2006年6月4日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/永遠な祝福を受けた私たちは…
(マタイ28:18〜20)
(尹ソンフン牧師)

■今、世界ではある映画をおいて、見なければならないのか、見てはならないのかと言っています。韓国でも、もう見られないようにすると聞きました。なぜそうなのかと思って、わざわざ見に行きました。見てみたら、見ないようにすると言われる理由があることがわかりました。それが、ダヴィンチコードです。私たちの信徒の中にも、見た人も見ていない人もいるでしょう。本当に巧妙なサタンの作品です。当然、宗教界では、見ないようにするでしょう。私はそれを見ながら、真に神様に感謝することを感じました。第一に、私に福音をくださったことを感謝しました。見たら、聖書を持って話していたのですが、聖書の内容ではありませんでした。聖書を持って話していたのですが、事実は、ニューエイジ思想を語っていました。すなわち、人間が神になることができるということです。これが、創世記3章の問題です。イエス様の神聖に対して拒否していて、それで、イエス様の子孫が今でも存在しているということです。イエス様の娘がいるということでした。それが子孫ではないでしょうか。この思想が全世界を強打しています。それが文化です。
■それで、二番目に感謝したのが、使命です。私たちのRUTCは、普通の話になりません。世の中の文化は、完全に暗闇の文化です。ここに私と皆さんが挑戦状を突きつけたので、ものすごい暗闇の文化をひっくり返すということです。事実、その映画を見て、本当に神様に感謝して、二番目に本当に生きなければならない、私たちの信徒たちが成功しなければならないと思いました。なぜそうでしょうか? 福音のためにです。私たちの子孫のために、必ず成功すべきだという気がしました。それで、私が木曜日に契約の旅程のミュージカルチームを訪ねに行きました。行く時には、単に行ったのではありません。胸に使命を持って行きました。行ってみたら、ソウルの小さい地下室でした。私が一番、鋭敏な部分が空気なのです。入ったら、息がつまりました。ひとまず、ソウルの都心の汚れている空気の中の地下室なので、完全に汚れている空気の中で、私たちのレムナントが練習しに来ていたのです。それでも少し良い環境だと話していました。そこで練習をしていました。それで、私がみことばを伝えてきました。何を伝えたかというと「暗闇の文化に挑戦するレムナントだ。皆さんはなんとなくしているのではない。ものすごい暗闇の文化というものに挑戦するのだ。このサタンの国を完全に押し倒すのだ。」
■世の中は、どうなのでしょうか? 私が創世記6章を持って話しました。ネフィリム時代です。ネフィリム時代とは何でしょうか? サタンが人をだましたということです。それは占い師、霊媒師たちです。世の中が占い時代になってしまいました。ソウルに行くと、ソウル市長に霊媒師が候補で出てきていました。もう、お金を多くもうけたので、政治をしようと走りまわっているのです。私は絶対に反対します。彼らは自分だけ愛すのです。他人は死のうが、生きようが全く関係ないのです。それが創世記6章の現場です。それが創世記6章の話なのでしょうか? 今、この時代の話です。そこに神様が、どんな心を持っておられるのでしょうか。神様は人間をお造りになったことを後悔しておられました。それで、神様が決められたのです。消し去ることに。神様が気持ちが良くて消し去られるでしょうか。神様がとてもうれしくて後悔されるでしょうか。神様の涙です。どんな心でしょうか。この心を知っている人がいるのでしょうか。この神様の心を知っている人がいるのでしょうか。まさに皆さんになるように願います。私がそのレムナントに、そのように伝えました。それでは、私たちは何をするのでしょうか。福音を持ったレムナントではないでしょうか。
■福音とは何でしょうか? 人間が絶対に解決できない問題を解決したのではないでしょうか。人間の過去の問題、原罪、自分で犯す罪、先祖の罪。私たちの人間は完全に罪だらけです。ところで、私と全く関係ない罪があります。それが、原罪と先祖の罪です。私と全く関係がありません。先祖が偶像崇拝するから、三代四代までほろびるしかないのです。私が犯した罪ならば、私がどうにかしますが、私が犯した罪でもありません。絶対に解決する方法がないのです。それで、神様が罪の問題を解決するために、大祭司を送られたのです。今現在、悪魔が私たちの人間を生まれた年月日による運命でみな引っ張っていっています。皆さんはよく知らないでしょうが、霊的な目を開いて、聖書で未信者を見れば、罪の鎖でぐるぐる巻きに縛られています。自分の思いのままにならず、引っ張られて行っているのです。引っ越しする時、思うとおりに行くのでしょうか? 絶対に思うとおりに行けません。愛する人と思うとおりに結婚できるでしょうか? 相性が合わなければ、結婚もできません。相性が合わないと、結婚しても別れなさいと言われます。世の中に、このようなことが、どこにあるのでしょうか。ところが、今がそうなのです。引っ越しも思うとおりに行くことができなくて、結婚も思うとおりにできず、結婚の日も思うとおりに決めることができません。お日柄が良い日に決めなければなりません。お日柄が良いとは何でしょうか? 私がムダン(霊媒師)に会って聞きました。'日の柄ですか?' そうではないと言いました。'お日柄が良いとはなんですか?'と尋ねたら、私たちの人間を困らせる悪い悪霊が邪魔しない日だと言いました。私がした話でなく、ムダン(霊媒師)がした言葉です。それなら、良い悪霊がいるということでしょうから、良い悪霊はどこにいるのかと尋ねました。自分のからだにいる、守護霊が良い悪霊だと言うのでした。
■それでは、ムダン(霊媒師)とは誰でしょうか? 私たちが行ってお金を出して、占い師が話すようにするならば、誰の言葉に従うことなのでしょうか? それは、能力のあるムダン(霊媒師)の話に従っているのではありません。その人をつかんでいる悪霊に従って行くことなのです。国会議員も見てください。今回、市長候補や各種の団体長の候補者を見てください。私が良いのか、だめなのか? どのようにすれば良いのか? となるから、霊媒師たちが、お守りを与えるのです。神秘の力があると言いながら持って行きます。これがあれば、当選すると言うのです。そのようなお守りが飛ぶように売れると言われています。そのような知識人が、そのようにするのです。何が足りないのでしょうか? 現在の事です。完全にぐるぐる巻きに縛られています。聖書に見たら、世の中の風俗を追うしかない世の中の奴隷です。それが私たちの人生です。結局、どこへ行くのでしょうか? 結局、行く所は家です。
■皆さんも外で思い切り仕事をして帰る時、どこに帰りますか。全部、私の家に来ますか? そのようなことはありません。皆さんの各自の家にみんな帰るようになります。それでは、どの家に行くのでしょうか? 神様の子どもは神様がおられるところに、悪魔の子どもは悪魔がいる所に、結局、悪魔に捕えられている人は地獄に行くしかないのです。それでは、神様が人間を閉じこめるために地獄を作られたのでしょうか?違います。確かに聖書では、マタイ25:41節に悪魔を閉じるための場所が地獄だと言われています。ところで、未信者は、地獄があるのにも、あることも知らずに行っているのです。おいしいものをたくさん食べて、良い服をたくさん着て、良い家に暮らしながら、最高に良い車に乗って通いながら、結局、どこへ行くのでしょうか? 結局、地獄に行くためにそうしているのです。哀れに思うでしょうか。皆さんは、うれしいのでしょうか? それが神様の涙です。それで、キリストをこの世に送られたのです。私たちの人間の過去と現在と未来の問題を解決するために、祭司、王、預言者で、この世に送られたのです。その方がどなたなのでしょうか? その方がイエス様です。その方は、神様です。
■悪魔の子どもでない方が、私たちを救うことができます。罪人ではなくてこそ、私たちを救うことができるのです。それで、男の子孫は絶対にだめなので、女の子孫だけが私たちの人間を救うことができるのです。その方がイエス様です。それを反論するのが、ダヴィンチコードです。結局は、人間が神になることができると話すのがダヴィンチコードです。その思想を持っている団体がニューエイジです。それが偶像宗教です。それが急速に食い込んでいます。映画を見てフォーラムをしました。ある若いレムナントは、作品に対して'本より別に面白みがない。'と告げました。本を読んだ人々は、とても興味深く読んだということです。ところで、問題は福音をよく知らずに、救いの確信がない人々は、混乱するのです。福音を少し持った人も、混乱するのに、福音をいいかげんに知っている人は、どれくらい混乱するでしょうか。まったく福音を知らない人はわかりません。そのようなこともあるだろうと認めるようになるのです。人間の思想を変えるのが、文化です。とても怖くなるのです。この文化圏に挑戦するのが、契約の旅程のミュージカルです。この暗闇の世の中の文化圏に挑戦状を突きつけたのが、レムナント運動です。
■私たちの教会に朴フンシク監督がおられます。私がその映画を見てから、直ちに祈りが出てきたのが、契約の旅程、RUTC、そして、朴フンシク監督に対して祈りが出てきました。祈って下さるように願います。今、'京義線'という作品を上映しています。今年3月の初めから始まっています。暗闇の文化圏を押し倒す映画になることができるように、暗闇の文化圏にキリストの命の光を放つ「契約の旅程」になるように、暗闇の文化を完全に根こそぎなくすRUTCになることができるように。皆さんが必ず祈って下さらなければなりません。なぜでしょうか。皆さんは神様の子どもだからです。皆さんの身分は神様の子どもです。皆さんのたましいの中にはイエスのいのちがあります。これは永遠ないのちです。皆さんは永遠な祝福を受けました。なぜ永遠な祝福を受けたのでしょうか。その根本的な理由が、永遠ないのちを持ったためです。Iヨハネ5:11〜13 '御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。'イエスがあるか、ないか、神様の聖霊がおられるのか、おられないのか。とても重要なのです。朴チャンユル牧師が、私にいつもからかう話があります。朴牧師は息子が二人です。私は娘が二人です。毎日歌っていました。いのちがないと。自分はいのちが二つもあると、それで私がいのちを一つ得ました。その息子を言うのでしょうか? イエス・キリスト。私たちの永遠な救い主イエス・キリスト。私たちのすべての問題を解決されたイエス・キリスト。私と皆さんの過去、現在、未来、すべての人生の問題を解決されたイエス・キリスト。この方が私の中にいらっしゃるのです。これが永遠ないのちです。私と皆さんが永遠な救いを得ました。完全な救いです。
■ヨハネ5:24に確かにおっしゃられました。'わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。'完全に移されてしまいました。これは完全な救いです。私が柳牧師先生に最初に会って力が与えられたのが、一番初めのメッセージでした。初めての講義が'イエスはキリスト'でした。イエスが誰か、なぜイエスを信じなければならないのか、イエスを信じなければならない絶対的な理由が何か。福音の正当性、必然性、絶対性がみなあらわれました。自分の胸の中に'イエス、その方がまさにキリスト'それが全部、私の中に入ってきたのです。二番目の講義が、救いの確認でした。救いは単純な救いではありませんでした。永遠で完全な救いでした。それ以前は、とても大変だったのです。
■信仰生活を良くして死ねば、どこへ行くのでしょうか? 当然、救われたので天国に行くでしょう。信仰生活をよくせずに死んだ時は。あの南浦洞に行く道で死んだ時。もしか罪悪の中で生きて死んだ時。もちろん、イエスを信じながらのことです。その時、死ねばどこへ行くのでしょうか? 天国に行く自信がありませんでした。これが私の姿でした。完全な救いに違いないでしょうか? 違ったのです。私が救いの確信もなくて、救いが何かも知りませんでした。その時に知っていた救いは、イエスを信じれば天国に行く、神様、私を少し見逃してくださるだろう、死んで生き返ったので見逃してくださらないだろうか。それが、自分の水準の救いでした。それで、いつも揺れるのです。救いはだれが与えられることなのでしょうか。私が救いを成し遂げることなのか、神様が与えられることなのでしょうか。この話を言葉を換えれば、救いの開始はどこからなのでしょうか? 私は柳先生に会う前に、救いは信仰生活をがんばれば救われると思っていました。すなわち、救いの開始は私でした。救いを成し遂げるのは、私の行為でした。救いを完成させるのは私の人生でした。それが宗教生活です。変わったのです。救いの開始は神様からです。救いを完成させるのも神様です。これがいのちです。宗教でなく、永遠ないのちです。それで、イエス救いは、永遠な救いです。それで、私と皆さんは、永遠な祝福を受けて、神様の子どもという永遠な祝福を受けたのです。絶対に防げません。
■.'しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。'皆さんはイエス様をつかむだけでも生かされます。イエス様を救い主として認めるだけでも生かされます。すでに生きているのです。皆さんは永遠に変わらない神様の子どもです。皆さんがちょっと仕損じても大丈夫です。'この話をしたところ、私たちもう罪を犯しても大丈夫なようだ。尹ソンフン牧師がそのように、行って罪を犯しても大丈夫だといった。行って罪を犯そう。'ということでしょうか? 違います。皆さんの罪過、罪、すべての問題を解決されました。皆さんの失敗までも完ぺきに解決して、私と皆さんの足りなさも、神様が完全に解決されたのです。神様の子どもです。神様の子どもは、永遠に変わりません。エペソ1:13に印鑑を押したと言われています。これが皆さんの内的な力になるように願います。最初には内的な力です。それが、神様の子どもという身分です。その身分の中では、永遠なイエスいのち、完全な救い、そして、イエス様の永遠な祝福が皆さんの中にあります。
■二番目は、皆さんの外的な力がなければなりません。外的な力とは何でしょうか。最初は神様の導きです。イエス様が私とともにおられるのです。イエス様が私のすべての生活の中で導かれるのです。私が人生で最も大変だった時、ある若い青年が私にハガキを一枚くれました。前は絵葉書でした。後には聖書箇所が書いてありました。その絵は、砂の上の足跡でした。後に聖書箇所はイザヤ43:1節でした。私は神様の子どもです。神様のものです。それゆえ、前の絵が私にあたえる意味が本当にすごかったのです。人生を歩いていく時に、皆さんもよく知っているでしょう。二人が人生を歩いていくのです。一つは主の足跡であり、もう一つは私たちの人生の足跡です。人生を歩いていく時、うれしくて楽しくて、とても幸せな時には主がともに歩いておられました。
■突然、人生でとても難しくて苦しく、とても荷が重かった時、人生の足跡がひとりの足跡しかなくなったのです。それで、この青年が主に問い詰めたのです。"主よ。私の人生で幸せでうれしかった時、あたかも主がおられなくてもかまわない時は、主がともに人生を歩いてくださっていたのに、私の人生で最も大変で難しく苦しかった時、本当に主が必要な時には、なぜ主は私を捨てて行かれたのですか?" その時の主のみことばです。そのように問い詰めた青年に、主はこのようにおっしゃられました。"わたしの愛する子よ。あなたの人生で、うれしくて幸せで楽しい時は、あなたとともに歩いていった。しかし、あなたの人生で最も大変で難しく苦しかった時、わたしはあなたを背負って行ったのだ。" 誰の足跡だったのでしょうか? それが、イエス様の足跡だったのです。ところで、青年は誰の足跡だと思ったのでしょうか? 自分の足跡だと思ったのです。誰の姿でしょうか? そのように問い詰めた姿が誰のようでしょうか? 私です。私たちは知らずに、分かっても忘れてしまいます。とても簡単に忘れてしまうのです。難しい時だけ思い出せるのです。主はいつも聖霊で同行して下さるのにも、そうなるのです。主は、私たちの人生の道にいつもともにおられるのにも、そうなのです。これが力です。イエス様が私と皆さんに永遠にともにおられるのです。これが皆さんの力になるように願います。
■二番目はイエス様の権威です。イエスの御名の奥義を知っていますか? 皆さんはよく知らないでしょう。私も事実はよく知りません。このイエスの名前がどれくらいすごいのでしょうか。しかし、私は分かったのです。悪霊につかれたある若い人が来ました。若い男6人がつかんだのです。私が腕の片方をつかんだのですが、ぎゅっと押したのに上がってきました。この女の人を押さえることができなかったのです。どのようにこの6人が、悪霊につかれたこの人を押さえられるでしょうか。簡単でした。柳先生が来られて、イエスの名で静かにしろと言われました。すぐに静かになりました。力も使えませんでした。その時は、完全に感心しました。'やはり私たちの担任牧師は霊的な力があるんだな。やはり、私たちの牧師先生は違うのだ' ところが、先生が次の日に言われるみことばは、本当におもしろい話でした。どんなに私の心をよくご存知だったのでしょうか、'皆さんがそれを体験した時は、たぶん、私の力がすごいと勘違いしたでしょう。私が40日間、断食祈祷して、そのようにしたとすれば、40日断食祈祷のゆえにそうだと思って勘違いしたでしょう。それは、私の力ではありません。それが、まさにイエスの御名の力です。'本当に衝撃を受けました。何に?イエスの御名に衝撃を受けたのです。
■神様の子がこの世に来られたことは、悪魔のしわざを滅ぼすためです。私たちだけがよく分かっていないのですが、悪霊はあまりにもよく知っているのです。悪魔はぶるぶる震えています。女の子孫が蛇の頭を踏み砕いたことを悪魔はとてもとてもよく知っているのです。だから、皆さんが行く所ごとにイエスの御名をいうことをそんなにも嫌うのです。皆さんが行く所々ごとに、イエス様を賛美するのをそんなに嫌うのです。行く所ごとにイエスの御名で縛ってしまうように願います。イエスの御名の権威を完全に使うように願います。それで、暗闇の勢力を押し倒すのです。悪魔をつかんで、どのようにするのでしょう?足で踏みましょうか?ぐちゃぐちゃにしましょうか?という私たちの子どもの賛美があります。強くこねて、すりつぶしてしまって…イエスの御名で完全にたたき壊されるように願います。それで、弟子を呼ばれた時、呼ぶやいなや一番最初にくださった権威が、悪霊を追い出す権威を与えられたのです。それがマルコ3:13〜15節のみことばです。マルコ10:1節には、悪霊を追いだす権威と、すべての不道徳なこと、弱さを癒すために呼ばれたのです。皆さん、私と皆さんの中にこの権威があるのです。
■三番目は、イエス様が再臨される時まで、主は私たちとともにおられます。世の終わりがいつ来るのでしょうか?マタイ24:14節に、福音が地の果てまで宣べ伝えられた後に終わりが来ると言われました。問題が生じても、それは終わりではありません。大騷ぎが起こっても終わりではないのです。数多くの人が苦しんでも、それは終わりではありません。それは進行中です。主が今でも私たちとともにおられて、世の終わりの日まで、主は私たちとともにおられるのです。今、主のすべての関心がどこにあるのでしょうか? それで、私たちの人生を正しく分からなければならないのです。私たちの人生です。永遠な祝福を受けた私たちは、何をすべきなのでしょうか。私たちの人生の意味でもあって、私たち人生の目標でもあります。目標を定める時は、神様の心をよく分からなければなりません。神様の心を分かる皆さんになるように願います。神様の涙を分かる皆さんになることを願います。私が伝道合宿を終えて、釜山を帰ってきて、真の祈りがでてきました。それと共に作詞をしてみたのです。柳先生がされたので、私も一度してみたのです。
■神様の心。伝道者が神様の心を知らなければ、どのように伝道するのでしょうか。神様に仕える役員が、神様の心を知らないならばどうするのでしょうか。神様の働きをする私と皆さんが、神様の心を知らないならば、いったい何をするのでしょうか。イエス様は弟子を連れてきて弟子に頼まれました。それが、使命者を探せということです。忠誠な人を探しなさい。そのみことばを使徒パウロがテモテに話しました。それがUテモテ2:2です。このメッセージをいつ受けたのでしょうか。事実は、イエス様がなげかれるのを見なければならないのです。聖書を見れば、イエス様が涙を流されたところがあります。イエス様がなげかれたことがあります。それが、マタイ9:35〜38です。弟子を訓練させて、現場に連れて行かれました。それと共に、現場を見るようにさせられたのです。刈りいれする所は多いが、刈りいれする働き手がいない。数多くの人は生かされることを望むのに、数多くの人々をが、もがいて何が真理とも知らずにさ迷っているのに、ここにその人たちを生かす伝道者がいない。暗闇の文化で死んでいきながら、助けてくれともがいて哀願しているのに、その人たちを助ける人がいない。それが弟子です。それが伝道者です。それで使徒パウロが、その心を知って、その心をテモテに頼んだのです。それはパウロのお願いではありません。主がテモテに与えられた頼みで、今、イエス様が私たちにくださる頼みです。現場で死んでいっている人を生かしなさい。この人を生かすためには、先に弟子を探さなければなりません。それで、先に私と皆さんを呼び出されたのです。
■全世界の人を生かすために、私と皆さんを呼ばれたのです。それが私たちのインマヌエル教会です。それが、私たちの伝道総会です。そのことをしようと集まった人々が協会です。そこに命をかけて福音を伝えると、牧師として呼ばれた人々が、私たちの総神の学生たちです。それで、この命令を受けたのです。イエス様の命令を受けました。マタイ28:18〜20." イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。"天と地のすべての権威をイエス様が持っておられるのです。"わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。"と約束されました。なぜでしょうか? とても重要なことをするためです。神様の心を神様の涙をおさめられる人が、まさに私と皆さんです。イエス様の嘆きを喜びに変えられる人が、まさに私と皆さんなのです。
■それで、天と地のすべての権威を持たれたイエス様が、足りなくて弱い、何の使い道もないのですが、私と皆さんとともにおられるのです。"あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。"キリストの弟子です。それが、まさに私と皆さんです。私と皆さんは、何をしなければならないのでしょうか。私たちが結論で、考えてみなければならないことがあります。世の中に挑戦しなさい。世の中に成功者として挑戦しましょう。私たちは必ず祝福を受けなければなりません。私の胸の中に、私たちの聖徒は本当に祝福受けなければならない、私たちのタラッパンメンバーを、神様は必ず祝福されるだろうと考えています。なぜでしょうか? あの暗闇の文化圏に挑戦する人が誰もいないからです。一度見てください。生かせる兆しが見られません。すでにダヴィンチコードを見ながら揺れると思っています。話にもならない映画を見ながら、人々がたくさん揺れるのを知っているのです。だから、何をするのでしょうか? 見ないでと言います。そのようなことです。いいかげんな人は、見ないように願います。本当に正しく見られる福音を持った皆さんは見てもかまいません。揺れる理由がありません。話にもならないことを見て、なぜ揺れるのでしょうか。かえって使命感が生じます。あの暗闇の勢力を押し倒さなければならない、あそこに私たちは挑戦しなければならないのです。タラッパンの家族は、みな祝福されなければなりません。本当に祝福されなければなりません。専門化、世界化、福音化する根源的な祝福を受けるしかありません。誰も防止できない不可抗力的な祝福を受けるしかないのです。RUTCを立てなければならないでないでしょうか。私たちの挑戦状を突きつけたのです。私たちの地域に文化圏に挑戦状を突きつけたのです。教会建築です。問題は、建物をたてるということではありません。この釜山に代表的な教会をたてるということではありません。福音が始まったこちらで、神様の力が臨むように、伝道者がどんな祝福を受けるのでしょうか? モデルになるように、私たちは祝福を受けなければなりません。必ず成功するように願います。
■自分自身をアップグレードさせて、うつわを準備しましょう。世界福音化のうつわを準備するように願います。訓練に参加しましょう。それで、多くのことを受け入れるように、皆さん自身をどんどんアップグレードさせて発展させましょう。皆さんの職業に祝福を受けなければなりません。そして、私たちがレムナント共同体に参加しなければならないのです。教会堂建築に参加して、十分の一、その十分の一のために神様の祝福が私たちの子どもにまで宣べ伝えられます。宣教。私たちが果たしましょう。私たちが生きて何をするのでしょうか。私たちはこの四つをするのです。それで、神様が祝福される理由が明らかです。皆さんがすることに神様が働かれることが明らかです。それで、私たちは福音をもって挑戦しましょう。福音で私たちは成功しましょう。祈りの課題をお願いします。
■今夜10時30分に最後の評価試合をします。私たちの朴ジュヨン選手が出るようになります。私はノルウェーとする時、出ると思って、寝ずに明け方2時に見ていました。とてもだめで、中間にとても残念でした。ひょっとして出てくるかと思って、必死になって見ていました。私たちの朴ジュヨンはレムナントです。世界でスターにならなければなりません。そのスターがお迎えした方は誰でしょうか? なぜこのようにスターになるしかないのでしょうか? イエス・キリストのゆえに、イエスキリストのために、皆さんが参加して下さるように願います。私たちは、断食して祈りましょう。試合を始めて終る時まで祈りましょう。朴ジュヨン選手のために、必ず祈り運動に参加するように願います。二番目の祈りの課題です。私たちの契約の旅程ミュージカルチームです。7月14〜17日にコエックス劇場でします。
■事実は、私たちのレムナントには力がありません。何をするということでしょうか? 福音のために、福音のために神様の力で挑戦するということです。暗闇の文化に挑戦状を突きつけたのです。祈ってください。最後に、朴フンシク監督のために祈って下さい。作品名は「京義線」です。必ず成功する時代的な監督になるように、暗闇の文化圏に挑戦する監督になるように。必ず祈って下さるように願います。一緒にこの3つのことを置いてお祈りしましょう。

<<契約の祈り>>
生きておられる神様に感謝します。米国の地を生かすために、私たちの柳光洙牧師を送られたことをありがとうございます。行くすべての場所ごとに、暗闇の勢力が崩れて、レムナントが起きて、現場が生き返れるように働いて下さい。また、この釜山と全世界で永遠な祝福、完全な祝福を受けた私たちは、神様の子どもになった身分と神様の子どもである権威を持ってイエス様の嘆きと涙を洗って差し上げながら、イエス様が願われた真の伝道弟子を探せるように、行く場所ごとにイエスのいのち、イエスの力運動が起きられるように働いて下さい。暗闇の世の中に挑戦する私たちの朴ジュヨン選手と、契約の旅程チームと朴フンシク監督に主の聖霊で働いて下さい。必ず成功する理由がある祝福を受ける伝道者になるようにして下さい。今日、礼拝に参加した私たち大事な聖徒たちに、自分自身をアップグレードさせて職業に成功して、理由ある祝福を受けて、RUTCと教会堂建築と十分の一、宣教に参加する伝道弟子になるようにさせて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



2部/みことばを待つ者
(使徒10:17〜43)
(ファン・サンベ牧師)

■世界的な賛美でした。今日、オーケストラも最も多く座ったようで、大事な賛美で、私たちの神様に最高栄光になることと信じます。献金時間にアンコールソングを歌ってもらえたら感謝です。
■今日2部礼拝に出てこられた皆さんに、神様の特別な恵みがあふれるように願います。この良い賛美に目をじっと閉じて、眠ってしまいそうな方がいるならば、精神を整えなければなりません。私がまだ説教もしていないのに、うとうとする方たちは、私の責任ではないでしょう。今日、そのような方たちは、もう一度、精神を整えて、神様がこの時間に私に何を語られるのか、そのみことばの中に神様の最高の恵みがあふれるようにお祈りします。
■昔、とても金持ちの家に一人娘がいました。この娘が育って嫁入りする年齢になりました。今は、恋愛をして結婚をするのですが、昔には両親がパートナーとして与えた人を新郎にしました。ある日、仲人が訪ねてきて、女の子のお父さんにこのように話しました。あの東方に行けば、とても良い花婿候補が一人いるが、その新郎は、家もとても金持ちで、お金も多くて土地も多い。傷が一つあるならば、少し足りない。ある日、他の仲人がきて、あの西方に行けば、とても良い花婿候補が一人いるが、人物も顔だちがよくて、賢くて、とても人が良いが、一つ傷があるならば家が貧しい。二人の仲人の話を聞いて、お父さんは苦悶に陥ったのです。誰に私の娘を送らなければならないのか? 悩んで、私一人で悩むのではなく、私の娘に直接話をして、娘に選択させるべきだと思ったのです。それで、娘を呼んで二人の花婿候補の話をしました。あなたはどちら側の花婿候補が気に入りますか? あなたが選びなさい。娘は何も言いませんでした。それで、お父さんが、あなたがどうしても困って返事ができないようだから、話さずに行動で表わしなさい。もし東方の花婿候補が気に入ったら右手を上げて、西方の花婿候補が気に入ったら左手を上げなさい。お父さんの許可が下りるやいなや、待っていましたというように、この子が両手をパッと上げました。何なのか? お父さんが娘に尋ねたところ、娘が答えて、お父さん、東方にいる花婿候補はちょっと足りないがお金が多いというので、東方の家に行ってご飯を食べて、西方にある花婿候補はお金はちょっとないが、人が賢いというから、西方の家に行っては寝て、そのようにすればどうでしょうか? そこから由来した言葉が'東家食西家宿'です。東の家家に行ってご飯を食べ、そして西の家に行って宿にする。それで、東家食西家宿です。この意味は、どちらか一方に心に決めることができなくて、両側に二またをかけている心を表現する時、そのように言います。
■私たちの信仰生活する聖徒たちにも、東家食西家宿の信仰人があるということです。私が国民日報のコラム欄で読んだ話です。今日、この場に、あるいは衛星とインターネットで、このみことばを受ける人々の中で、信仰生活する皆さんが、まだ両側の心、片方の心は福音、教会に対する心、もう片方の心は世の中という心。人生が大変疲れていて大変ならば、それでも教会に行ってみことばを聞いて教会へ向かおうとする心、しかし、物事がうまくいって、ゆったりとして、何か腹がいっぱいならば、世の中に安住しようとするこの二またをかけた信仰生活をする方が、ひょっとしてここにいるならば、この時間、主の前に二つの心を一つの心に合わせる時間になるように願います。私たちは、世の中に片足、教会に片足、両足をかけておけば、ますます問題が生じます。それで、私たちは本当に福音というキリストの前に明らかな解答をおろして、いくら世的な条件が良くても、私の心と考え、私の人生の中心は福音に一つの心をすべて集めることができるように祝福します。ひょっとして、信仰が良い妻の着物の裾を持ってきたり、色々な社会から来ている方がいるとしても、今日、この時間を通して、私がなぜイエスを信じなければならないのか、なぜ信仰生活しなければならないのか、そこに対する明らかな理由が、皆さんの胸に発見できる祝福の時間になるように願います。
■事実、信仰生活をする私たちは、多くのことを分かってこそ、信仰生活になるというのは、事実は違います。一つを正確に分かれば、信仰生活はなるのです。昔には、私たちはそのように考えました。多くのことを分かってこそ、聖書にある多くの真理を分かってこそ信仰生活が良くできると思ったのですが、事実は、そうではありません。聖書全体が何を言っているのでしょうか? 聖書全体の最も核心は何でしょうか? それ一つ正しく知れば、信仰生活はなるしかありません。しようともがかなくても、それはなるようになっています。それで、今日、私たちのインマヌエルソウル教会をはじめとする全国と全世界の私たちの神様の人々に、明らかな解答が皆さんの胸に与えられるように祝福します。
■ある神秘主義をする方がいました。朝起きれば、今日、神様が私に何のみことばをくださるのか? そのみことばを捕まえて一日を生きていく方があったのです。ある日、その日も違わずに聖書を開いて、指をさしたところ、マタイ27:5のみことばが出てきました。イスカリオテのユダが、外に出て首をくくって死んだと。これは何の話なのか? 神様が失敗されたのかと思って、聖書を閉じて、もう一度ぱっと開いて、指をさしたら、ルカ10:37にあなたも行ってこのようにしなさい。この人が狼狽しました。それでは出ていって、死ねということなのか。それでも3度目なのですが、三回目にみことばを広げたら、マタイ14:31に信仰が少ない者よなぜ疑うかと出てきたのです。
■私たちは、信仰生活をこのようにしてはいけません。神様のみことばを聞いても、このように聞いてはいけないのです。聖書全体が何をいうのか、私たちはよく見なければなりません。聖書全体の中に流れている最も重要なことを契約でつかむ時、その人が素晴らしい信仰人として立てられて、一時代に神様が最も望まれる人として用いられるようになります。今日、この恵みが皆さんにあふれ出るように願います。それで、この福音は永遠な祝福です。永遠な祝福を多くのことで説明できるでしょうが、福音とは何でしょうか? 福音とは永遠な祝福です。福音は命です。福音は力です。福音は真の癒しがその中にあります。それで、この福音だけが永遠な神様の祝福です。神様が、私たちに何をくださったのでしょうか? まさにこれを与えられたのです。私たちがこの世に暮らしながら、がんばって、大変な思いで人生を生きるように、神様が私たち人間に、そのような人生を与えられたのではなく、神様の中ですべての祝福を思いきり味わいながら生きていける福音を与えられたのです。この福音をのがしたので、人間が苦しんで努力しなければならず、何かをしようとすべての手段、方法を動員しているのです。それで、今日、真の福音が皆さんの胸の中に根を下ろす祝福の時間を過ごすように願います。
■私たちが福音の根をどこまでおろさなければならないのでしょうか? 私たちの考えに、心に、私の潜在意識に、たましいの中の深くまで、福音が根を下ろされなければなりません。たましいの中の深いところに福音の根が下されてこそ、知らずに福音の中に含まれているその力が、私の人生に、私の意識と無意識の中に含まれている、この福音が私の人生の現場で自然にあらわれるのです。私たちは、私の考えを持って神様のみことばである聖書を解釈しようとします。私の考えを持って神様のみことばを理解しようとするのです。皆さん、それを変えるように願います。どのように変えなければならないのでしょうか? 神様のみことばが私の考えを支配して治めるように、神様のみことばが私の考えに臨んで私の考えを変えるように、このようにならなければなりません。私の考えが、そのような考えになれば、私たちの考えを通して多くのことを分別できるようになります。一日の中でも、多くことを正しいのか正しくないのか、分別を良くしなければなりません。分別できず、多くの失敗をしたりもします。私たちは一日に、数多くのことを判断しなければなりません。そして、多くのことを選択しなければならないのです。事実、産業で務めておられる方々、重要なことをしている方々は、一日に、多くの人々との出会いの中で、対話の中で、これを選択するのか、あれを選択するのか、私がどんなものを選択するのか、決めなければなりません。事実、私たちの考えが神様のみことばで治められ、支配を受ければ、そこに神様がくださる知恵があります。神様が与えられるその知恵で、私たちが時には瞬間的な選択を、瞬間的な決定を、瞬間的判断をするのです。私はそれを霊的洞察力だと言いたいのです。神様のみことばが、私の考えを治める時、私に霊的洞察力ができます。神様のみことばが私の心を治める時、私たちの胸の中に真の平安が、真の安息が、真の希望が臨みます。この世で数多くの難しい問題、事件、その中でも、心の平安を持って皆さんは生きているでしょうか? 世の中が与えるのは条件的です。みな過ぎ去ることです。神様のみことばが私の心の中に臨んで、真の平安があふれるように祝福します。もう一歩出て、それなら、このみことばが私の人生を治めれば、私の人生の行動は変わるようになっています。私の人生に規模ができます。私の人生に癒しが起きて、私の人生に多くの福音的な実がなります。この福音一つが、私の人格全体を治めて、私の心と考え、私の人生を福音が治めれば、その人は神様が願われる人生を、世の中が願う素敵なクリスチャンになることができるのです。福音を持った皆さんの人生が、この信仰のなかで、このように準備されて神様の働きを味わうように祝福します。
■それなら、大きく第一に、聖書にだけ記録されている霊的な事実いくつかを申し上げます。今、何週目かの聖日講壇を通して、また核心、産業の集いを通して、柳先生がずっと語っておられる部分があります。先週にも、その話をされました。私はそのみことばを聞きながら、今日、私たちの時刻表がこのみことばに対して本当に胸深く刻まなければならないみことばだから、引続き時間ごとにくださるのではないだろうかと思いました。そのような考えを持って、その部分を再度、説明します。聖書にだけ記録されている霊的な事実の中の一つが、まさに聖霊の内住です。聖霊の内住。この聖霊の内住一つだけ悟っても、信仰生活にものすごい変化が起きます。私は幼い時から信仰生活をしました。そして、神学を勉強しながら、この聖霊の内住に対して神学的な、教理的な、そんなことで私が理解したのですが、恥ずかしいことに、事実的にその部分をよく知らなかったのです。山に行って夜中、怒鳴り続けました。喉がかれるように聖霊よ、私に来て下さい。私がその時、神様を信じなかったのでしょうか。信じていました。私は、その時、信仰が良いと多くの人々が話していたのです。その時、自分の中にいらっしゃった聖霊が、私に向かってすでに来ていると言われていたのです。夜通し、神様、力を下さい。とにかく、神様の力を下さい。事実、私の中にいらっしゃった聖霊が、私にはすでに力に来ているよ、そのようにおっしゃられるのに、私はその言葉の意味を私はよく知らなかったのです。何のために力をくださいと言うのでしょうか? もし、そのように尋ねられれば、理由は尋ねずに、単に力を下さいと祈りました。そして、声がかれたら、神様の力で聖霊が私に来られることだと、私がそのように祈っていました。ところで、知ってみたら、そうではなかったのです。イエスを信じる瞬間に、主を私の救い主として私が受け入れたその瞬間に、目には見えないけれど、主の聖霊は、すでに私たちの中に入ってきて内住するという事実を、聖書を通して確認するようになりました。皆さんの信仰生活はどうでしょうか? 私が家内に聞いた話です。家内が幼い時、学校に行く道に教会がありました。教会に入って祈って、「学校に行ってくるから、少しの間、ここにいらしてください。」と言って、また学校に行って帰る道で入って、「ただいま。よくおられたでしょうか?」と言ったということです。何をのがしたのでしょうか? 聖霊の内住の秘密をのがしていたのです。神殿にだけ留まっている聖霊。私の日常生活に、私の人生の現場に、いつも私の中に私とともにおられるこのインマヌエルの聖霊の秘密を知らなければ、私たちはそのように誤解することがあります。皆さんが、本当にイエス様が救い主であることを信じますか? 信じられたら、皆さんの胸の中に復活された救いの主が、主の聖霊が、皆さんの中にすでにきておられる事実を信じるように願います。確信するように願います。
■いつ聖霊が私たちの中に内住されるのでしょうか? 信じる時、その信じる時、それもエペソ2:8に見たら、神様の恵みによってイエス様を信じるのです。'あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。'私たちが神様の贈り物で、イエス・キリストを私の人生の救い主として、その方を私の心の中に受け入れるようになりました。受け入れる瞬間、信じる瞬間、私の行いと関係なく、今日、私の条件と状態と関係なく、私の人生が少しそうでなくても、多くの人々に尊敬を受ける私の人格ではなくても、私の人生にイエス・キリストが救い主として必要です。私がその方を私の救い主として信じます。その瞬間、目には見えないのですが、主の聖霊は、私たちの中に内住されるのです。Iコリント3:16に聖書はおっしゃられています。私の話ではなく、聖書がそのようにおっしゃられています。それが、今日、神様のみことばであると信じて、皆さんがそこに対する確信を持つよう願います。
■この聖霊内住を、ちょっと色々な側面から、別の方から解釈を拡大したいと思います。聖霊の内住とは何でしょうか? 言葉を換えれば、すなわち救いです。救いとは何でしょうか? 聖霊の内住が救いです。救いとは何でしょうか? エペソ2:1に 'あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、'キリストのなかで、私たちは霊的に生き返りました。霊的に生き返って、神様との交わりが新しく結ばれたことが救いで、聖霊の内住です。聖霊が私の中に内住する瞬間、神様との交わりが可能になりました。聖霊が私の中に内住しない時は、私の霊は死んでいるから、その人は神様と交わりができません。交わりが切れていることを霊的に死んでいると表現するのです。聖霊の内住とは何でしょうか? いのちの光が私の中に入ってきたのが、聖霊の内住です。ヨハネ1:4に見ると、真の光、いのちの光が私の中に入ってきたのです。いのちの光が私の中に入ってくる前に、私の状態は暗闇とやみが霊と人生を支配していました。そうするうちに、私がいのちの光であるイエス・キリストの光を私の中にお迎えしたのです。そのいのちの光が、私の中に入ってくれば、私の中にあるやみは退かないでくれと言っても離れます。やみは光と共存できないのです。聖霊の内住とは何でしょうか? 私の中にいのちの光が入ってくるのが聖霊の内住です。
■聖霊の内住とは何でしょうか? 身分の変化です。霊的所属の変化です。悪魔の子どもから神様の子どもに移されました。もう一歩いけば、死からいのちに移されること。天の国民、天の市民権を所有することです。それが聖霊の内住です。それなら、私たちの中に入ってきた聖霊が私の中にいつまでおられるのでしょうか?ヨハネ14:16-17に見ると、その聖霊は私の中に入ってきた瞬間から、永遠に私の中に私とともに、永遠に私が神様の国に行くその日までおられます。皆さんの中に内住された聖霊は、皆さんがひょっとして失敗して、罪を犯すとしても、十字架でキリストがそのすべての問題を担ってくださったので、その聖霊は永遠に皆さんとともにおられることを信じます。皆さんが確信を持たれなければなりません。私たちは、また、どんな確信を持たなければならないのでしょうか? それは、救われた者に、救われた私に、すでに聖霊はきておられるんだなということです。事実は、聖霊が私たちになぜ来られたのでしょうか? 理由が一つあります。助け主聖霊を神様が送られたのですが、助け主聖霊を神様がなぜ送られたのでしょうか? 私たちとともにいるために送られたのです。それを他の言葉でインマヌエルと言います。助け主聖霊が、私たちとインマヌエルするために、その方が聖霊で来られました。それが、まさにヨハネ16:13,14:26-27です。それなら、今から確信を持つべきですが、本当に私の中に主の聖霊がきておられるならば、皆さんは、どの瞬間も、恐れないように願います。どんな問題に会っても、気をおとさなくなるように願います。どんな環境の中にあっても、絶望しなくなるように願います。理由が何でしょうか? 私は足りなくて、弱くても、私の中にいらっしゃった聖霊は完全で、力の神様の霊なので、そのために私の中にいらっしゃった主の聖霊が、私の人生の中に具体的に働かれる、その神様の聖霊が私とともにおられることを信じて、今から確信する神様のみわざがあるように願います。
■二番目は、霊的の秘密の中の霊的な事実、必ず記憶しなければならないことが聖霊の導きです。聖霊の導きです。だれが聖霊の導きを受けるのでしょうか? 聖霊を私の中にお迎えした者が、聖霊の導きを受けるのです。それは当然のことです。皆さんが少しだけ福音の中で、契約のみことば捕まえて祈ったら、その人は必ず聖霊の導きを受けるようになっています。私が聖霊の導きを受けてはならない、そのように考える人は誰もいないでしょう。少しだけ福音の中で、私が契約のみことば捕まえて祈りの中にいるならば、必ず聖霊は私たちを細かく導いて行かれます。私が失敗するようですが、その失敗の中でも、聖霊は私たちの歩みを導いて行かれます。ヨハネ14:26-27に見ると 'しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。'私たちの中に入ってこられたその聖霊が、私たちを時に思い出せるようにもされて、神様のみことばが悟れたりもして、私たちを導いて行かれるのですが、どんな道に導いて行かれるのでしょうか? 最も祝福された道にです。皆さんの中にいらっしゃった聖霊が、皆さんの人生をどのように導いて行かれるのでしょうか? 最も勝利の道に、皆さんの人生の最も幸せな道に聖霊は私たちを導かれます。ヨハネ16:13に見ると'その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます...'ところで、さらにすごいのは、聖霊が私たちの人生を導いておられるのですが、聖霊全体の教訓がそうです。私たちの未来を神様は完ぺきにみな準備しておかれて、私たちを導いて行かれます。この事実に、この秘密を皆さんの信仰で確信するように願います。皆さんの人生を導かれるのですが、どのように導かれるのでしょうか? 全てをみな準備しておかれて導いて行かれるのです。これは私の告白でもあります。私が短い人生を生きていますが、短いことではありません。1世紀の半分を生きたので、そのような人生の道を私が歩いてきながら、後ろを振り返れば、どの瞬間も、神様が私の人生を導かれていないことがないのです。私が知らなかった時も、知っていた時も、事実は、神様が私の歩みを導きながら、ここまで率いてこられました。ところで、私の人生、私の未来に、神様が私の人生をどのように導かれるのでしょうか? 私はそこに対して悩みません。なぜでしょうか? 今まで神様が自分の人生を率いてこられたことが分かるからです。皆さんの人生がそうです。未来に向かって私の人生を導いて行かれるのに、未来に神様は完全な祝福を備えておかれて、人生の道を導いて行かれることを信じます。
■聖書的な教訓を見れば、創世記39章を見ると、ヨセフの歩みがあります。ある日、ヨセフが兄の手によって、あのエジプトのポティファルの家に売られます。ヨセフが兄たちに、このようにお願いしたでしょうか? お兄さん、私を既に売ろうとするなら良い家に、あのエジプトにポティファルという高官の家に売ってくださいとお願いしたことはありません。しかし、ヨセフは、結局、兄たちの手によって売られたのですが、後ろを振り返ってみると、結局、ポティファルとの出会い、奴隷生活だったのですが、神様の細かい導きの中にヨセフは歩いてきていたのです。エジプトの総理ということを神様は備えおかれて、準備しておかれて、ヨセフの歩みを導かれました。瞬間的に困難にあうこともありました。くやしい汚名も着せられて。それでも、過程であり、ある瞬間を見たら難しくて力に負えない時間だったのですが、全体を見たら、神様の計画の中で、神様の細かい導きの中で、エジプトの総理というものすごい祝福を備えておかれて、ヨセフの歩みを導かれたのです。そのように、皆さんの未来が、私たちの未来がそうなのです。神様の特別な計画の中に神様が備えておかれた未来に向かって、毎日毎日みことばの契約をとらえて、導きを確かに受け取るように願います。
■行く過程で、難しいことがなぜないでしょうか? イスラエルの民を神様はカナンの祝福をみな備えておかれてエジプトから呼び出されました。そして、荒野40年を導いていかれたのです。荒野40年に、なぜ困難がないでしょうか? ただ、カナンの祝福があらかじめ備えられています。ところで、その過程の中で、不平、不満、恨んだ人々は祝福をみななくして、荒野で消えました。神様がダビデを呼ばれたのです。イスラエルの王という地位をみな備えておかれて、ダビデを呼ばれました。そして、幼い時からみことばの人として、祈りの人として、賛美の人として、ダビデの人生を導いていかれました。ダビデの人生にも、多くの困難がありました。神様が初代教会とパウロを導いておられたのですが、ローマ福音化というものをみな備えておかれて、その歩みを細かく導いて行かれたのです。どこを見ても、聖書全体の教訓がそうです。それなら、皆さんの考えの中に、こういう結論がはやく出なければなりません。そうだ、私の人生は神様が治められて、私の人生のすべての歩みを神様が今でも細かく導いて行かれるのだな。それなら、私は瞬間瞬間、不信仰せずに、契約のみことばを捕まえて、主だけ見上げれば良いだろう。神様が今日も私たちとともにおられる、この約束のみことばを信じて、皆さんのすべてに神様の細かい導きがあるように願います。
■もう一つ、霊的な事実が何でしょうか? それがまさに聖霊充満です。聖霊が、私の中に内住されて、私の歩みを聖霊が導いているのに、聖霊充満とは何でしょうか? 持続的な聖霊の導きを受ける人生が、事実は聖霊充満です。聖霊充満は、ヨナ2:28にすでに約束されました。何を約束されたのでしょうか? 末世になられれば'私が私のヨンで男女しもべらに万民にはれてくれるでしょう'すでに神様がそのようにおっしゃられた。
それなら聖霊充満を受けるのは、神様の約束のみことばの成就です。それで、皆さんが今日、この聖霊充満をどのように受けられるのでしょうか? 聖霊充満することは、私が何か努力したり、ありったけの力を込めてとことん行けば、聖霊充満すると勘違いするでしょうが、そのように考えずに、いつも福音の中に入ること自体が、聖霊充満で、私の生き方が変化するのです。私が福音の中に、この契約のみことば捕まえて祈りの中に、私の人生の伝道の現場で、この契約とらえて、ここで神様のみこころを成し遂げるため、その中心を持って、今日も現場で主を見上げたら、その生き方が、聖霊充満した生き方に変化することをと信じます。
■それでは、なぜ私たちに聖霊充満が必要なのでしょうか? この世で生きながら救われれば良いのに、聖霊充満はなぜ必要なのでしょうか? 聖霊充満が必要な理由があります。それが何でしょうか? 救われた私たちが、今、この世で生きる人生は目に見えないけれど、この霊的な暗闇という存在が今でも活動しているのです。それで、私たちは、この現場で暗闇の勢力と霊的戦いで私たちに霊的な力が必要なのです。霊的戦いで肉体の力は必要ではなく、霊的な力が必要です。その霊的な力とは何でしょうか?それがまさに聖霊充満です。それで、霊的戦いに勝利するために、私たちに聖霊充満が必要なので、皆さんがいつも聖霊充満するように願います。私たちが生きる生活の現場で、私たちは神様の国を成し遂げなければならないから、世界福音化するために、私たちは聖霊充満が必要です。もう一歩進んで、事実、私たちがこの世で持続的な聖霊の導きを受ける、その生き方を持続するために、霊的な力が必要なのです。今日、ここに私と皆さんが心の中心を込めて、本当に私は私の中に聖霊が内住されているけれど、その聖霊が私の人生を率いて行かれるのに、瞬間瞬間、人生の現場で聖霊充満して、私がいる現場で、福音で神様の国を味わわなければなりません。この確信が、皆さんの中であふれるように願います。そのように準備された人が現場を生かせるのです。聖霊の内住と導きと働きの、この聖霊充満の力を毎日受ける人が、現場を変化させられるのです。
■それでは、大きい二番目です。今日の聖書の本文を見れば、みことばを待つ者に対する姿が出てきます。私は、この本文を読んで、多くの考えをするようになりました。本文の背景を短く申し上げたら、百人隊長のコルネリオという人がいます。この人は軍隊の百人隊長です。ローマからカイザリヤの地域に派遣われてた軍隊将校です。ところで、この人がどれくらい宗教的な熱心で、とても飢え渇いていたのか、事実、祈って聖霊がそのような心と考えをくださって、あのヨッパにいる使徒ペテロを招いて、家に迎えて、神様がそのペテロを通して下さるみことばを受けるために、コルネリオがペテロを招く、その話が本文の話です。皆さん、聖書をもう一度見て下さい。彼らの姿勢、コルネリオをはじめとする彼らの姿勢がどうだったのか、一度見ましょう。
■使徒10:24に、彼らが一家(家族)、親戚、近い友人をみな集めて待っていると、家に家族一家の親戚、周辺の近い友人を家にみな呼び集めたのです。そして待っていました。ここで待っていたということは、単純に人間ペテロを待っていたというよりも、ペテロを通して何のみことばをくださるかに対する、みことばを待つ彼らの姿です。今日、皆さんは主の前に出てくる時、みことば受ける姿勢がどうでしょうか? 今日、彼らと同じみことば受ける姿勢になりさえすれば、そこに聖霊は驚くべき働きで私たちに働かれると信じます。ここに33節を一度見ましょう。'主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして'.主が、ペテロを通して私たちに語られる話があるが、そのみことばを聞こうと思って。私はこのみことばを見ながら、心が本当にジーンとしました。みことばを聞こうと思って、彼らがみな集まったんだなあ。何のために集まったのでしょうか? みことばを聞こうと思って集まったのです。どれくらいコルネリオが、みことばを慕い求めたから、私一人でそのみことば聞くのが惜しかったから、家族を呼んで、親戚を呼んで、周辺の近くの隣の友人を呼んで、みことばを待つ彼らの姿が、私たちのタラッパンの現場、私たちの組長がそのような姿にだけなったら、そのタラッパンは話さなくてもみことばで、爆発が起きることを信じます。親が、聖日教会にくる時、私の子どもがみことばを聞いてこそ生かされる、私の夫が私の妻が、みことばを聞いてこそ生かされるので、みことば聞かなくて違うところに行こうとする家族を捕まえて、みことば聞いてこそ生きると、その子や家族を連れて一緒に神様の前に出てきて、「主よ。私たちがみことばを聞くためにこの席に集まりました、講壇を通して主のしもべを通して、主が語って下さい、私たちが主のみことばを聞きます。」その姿勢その心の中心、そこに聖霊が働かれないなら、どこに聖霊が働かれるでしょうか? 今日、コルネリオと集まった人々が、そのような心の中心でした。どれくらい、みことばを慕い求めたでしょうか?
■ところで、聖書を見ると、使徒13:42を見れば、パウロの話です。パウロがピシデヤのアンテオケの地域に伝道現場に行って、みことばを宣べ伝えました。どんなみことばなのでしょうか? 使徒13:42に上にあるみことばです。それを要約したら38節に'ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください'と言いながら、福音を宣べ伝えました。そうしたところ、42節にふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。他のみことばではなく、私たちに福音に対するこのみことばを次の安息日にも伝えてくれと言ったのでした。そして、次の安息日に集まったのです。44節です。'次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。'.次の安息日に、彼らがまた集まったのです。何のために集まったのでしょうか? '神のみことばを聞きに' 皆さんが主の前に出てくる時ごとに、神様のみことばを聞こうと思って、主の福音を聞こうと思って、福音を聞いても、聞いても、この福音が私のたましいの深いところに根を下ろせるように、いつもみことばを慕い求めて、熱望する、そのような開かれた心を持って主の前に出て来ることを希望します。もう一度お願いします。聖日ごとに、講壇に出てこられる時、皆さんの子どもたち連れて、皆さんの家族が出てくる時、中心は今日の講壇を通して、みことば受けることを慕い求める気持ちで、それで、そのみことばが私のたましいの中に与えられる時、それをアーメンで受けて、そのみことばが皆さんのたましいを癒して、生活を癒して、霊的なすべての弱い部分を癒して、不信仰を癒して、みことば聞いて生き返る神様のみわざがあふれ出ることを希望します。私たちのタラッパンの働きの現場で、こういう姿にだけなれば良いのです。タラッパンでこういう姿が、ミッションホームでこういう姿が、また地域教会の現場でこういう姿になれたら、そこには絶え間ないみことばの働きが起きるでしょう。
■それでは、大きい3番目に、集まった人々に向かって、ペテロがいよいよ口を開いてみことばを宣べ伝えます。このペテロのみことばの証しはペテロ自身のことではありませんでした。神様がペテロに、神様がくれた祝福のみことば、それをペテロが宣べ伝えたのです。それが、今日、読んだ本文の内容です。
■ところで、その背景をちょっとお話しましょう。29節を見ると、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか? ペテロがその家に到着して、どんなことで皆さんが私を呼んだかと言って、コルネリオの家に来た理由を知るようになったのです。マタイ16:16に'あなたは生ける神の御子キリストです' という告白は、ペテロがしました。この告白をしたペテロの口から、何のみことばが今、宣べ伝えられるかを見ましょう。使徒3:6に、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と足のきかない者に与えた、私にあるもの、それを証明したペテロの口から何のみことばが出て行くのかを見ましょう。使徒4:12にイエスの名前を再び話すなと言われて、それで、殺されそうで、威嚇されている、そのような法廷で彼がみことばを叫びました。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。世界中で、救われるべき名は、イエス・キリスト、その名しかないことを法廷の前でも叫んだこのペテロの口から、今、何のみことばが出て行っているのか聖書を一度よく見ましょう。
■いよいよ34節に'そこでペテロは、口を開いてこういった。' いくつかのことだけ、要約して話します。第一に、36節に'神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え'.平和の福音、そのみことばをちょっと説明したら、すべての人は人生に真の主人に会って、人生の真の主人を変えなければなりません。すべての人の主となられた平和の祝福、それがまさに神様と出会う道である預言者なられたイエス・キリストです。私たちが神様と敵になった時、私たちがまだ罪人だった時に、私たちがまだ神様と敵であった時に、キリストがこの世に来られて、私たちが神様に会う道を開いて下さいました。私たちと神様の間を和睦させるために。平和の福音をその方が証明されたのです。真の預言者であるキリストです。すべての人間は誰に会わなければならないのでしょうか? 神様に会わなければなりません。なぜ人間は、神様に会わなければならないのでしょうか? 神様に会ってこそ、人間は本当に幸せになるからです。私はそれで、いつもこの部分を黙想する時ごとに、そうだ、私たちすべての人間はだれでも、身分地位、老若男女、貧富貴賎を問わず、私たちすべての人間は誰に会わなければならないか? 神様に会わなければなりません。成功する前に、神様から会わなければなりません。成功して神様に会おうとすれば、その人は時間がたくさん遅れます。成功したために、神様に会うのに多くの障害物になります。神様なく成功した人生は、バベルの塔の人生です。私は多くの人々を見ました。神様なく成功した人々が、どのように崩れるかを、その個人がどのように崩れて、その家庭がどのように崩れて、その子孫がどのように崩れるかを。それで、成功もどんな成功が真の成功でしょうか。神様に会った者、神様のなかでする成功が本当に成功なのです。神様に会えなくてする努力が必要ないという言葉ではありません。努力すべきですが、神様に会わないでする努力は、ある日、その人生の霊的な重要な問題によって、ある日、無駄骨になり、人生の虚しさを感じる時が訪ねてくるのです。それで、すべての人間は誰に会わなければならないのでしょうか? 神様に会わなければなりません。成功する前に、努力する前に、神様から会わなければならないのです。神様に会う人生だけが、この世に真の意味ある人生、祝福された人生です。預言者として、この世に来られたイエス・キリスト、今日、その方が私と皆さんの救い主になられて、私たちはその方を通して神様に会って、神様のなかで人生の真の意味を持って、私が生きて、私の家庭が、私と関係している現場が、この大事な福音で生かされる祝福があふれ出ることを希望します。
■2番目、ペテロが口を開いて何を語ったのでしょうか? 38節、また悪魔に制せられているすべての者をいやされた福音、悪魔に今日も制せられた者をいやされる福音、それが何でしょうか? 真の王なるキリスト。王なるキリストのこの福音を、今、ペテロが叫んでいるということです。多くの人々が神様とともに生きるべきなのに神様を離れて、神様に仕えなければならない人々が。人間は、神様の中にいる時、真の幸福を味わえるのです。例えば魚が水を離れて生きられないのは、とても当たり前であるでしょう。そうではないですか? 木が土地の中の根が抜ければ、すぐ枯れて死にます。人間を神様がどのように作られたのでしょうか。神様と共に、神様の中で、神様のみことばを聞いて、神様を、人生の幸せを味わうように、そのように作られたのです。幼い赤ん坊が、いつ最も平安でしょうか? 母親の懐の中にいる時、最も平安です。母親が、小学校しか出て来ることができなくても、大丈夫です。母親が、刑務所から出てきたとしても大丈夫です。この子どもは母親だけいれば良いのです。時々、TVでこういう姿を見ます。幼い時、ある家庭の事情によって、この子どもを海外に養子縁組させたのです。養子縁組された子どもが、そこで育ちながら、心の中に私を育てた親と私と皮膚の色が違う。なぜ違うのか? 考えを持つしかありません。それで、この親が話してくれるでしょう。あなたの生まれは大韓民国なんだよ。しかじかで、あなたがこちらにきて、養子にして育てるようになった。それで、この子が生きていきながら、いつも胸の中に、私を生んでくれたお母さんはどのようになったのだろうか、なぜ私を捨てたかとなるでしょう。成年になって、ある日、TVで会う場面が出てきました。その姿を見ながら、なぜか胸の中に、彼ら二人が何か話せない、その感情、母と子の間の、母は母のとおり、その子は子のとおり、しくしく泣きながら彼らが会う対面の場面です。神様を離れた人間の姿が、創造主なる神様を懐かしがっているのに、その懐かしがる心を、神様でなく、他のものですることが、まさに宗教であり、偶像で、それが迷信なのです。私は養子になって、私のお母さんを探しますという話を聞いてみても、一度も私の家系は誰ですかと私のお父さんを探す人はひとりもいませんでした。それだけ、私を生んでくれて10ケ月間、胎内で持っているお母さんを人間は忘れることができないのです。
■そのように、すべての人生は神様に会わなければならなくて、神様に会う人生が、神様でない他のものを仕えて生きる、この暗闇の勢力をうち砕く道、それがまさにイエス・キリストです。その悪魔に続けている者、悪魔に霊的に肉体的に人生が押さえられているのです。現場に行けばそのような人が一人、二人ではありません。表面は正常ですが、精神が押さえられていて、表現はしないのですが、精神的に何か苦しめられていて、押さえられている姿です。人生が押さえられて何か正常な生活を送ることができず、そこから抜け出す、その名前は何でしょうか? イエス・キリストです。現場で、そのような人に会えば答えは簡単です。万王の王なるキリストが、あなたのすべての問題を十字架で解決された。その御名を呼ぶ瞬間、暗闇の勢力はうち砕かれると信じます。王なるキリストをペテロは今、伝えているのです。
■三番目に口を開いて、ペテロが何を宣べ伝えたのでしょうか? 43節のみことば、キリスト、その御名で力を受けて、罪を赦される福音、真の祭司なるキリスト、この秘密をペテロが今、語っています。口を開いて、真の祭司となるキリスト、私たちの人生すべての問題の解答者、私たちの罪のすべての罪の問題の解決者、原罪、自分で犯す罪、先祖の罪、過去、現在、未来すべての罪の問題をイエス・キリストが十字架ですでにみな解決されたのです。その方が、十字架の真の犠牲のいけにえとして、神様の公義を満足させるため、私たちすべての罪問題をみな解決されたのです。これ以上、罪問題のために罪悪感に苦しめられずに、好きなように罪を犯してもかまわないということではなく、本当に、その方が私のすべての罪をみな赦されたとすれば、今から私はその方のその恵みのなかで、その方のその力を受けて、罪に勝つ力を持って現場を変化させる神様のみわざがあふれ出ることを希望します。この事実を私たちはそのまま信じれば良いのです。何をすれば良いのでしょうか? 信じれば良いのです。預言者としてこの世に来られたイエス・キリスト、真の王としてこの世に来られたイエス・キリスト、真の祭司としてこの世に来られたイエス・キリスト、十字架で私たちすべての問題を解決された、そのイエス・キリストを信じれば良いのです。私たちがすることは何もなくて、信じれば良いのです。事実を認めて。
■それでは、宣べ伝えるペテロのこの確認が、どうだったのでしょうか? 39節,'私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。'.私たちは,これらすべてのことの証人だと宣べ伝えるペテロの確信、今日、私と皆さん私たちの確信です。私は、キリストの福音の証人だ、ここに対する確信を持つことを希望します。それでこそ、私たちが現場で苦しみの中にさまよう人々を福音の奥義で生かせるのです。この確信がなければなりません。
■ところで、すばらしいのは、結果、このみことばを聞いた人々に44節を見ましょう。'ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。'.聖霊がどの人々に? みことばを聞く、すべての人々に、聖霊が彼らの中に臨んで、彼らが聖霊充満した働きを。それで、私たちがみことばを聞く時、聖霊充満した働きを神様の恵みで供給されるようになります。私が、みことばをどんな気持ちで聞くか、みことばを慕い求めながら待つ気持ちで聞く者たちに約束された主の聖霊は、そのみことばの中に働かれるだけでなく、神様の霊で充満するように働かれることを信じます。私たちの心の姿勢が、私たちの信仰の姿勢が、そのような姿勢になって、私が先に聖霊充満して生きて、私の家庭が生き返って、私たちの子孫レムナントが生き返って、それで一時代の文化圏を変える事に神様の最高の祝福が皆さんの中であることを主の御名で祝福でします。
■最後の結論を結びますが、1部にもそのような祈りの課題を差し上げたのですが、私が体育宣教局の局長だからではなく、それは、事実はそうなのですが、私たちのレムナント、その兄弟のためにこの話をする者が、他に誰がいるでしょうか? もちろん、多くの方たちが祈るでしょう。しかし、私たちはその兄弟をおいて、本当に私たちの教会が祈らなければなりません。トンガン教会のチェ・ヨンス牧師と私が対話をしました。柳先生がこのようにおっしゃられたのです。最も朴ジュヨンのために胸を持って祈りできる教会が、大邱トンガン教会であり、インマヌエル・ソウル教会で、私たちのインマヌエルの家族です。なぜでしょうか?そこにお母さんがおられて、そこで幼い時成長して、またソウルにきて、こちらでみことばを受けながら、そのように信仰で訓練された私たちの兄弟、その個人のためにではなく、私たちのレムナントという技能を持った子孫のためにです。事実、彼が一番年齢が若いのです。サッカー選手たちの間でも、先後輩の間の多くの表現できないそんなことがあるでしょう。一番年齢が若い選手が世界の舞台に立ちました。皆さんが彼を祈らなくて、だれのために祈ることができるでしょうか? 私たちの体育宣教局に、24時間リレイ祈りの表を作成して、全国と全世界で多くの方たちが、私が祈りに参加します、このように連絡がくる方々があまりにも多いのです。その方たちの時刻表を、私たちがみな集計しました。明け方1時は何人、2時は何人、それがみな今、出ています。お願いします。私たちの韓国チームが戻る日まで、時間、時間、彼らに聖霊充満するように働いて下さって、全世界の現場に生きておられる神様の御名が宣べ伝えられるようになる、そのような代表選手たちを通して神様が働かれるように。何日か前、私たちの代表選手の祈りの課題が出てきました。23人の中で12人がクリスチャンの選手たちです。12人の選手たちがほとんどメインのメンバーでした。ひとりひとりの祈りの課題がそこに出てきていました。朴ジュヨン祈りの課題も出てきました。'サッカーボールという石を持って、あのワールドカップというゴリヤテをうち砕けるように、神様が私に働いて下さい。そして、全世界の現場に、神様が生きておられることを証明する、そのような機会になるように'.そして、その下に'ゴールを入れたら祈りセレモニーをしようと考えている'と。皆さん、私たちはそれを見なければならないのではないでしょうか? 神様も見ることを願われます。その姿が、あのイスラム圏で、あの全世界の現場で、あの仏教国に行くはずなので、すべての国々に、神様が生きておられる証拠が、その兄弟を通してあらわれるように、私たちが祈らなければならないと確信します。今からでも、祈りの表にあるのを参考して、また一緒に祈って、また、このみことばを聞く全世界の現場にいる私たちすべてのタラッパン家族の皆さんが、私たちがすることを祈りながら、レムナント朴ジュヨン選手と、私たちの代表選手たちのために、本当に神様がともにされて、ケガせずに恵みが彼らの中であふれるように。今日、直ちに何時間か後に評価試合ガーナとの試合があります。事実、試合を前にして、時間がどれくらい重要かわかりません。皆さんが、そのために祈って下さって、ある方は時に朝断食で、時に競技があるその日一日を断食して、自由にするように願います。この時間に、私たちの中心を込めて、神様の前に祈りながら、時代に神様の最高のみわざがあらわれるように。
■みことばの結論を、もう一度、結ぶと、本当に私たちはみことばを受ける時ごとに、みことばを待つ準備された気持ちで慕い求める気持ちで、私がみことばを受けて、私が先に聖霊充満の力を得て、私が先に生かされて、私の家庭が生き返って、私の現場が生き返って、私の産業の現場、私が行くどこでも、そちらに神様の国が成し遂げられることに用いられる弟子になることを主の御名で祝福します。

<<契約の祈り>>
神様、今日、大事なみことばを与えて下さったことをありがとうございます。このみことばを捕まえて、すべての人生の現場に、神様の働きを成し遂げる神様の驚くべき祝福があふれ出るように、主自らが聖霊で働いて下さい。みことばを受ける時ごとに、本当に準備された気持ちで、みことばを待つ気持ちで、私たちがみことばを受けるようにさせて下さって、みことばを受ける時ごとに、主の聖霊充満のみわざが臨むようにして、一時代生かす神様の大きい証拠が、私たちすべての神様の人々の中で臨むように主が働いて下さい。この力を持って、全世界の現場を生かす私たちすべての働き人になるように、主が祝福して下さい。生きておられる主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン