2005年11月20日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/収穫感謝祭の3つの祝福
(出エジプト23:14〜19)

・今日は収穫感謝聖日で聖餐式もあります。聖書に起きた最高の事件が出エジプトの事件です。この時できたのが収穫感謝祭でした。今日、皆さんもこういう祝福を回復するように願います。人は、小さい希望でもあれば喜びができます。ある時は、違った希望でも持てば、その瞬間だけは真の喜びになります。人が希望をなくせば、みななくすことになります。しかし、私たちの希望が明らかになれば、多くの祝福を悟るようになります。ある人は、小さいことを得ようと努力します。またおもに女の人たちが、市場へ行って何かを買うのも、そのような心理だと言われています。良いものがないだろうかと思って、行ってみるのです。格別に必要でもないのに買いたいという心で買うのです。なぜなら、それも小さい希望になるためです。また、ある人々は詐欺にあったりします。詐欺師が詐欺を働く時、小さい希望を与えるから、それを捕まえて詐欺にあうのです。ある人々は買わないのに、市場を歩き回って見る人もいます。おもに女の人たちが、何も買わないのに、出て行って見物したりもします。目で見るので、eye shoppingと言います。ところが、米国ではその言葉を使いません。米国ではwindow shoppingと言うのです。なぜなら、eye shoppingというなら、目玉を売っていることになるのです。目玉を売り買いするのがeye shoppingです。それで、窓から見るからwindow shoppingと言います。ある人々は、そのようにしながら、希望も持って、ストレスを解消したりします。

・しかし、私たちに最も重要なのは、本当に神様がくださる希望を捕まえれば、その時から変化するのです。レムナント7人がそうでした。単純な夢を持っていれば、その夢がなくなればまた揺れたりもします。これから私が世界福音化ができるという明らかな理由と希望をヨセフが捕まえたのです。どのようにして捕まえたのかは個人に尋ねることができないので、すべて知ることはできないのですが、明らかに知るようになったのです。このようになれば揺れません。またダビデです。ダビデは王になるということを確かに分かりました。だから、揺れる理由がありません。用心だけすれば良いのですが、揺れる理由がありません。私たちが神様がくださる本物の希望を捕まえれば、多くのところに答えがきます。皆さんが信仰生活する中に、その祝福を受けなければなりません。言わば私たちが違った希望を捕まえた時、いつも問題になります。私たちが祈りの課題でも、とても雲をつかむようなものを捕まえた時は、いつも困難がきます。しかし、神様がくださった希望を正しく捕まえるとすれば、それがまさに成功で、祝福になるのです。ある人は、違ったものを捕まえて一生暮らして死ぬ人がいます。それで、希望も希望次第であって、違ったものと雲をつかむようなこと、損するものを捕まえている人がとても多いのです。パウロという人が福音を受けた後に、ローマが世界福音化されるのを、夢ではなく、実際に捕まえたのです。答えはこの時から始まるのです。

・収穫感謝祭という時、単に秋になって感謝すると理解したら、何の効果もありません。イスラエルの国に世界史で最大の問題が行われた日です。今、エジプトでもこれは認めています。イスラエル民族がエジプトから出エジプトして出てきた奇跡の事件をいうのです。皆さんが必ず記憶しなければならないのは、神様の民がとんでもない希望を捕まえると、このように奴隷となります。本当に不思議です。アブラハムを呼ばれて'あのカナンの地に行きなさい'と告げられました。祝福された土地で、乳と蜜が流れる土地だと言われたのです。これがどういうことでしょうか。行ってみたら、小さい土地でした。どうして神様がものすごいガラテヤのウルから離れるようにさせて、こういう小さい土地に行けとおっしゃったかということです。農作業も難しかったのです。山が70%で、平地が残り30%です。狭いうえにイスラエル全体は韓国の土地の半分にもなりません。朝鮮半島の国土は、南・北みな合わせも米国の一つの州より小さいのです。しかし、イスラエルの土地は朝鮮半島にもなりません。そして、行ってみたら、それがまた70%が山です。また平地に行ってみたら、平地の大部分は石の畑でした。それで聖書を見れば'石で打つ。石が叫ぶ。'という言葉がありますが、それは石が多かったからです。どのように生きるのでしょうか? 不思議に神様は、こういう国に送っておいて祝福すると言われたのです。

・そして、その地にメシヤを送ると言われたのに、行ってみたら、とても住みにくかったのです。それだけではなかったのです。右側には地中海の海洋民族がいつも攻め込んできました。左側には、有名なアラビアがずっと攻撃してきます。それだけでしょうか? 上に上がれば、世界を動かす強大国であるアッシリヤとバビロン、こういう国がありました。こういう国が、イスラエルをいつも攻撃してくるのです。その程度ではありません。南側には、有名な国、今日の本文に出てくるエジプトがありました。その程度ならば大丈夫でしょう。下ではエジプトとバビロンとが勢力争いをしていました。勢力争いをしようとするなら、行き来する戦場がイスラエルだったのです。こうすれば、エジプトとバビロンと戦うのに、イスラエルとの戦いが起きなければならなかったのです。気楽な日がありません。どうして神様がこういう国に…だから、イスラエルが帰りながら奴隷になったのでした。本当に不思議です。皆さんが悟らなければなりません。神様の民は、神様の恵みと祝福を受けて、福音を正しく悟れば、それらが全部、通路なのです。私たちが神様の祝福を正しく受けられなければ、全部、敵です。

・学生たちが大学の試験を受けるからと、少しの間祈りに来ていました。大学に行くならば、こうしたことが行われると、少しの間、話しました。全く同じです。私たちが正しく神様の祝福を受けられなければ、全部すべてが敵で、全部私たちに問題になります。皆さんが恵みを受けて、福音を正しく知って、神様の祝福を受ければ、全部、道であり、大きな通路です。昔にヨセフの時、そんなにきらびやかだったイスラエルが、今は完全に奴隷になりました。この時、神様がレムナント・モーセを呼んで、イスラエル民族を連れて出て行けとおっしゃったのです。それと共に、福音を回復させるものすごいメッセージを与えられました。その時に起きた奇跡です。問題は、モーセが自分の力ではなく、神様がくださった希望と契約を捕まえたのです。私と皆さんが信仰生活するのに、それが一番重要です。信仰が良い、悪いという色々な基準がありますが、神様がくださった契約をどれくらい正しくつかんでいるかが正しい信仰生活を決定します。未信者も吉凶を占う理由が何でしょうか。天のみこころを分かろうとするのではないでしょうか。救われなかった者も占ったり、おみくじを引く理由は、天のみこころを知ろうとするのではないでしょうか。

・私たちは神様の民なので、神様の計画だけ正しく捕まえれば、その時から働きはずっと起きます。これが信仰生活です。教役者がする教会牧会の働きはこれです。良い講壇は、説教が上手なのも良いでしょうが、それよりは神様の計画をよく伝達する講壇が良いということです。皆さんがこの時代を見通して、神様のみことばをよく聞きながら神様の計画を見つけだしたら、それがすべてです。私が2年間、定刻祈りの時に、この祈りをしました。共同体訓練場。これを置いて現場で見ながら、米国や韓国で集会しながら、いつも祈ったのです。今、始めるべきだとの気がしました。‘後ほどすれば遅れる。それでは、各教会がみな建築して、生活が苦しいのに、どのように、それで作れるのだろうか?’その時、神様がこういうメッセージをくださいました。神様が奇跡の扉を開かれるでしょう。‘神様が祝福されたら、できないことがあるだろうか? ’それで、こういうメッセージを捕まえて始めました。私たちのタラッパンメンバーは、全国と世界に30万人がいます。祈る中に、一人ずつ参加しています。昨日まで3800人が参加しました。3800人しか参加しなかったのですが、約25億円くらいになっているようです。それこそ、私たちは世界で一番良い共同体訓練場を作れます。

・皆さんの子ども達と私たちのレムナントが本当に見て味わうことができる重要な現場を作れます。このような形で出て行けば、超過しないかという話も出てきています。そのような証拠が今、明らかに見えています。これが神様のみこころに合うならば、どうなるでしょうか。これが重要です。金額や私たちの献身が重要なのではなく、これが神様の計画である時、どうなるでしょうか。イスラエル民族がエジプトから出てカナンの地に行って、福音を回復するのが神様のみこころです。この話を強大な力を持ったパロ王が聞かなかったのです。この時から奇跡が起きました。この奇跡は、パロ王には災いでイスラエルには奇跡です。誰が神様のみこころを防ぐことができるでしょうか。パロ王が、自分の力で神様のみこころを防ぐから、災いがずっとくだされました。

・それがあの有名なエジプトの10つの災いです。一番最初にくだされた災いは何でしょうか? 人に最も必要なことが水なのですが、その水を血にしてしまったのです。ですから、生きることができるのでしょうか。パロ王が助けてくれと悔い改めました。それで血の災いをなくしたのです。どれくらい悪いか、またこのパロ王は、神様のみこころに対抗しました。それでくだされた二番目の災いが何でしょうか。すべてのエジプトの地にカエルがみな上がってきたのです。カエルがみな上がってきたら、どうなるでしょうか。このパロ王が、カエルが出てくればどうなるでしょうか。その次はぶよ。人を刺すぶよが、すべてのふとんと服にみなついたのです。それでもだめだから、あぶがいっぱいになる、こういう災いが行われたのです。その時でも、パロ王は、まばたき一つしませんでした。その次にくだされた災いが何でしょうか? 動物を殺す災いです。財産がやられたので、その時になって、パロ王が 'それでは、ここでいけにえをささげよ’ と言いました。‘羊を殺して血のいけにえをここでささげよ’‘だめだ。私たちは出て行ってすべきだ。そして、私たちはカナンの地に行かなければならない。’それで行けといっておいて、災いが終わればまた変わるのです。不信仰とはそうで、サタンがそうです。心がずっと変わるのです。後ほどは、人々のからだを打ち始めました。うみの出る腫物が広がり始めました。この頃で話せば皮膚病なのですが、そのような病気が広がり始めたのです。それでも、降参しませんでした。後ほどには、神様がすべての穀物、食べられる財産をなくされたのですが、ひょうを降らせて、いなごを送ってなくされたのです。その時になって、臣下が王様に上訴します。‘私たちは、こういうことではみなほろびる。あの国民を送りだしてください。私たちは、こういうことでは皆死ぬ。’ずっと災いがくだされたのです。その災いだけ終わったら、また変わるのです。今まで地球上で、一番がんこだった人が誰でしょうか? パロ王です。後ほどには、全ての所を暗黒の地にして揺れませんでした。

・最後の十番目の災いは何でしょうか? 全部エジプトに住む人の長子をみな殺したのです。パロ王の息子も死にました。いっせいに長子がすべて死ぬということは、普通の事件ではありません。子どもに勝つ親はいないと言われていますが、その時、はじめてパロ王が完全に降参したのです。真に子どもが重要なようです。その時、パロ王がこういう話をしました。モーセを急いで呼べ。そしてした話が‘今、出て行きなさい。すべてのイスラエルの民はみな出て行きなさい。これまで集めた財産があるならば、すべて持って出て行きなさい。そして、食べ物も準備するから、みな準備して出て行きなさい。’そして最後にした話があります。モーセが出て行こうとしたので、最後にした話が何でしょうか? ‘ ‘二度と戻るな’見たくないということです。再び戻らないでくれというほど降参しました。それで、イスラエル民族がエジプトから出るようになりました。本当に驚くべき奇跡が行われたのです。このパロ王が、どれくらい悪質でがんこだったかというと、送り出した後に、また後悔したのです。農作業をだれがして、この作業は誰がするかと考えたら、その時、作っていたのがピラミッドなのですが、ピラミッドを誰が作るのかと後悔したのです。それで、全軍を率いてイスラエル民族を捕まえに行きました。この時、捕まえに行くのに、ちょうど紅海の前にイスラエル民族が詰まっていたのです。そこで、本当にありえない事件がおこりました。皆さんが知っている通り、今でもエジプトが否認できないことですが、紅海が分かれたのです。そこでイスラエル民族が渡りました。とうてい理解できないことです。神様は、イスラエル民族が行く道に、昼間には雲の柱、夜には火の柱で守られました。なぜなら、神様の計画は確実だから、行く途中お腹がすいていれば、マナとうずらを与えて食べるようにさせられました。子孫が生まれた後に、また悟るようにするため、ヨルダン川を分けられたのです。エリコの城壁を倒されて、最後の戦闘では、太陽と月が止める、そんなことが行われました。どうして、こうしたことが行われたのでしょうか。

・神様が、イスラエル民族に大きい祝福三つを与えられました。私たちもこの祝福を受けなければなりません。どのようにこういう事があるでしょうか? イスラエル民族が第一に受けた祝福が何でしょうか? 重要な契約を捕まえて一つになったのです。皆さん、一つになる時、起きる奇跡はすばらしいのです。家庭も一人で祈るより、家族が祈ればすばらしいのです。イスラエル民族が一つになる祝福を味わいました。何のことでしょうか? いよいよアイデンティティーを悟るようになったのです。奇跡です。‘私たちはエジプトに奴隷として生きるのではなく、カナンの地に行かなければならない。’ここに一つになったのです。ですから、イスラエル民族が悟れたので、神様が働かれたのです。これが一番重要な奇跡の中の奇跡です。なぜなら、私たちは自ら自分自身に縛られているのです。ここから抜け出すということが奇跡の中の奇跡です。貧しい人々は、誰が自分に貧しいと言うでしょうか。自分自らがとても押さえられているのです。失敗する人々は、大部分、自分自身に陥って失敗するのです。そのような人々がとても多いのです。簡単に話せば、自分の枠や垣根を作っているのです。それを悟るようになったのです。

・私たちがエジプトにいるのではなくて、カナンの地に行かなければならない。その時、神様がともにされる。これを悟ったのです。一つになったのです。どれくらい重要でしょうか? 私が見る時は、一番大きい奇跡です。ペテロが見て‘ナザレのイエス・キリストの名前で歩きなさい。’と言いました。それが奇跡ではありません。足のきかない者が起きてしまったのが奇跡ではなく、それよりもっと大きい奇跡があります。この足のきかない者を立て起こせると信じるペテロの信仰が奇跡です。昔にイエス様を拒否したペテロの信仰を見てください。私たちが一番、祈りに答えられる最初の条件が、私たちが誰か? です。多分、他の教会は分からないでしょうが、私が見るのには神様がインマヌエル教会の中でも釜山(プサン)教会を一番祝福されることを望まれるでしょう。なぜなら、開始であるから。皆さんが祝福を受けてこそ、他の人も見て悟るのです。他の教会は気分が悪いでしょうが、どうすることができないのです。なぜなら、ここで正しく祝福を受ければ、他の人が見て‘そうだね。’と言うようになります。皆さんがはやく悟らなければなりません。奴隷であって良いだろうか? イスラエル民族が祝福を受けてこそ、世界福音化するのではないのか。神様がみな準備されたのに、悟れないでいたのが、ある日、悟ったのです。‘私たちは奴隷ではない。カナンの地へ行こう!’このように始まったのです。このように一つになったのです。これが奇跡が起こった最初の条件です。

・さらに重要なことがあります。私たちは勇気だけ持ってできるのではありません。イスラエル民族が一人ももれなく羊の血を塗りました。サタン、呪い、運命、私たちはこれらが解決されなくてはいけないので、羊の血を塗ったのです。それが、こんにちの十字架です。どれくらい重要でしょうか。精神病者でも、悪霊につかれた人々に十字架を見せれば、ぶるぶる震えます。一般の人々はよく知りません。しかし、一度、精神が若干おかしな人がもの乞いしに我が家に入ってきて、十字架を見るとそのまま逃げるのを見たことがありました。十字架の事件を普通の人はよく知らずにいるのです。羊の血を全部みな塗った日、奇跡の門が開いたのです。イスラエル民族がもう昔に置いてきた地、カナンの地に行くために、そのカナンに対する希望を本当に抱いた時、神様が奇跡の門をあけられました。皆さんがこういう祝福を味わうようになることを願います。

・私たちは何も心配することがありません。タラッパンのすべての家族がみな参加したら、世界共同体を作ってあまりあるでしょう。もう私たちはこの祝福の幹に乗って始めなければなりません。私たちの信徒が、1人ももれなく心をみな合わせてしまえば、残りの奇跡は神様が起こされます。イスラエル民族が、羊の血を塗って出て行ったから、エジプトを倒したのは神様がされたのです。誰が神様の計画を変えられるでしょうか。紅海が分かれるみわざが起きました。今日、皆さんの人生の前に詰まったすべての道が開かれる祝福の日になるように祈ります。これがイスラエル民族が受けた最初の祝福です。すごいのです。そして、神様はイスラエル民族をそのまま置かれませんでした。イスラエル民族に重要な契約を与えられたのです。これが二番目の祝福です。それが何でしょうか。永遠に忘れてしまわずに、祭り3ケを守りなさい。

・今日の本文にある話です。エジプトから出た日を過越祭で守りなさい。過ぎ越しという言葉は、越えたということです。みな越えたという意味です。英語ではpass overと言います。それは、何の話なのでしょうか? 羊の血を塗った家、救われた家は打たないで越えられました。イスラエル民族が暗闇から、あの紅海を渡って越えてきたのです。最も重要な意味は、血を塗った家を、そのまま打たないで通り過ぎたという意味です。この日を毎年、守りなさい。イスラエル民族が出発した時、予測したのは、全部死ぬと予測したのです。行く道にイスラエル民族は、敵軍で殺される。そして、言葉ではやさしいのですが、その砂、その暑いところを子どもたちを連れて行けない。そして、夜なればものすごく寒いから、そこは行けない。そのように予測したのです。しかし、すべての人々の予測をはずれるようになりました。イスラエル民族は、行きながら穀物を取り入れたのです。それが、麦収穫祭で五旬節だと言います。神様が導かれたということです。これを忘れてしまうなという意味です。

・その程度ではありません。穀物を取り入れて食べるほどでなく、余裕があって、倉庫に保存しました。これが収穫感謝祭です。神様がくださった永遠な契約です。この神様の過越祭の契約を持って出てきた人を神様が永遠に責任を負って導かれるという言葉です。意味が大きいのです。過越祭という言葉は、解放という意味です。運命、サタン、呪い、地獄の勢力から解放されなくては誰も幸せになれません。五旬節、神様の導きということです。それで、聖霊充満が臨む日が五旬節であったということです。収穫祭は、あの天国を意味するのです。みなおさめて倉庫に納めるように、天国に行くようになるということです。こういうすばらしい契約を与えられました。ですから、イスラエル民族が、この契約の中に入っているから、行く所ごとにエリコも崩れて、奇跡が起こる働きを行われたのです。皆さんが今日、この契約の中に入るようになるように願います。イスラエルが最後に捕まえた祝福があります。それが何でしょうか? 誰も防げない神様の恵みと力で、このカナンまで通過したのです。どんな環境の中でも神様が導かれました。理由が何でしょうか? 神様の計画であったためです。どんな環境の中でも、神様は勝利させられました。理由が何でしょうか? 神様の計画であるから。簡単な話ではないでしょうか。

・今、多くの教会が困難にあっています。多くの教会が門を閉めています。それが問題ではありません。神様が願われることをしなかったから。それで、より大きい問題があります。その聖徒たちと子ども達は、どうなるでしょうか。それが問題です。神様が願う計画を持っている人は、どんな道を行っても、神様が導かれます。この祝福を受けたのです。危機の時は、神様が力で働かれます。驚くことが行われるのです。後ほどカナンの地に、ほとんど到着した時、また問題が生じました。行く中にも問題は多かったのです。いつでも、不信仰が問題で、神様の計画を知らないのが問題です。ほとんどきて、テントを張ったのに、その場所がカデシュ・バルネアという地域です。モーセがどれだけ正確かというと、12人の斥候を選びました。その話は、細かく自分の地域を見てこいという意味です。ところで、行ってきた10人が行けないと言うのでした。巨人がいて、大きい町があって、彼らは大きいと言いました。しかし、私たちは弱くて、私たちは子どもたちも女もいるのに、どうするかと言ったのです。ですから、すべての民が号泣しました。その時、現れた人物がヨシュア、カレブでしょう。見る目が違いました。ヨシュアとカレブは何を見たのでしょうか。信仰生活を良くするというのは、神様の計画も見なければならないのですが、現場もよく見なければなりません。現場に行ってみると、エジプトに勝ったヘブル民族が来ているといううわさが広がっていました。いったいこの民は、どんな民なのか、紅海も分けてきた。いったい、この民はどんな民なのか、ヨルダン川を分けてきた。本来、人々は他人の話をする時は、かける100で言います。その上にかける100をしたので、すべてのカナンの地に住んでいる種族が、ほとんど気絶寸前のびっくり仰天状態でした。これをヨシュアとカレブが見たのです。ヨシュア、カレブが何と言ったのでしょうか。‘彼らは私たちのえじきだ。’そのように表現しました。そして、私たちは行けば良いのです。

・ぱっと見ると10人の話が正しいように見えますが、正確に現場を見れば、ヨシュアとカレブの話が正しいのです。それこそエリコを倒しに行ったが、エリコを一日に何度回っても、上から見下ろすこともありませんでした。心がしなえて怖くなっていたのです。誰の話が正しいのでしょうか? ヨシュア、カレブがよく見たのです。すでに皆さんの敵になる悪魔は、心がしなえて縛られてしまっています。私たちは心配することがありません。よく見られないのです。よく見られないので、問題がくるのです。何でも正確に見なければなりません。私はレムナント共同体訓練場は、神様のみこころの中のみこころだと思います。私たちのインマヌエルとタラッパン家族も、神様が祝福されることが明らかです。祝福を受けるという言葉ではありません。それは神様の計画です。これを今、見たのです。ですから、ヨシュアが最後の戦闘の時、どうだったのでしょうか? そのアモリ地域に全連合軍と戦ったのですが、神様がひょうを降らせられ、彼らに勝つようにされました。しかし、夜が来たのです。彼らは道をよく知っています。もし夜になれば、イスラエル民族は道を知らないから難しいのです。もし、イスラエル民族が負ければ、どうなるのでしょうか? カナンの地7部族31人の王がみな立ち上がるでしょう。もし、という話です。もし今夜に負ければ、どうなるでしょうか?終わるのです。そんなはずがないのです。そのような、もしはありません。それで、ヨシュアがした祈りが‘太陽よ。月よ。止まれ’これがうそ偽りの信仰ではありません。皆さんがこういう信仰がなければなりません。

・神様の計画が明らかならば、私たちを妨害する者が出てきたら奇跡が起こるのです。こういう祝福をイスラエルが受けました。その時、そのような事件が起きたのです。こういうものを記念するのが収穫感謝祭です。今日、単純に礼拝をささげずに、本当の人生の大きい祝福を受けるように願います。その程度ではありません。モーセも立派ですが、ヨシュアが本当に立派でした。ヨシュアよりさらに立派な人がカレブです。同じように両側でモーセを保護しました。モーセが死んでヨシュアが指導者になりました。何も話さなくて、カレブは、またヨシュアに仕えました。友人ではないでしょうか? 友人ヨシュアをモーセのように仕えたのです。その人がカレブです。この人は、困難を受ける時ごとに現れました。イスラエル民族が号泣している時‘彼らは私たちのえじきだ’と話しました。これがどういうことなのでしょうか。カナンの地にみな入ったのですが、最後の山地が出てきたが、それがアナク山地です。また昔のようにイスラエル民族がぶるぶる震えながら、巨人が住んでいる所だと恐れたのです。皆さんがおわかりの通り、この時、現れた人物が誰でしょうか。カレブです。本当にすごいのです。その時、ヨシュアの前でこういう話をしました。‘45年前に私たちがこの土地を偵察して報告した時、神様の人モーセが入って来ると話さなかったのか。’信仰生活が正確でなければなりません。‘私たちは今、入って来たではないか。それなら、この山地を私たちにくださるだろう。この山地を私にください。私の年は85才だ。しかし、45年前のその時と同じだ。’どのように、同じでしょうか? 85才の老人が40代と同じでしょうか。それだけ確信があるということです。‘主がもし私とともにおられれば’もし、というのは疑いでなく謙そんです。‘主が結局、勝つようにされるだろう。’これは確信です。このようにして、アナク山地を倒したのです。こういう信仰を持った人々を通してカナンを征服して、これから世界福音化の大きい門が開くようになったのです。

・皆さんは、この祝福を受けるように願います。三つの祝福です。私たちが誰であるかを知って出発したのです。神様の計画を捕まえて、これが重要です。私たちの学生たちも、あまり早くしなくても大丈夫です。神様の計画を確かに捕まえてしまえば、その時から働きは起きます。そして、二番目の祝福は何でしょうか。過越祭、五旬節、収穫祭の契約の中に入ったのです。そして、最後に受けた祝福が何でしょうか。この神様の計画の中で、目を開かれて、神様の力を捕まえて、力でずっと進行していくのです。言わば、いつ神様の力が現れるかを分かったということです。契約をもって行く時! 道が邪魔された時! 契約が明らかだが、状況ではない時! このような時、奇跡が起こります。ですから、私たちは気をおとす理由がありません。今日、この祝福を回復されるように願います。

・結論を結びます。‘どのように、このようなことが起きるのですか?’そのように尋ねれば、間違った質問です。‘なぜこのようなことが起きたのですか?’そのように尋ねなければなりません。主が真の神様だという証拠です。神様のみことばは絶対に変わらないという証拠です。それで、神様のみことばを捕まえなければなりません。世の中のじめじめした声を聞かずに、神様のみことばを捕まえましょう。それなら、全く同じことが行われます。なぜこうしたことが行われたのでしょうか。イスラエル民族に信仰を与えるため。イスラエル民族が信仰がなければ、これから生きていくことができるでしょうか。信仰を植え付けるのです。また、なぜこうしたことが行われたのでしょうか。サタンと敵が心がしなえてしまいました。皆さんは、この契約を知っていれば、行く所ごとに暗闇の勢力は逃亡するようになっています。ひょっとして自分は良くならないと気落ちしている人はいるでしょうか? 新しく始めるように願います。神様は奇跡の門をあけられるでしょう。ただ、イスラエル民族のように、神様の計画を明らかに捜し出しましょう。祈れば、出てきます。祈りもしない人々は、人々に尋ねてみずに祈れば出てくるのです。また、人間中心主義者などに尋ねて、人間中心主義を習わずに祈れば出てきます。私の重要な人生を足りない人に尋ねて習えば、足りなくなるので、祈って捜し出しましょう。‘求めなさい。そうすれば与えられます’確かにそう言われました。

・そして何でしょうか? 神様の五旬節、収穫祭、過越の祭りのその契約の中に入りましょう。そして、最後に何でしょうか。私たちが現場をはっきり見て、いつ神様が力で働かれるかを見ましょう。それで、恐れなかったのです。紅海の前で恐れませんでした。死がきたのに恐れなかったのです。この祝福を記念する日が、3度あるのですが、過越祭、五旬節、収穫祭です。私たちの過越祭は、韓国ではおもに年初に守ります。末ぐらいなって守るのが収穫感謝祭です。今日、皆さんがこの祝福を回復するようになられるように願います。それで、自然に出てくるのが何でしょうか? それが感謝です。それでThanks Giving Dayです。私たちが答えを受けたことは感謝することです。そして、答えを受けるのが確実なことも、感謝することです。今年はとりわけ多くの答えが与えられました。タラッパンに多くの教会が建築されて、レムナントが起きる、多くの祝福を受けました。ずっとそうだったのですが、すべての訓練が倍加されました。数字が倍に増えたということです。

・それと共に、共同体訓練場になる、そのような祝福とこれから起きる事を予想してみましょう。受けたのも感謝するのですが、受けるのが確実ならば、それも感謝するのです。新しい希望と新しい人生が始まることを、主の御名で祝福します。特に衛星で今、共に礼拝をささげるインマヌエル家族と衛星で礼拝をささげる教会、インターネットでメッセージ受ける方々は、同じ祝福を受けるようになるように祈ります。事実、衛星で見れば、雰囲気がちょっと違います。それで、衛星で礼拝をささげる方たちは、2倍に祝福を受けるように願います。そして、インターネットは時々、切れたりもします。それで、インターネットでメッセージ受ける方々は、三倍に祝福を受けるように願います。結果的に、インマヌエルが一番小さく受けるようになるので、皆さんは根源的な祝福を受けるようになるように願います。

<<契約の祈り>>
神様に感謝します。収穫感謝祭を許された神様に栄光を帰します。今日、みことばそのまま回復されるようにして下さい。気落ちしないようにさせて下さい。私たち自らに制限されないようにさせて下さい。神様の無限の力の海に通えるように、私たちに大きい希望を植え付けて下さい。縛られたことから解放されるようにして下さい。それで、真に奇跡の神様の契約の中に入る祝福の日になるように祈ります。イエス・キリストの御名でお祈りします。



2部/恵みを受けた者よ
(Iコリント15:9〜11) 
(ファン・サンベ牧師)
・私たちにくださる最高の祝福、神様の大きい答えが、皆さんの心の深いところに真の感謝が回復され、神様が私たちにくださるいのちのみことばによって、今日、霊的な新しい力を得る祝福の時間になることを希望します。衛星とインターネットで、また各地の教会堂で一緒にみことばを受けるすべての主の民に神様の同じ豊かな恵みがあふれることを希望します。1部礼拝に今日参加できなかった方々は、出エジプト23:14〜19の本文のみことばに基づいて収穫感謝祭の3つの祝福というタイトルで、私たちが大事なみことばを受けたので、インターネットで、またテープでこの大事なみことばを、皆さんがもう一度確認してください。今日は、また感謝祭を迎えて使徒パウロが告白したみことばをご一緒に分かち合おうと思います。先週、講壇メッセージで、私たちは、こういうみことばを受けました。真の祝福を知っている人というタイトルでした。私はそのみことばを聞きながら、また一週間を送りつつ祈りながら、私たちが真の祝福を知っている人だと考えました。そこに登場する色々な人々が出てきます。神様が、私たちに与えられた真の祝福を本当に分かるその人々は、キリストを発見した人々です。キリストを発見した人が、本当に祝福を持った者で、真の祝福を知っている人です。そこにキリストを分かる者の行動が出てくるのですが、キリストが真の王、万王の王、キリストを分かったので、ろばの主人が知らない人々がきて自分の所有物のろばを解いて引っ張っていく時、そこにきた弟子が主がお入り用なのですと話したら、そのろばの主人が、喜びんで自分のをばを差し上げました。なぜ差し上げたのでしょうか。キリストが真の王であることを分かったので差し上げたのです。それで、私たちは、私が持っている小さいことも、神様のみこころを成し遂げることに差し上げたら、それは差し上げた者の喜びです。そして、それが神様のみこころを成し遂げることに用いられたとすれば、そこに使われた自分は、より大きい神様の喜びがその胸の中にあるでしょう。それで、私たちは私が持っている小さい献身、小さいことでも、いつも主のみこころを成し遂げる、そのことに用いられたとすれば、それでいつも感謝して幸福を味わえます。そのような恵みがあふれることを希望します。

・また、その道端に立っていた多くの人々と弟子が、王なるキリストがろばに乗ってエルサレムの町に入城する時です。今、十字架を目前に控えて、エルサレムの町に入城して行くのです。その時、多くの人々が自分たちの上着を脱いで道に敷きました。そして、イエス様がろばに乗って、今、エルサレムの町に向かって入城されているのです。この時、ろばが錯覚することがあります。他の福音書を見ると、木の枝を持って揺さぶりながら、イエス様が過ぎ去られるときに歓声をあげました。ろばが自分を見て多くの人々が歓声をあげるので、ろば自身が偉そうに振る舞って高慢になるならば、ろばの錯覚です。働き人が、どういう姿勢を持たなければならないでしょうか。私が何をしても、福音のために、キリストのために、私がここに参加しているとすれば、私を通じてキリストの栄光が現われたら、それによって感謝して、その栄光に参加させてもらったことによって喜べるように希望します。その喜びがあるべきで、私たちには他の喜びは必要ではありません。それで、真の王であるキリストを発見した人々のその姿を見ながら、私たちも小さい献身ですが、この献身を通して神様のみこころが成就されるならば、いつも感謝しましょう。そのことに献身する私たちの信仰になることを主の御名で祝福します。

・序論的なみことばを、もう少し語ります。良い信仰とは、どんな信仰が本当に良い信仰でしょうか。何週間か前に、こういうみことばを私たちが受けました。良い信仰とは、礼拝一つで毎時間ごとに全てのものを解決する信仰が、本当に良い信仰です。良い信仰することを望みますか。そのような心があるでしょうか。それが本物ならば、私が良い信仰になるために、どんなことを準備すれば良いかを一度考えましょう。礼拝一つで全てのものを得ることができるという事実は、その礼拝がどれくらい重要なのかを強調していることばでもあります。礼拝は、救われた神様の子どもが、神様にささげられる最上のことです。もう一度お話します。救われた神様の子どもが、神様にささげられる最上のこと、それが礼拝です。その礼拝の中には、神様のすべての恵みを供給してもらえる窓口で、通路があります。それで、私が礼拝一つだけ正しく勝利して、成功的礼拝だけささげたら、その人は一週間、世の中を生きていきながら信仰で勝利できる霊的な力、エネルギーを供給されるのです。ですから、礼拝がどれくらい重要でしょうか。礼拝はとても重要です。からだだけきて座っていて、そのまま帰るような人がひとりもいないことを願います。私たちすべてが、みな礼拝に勝利する成功者となることを希望します。礼拝は、あたかも霊的な総合栄養剤とも同じです。総合栄養剤の中には、ビタミン、カルシウム、ミネラルも入っています。総合栄養剤です。礼拝がそうなのです。霊的な総合栄養剤のように、礼拝の中に全てのものがすべて入っています。

・それでは、知っていることでしょうが、礼拝の要素をいくつかだけ話します。礼拝は、私たちの中心の信仰告白が含まれています。私たちの信仰告白です。私が神様の前に告白する真の信仰告白です。私たちは、使徒信条の信仰告白を単に覚えているのではありません。単に覚えるのでなく、私の信仰告白で神様の前に告白するのです。天地の作り主、全能の父なる神を信じるのは、私が信じるのです。創造主、全能なる神様を私が信じて、そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを私が信じ、聖霊を信じ、永遠に生きるということを信じるのです。信じるという信仰告白です。それで、私たちが礼拝で神様の前に信仰告白をする時ごとに、私の信仰が神様の前に告白される、そのような時間になることを希望します。それから、礼拝には何があるでしょうか。賛美があります。この賛美は、信仰告白と祈りが含まれていて、神様の御名を高める賛美、神様の御名に最高の栄光をささげる賛美なのですが、それまたどれくらい重要かわかりません。胸の中に重荷を持って礼拝をささげていても、賛美を通して重荷が消えて、心の真の喜びあふれるのです。信仰で賛美することを希望します。私が司会しながら見れば、賛美を歌わないで、そのままじっとしている人々がいます。内心、賛美をしているとは思いますが、そのようにせずに、可能ならば口を開いて大きく歌うようにしましょう。またオクターブ下で低く歌うのではなく、私たちが年をとると、そのようにしないでと言っても、そのようにするしかない時がきます。今、神様私たちに力を与えられる時、音に合わせて賛美すれば、すでに私の心の中に霊的な力が賛美を通して神様が力を与えられるのです。賛美を通して私たちの霊的なすべての部分が回復することを希望します。これが礼拝の要素です。

・また何があるのでしょうか。祈りがあります。この祈りは、感謝と求める内容が入っています。私個人の祈りはもちろんですが、代表者が祈る時、その祈りの中心に、私の心と考えを入れて共に神様の前に祈るのです。礼拝をささげる前に、私たちが礼拝のために何人か一緒に祈ろうと言う時、その時間をのがさないようにしましょう。私がこの時間、神様の前に礼拝をささげる時、私の中心が私の心と考えが、またみことばの中で、聖霊なる神様が働かれるために、礼拝を準備しながら祈るその時間は、とても大切で重要な時間です。その時間を祈りで準備しながら、また代表で祈る方の心に中心を共に入れて、私たちの祈りの課題が神様の前にささげるようになる祝福があることを希望します。それから、みことばです。このみことば、説教の時間は、礼拝の中ですべての順序がみな重要ですが、最も重要な時間だから、最もサタンが機会を利用する時間です。説教をしなかったのに、うとうとする方は私の責任ではありません。説教者の責任ではないのです。みことばを聞く時、サタンがみことばを妨害するために、皆さんの考え、心を奪われるしかないので、それに勝つために準備しながらみことばを受けようとしましょう。今日、神様が講壇を通して私にくださるみことば、祝福のみことばです。私の人生を最も力で働かれる神様の祝福のみことばが、講壇を通してくださる時、私の心の門をぱっと開いてアーメンで受けられる、そのような心の姿勢をそろえるように願います。みことばは記録された神様のみことばであるロゴスですが、講壇を通して私のたましい、私の心にみことばとして与えられるのが講壇の祝福のみことばの時間です。私に個人的にくださった神様の契約、私がそのみことばを受けながら私の心で再確認するのです。そして、このみことばは私たちに霊的な力を与えて、このみことばが、私が持っている見えない霊的な問題が癒します。みことばを聞くならば、このみことばが私のたましいを癒して、私の心、考えを癒して、不信仰も癒され、肉体の病気もみことば聞く時間に癒される神様の大きい恵みが臨むのですが、その時間がみことばを聞く時間なのです。それで、サタンがみことばを聞けないように邪魔する時間でもあります。目覚める気持ちでみことばを受けながら、信仰で勝利することを祝福します。

・そして、献身が含まれています。私が体で献身して、時間で献身して、物質で献身して、私たちの信仰の中心を入れて、神様の前に献身しながらささげる、この献身が礼拝の中に含まれているのです。そして、お知らせが含まれているのですが、お知らせを私たちはよく聞かなければなりません。ペテロがお知らせをよく聞けなくて大きい失敗をしたと私たちは知っています。事実がそうです。お知らせとは何でしょうか。私たちの教会の時刻表がお知らせの中に含まれています。今日、私たちの教会の時刻表がどうなのか。今日、私たちの教会の祈りの課題が何なのか、私たちの教会が今、進行しているすべてのことが、どのように進行されているか、ということなどがお知らせの中に含まれているのです。教会に根をおろす人は、お知らせをよく聞かなければなりません。教会化されられるように望む人は、お知らせをよく聞かなければなりません。今、教会の中に段階別訓練がどのように進行されられていて、どんな集いがどのように進行していて、どのように信仰生活を私が教会で教会化することができるように手助けするという話が、ほとんどお知らせの中にあります。お知らせをよく聞きながら、教会に根をおろして教会化させられる神様の導きを確かに受け取る皆さんになることを主の御名で祝福します。それで、どんな信仰が良い信仰かというと、礼拝を通じて、これ以上、私はもう他の何も必要ではなく、礼拝一つですべての解答を得て、信仰で勝利する礼拝に勝利する祝福の人になられることを希望します。礼拝の勝利は、信仰生活の勝利の近道です。霊的な神様の力を供給される原動力が礼拝の中にあります。逆にいえば、礼拝の失敗は、これ以上、何を通しても回復することが難しいのです。イエスを信じるのに、時間ごとに礼拝を失敗することぐらい残念なことはありません。今日、そのような人がひとりもなく、礼拝を通して神様の大きい恵みがあふれることを希望します。

・もう一つ、信仰生活の良い信仰とはどんな信仰でしょうか。神様がすでに私たちにくださったものを思いきり味わう、その信仰が良い信仰です。神様、何かを下さい。より多く下さい。また下さい。神様がすでにみな与えられたのです。事実、これ以上、私たちは神様にくださいと言う理由がありません。明らかに悟ったら、イエス・キリストの中に、神様は全てのものをみな入れて、すでにキリストを私たちに与えられたのです。皆さんが、そのキリストを信じるという告白で胸の中に所有したとすれば、私たちはすでに神様から全てのものをみな受けた者であることを確信することを希望します。みな受けました。これ以上、受けることは、事実はありません。神様がすでにくださったこと。それを私たちは味わうのですが、神様が私たちに何をくださったのでしょうか。福音を与えられました。キリストという福音を与えられたのです。何かを守りなさい。このようにしなさい。このようにするな。という律法をくださる前に、先に何を与えられたのでしょうか。福音を与えられたのです。この福音は、すべての人々に最も必要な、すべての人にまず最初に必要なことです。事実は、知識も必要で、名誉も必要で、物質も必要で、良い職場も必要で、良い人も必要で、良い環境も必要で、全てのものが必要ですが、そんなことよりも最も必要なことが何なのでしょうか。すべての人に福音です。どうしてでしょうか。福音なしでその他のものが私に必要だと感じて、それを私が捕まえたら、その人は福音を所有するまで、多くの時間を浪費します。それで、多くの人々は成功しようと努力するのです。成功する前に、その人に何が必要なのでしょうか。福音が必要です。福音をもった人が成功してこそ、その成功が祝福された成功で、その人の人生を祝福の人生に導いていくのです。多くの人々は、出世しようと努めます。努力するのです。夜も寝なくて食べ物も食べません。しかし、実際に成功しても崩れる人生を誰が防げるでしょうか。実際に出世しておいて崩れる人生を、何で解決できるのかということです。それで、私たちすべての人生に最も必要なことがあるならば福音です。この福音が、皆さんの胸の中に最高の祝福で位置づけされる、そのような時間になることを希望します。

・また一つ、なぜ私たちにまず最初に福音が必要なのでしょうか。それは、私たちの人間の力で、皆さんの力で、私の力で、絶対に解決できない問題、創世記3章という永遠な問題、霊的な問題を私たちが持っているから、この問題を解決する道は、福音しかないのです。なぜそのように言うのでしょうか。神様がそのようにされたのです。福音の中に、私たちがこの霊的な問題を創世記3章の呪いと運命にそれぞれの問題を、苦痛の問題を解決することができるように、神様がキリストを送って、キリストを通して十字架でこれらすべてのことをみな成し遂げられた事実、それが福音です。それなら、今日、その福音が私の生き方に、私の人生に、私とどんな関係があるのかを深く一度考えてみましょう。今日、この福音が皆さんに事実的な自分のこととして信じられることを希望します。これを信じてこそ、これが私のものになります。私が信じない限り、私のことになりません。今日、この席に出てきたすべての方が、絶えず私たちが講壇を通して、福音を聞くのですが、ある方がこのように言いました。福音、福音、と言うけれど、いったい福音は何なのか。福音が何でしょうか。何が福音なのでしょうか。キリストが福音で、キリストがされたことが福音です。キリストが十字架ですべての私の人生の問題を解決された、それが福音です。それを、私が私のこととして所有すれば良いのです。信じれば良いということです。黙示3:20に見ると、見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。主がそのようにおっしゃられるのです。それで、主は今でもすべての人々がみな心の戸をあけて、私たちの人生すべての問題を解答となるキリストを迎えることを望んでおられるのです。今日、この福音の祝福が皆さんの胸の中深いところに根をおろす祝福があることを希望します。

・また一つは、どんな信仰が良い信仰かというと、すでにくださった福音に根をおろせばおろすほど、良い信仰です。サタンは絶えず、根をおろせないようにさせます。私たちが福音を聞きながら、また福音を契約で捕まえながら、絶えず福音に根をおろす、こういう生活が信仰生活です。福音の根をおろせばおろすだけ、なるのが信仰生活です。どんな信仰生活が本当に素晴らしい信仰生活かというと、福音に根をおろした信仰が、本当に素晴らしい信仰生活です。私たちが福音を聞きながら、この福音の根が皆さんの深いたましいに根がおりて、実がなるように主の御名で祝福します。時間が経てばますます福音の広さとその高さとその深さ、はかることができない神様の恵みの中に入る、その信仰が良い信仰です。また、どんな信仰が良い信仰かというと、神様が子どもにくださった身分と権威を、すでに与えられたことを知って、思いきり味わう信仰が良い信仰です。すでに神様が子どもにくださった身分と権威の中に、途方もない権威をすでに与えられたのです。それを持って、この世で身分を思いきり味わって、キリストの御名の権威を使いながら暗闇との霊的戦いで勝利して、どんな人生にあっても、どんな問題にぶつかっても、それで神様のみこころと計画を成し遂げる、その信仰が素晴らしい信仰であることを今日も記憶できるように希望します。もう一つ、良い信仰とは、信仰生活の開始がここから開始すべきで、それで正しく信仰生活が開始されるのです。何の話でしょうか。時間が経てば、ますますこの福音がこのように良いのか。時間が経てば、ますます私が悟ること、私が感じること、そうだ、この福音がとても良いな。私がなぜ、すでにこの福音を知らなかっただろうかと考えながら、いつも福音を熱望して、その福音を胸に味わう、そのような祝福があふれることを希望します。ある伝道者がきてこの福音を言う時、なぜすでにあなたが私にこの良い話をしていないのではないか。私がすでに、この福音を受けたならば、私の人生の数多くの時間を私は浪費しないで、物質で、肉体的に、すべての人生を浪費しないで、神様の祝福を思いきり味わえたはずなのに。しかし、今でも私がこの福音を受けるようになったことに対し感謝できることを希望します。神様が私たちにこの祝福の福音を与えられたのです。身分と権威をもって思いきり味わう、こういう恵みと祝福が、今日、皆さんあることを主の御名で祝福します。それなら、私たちは救いをキリストなかで得た者で、すでにくださった福音を思いきり味わう、そのような祝福をすでに私たちは受けた者です。

・今日の本文を見ながら、救われた人々は最初、神様の恵みを受けた者です。言い換えます。救われた者は、どういう者でしょうか。すでに神様の恵を受けた者です。一度、言ってみてください。眠気に襲われている人がいます。私は福音のなかで、神様の恵みを受けた者だ。私がどういう者なのでしょうか。神様の恵みを受けた者です。すでに私たちはそうである者です。私が福音を受けたということは、神様の大きい恵みを私は受けた者なのです。今日、そのように考える人が神様の前に本当に感謝できるのです。どんな恵みを受けたのでしょうか。今日の本文を見ると、Iコリント15:10に見ると、使徒パウロの中心から流れ出る感謝の告白があります。今日、使徒パウロが何と告白するのか、本文の中を見れば、私は過ぎた日、神様を知らない時、私は罪人の頭のような者であった。それで、神様を迫害して、神様を信じる者を迫害して、神様の教会を迫害して、それで私は使徒と称することができないような者だ。しかし、神様が私を救われて、使徒として呼んでくださったので、これがどういう恵みで、これが感謝することです。こういう中心の告白が、今日の使徒パウロの告白です。過去の過ぎた日、そのような私だったが、神様が私を愛されて、私に恵みを与えてくださって、私が使徒になった。私たちも同じように、私たちが過ぎた日、神様なしで偶像の中に陥って、神様のみこころに逆らって神様の心を痛めた、そのような生活を送っていたが、ある日、私たちがこの福音を聞くようになったのです。それで、主の前に出てきたのです。そのたびに、私たちの告白があるならば、神様、過ぎた日、私が神様を知らずに神様の心を痛めた、そんなことを思いながら、それを考えれば私が神様の前に救われる資格がないのに、神様が私を愛して、私にこの恵みをくださって、主の前に私を救ってくださり、神様の子どもの身分、権威を味わいながら、この祝福された生活を送るようになったことを神様、とても感謝します。この感謝が、皆さんの胸の中にあふれこぼれるように願います。それが真の福音を理解した人です。今日、パウロがそのような感謝を告白しています。ところで、もう一歩出てパウロは何と言うでしょうか。今日、私が私になったことは神様の恵みでなったことだ。私がこのようになったことは、神様の恵みでなったことだ。皆さんが、今日、この席に座っているのが誰の恵みなのでしょうか。神様の恵みです。神様の恵みでなったことだ。それで、パウロは神様の恵みに感謝して、彼は私が福音のために苦労するが、私がするのではなく、ただ私とともになさる神様の恵みだ。苦労して福音のために献身するのですが、パウロの胸は、いつも私がこのように福音のために苦労して、キリストのために献身するけれど、これは私がするのではなく、神様の恵みで私がこの働きに用いられているということを、パウロはいつも神様の前に感謝しました。今日、私と皆さんの中心に感謝聖日を迎えて、もう一度この部分が回復するようになる祝福の時間になることを希望します。私たち恵みを受けた者は、今からすることがあるならば一つしかありません。感謝しか実際にはすることがないのです。恵みを受けた者は、今から神様の前に感謝できることを希望します。私が恵みを受けた者ならば、神様の前に、私は一生感謝しながら、恵みを受けた者として、感謝する、こういう祝福があふれ出ることを希望します。

・私たちが神様に恵みを受けたのを、言葉でどのように表現して感謝するのでしょうか。私たちが賛美を通して、祈りを通して、時には物質の献身を通して、神様の前に私の人生、私の人生全体を神様がそのように最も喜んで希望されることならば、私がそのことのために献身すること、それ自体も神様の恵みです。神様の恵みで、そのようにできることを感謝しなければなりません。賛美歌23番を見れば、(韓国語の歌詞では)万個の口が私にあるならば(ありもしないがもしあるならば)私が神様の前にする言葉は、その口すべてをもって私の救い主が与えてくださった恵みを賛美して感謝する、その心の中心が、私たちの胸の中に回復することを希望します。460番を見ると、今日まで守りしくすしき恵みと言われていますが、一瞬も神様の恵みでなければ、私たちはこの世で存在できない弱い人間です。瞬間、瞬間、神様が私の歩みを導いて私の人生の中に主が働かれて、私の人生を今でも勝利の道に導いて行かれる神様の恵みをいつも感謝することを希望します。賛美歌410番に、なにゆえみ神は、神様の恵みで、このつまらない者が救われたので、その神様の恵みを感謝する感謝が、私たちの心にあふれ出ることを希望します。賛美歌405番に、私のような罪人を生かされた大きな恵みに驚いて。そうです。エペソ2:8に見ると、あなたたちが、その恵みによって、信仰によって、救われので、これはあなたがたから出たのではなく、神様の賜物だと書かれています。神様の恵みが、私たちの中に臨んで、私たちの中に信仰を神様が与えられたのです。そして救われました。私が救われる条件や資格があって救われたのではなく、順序で見たら、神様の恵みが私に先に臨んで、それに基づいて私の胸の中に神様が信仰を与えられたのです。それに基づいて、神様が私を救われたのです。それで、私たちは神様の前に自慢する理由がありません。神様の贈り物です。値なしに、ただでくださった神様の恵み、賜物です。今日このプレゼントをされた皆さんの心、たましいの中に、真の感謝が回復する、祝福の時間を過ごすことを希望します。

・大きい二番目です。神様の恵みを受けた者は、どのように生きなければならないのでしょうか。パウロのように、私たちが本当に神様の恵みを受けたとすれば、今からどのように生きなければならないのでしょうか。今日、いくつかのことをみことばでお分ちします。恵みを受けた者として、私たちは福音の力で生きなければなりません。一緒に言いましょう。福音の力で生きよう。恵みを受けた者は、どのように生きるのでしょうか。福音の力で生きるのです。Iコリント1:18に見ると、十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。そうです。福音は命です。福音は力です。福音は変化です。福音は治癒です。信じないからアーメンをしないのでしょうか。忠清道(チュンチョンド)の人だけ集まったのですか。忠清道(チュンチョンド)は、昔にはのろかったのですが、今はどれくらいはやいかわかりません。昔にこういう話がありました。お父さん、石がころがってきていますと言い終わる前に、お父さんが石に当たってしまったという話です。それで忠清道(チュンチョンド)がのろいと言われているのですが、今ははやいのです。ソウルの人々は、何かを丁重に断る時、はい、はい、そうですね、それはいらないです、と言います。全羅道(チョルラド)の人々はこう言うらしいです。あ、いりません。忠清道(チュンチョンド)は何と言うのか知っていますか。いらん、と言います。どれくらい簡単でしょうか。いらん。はやいのです。本当に、神様の前で、私たちの信仰の中心が今日も回復して、神様の大きい恵みがあふれる時間になることを希望します。福音が何なのでしょうか。福音は命です。福音は力であり、福音は治癒で、福音は変化で、福音は神様のみわざが含まれています。それで、福音だけ正しく受ければ、福音の力をもって生きるのです。この世で、私たちの人生はどんな人生と言われているでしょうか。福音の力を持って生きる人生です。福音は生かす力があります。それで、福音を持った者がどこへ行こうが、行く所ごとにそこは現場が変化する、生き返る働きが起きるのです。それが今日、私たちの伝道の現場であり、働きの現場です。先週、江南(カンナム)神学院が毎週木曜日神学院をするのに、私が昼食を食べるために、大きい道路で食事をして、道路を渡って来ようとしたら、ある女の執事が、その道路の反対側にある軍人が立っていたので、二人が互いに手を振りながらとてもうれしそうに挨拶していました。信号を待っている間に、私がそばに立っていたので、その人が私に、先生、あそこにいるのが私の息子です。褒賞休暇で来ていると言いました。それで、私はスパイをつかまえて褒賞休暇をもらったのかと思いました。そのお母さんが息子を自慢したのです。私の息子が、部隊で同僚の中で自殺をしようとする同僚がいたのですが、その同僚に福音を伝えて受け入れさせ、その軍人が変化したということです。それで、この話が上の先任者に知らされて、褒賞休暇をもらったうえに、もう一つ進級して卒兵から、一つあがったということでした。その話を聞いて、私の心がどれくらいうれしいかわかりませんでした。横断歩道を渡りながら、立っている兄弟の手を握って、兄弟、あなたは福音の人です。兄弟が福音をもって軍隊を生かして、多くの人々に命をあたえる証人の人生になってくださいと、私が力を与えながら、私もどれくらい心がうれしいかわかりません。そのお母さんがどれくらいうれしいでしょうか。スパイをつかまえて褒賞休暇をもらうのではなく、この暗闇の勢力を権威あるキリストの御名でつかむのも褒賞休暇があるのです。

・福音を持った者が学校に行けば学校を生かして、軍隊に行けば軍隊を生かして、職場に行けば職場を生かし、福音を持った者はどこへ行っても現場を生かす、こういう祝福があふれると信じます。それで、私たち恵みを受けた者は、何を持って生きるということでしょうか。福音の力をもって生きるのです。福音の力をもって、現場を勝利するように願います。それで、私たちは福音の中にいれば、全てのものに結局、勝利します。私が福音の中にいれば、結局は、私の人生は勝利する人生で、成功する人生になるしかないから、不信仰せずに、福音の力だけ捕まえることを希望します。持っている問題は何でしょうか。問題は問題ではありません。問題は何なのでしょうか。福音の中にある者は、すべての問題が機会です。何の機会でしょうか。私が今日、この問題があるから答えを受ける機会です。私がこの問題があるから、神様を見上げる機会です。神様の力を体験する機会です。それで、福音の中にいるならば、問題でないとはやく結論を下すことを希望します。それにもかかわらず、問題が問題でないと話すのに、問題があると話す、その人が問題です。他の人が問題ではありません。そのような人が1人もいないことを願います。それで、私は福音の中にいるならば、結局は、最高の祝福を味わうこの福音の力をもって、現場を生かす神様の人であることを確信するように願います。

・二番目は、本当に私たちが恵みを受けたとすれば、私たちがどのように生きなければならないのでしょうか。祈りの奥義を持って生きるのです。よく知っていることのようですが、知っていることで終わってはいけないのです。何を持って生きるのでしょうか。祈りの奥義をもって生きるのです。神様を味わう道が祈りで、福音の力を味わう道が祈りです。神様が私とともにされるインマヌエルを味わう道が祈りです。私の限界を跳び越えるのが、祈りです。この世に生きる間、私の力では解決できず、私の限界の力にぶつかって、それを跳び越えるのが事実、祈りです。それで、私たちはこの祈りには霊的科学で、私たちが霊的な事実を理解するから祈る時、必ずそこに聖霊が働かれ、目に見えないけれど、私たちが力あるキリストの御名で祈る時、そこに聖霊が働かれて、聖霊が働かれれば、同時に暗闇の勢力はうち破られるようになっているのです。聖霊が働かれて、暗闇の勢力はうち破られるのです。そこに神様の国が臨んで、神様が目に見えないけれど、神様のみ使い、天の軍隊を神様のみこころのために神様が送られるのです。何をしろいうことでしょうか。救われた私と皆さんを助けろということです。それで、皆さんが神様の恵を受けた者ですから、今から祈りの奥義をもって、信仰で勝利できることを希望します。問題に会っても、問題の中に陥ってはなりません。契約の中に入りましょう。そうでなければ、祈りの中に入りましょう。それで、その中で神様のみわざが、また神様の恵みがあふれるだろうと信じます。

・小さい三番目です。恵みを受けた者は、今からどのように生きるのでしょうか。今は、恵みを与えてくださったキリストを自慢しながら、伝えながら生きるということが、恵みを受けた者の人生の姿です。私にあることを自慢するのはやさしいでしょうか、難しいでしょうか。それよりやさしいことが、どこにあるでしょう。私にあることを自慢するのは、とてもやさしいのです。私にないことを言おうとするのは、たくさん考えなければならないから難しいのです。しかし、私にあるものを自慢するのは、最もやさしいのです。伝道とは何なのでしょうか。これが伝道です。私に私とともにおられるキリスト。私とともにおられるインマヌエルの全能な神様。その神様が私とともにおられるから、その神様を自慢するのです。私に答えられた神様を自慢するのです。私とともにおられるその方を私が自慢するのです。私の人生を今でも導いて、私の人生を支配しておられる、その方を誇らしく自慢するのです。恥ずかしく隠すのではなく、誇らしく伝えるのです。使徒3:6に、ペテロが神殿の美しの門に座っている足のきかない者に何を話したでしょうか。私にあるものをあなたにあげよう。金銀は、私にはない。ナザレのイエス・キリストの御名をあなたにあげよう。この足のきかない者がキリストの名前を受けて、彼の一生の問題が解決されてしまったのです。それが伝道です。私と皆さん、私たちの中に復活されたキリストが、全能なキリストが、今でも生きておられることと信じます。全能なという言葉をちょっと書き間違えると(韓国語ではニウンを抜いてしまえば)低能なとなりますが、そうではなく全能な神様が、皆さんの人生に力で働かれることを祝福します。

・最後に一つだけ加えるならば、恵みを受けた者は、今から子孫を生かし、レムナントをたてる、そのようなことのために私たちは生きなければなりません。イエス様の復活メッセージの結論は何でしょうか。すべての民族に行って弟子としなさい。そして子孫をたてなさい。それが復活メッセージの結論です。既存信者には力を与え、霊的に問題がある者は生かし、結局は、それで弟子をたてて、子孫たてなさい、そのみことばです。それなら、私たちに今は子孫に明らかな契約を伝える、そのようなことが出てきて、皆さんが人生を生きていく過程で、私たちがビジョンで、目標としなければならない内容です。そのような意味で、共同体訓練場をおいて私たちが祈ることは、歴史的に意味があることです。これは、神様の時代的な要請で、福音を持った私と皆さんに神様がくださった祝福の機会です。このように一度、考えを変えて考えてみてください。この福音が薄い時代に、結局は歴史的に私たちは教会史を通して、聖書の働きを通して、今日の現実を通して、福音が薄くなるので、この世に霊的な暗闇が広がり、人々が行く道を知らずに個人が崩れて、家庭が崩れて、人生が崩れて、公教育が崩れて、すっかり社会を暗闇が掌握するこういう時代に、私たちの子孫が、こういう世の中で生きていくのに、ここで生き残る道が何なのでしょうか。福音をもって、福音の力をもって、祈りの奥義をもって、神様と共にする、この奥義をもって生きていくのが、私たちの子孫が霊的に生きる道です。それが良くできるように、二十個の聖書的伝道戦略を具体的に、私たちの子孫が訓練して彼らの霊的なすべての部分を回復できる、そのような場が必要で、私たちが祈りながらここまできたのです。私たちが生きているかぎり、私たちの子孫のために、この祝福の現場が立てられるのを見て、訓練を受けながら私たちの子孫が変化する姿を見て、私たちが神様の前に呼ばれたら、私たち人生により大きい祝福がどこにあるでしょうか。皆さんは、それを目撃して行かれることを希望します。私たちの代で目撃しなければならないでしょう。それで、私たちがそのために祈るのではないでしょうか。この契約が、子孫に伝達されなければ、私たちの子孫は何の希望もありません。真の福音の奥義が、子孫に伝えられるべきで、子孫が霊的に神様の大きい証拠を持って時代を生きるだろうということです。

・私は教会学校の時から教会に通ったのですが、私が教会学校の時、習った歌の中で、今でも忘れない歌があります。信仰の先祖アブラハム(信仰の先祖〜アブラハムは〜七人の息子がいましたが。(七人の息子がどこを根拠をしたことかよく知らない。)その中の一人〜背が高くて〜残りは背が低いです。右手上げます。右手回します〜)私がそのような歌を記憶しています。マクドナルドおじさんは、畑でイーアイ、イーアイオー。その畑に鴨いるので、イーアイ、イーアイオー。ここでぎゃあぎゃあ。あそこでぎゃあぎゃあ。ここでぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ、これをおっかけて歌えば、すっかり教会が完全に動物の農場になります。その一方で、ヨハネ3:16神様が世の中をこのように愛され、イエス・キリストをくれたので、聖書66巻の目録と創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、それでもそれが私が習った歌の中で今でも思い出します。ところで、私達の子どもたちは、私が教会学校の賛美を見たら、本当に福音メッセージ持って賛美しています。私達の子どもたちが賛美する中の一つに、こういう賛美があります。"私は神様の貴重な子ども、〜〜憂いも心配、問題ありません。すべての問題解決された私の王。イエス様はキリスト"私が初めての節と終わり節だけでしたが、私達の子どもたちの賛美が、契約的な賛美、福音を含んだ賛美です。天と地の差です。私たちの子どもたちが、この福音を持って、訓練を受けながら、養育されながら、この子どもたちが高まるのです。この子どもたちが、社会に未来に、あらゆる分野の主人公としていくとき、文化は変わって、社会は変わって、神様の国はすべての現場に臨んで、そうすれば良いではないでしょうか。それのために、私たちが子孫教育をしようと話すのです。そのようにできる訓練の場所が必要だということです。それを祈りの課題として、私たちの中心を一つに集めることを希望します。それが時代的な答えを受ける人々の考えです。

・みことばの結論を結びます。私たちはもう今日、収穫感謝聖日を迎えて、本当に神様の恵みを受けた者。他の言葉で、神様の恵みをすでに受けた者です。それなら、いつも恵みを受けた者として感謝することを持って、私がどのように恵みを受けことによって、この世を生きていくのでしょうか。福音の力を持って生きて、祈りの奥義を持って生きて、私とともにおられるキリストの御名を自慢しながら生きて、今は残った人生に子孫のために契約を伝達する祝福の子孫を残す、そのようなことに神様の前に尊く用いられることを希望します。昔話にこういう話があります。虎は死んで何を残すのでしょうか。皮を残します。人は死んで名前と地位を残して、何をするのでしょうか。私たちは何を残さなければならないのでしょうか。弟子を残さなければなりません。福音を持った者は、神様の前に行く時、弟子を残して、契約の子孫を残す、この祝福が私たちすべてのものになることを、主の御名で祝福します。

<<契約の祈り>>
神様の恵みをありがとうございます。収穫感謝聖日をむかえながら、私たちの胸の中に、今日も真の感謝を回復して、神様の前に私たちの心をささげられる大事な祝福を与えて下さったことをありがとうございます。救われた者として、本当に感謝することが私たちの中にあふれこぼれて、私たちの生涯の中に、神様が最も喜ばれる、そのようなことに私たちの小さい信仰の表現が私たちの小さい献身を、神様の前にささげて、最高の栄光が神様の前にささげられながら、最も貴重な神様の善い計画とみこころを成し遂げる祝福で、私たち中で主が働いて下さい。すでに恵みを受けた者です。そのために、もう残った人生に私がどんな信仰を持って神様の前に生きていかなければならないのか、毎日記憶しながら、信仰に勝利する私たちになるように聖霊なる神様が働いて下さい。生きておられる主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン