2004年11月14日インマヌエル教会聖日メッセージ


 1部/ 万を味わうひとつの祝福
(ルカ11:27〜28)
 
■ インマヌエルの家族と数千箇所でメッセージを受ける方達は、神様のみことばと礼拝を通じて、皆様の全てのことが解決する程に方向を合せればよいのです。仕事をするなということではなく、みことばを通じて、全てのことが解決した次に、仕事がずっとなって、それでこそ勝利するのです。皆様が葛藤を持っていて、礼拝をささげながら解決ができるならば、皆様は礼拝を正しくささげたのです。皆様が、何かだめでいても、真の意味を悟って力を得ることが礼拝です。これを体験したダビデは、このように話しました。王宮にいるより神殿の門番でいることがより良い。それとともに、全てのものをみな惜しまなくささげてもかまわない程だと告白をしました。
 
■ 今日、初めて来た方か、信仰生活を始めたばかりの方達は、このようにしなければなりません。信仰生活をしてみようかと思うことは良いことですが、下手すると、宗教になります。そのようにすれば、人生の最後にはいつでも損害を受けます。そのようにせず、このように開始しなければなりません。私は神様の子どもだ。 その中にある祝福が何か? これを確認して、開始しなければならないのです。すると、あなたがたは、あらゆる答がひとつずつ出てくるはずです。また困難にあったり、葛藤があったり、悩みの中にいる方達もいるでしょう。それを乗り越えようとせず、細かく見つめれば、それが祝福の土台になります。やさしい例で、ヨセフがとても難しい中で、それを細かく見つめて、大きいヴィジョンを発見しました。また、皆様の中で勝利して、答えを受けて、大きいことが起きている祝福の人もいるでしょう。そのような時は、ロバート・シュラーのような積極的な考え方を持つということではなく、神様の計画が何かを探しましょう。エペソで大きいみわざが起きた時、パウロはそうなるしかないし、ローマも見なければならないと言いました。大きい勝利をしたダビデは、私達が大きな事をやり遂げたと言わず、神様の恵みでしたと言いました。私達が途方もなく祝福されて用意した神殿もお金も、神様がくださったのではないかと言いました。
 
■ 今日は聖餐式があります。それで、皆様は終った後は、帰らずにすべてが、この祝福が何か、直接参加するか、見るかしなければなりません。他の教会のために礼拝を終えた後にしますが、衛星ではずっと流すはずです。もし一人でも聖餐に参加できる方は、衛星を通じてしても良いのです。それで、今日、皆様が本文を見ながら、簡単に重要な考えをすべきです。タイトルをよく見るように望みます。万を味わうためのひとつの祝福です。簡単に話せば、一つを知らなくて、万をみなのがすということです。肉体的にすこし話すなら、皆様のからだが、一カ所が癌になっても、全体がみな死ぬのと同じです。胃は丈夫なのに、肝臓が癌になって死ぬのであって、全体がみな悪いのではありません。もっと正確に話せば、からだも健康で、みな良いのに、いのちを維持できないから死ぬのです。なんの話なのか、皆様が捕まえながら、よく信仰生活をすべきです。
 
■ 三十年間、刑務所に十回入っていった人がいます。この人が後ほど告白しました。自分は行きたくないのに、行くようになるということです。刑務所に十回入っていったから、前科十犯です。刑務所に入っていた歳月をみな合わせみたら、三十年です。それで、刑務所に入っていく時は、次には来てはならないと思うのに、次にまた入っていくようになるのでした。そのように、十回もしたのでした。そのようなある日でした。刑務所のなかで、少し通り過ぎる時間に、ある人から十分間福音を聞いたのでした。三十年間、数えきれない程、苦闘したことが、できなかったことが、十分で解決したのです。その時から、自分が見ることも、聞くことも、感じることもみな変わったのです。これが福音の力です。さっと見る場合、目に見えないから、私たちは無視することがあります。また即、答えが来ないから、私たちはあせることもあります。
 
■ ある人が、ずっと易、シャーマニズムをして生きていました。人々は何にも知らずに、易、シャーマニズムをしている人を指導者だと言って、お金も持って行くのですが、本人はそうではありません。人々は知らなく、無知なので、占い師を訪ねて、占ってくれと話しますが、本人に尋ねてみてください。本人は苦しいのです。シン・ジンソンさんが直接告白しました。教会にも行ってみたし、神学校にも行ってみたが、いろいろあがいてみたのに、だめだったのです。自分の父が長老で、母は勧士なのに、その人が占い師になるとは話になるでしょうか? 自分はどんなに苦しんでもだめだったということです。それで、自分ではやむを得ず、失敗すると知っていながら、後ほど滅びるということまで知っていながらも、だめだということでした。この方が、今、正確に何かを聞くことができなかったのです。長い間、苦しめられてきた人が、福音を一度聞いて解決されました。今、礼拝を一緒にささげています。これを正確に確かめましょう。どれくらい驚くべきことでしょうか。
 
■ ある顔も知らない若い女の人が、むかし、私たちが青年会の集会に来ていました。全体がみな集まって礼拝をささげた後、茶話会の時間があったのです。この女の人が突然に倒れたのです。突然に倒れたから、私たちはうろたえていました。そこに一緒に連れて来た人は、それを知っていて、かけぶとんを掛けてあげていました。それとともに、その友たちがだいたい世話をするのを見たら、知っていたようです。その時、私が見て、あのお嬢さんはてんかん病の患者だということを知りました。時間がちょっと過ぎたら、大丈夫になりました。問題は、このお嬢さんが恥ずかしくて、起きてくることができなかったのです。それで、私達が一緒に祈ってあげて激励したのですが、私がその姉妹を呼びました。友達について初めてきたのでした。それで、私が率直に話しました。私はあなたを直してあげる能力がない。そして、イエスを信じたとしても、治るという保障も ない。姉妹が受けている困難は、誰も手助けすることができない。しかし、明らかなことがある。これらすべての問題の根源が、私たち本人にあったのではなく、元々からあったことだ。それで、それを原罪だという。人間が犯した罪だが、背後には目に見えないように、多くの暗闇の勢力が触っている。姉妹はその中で生きてきた。それで、本当にイエス様を受け入れることが問題ではなくて、本当にイエス様が誰なのかを知って、信じれば変化が起きる。今日、すぐに姉妹の病気が良くなるという保障は出来ない。明らかなことは、永遠な変化が起きる。幸いに、この姉妹が話を理解できました。それで、受け入れの祈りすることが問題ではないのです。イエス様が誰なのかを知っていなければならないでしょう。教会にくることが問題ではなく、なぜ信じなければならないのかという理由を知っていなければならないのです。
 
■ この姉妹が、イエス・キリストを知って信じて受け入れたのに、驚くべき事が起きたのです。6ケ月後に私にきて話しました。自分が3ケ月間は、話をしないようにしたということです。一週間に、1,2度ずつ、何かが入ってきて倒れたということです。調子がものすごく良ければ、一週間に一度、そうでなければ2度、ある時は一週間に三度ずつ、そのような現象がおきるということでした。イエス様を受け入れた後に、それがまったくなくなったということです。それで自分が話そうとしたのですが、それでもひょっとして分からないから、また、そのようなことがあるかもしれないので、話をしないでいたのですが、3ケ月後に確信を持ったということでした。こういう場合は一度もなかったから、3ケ月間、そのようなことが全くなかったということだけでも、自分には驚くべき確信を持つようになったということです。それでも、万一の場合に備えて、話さなかったのです。6ケ月になった時に、自分がこういう気がしたということです。来てもかまわない。私が6ケ月間、こういう事はなかったということ自体が奇跡だ。そして、永遠に解決されたのです。私はその姉妹に、イエスを信じれば、てんかんが良くなるとは言いませんでした。そして、てんかんが治るとも話しませんでした。私は自信がないと言いました。私は保障出来ないと言ったのです。しかし、明らかなことを話しました。今、イエスを信じるようになれば、本当に福音を知れば神様の子どもとなります。その後に起きる変化は、想像を超越することです。本当に申し訳ないけれど、その張本人が今、私たちと礼拝をささげています。本当に驚くべきことです。
 
■ 今日、皆様は本文をどのように読んでくださったのでしょうか? ある女の人がきて、声を張り上げて言いました。皆様、声を張り上げたということは、たいそう強調したということです。 'あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。' 簡単に話せば、マリヤが幸いだということです。本当にすばらしい。だから、あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房がどれほど幸いか。イエス様が、ありがとうとは言われずに、28節に'いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。' 早く悟るように主の名前でお祈りします。皆様、教会で信仰生活をするのに、なぜ問題が来るのかご存知でしょうか? 私はイエスを信じるのに、と言います。もちろん信じています。しかし、どこを強調して、どこで大声を出すかが重要です。この女の人がイエスを信じないのでしょうか? イエス様のみことばを受けて、感動しました。どこを強調するかが重要です。そうではないでしょうか?
 
■ この本文を見ながら、一般の世の中が話すことではなく、聖書を知って人を見る時、3種類の人がいます。それで、今日、長い説明はしませんが、皆様が早く悟らなければなりません。万のことをみな持っても、一つ のことゆえに失敗する人々がいます。また2番目には、万をみななくし、一つものがしてみななくして、滅びる人々がいます。三番目には、一つゆえに万すべて得る人がいます。この目が開かれない以上、信仰生活は難しいのです。何ゆえに時間を割いて、献金を捧げて、人生を捧げて信仰生活をするのでしょうか? すると、説明が少し必要でしょう。
 
■ 万をみな持ったのに、一つがないために失敗するのです。なぜ私達が定期的に身体検査を受けようと強調するのでしょうか? お金ももうけ、昇進して、みなしたのに、私が病気になってしまえばだめだから、そのようにするのです。私はその話をしようというのではありません。霊的な目で言うことです。旧約にこういう話があります。アブラハムとおいが、とても葛藤が生じて言った言葉です。神様がこれらすべての財産を私たちにくださったから、あなたから選択をしなさいと、ロトに言いました。ロトは、とても黄金の土地、良い土地、その土地がソドム、ゴモラでしたが、その高い土地をみな取りました。それで、アブラハムを止むをえず、山を選択したのです。ところが、時間が過ぎたら、皆様がおわかりの通り、ロトが滅びました。問題は、その話ではありません。ロトが重要なことをのがしたのです。聖書を見れば、金持ちとラザロの話が出てきます。この金持ちは、どれくらいお金が多かったでしょうか。毎日のようにパーティーをしました。しかし、この人は地獄に行きました。それが問題ではありません。その人は一つがないのです。それが問題です。だから、毎日食べて、遊んでも、お腹はいっぱいでも、本当にはおもしろくないのです。一つがないから、本当に友人がたくさんいました。人間らしい人が一人もいなかったのです。この金持ちを訪ねてきて遊んでいた(何もしていない)人たちは、みなおかしな人しかいません。だから何が面白いでしょうか? そして、地獄へ行ってしまったのです。これは一つがなくてみな失うのです。
 
■ 皆様が簡単に、これをキャッチすべきです。世界の英雄を見ましょう。世界を征服しようと走った人が、自分自身も守ることができなくて、ジンギスカンのような人は、どれくらい走ったのでしょうか? 最後は、全身を槍に突かれて敗北しました。マケドニアを征服した英雄、ジュリアス=シーザーは、三十三ケ所、剣に突かれて血を噴水のように流して死にました。それは特別な人です。すると、成功した多くの人々を見ましょう。一つがありません。人々はほとんどだまして、うわべです。私たちはすでに話をしても、うわべで話して、中にあることは一つも分からないのです。ですから、ものすごく苦労している人々、福音を悟れなくて失敗する人を見ることがないのです。私たちは、どれくらい愚かかというと、気が抜けた人が詩を書くと、その詩を見て感動を受けるのです。この話は、詩を書く人が精神が狂っているということではありません。精神が狂った人の中で、詩をよく書く人がいるということです。私たち人間の水準は、それしかならないのです。
 
■ 何ゆえに最も人気を呼んだ作家ヘミングウェイは、自殺をしたのでしょうか? 何ゆえにそのようにもお金をたくさんもうけたマリリン・モンローは、薬を飲んで死んだのでしょうか? 全世界の青少年の心を一時代につかんだエルビス・プレスリーという歌手は、なぜ三十八で死んだのでしょうか? それは、特別な人々の話だと言うかもしれません。すると、一般の人々は、なぜ思い切り生きたのに、人生の最後には虚しくなって、行く所もなくて、来る所もないのでしょうか。なんの面白味もなくて、どこに行かなければならないのか? そのような人生があるということです。金があれば殆ど良いと考える人々がいます。だいたいのことは、殆どなります。しかし、本当に霊的部分は解決できません。それで、私たちは伝道することが重要で、祈ることが重要なのです。私たちは、よく悟らなければならないのです。
 
■ より深刻なことは、2番目のことです。未信者は万のことをみな持って、ちょっと味わっていて、一つがなくて滅びます。ところが、どんな人がいるのかというと、万のこともみな失って、一つすらもない人もいるのです。これがより問題です。これがまさしく、宗教人です。宗教生活で規則を守らなければならないので、世の中のことをみなのがすのです。福音がないから、結局は滅びます。世の中の人々がなんでもうわべだけを見て、教会に行っても仕方がないと話します。皆様が私のうわべだけを見るために、中にあることを見ることができないのです。今日の本文を見ましょう。女の人が出てきて、声を張り上げたということは、強調したということです。感動して、強く話したのです。自分の人生をかけて話したのです。これが間違った話です。あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。
 
■ 私はできれば、カトリックの話しをしないでおこうとするので、気がかりなことを解決するならば、私はしません。カトリックでも私のメッセージを聞いていますが、私に話してください。なぜマリヤを原罪がないと話すのでしょうか? なぜマリヤに祈るのでしょうか? なぜマリヤを高めるのでしょうか? 理由が何でしょうか? その返事だけしてくだされれば、この話を絶対にしません。私がこれ以上、試みに会う前に助けてください。私はどんなに見ても、これは精神病者がすることだと考えます。そうすると処女降誕の意味をなくしてしまうのです。人が産んだ者は、救い主になることができないために、処女に送ったのに、その意味をなくすのです。ところが、こういう方法で信仰生活をする人が多いのです。カトリックは、マリヤを持ち上げているのですが、他の人はどうなのでしょうか? 他のことを持ち上げるのです。みなのがします。宗教とは何でしょうか? サタンのしもべになることが宗教です。宗教とは何でしょうか? すこし良く話せば、偶像文化、悪霊文化に仕えることが宗教です。すると、イエスを信じることは何でしょうか? 福音を正しく知らなければ、まったく同じです。 それでこれも奪われて、あれも奪われて、みな奪われるのです。
 
■ 内院寺に行ってみました。よく建ててありました。幼稚園を見て驚きました。どれくらい教育を良くしているか分かりません。私たちの教会は比較もできません。本当に立派でした。どれくらい立派に飾ってあったか分かりません。人々が来てお辞儀を一度して、そばに行くと、口徳山から冷たい川の水が流れてきています。そのように寺に一度きて、そばのテントには家族が手を洗って休息しています。そして、味噌、唐辛子みそ、ニンニク、どぶろくを持って行って食べるのです。私は、内心、味わっているなと考えました。信徒は、それもできなくて、これもできなくて、何にもすることがありません。福音もないのです。このように縛られた精神で教会にきて、縛れた精神で思慮深くするので、狂ってしまうのです。いっそ、一杯飲んで、遊んで感謝すれば良いのに、これはそれもできません。いつでも縛られた精神で、いつでも福音なく、思慮深いので、これが普通の狂うことではありません。地獄です。また私の話を誤って聞いて、柳牧師は教会が地獄だと言うとするかもしれません。私は元々、おかしな話を多くします。元々、私のように水準が低く、頭が悪い人々は、速くわかるのに、頭が良い人々は誤ってわかります。今、教会に通う人が福音を悟れなくて、これもなくて、あれもなくなるのです。より深刻なことは、ますます霊的問題がくるということです。すると、皆様はすぐ悟れるでしょう。宗教とは何でしょうか? なぜ教会に通っていて失敗するのでしょうか? その脈絡を理解すれば、すぐ分かる話です。すると、あらゆる部分に目がみな開かれます。それで、イエス様が何とおっしゃったのでしょうか? 福音は悟ることができなかったパリサイ人に何とおっしゃったでしょうか? ヨハネ10章に '盗人で強盗だ' と言われています。この話を分かることができるでしょうか? だれに言われた言葉でしょうか? 教会は通っているのに、福音を正しく悟ることができないのです。悟ることができない人は、盗人であり、強盗です。盗人はこっそり分からないようにすることで、分かるようにすることは強盗です。
 
■ 皆様、悪口を言ったことがありますか? 言ったことがない人は手をあげてください。ほとんど言ったことがあるでしょう。男でも、女でも、種類が違っていますが、みな悪口を言ったことがあるでしょう。悪口もあまり多くすれば、習慣になります。死ぬ時、度々、悪口が出てくることがあるために、用心しなければなりません。私も悪口を良くする方向に属します。それほど良い性格ではありません。むかしには、本当に悪口を良く言いました。いまはそれほどしません。聖書を見たら、世界で最も悪口を良く言った人が、まさしくイエス様です。証拠を出します。パリサイ人に対して言われたことを知っているでしょうか? 私は悪口を言っても、そのような悪口を言いません。悪口を言っても、犬の何か、牛の何か、こういう方法です。イエス様がパリサイ人に 'この牛の子よ' と言われても悪口なのに、蛇のすえだと言われました。しかし、静かに考えてみれば、悪口を言われても仕方ないと思いました。完全に滅びました。こういう部分を完全に理解しましょう。そうしてこそ、多くのたましいを生かし、自分も生きることができるのです。この部分を理解するということは、本当に重要な部分です。多くの神様の民が、違ったことを聞いても生きることができるかもしれませんが、教会では必要ありません。むしろ世の中のことは、私が皆様に学ばなければなりません。皆様は世の中のこと習おうとここに来たのではありません。世の中のことは、世の中に行って習いましょう。重要なことがあるのです。本文のこの女の人は、失敗する信仰人の標本です。イエス様がおっしゃいました。 'しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」'
 
■ 三番目の目が開かれるべきです。一つゆえに万を得ることができます。重要な神殿の約束が何でしょうか? 聖書をよく見ましょう。一つゆえに、全てが成就しました。私たちに救いを下さろうと聖書を66巻も説明されたのです。旧約では39巻も預言されました。聖書をすこしご存知である方達は、すこしより深く入っていって考えてみることを願います。創世記3:15を捕まえたアブラハムの家系を通じて、出エジプト3:18を理解したモーセを通じて、イザヤ7:14を理解したイザヤと祈った人々を通じて、マタイ16:16を告白したペテロを通じて、全てのものを成就させられました。前の2つの説明を聞いてくださったとするなら、今、この話を理解するのに助けになるでしょう。この一つのいのちの中にあらゆる祝福がみな入っているのです。
 
■ 聖徒が受けた祝福が、万を越えるのに、7種類で要約したのを見て、私は衝撃を受けました。その時から、私の性格が変わったのです。私はどんな性質だと思っていますか? 仕事をする人々は、正しくできなければ、ものすごく怒りがこみ上げてきます。元々の性格は、かばんにアラーム時計2ケを入れて通うのです。6時に起きなければならないとすれば5時に起きます。アラーム音を聞いて起きる時は、とても疲れている時で、普通、アラームの音がなる1〜2時間前に起きます。アラームがなぜ二つなのか?というと、もし一個の音が出なかったら、私が失敗するためです。それで各々、かばんにはアラーム時計が2個ずつあります。そして、アラームがついているホテルに行くようになれば、それもしておくのです。すると、顔を洗って準備していれば、3ケが同時になることがあります。これが私の性格です。簡単に話して、心配症の体質です。ところが、聖書の中にある祝福を発見しながら、この性格が変わりました。以前には、他の人に比較したり、比較されれば気落ちしました。それが度が過ぎて、他人が良くすることだけ見ても力が抜けたのです。なぜ私はできないのか? と思うからです。
 
■ 以前に、釜山にハン・ビョンハンという有名な指揮者がいたのですが、その方が指揮する '送年メシヤ' という演奏を見に行きました。巨大な合唱団と、オーケストラを指揮するのに、どれくらい良くして、良い姿だったでしょうか。私がほれてしまうほどでした。私はそのようなことを見ても、力が抜ける程でした。私は、何ができるのだろうか? と考えてしまうのです。皆様はどうか知りませんが、私はこういう性質でした。ところが、私が福音の本物の祝福を見たのです。全部変わりました。私がとても幸福な人なのに、それをあまりにも知らなかったな。そして、人を見て比較して、うらやんでいたことが変わったのです。他の人がうまくいけばうれしくて、手助けしてみたいのに、以前はそうではなかったのです。良くする人がいたら、手助けしたいなとなって、ねたむことが生じませんでした。理由が何でしょうか? 私により重要なことがあるということを知ったためです。これは本当に私の性格に関する告白です。
 
■ だから、この祝福を一つ知るようになるから、全部解決しました。不信の世の中の未信者状態を見ながら、益々これが分かるようになりました。だから、この秘密を他の人に知らせるべきではないでしょうか? そして、この秘密を知る人を弟子としなければならないのではないでしょうか? 率直に、この秘密を一つ見終った後から、祈りができるようになりました。以前には、祈りを本当にしませんでした。しかし、祈りができるようになったのです。みことばを捕まえて、定刻の祈りができるようになりました。定刻で祈るのに、多くのことに応用ができました。ある時は、定刻の祈りの後、運動をしたり、勉強をしたり、みことばを準備することもしました。これが相当な生活の変化をもたらしたのです。この福音を悟って、すこし祈ったのに、後ほどはできていく祈りをします。今は、習慣となって、皆様をみつめても祈りができて、自分の失敗を見ても祈りになりました。それとともに、この愚かな私が恵みを受けて、時間が過ぎながら、何かが見え始めたのです。なにかが神様のみことばを通じて時代が見えました。その時、悟ったのです。私だけそのようなことではなく、福音を悟って祈る神様の子どもには、あらゆる祝福があるのです。私がこの説明をすべきだな。今日、皆様がこの契約を捕まえて、貴重な祝福を受けることを願います。
 
■ 最後の悟りです。すると、私がなぜこの祝福を悟ることができなかったのでしょうか? 最初は、神様の恵みと時刻表ですが、2番目には、私はなにか知らなく、嘘をつく人生でした。嘘を言わなくて、本物で見れば、福音が必要です。嘘をつかないで、私を見つめた時、希望がないということを知りました。そして、嘘なく、聖書を見た時、私は罪人であることも知りました。それで、神様はなぜキリストを送られたのかを、私が知ったのです。世の中をよく見つめながら、人々が滅んでいくことを知りました。それで、彼らに福音を伝えるべきだということを発見するようになりました。どれくらい感謝したのか分かりません。私は、今日、聖餐式に参加するあなたがたが、この答えの目がずっと開かれることをお祈りします。
 
■ 最後にもう一つ、私たちの長老と役員達と、社会生活をする方達が、この祝福で世の中と一緒に行くのでなく、乗り越えなければならないのです。その祝福を受けなさいではありません。神様が備えておいてくださったのです。世の中の人々と一緒に行っては勝つことができません。私の経験ではそうです。越えなければならないのです。私と私たちの聖徒が神様の祝福を受けるならば、彼らをリードすることができます。して見ると聖書に成功した人々が、全部、この祝福を受けたのです。それなら、私たちは受けることができないのでしょうか? 私はそう考えたのに、信仰が生じて、答えがきました。もちろん開始にすぎません。これから、私とあなたがたに、どんな答えがくるのかは、それは予想できないのです。この祝福が皆様に今日、始まることをイエス・キリストのお名前でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様に感謝申し上げます。静かながら力がある信仰生活が始まるようにさせてください。私たちの生活、現場の中に神様の祝福が現れるようにしてください。今日、聖餐式で礼拝をささげるあらゆる方達に、神様の祝福が臨むようにしてください。生きておられる主イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン
 
 


 2部/ 伏し拝み、ひざまずく者
(詩95:1〜11)
 
■ 神様は、私たちをみことばで導かれることが明らかです。なぜなら今日、詩篇95篇は、詩篇の中で一番良い詩です。今日、私たちは6周年記念礼拝と共に今日の詩篇を読みました。私が詩篇をじゅんに読んで行っています。ところが、詩篇を見ればおかしな部分も多いのです。敵が私の肉をついばむ。詩篇には、こういう部分があります。そのような箇所と会わないで、最も恵み深い詩篇95篇と私たち6周年記念礼拝が会ったのです。たぶん今日も良いプログラムがあるようです。すると6周年を迎える私たちと全世界の使命者がどのように神様を信じればよく信じるのか? 何をすれば良いのか? その程度は、私達が知っていることです。ところが、今日はそれではありません。
 
■ 神様はどんな働き人を正しく用いられたのでしょうか? 私たちはこれを正しく回復しなければなりません。伏し拝み、ひざまずく者となっています。この人を神様は用いられるとなっています。この話をわかるでしょうか? この部分に対する体験があるでしょうか? ないならば、今週に解決してみることを願います。皆様が神様の祝福を受けて、尊く用いられれば、どれくらい良いでしょうか? 皆様が神様の前に尊く用いられて、祝福も受けて、答えも受ければ、希望が生じるのですが、どれくらい良いでしょうか? 皆様の事業が成功して、学業が勝利すれば、どれくらい良いでしょうか? どのようにすれば、そのようになるのでしょうか? 伏し拝み、ひざまずく者です。神様は、神様の前にひざまずく者を用いられました。難しい状態の中で、ヨセフが神様の前にひざまずいたのです。これが何でもないことのようですが、世界を生かしたのです。今日、皆様が説教を聞きながら、具体的に単語を握らなければなりません。80年間、答えがこなかったモーセに答えがきたのです。その時が、いつでしょうか? モーセがホレブ山でひざまずいた時です。主を伏し拝み、ひざまずくという ことは、ものすごく重要な話です。
 
■ どのように、ダビデは王の中の王になったのでしょうか? もちろん頭も良かったのです。もちろん人格も 優れていました。もちろん、ダビデは戦いも上手にやりました。それだけでなれるのでしょうか? ダビデの告白を見れば、ダビデが力を受けた原動力は、別にありました。皆様、私達が病院で見れば、電気設備があるでしょう? 手術する途中で、夜に電気が消えたら、どのようにするのでしょうか? すると、だめなのです。夜に皆様が手術をしているのに、電気が消えたら、どうするのでしょうか? それに対応して、1秒後に自動で他のバッテリーに連結する作動をしてあります。皆様、飛行機に乗って行くのに、エンジンが消えれば、どのようにするのでしょうか? みな死んでしまうでしょう? それに対応して、飛行機の中にはエンジンが二つあります。片方のエンジンが消えれば、他の方にかかるようになっているのです。それで、私達が飛行機を安全に乗って通えるのです。ダビデが持った力の原動力は何でしょうか?
 
■ 捕虜時代にダニエル、イザヤ、エゼキエル、こういう人々に重要なメッセージを与えられたのです。その人が、何をしている時でしょうか? 神様の前にひざまずいていた時です。皆様がおわかりの通り、パウロ、ルターのような人は、どのように用いられたのでしょうか? 韓国が6.25(朝鮮戦争)の時、困難にあった時も集まって祈っている時に驚くべきみわざが起きたのです。今日、皆様がどのように、この祝福を回復するかという課題を持ちながらメッセージを聞かなければなりません。私がどのように、信仰人が答えを受けたように、私も受けることができるのかという考えを持ってメッセージを聞かなければなりません。単に説教を聞こうと考えるならば、説教は私より良くできる人々がたくさんいます。そして良い本もたくさんあります。皆様がこちらまで来なくても、キリスト教放送を聞くならば、TVも出てきて、説教もたくさん出てくるのです。それは礼拝ではないのです。今日、ここにも、伏し拝み、ひざまずこうと言われました。
 
■ それで、私がこういう話をしました。どんなにインターネットが発達しても、弟子訓練はインターネットではできないのです。ある人々は、インターネットで説教を送りだせば、よくなるはずだと考えるのですが、そうではありません。反対にある人は、インターネットで説教を送りだせば、資料のようなものが必要がなくて、説教を聞かないというのですが、そうでもありません。それは一般の知識人場合にそうなのです。どんな場合も、弟子訓練はインターネットではできません。皆様が礼拝に参加して、この説教をずっと聞いてこそ、なにか発見できるのであって、参加しないで聞くことは、それほど差が出るのです。それで、礼拝という話は、違う言葉です。(今日は、時間があまりありません。)
 
■ 第一に理由が何でしょうか? 今日の本文の中で理由を明らかにされました。荒野を通過する時、エジプトから出てくる時を背景としています。モーセの詩か、そうでなければ、その影響を受けた詩人でしょう。奴隷であった後に解放されたのです。その神様を礼拝しないでしょうか? その神様の前にひざまずかないでしょうか? 皆様が本当にその答えを受けるならば、どのようになるでしょうか? ところが、私たちは、驚くべき答えを受けました。皆様は永遠に滅びません。暗闇の中から、永遠に滅びないように出てきたのです。これを知っていれば、礼拝が出てくるのです。これを知っていれば違うのです。
 
■ ある人が、そのように話しました。聖歌隊は、単に賛美するのですが、礼拝をささげるために賛美をささげるので、全身に戦慄が走って涙が出てきたのです。皆様が単に賛美するのですが、そのようなことです。単に皆様は曲に合せて歌いますが、礼拝にきた人は、そうではないのです。だから、その人には人生が変わる時間です。それでなぜ礼拝をしてひざまずかなければならないのか理由が出てきました。弱い老人モーセが、ツエを一本しか持っていなかったのです。パロ王の前に行って、私の民を出してくれと言ったのです。聞くはずがありません。だから、イスラエル人を殺そうとしたのです。この時、十の災いがきたのです。それで、モーセは戦うこともせず、勝ったのでした。その神様が、私たちの神様で、その神様の答えを受けるならば、この話が分からないでしょうか? この祝福を味わう者が、伏し拝み、ひざまずく者です。この人を用いられるのです。だから、これが相当な背景です。イスラエル民族が、逃げたら紅海がふさがったのです。その紅海が分かれるみわざが起きたのでした。
 
■ 私がこの前、話をしたでしょう? 紅海に行ってきた人が私に話をしました。本当に、それは奇跡だということです。紅海は、突然に水が入ったり、なくなったりするらしいのです。イスラエル民族が紅海を渡ったということも可能性があることで、エジプト人がみな死んだというのも、可能性があるということです。だから、神様が驚くべき働きをなされたということです。イスラエル民族が、荒野を行く間に神様が夜には火の柱で、昼には雲の柱で導かれたのです。イスラエル民族が死にそうになったので、神様がマナとうずらで、こういう奇跡を行われたのです。神様は、イスラエル民族が行く時に、ヨルダン川を分けることもされました。どんな人に、こういう祝福が現れたのでしょうか? 伏し拝み、ひざまずく者です。どのように回復するのでしょうか? 皆様、一度祈りながら、今週に回復するように願います。
 
■ 今日の本文を見ると、2番目は内容です。3節を見ると、すべての神々にまさって、大いなる王であると言いました。他の宗教人は気分が悪いでしょうが、そのような宗教ではなく、驚くべきすばらしい王なのです。僧侶や他の方達が聞けば、気分が悪いでしょうが、悪霊を崇める、そのような宗教ではありません。真の神様です。もし、インターネットで私のメッセージを聞いて、気分が悪い方がいるなら、私を訪ねて来るように願います。私が助けてあげましょう。あなたが持っている霊的問題を指摘して、助けて癒してあげましょう。こういうハンカチや、何かのかたちを置いておじぎするような宗教ではありません。今日の4, 5節に、山と陸を治める創造主だと言われました。より驚くべき話は、7節を見ると、私たちはその民であり、その羊だと言われました。これが私達が祝福を受けなければならない内容です。すると、どんな答えが来るのでしょうか? 7節に、神様の御声を聞くならばとありますが、この話しはみことばを悟るようにするということです。皆様、どれくらいうれしいでしょうか? みことばを悟るようにするというみことばを、簡単に理解することができるのでしょうか?
 
■ 皆様が人生を歩いていく道に、葛藤の中でみことばが悟れれば、深い失望の中に陥っていたのに、神様のみことばが悟れれば、ある場合には、困難の中にいるのに、みことばを悟って勝利するようになるのです。どれくらい大きい答えでしょうか? そして、どんな祝福が来るのでしょうか? 8節に 'メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。' 皆様、伏し拝み、ひざまずく者に11節に真の安息を下さると言われました。世の中で難しくて、皆様、今日、神様の真の安息を得ることを希望します。世の中、教会にきても、仕事で疲れている方達が、今日、真の安息を得るようになることを希望します。 'すべて疲れた人、重荷を負った人は、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。' 今日、6周年を迎えるインマヌエル・ソウル教会に重要なメッセージに会うようになりました。伏し拝み、ひざまずく者です。
 
■ 神様はなぜムーディーを用いられたのでしょうか? 本を見れば、ムーディーは祈りの人でした。5万個の答えを受けたミューラーという人は、何をする人だったのでしょうか? 彼は信仰の人であったし、祈りの人でした。それで、ドイツで一番難しかった時、大きい答えを受けたのです。今日、私たちはとても具体的に、詩篇を読むようになった理由が、具体的に表現にされているためです。伏し拝み、ひざまずく者と言われました。今日、重要なプログラムがあるので、捕まえなければならないみことばだけ話して、短くします。またインマヌエルの全家族は、メッセージを捕まえることを願います。一週間、疲れていて生きてきて、また一週間を生きなければならない皆様、全世界の使命者がメッセージを捕まえることを願います。
 
■ 最初、礼拝の回復です。礼拝回復をしようということです。2番目は、ひとりでする定刻礼拝の回復です。一人でする祈りの回復です。今日の聖日にささげるこの礼拝の時に、祝福を受ける礼拝を回復して、皆様ひとりでする礼拝を回復するように願います。祈りの回復をしなければなりません。すると、みな解決するのです。 昨日、キム・チャンヨク牧師と話しながら笑った事がありました。私は、土曜日は大変なのです。夜明けに起きて、明け方から講義をしなければなりません。ソウルで3,4個のメッセージをして、また大邱に行かなければなりません。大邱で集会をして、ソウルの聖日礼拝のために、また戻らなければなりません。それで昨日、6時40分の飛行機に乗りました。ソウルに到着したら7時40分です。家に到着すれば9〜10時頃になります。それで、普段は私はそのまま行くのですが、金牧師に話をしました。髪の毛をカットするために、髪をカットする執事に話をしてくださいと告げたのです。ここに理髪師がいるなら、気分が悪いでしょうが、私は頭を美容室でカットします。なぜなら時間も短くて、よりよくカットしてもらえます。そして、美容院に行く理由があるのです。私は髪が長いと気になって、髪をカットしたくなるのですが、夜にソウルで見れば床屋でぐるぐる回る看板があるでしょう? 10ケ所ほど、回っていたのですが、そこに行ったら、頭はカットせずに、なにをしているかみたら、淫らんなことをする所です。それで、私の胸の中で行かないという気がしました。すると、どこで切るべきでしょうか。頭をカットする所がありません。皆おかしなことをして、髪の毛をカットしてくれません。看板を回すのは、自分たちの事情であって、髪の毛を切るべきでしょう。カットしてくれる人がいない時もあります。遊ぶ人中心です。私のように忙しい人々は、そのような所に行っている時間がないのです。
 
■ 今日、ここに出てくるのに、記念日だからと、胸ポケットに花をさしてくれようとしたのですが、入りませんでした。ポケットがにせ物のポケットで、飾りだけなので入らなかったのです。洋服を作る人々が、私の立場を考慮できなかったのです。なぜなら、一般的に洋服を着る人々は、さす事がありません。司会をするか、 国会に行くのか、理由がありません。頭をカットしなければならないのに、私の事情を知らないから、カットできません。それで私が美容院に行くことに決めたのです。美容院は、暗いこともなく、色々と良いのです。また希望したとおりにカットしてくれます。男の理髪師は、そうではありません。私がキム牧師に頭をカットしたいので、美容院に話しておいてくれと頼みました。髪を洗いに入っていったのです。シャンプー室には、人々がたくさんいました。ある女の人が、子どもを連れてきていて、頭を洗ってもらっていました。私に挨拶をしたのです。知っている人なのかと思って、挨拶をしました。初めての挨拶が "先生、ここでお目にかかれて光栄です." と言いました。頭を早くカットして、行こうとしたら、私のところに静かにきて、お願いがありますと言いました。聖書を三冊持っていました。私はまた礼拝をささげてくださいと言うのかと思っていました。ところが、聖書三冊を開いて、サインをしてくださいと言いました。ひとつは上の娘、ひとつは下の娘、ひとつは自分のものでした。してあげました。お願いがもう一つありますと言いました。なにかと尋ねたら、白い紙を取り出しました。執事一人にサインをもらってくれと頼まれたということでした。してあげました。行こうとしたら、お願いがもう一つあると言いました。私の子ども2名のために祈ってくださいと言いました。今、この場でしてくださいと言いました。それで子ども2名のために、祈ってあげました。その時、私の心が感動したのです。偶然ではなく、本当にレムナントを生かすレムナントなるようにしてくださいと祈りました。ありがとうございますと言いました。行こうとしたら、またもう一つあると言いました。なにかと尋ねたら、写真を撮ってくださいと言いました。写真機まで準備してありました。それで、その娘達と母親と写真を撮りました。ありがとうございますと言いました。もうひとつがお願いがありますと言いました。今度はまた何かとたずねました。携帯電話だけれど、携帯電話で撮せる写真一つだけ撮させてくださいと言いました。分かったと言いました。写真を撮して出てきました。キム牧師に今日、こういう事があったと言ったら、用心すべきですねと言いました。人がいない時間に行って、速く切って出てこなければという話でした。帰りながら、こういう考えをしました。私達は、人に会っても機会を利用します。私達が神様に会って、恵みを受けようとするなら、どのようにしなければならないでしょうか。このメッセージを静かに考えながら、伏し拝んで、ひざまずく者を神様が用いられました。ところが、その執事がした行動ですが、私は自分で考えながら神様に祈りました。
 
■ 昨日、このメッセージを考えながら、いくつかの祈りをしました。私は、事実、聖書をたくさん読みます。それは説教するために、講義のために、文章を書くために、たくさん読むのです。これで良いのか。礼拝を回復せねばならないという考えをしました。そして、定刻の祈りを新しくせねばならないと思いました。私は、いそがしいので、祈りはしているのですが、運動をあまりしていません。ある人が、私に運動を多くしろと言いました。定刻の祈りを終えて、その後にすぐに運動をすべきだと思いました。もうひとつ考えました。これから私が英語の勉強をせねばならないと、資料を探したのに、よく聞けずにいます。聞かなければと思って一週間たってしまいます。必ず聞かなければと思って一ケ月たちました。昨日、私がこのように弱い存在だということを感じました。年齢的な理由から、勉強する学生ではないのですが、勉強をしようとするならしなければならず、このように怠けていて良いのだろうかと考えたのです。それで、私は昨日メッセージを準備しながら、その執事の行動が初めには少し気分が良くないように思えたのですが、考えてみたら、そうではなかったのです。私が神様の前に考えてみました。私が礼拝を回復すべきだな。そして、本当にみことばを回復すべきだな。実際に定刻の祈りを通じて、私が必要なことを回復すべきだという答えを受けました。
 
■ 皆様、説教を聞きながら、単に聞くのではなく、神様、今日、私がなにを回復して探さねばならないのかと具体的に握るのが良いのです。今朝の1部の場合は、ものすごく重要です。悟りさえすればよいのです。私たちは福音なく滅びる人が大部分です。教会であると言っても、ただ福音だけではなくて、他のことを捕まえて失敗する人が多いのです。それで、一つだけ捕まえれば、万の祝福を受けることができます。それは悟って信じさえすればよいのです。ところが、今日、こういう部分は私達が詩篇を見て捜し出すように、あまりにも多いのです。どれくらいダビデのような人物、モーセのような人物が、神様の前にひざまずいたでしょうか。負担だったでしょうか。今日の本文を見ると、天と地を創造なさった主と言われています。これは負担ではなく、どれくらい感激を持って伏し拝んでいたのでしょう。それで、伏し拝み、ひざまずいた者。インマヌエル6周年に、この契約を握るように願います。私たちタラッパンのすべてのメンバーが、キリストにあって伏し拝み、ひざまずく者として、契約を握るように願います。個人的に、そして、礼拝をささげる時、すべての問題は解決するはずです。皆様に新しい力があることをイエスの御名でお祈りします。
 
<<契約の祈り>>
神様、私たちに今日、6周年を与えて下さって、神様に感謝申し上げます。今日、私たちの新しい生き方を回復するようにさせてください。礼拝を回復するようにさせてください。個人礼拝を回復するようにさせてください。みことばを回復するようにさせてください。祈りを回復するようにさせてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン