20140720 インマヌエル教会聖日1部


世の中を見る目
(Ⅱコリント4:1-6)

序論
▶各国ごとに国が建てられた時刻表は異なると思います。
韓国は昔、檀紀(だんき)何年と言う表示をしていました。日本も昭和何年と表示したりします。しかし、世界がどんどん発展するにつれてそういった表示で混乱してしまいます。これにより、日本と韓国、米国で会うときに基準となる西暦が必要となりました。例えば、韓国の言い方で檀紀何年と言えば、檀紀とは何だと分からなくなってしまいます。飛行機も飛ばなきゃならない、列車も走らなきゃならないのに、時刻表が混乱してしまいます。
そこで、フランスで全世界の学者が集まりました。そして、科学的に分析しました。信仰による分析ではなく、科学的に事実的に分析しました。今まで地球上で最も多くの影響を与えた人は誰なのか。その科学的なデータを調べたのです。当然、イエス・キリストだと言うことになりました。そして、イエス様がお生まれになったことを基準にして、年度を定めることになりました。それが今2014年になったと言うことです。イエス様が肉を持ってこの世に来られて、2014年が経ったということです。
▶地球上で一番多く読まれた本が聖書です。そこで、どんな英雄も果たすことができなかった内容が記録されています。新約聖書の半分以上は、パウロによる記録です。私はその時からいろいろな関心を持ち始めました。一体、聖書は誰の話であるのか。ああ、キリストを語っているのだね。それでは、キリストが誰であり、キリストとは一体どう言う意味なのか。簡単なことなのですが、私はそれについて深く考えてみました。キリストは油そそがれた者という意味だが、一体、キリストはどんな働きをされたのか。サタンを打ち壊した真の王として来られたために、油を注がれた者となります。私はそれを知ったときからショックを受けました。私も自分なりに勉強を、たくさんの本も読ませていただきましたが、そのときからショックが起きました。神の御子がこの世に来られたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。それを知ったときからショックです。つまり、だんだんと目が開かれ始めました。皆さんもご存知のように映画監督のスピルバーグをはじめ、マクドナルドの創始者、ニューエイジや、フリーメーソンなど、すべての背景は悪霊による背景です。時間が経てば経つほど、それは明確になっています。神様がキリストをこの世に送られたのは、すべての災いを打ち壊すために、私たちの罪を贖うために来られたのです。このことについて、深く考えたことがあるでしょうか。私たち人間は災いの中から抜け出すことができません。ですから、災いの中にどんどん陥ってしまっているのです。私はキリストを知ったときからどんどん衝撃を受けました。はたしてこの祝福をなぜ私たちが受けることになったのかということです。人々は神を見たと言いますが、それは偽りごとです。見ることはできません。神は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通してでなければ神に会うことはできない」とイエス様は言われています。私はその答えを得ました。
 ▶多くの人々がどのように思っているのか分かりませんが、私はそのキリストを味わう、その祝福の祈りをささげることになったのです。最初、定刻祈りがうまくできませんでした。しかし、あるときは、定刻祈りがうまくいったときがあります。そのときはすごく力が出てきました。それとともに、だんだんとこの祝福を味わい、もっと深い悟りに入ることになりました。この内容は奥義です。キリストは奥義だ。そして、この世の中で生きる限り、勝利するためにはこの力を常に味わうべきだと思うようになりました。神様はとても簡単で、とても分かりやすい平安な祝福を与えられたのです。この祝福はいつどこにいても味わえるように与えてくださいました。まったくそれを表に出さなくても味わえるような形でくださいました。私は驚くべき内容を悟りました。カトリック教会では、祈り方、方式がありますがそんな必要もなく、私たちはただ祈ればよいのです。イスラム教徒はどこに行ってもひざまずいてするやり方があります。祈る方式があるのです。しかし、私たちはそんなこともする必要がない。悪霊に取りつかれた人は儀式やいろいろな方式がある。しかし、私たちはそんな必要もない。ただ簡単に祈れるその奥義が与えられたのです。そして、私はその後、重要な答えを受けました。それは肉的な部分です。肉体的な部分においても、弱い部分も全部、いやされるようになりまして、本当に元気になりました。そして、祈りの奥義が分からかった昔は、なぜ生きるべきかという考えに満たされていたのですが、そのような虚しい考えもなくなりました。そして、人々が分からないこの奥義を味わうことによって、答えが出てくるようになりました。神が私たちにキリストを与えられたが、キリストを味わう祈りをささげることによって、だんだんと力を得るようになりました。このような祝福を神様が私たちに与えられたにもかかわらず、今まではそれを知らずにいました。だから、本当に無駄な教会生活、でたらめな教会生活をしていました。両親から多くのことを言われ、神学の勉強もさせていただきましたが、無駄な勉強だったと言うことに気づかれたのです。
ある日、キリストを悟ることによって、キリストは答えであるが、答えが一瞬だけでなく継続的な答えが来る。そして、実際的な力が自分に生じました。このあと私に与えられたのは、聖書が見えるようになったと言うことです。正直に言いまして、それ以前には聖書をもちろん読んで分かりましたが、奥義が分からなかったのです。皆さんも聖書をお持ちだと思いますが、聖書66巻のひとつひとつのみことばが自分に生きて働くと言うことについて答えられるようになったのです。その聖書のみことばが自分に答えになった瞬間から、神は毎回、講壇を通し成就されるみことばを与えてくださいました。もしも、その答えがない限り、今日、このようにして礼拝をささげる必要はありません。教会堂を造る理由もありません。また宣教する必要もありません。そうすると、すべてを逃してしまうことになります。
▶聖書が生きる神のみことばであるということが見えるようになって、体験するようになったときからは、重要なことが見え始めました。この世には多くの成功者がいます。
しかし、聖書が語る成功者はそれではないと記録されています。
この世には立派な人たちもたくさんいます。しかし、聖書が言っている立派さとは違うと言うことです。世の中には努力する人も多く、成功者もたくさんいます。しかし、聖書はそのような基準ではないということが明らかにされています。そういう内容が聖書全般的に記録されています。
特に、ヨセフがそうです。ヨセフは奴隷でしたが成功しました。世の中で成功しました。刑務所に入れられましたが、そこでも成功しました。エジプトで大成功を収めました。しかし、それらはちりあくたであると言うことです。全世界に彼は主の御名をほめたたえました。これが違うと言う部分です。国会議員であった人が殺人事件を起こし、またたくさんの公務員や政治家が賄賂の事件に引き込まれるのはどうなのでしょうか。聖書で語る成功が分からないからです。お金を儲けるために船を飛ばしたような人たちによって、たくさんの学生たちが亡くなってしまう事件も起きています。それは成功だと思っているからです。お金を儲けることが成功だと思っているから、そういうことが起きました。
しかし、聖書は違います。羊飼いであったダビデは、すでに羊飼いをしているときから成功していました。ダビデは偉大な王となり、数多くの作品を残すほどのものになりました。しかし、それは神の恵みに過ぎないと言いました。彼らが求めるものは別にあったのです。これらの重要なことを見るようになりました。捕虜になっても神の民は皆、勝利しました。なぜでしょうか。私が少しばかり悟った神の奥義を、ダニエルが持っていたからです。ダニエルは総理になりました。嫉妬する人達から嫌われていたダニエル。しかし、ダニエルはそれらを恐れませんでした。身の回りの人々は成功すること、そして、総理の座を狙っていましたが、ダニエルの目的は成功ではありません。首相が目標ではありません。ダニエルの目標はその次の次にあります。ダニエルを殺そうとした人々は、逆にダニエルがその多くの苦しみからも勝利し、総理の頭になる働きの者になりました。バビロンはとても大きな大国で、国の総理が幾人もいたのです。その中で、ダニエルが総理の頭になったのです。ダニエルもそれは目的ではありませんでした。ダニエルは、他の神に仕えてはならないと言うこと、それが禁じられていると言うことを知っていながらも、一日に三度ひざまずき主に向かって祈っていたものです。なぜなら、世の中の人が求める成功とは違うものを持っていたからです。皆さんは世の中を見る目が変わらなければなりません。特にレムナントたちがそうです。
こちらにはレムナントたちを育てる多くの長老の方々がいらしています。その方たちが日頃、残念に思う部分があるそうです。私もそこには同意します。その長老たちの言葉を聞いてみると、レムナントたちは問題や辛さに勝つことができない。つまり、耐えることができない。大変なことが来ればすぐにあきらめてしまう。耐えられないと言うことです。そして、重要なチャンスが来たのにもかかわらず、それがチャンスだと分からないから負けてしまうと言うことです。残念です。そのような部分は、本当に私も治すところだと思っています。
ダニエルを見てください。自分の身分が捕虜になっても勝利した者です。レムナントの皆さん、悟ってください。捕虜になっても奴隷になっても、ヨセフは勝利しました。しかし、それが目標ではありません。
私が見るとき、ものすごく成功していたナポレオンが受けた祝福とパウロの祝福は比較にならないくらいです。ナポレオンは英雄です。そして、多くの戦争で勝利をしました。しかし、最終的に死を迎えたときには孤独にある島で流刑され死んでいったのです。死を目の前にして、ナポレオンが残した有名な言葉です。「あの海は人間が流した涙であろう。あの島の裏で吹く風は人間のため息だ」と言いました。パウロが残した作品はどうだったでしょうか。実際にナポレオンとパウロは比較になりません。ナポレオンが書いた書物を持って歩く人はほとんどいません。しかし、パウロが書いたこの聖書は皆に読まれています。これくらいパウロは成功しました。パウロの経歴を見ても、パウロはパリサイ人です。つまり、国会議員でした。そして、ガマリエルの弟子でした。つまり、最高の弟子でした。そして、ローマの国籍を所有していました。その当時、ローマの国籍を持っているのはすごいと言うことです。しかし、それらすべてはちりあくただと言いました。なぜなら、自分にはキリストがあるからということです。そして、重要な言葉を残しました。自分が成し遂げたわけではない。自分はキリストに捕えられた。その捕えられた、またそのために走り続けるのだと言いました。この世のものではないと言いました。この世のものを征服するために走るのではなく、上から召された、その召しに向かっていくと言うことです。ローマの国籍が問題ではなく、私たちの国籍が天にある。そう告白しました。
ダビデは妄想しているわけではありません。違います。パウロは正確な霊的な事実を見ていたのです。お金がすべてだと思っていること、それが妄想していることです。お金目的では、手段、方法を選ばない、だから、殺人事件も起こしてしまうわけです。子どもたちが海に投げられて、船の中で死んでいっても構わない。お金がすべてだと思う商売人、それが妄想世界です。人のことをつぶしても、自分が高い座につけばよいと言う、それが妄想の人たちではありませんか。
だから、そのような成功者が多いために、地球上はどんどん苦しくなっているのです。どれだけ苦しくなっているのでしょうか。聖書は預言します。地球が滅亡すると言われています。パウロは正確に見ています。ダビデも正確に見ています。
レムナントと、すべての信徒の皆さんは、皆さんがいかに幸いな者であるかを気づいて行かなければなりません。

▶それでは、今日、世の中を見る目が必要なのですが、3つの目を紹介します。

1.世の中の仕事、仕事場、現場-神様がくださった贈り物
▶一つ目の目です。私たちは世の中をどのように見て行くべきでしょうか。世の中は間違っているところなのでしょうか。そのように判断してはいけません。世の中を見る目、一つ目の目です。世の中にある仕事場と現場は、神様から賜物だ、プレゼントだと思ってください。つまり、私がいる会社は神様が私を派遣したところだと思ってください。私の事業は神様のもの。神様が私を社長としてそこに立ててくださったと思ってください。そうだと思います。そのような精神で働かなければなりません。
▶ヨセフは成功した後にこう言いました。兄たちが私を売ったわけではありません。どうぞ心配しないでください。神が私をあなたがたのために先に派遣したと言いました。
Ⅰサムエル7:10-14節にサムエルが生きている間、戦争が一度も起きなかったと言われています。ダビデはこう告白しました。ダビデはこう告白しました。サムエルは言います。私が羊飼いをするとき、神が私を見守ってくださることによって、獅子の危機からも私を守ってくださった。
Ⅰ列王19:19-21を見ますと、エリシャは農業を営んでいましたが、自分がその12匹の牛を引く大きな農業をしながらも、そこにも神がともにおられたと言われています。
▶皆さんは覚えておく必要があります。世の中は神様が私を派遣してくれたところ、仕事も神様が私に与えてくださった現場です。
▶私は教会史の人物の中で、3人の人についてはよく知らなければならないと思います。教会史を成し遂げる中で、3人の人物、つまり、一般信徒でありながらも成功したミュラーの話を読んでください。そして、もう一人は、自分が小さなお店の店員に過ぎないとしても、そこは神様の仕事場、神様が私を派遣してくれた、神様の働きの現場。ワーナーメーカーについて読んでください。レムナントは、夏休みに読んでいただきたいと思います。実際にいた人たちです。本当に信仰者でした。最初は小さな清掃をするような人でしたが、最高のオーナーになったシーバーです。彼に対しての本も読んでください。シーバーがオーナーに任命される日、世の鋼鉄王と言われていた人がこのように話をしました。あなたは専門家が必要ですか。お金を渡すから専門家を雇ってほしい。また、あなたに技術者が必要ですか。お金を渡すからその人を採用してほしい。しかし、私はそういう人ではなく、あなたのようなものが必要だから、あなたを起用する。それは何か。あなたが仕えているあなたの神、その神がこの会社に必要です。そんなあなたがこの会社に必要だと鋼鉄王はシーバーに話しました。私たちは世の中だから、ここはどうでもよいと思う部分があるかもしれませんが違います。世の中、仕事場。神様が皆さんに与えられた現場です。
▶皆さんが辛くてもそこで少しだけ祈りながら待てば、神様の御働きが起きると言うことです。キリストを味わう祈りの奥義を持って、皆さんの現場で全きものとしてつとめてください。今日の1部礼拝を通しても、いくらでも皆さんがみことばに対して礼拝に成功して行くことができます。力を得ることができると言うことです。そのみことばで与えられた答えが、皆さんの家に、会社に、仕事場に、現場に成就されるようになります。それを指して、神の国が臨まれたと言います。

2.Ⅱコリント4:3-5、世の中の人々がほろびる背後にあるサタンの働き
では、世の中を見る目、二つ目です。今日の本文によく記録されています。
Ⅱコリント4:3-5。どのように記録されているのでしょうか。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」。
▶4節で特に注目したい言葉は、「この世の神」という言葉です。この目を開かれなければなりません。神がこの世を愛していると言うことは、世の中に出ている私たちが、それは信仰生活をしていないように見えるかもしれませんが、そういう意味ではありません。世を愛すると言うことは、信仰が薄いと言う意味ではありません。なぜ神はこの世に対して、また信仰者たちがなぜこの世の中で成功しながら、また滅びて行くのでしょうか。強国が栄えて、また滅びてしまう。その理由はどこにあるのでしょうか。アメリカの人たちはよく知らなければなりません。エジプトが世界を制覇した後、なぜなくなってしまったのでしょうか。バビロンはどこでしょうか。ものすごい国でしたが、今のイランです。なぜそのバビロンはなくなってしまったのでしょうか。アッシリヤはどこですか。すごい国ですが、今のどこの国でしょうか。イラクです。偉大な国だったのです。でも、いまどうしてあのようになってしまったのでしょうか。聖書は、世の中を見る目として二つ目の意味を与えています。
 ▶「この世の神」は、悪魔を指しています。この世の神が私たちを惑わします。どんなふうに惑わすのでしょうか。
1)この世の神、悪魔は創世記3章の事件について分からなくさせます。これがニューエイジ運動です。創世記6章の事件も分からなくさせます。これが各都市に起きたネフィリム、堕落の現場です。創世記11章のバベルの塔の事件がまさにフリーメーソン運動です。この創世記3.6.11章を分からなくさせるのですが、これが私たちの神の力だと分かるならば、そのときからすべては終わっていくのです。皆さんの問題も病気も神は知っておられます。なぜなら、皆さんのいのちを、皆さんの死ぬ日を主が主管しておられるからです。ですから、何も心配する必要がありません。私たちは知るべき内容を知らなければなりません。
2)この世の神、つまり、サタンが私たちを惑わすことがあります。どのように惑わしていくのでしょうか。使徒13章の事件が一つの文化だと思わしてしまうのです。世界中を旅しながら、私たちが旅行記念に写真を撮っているすべては偶像なのに、それが文化として扱われているのです。
3)そして、世界はうつ病患者さんでいっぱいです。病院に入院している患者さんが20%になります。そして、全世界に他の病気はともかく、うつ病のため薬を服用している患者さんも10%います。このようにだんだんと個人、個人は難しくなっています。
イエス様は語られました。あなたがたの父、悪魔。そう言われて不愉快でしょうか。今日、家に帰って、皆さんの舅に未信者だからと言って、「お父さんの父は悪魔です」と言ってはいけません。たぶん、大変なことになります。でも、霊的には事実です。人間がこのように悪魔に捕らわれています。だから、自分に大変なことが起きたら、偶像崇拝をします。宗教を求めます。だから、心の病、精神的な病が起きてしまうのです。肉の病気と言うのは、別に大きなものではありません。なぜなら、霊的な結果だからです。でも、もっと恐ろしいものは残っているのです。二つの恐ろしいものが残りました。それは次の世代に受け継がれてしまうと言うことです。しかも、死んだ後も、永遠の世界が残っているということです。
▶このように、人間は苦しくなって死んでいくのです。そこで偶像文化が発展すれば、豊かな国のように見えたりします。しかし、偶像文化が災いをもたらすと、災いが来て滅びるように見えます。だからこのような歴史の繰り返しです。偶像と言う文化が一つ栄えれば、非常に発展していく国に見えます。エジプトの偶像文化、ローマのゼウスの神殿の偶像文化、日本の神社参拝する偶像文化、それらが全部、復興しているかのように見えます。はたして、それは本当に復興しているように見えるのでしょうか。これを見る目が必要です。この世の中を見る目は、祈りの他はありません。祈りを通し、その神からの力によって見えてくることになります。

3.Ⅱコリント4:1-6、世の中にいる私に光を与えられた。
 ▶世の中を見る目、三つ目です。世の中にいる自分を見てみてください。私たち一人一人に神は光として与えられたと言われています。
1)本文の1節を見ますと、「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく」とあります。勇気を失うことなく、と言われているのは、勇気を失うようなことが起きるけれども失わないようにと言うことです。なぜなら、神は私たちの中に輝く光を与えられたわけです。だから、光として召されたと言うことになります。これを信じる人が、この日を輝かしていくということと同じだと言うことです。皆さんの中にある光、そして、皆さんがそれを輝きだしてこそ暗やみの勢力はなくなっていきます。輝きだす、輝くと言うことは何でしょうか。それは私たちが信仰を持って進み出ると言うことです。それを契約として握ってください。
2)また、2節に「神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」とあります。サタンのしわざが2-4節に出てきます。つまり、自分が光だと分からない、惑わしてしまう、良心的に刺さるようにすると言うことです。だから、自分がいかに幸いな者であるかということを分からなくさせるのが、サタンのしわざです。また、もう一つ、伝道は難しいと分からなくさせるのです。世の中は大変だ。辛い、辛いと思わせてしまう。それで自分の中に光があると言うことを、分からなくさせるのです。私たちはいかに幸いな者であるかをまったく分からなくさせるのが、世の神、サタンのしわざです。
▶20年ぶりに初めて一般の教会の牧師の先生の前で先週、メッセージをさせていただきました。70個ぐらいの教団の先生方、役員が集まりました。200名あまりの先生が集まっている中、先週、特別講義をさせていただきました。1時間の講義だったのですが、皆口をそろえて「私たちは伝道訓練を受けなければ」とおっしゃってくださいました。その内のある牧師先生は私のところに来て、挨拶をしてくださいました。「私は19年ぶりに柳先生のメッセージを聞きました。そして、これから伝道運動をしましょうという気になった」と言うことでした。本当に感謝なことでしょう。反対に、もう片面はすごく悲しいなと思います。なぜなら、本当に幸いな先生方ではありませんか。本当に祝福を受けている方たちです。でも、それが分からなく何十年も生きてきたのです。傷の中に留まってしまうようにさせてしまうとか。皆さんが祝福を受けてしまうと大変なことではありませんか。世界福音化してしまうわけですから。だから、サタンがだましていくのです。
3)神様の子どもがどういう人であるのか6節に記録されています。 「光が、やみの中から輝き出よと言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」と書いてあります。これが私たちです。皆さんはだまされずに契約を握ってください。
▶私は特別なことをしたことはありません。キリストを悟った瞬間、キリストを本当に分かるなら私たちは神の子どもだはないかということです。宗教と福音は絶対に違います。私たちはサタンを崇拝しているわけではありません。キリストはすべてを終わらせるその御名です。宗教は大変です。宗教を信じてしまえば暗やみに覆われてしまうでしょう。しかし、キリストは違います。そのキリストとなる光が私たちの心の中におられます。神は全能な方です。しかし、私は貧しい。話になるでしょうか。違います。私たちは違うのです。神は全能な方。しかし、教会はダメ。これは奇跡中の奇跡です。それは違う話です。私は神様に祈りました。そんな奇跡は自分には起きないようにと。イエス様は言われました。 "私はあなたがたとともにいる。すべての民族に行きなさい。万民に行きなさい。地の果てに行きなさいと言われたのではありませんか。しかし、私たちは伝道は難しいですと言います。これは話になりません。神様は創造主の神ではありませんか。でも教会は自立していない。これは本当に話にならないことです。誰が間違っていることなのでしょうか。私はこれを悟った瞬間から答えられるようになりました。悟ったその瞬間から、現場が生かされるようになったのです。特別なことはしていません。ただ現場に行ってキリストだけを伝えました。それだけで人々は生かされたのです。大学に入れば、大学に備えられた教授がいたりしました。学校に行けば、学校の備えられた教師が、生徒さんたちがいました。この祝福をなぜ私たちは逃していくのでしょうか。
▶今日、主は言われています。私たちの心の中にその光を照らしているということを。皆さんにあるすべての病気は、主イエスの御名によって打ち砕かられますように。その信仰のゆえに聖霊の御働きはだれも止めることはできません。

結論-キリストの中にある光は私たちに最後の希望だ
 ▶このキリストの中にある光は、私たちに最後の望みです。
1)聖書の中、イエス様に会った人々に起きたことはどんなことだったのでしょうか。希望のなかった長血を患っていた女性が、イエス様の前に出てきました。イエス•キリストが誰であるのかという噂を聞いて、イエス様の前に現れたのです。この女性の名前は記録されていません。しかし、切実にイエス様の裾を握りました。その時、イエス•キリストの力がその女性に臨まれたと記録されています。乞食の身分で、家族もなく、友人もいない盲人バルテマイがイエス様が通り過ぎるということを耳にしました。けれども、目が見えないからどの角を通るか分からない。だから、イエス様が来ると言うことを聞いた瞬間、大声で叫びました。「ダビデの子孫イエスよ、わたしをあわれんでください」。ただイエス様とは呼びません。「ダビデの子孫イエス様」と正確に言いました。「私を生かしてください」ではなく、「私をあわれんでください」と叫んだのです。大声で叫びました。大声をはらしたのです。目が見えない、イエス様がどこを通るか分からない。だから、当然ながら大声を出したのです。あまりにもうるさかったので弟子たちが「静かに」と言いました。でも、イエス様がどこをどう通ってしまうか分からないから、大声をはらしました。キリストはそのバルテマイの叫びに、足を止められたのです。あなたは何を望んでいますか。私は見ることを望んでいます。イエス様は言われました。「あなたの信仰どおりになる」と言われたのです。「キリストが皆さんに祝福あるように」と言われれば、それでおしまいです。皆さんがこの世の中で受ける一千年分、一万年分の祝福を得るより、キリストが1分、皆さんに留まってくださるならおしまいです。
2)この祝福を見たペテロが告白したでしょう。ペテロはイエス様に向かって言いました。「あなたは生ける神の御子、キリストです」どんなことがあったとしても、ペテロはその告白ゆえに立つならば、絶対に滅びません。たとえ、イエス様を裏切ったとしても、そのペテロは滅びませんでした。逆にイエス様がペテロのところに向かって、彼を祝福しました。ハデスの力があなたに立ち向かうことはできない。あなたに天国の鍵を授けよう。裏切ったペテロだったら、イエス様はペテロの本音を知っていました。あなたは私を愛していますかと尋ねられたのです。
3)キリスト、その一つですべては終わりです。パウロの告白を見てみましょう。いかにすばらしい告白だったのでしょうか。人々はあれだけ戦って、人々を踏みつけ握ろうとしていた成功を、パウロはちりあくただと言いました。皆さんもたくさんのお金を儲けてください。そして、そんなものはちりあくただと告白するくらい儲けてください。ある人はお金がもったいなくて献金もしないまま、でも、そのお金も使えないまま、いつの間にか死んでしまったと言う人もいます。貴重なお金を儲けて、全く宣教などには使わずに、世の中にそのまま置いておくのではないか。皆さんがあれだけ苦労して儲けたお金はレムナントや世界宣教のために使うべきではありませんか。貴重なところに使うべきです。パウロは世の中の人々が好む、それらの物質的なことにちりあくただと表現しました。それは駅前の乞食が告白した内容ではありません。例えば、駅前の乞食が、やはりお金も名誉も全部ちりあくただと言えば、通りすがりの人が、やはり乞食だと言うかもしれません。説得力がないのです。でも、パウロはものすごく成功しました。ものすごい背景がある、そんな人の告白です。なぜそんな告白をしたのでしょうか。人々はそのために戦っていて、それらによって犯罪まで犯しているからです。それらによって、皆、霊的なことを逃しているから、パウロが告白しました。そのちりあくただと言うことは、全部無駄かということではなく、それらを全部所有しても、それを征服しても、キリストにはならないと言うことです。
  ▶私はキリストに会う前にとても難しい状況の中に置かれていました。皆さんとは本当に比べ物にならないほど、私はダメ人間でしたがそんな中キリストに出会いました。感謝しています。
皆さんはだめだと言っても、ある程度の水準はあったかと思いますが、私はそうではありませんでした。だから、そんな私がキリストを悟ったと言うこと、だから、教会にこうしていられると言うことが本当に幸いです。バックグランドのある人は、教会に行って不平や不満をつぶやいていましたが、私はそんなことはできませんでした。何のバックグランドもなかったからです。また、神様の祝福があまりにも大きいから、味わうことで精一杯です。不満を言う余裕すらありません。ですから、皆さん、今日本当にキリストの祝福を持ってください。勝利します。このような目で世の中を見ることが正確な目だと思います。今日の3つの目を通して、皆さんが本当にいやされ答えられますように、イエス様の御名でお祈りします。


(祈り)
私たちに救いを与えられた神様に感謝します。これからは救いの中にある、その奥義を見つけ出すことができますように。クリスチャンがその祝福を見ることができず、多くの迷惑を社会にかけています。福音を持っている教会、人々が国を動かし、また国家を生かしていたのですが、今は世の中と国家を難しくさせています。そんな中で私たちの真の福音、真の恵みを悟らせてください。イエス•キリストの御名でお祈りします。アーメン。