20140223 インマヌエル教会聖日1部


いつもしなければならないこと三つ
(Ⅰテサロニケ5:12-18)

昔、ある重要な方が私のところに訪れました。必ず、食事を一緒にしたいということでした。あまり時間はなかったのですが、予定を組んで食事をしました。けれども、この方は食事もよくせず黙っていました。話したいことがあるという意味だったのです。それで「どんな要件ですか」と尋ねました。すると、非常に言いづらそうに難しい様子だったのですがお話をされました。要は自分のことを助けてほしいという話でした。「何を助けてほしいのですか」。「自分を少し助けてほしい」。「どんなことをサポートしてほしいのですか」。自分はこれから大統領として出馬したいということで、私にほしいバックアップしてということでした。私が思うに、その方は絶対に大統領になれそうな人ではないと思いました。でも、それを正直にお話するということは難しいことでした。「あなたは絶対に大統領に慣れない人です」と言いたいところですが、相手は出馬したいのですから言いづらくて言えませんでした。それで相手の話をゆっくり聞いた後、食事をしました。そして、一言だけ伝えました。「最後まで頑張ってください」と。なぜなら、絶対にたぶん無理だと思うのですが、それは口に出せないので頑張ってくださいということです。

時々、私たちに問題が訪れます。その時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。また、答えが来ると思います。では、答えられたときはどうしたらよいのでしょうか。また、挑戦しなければならないときはどうしたらよいのでしょうか。または○○の試験がある、○○になりたいというときはどうしたらよいのでしょうか。あとは危険な目に遭ったとき、危機にぶつかったときはどうしたらよいのでしょうか。毎日の選択はどのように選択したらよいのでしょうか。人間関係のトラブルはどのように解決すべきでしょうか。そんないろいろな事の中で危機ということにぶつかりますと、それこそ大変です。そのようなときはどのように解決することができるのかということです。これらは実に私たちに関係しているところですから重要です。私は聖書をよく見ながらその部分に関する答えを得ました。重要ないくつかの人を見ることができます。

モーセがどのようにあのような苦しみの中でイスラエルの民を連れ出すことができたのでしょうか。また、モーセはイスラエルの民をあれだけ苦しみの時代に、どうやって紅海を分け、荒野を通過して行ったのでしょうか。よく見ると、「モーセは信仰が良かった」というかもしれません。信仰もよかったと思うし、多くの人がそのように考えると思います。またダビデはどうやってペリシテ人、ゴリヤテとの戦いに勝利できたのでしょうか。また軍人でもなかったのに、軍隊もなかったのにエリシャはどうやってアラムの陣営と戦って勝利したのでしょうか。また、力のなかった、お金のなかった初代教会がどうやって世界を制覇したのでしょうか。そのような部分の答えを私は得たのです。答えは簡単でした。それは何でしょうか。それは神様の絶対計画を探し出すことです。イスラエルの民がエジプトから出て、カナンの地に入国することは神の計画だったのです。それは絶対計画でした。信じられない人が多かったために、紅海を分かれ分かれにする奇跡を与えましたが、もしも信じたならば紅海も分かれる必要はなかったと思います。私はモーセやヨセフ、そしてダビデは信仰が良かったというよりも、重要なことを見つけ出したと思います。そして、神様の絶対的な計画の中にいたために、そう答えられるしかありませんでした。ある意味、紅海が分かれたり、ヨルダン川が分かれたり、エリコ城が崩れると言うのはあまり良い奇跡ではないと思います。あまりにも信じていないから、そのようにさせたと思います。どれだけ人々は信じていなかったのでしょうか。だから、エリコを崩してまで、人々に奇跡を見せたのです。私はそう悟りました。どれだけ人間が神を信じていなかったのでしょうか。神の力を信じていなかったから、川を分けたり、海が分かれたりしたのです。イスラエルの民がバビロンから解放されたのは神の計画でした。初代教会がどうやって世界を征服したのでしょうか。世界を伝道と宣教するのは神の絶対計画であったからです。それでは今日私たちは神の絶対計画をどのように見つけることができるのでしょうか。神様の絶対計画を見つけていく方法を、今日、持っていただきたいと思います。

では、一つ目です。神の絶対計画、それはいったい何でしょうか。見つけづらいと思います。皆さんは韓国のチュ・ギチョル牧師をよくご存知だと思います。日本の安倍総理が今、靖国神社で参拝することを人々が反対しています。それはなぜ反対していると思いますか。安倍総理に関しては少し理解できない部分がありますが、なぜそれを人々が反対しているのでしょうか。つまり、今、安倍総理がやっているような靖国神社の参拝を、韓国にすべて神社を作り、皆、そこに参拝するようにさせました。高宗皇帝まで崇拝するようにさせ、皆もちろんしました。でも、教会は反対しました。なぜなら、偶像崇拝であるからです。けれども、なんと牧師先生方が恐れて、また長老の方たちも恐れて、皆参拝しました。しかし、そこでチュ・ギチョル「できません」とお断りしたのです。絶対にできないと。どうやって神のしもべがそのような偶像の前で、悪霊の前で崇拝できるのだろうかと。それで、チュ・ギチョル牧師は日本に捕らわれました。そして、数多く殴られて、死んでしまいました。結局、チュ・ギチョル牧師は刑務所に捕えられて殴られて死に、生きたままそこから出ることはできませんでした。そして、ソン・ヤンウォンという牧師も同じようにされましたが、そこから死ぬことはなく釈放されました。でも、ソン・ヤンウォン牧師はその後、北朝鮮の方から共産主義の人たちが現れて、自分の実の息子二人を殺されてしまいました。しかし、自分の息子を殺した人たちを、自分に養子入りさせたという牧師でした。それは本当に許せる、可能な話でしょうか。それが可能だった理由、一つ目です。それは永遠なことを見たからです。私たちは見ることというのは単純なものではありません。永遠なことを見るのです。皆さんが信仰生活をしていく上で、一つを決定するとき、目先のことだけではなく永遠なことをおいて、皆さんの未来の全体のことをおいて選択してください。そして、永遠と言う永遠性の中で選択してください。そうすると、神様の絶対計画が見えてきます。モーセはそれを悟りました。イスラエルの民がエジプトから解放され、そこから出ていくことは自分の一生の願いでもありつつ、神の絶対計画である、永遠な計画だということです。永遠とは何でしょうか。永遠。今皆さんと私たちがお話しているように、永遠にそれらを宣べ伝えるための神の計画です。だから、永遠的なことを見たときに、紅海が分かれるということは重要なわけではありません。

私は今週、多くのことを考えさせられました。昔、北朝鮮の精神的ないろいろな患いによる結果、韓国の天安の艦隊が狙われ攻撃されました。その船に乗っていた海軍のパク・ソゴンという中佐が無くなりました。パク・ソゴンという海軍の中佐でしたが、彼はレムナントでした。彼が毎日、記録した祈りの手帳、そして、祈っていた内容のメモが残っていました。私はそれを見て考えました。これは殉教である。この殉教は永遠な時刻表の中に留まるだろうと思ったのです。チュ・ギチョル牧師はあれから亡くなりましたが、その働きの実はいまだに結ばれています。そのときは、ただ苦しめられて死にました。死んだら終わりではありませんか。だれが何と言うでしょうか。死んだからと言って何かお金持ちにでもなれるのでしょうか。だれかが何か言うでしょうか。なにもなくなります。また、町の友人だと思っていた人が共産主義たちの影響によって、自分の息子たちを殺しました。私たちも共産主義になりましょうと。でも、人々はもちろん共産主義に反対していたでしょう。特に教会に通っていた人々を狙い殴って殺しました。結局、どうだったでしょうか。共産主義の人は北朝鮮に戻りましたが、残っていた町の人たちの中で、北朝鮮に影響を受けていた人たちもいると思います。自分の息子を殺した人たちを自分の養子にしたというソン・ヤンウォン牧師です。本当にありえない話かもしれませんが、それは永遠な時刻表の中で可能なことでした。その実はいまだに結ばれています。大人のいろいろな契約的な過ちによってレムナントたちが苦しめられている事件がたくさんあります。このたびある大学の事故によって数多くの大学生が死にましたが、その内の一人にコ・ヘリュンレムナントがいました。実際に世界宣教を夢見ていた人だったのですが、普通のレムナントではなかったと思います。このレムナントも私は永遠な時刻表の中でのことだったと思います。イスラム宣教をしようと、アラビア語専攻するため釜山外語大学に入学したのですが。入学間近に事故に遭って亡くなりました。殉教だと思います。実際、その自己のいろいろな背景を見ますと、お金儲けをしようとする大人のいろいろなミスによって皆、死んでしまったということです。そして、その亡くなられたコ・ヘリュンの父親もいろいろと保証された金額があるのですが、それをバヌアツの宣教献金にしたいとお話していました。このように亡くなったレムナントたちの死というのは、宣教、殉教だと思っています。続けてテレビで報道されていますが、このようなレムナントたちの死は神様の永遠な時刻表の中での絶対的な神の計画であると思います。

聖書をご覧ください。以前は福音を伝え、そして、死にました。マナセという王が以前の預言者をどのように殺したかわかりますか。箱の中に入れ刀で切り裂いてしまったのです。それほど悪質な王がどこにいるでしょうか。「私たちはこれから悔い改めないとバビロンの捕虜になります」ということを、イザヤが伝え、そのお話を預言したからということで殺したのです。その予言を聞いて逆に「ありがとう」と言って、いろいろなことを準備するべきでした。しかし、殺してしまいました。罪名は何かというと、それは新バビロン派だということです。それで箱の中に入れて切って殺してしまったのですが、どんな死になったでしょうか。その王がマナセの王です。しかし、イザヤの死、イザヤが残した業績はいまだに残っています。私たちはインマヌエルという言葉を使っていますが、そのインマヌエルの言葉を初めてお話したのがこのイザヤです。そして、レムナントという切り株を一番初めに取り上げたのもイザヤです。起きよ。光を放て。そして、世界福音化を預言したのがイザヤの預言者です。いまだにその御言葉は成就されています。なぜなら、永遠な時刻表を見ていたからです。テサロニケに福音を伝えていた人たち、特にパウロがこの永遠な時刻表を見ました。どんな問題をぶつかっているとしても、神の永遠な絶計画を発見するならば大丈夫です。今日は釜山市の教育監の勧士さんがこの礼拝に参加されました。勧士さんも神の絶対的な計画を発見していただきたいと思います。今回、様々な事件、大学生の死、これらは全部、教育の問題です。神様の絶対計画はだれも止めることはできません。ステパノは自分が死ぬということを分かっていましたが、福音を大胆に恐れずに語りました。ステパノはどんなメッセージをしましたか。ステパノは法廷上に立ち、最後のメッセージとして語りました。すごい人ではありませんか。法廷上に立たされ、今このステパノを殺すべきか、殺さないべきかと、皆が石を握って待っているところ、言いたいことがあれば言いなさいと言うところで、ステパノは長時間かけて語りました。それが使徒の働き7章です。イスラエルの民族は昔から預言者を殺してきたのではないか。このような預言者を殺したのではないか。それであなたがたはたくさんのろわれ、国自体が滅びたのではないか。聖書はキリスト、イエスを送ると約束したのではないか。そのメシヤ、キリストが来られたのに、あなたがたは十字架にかけたではないか。しかし、神はそのキリストを復活させ、キリストであるということを証明したのではないかということを説明しました。すると、ユダヤ人は聖書によりますと歯ぎしりをするくらい本当に憤っていたということです。そして、結局、ステパノを殺しました。しかし、ステパノの死はいまだに御働きが続いています。「ステパノの患難によって」と、ステパノの働きが使徒11:19に記録されています。特に難しい問題にぶつかっている方は、神の絶対計画を発見すべきだと思います。皆さんの一生涯、永遠という言葉をおいて絶対計画を見つけていただきたいと思います。ステパノがそうでした。そして、パウロがそうでした。パウロは苦しみの中でも、テサロニケ教会のために福音を伝えたのは、彼が見たのがただものではなかったのです。信仰の薄い人たちはああだ、こうだと揺れ動くかもしれませんが、私たちは絶対性、永遠性を持って選択しています。人々は建築というように、教会建築を考えるときにも、それも永遠、つまり、一生の答えとして見て選択してみてください。建築一つを見ても、インマヌエル教会、釜山全地域を見ながら、一生という答えを見てどのようにつくるべきか、未来を見てどのようにつくるべきかということです。この言葉は、自分が死んで亡くなったあとも考えるべきだということです。永遠という答えを持っていなければなりません。なぜなら、私たちはこの世から去るとしても、神の御言葉は永遠に立つものだからです。これをパウロが握っていました。テサロニケ教会もこれを握っていました。今日、皆さんも答えられる祝福に預かるように願います。その計画を見つけたならば絶対に滅びません。紅海がどのように分かれたかと質問する必要がありません。また、ローマがどのように崩れましたか。当たり前のように崩れたはずです。なぜなら、神様の絶対計画の前ではだれもうちはだかる者はいません。エジプトも崩れました。昔あれだけ強国だったバビロンは今のイラクです。全部崩れています。あれだけ有名な世界を制覇し動かしていた国たちは今崩れています。ペルシャはどこでしょうか。今のイランです。いまだにその国々は問題を起こしている国です。神様の絶対計画はだれも止められない。しかも、それを握った瞬間、神の重要な計画が成就されます。神の祝福が皆さんの上に臨まれますように。

では、二つ目です。永遠という時刻表の中での今日を見つけてください。永遠という時刻表の中の今日というのは単なる時刻表ではありません。永遠という時刻表の中の今日の時刻表。その中に今日、永遠という時刻表の中でこのように聖歌隊が座っています。奇跡です。皆さん、1年、2年ではありません。永遠という時刻表があり、その中で同じ年に同じ日に同じ時間にこのように皆さんと私がこの場所にいるということ、奇跡ではありませんか。皆さんがいらっしゃらなかったら、私はどうやって伝道しますか。また、皆さんも私との出会いがなければどのように私たちがこのようなことを疎通することができたのでしょうか。これは奇跡です。これが本当に奇跡だと分かる人に本当の奇跡がまた起こります。聖書をそのまま皆さんにお読みします。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい」。これはどういうことでしょうか。この12節は永遠という時刻表の中で読んでみてください。それを知る人は答えられます。それを知らなければ、いまだに喧嘩する教会も多いです。争っている韓国教会は本当に愚かだと思っています。「その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい」と言われています。そして、14節には「気ままな者を戒め」とあります。「兄弟たち。あなたがたに勧告します」。つまり、勧告すると言うことは非常によく優しく振舞いながら戒めたり、慰めたりしなさいと言うことです。「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」。そして、祈りの人というのは、本当にひとりひとりに対して、すぐに口に出してお話はしません。耐えて、忍び絶えて人々にふるまっていきます。そして、15節には、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい」とあります。これが奇跡を呼び起こす鍵となります。人々は、いつ奇跡が起きるかわかっていません。永遠という時刻表の中で、永遠という神の時刻表を見つけ出すには、12から15節まで皆さんよく読んでいただきたいと思います。一緒の出会い、皆さんと私が一緒にいるこの時刻表というのは奇跡です。これらを本当に知るとき御働きが起きます。多くの人々はこの永遠性をよくわかりません。

三つ目です。永遠という時刻表の中で永遠という時計をはめて、いつもという時刻表を見つけてください。そのいつもはなにか。いつも喜ぶことです。絶えず祈ることです。すべてのことについて感謝することです。これは神様が私たちに望んでおられることだと言われています。なぜなら、私たちに永遠という時刻表があるからです。そして、永遠を見たからです。神様の絶対計画を知っているからです。神の絶対計画を見たからです。だから、私たちは永遠性の中でいつもの時刻表を見つけるべきです。だから、喜ぶことができます。祈ることができます。そして、感謝することができるのです。これらはいつも答えられますと言う意味です。このような目が皆さんに開かれていくように願います。今日、皆さんの今までのすべての出来事について少し考えながら、選択をするときに永遠という中で選択してください。そして、言葉遣い一つも気を付けるべきです。なぜなら、永遠という時刻表の中での言葉ですから、むやみに語る必要はありません。そして、永遠という時刻表の中で、私たちの出会いが奇跡だと言うことに気づくなら、神様の絶対的な計画を見つけることができると思います。今日のこの出会い、皆さんと私たちの出会い、その空間におられるすべての出会いは永遠性の中での出会いですから、いつも喜んでください。絶えず祈ってください。すべてのことについて感謝しなさいということです。これがすべてを変化させることができる鍵となります。皆さまがすべてに対して、この喜んで、祈って、感謝するならすべてを変えることができることとなると思います。この全体の聖句の言葉をトータルして一言でまとめると、神の絶対計画だということです。苦しみが来たとき、神の絶対計画は何かということです。そして、これから皆さんが物事を置いて成功したいという思いがあるなら、成功しようではなく、神の絶対計画を発見してください。そして、皆さんの教会にいろいろな祈りの課題があると思いますが、その内容はともかく、皆さんがその教会の信徒になったことの絶対計画を見つけてください。また、この時代の長老になったとしたら、神様の絶対計画は何かということを先に発見すべきです。難しいことでしょうか。一番簡単なことです。なんでも皆さんにお話したことがあります。私は質問しました。神様。こんなに教会は多いのに、教会は無気力なのでしょうか。なぜこんなに神学校はたくさんあるのでしょうか。しかも神学者たちがなぜこのように多いのでしょうか。牧師がなぜこのように多いのでしょうか。宣教師がなぜこんなに多いのでしょうか。それなのになぜ世界福音化ができませんか。そのように神様に尋ねました。「神様はいったい私にどんな計画を持っておられるのですか」と質問しました。なぜなら、子どものときからなにげに悲しかったのです。私が牧師になるべきか。牧師が職業ですか。牧師が商売ですか。私もやるべきですか。牧師になることが名誉ですか。そんな質問をしました。でも、どれだけ世の中には牧師が多いのでしょうか。教会はどれだけ多いのでしょうか。そんな上に、なぜ私が牧師になって教会をやる必要があるかということです。神様の絶対計画を発見しました。そして、神様に祈りました。私は何もやらなくて結構です。私はただ福音と伝道運動のみをします。全世界35万人の弟子が起こされています。今その人たちは伝道運動をしています。私達の教会を大きくしようという目的でやったならば、このようにいまだに古い建物ではなかったと思います。私たちはまるで商売人のように教会をしていたら、ものすごくなにかが生まれていたと思います。また本部中心にやろうということで、本部で年間動いている運営費用は何百億となりますが、全部、私たちは本部でやるように本部の方に回しました。私たちの教会の利益のためにやっていたならば、何事にもならなかったと思います。私たちは神の絶対計画を見つけたからです。選択。なにかを選択すると言うのは一生、そして、永遠。そして、未来を考えて選択してください。その永遠と未来とその時刻表の中で今日の出来事、今日の出会いを考えてください。そうすると、一つの選択も本当に慎重にできると思います。その永遠の中での今日の賛美、聖歌隊なら、どんな賛美の姿勢になると思いますか。私たちは、この永遠という時刻表の中で、今日このように出会って一緒に出ているということがどれだけの奇跡でしょうか。それを分かる人は答えられます。

結論です。私は本当に神の絶対計画を簡単に分かりやすく、どのように見つけられるでしょうか。ある人は「決断すべきです」と言います。違います。またある人は、「世の中とのお付き合いを全部、私は切ります。お別れします」と言います。それはまったく違います。またある人は、「私は覚悟して決めます。張り紙にも書いてやります」というのですが、それも三日坊主で終わってしまいます。3日も続きません。「もう決めました。覚悟しました」というのは違います。どうしたらよいのでしょうか。まず当然なことから始めてください。当然なこと。そうすればよいと思います。当然なことをやる上に絶対的なことが見えます。私は頭が悪いせいか、中高等部を担当していたときは、釜山市内の中学、高校を全部まわりました。それは当然なことではありませんか。私は中高生を担当していたとき、当時の釜山中央教会というところで伝道師をやっていました。その釜山中央教会がのちにいろいろと派閥が起きて、真っ二つになったのですが、そこから新しい新中央教会が分かれました。そこかまたある知り合いの勧士さんが来るようになりました。とにかく私はその教会にいたときの話です。教師をやりました。教会はもちろん大きな教会です。子どもだけを数えても、何百人となるのですが、礼拝に参加する子どもは70人くらいにしかなりませんでした。それで教会の日曜学校の先生方を少し調べてみました。その先生たちの状態も欠席をしなかった人というのはひとりもいませんでした。つまり、皆ほとんど欠席をしていたということです。そこでいろいろ調べたところ、教会を中心にして小学校が何校、教会が何個など、全部データ―を調べました。それで皆にお話をしました。日曜日に早天祈祷会に参加してほしいとお願いしました。それで、皆、参加しましたが、日曜日に教会に来ない教師に対しては、「病気にかかったと把握して、あなたの家に訪問します」と言いました。主任の牧師先生にもお話しました。「日曜日には私を探さないでください」。「どうしたのですか」。「私は教会に来ていない、欠席している先生たちを訪問します」と言いました。それで、本当に訪問したときもあるのですが、それでも教会に来ない先生がいました。先生が教会に来ないのに、日曜学校の子どもたちはどうなるのでしょうか。それで日曜日の早天のときに、逆に子どもたちを連れて先生たちの家に訪問したときもあります。朝迎えに行きますと、土曜日の夜、夜更かしをして夜眠れなかった人というのは、朝までゆっくりパジャマで寝ていたりします。教師がです。そのようなことを一度経験している青年のある教師はショックを受けて、絶対に欠席してはいけないと話しました。「絶対に私たちはこれから教会を休んではならない。教会を休んだら大変だ。私のようになると。今回来た伝道師さんは本当に厳しい方だ」と。このような形でやりました。つまり、この話は何かと言いますと、私は伝道師としてやるべきこと、当然なことをやったということです。当然なことをやると、必要なことが見えてきます。だから、必要だから必要なことをやったところ、絶対的なことが見えてくる。それが神様の計画であるということです。その絶対的な中で見えてくる、神の絶対計画は失敗はありません。そして、皆さんの一週間の定刻祈りというのも、日曜の講壇、または核心といろいろ講壇のメッセージがあると思います。それを握って定刻祈りをやってみてください。答えられるかどうか、皆さん、やってみてください。そうすると、すべての人生、すべての生活の中から神の計画が見えます。それが24時祈りです。聖書はそれを常時祈りだと表現しました。それが積み重なっていくと、自分自身を超えられます。自分を超えられる力があるから、それを25時だと言いました。それを聖霊の満たしと言いました。パウロはそれを第三の天と表現しました。神の絶対的計画を発見しました。大きな問題にぶつかっていますか。それは大きな計画があると思ってください。皆さんがご存知のスパフォードという人がいました。その人は事故に遭ったのです。事故に遭って、息子二人が一度に死んでしまいました。自分の妻と息子二人が一緒に出掛けたところ、妻は生き残ったのですが息子二人は死んでしまいました。息子が事故に遭って、その場で二人とも死んでしまったということです。どうしたことでしょうか。なんと悲しいことでしょうか。私たちはある意味、世間体で見ると恥ずかしい事件でもあります。ひとりずつ亡くなるということも大変なのに、2人も一気に同じ現場で死んでしまった。でもいまだに私たちはスパフォードが作った賛美を歌っています。だれもわかりません。その事件に何の計画があるのか。神様の永遠の祝福の中にある事件ですから、その祝福はだれもわかりません。実際にスパフォードが作った賛美。わが魂についての賛美は、その事件の中で作った賛美です。私は6.25朝鮮戦争を経験しました。そして、小学校6年のときに父親を亡くしました。非常に家計は大変でした。けれども、その大変さも永遠な時刻表の中にあったために、すべてのことが神の計画だと思っています。だから、どんなに苦労があるとしても、私は大丈夫です。なぜなら、神の計画だということ鍛えられています。食事がありませんでした。でも、なければ、食べられなければ食べなくてもよいとなりました。神は私を福音化のために鍛えてくださったのです。何も心配する必要はありません。さて、私たちは神様の絶対計画を見つけていく皆さんの祝福になる産業であったり、皆さんの人生であってほしいと思います。特に教育監である勧士さんも本当に神様の絶対計画を成し遂げる働きとなりますようにイエス様の御名で祝福します。

(祈り)

神様、感謝します。私たちに霊的な目を開かせ、神様の絶対的な計画を見るようにしてくださり感謝します。これから残りの生涯、勝利する人生でありますように。神の栄光を現す私たちでありますように。イエス•キリストの御名でお祈りします。アーメン。