2004年2月29日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ
1部/ 律法と福音の生き方
(ルカ6:39〜45)
少し前に、TVを見たら、ある痴呆になった話が出てきました。この人は、家族もいなくて、ひとりで山で暮らしていました。食べるものがないから、近所で、町役場で、区役所で手助けしてもらって生きていました。病気もあって、苦しい中で、やっとのことで生きていたのです。TVを見ると、そうじもせず、自分のからだも洗わず、一日一日過ごしているようでした。その人は、何を考えて生きているのだろうか? 単に一日一日、過ごしているのです。おなかが空いたら、食べるものを探します。難しいことがあると、他人の助けを受けるのです。そうしたあと、ある日、死ぬようになるはずです。人生は、そんなにしても暮らせます。しかし、信仰生活はそのようにはできません。信仰生活は価値を発見できなければ、最も難しくて損をします。皆様、他の生き方は、単に価値を知らずに生きていくことができます。どのようにするのでしょうか? 職場に行くから、通わなければなりません。自分自身で、なにかおもしろいことをさがして、対話もして、人とも交わりながら生きていくことができます。男と女が出会って、結婚して、家庭を持って、良い生活をすることもあって、離婚することもあります。それも、そのように生きていきます。そのまま、そのように過ごせば暮らせます。しかし、信仰生活は、それではありません。信仰生活は、価値を知らなければ、とても大変なことです。これは強要することでもなくて、法的な義務があることでもないのですが、価値を知らなければ、とてもむずかしいのです。もっと怖いことは、人間は宗教性があるために、信仰生活の価値を知らずにいると、相当な問題がきます。かと言って、せずにはいられません。人間は動物と全く同じ水準でないために、なにか信仰生活をしなければならないのです。これが難しい部分です。
私は信仰生活をしなければならない理由を、約20年間、探すことが出来ませんでした。事実、私は7歳の時から教会に行きました。私たちの村に私が7歳の時、教会ができたのです。私の両親が教会を行くようになったので、私も一緒に行くようになりました。それから、20年くらい後ですから27歳の時です。私はその時まで、教会に行かなければならない価値を、実際には発見できませんでした。それ以前には、信仰生活する価値を探すことができなかったのです。その理由は、ひとつしかありません。私の両親が教会に行くために行ったのです。そして、そんなにおもしろくないこともなくて、ある程度、おもしろかったのです。文化というのが、教役者が訪問してきて、信徒がきて食事すること以上、抜け出すことができないために、私もその中にいました。そうしたあと完全に私は崩れる時期がきたのです。それで、また信仰生活を始めたのが、27歳の時でした。その時は、世の中の言葉で、運命的に抜け出すことができない状態で信仰生活をするようになったのですが、それでも価値を知りませんでした。福音、信仰生活をする価値を知らないことは、最高の悲しみだと言えます。
それを今日、イエス様は盲人のようだと言われました。目の不自由は人には申し訳ない話ですが、目の不自由な人に対して言われた話ではありません。霊的な盲人を言うのです。聖書はとても強い言葉で、盲人だと表現しているのですが、目が見えないことです。そのような話を聞いたことがあります。ある青年が、さまよっていたのですが、牧師の家にきたのです。牧師に質問をしました。「本当に神様がいますか? どこにいるのか? どのように会えるのか? それだけ説明してくれれば、私がよく信じますが、どのように神様を信じるのでしょうか? 」このように質問したので、牧師が返事をどのようにすべきか分からなかったのです。住所があるならば、どこか探していきなさいと話せるでしょうが、それがこまります。見えることならば、これだと見せることができるでしょうが、それもこまります。牧師が惑っていたら、そばにいた長老が私が説明すると言いました。長老が説明したのですが、長老が青年に尋ねました。「あそこに何があるのか」とたずねたら、「蓮池がある」と答えました。「その後には何があるのか」とたずねたら、「大門がある」と言いました。「大門のそばには何があるのか」とたずねたら、「石がある」と答えました。その青年にまたたずねました。「蓮池がどこにあるのか」と言ったら、青年が怒りながら、「あそこにあるのに、なぜそのように言うのか」と言いました。「その石は、どこにあるのか」と長老がたずねたら、その青年が腹を立てました。「私が神様を教えてくれと言ったけれど、石の話しをしようと来たのではない」と言いました。「あそこに石があるのに、なぜそのような話をするのか」と言ったのです。話にならない事が行われました。その時、長老が返事をしました。「私は、このように見えても、目が見えない。私が神様を知って、神様に会って信仰生活していて長老になったが、実像は盲人だ。私が以前は見えると話さなかった。それで、私がそこに石があるのか、木があるのか、私は実像を確認する前には分からない」と話しました。「君がそのようだ。君は霊的な目がないために、神様があるのか、ないのか、分かるすべがない。」だから、その青年が少し理解できたようでした。イエス様が、パリサイ人と弟子たちに説明しながら、盲人だと言われました。だから、盲人が盲人を導けば、二人とも死ぬではないでしょうか? そのような説明をされたのでした。
ソンドという所に行けば, ライトハウスがあります。目が見えない人々を集めて教育させる所です。私が一度行ってみたのですが、行ってすぐに驚きました。表面的にはわからない人もいますが、目が見えない人は、姿がちょっと違います。とにかく、目が発達しなかったから、行動も違います。行ってすぐに驚きました。運動場で子ども達がサッカーをしていました。私たちと全く違わないように、ボールを受けていました。私は他から来ている子ども達がしているのかを思ったのですが、目の見えない人々がサッカーをしていたのでした。どのように、あの子ども達がサッカーをするのかと思って、近くに行って見たら、ボールが違いました。ボールの中に音がしていました。その音を聞いて走るのに、とてもよく走っていました。どれくらい耳が発達しているのか、聞いてそれがどこへ行くかが分かるのでした。それで、ボールを蹴ったりしていました。もちろん、音だけ聞いてついて行くために、二人がぶつかることもありますが、それでも、ボールを奪い取ってゴールも決めたりしていました。耳がものすごく発達していることを感じました。その家だけ離れれば、その時からたどたどしいのです。お手洗に行くのも、私よりはるかに速く行きますが、それは、いつも通っている所であるためです。教室、部屋に入っていくのに、なんの異常も無く入って行きました。いつも通っている所だからです。外に行っただけで、身動きできませんでした。その時は、棒を持ってゆっくりやっと行くのです。正しく棒なく行く人もいました。その人に尋ねてみたら、その人は半分くらい見える人だということでした。見えるので、よく行くのでした。このように、盲人は前が見えません。
イエス様がパリサイ人に向かって、弟子に警告なさるのに、盲人になるなと言われました。聖書で重要ないくつかのことを教えていますが、それを知らないと盲人になってしまいます。聖書にはとても重要なことが教えられています。人間と関係なく、理由も知らなく、人間が滅びる六つの理由があります。それを聖書は確かに明らかにしています。それで、未信者状態六つが出てきました。皆様が合宿訓練を受けにいけば、細かく説明します。それが、聖書がとても強く説明している秘密です。皆様、時々こういう気がしませんか? 他の家はないのに、なぜ私の家には、こういう事が起きるのか? 他の子ども達は、よく成長しているのに、私の子どもは、なぜこうなのか? ある父母は嘆息をついて、他の子ども達は、みなよく成長しているのに、なぜ、私たちの子どもは自閉症にかかって、このように困難にあっているのか? と言います。それがある面で人生です。
聖書はそれから教えています。人間自身と全く関係なく、やられることなのですが、それを原罪と言います。聖書は先ず一番に、それから教えます。人間は自分の失敗でもなくて、自分の失敗でやられることは当然なのですが、自分の失敗でもありません。それで、創世記3章の事件以後に、生まれながら、すぐに神様の子どもではなく、悪魔に属して偶像崇拝をするようになるのです。あなたがたはそのままいるのですが、深刻なこと にあえば、われ知らずグッ(降霊術)をするようになったり、人はそのようになります。時間が経てば、生きようと苦闘することの他は、全部、傷にみな終わります。その六つの段階を聖書は説明しています。そして、そこに対する原因を説明しているのです。原因はひとつですが、聖書には七つの説明がとてもよくされています。簡単にに話せば、原因はひとつです。
まず一番目は創世記1:2です。創世記1:2を見れば、暗闇、空虚、混とんがあります。その中に神様が光を創造なさいました。それで、イエス様がいらっしゃったことを見て、光としていらっしゃったと言うのです。皆様を見て言われる、光の子どもというのが、その話です。救われた人は、光の子どもだと言って、闇にはいないと話します。それで滅ぼされる子どもを闇の子どもだと言います。その話しがそれです。創世記1:2に、その時、暗闇、混とん、空虚の中にあったその時、光を照らしたのです。ところが、その事件が今でも続いているのです。その事件が創世記3章、6章に現れただけで、偶像で、迷信で現れただけで、ずっと続くのです。それで行いで救われるのではなく、信仰で救われると言われます。それで努力で救われるのではなく、恵みで救われるのだと言われるのです。人が作ったことではなく、神様の祝福で受けることです。その話しです。聖書は、この部分を重要に明らかにしています。
そして、聖書はもうひとつ重要なことを教えています。イエスを信じて救われる者に起きる祝福です。神様の子どもが受けた祝福が、どれくらい大きいかを説明するのです。それで、最高の学者、パウロがこう話しました。‘十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。’悟って言った言葉です。私が以前は知らなかったのですが、私が福音を恥だとは思わないと言いました。この福音は信じるすべての人に救いを得させる神の力だと言いました。最初はユダヤ人、そしてギリシヤ人に。パウロがそのように話しました。最高の学者、時代最高の人物、パウロが言った言葉です。簡単に話せば、目が開かれたのです。だから盲人ではないということです。皆様、何といっても、行政も重要ですが、この目から開かれなければなりません。人も重要ですが、この目から開かれなければなりません。
信仰生活を新しく始めようとするなら、この目から開かれなければ、結局は元の位置に戻ります。すると、後ほど話す言葉はひとつしかありません。私も教会に通ってみた、私も以前は熱心にした、私は以前は献金も多くした、私は以前に教会を建てる時、奉仕も多くした、私は信徒と活動も多くしたと言います。今は・・・ そのような答が出てきます。ある場合には、私はむかしに執事もした、私はむかしに長老もしたのに、私は牧師もしたのに放棄したと言います。ところが今は・・・ 簡単に話すと、元の位置に帰ってきたということです。世の中の人々は堕落したと言うのですが、堕落ではなくて、元々あったそのままいることです。この目を開くことができなかったのです。この目が開かれなくて牧師をすれば、半分死ぬのです。ここで牧師をする人、伝道師をする人が多いのですが、この目が開かれることができなければ、これから半分死ぬのです。この目を開かれることができなくて牧師夫人をすれば、反分死ぬこと以上に、プラスに重い病気にかかります。なぜでしょうか。狂うこと以外ありません。人間的に好きなようにはできません。この目を開けることができなければ、そのこと自体がどれくらい難しいか分かりません。それも知らずに、教会復興がだめだと努めます。その時から、商売人になるのです。復興しなければならないのに、復興できないので、苦しいのです。私たち教会も復興してこそ、教会の建物も建てるはずなのに、このようになるのです。それで終わるのではなく、復興がちょっとなることができたのに、静かに抜け出ていくのを見て、話にもならなくて狂う境地です。あなたがたは、とうてい理解できない事が起こるでしょう。これがどこに行くのでしょうか。抜け出てインマヌエル教会へ行きます。やはり柳光洙は異端だ、私たちの信徒をみな奪った、このようにひっくり返してかぶせるのです。自分が抜かれたと言わずに、みなひっくり返してかぶせるのです。
こういう事を反復するのです。この目を開くことができなくて、信仰生活するということは、本当に奇跡です。どれだけ奇跡でしょうか?福音も知らないのに、家を売って献金する人もいます。信じない家族が見たら、狂ったと思います。この目を開かれることができなかったのです。すると、結局は難しくなります。盲人です。この目を開かれないので、本当の味を知らないのです。それとともに、困難はずっときます。ある日、終わると思っていたら、ずっと続くのです。霊的な問題はずっと来ます。これが何でしょうか? 盲人です。だから、神様、イエス様がパリサイ人を見て、盲人だと言われ、弟子を見て盲人が盲人を導くことができるかと尋ねたのです。道を知らない人が道を導くことができるでしょうか? 皆様、信仰生活を初めて始める方達は、必ずこのようにしてください。ここに今、牧師志望者が多くいますが、この目から開かれなければなりません。絶対に、これは肉体的に聞いてはだめです。この目が開かれることができなければ、教会がだめになっています。それで世界の教会がすべて困難にあっているのです。まちがいなく、私たちの子どもは、他の理由で教会にきて座っていることがあります。牧師の息子、娘として、長老の息子、娘として、執事の息子、娘なので、教会に来るべきだというので来ているのではないでしょうか? それで座っていることができるのです。重要なことは知らずに。私の父母が、執事、長老、牧師であるので、私が教会にこなければならない。教会に行ってそんなに悪いことはなくて、教会に行けばおもしろいこともあるので通うのです。教会に行けば、気分が悪いこともあります。すると試みにあうのです。ある人は、行かなくなります。そのようにしています。どのように考えるでしょうか?
皆様が、神様のみことばを聞く時、長く信仰生活をする人が、肉体的に聞けば、大変なことが起こります。今、三年間だけ教えて行かなければならないスケジュールの中で、イエス様がなさったみことばです。あっちこっち生きてみて、話しでもちょっとして行こうということではありません。人生を生きるとしても、どれくらい 生きるか、話しでもちょっとしよう、ということで語られたのではありません。イエス様の公生涯3年で完壁なスケジュールの中で言われた言葉です。盲人にならないで。何の盲人だということでしょうか? この重要なことをのがすなということです。
目のみえない者の生き方が出てきます。ものすごい葛藤が生じます。私の目にある梁は見ないで、兄弟の目にあるちりだけいつも見えるのです。今日の42節に出てきました。‘自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。’霊的な目が開かれないので、毎日、肉体的な話し、肉体的なけんかを続けるのです。あなたが正しい、私が正しいと言って、時間をみな過ごします。イエス様が、あなたの目の梁を取りのけなさい。目の梁とは何でしょうか? 梁は大きい木です。これが目の前にふさがっているのに、兄弟の目の中のちりのような小さいことを見て、話すのです。それを見て論議をするのですか? それから取りのけなさい。そして、良い木、悪い木で悪い実をずっと結びます。43節‘悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。’世界教会の姿と、世の中の現場を一度見ましょう。このようにしている時、皆様の子ども、皆様の家、私たちの現場にはマタイ13:25を見ると、悪魔が毒麦を植えて全部みな育つようにしました。私達がこういうバカなことをしている時、私たちの子どもたちには、毒麦が植えられるのです。皆様、本当に福音の使命、価値に早く目が開かれなければなりません。これは私の話ではありません。イスラエル民族が、このようにしていた時、イスラエルの国に毒麦が植えられたのです。
私は李朝 500年を見ながら、本当に残念だという気がしました。もちろん、韓国に良いものもたくさんあります。日本をはじめとして、他の国が発展していた時、韓国は李朝五百年間、毎日、内部で戦いをしていました。この王ひとりを置いて、王の周囲にどのようにするか、どの席に座るか、前の席に誰が座るか、これでいのちをかけて戦って、殺して、毎日、そのようにしていました。それをした時、私たちよりはるかに遅れたあの島にある日本は発展したのです。信仰生活する者ではなく、未信者の生活です。今でも見てください。‘隊長キム’のようです。毎日、戦って、壊して、だまして、食いついて、殺しています。以前は、政界でそうでしたが、いまは台所で大騒ぎです。そのようなことを見ないでください。わが国の人々は、今でもそうです。外国に行って自分の民族間で告発して、けんかを一番多くする国が韓国です。外国の人々が、あざ笑います。またきたと言います。韓国人がまた告発状を持ってきたということです。自分たちの間で、またきたと言います。自分たち間でうるさいらしいのです。これが韓国人です。この程度ならかまいません。宣教師同士で打って殴ってけんかをします。宣教師の間で告発します。法的に宣教師が入ることができない国は、先生に仮装して入ります。先生として仮装して入ったから、先生ではないと告発をするのです。自分もだまして入っているのに。このように韓国の人の醜態を表して大騒ぎです。福音を伝えることができるでしょうか? 福音の「福」という字も知りません。あぜんとすることです。
これが何のことなのか見なければなりません。皆様、感謝の水準から変えなければなりません。今、私たちは盲人の姿で、どれくらい教会にいるか知りません。クリスチャンの水準から上げなければなりません。感謝する、健康をくださって感謝する、就職できて感謝する、気分が良くて感謝する、息子が健康で感謝する、家ができて感謝する。なんの話でしょうか? 感謝しないことではありませんが、なんの話でしょうか? 反対に、なんの話でしょうか? その反対になれば、気分が悪いのではないでしょうか? 未信者たちがみる時は、とても低いレベルです。これだから、ものすごい祝福の福音を伝えることができないのです。毎日、悩みが肉体的な悩みです。霊的な悩みは一つもありません。こういうようにどんどん行きます。
目の見えない者、目が開かれた者には、避けられない結末が出てきます。49節を見ると‘聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。’家を建てたのに、地面に家を建てました。東三道にやすい家がひとつあります。アパートが空席で、安いのがあります。私たちは知らなかったのですが、検事ひとりが少し枠組がはずれていると言いました。私が見たら、大丈夫なようだったのに、少しはずれているということでした。それで価格はやすいのですが、家にだれも入らないのです。私たちが小さい時、スジョンドンに立てたアパートはみな崩れました。下の基盤が誤っていたためです。簡単に話せば、三豊百貨店が崩れたのは、基盤と基礎が丈夫でなくて崩れたのです。霊的な目が暗い者の結果です。地面の上に家を建てるので崩れるのです。マタイ7章を見ると、砂の上に立てた家が崩れました。福音も知らなくて、砂の上に家を建てたので崩れたのです。一度はササン中央教会があったのに, 名前を変えました。韓南(ハンナム)教会と変えました。なぜ変えたのかとたずねたら、南の方にあるので韓南教会だと言いました。後ほど知ってみたら、意味がある説明をしました。そこは、ササンという地域です。サは砂で、サンは上ということです。だからササン教会は 砂の上に立てた教会です。聖書を見れば砂の上に立てた教会は崩れると言われました。だから役員会で気分が悪いとして変えたのです。それで名前を変えたのでした。
私は内心笑いました。聖書の砂はその砂ではありません。ササンにある砂ではありません。たとえで、砂の上に建てれば建物が崩れるように、信仰がそのようになれば、福音なく崩れるということです。48節(‘その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。’) を見ると、岩の上に建てた家と言われました。‘主は生ける神の御子キリストです’と告白したところ‘あなたはペテロです。この岩の上にわたしの教会を立てます’と言われました。簡単に話せば目が開かれたということです。福音の目が開かれたのです。霊的に目が開かれたのです。皆様の人生、事業、教会は岩の上に建てたことと同じです。福音に目が開かれれば、皆様個人は岩の上に建てた家と同じです。もし今、北のスパイで韓国にいる途中で自首をすれば、その人はこれから岩の上に立てた家と同じです。韓国政府でみな保護してくれます。重要なスパイなので、同族、民族を殺す事をしません。私はスパイで派遣されてきたのに、これからは人を殺さないで、これからは正しく生きますというと、それは岩の上に建てた家です。毎日隠れてスパイをすれば、それは砂の上に建てた家です。いつかは崩れます。スパイが自首すれば、私たち韓国ではなんにも聞きません。過去にどこに行ったか、何をしたか、爆発させた所に行ったかなどを何にも聞きません。終わったのです。福音を悟って悪魔の子どもが神様に帰ってくれば終わります。それで聖書は‘死からいのちに移っているのです’と言われました。
すると、どのようにしなければならないのでしょうか? 今日、あなたがたがこういう祝福を受けたことが事実ならば、毎日、皆様をどのようにしなければならないのでしょうか? がまんするのでしょうか? どのようにするのでしょうか? これが重要です。学生達は特に重要です。感謝することは、先週に世界で初めてレムナントの核心の集いが始まりました。私達が今、核心で集まることを、レムナントだけで別に集まるのです。私は衝撃を受けました。とてもたくさん集まりました。そして、学生達がとても良くしました。恵みを受けた学生達がとても多かったのです。その学生達にメッセージをしました。簡単にしました。Uテモテ2章から簡単にしました。本当に成功たいですか? 3つのことを捕まえましょう。霊的な兵士だと言いました。皆様、記憶しなければなりません。私たちは特攻隊です。霊的な兵士として呼ばれました。その話はなんの話でしょうか? どんな場合も、何の落胆、試み、試練はありません。どんな場合でも、そのようなことを越えるのです。それは、無理に耐えるということではありません。すでに何段階かのぼったのです。そのようなレムナントになりましょう。無理に耐えて待ちないということではありません。すでに跳び越えたのです。
霊的な兵士として呼ばれました。パウロがテモテを見て、私の息子、霊的な兵士で呼んだと言いました。すでに、あなたがたが試みにあって気落ちすると、絶対に大きい人物にはなれません。大きい祝福を受けることができる資格は持っていましょう。ヨセフが試みにあうのを見たでしょうか? ダビデが気落ちするのを見たでしょうか? パウロが恨むのを見たでしょうか? その話は、そのようなことを耐えなさいということではなく、何段階上に行きなさいということです。イエスを信じれば救われます。そのままじっとしていても、地獄には行きません。しかし、本当に成功しようとするなら、契約を正しく捕まえなければなりません。残念だ、こういうことがありません。私が教会に通いながら、一番多く聞いた話しが、残念で教会を離れたということです。 レムナントでは、そのような人物が出ないようにしましょう。そのようなものがどこにいるのでしょうか? 誰かが私の悪口を言って、無視して、そのような話しをしないように。そのように考えたこと自体が、大きい人物ではありません。自信がある人は、そのような話しはしません。虎を見ましょう。自信をもって寝ています。なぜでしょうか。触る奴はないことを知って、そのように寝ます。うさぎを見ましょう。いつもうさぎは浅く寝ます。いつも不安で、浅く寝るのです。
だから、あなたがたは、そのような話しはしないようにしましょう。皆様は、霊的な兵士で呼ばれました。だめなことではありません。無から有を創造しましょう。これからそのようにしましょう。神様の子どもです。私たちは目が開かれています。がっかりすることがありません。恨むこともありません。そのようなことをするレベルならば、大きい人物ではありません。だから、理由があるならば、大きい人物ではないのです。私たちは理由がありません。むかし12.12事件(北朝鮮からのスパイが出た事件)が起きたのですが、国会議員を呼び出して誰がさせたのか、どのようにしたのかと尋ねたのですが、そのようなことは尋ねることではありません。軍隊は上からやらされれば、しなければなりません。それで上の人を捕まえるべきで、下の人を捕まえて話してはだめです。それは、一般食堂ですることで、軍隊では命令すれば、しなければならないのです。国会議員が軍隊に行かなければなりません。少なくとも、防衛以上は出てこなければなりません。そうでなければ、とんでもない話しで尋ねるのです。軍隊では理由はありません。霊的な兵士は、理由がありません。その話は無理に押さえられて耐えるという話ではなく、飛び越えなさいというとです。副教役者や働き人が話しをいっぱいするなら、祝福を受ける人物ではありません。理由がありません。霊的な兵士。世に出て気落ちするのですが、理由がありません。理由が多いならば、私の内心、その人は大きい人物ではありません。適当に生きて、ご飯を食べて行く人物です。聖書をよく見ましょう。レムナントの精神を真っすぐ整えなければなりません。どこかに行って気落ちするのですが、何の気落ちをするのでしょうか?
そして、キリストの競技をする者。規定の通りにしなさいと言いました。訓練を正しく受けるようにしましょう。聖書通りに訓練を受けなさいということです。農夫。農夫は気落ちしません。確かに刈りとる日を待ちながら 種をまきます。農夫は常に畑に気を遣います。もし雨がたくさんふれば、早く行って水を防止します。もしか悪い人や獣が来たら、防止します。そのようにする理由は一つあります。秋になれば刈り入れるのです。その希望でするのです。パウロが言うのには、農夫が自分の穀物の分け前をまず受けることが当然だと言いました。恵みを一番に受けるのです。今日、レムナントと皆様は記憶するように願います。あなたがたは、救われたから、終わったのです。本当に成功しようとするなら、眠る時間以外24時間の祈りを学びましょう。それができるのが幸福になる日、相当なみわざが起きます。盲人ではありません。福音にあって真の平安を得てくださることを願います。ヨセフが、ダビデが、パウロが、気落ちすることを見たことがありますか? ヨセフと重要な人物が試みにあうのを見たでしょうか? 他の人を恨むことを見たでしょうか? そのようなことは、ありません。すでに大きい人物です。何段階か跳び越えた人物です。皆様、レムナントは、こういう祝福を受けましょう。今回、レムナントに与えた簡単なメッセージです。私が聖書を見たら、そうです。私の話を伝えれば失敗ですが、聖書にある話です。聖書に成功した実際の人物は、みなそうです。皆様は、これから盲人ではありません。皆様は砂、地面の上に家を建てた人ではありません。幸いに福音を悟った岩の上に家を建てた方達です。今から勝利しましょう。神様の大きい祝福があることをイエスの御名でお祈りします。
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。私達が神様の契約を正しく捕まえる時間になるようにさせてください。盲人ではなく、目が開かれる時間になるようにしてください。自分自身のことは知らずに、他人のことだけ捕まえて気落ちする者にならないようにさせてください。自分自身の過去は全く伏せておいて、他の人の現実を見て試みにあう者にならにようにさせてください。本当に霊的な目を開けて、岩の上に家を建てた者になるようにさせてください。それで新しい力を得る祝福の日になることをお祈りします。24時間、祈りの秘密を持って事業と現場で勝利するようにさせてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
2部/ 義人と悪人の話で
(詩73:1〜11)
皆様の中で、ものすごく苦しい、そのような人はいますか? 私が困難にあっている、そのような人もいますか? 神様がヨセフとモーセの後に、大きい祝福を予備されたように、そのような時間かも知れません。神様は、皆様や環境を知らないお方ではありません。今、海外で多くの方達がインターネットでみことばを受けています。私達が住んでいる国と教会はあまりにむずかしいので、自分達がインターネットででもみことばを受けようということもあります。正しい言葉ですが、考えを変えるべきです。神様は私を通じてこの国に重要な計画を持っておられると見なければなりません。それとともに、このみことばを聞かなければなりません。10年すぎたようです。集会に行って帰ってきたのです。その日が木曜日の夜だったのか、金曜日の夜だったか、確実なことではありませんが、たぶん木曜日の夜だったようです。その翌日の明け方祈りを導くようにしたのですが、目を開いて見たら、ほとんど15分前でした。適当に準備して行くことができる状況でした。ところが、突然に私におかしな気がしたのです。このように疲れているのに行かなければならないのかという気がしたのです。副教役者も多いのに、ちょっと回りながらすれば良いではないか、という考えをしました。それですぐに出発すれば良かったのに、あちこちに電話をしました。どうしてなのか一名もつながりませんでした。それで、止むえず私が行ったのです。明け方祈りを導かなければならないからということです。それで心の底から ものすごく大変だったのですが、がまんして明け方祈りに行きました。それで、何のこともないように明け方祈りをしようと入っていったのですが、私がその日、驚いたのです。その時、私たちの教会堂に、明け方祈りを1部, 2部礼拝するのに、ぎゅっと埋まっていました。その時、私の胸の中でこういう考えをしました。なぜ人々がこのようにたくさんきたのか? 私はとても来たくないのに、無理にきたのに、この人たちは、疲労もないのか、このようにたくさんきたのか? その時、私がこういう考えをしました。私が一般信者だったら、まちがいなく来なかったでしょう。一般信者ならば、疲れているから寝るべきであり、行くだろうかということです。この方達を見たら、一日中仕事をする人々なのに、明け方祈りをしようと皆、集まっていました。みことばを聞こうとノートを準備してみな来ていたのです。その時、私が神様の前に悔い改めました。神様、私はこういう者です。今、神様の民が、神様のみことばを聞こうとたくさん飢え渇いているのに、私はこうです。その時、私が夜明けに祈りをしたのですが、一番恵みをたくさん受けました。私たちは、行く時、死ぬことも出来て、行く時、祝福を受けることもできるので、私達が神様の前で恵みを受けることがどれくらい重要でしょうか? 私が一日を始めるのに、神様の前にとても重要な時間だったのに、私がこういう考えをしたことがどれくらい申し訳ないかったか分かりません。
信仰生活をしなければならない理由、ここに座っている理由にしたがって、私たちは答えが変わります。それで、今朝には、それを悟ることができなかった人々は、盲人ですと言いました。盲人は他の人を導くことができません。そして、真のことを見ることができません。これが本当に発見できなければならないのです。これが今日、イエス様がなさった1部礼拝のメッセージでした。
今日は、私たちのレムナントと信仰生活をする方達が、必ず注意しなければならない部分があります。信仰生活をして、世に出てみたら、相当な問題がきたとしたら、他のところに問題があるのではなく、私がすこし残っていたその信仰まで落ちるのです。今日、ここでは足がたわみそうだと言いました。全く同じ話を反復して2節にすべるばかりだと書いています。何の話でしょうか? 悪人がなぜこのようによくなるのか? 悪人が即刻、滅びるのに、3節を見ると、悪人が栄えるようになるということです。苦しみもありません。私はこのように難しく信仰生活をするのに、悪人を見れば力も強くて、パワーもあります。私はいつも難しくてさ迷うのに、悪人は災いも受けるようではありません。それで倒れることもあります。しかも、どれくらい高慢か分かりません。それでも滅びません。私もむかしには、そのようなものを感じました。教会のなかで悪いことをたくさん言う悪い人がいました。内心、あの人が死なないかと思いました。比較的死にません。そのような人は、教会に出て来なければ良いのに、風邪にもかかりません。そして、毎週出てくるのです。それで、これを見ると信仰がとても落ちます。しかし、神様もない人々が7節を見ると、自分の心に決めたことより所得もより多くて、たくさん儲けます。8節を見ると、ない人々を圧制します。その人々言う話が、神様がこれを知っているか? 簡単に話して神様がどこにいるか? と言うのです。
私達が世に行くと、その人々は声を出してはいないけれど、神様がどこにいるのかと考えています。私たちの学生達が軍隊に行きます。軍隊に行く時、学生達が私にきて良い質問をします。先生、私が軍隊に行ってどのようにすれば弟子をたくさん立てて、伝道ができますか? 非常に良い話しですが、私は内心、あなただけ良く信仰を守って帰って来なさいと考えます。軍隊に行けば、神様がどこにいるのか? すぐに髪を刈って、訓練しなければならないのに、どこに神様がいるでしょうか? 皆様は世に入っていけば、殺伐としています。そこで神様がどこにいらっしゃるということでしょうか? これが信仰生活する理由を知らない人々は、すぐに行けば倒れます。特に子ども達は、より一層そうです。皆様、アメリカ社会では、子どもたちがが行けば、自分の文化があります。特にパーティー文化がそうです。そこであらゆることをみなします。そこで、麻薬、酒は話す必要もありません。そこでは、想像を超越することをします。そこで神様がおられるでしょうか? 年をちょっととって留学に行った人々は、言葉がちょっと足りなくても良いのですが、子ども達は持ちこたえることができません。普段の時、自分たちの社会組織が、そのように動くために、行かなければ落伍します。かと言って彼らに付いてまわりながら、ずっとそのようなことすることも難しいのです。そのような時にくる感じです。話はしないのですが、神様がどこにいるか? このようになるのです。特に私たち学生達は、そのような時、もっと揺れます。
今日、聖書に記録されているように、足がたわみそうで、すべるばかりだと言われています。私達が信仰生活する理由、福音の理由を知らなければ、千回、万回揺さぶられるべきことが起こります。皆様が教会生活して、家庭生活するのに、この答がなければ、いつも揺れるようになります。私達が教役者生活をして、教会員として信仰生活をしますが、いつも揺れるようになります。このような時、サタンはすごく攻撃をします。これが現実です。なぜそうなのでしょうか? 神様は目に見えなくて、世の中は目に見えるから、私たちは揺れざるをえないのです。今日、その話です。次の聖日には12節からするのですが、来週にはそこに対する答をもらわなければなりません。今日、ここに相当な疑問を提起したのです。どうして悪人がよくなるのでしょうか? 預言者ハバククもそのような質問をしました。神様、なぜ悪人がよくなるのか? なぜ義人が失敗するのか? 本当に悪人が盛んになって、祝福を受けるその理由は何でしょうか? その時、神様がこのようにおっしゃいました。「わたしの言葉を石に刻みなさい」石に刻めということは、なくならないようにしなさいということです。「道を歩く時にも、走って行きながらも見ることができるように刻め」ということです。そして、「義人が苦しむことも少しの間で、悪人が栄光を味わうことも少しの間です。」今日、あなたがたが一番目に記憶しなければならない内容は、私達が信仰、福音を正しく知らなければ、世の中に行けば、揺れざるをえないのです。皆様が今日、この席へいらっしゃったことは、その祝福を持って世の中に行って、世の中を生かすべきだということです。これが今日、私たち聖徒と私たちのレムナントが、必ずつかまなければならない契約です。皆様、福音を正しく理解できなくて、聖日に恵みを受けることができなくて、本当に祈りの答えを受けることができなければ、世の中に行けば、すぐに崩れます。世の中は、そんなに弱くありません。
すると、2番目になぜ悪い人が良い生活をするのでしょうか? 聖書では11節まで読んだのですが、記録がみな出てきませんでした。聖書全体には悪い人が良い生活をする理由を説明しています。最初、肉体的な理由から見ることができます。悪い者は、生存競争で勝つために悪い行いをするので、まず良い生活をするのです。強い者が弱い者を殺して、お金を奪い取るから、最初にはよくなるのです。少しの間、成功するのです。その後には、肉体的困難がずっときます。より重要な霊的な理由があります。悪人がなぜそんなに良い生活をするのでしょうか? 皆様、偶像崇拝する人々がよくなったかの様に見えます。それは未信者はよく知らないのです。それで、彼らが良い生活をするけれど、いつ滅びるかもしれません。まずサタンの助けがあります。皆様はそれがなんの話なのかよく知らないのです。偶像崇拝をして、未信者生活をすることが良い生活をしたかの様に 見えます。悪霊が手助けするためです。よく理解ができないのです。
ある時、35坪の地下に教会があったのですが、私たちの教会の按手執事が私にたずねました。「先生。あれが本当なのでしょうか?」 まさに私たち教会の前に、垂幕が付けてありました。どんな病気でも按手して直すと書いてあったのです。按手する人が誰かというと、ある寺の僧侶でした。だから按手執事が本当かとたずねました。それで「本当にそうではないか? 僧侶が嘘をつくだろうか? どれくらい自信があれば壁につけるでしょうか? 」だからこの執事が人々がたくさん行くと言いました。「たくさん行くでしょう。執事もあんな能力が生じる道があります。」だから執事が、どのようにすれば良いのかとたずねました。「何の話もせず、山の中に入っていって、水の下に3年だけ座っていなさいと言いました。もちろん、ご飯は食べて、ご飯を食べる時間以外には、無条件に水の下で精神統一しなさい。すると、執事が悪霊充満して能力が現れるはずです。そして、その能力の中に閉じ込められて死にます。」人々がよく知らずにいます。知らない霊的問題が迫るのです。それを知らなくて、私たち信者はなぜ未信者が良い生活をするのかと言います。マタイ12:43-45を見ると、悪い霊が引続き増加して、後日には混乱の中に陥るのです。皆様、そのように正せば、お祓いをするのに、どのように病気がよくなるのでしょうか? したら、良くなります。すこし時間が過ぎれば、より問題がきます。それで、すこしより強くしなければなりません。すると、良くなります。すこししている途中でより悪くなります。初めには5万円のお祓いをしていて、10万円のお祓いをするようになります。後には20万円以上をするようになります。そうしながら、完全に溺れて死にます。よくなることではないのに、私たちはよくなると考えるのです。
来週に続くでしょうが、今日、あなたがたが三番目に記憶しなければならないことは、信徒の錯覚です。未信者がどのように、あのように良い生活をするのかという錯覚です。それで、私たちの学生達が世に行けば、あなたがたは恐れることもなく、おもしろくも見ず、詳細に見るべきです。皆様が神様の契約、これだけを捕まえれば、勝利するようになっているのに、私たちは混乱を起こすようになります。クリスチャンは、錯覚をするのです。未信者がうまくいくと、まずそのことだけを見るのです。またもう一つの錯覚は、私が信仰生活を良くしていると考えます。その2つの錯覚ゆえにです。みなそうではないでしょうか? 私は熱心に信じるのに、なぜよくならないのか? あの人々を見れば、信仰生活もよくしていないようなのに、どうしてこのようによくなるのか? これが信者の錯覚です。よくなることではありません。今、地球上はどんどん問題が深刻に迫っています。ところが、私たちはよく信じていると考えるのです。よく信じることは何でしょうか? 今日の1部礼拝の時、おおまかに説明しました。聖書にだけ記録されています。何ゆえに人々が日が過ぎれば、霊的問題に陥って死ぬのか? この地には呪いがなくならないで続く理由は何なのか? 神様がキリストを送って、この契約を捕まえた人に、どんな祝福があるのか、聖書にだけ正確に記録されています。これを探して知って味わえば、皆様にみわざが起きます。
この時間の中に、聖書箇所をみな話すことができません。聖書箇所2ケは、皆様に簡単に話できます。救われた皆様は、どんな身分なのか知っているでしょうか? ‘あなたがたが神の神殿であり、神の聖霊があなたがたのうちに宿っておられることを知らないのですか’皆様の中に聖霊がおられるということです。いつも記憶しなければなりません。これが身分です。それで聖霊の導きを受けようと苦闘して、聖霊充満を受ければ、力が現れるのです。聖書箇所一つだけをより記憶しましょう。‘受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとなる特権をお与えになりました’身分と権威です。皆様にものすごい神様の子どもとなる権威をくださいました。皆様が行く所ごとに暗闇の勢力が崩れるようになって、天の門が開かれるようになっています。こういう部分だけ、少しだけ味わえば良いのに、錯覚してしまうのです。どんなに立派な人々も錯覚をしてはなりません。
この頃、夜のTVでおかしなプログラムがたくさん出てきます。グローブをつけてボクシングをするのではなく、素手で戦うことが出てきました。TVを見たことがあるでしょう。これは完全にけんかです。素手でたたいて、殴って、押さえて、蹴って、とにかくみなします。しかし、静かにおもしろくて見ていたら、特徴がありました。本当に強くて、からだも良くて、よく戦う人がなぜか一回、たたかれるようになった. その時から、ずっとやられるのです。私はそれを見て、今日、誰が勝つことか、ほとんど私は皆分かります。二人が戦うのに、どのように分かるでしょうか? 見れば、負ける人、勝つ人が見えます。何で分かるのでしょうか? 私はそれを見ながら、今日、あの人が負けるな、勝つなと判定すれば、ほとんど100% 当たります。違う場合もありますが、ほとんど合います。何を見れば分かるかというと、負ける人には特徴があります。一度、たたかれたら、その時から、ずっと目をとじるのです。相手方が殴る時も目をとじて、自分が殴りながら目をとじます。ですから、自分にものすごい力があっても使うことができないのです。言わば錯覚して、おじけづいたのです。そして、相手方を真っすぐ見つめるべきなのに、見つめられないから、目を閉じてしまうのです。目をつぶってしまえばどうなるでしょうか? 殴られるしかありません。負けるのです。私たちの信者が錯覚をします。世の中の人々がすごくて、世の中はすごいと見ます。私は、神様がいないのか、信仰生活をこのようにするのにも、なぜ答えが来ないのかと考えます。それで今週の核心メッセージは、福音を正しく悟ることです。これから、キリストにあっての信仰の選択をするのです。私達が訓練を受けることは、神様の時刻表を見るためです。皆様がこれだけ捕まえているならば、今、どんなに困難があっても、神様のみわざが起きます。皆様が福音を悟れば、神様の子どもになります。
私が今回、核心の時に話したではないでしょうか? どんなに考えても、私がよくやったと考える部分があります。小さいことを福音にあって信仰で選択したのに、神様が私に答えてくださったことを見て、これは本当に事実だということを悟りました。副教役者生活をしていたのですが、あらゆる信徒、役員、教役者が頭をたくさん使います。何で頭をたくさん使うのか分かりません。その時、私が神様の前に決心をしたのです。神様、私は頭を使わないで、福音運動だけします。これが小さな告白ですが、神様は私が行く所ごとに伝道の門を開けてくださいました。生きておられる神様が、聖霊で正確に働かれて、答えを下さったのです。私が神様の前にしたことはそれしかありません。神様、私はおかしな頭を回して、戦って、口けんかするようなことはせずに、福音運動をさせてください。この一つの告白が、皆様まで会って、こういう貴重な働き人に会って、世界に門が開いて、こういう牧師に会う祝福を受けたということです。だまされてはなりません。しばしば錯覚するのです。
どのように、未信者がよくなるのでしょうか? よくなっていると思っているでしょうか? 先週、新聞を見なかったですか? 今、マイケル・ジャクソンが、借金に悩まされて死にかかっているということです。マイケル・ジャクソンがお金をどれくらいたくさん儲けたのか知っているでしょうか? 皆様、一度出演するのにお金をどれくらいたくさんもらうのか知っているでしょうか? この前、韓国にきて、ホテルの名前は言いませんが、50万円の部屋で寝ました。皆様がおわかりの通り、ホテル全体をみな借りたのです。それで、150人の警護チームまでずらっといて、マイケル・ジャクソンは、50万円の部屋で寝たのです。何で部屋が50万円なのでしょうか?分かってみたら、そうではなく、他の国の大統領や王たちがきた時、すべての警護チームと一緒に迎える施設になっているということです。そのようなマイケル・ジャクソンが、今、精神が狂って死んでいくのです。お金がなくて借金に悩まされることになりました。私たちは確認もしてみずに、錯覚するのです。その小さい信仰告白したのに、どれくらい答えを与えられたのかわかりません。
私が核心メッセージの時、証ししました。私が一番嫌うことがあります。私はどんな人でもみな良くて、みな 赦します。しかし、一番赦すことができない人は、教会のなかでずっと戦う人です。私はそれが赦せないのです。なぜ教会のなかで戦うのでしょうか? 理解して、祈って、手助けすれば、神様が生かされるのに、なぜ戦うのでしょうか。私が副教役者だった時、どれくらい教会が戦っていたのかわかりません。驚くほどでした。それで、私たち副教役者を集めて話しました。私達だけでも祈りましょう。みな各々に祈るけれど、私達だけでも教会に集まって祈りましょう。そのように小さな話なのに、神様が私に力を与えてくださいました。どれくらいこの人たちが、戦っているか分かりません。皆様、戦いはしばしばしていれば、人が悪魔のようになってしまいます。私があの人の悪口を言って、あの人が私の悪口を言って、こういうことを見れば、悪魔のようになってしまいます。相手が人と見えなくて、悪魔のように見えるのです。お互いかばってあげて、良いようにするならばよいのに、しばしば悪口ばかり言うならば、昔のこと言葉、10年前の言葉までみな出てきます。悪魔が別にいるのではなく、それが悪魔になるのです。一回は、明け方祈りの時、私のそばに座りました。明け方祈りは、なぜ出てきているか知らないのですが、また出てくるのです。年も取っているのに、家で寝ていれば良いのに、風邪をひいて咳をしながら、必ず参加します。聖日一日は、私がそばに行ってみるたら、何かを書いています。私も暗いところで、座って書くことのを、密かに見ました。今日、教会にきて戦う内容を書いていました。題目、キム長老の件、誰の件、全部、私が見る場合、戦いの内容でした。大変なことになりました。私は驚いてしまいました。その時、私が神様の前に真実に告白したのです。明け方祈りを終えて、教会にあれこれ、本当に汚い悩みが多でしょう。神様はご存知でしょう? 神様は私をご存知ですから、私が伝道できる教会に送ってください。私が思いきりイエス名前を高め、私が思いきり世界福音化できる教会に送ってください。その祈りをしたのに、私にある所から来てくださいと言われました。それが今現在のインマヌエル、東三第一教会、12坪の教会でした。
今、私たち釜山の人々を聞いていないでしょうか? 私がきてみらら、12坪の教会に私が呼ばれたのです。世界で一番小さい教会、私は12坪の教会は見たことはありません。「神様もあんまりです。私がどんなに体が小さくても、これはなんでしょうか。教会が12坪とは。」このようにして、教会で開始したのです。そのようにしていたのに、これがなんということでしょうか?今でもソウルにおられる私と親しい長老ですが、突然に私の家に来られました。訪ねてきて何と話すかというと、祈ってきたと言われました。答えを受けてきたということでした。「なんでしょうか?」 それで、私に良い話をされました。「先生は知らないのですが、釜山影島にいるような方ではありません。」そんなに気分が悪い話ではないので、なぜですかとたずねました。それで、聖書をひらいて、書いてあることを見せて話しました。自分の資産をみなはたいて、金持ちなので教会を完壁に建てて、住む家も完壁に建てて、車まで準備しておいて、来てくださいということでした。
その当時、貧しい牧師の3大弱点をみな刺しました。家なく、教会堂なく、車なく、どのようにか知って3大弱点をみな刺したのです。その時、私が静かに聞きながら、悪い話ではないから、頭で想像しました。写真まで持ってきていました。大きい教会堂で、家で、その時、神様が簡単に私の心に決めるようにさせられました。その方の話がみな終わる前に、「私はそうではない。私は12坪にいるのです。ここで伝道するはずです。神様が祝福なされば家もあって、土地もあって、みなあります。」もちろん話しました。「長老が準備してくださった教会も良い教会ですが、私は約束を破ることができません。私はこの教会にきて何日にもなっていません。私が条件が良いために約束を破って行くということは不可能です。私が神様の前で、そのようにすることはできません。」私も祈りの答えを受けたから行きましょうと言われました。その方がこっそりと準備してくださり封筒にお金を入れて、行きましょうと言いました。その後、誰かが来て、復興したということなど、しばしば電話がきました。本当に今、考えると、無知な私がそのようによくやったのか分かりません。今考えると、世界福音化の祝福の門です。神様が重大な計画を持って、インマヌエル教会を祝福なさるのですが、世界伝道の門がどんどん開くのです。福音にあって考えること、信仰を選択すること、神様の時刻表を見ることがどれくらい重要か分かりません。私は困難にあう時ごとに、足りないけれどその考えをします。ここには、私たちのレムナントがいます。これから、私たちの教会は、レムナントを訓練させる貴重な教会として神様が立てられます。
昨日話して、1部の時、話したことをのがさないようにしましょう。言わば一週間に祈りながら答えを受けるメッセージがあります。それを伝達するのです。それで、今回、伝道合宿に来た方を見ても話しました。単純な信者にならず、本当に祈りの答えを受ける信者になりましょう。単なる信者にならず、成功する信者になりなさい。そうするならば、霊的な兵士として招かれましょう。兵士には理由はありません。だめなことがないのです。命令が下されれば、みなします。霊的な兵士です。あらゆる試み、あらゆる落胆、あらゆる葛藤を飛び越えましょう。なぜならば、その後に途方もない祝福が予備されているためです。それを跳び越えることができなければ、どのようになるか知っているでしょうか? 救いみな受け取っておいて、祝福をみな受け取っておいて、サタンにしばしばだまされるのです。そして、兵士が規定通りするように、神様のみことばを正しく捕まえましょう。レムナントに頼みます。そして、私たちの教役者に頼みます。皆様が本当に祈りの大きい答えを受けたいならば、いつも祈らなければなりません。常時祈りが簡単にできるならば、皆様は祝福をたくさん受けているということです。常時祈りをすることがものすごく簡単になる日がくるはずです。
神様が世界福音化ゆえに、ハン・サンベ牧師を教会に送ってくださったのですが、私がハン牧師の家を訪問して言った言葉です。ハン牧師は寝る時間の他には、私たち長老と信徒のために、ずっと祈らなければなりません。寝る時間の他には祈ってください。一番たくさん考える人々のために、ずっと祈ってください。そのお願いを私がしました。私は仕事が多いのです。今日、飛行機のなかでもずっと文を書いていました。ある時は、道を行きながらも書いて、飛行機を待ちながらも書きます。そして、1・2 個あるのではありません。車に乗って一時間だけ移動するのにも、電話がいろいろな所から来ます。こういうこと、あんな仕事が、本当に多いのです。こういう人、ああいう人が本当に多いのです。私たちタラッパンが、私たちの教会でなくとも、ものすごく大きくなりました。今、神学校、神学院、全部すべてが成功して大きくなりました。教会ごとに伝道運動が起きて祝福を受けています。仕事があまりに多いのです。そうしたあと見ると、そのまま通っていれば、神経が敏感になります。なんでもない事に鋭敏になります。そして、からだが疲れているのではなく、精神的にものすごく疲れるようになります。これをどのように耐えるのでしょうか? それで、私は常時祈りすることが、とても良いのです。常時祈りをしなければ、私の判断が薄れます。これが常時祈りだな。常時祈りをしなければなりません。そうしてこそ、いろいろなことを正しく導かれることができるのです。それで、パウロが聖霊にあって常時で祈りなさいと言ったのです。これがどれくらい気楽なのか分かりません。
私たちレムナントが、本当に答えを受けてくださることを願います。私たちインマヌエルの信徒達が、本当に 答えを受けてくださることを願います。本当に、私たちハン牧師が皆様のために祈ってくださり、世界を生かす門をあける伝道者になるはずです。今、私たち全世界に散在した弟子が、その地域を生かすみわざがこのままだけすれば起きるはずです。答えがものすごく降り注いできます。皆様が今日、この契約を捕まえるべきです。錯覚しないで。確かに神様は答えてくださるので、福音にあって信仰で選択しましょう。行動する時は、神様の時刻表を見て動きましょう。どのように、そのことができるのでしょうか? あらゆる問題を跳び越えて、少しだけ祈れば答えがきます。今日から、明日から、この答えがあらゆる弟子にあるようになることをイエスの御名でお祈りします。
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。真に私達が錯覚しないようにさせてください。世の中を生きていく間に、神様の 答えで、世の中を生かすようにさせてください。神様の力で問題の後にある祝福を見るようにさせてください。これからは常時で祈って、現場で最高の祝福を味わうようにさせてください。神様の霊的な兵士として、どんな問題であっても跳び越える力を与えてください。まさに今日から、この答えが始まる神様の働きを成し遂げてください。生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
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