んだのか、それを写していつもそのように説教をしました。それしか仕方がなかったのです。私はなかったためです。ある日、暗闇の勢力とあらゆる呪いと地獄の権勢を悟ったら、創造の働きでだけできるようになります。神様ご自身でなければなりません。その方が死から復活できなければなりません。その方が私たちを救ってくださったということです。私はその復活が信じられたのです。そうでなければ、私たちは救われません。その時から答えが来たのですが、じっとしていても、伝道の門が開いたのです。そして、私が怠け者であることをご存知であって、神様が私が行く所に門をみな準備しておかれました。そして、それほど頭が回らないことをご存知で、動く所ごとに祝福を備えてくださいました。どれくらい恐ろしいことでしょうか。私達がしたことがどこのあるでしょうか。私がすることは、ヨーロッパに行って、メッセージして早く帰ってくることです。それしかすることがありません。行く時に疲れて、帰ってくる時に疲れるから、どのように来るかそれしか私がしたことはありません。ヨーロッパの学生達が、信仰が成長して、働きが起きたことを見て、どのようにこれが私がしたことでしょうか。福音の力です。
 
・どのようにして、麻薬した人が悔い改めて恵みを受けるでしょうか。麻薬を切ることができるでしょうか。切ることができません。大統領の息子見てみましょう。刑務所に六回行っても、切ることができないのです。切ることはできないのです。福音の力がどれくらい大きいでしょうか。今日も行ったら、私の部屋に贈物が置いてあったのですが、写真でした。見たら、本人には申し訳ないけれど、麻薬したその人でした。どれくらい残念だったでしょうか。私が集会するのに座っていることができませんでした。集会で座っていることはできなくて、行ったり来たりしていました。とても確かにそのようにしていました。説教していたら、人があまり行ったり来たりしたら、それも神経を使います。なぜそうなのかと尋ねたら、あの人が麻薬を切ったのに、切ることができないで、とても喉が渇くので水をずっと飲むのだと言いました。外に行って冷たい水を飲んでくるのでした。ずっと飲むので、お手洗にずっと行ったり来たりしていました。 私が見たら、本当にだめだなと思いました。説教はわかることもできませんでした。霊的な問題にあまりに苦しめられていたのです。麻薬がどれくらい怖いか分かりません。からだに入っていって回るのを耐えることができないのです。そのような人が、福音を受けて、私たちの教会で 1年くらい訓練を受けて行きました。この前、結婚して感謝すると写真を送ってきたのでした。本当に、その人は切ることはありえない状況でした。病院でもだめで、医者もだめだと告げて、薬もだめで、どうしてそれが可能でしょうか。本当に私がその人を見て、福音の力はものすごいと考えました。可能なことでしょうか。実際に医者に尋ねてみてください。麻薬が入っていって、ヒロポンのようなものは10年間回ると言いました。これがどのように可能な話でしょうか。
 
・青少年に霊的問題がきて、家も出て、学校も離れて、教会もみな離れて回るのに、この青少年達が、福音を聞いて悟ったということです。それがどのように可能な話でしょうか。福音でなくてはだめなのです。福音の力はものすごいのです。無理にレムナント集会に送ったのに、集会に一度も参加しないで、外に立っていました。なぜ外に立っているのかと尋ねたら、暑いからだと言いました。みなが暑いので、君だけが暑いのかと言ったら、私は暑いのは耐えられないと言いました。分かったと言ったのですが、集会参席はしなくて3年来ていました。母親が送るので、来なければならないから来るのですが、ひょっとして恵みを受けるかと思って送ることはするのに、この子どもは全く参加することはなかったのです。3年目に来た日、私にサインをしてくれと言いました。その理由は、行っていないのかと思って、親がさせたことでした。それでサインしてあげました。ところが、この子どもが 4回目の集会では、前の席にきて座っていました。見れば分かるでしょう。この子どもがみことばを聞いていたのです。あまり不思議に思って韓国に帰ってきてから米国に電話をしました。その子どもが驚いて、なぜしたのかと聞いたのですが、単にしたと言いました。感謝だと言ったのですが、何か話すべき言葉があるでしょうか。私が話す言葉はなくて、良い生活をしろと言ってやりました。とても感謝したのです。この子どもがこの前見たら、床に座って恵みを受けて書くのを見ました。私がそれを見ながら、どのようにあんな子どもが、福音でなくて何の圧力でできるでしょうか。強制的にしてできることでしょうか。驚くべき神様の働きで、暗闇の働きを破る、この驚くべき福音です。主は生きておられ、今でも聖霊で皆様とともに働いておられます。本当に今日、大きい勝利する祝福の答えが始まる日になることをイエス様の御名によってお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
 
神様に感謝申し上げます。私たちにキリストが必要なので、神様がキリストを送られたことを感謝申し上げます。一般人の人は、キリストになり得ないので、死から復活した者を神様が備えられたことを感謝申し上げます。その方が、すなわち肉体は人でしたが、神様の驚くべき息子で、神様であることを私達が信じます。今日、この席に聖霊で働いて、私たちを癒してください。私たちに復活の信仰を回復させてください。創造の信仰を回復させてください。新しく生まれる信仰を回復させてください。霊的な新しい力を得る機会になるようにしてくださって、全世界がこの復活の信仰で新しい救いの出発をする信仰のみわざが、全世界に起きるようにしてください。今日、この時間に説教を聞くすべての神様の人々に証拠を与えて下さって、霊的な新しい力を得て、実際的な答えを受ける救いの祝福を味わうようにしてください。主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 


2部 / 主を知る者に
(詩36:1-12)
 
・何年か前に、どこからか電話が来て、先生のテープを購入して聞いたのに、前後に賛美が出てくるけれど、その賛美をなぜ入れるのか? 賛美を入れたことは悪いか? テープの時間がたくさん余ったら、メッセージをもう一個入れて、みことばを聞くようにして、つまらなく前に賛美、後にも賛美を入れるのか? こういう話をしたことがありましたが、まず分かりましたと言いました。賛美はそのようなことではありません。まず私達が恵みを受けて前後で賛美するということが本当に重要なのに、今日は全世界で、インターネットで、衛星で礼拝をささげています。キリストが復活なさった日を賛美する特別賛美があるために、可能ならば、メッセージを短くします。賛美する時、単にせず、参加しながら祈って賛美の中で恵みを受けて、また私たちの聖歌隊員が祈る中で賛美して、もし皆様が祈りの中で賛美に参加すれば、本人も知らない癒しが起きるようになるはずです。メッセージをしたり聞きながら祈るということは、ものすごく重要です。それで、あなたがたが神様の重要な祝福を受ける貴重な日になることを希望します。
 
・短くメッセージを伝えようとつかんだタイトルが10節を見れば‘あなた(主)を知る者に'となっています。理解するということは、本当に重要なことです。知らないぐらい怖い単語はありません。ソクラテスは、こういう話しをしたのですが、罪の中で一番大きい罪が無知です。ソクラテスが言った言葉です。一理ある言葉です。ホセア4:6‘わたしの民は知識がないので滅ぼされる。'となっています。内容は違いますが、同じ意味です。その知識を言うなら、霊的な知識を言います。知らないことがどれくらい怖いか分かりません。知っていてこそ、味わうことができるのです。皆様が賛美する時、賛美を知らなければならなくて、道を行く時にも道を知らなければならないでしょう。理解するということが、ほとんどすべてです。私がむかしに、私たちの信徒の家を訪問して行ったところ、そのご主人は、信仰生活をよくする方でないのに、私を連れて外に行って、家の内外にとてもすてきな盆栽が多くありました。私が説明してくれと話さなかったのに、一時間盆栽に関して説明をしました。先生、盆栽はこういうことが高い、こういうことが良い、私はそれまで知らなかったことを聞いたのです。盆栽は長いより短いのが良い。そして盆栽は鉢に入れているのですが、根が見えるほうが良い。根が見えなければ、ただ植えるように見えるから、根が見えるのが良い。まっすぐになっているより、曲がったほうが良い等、説明を多くしてくれました。山に行って盆栽になりそうな木は、すぐには抜かないということです。すぐに抜いたら枯れてしまうので、前もって根を少し切って、その次に何週かあとで移すと説明をしました。盆栽はどうなのが良くて、悪くて、一時間ほど聞いたのに、だいぶ盆栽に関する知識を持つことができました。その後に、ある集会に行ったのですが、山に登ったら、あれは盆栽にすればいいだろうというような考えになりました。それまで一回もしなかったのに、それほど知識が重要です。‘あれは盆栽にしたら、本当に良い木だな’という感じがしたのです。
 
・知らなければ絶対にだめなことがあります。人間の運命が何で、どのように解決になるのか、未信者は全く知らずにいます。だから、問題がくるしかありません。偶像崇拝すると子どもに精神的に問題が来るのか? この地には、精神病者がなぜこのように多くいるのか?おかしな病気はなぜ続くのか? レムナントと青年達に何なぜしばしば問題が来るのか? この地に災いがやってくる理由はなにか? 知らなければなりません。知らないことは、大変なことになります。すべて知ることはできません。しかし、重要なことは知っているべきです。今日、その中で何のみことばが出て来たかというと‘主を知る者に' 私は 10節がとても重要なみことばとみてタイトルにしました。‘主を知る者に'です。理解するということが、どれくらい重要な話でしょうか? 哲学者の中に、パスカルという人がいます。その人がとても重要な話しをしました。私は今考えても、とても重要な話しだと思います。神様が人間を創造なさったのに、人間の胸の中に虚空を創造なさったと、パスカルが言った言葉です。聖書的に正しい、正しくないと言うつもりはありませんが、とても一理ある話です。胸の中に虚空をお作りになったのに、この虚空を満たす道がありません。ただ一つだけが満たすことができるのです。これを満たすために、他のことを満たせば、満たすほどだめだということです。満たそうとすればするほど、喉が渇いて塩水をずっと飲むようなものです。パスカルが言った言葉です。満たされないと言うことです。それで、神様が人間を創造なさった時、胸の真ん中に虚空をお作りになったのに、一人だけが満たすことができます。それが、まさに神様です。普通の話しではありません。哲学者の中で、そのような話しができるということは、偉く、たいした人に違いありません。私は正しいと考えます。皆様がそのどうなことをしても結局はむなしくなります。どんなに努力して勉強するといっても、若い時は思春期とむなしくて、年をとると更年期でむなしく、度々何か空いてしまうのです。満たされなかったのを知らずに、違うことで満たそうとするので、ならないことも知らずにどんどん苦闘するのです。
 
・あなたがたの中に仇名を持っている人はいますか? 自分も知らない仇名があります。他の人が付けた仇名があります。それを見れば、あなたがたを詳細に分かります。子ども達が言う言葉の中に‘ノ・ムヨンらしい'その話はノ・ムヨン大統領のようだということで、少し無知であれば、ノ・ムヨンらしいと言うのです。よく理解をすべきです。この頃見れば‘ブッシュらしい' ブッシュをらしいということで、対話も良くできず攻撃的だということです。軍に少しの間勤めていた時、将校の中にとてもおかしな人がいました。本人だけ知らずにに、皆知っていた仇名があったのですが、誰でも簡単に知っている‘狂っている'という言葉があったのですが、その人を見て‘狂っている’というのに 自分一人だけ知りませんでした。なぜ‘狂っている’なのでしょうか? 何にでも悪口を言って殴ったからです。退屈ならば、そのようにしました。私にもそのようにしたのです。ところが、この人は将校でしたが、私より年が若いのです。私がイエス様を信じるということを知って、私をより嫌うようでした。一度私にした話が、休暇に行って帰ってきて、こっちに来いと言われたので、行ったところ神様を信じるか? と言いました。私が神様を信じると言ったら、神はどこにいるのか? 攻撃的に悪口を言うかのように、いるならば、話してみろ。この人がこのように出てきたので、私が当惑しました。その時、神様が私に知恵をくださったのです。すると将校、精神がありますか? そうしたら、精神がないやつがどこにいるかと言うので、精神がどこにありますか? と言いました。将校が分かったのです。私たちの精神がここにあるのか、あそこにあるのか、実際には分かりません。しかし、確かにあります。これがなければ大変なことになります。指ひとつなくてもかまいませんが、精神がなければ、大変なことになります。神様が重要なことは見えないようになさったのです。私が今、神様がどこにいるか説明することは難しいのです。しかし生きておられる、その次の言葉に衝撃を受けたのでした。確かに生きておられて、将校と私とすべての人のいのちを治めていらっしゃるのです。普通に話したのですが、その方にはものすごく衝撃だったようです。休暇の時、子どもを連れて行ったのですが、その子が田舎で釜にお湯を沸かしていて、そこに落ちて死んだのです。隊に帰ってきて話さなかったのですが、人が変になって、勤務もしなくて行ったりきたりして、私を呼んで神様を信じるかと尋ねたのですが、私が返事をそのようにしました。人間のいのちを支配しておられると言ったところ、私にちょっと聖書勉強をちょっとしようと言いました。どれくらいチャンスでしょうか? 他の人が外に出て訓練を受けて苦労していた時、その人に聖書を教えました。聖書勉強している途中で、涙を流すので、受け入れようと言ってもしません。出来ないのです。この方が自尊心がすごい人でした。イエス様を受け入れれば、救われます。信じますか? 信じれば救われるのです。受け入れれば、救われます。次にゆっくりします。結局はできなくて別れたのですが、その方が今、執事になっていました。伝道訓練をした時、名札をつけてきたのです。その時伝えた福音が入っていったのか知りません。この方が私に冗談と思って話したことのように したが 神様がおられるのか?と尋ねたのです。とても重要な質問をしました。皆様がおわかりの通り、牧師の息子で神学校まで通った有名な学者ニーチェが言ったのは、神様は死んだでした。そのように話したのに、むしろ若くして精神が狂って、精神病院で死にました。私はニーチェについて研究をしてみました。精神病院で最後にどのように話して死んだのか、ニーチェが外に出て、庭に行って天をみつめて、神様を呼んだということです。神様が死んだと言った人がなぜ呼んだのでしょうか? そうしながら死んだということです。そのようなことです。
 
・初めてロシアに行ってみて、共産主義はこういうものなのだなと思いました。そのように滅びたことを見て驚きました。私達が履き物を正しく履くことができなくて通っていた時、ロシアで地下鉄に乗って通っていたのです。私は行ってみてはっと驚いたのです。200年前に作った地下鉄でした。どれくらい発展した国でしょうか? 私たちは、階段を上がっておりる時、この人たちはすでにエスカレーターを作ってまだぶるぶる動いていました。どれくらい速度が速いか分かりません。そして、すでに壁ごとに電話網が付けられていたのに、3/2は故障していました。直す能力もないのです。私が行った時、いまは知りませんが、とても発展していました。そのように徹底的に滅びたのでした。私は、中国に行ってみたのですが、ものすごい建物を見て、すごいなと思いました。裏路地入っていってみたら、下水もありませんでした。私たちは、1950年代に私たちが幼い時、50,60年の時、水をどこにでも捨てていたでしょう? そのような方法で、みな捨てるのです。中央アジアに行ってみました。どれだけこの人たちが、対話ができないかというと、空港に入っていく時、かばんの検査をみなします。検査する出てくる小切手をポケットの中に入れるのです。出せと言うと、何を話しているのか? こういうやり方です。そして、通してくれなくて、しばしば文句を言います。誰かがお金 10ドルを与えれば、すぐに通してくれるのです。これが共産主義だった国です。徹底的に、みな滅びました。共産主義の第1の論は何でしょうか? 神様はいないということです。詩篇14:1 愚かな者は、その心に神様がいないと言う。今日、あなたがたは、神様を知る者です。とても重要です。それで満足して、幸福であってこそ人です。食べることで満足ならば、豚の水準にも及ばないのです。私達がもし回りながら遊ぶことで満足ならば、動物の水準にも及びません。私はそれではありません。私達がお金だけもうけて成功することだけでなるようならば分かりませんが、私たち人間は、それではだめなのです。それで、神様を知る者は、5節で、その恵みと真実を味わうようになります。6節で、神様を知る者は、守られるようになります。7節で神様を知る者は、災いを避けるようになります。どんなに考えても、パスカルが話したことと同じです。そんなにその人が説教をうまくした説教者ではなかったのに、神様が人間の胸の中に作った虚空は、神様を知ることで満たすことができると言いました。正しいことです。私は 100%同意します。どんなことも幸福には出来ません。人間であるゆえに、神様を正しく知る時、幸福になれます。理解するということが本当に重要なことです。これが今、どれくらい重要なことなのか分かりません。8-9節に、神様を知る者に、いのちの泉と光を知るようになると言われていて、10節に、神様の義の救いを知るようになると言われています。神様を理解するのです。仮りに私達が天国に行ってダビデに尋ねて、どうしてあなたは大きな事ができたのかと尋ねるならば、ダビデは話すはずです。主なる神様が、私と共におられたからです。仮りにこの講壇に、私が立たないでヨセフを立てて証しをさせれば、ヨセフはこのように話をするはずです。他のどんな話しもしないでしょう。主が私とともにいらっしゃった。
 
・有名な、スコットという学者が死ぬようになりました。子ども達、娘達をみな集めて、最後の遺言をするのに、本を持ってきなさいと言いました。長男が何の本ですか? 父の本は、何万冊もあって、有名な学者なので、何の本の話でしょうか? その時、スコットがとても重要な話をしました。私が今死んで天国に行くことになるのに、あなたたちに数学の本が必要だろうか、英語の本が必要だろうか、私が今、死ぬようになって、永遠に別れるのに、神様のみことばを持ってきなさいと言ったのです。聖書を持ってきなさいということでした。聖書を持って来させて、神様を信じる信仰を説明して死んだということです。ダビデが自分の息子ソロモンに遺言をして死にました。力をつくして、雄々しく主を知りなさい。有名だった王、その息子ソロモンがこういう話を残しました。主を恐れることが知識のはじめである。動物ならばかまわないのですが、人間である場合は、そうではありません。人間であるゆえに、神様を理解するのです。今日、詩篇でみことば通り、どれくらい重要か分かりません。神様を知らなければ 1節を見れば、恐れもなくて、無知です。恐れもなく、滅亡の方向へ行きます。どんなに話してもだめです。2節,4節を見ると、悪行を楽しむと言われているでしょう。結局 11,12節で、不運に陥るようになります。
 
・私は、皆様にとてもやさしい話ですが、最も重要な話しだと思います。神様を知る祝福を味わうように願います。神様の奥義を知る祝福を味わうようになるよう願います。神様の驚くべき知識を知る祝福を味わいましょう。ということです。その次に賛美、礼拝、祈り、みな解決します。次に本当の幸福、みな解決します。その後に、芸術、科学、みな進行していきます。それができないから、問題がくるのです。結論です。人間と動物の差異点は何でしょうか?動物は、絶対に神様を信じることが出来ません。人間だけが神様がわかるとする時、正しく知らなければなりません。私たちの聖歌隊員に、この祝福が必ずあるようになることを主の御名で祝福します。
 
・すると、簡単にどのように分かるのでしょうか? 3つのことは、崩さなければなりません。神様がわかる道、神様の息子がいらっしゃったのは、悪魔のしわざを滅ぼすためです。皆様の考え、目、耳、全部が暗やみに捕えられているために、神様がわかりません。信じることが出来ないのです。それで、神様の息子が悪魔のしわざを滅ぼしてしまわれました。皆様が運命、災いから抜け出てくることができません。それでマルコ福音10:45 すべての罪をあがなわれました。私たちは神様に会う道を知りません。知っていてもわからないのです。それで、わたしは道であり、真理であり、いのちです。わたしによらなければ誰も父のみもとに来ることはありません。聖書箇所 3ケを記憶すべきです。Iヨハネ3:8、マルコ福音10:45、ヨハネ福音14:6 この3つを記憶してこそ救われることができます。その後に信じるのです。受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権を与えられた。それが神様に会う道です。すると、最後に神様に会ったのに、どのようにその大きい奥義、力を味わうことができるのでしょうか? 祈りと賛美です。今日、ちょうど復活祭のカンタータをするようになったのですが、今日、あなたがたに本当に祝福があることを望みます。ダビデが賛美した時、王宮から悪霊が離れたとなっています。パウロが賛美した時、その現場に奇跡がおきて、聖霊が働かれたとなっています。皆様、賛美の時間にいっしょに賛美している途中で、全世界でインターネットで礼拝をささげる人まで、神様の祝福を受けるようになることを希望します。祈りと賛美、私の場合は、この部分が時間が経てば経つほど正しいという気がします。忙しければ忙しいほど、正しいという気がします。私の場合は、あまりに忙しすぎるのです。そうしたあと見ると、時間概念が他の人とよく合いません。他の人は、私ほど忙しくないようです。私が正常か異常なのか分かりませんが、あまりにも忙しいのです。時間概念が合いません。時間が多い人の考えと、質問と時間が多くの人の考えと私とあまりたくさん差があります。時間が多い人は余裕があるけれど、私は余裕がありません。差がたくさんあります。そうしたあと見ると、私がいつも祈らなければ、いらいらし始めるのです。祈りをいつもすべきだということが、あまり通じません。時間が多い人が、あまりにも余裕があるから、あまり時間がない私と対話ができないのです。私が異常です。対話が良くできないから、内心、腹が立ちます。あまりに時間が多いのか、これが良くできないのです。私一人、自ら感じるのは、祈りの力がなければだめなのです。私達が賛美するということ、神様の力を体験する祈りと賛美、とても重要です。それで今日、インターネットで礼拝をささげる方達が、インターネットを消さないで、共に賛美しましょう。今日、衛星で礼拝する教会でメッセージだけ聞く日でなくて、共に賛美しましょう! 今日、共に賛美する中に、一名ももれなく霊的に癒される、そのような日になることを希望します。今日、この席に参加したあなたがたに一つ祝福を差し上げます。今日、賛美に参加したあなたがたに、すべての不治病、霊的な病気が、主イエスの御名で癒されることを望みます。賛美の中におられるのは、主だと詩篇22:3節にあります。今日、この祝福を必ず受けるようになることをイエス様の御名でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
 神様。賛美できる時間を下さいますことを感謝します。特別賛美をするようになることを感謝申し上げます。ダビデに主が働かれるので、賛美する時間に悪霊が離れたように、今日、みことばを聞いて賛美に参加するあらゆる方達に、暗闇の勢力が崩れるようにさせてください。パウロが賛美した時、現場に奇跡がおきたように、今日、この席に参加したすべての方達、インターネットでみことばを聞いて参加する方達、今日、あらゆる衛星で礼拝する教会の上に、癒しのみわざが起きるようにしてください。今日、最高の祝福になるようにしてください。特に、すべての役員に、教役者に、大きい力が提供される貴重な日になるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン