2005年11月6日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/主は私の受ける分
(詩119:57〜64)

・どんな信仰が一番良い信仰でしょうか? 礼拝一つですべての問題が解決されなければなりません。それが、とても良い信仰です。なぜなら、礼拝する時間にすばらしいことが起きるためです。それを知らない人は、信仰生活のどんな面でも勝利できません。'他のものがこれ以上必要ない。'というほどになるのが礼拝です。確かに皆さんの子どもは、この場に一緒にいなくても、皆さんが礼拝する時間に、その場を祝福されます。確かにペテロは監獄に閉じ込められていたのですが、聖徒が礼拝する中に、奇跡が起こりました。間違いない事実です。それなら、礼拝ぐらい祝福された時間はありません。皆さん個人が、自分自身を診断しなければなりません。皆さんが本当に聖日礼拝をささげて、そのメッセージを捕まえて答えを受けられるのが、正常な信仰です。ひょっとして、皆さんが多くの薬を飲むべきだとすれば、正常なからだではありません。からだが良くないから、多くの薬を飲むようになるのです。しかし、健康な人々は食事だけでも充分です。それと同じように、信仰生活も全く同じです。

・今、インターネットでみことば受ける方もいて、衛星で一緒に礼拝する教会もあります。皆さんが胸の中に今日、この礼拝時間に、私はすべての祝福をみな受けると考えなければなりません。説教者も、そのような信仰がないならば、教会を生かすことができません。なぜなら、神様をよく知らない人になるからです。それで、皆さんが礼拝をささげる時間に、目に見えなく聖霊の働きのような霊的な事がたくさん起きるのです。見えないからといって、ないと思う人もいます。事実上、目に見えないのですが、空気中には、ものすごいことがあります。酸素だけがあるのではなく、いろいろな電波のようなものも漂っています。どれだけすごいかというと、全く線がないのに、電話が通話できるほどです。目に見えない電波に乗って、テレビもみな見えるようになります。それで、ものすごいことが私たち目に見えないようにあるのです。そうだとすれば、私たちの礼拝する時間は、とても重要な時間です。

・今日のタイトルが'主は私の受ける分'と言われました。受ける分という言葉は、相続、財産こういう意味です。私たちクリスチャンは、とても貧しくて苦しんでもいけません。しかし、お金がすべてだと思ってもだめです。もしそれならば、その人は失敗した者です。皆さんの胸の中にお金がすべてだと思えたら、まちがいなく失敗した者です。現在、失敗していないかもしれませんが、これからそうなるでしょう。なぜなら、それだけ難しいから言う言葉です。しかし、本当にお金を持った人は、お金がすべてだという話はしません。たとえば、私たちが健康な人は、健康が'すべて'だとは話しません。しかし、からだが病気の人は、あまりにもしんどいから'健康がすべてだ。'と話します。それで、3種類の人がいると思います。

・とても貧しくて、とても病気と無知の中に陥って、困難を受ける人がいます。反対に、ある人は財産、名誉、こういうものがすべてです。これのために、最善を尽くすのは良いのですが、人殺しもして、悪いこともします。また、そこまではしなくても、心の底では 'お金ならばすべてだ' '名誉がすべてだ'と思う人も多いのです。まちがいなく、失敗した人です。またもう一つの種類の人がいます。今日、ここにある通り、主を受ける分だと言う者です。私たちのレムナントと全世界にいる私たちのレムナントは、こういう信仰にならなければなりません。名誉と物質は基本です。どの場合にも、物質の奴隷にならずに、物質を動かすべきです。そのような信仰の人にならなければなりません。お金について行くのではなくて、お金が付いてくるようにさせなければなりません。私たちのレムナントとクリスチャンは、そのような実力をそろえなければならないのです。皆さんがどのように生きるのか? ということも重要ですが、それが皆さんの祝福で付いて来なければなりません。

・どのようにすれば、そうなるのでしょうか? 今日、詩篇の記者が表現しました。主は私の受ける分です。このようになれば、全てのものが付いてきます。こういう祝福を味わわなければなりません。皆さんがまだ未信者を見ながら、うらやましいと思うのなら、何かを知らずにいるのです。未信者を見る時、かわいそうな気がしなければなりません。私はある時には、国会議員も哀れに見えます。得票するために、どれくらい努力するのでしょうか? それで、私の胸の中では'あの程度ならば、国会議員をしなければ良いのに。'と思います。どれくらい苦労するのかわかりません。付いてくるべきなのに、私がついて行こうとすると大変なのです。それがやさしいことではないのですが、リンカーンのような人は、祝福が付いてきました。ある時、ある有名な牧師が私を訪ねてきました。相談したいと言いました。立派な方がなぜ私が相談しにきたのかと思って話を聞いてみました。時間がなくて、単刀直入に話すと言いました。何かと言いました。自分を助けてくれと言ったのです。どのように助けてあげれば良いのかと尋ねました。'私は大統領に出馬する。'と告げました。私があまりにもあきれたので、そうですかと言いました。心の中では、落ちることが確実だという気がしました。なぜそのように考えたのですかと尋ねました。話を聞いたら、一理はありました。私に尋ねたのです。'未信者が大統領をするのが神様のみこころか、信者が大統領をするのが神様のみこころか?' 'それや、神様は信者がすることをより喜ばれるでしょう。'と言いました。それで、自分が出るということでした。それで、あまりにもストレスを受けたので、このように話しました。'それでも、準備が少しなければならないでしょう。組織も勢力もお金もなければならないでしょう。'と話しました。自分の信仰の証しをしながら、できると言うのでした。さらに希望があるのは、自分の団体の人だけでも、四万人だと言うのでした。それで、選挙をして大統領に出馬しました。それで選挙をしたのですが、一万票も入りませんでした。家族も皆押さなかったということになるのです。私たちは何か雲をつかむようなものについて行こうとすれば、そのようになってしまいます。

・それで、私たちのレムナントと信仰人は、正しく習わなければなりません。主が私の受ける分になる時、付いてくるのです。それでは、主が私の受ける分、その言葉は財産ということです。それが何の話なのでしょうか? それで、主が私にくださったもので生きようという言葉です。それがすごいのです。人々がほとんど知らずにいます。人々はでたらめで知っているのが本当に多いのです。大部分の人々が、でたらめで知っています。例をあげるなら、寒ければ風邪を引くと思っています。絶対にそうではありません。エスキモーが住んでいる所では風邪にかかりません。とても寒くて、風邪の菌がすべて死んでしまうのです。ウイルスによってかかるのです。常識かのように、寒ければかかると思っています。それでは、皆さんはなぜかかるのでしょうか。夏には犬もかからない風邪にかかったと言います。私たちは、このように違うように知っていることがとても多いのです。ウイルスによってかかるから、ある面では夏にさらによくかかることもあります。そして、医師、薬剤師もここにいますが、風邪は良くならないと言われるでしょう。薬を飲むのは、これ以上、被害が及ばないように、また良くなる時まで持ちこたえるためです。一つの例をあげたら、そういうことです。

・私たちはあらゆる分野に、ほとんどでたらめなことを知っているのです。私たちが正しく分からなければなりません。主が私の受ける分という言葉は、直ちに祝福を受けることもできるのですが、主がくださったことを味わうということです。それで、皆さんに合宿を受けなさいという理由は、タラッパンではそれを教えるのです。それを合宿を通して体験させようとしています。行ったり来たりして聞くより、座ってちょっと深く聞いてみるようにさせるのです。単に説明するのではいけないから、証人を呼んで聞いてみるのです。単に説明しては、よく理解できないから、行ってみるのです。これが私たちの合宿訓練五つです。正しく契約を持った人ならば、合宿訓練を受けながら多くの祝福を受けるでしょう。ある方が、自分は合宿訓練の五つをみな受けたが、五つを受ける時ごとに、他の人が一生の間で受ける答えを一度にみな受けたと言いました。正しく受けたのです。ある人は、合宿を受けて20年間、病んでいた病気が治ったと言いました。

・インマヌエル教会にきてチーム合宿を受けたのに、自分が一生、祈っていたことが、その時、答えられたと言いました。伝道合宿を受けてみたら、教会では百年で受ける答えを受けたという人もいました。そうなるでしょう。神様が私たちにくださった、それを味わわなければなりません。それで、主は私の受ける分です。ひとまず神様が私たちに何をくださったのでしょうか? 救われた者に身分を違うようにされました。皆さんには、運命、呪い、こういうものはもう終わったのです。まだ、先祖を祀る人がいます。そんなことはしなくても良いのです。まだ供養したり、お祓いをする人がいます。全くしなくても良いのです。しても問題になる必要がないのですが、しなくても良いのです。ある人は、私に'牧師先生、寺でくれる食べ物を食べてもかまいませんか?だめですか?' と聞きます。だめなことが何があるのですか。また食べ物に何があるのでしょうか? 私たちが実際に供養すると、親が来るのではなく、その悪霊が親をまねてくるのです。そして、僧侶はだまされてはなりません。前世があるのではなく、悪霊がそのようにまねをしてだますのです。そこに僧侶がだまされて、はまってはいけないのです。人々は、ほとんどだまされます。私たちは、しばしばだまされるから、失敗するのです。

・それで、救われた者を神様の子どもとして、まったく身分を変えてしまわれたのです。バルテマイがイエス様のところに出て行って、あわれんでくださいと大声で叫びました。イエス様が何をしてほしいのかと尋ねられたのです。見えるようになることですと言いました。イエス様がこっちに来なさいと言われました。その時、バルテマイがどのようにしたのでしょうか。上着を投げ捨てて出て行ったとされています。イスラエルでは、その当時、上着は身分を現します。昔、李氏朝鮮時代の前の時代を見れば、身分によって服が違いました。イエス様の前に出る時、上着を投げ捨てて出てきたということは、身分を変えるということです。それで、モーセに履き物を脱げと言われたのです。昔には、履き物、指輪、服が全部、身分によって違ったのです。意味ある言葉です。色々な説明と関係なく、皆さんの身分、運命を変えてしまわれたのです。人々がよく知らずにいます。皆さんの身分が変わったのです。恐れることがありません。

・そして、二番目に何を与えられたのでしょうか? 使いさえすればよい権威を与えられました。'受け入れた人々、すわわち、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)'権威の特徴が何でしょうか? 使わなければならないのです。身分は味わうことですが、権威は使わなければなりません。死んでも使わないことでは、効果がないのです。皆さんに不信仰がくれば、不信仰もイエスの名前でうち砕きましょう。良くない考えでも、醜い気がしても、イエスの名前でうち砕きましょう。皆さんの家に事業の場に、悪い霊が入って来ることができないように、イエスの名前でうち砕かなければなりません。

・長官一人が他のことをして赦免されるようになりました。女の人で芝居していた方だったのですが、この方を長官にしたのです。ところが、この方がそれまでに予約されていた演劇があったので、行って出演したのです。それのために服を脱いで行きました。その方としてはそれしか方法がなかったのですが、なぜそうなったのでしょうか。長官という権威があるためです。それを使わないで、他のことをしたためです。何の力もない人が、前に立って、バスも止めることができて、すべての車をみな止めることができます。なぜなら、国家でその人に警察という権威を与えたためです。ですから、その人が交通法を違反する車を見て、じっとしていれば、何も問題が解決しないのです。'あの人が変なようだ。'と言われれば、その人を呼んで、尋問もしたりすべきです。全く使わなければ問題になるのです。

・それで、神様が私たちに身分だけ変られたのではなく、権威を与えられたのです。権威の特徴は、上から与えられることです。それが違うのです。能力は私が持っていることですが、権威は上から与えられることです。神様が皆さんにものすごい権威を与えられたのですが、それを使わないのです。それだけではありません。7つの祝福と力を与えられました。皆さんが祈る時ごとに、聖霊が働かれます。神様が天の軍隊と天使を送られます。神様の国が臨むようになるのです。暗闇の勢力がうち砕かれます。すばらしいのです。こういう7つの祝福を与えられたのです。これを味わわなければなりません。これが主から私が受ける分です。皆さんは、新しく始めるように願います。

・主は私の受ける分ということは、何の話なのでしょうか。これから主なる神様が、私たちにくださった祝福として準備されていることを味わいに行くということです。すごいではないでしょうか。今日、学習、洗礼を受ける方々は、その契約をつかまなければなりません。信仰とは何なのでしょうか。神様がくださったことを持っているのが信仰です。信仰生活とは何なのでしょうか。神様が祝福で準備しておかれたことについて行くことです。それが信仰生活です。だから、どれくらい重要でしょうか。それで、これから神様がくださろうと準備されたことが何でしょうか。そこで、私たちのタラッパンでは20個を捜し出したのです。そちらへ行けば良いのです。それで、合宿で受ける内容を見れば、その祝福について行くように作ってあります。また、私たちが今、共同体をしようというのが何でしょうか。神様が準備しておかれた祝福について行くのです。これから、私はこういう考えを持っています。私たち韓国の人が、私たちのタラッパンメンバー、子どもたちが、どこへ行こうが、安らかに眠ることもできて、勉強できる場所を作らなければなりません。最も簡単に話せば、それが共同体です。皆さんの子ども達が、とても良い環境で実力をそろえられるように作ってやらなければなりません。それで、まず外国から韓国に来たら、寝て訓練を受けられる所がなければなりません。確かに神様のみこころです。そのようにするのが信仰生活です。

・さらに、重要なことが出てきました。主は私の受ける分です。それが何の話なのでしょうか。それよりさらに重要な言葉です。祝福も受けて、これから受けることですが、それよりさらに重要です。それが何でしょうか。主なる神様自体が、私たちの受ける分です。それがより大きい祝福です。今日の57節では、主は主権者だということです。58節には救い者で、59-61節に見ると、統治者ということを言われています。62節の意味を見れば、私たちのすべての生死、災い、祝福を治められるのです。その神様が私の受ける分なのです。これが何の話なのでしょうか。こういう話をしました。ソドム王と戦って勝った人がアブラハムでした。王が財産を与えたら、アブラハムが受けなかったのです。それと共に言った言葉があります。主なる神様が私の受ける分だと言いました。アブラハムがそうでした。だからアブラハムがすばらしい金持ちになったのです。創世記15章に、神様がアブラハムに何とおっしゃられたのでしょうか。わたしがあなたの報いで、あなたの盾だ。未信者は理解できないでしょう。未信者は、人が自分の盾でしょうが、聖書には神様がわたしがあなたの盾だと言われたのです。そして、わたしがあなたの報いだと言われました。しかも、聖書に何とおっしゃられたのでしょうか。'わたしを示して誓う。'わたしを示して誓うということは何の話なのでしょうか。皆さんは、どこにでもサインをしてはいけません。主がご自分の名前でサインして祝福されるという言葉です。だから普通の祝福ではないのです。

・皆さんは、どこにでも保証人になってはいけません。また、ある人は物心がついていないで、ずっと教会の長老や牧師にきて、保証人になってくれと言います。可能ならば、牧師にそんなことを持ってきてはいけないのです。それも財産の保証のようなものは、牧師に立ってくださいと言われたら困ります。例えば、私たちはレムナントを育てるためにすることは大丈夫です。事業保証のようなものは、牧師が立てば困るのです。牧師だけでなく、一般信者も、どこにでもサインをしたら困ります。特に、私たちのレムナントは、成長しながら、それをよく知っていなければなりません。皆さんが外国に行って、サインをすれば終わりです。完全に責任を負わなければなりません。それで、私たちのレムナントは知っていなければなりません。主がわたしの名前で誓う。祝福する。これは、普通の話になりません。主は私の受ける分です。

・それでは、私たちがこの祝福をどのように味わうことができるのでしょうか。たくさんあるでしょうが、必ずすべきいくつかのことがあります。その最初が何でしょうか。メッセージが正しく整理されなければなりません。誰がなんと言っても、聖書のみことばが正しく整理されなければならないのです。大きい問題は、聖書のみことばが違って整理されてしまえば、これが大変です。私たちの聖徒が、神様の祝福を正しく味わおうとするなら、メッセージが正しく整理されていなければなりません。私が知っている方は、聖書勉強を非常によくしていました。家に行ってみれば、聖書勉強というものはみなしていました。しかし、全く祈りの答えも受けられなくて、だめでした。それでは、その人の人格が変なのかというと、そうでもありません。本当に大丈夫な方でした。良く習った方でした。人格も性格も本当に良かったのです。知恵もありました。簡単に話せば、本当に大丈夫な人なのに、だめなのでした。理由がただ一つだけありました。メッセージを誤って整理したのです。これが普通の問題ではありません。メッセージが誤って整理されてしまえば、大変なことになります。皆さん、今からメッセージ正しく整理してしまえば、祈りの答えはくるようになっています。立派な牧師が、一生牧会をしたのに、最後にきてほとんど失敗してしまったのです。理由は違うことではありません。その方が、悪をたくさん行ったのではありません。メッセージが誤って整理されている牧師だったのです。それならば、メッセージをいつも誤って伝えたということです。だから、教会で問題が起きます。それしか仕方ありません。だから、皆さんは何の心配もしなくても良いのです。私は、私たちの聖徒、長老を見ながら、これからものすごく祝福を受ける方達だということが分かります。神様が祝福されれば防ぐ人がいません。メッセージが正しく整理されていなければなりません。それが何でしょうか。

・皆さん、聖書66冊が一手に入ってきていなければなりません。神様の民はどの場合にもほろびません。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、これが創世記です。なぜそうなのでしょうか。創世記3:15の契約を持っているからです。だから、聖書を正しく知っていなければならないのです。そして、神様の民をみななくそうとしたのですが、神様の民は死なないで抜け出しました。それが出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。そうです。血を塗った日、出てきました。これが核です。聖書の核をずっとのがして聖書勉強をいくらしてもだめなのです。皆さん、メッセージだけ正しく知っていれば、じっとしていれば良いのです。しかし、メッセージを間違えていれば、努力してもだめです。それが最初です。それで、荒野を行く間に、血の契約を持った人は荒野で勝利しました。出てきたということが出エジプト記です。荒野を行きながら礼拝をささげたのがレビ記です。字そのままです。神様の民は、重要です。その数字を数えたのが民数記です。そして、カナンの地に入る前に、胸の中に刻まなければなりません。申命記です。そのような話です。それでは、その次は何でしょうか。メシヤを送る地に行かなければなりません。メシヤに会う土地に行かなければならないのです。それがカナンです。

・ヨシュア、士師記、ルツ記に入るのです。その時からは、士師時代が開きました。サウル王が最初の王として立ち、イスラエルは23代の王まで起きました。それが旧約聖書です。王中心で書かれたのをI、U列王記、歴史中心で書いたのがI、U歴代誌、その当時に預言者がずっと話をしたのです。それが預言者の書です。それが旧約聖書です。旧約の核が何でしょうか。王、預言者、祭司が現れても、良くならないのです。それで浮び上がった単語が何でしょうか。メシヤです。誤って悟ってしまえば、大変なことになります。

・それで、新約に入って、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書です。メシヤがこられた。その証拠がマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。何のために全く同じものが、四冊にもなるのでしょうか。ある人は、四冊が似ているといって共観福音と言いました。マタイの福音書には家系図が出てきます。ユダヤ人に与えたのです。なぜでしょうか。ユダヤ人はとても家系図が好きなのです。マルコの福音書を見れば、異邦人に与えたのです。ルカの福音書は、個人医師ルカが、テオピロに与えたのです。ヨハネの福音書は何でしょうか。ヨハネの福音書は特に、とても重要な宗教人にした言葉です。それで、ヨハネの福音書の主題は、イエス様は神様だ。これが主題です。ルカの福音書の主題は、イエス様は人のからだを着て来られた。マルコの福音書の主題は、イエス様は苦痛の中におられた。同じ内容ですが、主題で照らすことが違っているのです。マタイの福音書は、イエス様は王族であることを話しています。大工の息子として来られたように見えるのですが、王族です。それを証拠したのです。だから聖書を正しく理解してしまえば、答えはくるしかありません。残りは何でしょうか。イエスを信じる者に来た証拠、それが全部、書簡、手紙です。それで、ヨハネの黙示録は何でしょうか。これから起きること、これから霊的に途方もない問題がくるだろう。それで、正しく恵みを受けなければならない。その話です。メッセージが整理されているべきです。それで、神様の祝福が私にくるしかありません。それからのことが何でしょうか。

・神様のみことばの力を私が所有しなければならないのです。それで、アブラハムの告白のとおり、神様が私の受ける分という告白が、私たちの告白にならなければなりません。それで、働きが起きます。皆さんが本当に一度考えてみましょう。あらまし考えれば、何の話かわからないでしょう。皆さんの命を誰が治めておられるのでしょうか。神様です。それなら、主が私の受ける分です。どれくらい大きい祝福を受けたのでしょうか。米国、あるいはヨーロッパに行っている皆さんの子ども達を、誰が祝福してこそ、最もうまくいくのでしょうか。私はいくら考えても、神様が祝福されてこそ、うまくいくと思います。しかし、恐ろしいことには、私たちがどんな祝福を受けたのでしょうか。主が私たちの受ける分です。そうすれば良いことではないでしょうか。正しく信じて告白しなければなりません。私たちのレムナントが、今、適当なメッセージはすべて聞きます。レムナントの未来がどうなるでしょうか。その未来を最も祝福して導く方は、主なる神様です。それでは、主が私たちの受ける分です。神様がどこにいるのかと言う人がいます。ニーチェが神様はいない。神様は死んだ。そのようにして、精神病院で死ぬ時は神様を探したのでした。僧侶が、氷の上を行きながら、木魚をたたきながら南無阿弥陀仏と言いながら行っていました。しかし、氷が割れて流されたら'あぁ、神様、助けて下さい'と言ったのです。仕方ないのです。皆さん本当に深刻な状況に置かれてみてください。神様を探します。私たちがびっくりする時は、お母さんと言います。ある人は、びっくりする時、お父さんと言います。イエスを信じる人です。しかし、皆さん本当に深刻な時に見てください。人間は探すのが違います。しかし、主が私たちの受ける分なのです。主なる神様が、私たちのレムナントの受ける分なのです。どれくらい感謝しているでしょうか。

・最後にすることが一つあります。もう皆さんが礼拝をささげる時ごとに、一つずつはしなければなりません。このみことばがどの部分でも、一つでも私のことにならなければなりません。これが何でもないようでも、皆さんのたましいを生かして、肉体を生かして、みな生かすのです。それでそれぞれ違っても大丈夫です。皆さんが説教を聞いて、礼拝をささげる時ごとに、私の話を聞くのではなくて、神様の祝福の御声を聞きましょう。それで、ギリシヤ語では単語を違うように使いました。この神様のみことばをロゴスと言います。ロゴスはギリシヤ語です。これはすでに記録されている神様のみことばです。60億人口がみな否定しても、これは神様のみことばです。それでロゴスと言うのです。しかし、このみことばが私にぶつかってきた時はレーマと言います。それが違うのです。このみことばで、私にぶつかってくるのがレーマです。それで、私たちが英語で話せばメッセージです。これが聖書ですが、このみことばが伝えられる時、メッセージなのです。私たちの人間でもメッセージがきたと言っているではないでしょうか。それは、私に何かきたということです。神様のみことばがレーマとして、私にぶつかってきたということです。それだけなれば良いのです。それで、ある日、皆さんは祝福の現場に来ています。もっとも、今、この場に座っているということが祝福の現場に座っていることです。私はある時は、寝て思っても、真に幸せだという気がします。私がやや下手すると、滅ぼされるパリサイ人に列をならぶところでした。やや下手すると、私が偶像崇拝者になるところでした。考えるほど、ひやっとします。思わずパリサイ人が確かに滅ぼされるのに、列をならぶところでした。神様が分かるようにさせてくださって、福音に列をならぶようにされたのです。ますます成功できる席に神様が並ばせてくださいました。どれくらい感謝しているでしょうか。

・私たちの働き人が、今日11月6日の日、全教会が共同体を決意しようというメッセージがきました。それで、私がこういう話をしました。牧会をしてみたら、私たちの韓国の人々は、1ケ月中ずっと話せば20%程度参加することがわかります。それで、私が私たちのメンバーに、11月6日と言わずに、11月6日からだと言いなさいと言いました。今からしましょう。皆さんが祝福を受けられる時代的な考えをしなさいという言葉です。それで本当に多くの祈りをしましょう。今まで祈りをよくしてきた人は、今日でなくても、祈りよくしましょう。私は今、たくさん考えています。それで、私たちの牧師に言いました。これから、指輪、時計、みな売りましょう。つけているもののほか、残っているものはみな売りましょう。そして、皆さんが今、土地も残っているものはみな売りましょう。神様の前に、レムナントの前に出しましょう。時代的な作品を作りましょう。そして、多く祈りましょう。動物のほかはみんな出しましょう。先週には、動物もしなさいと言いました。犬も売って出せば良いのです。そういえば、徳平に犬四匹がいます。それも売って出しましょう。それだけするという話ではなくて、すべてつくしましょう。このようにして神様の祝福を正しく伝達するのです。神様が私の受ける分です。皆さん、この祝福が常に皆さんのことになることを希望します。理由が何でしょうか。皆さんのものであるためです。皆さんは、神様が皆さんと共にされる、そのような祝福の人々です。全世界に散ったレムナントにも、この祝福があることをイエスの名前でお祈りします。特に今日、学習、洗礼を受ける方々にこの祝福が特別にあることを希望します。

<<契約の祈り>>
神様に感謝します。主が私たちの受ける分であることを感謝します。世の中の人々は、とんでもないことを財産として失敗します。私たちに全てのものを味わうことができる主が、私たちの財産となられることを感謝します。残った人生がずっと勝利するようにして下さい。それで、世界福音化することができるように祝福して下さい。今、米国、ヨーロッパなど、海外にいる私たちのレムナントを神様が祝福して下さい。目に見えないように、主の聖霊で完全に働いて下さい。天が軍隊を送って、道を平坦にしながら、神様の祝福を見えるようにさせて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン