2007年10月28日インマヌエル教会聖日礼拝メッセージ


1部/人類に向けれたバプテスマのヨハネの証拠
(ヨハネ1:18〜28)

■人類に向けられたバプテスマのヨハネの証拠というみことばで今日の本文を見ます。私が伝道師だった時、私たちの村で学校運動場のそばに住んでいました。ですから、町内の人々が「あの人はこういう人だったが、イエスを信じて伝道師になった」と知っていました。その学校は運動場と学校の建物が別にあったのです。運動場は上にあって、学校は下にありました。そうするうちに、この学校の運動場が、普段には不良の遊び場でした。けんかもして、運動もして、そのようにしていたのです。そうするうちに、私の家に入って来て、髪を洗って行ったりしていました。町内の人々が怖がっていて、面倒になるから、話をあまりしなかったのです。ひどすぎるから、あの子たちをどのようにしようかと思い、親分である子を捜し出して、叱らずに食事したかと尋ねました。しなかったというので、共に食事しようと言ってご飯を一緒に食べました。私を知っているかと尋ねたところ、知っていると言いました。それで「お前もイエス様を信じなさい」と言ったのです。ところで、自分は教会に出て行かないが、自分の家はみな信じていると言いました。その時からは、少し静かになりました。
■一度は偶然にその子のお父さんが聖書を読んでいるのを見ました。ところで、見る時ごとにそうなので、周囲の人に、あの方がイエスを信じるのかと尋ねたのです。ある町内の人が通っていないと言いました。ところで、どのように聖書をあのように見るかと尋ねたのです。すると、あの人は長老ですが、教会には出て行かないということでした。言わば、教会でものすごく試みにあったのです。本人は信仰があるので、一人で聖書も見て、そのようにしていたのです。その方は過ぎ去って見れば、良い人だということを感じることができました。教会に対する多くの試みと困難にあって、出て行かないようでした。今日、私と皆さんが信仰生活をよく見られなければ、そうなることもできます。私たちの信仰生活を神様みことばを正しく見ずに、内面を見られなければ、試みにあうことが多いのです。
■キリスト教会史で、最も笑うことができない問題が何だと思いますか。聖徒を祝福すれば、しばしば他のことをして、祝福しなければ逃げるのです。それが何の話なのでしょうか。神様が初代教会をものすごく祝福されたのですが、それが歳月がすぎて中世教会になりました。毎日のように法王が偉いのか、王が偉いのかというけんかをしました。もちろん公に公表されたり、報道されたことではないのですが、密かに広がった教会の問題です。その当時には、みな教会に行かなければならないから、法王の力が強大でした。皇帝が見るには、また法王がとても力が強いから、また押さえ込むのです。これが中世教会史の戦いです。中世時代にいつもあった事です。祝福をすればそのことをして、祝福しなければ逃げて。それで、カノッサの屈辱、こういう事件がみなその時にあった事です。その時は、王も教会に行かなければならないのです。そうするうちに見ると、王と法王の競い合いでした。王がうまくしないと、法王が聖餐式に参加することができないようにさせました。それで、王はじっとしているでしょうか。この戦いだけ継続したのです。
■そうするうちに、マルチン・ルターが宗教改革をしたので、真理の戦いでない勢力争いを始めました。ぱっと見れば真理の戦いのようでしたが、詳しく見てみれば、マルチン・ルターの勢力が作られるからカトリックでそれを防ごうとしたのです。聖徒が霊的な目を開けないならば、こういう状態でどのように信仰生活をするのでしょうか。主のしもべが、そのことをするということです。これは倫理の問題でもなくて、とてもおかしな戦いを継続していたのです。初代教会も同じです。マルコの屋上の間に集まる人々が生じたので、パリサイ人が自分たちの勢力への威嚇を感じたのです。これらがずっと増えるなら、どうしよう。それでは、正統な私たちはどうなって、あれらは異端なのに、なぜこのように異端が大きくなるか、防がなければならない。こういう勢力争いをしました。だから、どのように信徒が分かるでしょうか。こういう問題が教会史に続いたのです。(按手を受けた)役員の時代が来ます。また私たちすべての教役者と祝福される一般信徒は、記憶するように願います。
■今日、バプテスマのヨハネの姿と証拠が私たちに模範になります。バプテスマのヨハネには、多くの群衆が従いました。ところで、バプテスマのヨハネは荒野にいたのです。多くの群衆がそうではない時に、イエス様に対する預言をしました。その時、多くの人々と祭司がきて尋ねたのです。「だれがメシヤですか。イエスがメシヤか、あなたがメシヤか」これくらいバプテスマのヨハネはすごかったのです。その時、バプテスマのヨハネの話です。「私は荒野の叫ぶ者の声だ。私の後に来る方は、私とは違う。私より先におられた方だ。私はその方のくつのひもを解く値うちもない。」
■イスラエルでは、お客さんや主人がきた時、足を洗ってあげるしもべが別にいました。なぜなら、サンダルのようなものを履いて歩いているので、入ってくればすぐに足から洗ってあげるのです。足を洗ってあげるしもべは、いつも待っていて、お客さんや主人がくれば、すぐに足から洗ってあげるのです。それで、足を洗う奴隷と言います。足を洗うしもべ。足を洗ってあげようとするなら、履き物を脱がさなければなりせん。履き物を脱がそうとするなら、履き物のひもを解かなければなりません。その話です。バプテスマのヨハネの告白です。ルカ1:8を見れば、祭司の隊列に入っている人です。マタイ1:11を見れば、女が産んだ者の中で最高に偉大な人物がバプテスマのヨハネだとイエス様が直接おっしゃられました。私たちは、バプテスマのヨハネを見ながら多くのことを学べます。普通の人々に会ってみれば、信徒も、人の前でしようとします。そして、政治家たちも全部の人の前でします。ところで、最も短く生きたのですが、最も大きい影響力を負わせた人がバプテスマのヨハネです。
■今日、私たちはこの人を見ながら、私たちがどの位置にいなければならないかという信仰を学べます。それでは、バプテスマのヨハネのように、全部、荒野に出て行って難しく暮らすべきなのでしょうか。少しだけ生きて死刑されるべきなのでしょうか。そんな話ではないのですが、イエス様は、女が産んだ人物の中でバプテスマのヨハネほど優れた人物はいないと言われました。今日、ここで私たちは重要なことを捕まえて捜し出さなければなりません。バプテスマのヨハネのように生きるべきなのでしょうか。バプテスマのヨハネは、どのようにして全てを譲歩して静かに行ったのでしょうか。私は主のしもべだとも言わずに、荒野に叫ぶ者の声だと言いました。私はくつのひもを解く資格もない。それから、ヘロデ王がくだした死刑で死にました。私たちがこのように生きなさいという話でしょうか。どうして、イエス様はそのような称賛をされたのでしょうか。バプテスマのヨハネは最も表に現れずに大きなことをした人です。私たちすべての(按手を受けた)役員や主のしもべが、このように生きて死になさいということではありません。この人の重要な部分を捜し出さなければならないのです。バプテスマのヨハネは、それよりもっと大きいことを持っていました。これが重要です。
■どのようにして、レムナントのヨセフが全てを兄に譲歩できたのでしょうか。これが信仰生活と主のしもべの生活で、とても重要なことです。なぜなら、兄たちが願うものより重要なことを持っていたので、これが私たちが一時間、礼拝をささげるのですが、一番重要な部分です。ヨセフは奴隷に行っても成功して、監獄に行っても成功しました。皆さんならば、じっとしているでしょうか。耐えろということではありません。監獄に行ったら控訴もして、弁護もするべきで、じっとしていなさいということではありません。聖書はそのようなみことばではないのです。監獄に入って奴隷で生きるよりさらに重要なことより、ヨセフはさらに重要なことを持っていたのです。ダビデがどのようにして困難に耐えたのでしょうか。もちろん、耐えて忍耐したということもありますが、それではありません。同じ原理です。
■信仰生活する人には、ダビデ王に起こったことより重要なことがあったのです。それを皆さんがヨハネの福音書を見ながら捜し出すように願います。それでは、本当に答えを受けられる本当に癒される働きを見られるでしょう。今、産まれた信徒と教会が、どんな姿で生きていっているかを見ながら、私たちは聖書をよく見なければなりません。クリスチャンは、困難にあうべきなのでしょうか。そんな話ではありません。困難にあっても大丈夫なのです。勝てます。それよりさらに重要なことを持っているためで、私たちは数多くの祝福を受けても揺れないのです。それよりさらに重要なことを持っているためです。今日、皆さんが私の説教を聞こうとするのではなく、神様のみことばを聞こうとしながら、重要なことを捜し出さなければなりませんが、バプテスマのヨハネがイエス様について証しして、死刑を受けて死んだと感じてはいけないのです。バプテスマのヨハネは堂々と死にました。そして、自分は何でもないと言って、くつのひもを解く資格もないと言ったのです。何かを持っていたのです。それより、もっと大きい力を持っていました。信仰生活する人々に、すべての(按手を受けた)役員に、この力が必要です。皆さんがこれを発見できなければ、教役者生活が難しいのです。
■学生が私に質問をしました。「牧師先生は、時間管理をどのようにするのですか」私は時間管理ができる立場にいることができません。神様の祝福をたくさん受けてそうなのか、スケジュールを4人が組んでも混乱します。遂行する秘書2人、事務室幹事1人、室長1人がお互い継続して電話しながらしても、一回は混乱するようになります。そのくらい、仕事が多いのです。私が一週間に説教を20回程度して、書いて送る文章は10個を越えます。そうして、私が人に会ってすることも多いのです。夏に普通、レムナント集会のようなものは、大きい集会が夏にだけ7〜8月に10個程度あります。10個ぐらいすると風邪をひいて寒気がするようになります。ところで、神様が幸いに昨年から感謝なことに、かからないようにしてくださいました。あまりにも仕事が多いから大変なのです。その言葉に、私の家内は「しなければ良いのではないのか」と言いますが、しないわけにはいかないのです。そのように仕事が多いのです。
■どのように、私たち力で行うことができるでしょうか。何か神様が与えられる力がなければなりません。そして、私たちの教会の(按手を受けた)役員が、数百人が立てられます。皆さんがこの力を得られなければ、ある時はさびしくて倒れて、人の話を聞いて右往左往するようになります。重要なことを発見するようになったら怖くなることがありません。そうではないでしょうか。何かを発見してしまえば、恐れがありません。その時になって、事実は、未信者は知らない暗やみの勢力が逃げるようになっています。それをのがさない時にこそ、バプテスマのヨハネのメッセージをのがさないのです。バプテスマのヨハネが何をしたとか、どのようにしたとか、いくら研究しても仕方がありません。バプテスマのヨハネが何を持っているかを発見しなければなりません。人は、何を持っているかがすべてです。皆さんの中に何が入っているかが重要です。これがどれくらい私たちの未来を左右するのか分かりません。私が何を持っているかにしたがって何を見るかが決定されるのです。それになってこそ、その次に何をするかです。持っているものを見なくて、正しく見られなければ、他のものを見るようになります。
■私は今でも山に行けば思い出すことがあります。前は知らなかったのですが、ある執事が話して下さいました。一度は私を自分の家の裏庭に連れていってくれたのですが、盆栽がいっぱいありました。そこで「牧師先生、これが盆栽です。これを作るのに数年がかかります。ところで、この盆栽は長くてはいけないのです。短くなければなりません。そして根を見せるべきです。そうでなければ、さしておく場合もあるから見せるべきで、盆栽は少しひねっていてこそ、木のような味になります。こういう盆栽を発見した時、すぐに抜いてくれば死にます。3ケ月前に小さい根をみな切っておいて待たなければなりません。そのようにして持ってきて、薄い植木鉢に移してこそ、このような盆栽になります。」と言いながら私に説明しました。ところで、不思議に山に行けば「あ、あれ盆栽にすれば良いだろう! あれはそれほど良くないね…」というようになりました。前に見た木と違ったのです。木を見るのにもそのようなのに、私たちが何を持っているかに従って、見ることが変わってしまうのです。
■どんな場合であっても揺れない何かを持っているならば、私たちは世の中も生かせて、危機にも勝てます。それで持っている者は違うのです。いくら服を不自由なくて持って、飾っていても、貧しいと不安です。いくら作業服を着て、変にして通っても、たくさん持っている人には余裕があります。不安ではないのです。なかったら、いくら私が服を良いのを着ていても不安で、状況よっていつも揺れなければなりません。ある時は、お客さんを接待するのも、なければ大変です。持っていれば、どんな状況がきても応用することができます。今日、バプテスマのヨハネを見ながら、何を持っていたのでしょうか。バプテスマのヨハネは、大胆で話して大胆に死んだのですが、過ぎて見ると、最高の人物という祝福を受けました。
■この契約をすべての(按手を受けた)役員、教役者が捜し出さなければなりません。今日から皆さんが捜し出すように願います。ところで捜し出した人は、すでに違います。前にそんな話をしたことがあります。集会を終えて宿舎に帰ってきたら、安らかになりたいと思いました。他の人が悪口を言おうが、言うまいが、スリッパを履いて歩きます。足が苦労してはいけないから、いつも洋服を着て、ネクタイを結ぶから、集会がなければ服も安らかなのを着て通うのです。ところで、スリッパを履いて、運動服を着て、光州(クァンジュ)市内を通り過ぎるようになりました。ご飯を食べなければならないと思って、中華料理店に行ったのです。入ったら、あいさつを変にしました。なぜか、私の姿を見て、そうしたのです。この職員が、お客さんを見て、行儀正しくしなくて、どのようにきたかという表情で見たのでした。上から下までじろじろ見ながらしました。
■それで私がジャージャン麺ができるかと尋ねました。できると言いながら、あそこに座れと言うのでした。それで、部屋はないかと尋ねました。部屋はあるのに、ただあそこに座れと言うのでした。それで、部屋に案内しろと言ったところ、あそこに行って食べて下さいと言うのでした。それで部屋がないからか、と尋ねたところ、あると言うのでした。客が望むなら、そうすべきなのに、どうしてなのかと言いました。このように、いざこざしていたら、主人がきて、どうしたのかと尋ねました。今、部屋が必要なので、座ろうとしたら、このお嬢さんが入れないようにすると言いました。ところで、この主人と私が目が会ったのです。主人が私を見て、入ってくださいと案内をしました。座って、ジャージャン麺を注文して、こういう姿で部屋にまできてジャージャン麺一つを注文するのは、ひどいように思って、お嬢さんを呼んだのです。メニューを見ながら、酢豚はあるのかと尋ねました。このお嬢さんが、あると言えば良いのに、私を見て言う言葉が「高いですが」ということでした。
■注文して食べて計算するのにも、行く時までもじろじろと見るのでした。ところで、私は全く心が揺れなかったのです。変に見た、それはそのお嬢さんの事情であって、私は何の感情の動揺もありませんでした。主人が私を見て、どう思ったのかは知りませんが、私は何も揺れることがありませんでした。私は少なくとも、酢豚を百皿、食べられるお金を持っていました。私がたとえスリッパを履いていたとしても、秘書に電話一本するなら、いくらでも高い靴を持ってくることができたのです。私がたとえ運動服を着て中華料理店に座っていたとしても、電話だけすれば車を運転して私を連れにきて連れて行くように告げることができました。信仰生活も同じです。
■私が本当に神様くださる力を知っているならば、何も関係ありません。これがバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは何を知っていたのでしょうか。三つのことを知っていました。数千年間かけて、教会がのがしていた、その部分を捜し出した人です。エジプトから出たとしても、千五百年が越えたのですが、どれくらい長い時間が過ぎたか分かりません。イスラエルの指導者がのがしたことを、バプテスマのヨハネは知っていました。これは高慢ではありません。確信です。レビである律法学者も祭司も知らないことを彼は持っていました。いよいよキリストが来られたのです。すべての問題の解決者であるキリストが来られました。私たちは心配することがありません。私はあえてくつのひもを解く資格もない。それで、言った言葉です。中世教会がのがしてしまい、現代教会が知らないことを彼は知っていたのです。皆さんがどれくらい祝福を受けた人だと思っているのでしょうか。皆さんは、立派な人が知らない福音を知っているのです。
■今日、新しく感謝して目を開かなければなりません。私たちよりはるかに立派な人も知らないのに、私たちがキリストを知って、神様の子どもになったのです。ある立派な臣下が濡れ衣を着せられました。この人が島流しになったのです。王がいつ殺せと日も定めました。その日になれば、その地方にいる長官が、そのことをします。そのようなある日、王様が突然、悪い人々に濡れ衣を着せられて死刑になるのだということを知るようになったのです。この時、王が命令を下します。はやく死刑を待っているある臣下を助けなさい。そこに行くなら、馬に乗って行って、船も乗って行かなければなりません。一人ではできないから、ソウルからテジョンまで、テジョンから釜山まで、そのように行かなければなりません。ただその人には王様の御名が押された文書がなければなりません。これを持って走って行って、その地方長官に渡すのです。その人を私たちは、飛脚と言います。
■もし飛脚が行く時、文書をなくしたり、引き出してしまったり、行く時に少しでも遅れたとすれば、その臣下は何の罪もなく、死ななければなりません。そうではないでしょうか。私たちがサタンの陰謀によって、完全に滅びているのを神様が生かそうとメッセージを送られたのです。これを今までパリサイ人、律法学者、祭司がみな防いだのです。普通のことではありません。この事実を悟った人がバプテスマのヨハネです。これがまさに主のしもべが持たなければならない目です。二番目です。このバプテスマのヨハネは、聖霊充満の力を分かる者です。ルカ1:15を見ると、母胎から聖霊充満した人でした。荒野生活をして、ナジル人として暮らし、バプテスマを与えながら、これは水のバプテスマに過ぎない。その方が来られたら、聖霊のバプテスマを授けてくださると話しました。すでに聖霊充満の力を分かる者です。
■参謀総長に会いに行ったところ、軍人がみな列を成して待っていました。先週に食事しようとして行ったところ、下の副官と部下がみな待っていたのです。入口からみな案内をしてくれました。私たちがお金も出さなかったのですが、食堂に食べ物をみな準備してありました。なぜでしょうか。一度行ってみてください。私も直接、遊びに行こうと行けば、直ちに捕えられます。私が「私、この前に来たでしょう」と言いながら、行こうとしてみたら、入れません。ところで、その人々がなぜそのようにしたのでしょうか。参謀総長が招待をしたからです。だから行くのです。私たちは力がないのですが、聖霊の力はものすごいのです。大統領が来られるのに、どれほど多くの警護員が出てきて保護するのか分かりません。大統領が通り過ぎるのに、警察、武装した軍人が、高い建物ごとにみな守っています。それだけではありません。大統領が通り過ぎる町は、建物てっぺんまでみな守ります。事故が起きたらだめだからです。
■私はそれを見ながら、このように悟りました。目に見えないように、聖霊が臨む所に、皆さんが行く所には、神様が天の軍隊を動員させられるでしょう。聖書を見れば、バプテスマのヨハネが生まれる時も、天使が訪れました。だから、バプテスマのヨハネは、恐れることがありませんでした。任職されるすべての(按手を受けた)役員と神様の民であるすべての方は、世の中の困難に恐れずに、神様の力で武装する祝福を受けるように願います。そして、自分の使命を分かったのです。バプテスマのヨハネは、何をして死ななければならないかを分かっていました。だから、怖くなることがないのです。福音を知らないパリサイ人に、全部、悔い改めてバプテスマの受けなさいと言いました。向こう見ずに、教権主義者に悔い改めなさい。天の御国が近づいた。世の罪をとりのぞく小羊を見よ。そして、王にこの話をしたのです。もちろん、死ぬことを分かってもしたのでした。
■マルコ6:24〜25にバプテスマのヨハネの死刑場面が出てきます。それで彼の人生は終わりました。しかし、今でも働きがずっと起きています。今でもステパノの死、とバプテスマのヨハネの死の働きがずっと起きているのです。私たちは短く、長く生きるということが重要なことではなく、重要な力を与えられなければならないのです。今日、皆さんが現場にいく時に、代表的な答えを受ける祝福があるように願います。どのように、この部分をよく理解できるのでしょうか。今日から記憶しなければなりません。私は誰なのか。必ず記憶しましょう。神様が全てをすでに皆与えられました。それで、今は捜し出しさえすればよいのです。それが、聖霊の導きを受けることで、祈りです。この部分を勘違いしてはいけないのです。揺れたら見られないからです。本当に不思議に、さらに怖いのは、これを知らずにいれば、目に見えないサタンは、皆さんを確かに攻撃してきます。神様の民は銘記しなければなりません。すでに神様の子どもは全てをみな受けました。世の中に勝てる、ものすごい力を持っています。今は祈れば良いのです。その部分に堅く契約をつかまなければなりません。
■なぜ重要なのでしょうか。「あなたがたの思い煩いを主にゆだねなさい。」それが何の話なのでしょうか。心配があるので、する言葉です。人にではなく、主に任せなさい。人に話してこそ、解決されるのではないのでしょうか。しかし、聖書は主に任せなさいと言われています。それが何の話だと思わなければならないのですが、彼はこの言葉をわかったのです。その後に答えが出てきたのです。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」これは世の中の人々が知らない他の力です。皆さんの問題を神様に任せる時、暗やみの勢力は皆さんを攻撃できません。これをバプテスマのヨハネが知っていました。これを知らないから、クリスチャンがしばしばうわべでするのです。
■皆さんが祈る時に、バプテスマのヨハネに臨んだ聖霊の働きが起きます。心配するべきでないことは、皆さんがここに座って祈る中に、神様の天の軍隊を送って、皆さんのすべての現場に今、答えておられるのです。どれくらい驚くことなのでしょうか。今まで多くの人々が知らないことを知っていました。それで、彼は大胆に話して、大胆に死ぬことができたのです。今日、ここですべての教役者は記憶しなければなりません。私たちは聖徒たちの足を洗ってあげるしもべです。それでは、足を洗ってあげることしかないのです。みなもらったためです。すべて持っているのです。パウロは全てをみな持ったと告白しました。この言葉が分かるのでしょうか。
■皆さんはものすごい奥義を持っているのです。私たちのクリスチャンが、こういう部分をのがしてしまうのです。全てを譲歩したのではなく、譲歩してもかまわない何かを持っていたのです。それが鍵です。バプテスマのヨハネは死刑されたのではありません。死刑されても大丈夫である程、何かを持っていました。それが鍵です。荒野でも、全てに勝つほどの何かを持っていたのです。それがまさにキリストの奥義で、聖霊の働きで、驚くべき使命なのです。今日のタイトルを、全人類に向けられたバプテスマのヨハネの証拠としました。教会がこのようにならなければならないことであり、それだけでなく、政治家たちもそのようにしなければなりません。いつも政治家たちに聖書を語ってあげたいのです。選挙を継続すれば、韓国の風土をみな捨てるようです。国家におかしな習慣ができるようです。いつも人を非難して、私の誤りは一つもなくて、あいつは悪い奴で、本当にあいつは殺すべき奴で、私は生かされる者で、あの党は悪くて私たちの党は良い党で、こういう方法でします。継続すれば、国民性がとても悪くなります。他の人のことも尊重するのですが、私のこともして、必ず話をしようとするなら、他の人がさらに立派だがひょっとして私にこの事をまかせれば、このようにします。それは何を話すのでしょうか。それほどの力がなければならないのです。バプテスマのヨハネがみな譲歩してもかまわないほど、何かがあったのです。
■私たちのレムナントを荒野に追い立てても、生き残る何かを持っていなければなりません。理解できないでしょうか。みな受けました。もう祈りだけすれば良いのです。聖霊充満、キリスト、みな受けました。これを取り除いているので、教会が問題になるのです。今日、この祝福を必ず受けるように願います。主のしもべは、無条件に主の民に、しもべのように仕えなければなりません。長老も互いに必ず仕えなければならないのです。なぜなら、何もない人のように、そのようにしてはなりません。お金がない人々も、いつもお金をもうけようと、頭を使っているふりをして通います。状態もだめなのに、良いかのようにして通うのです。あるようにしようとするのです。それが、ない人の証拠です。話さないのに、あるとします。だれも尋ねることもしなかったのに、自慢します。それが、ないという証拠です。本当にある人は話しません。面倒だからからそうです。本当にあれば、困らされます。だからないふりをしても関係ないのです。霊的にも同じです。本当に神様の力を知っている人。バプテスマのヨハネのように福音の力を知っている人。私たちがしなければならない使命が確実だということを知っている人。揺れることがありません。
■今日、この祝福を回復するように願います。直ちに未信者は知らないのですが、暗やみが逃げるようになっています。暗やみが逃げなければなりません。「なぜ、柳牧師は、サタンの話しをしばしばするのか」聖書にあるからです。私はいくら考えてみても、今でも働いています。それがこの契約を持っていれば、みな逃げるのです。堅く捕まえてこそ、皆さんの家にある霊的問題がみな逃げます。この契約を捕まえる時だけ、聖霊が働くのです。聖霊が働いてこそ、天の門が開いて、天の軍隊が動員されます。それでは、世の中はその時から答えが始まるのです。皆さんが行く所に神様の国が臨むためです。私たちのレムナントは、実力もそろえなければなりません。しかし、謙虚でなければなりません。そして大胆でなければならないのです。なぜでしょうか。みな持っているからです。すでに皆さんのためにみな準備されているのです。それで、教会、未来、心配になるのでしょうか。神様はみな準備されました。モーセはどうやって行くかを心配したのですが、神様は準備されたのです。この力を勝ち取るように願います。今からヨハネの福音書を学ぶ中で、この祝福が臨むようになります。ひとまず、今、信じるように願います。今日、信仰を持つ瞬間に、聖霊は働かれるでしょう。
■今日、信仰を持つ瞬間に、現場に主の使いを先に送られるでしょう。必ずのがさずに答えを受ける祝福の日になるようにイエスの御名でお祈りします。

<契約の祈り>
神様に感謝します。私たちが表面の形だけでなく、内容を持つようにさせて下さい。バプテスマのヨハネのように、荒野に行っても大丈夫である神様の力を持つようにさせて下さい。私たちのレムナントが、全てのものを譲歩しても勝つほど、神様の祝福を見るようにさせて下さい。今日、バプテスマのヨハネが持ったものを私たちも持つようにされることを感謝します。足を洗う奴隷のように生きますが、神様の力で多くの人を生かすようにさせて下さい。私たち数百人の(按手を受けた)役員が立てられます。この方たちに、この力が必ず臨むことを確信します。特に私たちRUTCのために苦労する方々を神様が祝福して下さい。レムナントを育てるしもべを神様が祝福して下さい。主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン



2部/祈りはすべての問題解決の鍵だ
(ルカ18:1〜8)

■聖書には、祈りの答えに関する約束がたくさんあります。もし、皆さんの子どもが福音を正しく知って祈りができるならば、みな準備されたと言えるでしょう。皆さんが本当に祈りの答えを受けられるならば、心配することがありません。九回目の出会いで、祈りは霊的な科学ということについて、祈りを少し説明をしなければなりません。祈りは神様がくださったことなのですが、すべての問題解決の鍵です。ところで、祈る前に、いくつかの考えを一緒にしなければならないことがあります。私が大学院で勉強をしていた時です。私たちは大学を卒業して大学院に行きました。
■ところで、私たちは高神大学を卒業して大学院を行ったのです。行ってみたら、そこにはポサン大学、東亜大学など、いろいろな所を卒業した人もいて、外国から来た人もいました。出会ったのですが、そこで考え違いが生じたのです。私たちは試験を受ければ、勉強して試験を受けます。ところで、違うところから勉強して来た学生たちは、当然、カンニングをしました。私たちはカンニングをしてはいけないと知っています。それでも、私たちはカンニングをする時、こっそりとします。ところで、この人たちは、当然のように見せていました。それで1年の時、葛藤が生じて、互いに言い合ったりもしました。2年ぐらいには、互いに感づいてうまくしていたのですが、考えの差がありました。それで、こういう部分が人ごとにみな差があるから、祈りの答えと信仰にだいぶ差ができるのです。
■ソウルに上京したところ、ソウルはよりひどかったのです。宿題もしなくて、他人がしたのを表だけ変えて出したりしていました。ソウルに行ってみると、どれくらい専門化していたのか、教室で勉強をしなくても良かったのです。だいたい出席をし終えて行けば、試験を受ける時、学生たちが試験の紙をどれくらいよく作ったのか、先生よりさらによく作っていました。それで、これがソウルだと思ったのです。私たちがこういう差が多いから、実際に祈る時、目に見えなく、差がたくさんあります。それが何の話なのでしょうか。私たちが今、しばらく本をたくさん読んで、聖書を見れば変に見えます。こういう人には差が生まれます。
■ところで、親は、青少年、レムナントを見て心配します。雰囲気がレムナントはそうでないのですが、青少年は事故を起こしたことを自慢に感じています。そのような学生たちが教会にきて座っていれば、バカのように見られるのです。ここに判事もいますが、判事が理解できないのです。不良の子どもたちが集まれば、不良なことをよくするほど人気があります。その社会ではそうです。無視できません。それで判事の前では泣きながら申し訳ないと言いながら、出てきたら、また事故を起こします。考えが変わらない以上、継続して霊的な問題がくるのです。私たちが世の中にずっと暮らしてみれば、そうなりやすいのです。レムナントが祈る時、一番注意しなければならないことは、レムナント7人を見て下さい。それを分かりながら、だまされないで越えました。新しい家族には、必ずこういう部分を話さなければならないのです。言わば、人は一言で雰囲気によってたくさん決定されるのです。ここで祈りについてのことをたくさんのがすことがあります。レムナントは、雰囲気も分かりますが、それを越えられる霊的な目が開かなければなりません。何の話なのか分かるでしょうか。
■学校に行けば、神様がいなくて雰囲気に一緒になってしまいます。そこで、その学生と交わって勉強をしながら捜し出して勝つことが重要なのですが、それが祈りです。直ちに皆さんが終わって、外に出て行けば、世の中に神様がどこにいるでしょうか。全部、表面で、お金でします。それを知って霊的な目を開くのが祈りに最も重要な部分です。皆さんが世の中に出て行けば、世の中に合わせて生きるべきなのですが、よく合わせて生きながら、他の目を開かなければなりません。祈りがいくら鍵で、すべての問題解決であっても、私たちが祈りを知らないからしばしばだまされるのです。それで、レムナントは特に胸の中に記憶しなければならないのです。世の中で暮らす時、世の中の人々とすることよりうまくしながら、他の奥義があるのです。
■だからレムナント7人を見て下さい。必ず記憶しなければなりません。ヨセフが奴隷生活を良くしたようですが、それではありません。ヨセフは監獄の中で見れば模範囚のようだったのですが、他の奥義があったのです。ヨセフが総理のようだったのですが、他の奥義がありました。これが祈りの答えで一番重要な奥義です。ヨセフは確かに奴隷で行きました。ヨセフは確かに監獄に行きました。ヨセフは確かに総理でした。それを良くしたのですが、他の目があるのです。これが祈りです。皆さんは事業家です。しかし、他の何がなければなりません。皆さんは学生です。しかし、他の何かがなければなりません。これがレムナント7人の特徴です。だからモーセを見ましょう。モーセが40年間、その部分ができなかったのです。どのようにできるだろうか。エジプトでは何もできない。40年間、世の中に陥っているのに解決しなかったのです。モーセが40年間、ミデヤンにいました。世の中であれ、何であれ、みな嫌いだ、神様だけ見ようというのでもありません。注意しなければなりません。完全に祈りだけしていたということでもありません。ミデヤンの40年間に神様だけ見上げていたということではありません。モーセは40年間、荒野を行くのにイスラエルの指導者として、イスラエルを連れて出て行きました。このような時、モーセは重要な祈りの奥義を持っていたのです。少しわかるでしょうか。
■ダビデを見て下さい。三人だけ例をあげてみます。ダビデが羊飼いだと思えたのですが、それにだまされない祈りの奥義です。ダビデは軍人だと思えたのですが、他の祈りの奥義がありました。ダビデは王だと思えたのですが、主が私の王だと言いました。今日、皆さんがこの言葉をわからなければなりません。この言葉をわからなければ、祈りの答えを受けられなかったり、世の中でクリスチャンがまったく合わない人になります。世の中に最もよく合う人のようなのですが、奥義があるのです。私はレムナントが、このようになることを希望します。皆さんが外に出て行けば、仕事が良くできる人なのですが、分かってみたら、それではなくて神様の奥義を持った者なのです。この時、神様は答えられるようになっています。それ以前には、答えが難しいのです。皆さんがこのように悟った時、神様は確かに答えを与えられます。答えを受けるからなるのではなくて、皆さんがこれを分かる時、答えは神様がくださるのです。記憶するように願います。
■私たちは、もう一つ注意しなければならないことがあります。祈りをして、なぜ答えられないのかと言いながら、気をおとす時があります。皆さんがこの部分をよく知らないから、そのようなことがあるのですが、祈りをするのに、なぜ答えられないのでしょうか。皆さんがこのような時、気落ちすることがあります。私も幼い時、なぜ私たちは戦争にも会って、火災にも会って、貧しくて、父はなぜ早く亡くなったのかと思いました。なぜ教会を行っているのに、こうなって難しいのかと考えたのです。それではありません。過ぎて見れば、神様は完ぺきに私たちを導いておられるのです。私はそれを知るようになりました。そして、神様はご自分の計画を持っておられます。とても重要な部分がこの部分です。今日から皆さんはだまされずに契約を捕まえていれば、答えは神様がなさるようになっています。
■主がヨセフとともにおられたと言われています。祈りはすべての問題解決の鍵となります。どんな問題でも解決することができるのです。私は祈る人を見て、また感じながら、これが祈りだと理解できたのです。私の母は、あまりにも祈りをよくしたのですが、初めは私が祈り答られるのかというほど私たちが難しかったのです。とても環境が難しかったのです。私は皆さんに自信を持って説明することができるのですが、神様がそのようにされたことですが、私たちほど難しいことはなかったでしょう。聖書にある人物ぐらいではないのですが、私が見た中では、私の母ぐらい困難の中にいた人を見たことがありません。ところで、どのようにしたかというと、職場、家、教会、祈りでした。亡くなる時まで祈りの契約を捕まえていました。その答えがどれくらい大きいのかを私は体験したのです。私は祈りの力、福音の力がどれくらい大きいのか、目で直接体験しました。
■人が生きていくと、家庭が難しい時があります。奇跡のようなことに、一度も我が家にだれかが何を請求にくることはありませんでした。私の母が十分の一献金も一度も欠かさず、祈っていたのですが、一度も病気になることがありませんでした。祈りの奇跡を目で見て体験したのです。必ず祈りは答えられるから、今日、イエス様が直接比喩を上げられました。何を言われたのでしょうか。あまりにも祈りを知らないから、イエス様が比喩を変に言われました。ある地方に悪い裁判長がいるのに、未亡人にくやしい裁判をしたら、このようなことがおきた。イエス様が比喩を語られたのです。未亡人が自分のくやしさをずっと話すので、裁判官が困るようになった。そのような話です。それなら、この未亡人が最後まで付いて回りながら裁判を正しくしてくれと言えば、この裁判官はどのようにするだろうか。それと共にこのように話されました。あなたがたの信仰を見るだろうか。このように比喩を語られたのです。これは悪い裁判長がこのようにしろという言葉ではありません。まして悪い者でも答えないだろうか。このみことばの最も鍵はなんでしょうか。未亡人でもありません。裁判長でもありません。本当に信仰です。本当に信仰だけあれば良いのです。その話になるでしょう。ここに3つの重要なことが出てきます。裁判長に行ったということは、裁判ができる権限がある人に行ったということです。
■私たちが祈りを誰にするべきなのでしょうか。神様にしなければならないということです。裁判のようならば、判事に行って話をすべきで、後ろの家のおじさんにいくら話をしてもだめなのです。これが重要なのです。皆さんがいくら話をしても、なければあげられないではないでしょうか。私にきて、ないことをいくらくれと言っても与えられません。裁判に対しては裁判官が裁判ができるように、人間に対しては神様が答えられます。未亡人という話は何の話なのでしょうか。本当に弱い聖徒が、神様の前で祈るのに、神様が答えられないはずがありません。最後の時に信仰を見るだろうか。本文はこの話です。裁判の話ではありません。イエス様が比喩を語られたのです。未亡人の話ではありません。いくら弱い未亡人でも、いくら悪い裁判官でも、弱い未亡人が最後までついて、してくれと言うのに上げないでしょうか。いくら弱くて悪い神様の民でも、本当に祈るのに、神様が答えられないでしょうか。
■信仰が強くならなければなりません。8節にあなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうかと言われました。信じる者はたくさんいるでしょう。信仰を見るだろうか。本当に信仰があればみわざが起きます。神様が与えられた大きい答えを今日、回復することを希望します。どうするからなのか、祈りは鍵です。これは3つのパートで理解しなければなりません。指導者は祈りをどのように理解しなければならないのか、指導者が先に分からなければなりません。指導者が祈りを知らなくてはいけないのです。9回目の出会いで、祈りは科学だということですが、祈りが何か確かに対話にならなければなりません。今日、皆さんは一度、出会う人々に、必ず祈りの答えを受けられる奥義が伝えられなければならないのです。私は皆さんが今日、この契約を捕まえれば、祈りの答えを受けることができると確信します。
■祈りは完全に霊的な科学です。ある人がこのように報告をしました。ソウルにある人が講義をして伝道訓練をすれば、人が多く集まるということでした。その牧師が講義をするのに、人々が何千人と集まって、講義を聞いたのです。ところで、問題はこれではなくて、講義するこの牧師がタラッパンメッセージをそのまま持って行って、タラッパンメッセージではないかのように、こっそり変えて使うということでした。それで、法にも出せないように、言葉をこっそり変えて使っていたのです。そこで祈りは霊的な科学という言葉も出てきました。戦略のようなものは、ほとんどタラッパン戦略をそのまま変えて使うのに、人がものすごく集まるということです。その話を聞いて話しました。にせ物も持ってきて集めるのに、あなたがたはなぜ集められないのか。他人のことを盗んでもするのに、なぜできないのか。少しだけ立派な人は、メッセージをまっすぐ持って行けば良くならざるをえないのです。それで、私が持っていこうが、盗み出そうが、福音だけ伝えれば良いと言いました。
■ある人は言葉も変えずに、そのまま移したのです。言葉を変えたこの人は、その上に頭が良い人なのですが、この人は全く変えずに、私の文をそのままのせて自分の本のようにして出したのです。それを見て、動作がはやいカン・ホイン牧師がつかんで告発をといったので、謝罪をしにきました。しかし、私が大丈夫だと話をしたのです。告発をしないから売り飛ばせと言いました。それで伝道がなるのではないでしょうか。あなたが売ろうが、だれが売ろうが、伝道だけなれば良いと言いました。この人はとても驚いて、感動して泣きながら、本当かとずっと尋ねました。カン・ホイン牧師だけ変でした。告発すると引いてきたのにということです。その本でも見れば、祈りに対する話が出てきます。祈りは完全に霊的な科学です。祈る時、どんなことが行われるのでしょうか。指導者は、分からなければなりません。祈る時、必ず聖霊が働かれて、必ず天の門が開かれ、必ず暗やみは崩れるようになっています。祈りは完全に科学です。だれが何と話しても確実です。韓国の神学者がみな反対をしても事実です。
■聖書には、一度ももれなく、私たちが祈る時、聖霊が働かれると言われました。それで、聖霊の導きを受ければ、まさに答えに連結します。私たちはこの場に座っているのに、本当に信仰で祈る時、神様はみ使いを皆さんの事業体に送られ、今、働かれるようになっています。本当に福音を捕まえる瞬間に、皆さんの家にある暗やみ、サタンの勢力は完全に崩れるようになっています。これが祈りです。神学者が先に分からなければなりません。ところで、おかしな神学者がこの説教を避けるのです。聖書に一番たくさんあるのをなぜ避けるのでしょうか。聖書にただ一度も漏れずに出ているのに、なぜ避けるのでしょうか。ヨハネの黙示録には、天使の話、サタンの話がいっぱいあるのに、なぜ避けるのでしょうか。霊的な科学ではなく、肉体的なことをたびたび考えるのですが、祈りはものすごいことなのです。祈る時間にどんなことが行われるのでしょうか。聖書を一度見て下さい。ダニエルが定刻祈りする時に、どんなことが行われたのか、ダニエルが20日間祈った時、どんなことが行われたのでしょうか。
■聖書に定刻祈りをする時間にどんなことが行われたのでしょうか。ペテロは定刻祈り時間に、神様はコルネリオの門をあけて、すばらしい門を開かれました。聖書を探してみてください。いつでも祈る人にどんなことが行われたのでしょうか。まちがいなくそうです。それで、主のしもべが、先に記憶しなければならないのです。ヨハネ黙示録8章に、皆さんの祈りは一つももれなく神様の御座の前に届けられるようになっています。信じることを希望します。ここに(按手を受けた)役員が多くいます。そして、多くの弟子、一般信徒がいます。この人にはこれを教えて、一つ教えなければならないことが一つあります。祈りの答えにはいくつか重要なことがあるのです。(按手を受けた)役員は、大きい流れを見なければなりません。いくら祈りをしなくても、時代の流れ、教会の流れ、これを分かれば祈りの答えを受けます。流れがあり、流れについて行くのではなくて、これを読んで祈りをたくさんしなくても答えを受けるのです。
■その次に2番目は人間関係です。人間関係が祈りの答えにとても重要な部分です。ほとんどこの部分に問題がくるのです。今日から体験をしてみることを希望します。人間関係に対する祈りをたくさんしなくても、すばらしい答えを受けます。多くの人を生かしましょう。すべての人々を生かしましょう。生かそうという言葉にすばらしい話が入っています。今回、70人メッセージで語りました。皆さんは多くのことをする時、本質をのがしてはなりません。そして、祈りをしてみれば、答えが起きるようになっています。また、私たちはしばしば問題が起きれば、重要なことをのがすようになっています。この中に多くの答えがすべて入っているのです。職分者は、必ず記憶をしなければなりません。すべての祝福を職分者は、どこで注がれるのでしょうか。ここでみな注がれます。この契約を捕まえて祈り始めたら、大きい答えの門が開かれます。
■ここにいる皆さんと新しい家族は、特に記憶をしましょう。ある学生が手紙を送りました。タラッパンに対して攻撃する人がこのようにしたが、どのようにすれば良いのかと送ってきたのです。今日2部の時、説明をすると言ったのですが、少し重要なので、核心の時にします。あらましこういう質問をしたのです。タラッパンでは何のために両親の誤りが子どもに来るのかと言うのですが、それで異端だということです。聖書箇所を出しながら、自分の誤りは自分で終わるのに、なぜ子どもに行くのですか。それでは、イエス様もマリヤの息子なのに、マリヤの罪を受けるべきなのですか。少し話にもならない質問もよくしたと思います。また話になるのは、イエス様も性格を受けたので、罰を受けるのではないのかという質問もしました。それに対する正確な答えは、来週の核心ですることにして、今日は3つのことを記憶しなければなりません。攻撃をする信徒もそうで、牧師も何も区分が出来ずにいます。原罪ということは皆さんが犯した罪ではありません。皆さんに来ている罪です。アダム以前にはなかったのですが、アダム以後には原罪から抜け出せないから、神様がキリストを送られたのです。この話をわからなければ、大変なことになるのです。
■ところで、多くの信徒が区分ができないのです。新しい家族に会えばその人々は区分ができません。皆さんが良くした、間違ったというのではなく、原罪ということは、アダムが罪を犯した以後に皆さんに運命、呪いがそのまま臨んだのです。それで、イエスを信じなさいということです。神様がそのようにされたのです。それでは、先祖の罪が伝えられるのでしょうか。先祖の霊的な問題が伝わるのでしょうか。なるのもあって、ならないのもあるのですが、そういうことではありません。両親が偶像崇拝した霊的な問題は、子どもにも行くと言ったのです。これは小さい問題ではありません。3〜4代まで。十戒に記録されています。そして、イスラエルに最も重要な答えになります。それで、皆さんが今、福音を正しく悟らなければならないのが、両親に来る霊的な問題、偶像崇拝がくるからです。タラッパンは本当に変です。両親が間違ったのがどのように来るのでしょうか。その人が変です。確かにくるようになっています。聖書には行くとなっています。3〜4代と言われています。それなら、おじいさん3代、お父さん3代、ずっと続くのです。その中間に、だれかが福音を正しく悟ってこそ切れるのです。
■その人々が赤ん坊のような質問をしました。私が責任を負うべきなのに、なぜ両親のことがくるのかと言ったのですが、これは自分で犯す罪のことを言うのです。自分で犯す罪は、両親が盗みをしたのに、自分が責任を負うということで、こういうものではないのです。両親が嘘をついて暮らしたら、それを私が責任を負わなければならないのではありません。それは自分で犯す罪を話すのです。ところで、この3つのことが、みな私たちには確かに呪いで来るのです。それで、十字架ですべての原罪をなくして、偶像問題を解決されたのでした。皆さんが自分で犯す罪は、悟りさえすれば、神様が力で答えて働かれると言われました。Iヨハネ1章9節です。だから、私たちが誤りを悟った時、神様は答えを与えて祝福して、みこころを変えてくださいます。この細かいことは、来週の核心の時にします。これを皆さんが知って、実際に祈りを始めましょう。答えがくるのか来ないのか、してみましょう。祈りを3つでしましょう。今から一日に一度でなければ、一週間に一度だけすれば良いのです。明日から忙しくて大変だというならば、今日してもかまいません。私は皆さんの時間をよく分かるから、しなくても良いのです。どうせしないということせずに、今日だけしてみてください。今日も終われば忙しいでしょう。食事して市内に行かなければならないから、今日もせずに、今、してみましょう。メッセージを捕まえて祈りを一度だけしてみましょう。驚くことが起きます。これを定刻祈りと言います。みことばの力がどれくらい強いのか分かるでしょうか。
■今日、みことばを聞く時間に、私はこのみことばと何の関係があるかという質問だけでも働きが起きます。それでもしないのです。こうすれば、みわざが起きます。これを定刻祈りと言います。もし皆さんが本当に毎日一回ずつメッセージの祈りをすれば大騷ぎが起こるのです。必ず今から契約を捕まえて、神様は確かに答えられるようになっているので、皆さんがみことばを捕まえる時ごとに、神様にみことばを捕まえて祈りをしましょう。二番目です。聖日礼拝をささげる時です。この時はそのまま過ごしてしまうことがあります。この時、いつでも特別な契約、特別な祝福を捜し出しましょう。礼拝する時や集いがある時。もちろん、聖歌隊もなんとなく歌っているのではないでしょうが、聖歌隊もそのまませずに、聖歌隊の集いの中で神様の特別な契約をつかみましょう。確かに聖書には皆さんが賛美をする時、王宮にある悪霊が逃げました。皆さんが賛美をするのに、この地域で癒しが起きてしまいます。その契約を捕まえて賛美をして、練習もそのようにすれば、皆さん自身にも途方もないことが行われます。1年だけしたら、途方もないみわざが起きるのです。そのように数年してしまえば、聖歌隊は証しも出てきます。それが礼拝です。これから、現場に行くでしょう。他の人が見られないものを見なければなりません。レムナントは、他の人は過ごしてしまうことを見るべきです。これを常時祈りと言います。使徒1:1、使徒1:3、使徒1:8。だから学生たちは必ず記憶しなければなりません。他の人が見られないものを見ることができなければならないのです。
■画家は絵だけよく描くのではなく、他の人が見られないことを描きます。写真作家は写真だけよく撮るのではありません。他の人がつかめないものをつかむのです。なぜ詩人が有名なのでしょうか。なぜ私たちは、立派な詩人の詩を読むのでしょうか。普段の時に、他の人と同じように生きながら、他の人が見られないことを見て書くのです。なぜ私たちが小説家の小説を読むのでしょうか。私たちは事件が過ぎれば、そのまま行き過ぎるのですが、小説家はその中で何かを捜し出します。今日、現場の中には答えがいっぱい入っているのです。
■それでは、今日、何をすべきでしょうか。私も今は祈り答えを受けなければならない、と決心をしなければなりません。どのように受けるのでしょうか。ひとまず私が今、雰囲気にどんどん流されて、だまされてはなりません。決心しましょう。しばしば雰囲気にだまされるのです。私たちは雰囲気に合わせる方法を分かるのですが、それを導ける信仰が必要で、その時、みわざが起きます。それで指導者、(按手を受けた)役員、新しい家族が捕まえなければならないことを捕まえて、このように祈りを始めれば良いのです。こうすれば、必ず答えられるのに、おもに3つで答えられます。あるものは祈りをした直ちにそのまま答えられることがあります。今まさに中国の使命者がきて証しをして行きました。メッセージを捕まえるのに、そのまま答えがくるということでした。そうでしょう。
■私が昔に一番困難にあっていた時があったのですが、その時、私がノートを一つ買ったのです。ノートに神様に私が一番したいこと、神様が一番必要だが思うことを書きました。書いたのですが、32個ほど書きました。ところで本当に不思議です。それが全部答えになりました。こうなると分かっていたら、300個ほど書くべきだったと思いました。ある祈りは、直ちにそのまま答えがきます。二番目に来るものがあります。だまされてはなりません。答えが来ないものがあります。これもまた答えです。神様は悪霊ではないから、私たちに必要でないことはくださいません。私たちは受けて、まとめることだけ答えだと思っていますが、来ないのも答えです。その次には、このように答えがきます。私たちはこれをくれと言ったのに、神様はより良い大きいことに答えられます。こういう答えがあります。おもに、こういうものは過ぎた後にきます。ところで明らかな事実は、私たちが祈ったこと、契約をつかんだことは、確かに答えられていきます。今日、皆さんが気をおとさずに、祈りの新しい力を得ることを希望します。世の中で生きるなという話ではなく、世の中の中でがんばりつつ、祈りの奥義を捕まえなさいということです。それで、今週に神様が与えられる大きい力を得るようになることを希望します。
■祈りは鍵です。祈りは霊的な科学です。次週にもう少し見ます。ところで、これはがまんするのではなく、皆さんは、今、開始を上手にすべきです。直ちに今日から出て行けば開始をしばしば違うようにするのです。ある日、私が祈りをするべきだという気がしながら、どのように開始をしたのかというと、神様、私は人の助けが必要ではありません。神様、私に働いて下さい。このように開始をしました。神様、私は人の手段より神様の答えを与えて下さい。少し無知に見られるのですが、そのように見たのです。人のずるがしこい実力も必要ですが、私は神様の恵みが必要ですと開始をしました。その祈りがどれくらい大きい答えになったのか分かりません。
■私が率直にこの人と親しくしているので、しばしば悪口も言います。私が何かあれば、チョ牧師の悪口を言います。その時もそうでした。釜山市内に教会が空いている所を私に紹介してくれました。この方が30ヶ所程度ある目録を渡したのです。こういう瞬間が重要なのです。釜山市内に良い教会に牧師を求める教会を書き込んで、その後に実力者の名前も書いてありました。ポケットに入れて行ったのですが、私が朝の祈りをしながら捨てました。変にご飯食べる時は、その話が正しいようだったのですが、夜明けにひざまずいてみたら違ったのです。それで、捨てて神様に祈りました。神様は確かに目に見えないように、私たちのすべてのいのちを治めておられるのではないか。私を伝道できる教会に導いて下さい。本当に祈りを夜明けに一ケ月ぐらいしました。ところで、その時、私を呼んだところがインマヌエル教会です。どれくらい驚くことでしょうか。皆さんは普通に考えるかもしれませんが、私はこの祈りの答えがとても細かくて正確でした。私が昔に、だれかが私を手助けしないか、私に良い道が開かれないだろうか、こういう考えをいつもしていました。私は神様がくださる答えを持って行きます。ところで、不思議に、それが祈り答えがとてもはやかったのです。神様が働かれるのに、正確にきました。
■困難にあう副教役者、また世の中で多くの困難の中にある聖徒は、何も心配せずに、神様にがまんするのではないのですが、私はこのように進んだのです。神様がみな、知っておられるのではないでしょうか。35坪の地下で人が入る所がなければ、それを神様がご存知でしょう。神様が確かに生きておられて答えられるのではないでしょうか。ところで、正確に答えられました。先週の日曜日に、私がイエウォン教会に講義をしに入るのに、狭苦しくて、ものすごく複雑でした。聖歌隊員が入るのに、私たちが入れないで待っていました。その時、私がチョン・ウンジュ牧師に話しました。神様も良心があるでしょう。どうして、このようなのに、作らないようにされるでしょうか。
■私たちは今から開始を、信仰ですれば正確に答えがきます。この時、未信者が見て、皆さんに神様の恵みを知るようになるのです。それが伝道です。不思議に、皆さんに共におられる答え、祝福を家族が見るようになります。それが本当に伝道ではないでしょうか。皆さんが学校に行けば、友人が特別にいたずらをしているのに、ある日、見るようになります。それが伝道です。伝道をむりにしようとしなくても、みわざが起きるようになっています。特にレムナントに祝福があふれ出ることをイエスの御名でお祈りします。祈ります。

<契約の祈り>
神様に感謝します。今日、この時間に答えの時間になるようにして下さい。神様の証拠を見て、来週には証ししなくてはいけない祝福を与えて下さい。神様が与えて下さる力を得て、世の中で人を生かす証拠を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン