[2005年5月7日/ソウル産業宣教メッセージ/ソウル・メイフィールドホテル/柳光洙牧師]
共同体と産業宣教(52)- 「力を得た産業人と聖徒達」 (使徒2:1-3,使徒2:41-42) @序論:使徒2:1 ‘五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。’ 2;42 ‘そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。’使徒2;1の‘五旬節の日になって’というのは、多くの意味を持っています。
* 予定:このみことばは予定されているということです。聖霊充満をくださることに予定されていたのです。ここで、すべてのことがみな起きるようになったのです。 (1)福音:福音を味わうほど、祈りを味わうようになります。 (2)祈り:福音を正確に分かってこそ、祈りも正確にできるのです。多くの人々が、祈りをよくすれば良いと言います。しかし、福音が正確でなければ、祈りも正確ではありません。 (3)聖霊の充満:また、私たちが祈りを味わうほど、聖霊充満を味わうことができます。言わば、福音を持った者に聖霊充満をくれるということです。それでこそ、証人なるためです。いろいろ目的があるのですが‘証人になります’. ▲聖霊充満ということは何でしょうか? と話すでしょうが、ここにすべてのものがあるのです。福音の中にすべてのものがあって、福音を味わう結果です。私たちの産業人や教授が、時々こういうことを感じるでしょう。社会生活より、教会生活が難しいということです。職場生活より、教会にきて働きをするのが大変だと感じるのです。世の中に出て行って、試みにあうことはないのに、教会に来ると試みにあうことが多いのです。教会生活をするのが地獄のような場合もあります。これは、(1)-(3)が不足して出てくるのです。聖霊充満、聖霊の導きを受ければ、話合いをしなくても済むのに、教会でない違ったところでは、自分が働きさえすれば良いが、なぜ教会で問題になるかというと、教会は共同体を成し遂げているためです。韓国教会は、500人を越えれば問題が起きたりします。そして、少しだけ集いをすれば問題がくるのです。それで、とても重要なのですが、80%ほどが困難な状態です。難しいということは、運営が難しいということです。どんどん問題がくるのです。(1)-(3)になれば、問題が来ないのに、どんどん問題がくるのです。‘社会生活を上手にするのか’と言うのですが、良くできません。実際に、霊的な力がなくて、未信者のように生きていくのです。それでヨエル2:28の約束は、すばらしい約束です。最後の時、福音の時代がくる時、聖霊充満を与えるということです。旧約にもあったのですが、旧約では、特別な人に与えられたのですが、新約には、すべての人に与えるということです。福音時代がくれば、すべての男女しもべに水を注ぐように与えると言われました。使徒1:8このみことばで、イエス様がまたおっしゃられたのです。聖霊が臨めば、力を受け取るので、地の果てまで証人になります。この日が来たのです。‘五旬節の日になって’とても重要です。使徒2:10,ここに15ケ国の人が集まって、産業人が集まって、初代教会がここで始まったのです。ほとんどみなが、この部分を知らずに出て行っているのです。私たちの子ども達を外に送りだす時、こういう奥義がなければ大変です。また、牧会でもそうで、事業でもそうで、私が力がなければ大変になります。それで、私たちの初代教会を見ながら、産業人を見ながら、すばらしい力を得ました。祈りを新しく見なければなりません。 1.福音を持った者の祈り 単なる祈りではなく、福音を持った者の祈りです。マルコのタラッパンで、これを前提としたのです。聖徒達にも、必ず祈りを教えなければなりません。人々は祈っているようですが、これが(福音)なければ、自分の体質のとおりに祈るのです。話をよくして、いろいろな言葉を言ってこそ維持できるのです。ある者は、いろいろな所に電話しなければなりません。分かってみれば、普通のかわいそうな人ではありません。自分が 維持できなくて、もがくのです。福音を持った者が祈りがないのは、事実、深刻です。初代教会の産業人が得た答えが、まさにこれでした。アポロを見て‘あなたが信じた時、聖霊充満を受けましたか?’と尋ねました。聖霊に対して説明したのです。この現場を説明したのです。この現場を証ししたので、アポロが疑いなしで受けました。私たちも、祈り始めなければならず、子ども達に祈りを教えなければなりません。祈りの開始がいくつあります。 (1)開始 ①黙想-共に-定刻:何かをくださいと言うのではありません。クリスチャンの大部分がくださいと言います。それが重要なのではありません。私をささげるのです。何かをくださいと言うのではないのです。それを黙想と言います。神様が私とともにおられることを味わうのです。これが最も重要です。これを名前を変えれば、聖霊充満です。神様が私に充満して働かれるのです。イエス様も、主の祈りで何かをくださいと言わないようにと言われました。その話は、祈りの課題があってはならないのではなく、黙想が重要なためです。これを定刻の祈りと言います。それで、学生たちが祈りの一番最初に、このように始まらなければなりません。新しい信者も、祈りがこのように始まらなければならないのです。中高等部の修練会行けば、私はこれをさせます。それで、プログラムを組む時、朝の祈りをなくしました。朝食をなくしたのです。必要な人が各々食べるようにしました。午前10時半に1講義をします。その時間までは自由です。ただ、最も静かな時間を持たなければなりません。このような時、すばらしい治癒が起きるのです。これは、小さい時間を投資して、多くの効果を見つけるのです。この単語を多く使った人がダビデです。私たちの子ども達に必ず教えなければなりません。祈りの課題を持つのも重要ですが、自分自身をささげることが重要です。少しだけ黙想しても、すばらしいみわざが起きます。普段の時に、人々が祈る方法を知りません。必ず説明されなくてはいけません。ある者は、祈りができないと言います。私は、どんな意味をおいて言うのかわかりません。祈りができないという言葉は、あらまし私が分かることでは、簡単な言葉では、無知なスタイルで祈りができないというのですが、それでは信仰生活ができません。ある者は祈るために場所を定めておく人がいます。それは、仏教スタイルであって、私たちはどこでも祈ることができるのです。 ②対話-良心-常時:対話でする祈りです。断食祈祷より速い祈りがこれです。問題になることがあるのでしょうか? それで断食してみたら、お腹だけすくのですが、それほど答えが来ません。神様の前に良心をもって祈りましょう。神様が良心に返事をされます。それが最も速いのです。ご飯を食べずに戦って、そのような必要がありません。 ▲私も昔に断食していました。しかし、率直に神様に尋ねたのです。中高等部をする時、子ども達が全くみことばを聞くことができなくて、教師たちは教えないでいたのですが‘これではないでしょう?’と尋ねたのです。私が数多くの子ども達を集めたのですが、それではなかったのです。夏聖書学校で分かりました。私が本来、のどが強いほうなのに、この時、声がかれるのです。子ども達が、どれくらい乱雑に騒ぐでしょうか? 内心、神様と対話したのです。‘これではないでしょう。私がこういう多くのお金を集めて、こういうことをして良いのですか? ’その時神様が良心に返事をされました。‘あなたが子ども達に福音を伝えないのではないのか?’というものでした。‘この良い機会に福音を伝えるべきで、他のことをするからだ。’私が福音を持っていないという良心的な返事がきたのです。それを通して、伝道の全てのものを悟ったのです。タラッパンというものを悟りました。そうだ。‘初代教会では隅々で聖書勉強をしたがタラッパンをした’ということを悟りました。それで、その後に私が夏聖書学校を変えたのです。全体に集まるのもしますが、別に集まるのをしようと言ったのです。午前には子ども達と踊って歌って、午後には全部、散るのです。それがタラッパンです。そのように始めました。子ども達と家を定めて、聖書勉強をするのに、全教会がみな生き返ったのです。その長老、執事、勧士の家に天幕として聖書勉強をしたのですが、村の人がどれくらい喜んだかわかりません。部屋に入って聖書勉強をしたのに、子ども達がそれほど真剣なことがありませんでした。驚くことが行われたのです。最終日に子どもたちが集まって、彼らに静かにみことばが入るので、3日しかしなかったが真剣でした。この時まで、私たちが子ども達を滅ぼしていたのです。それで、夏聖書学校が終わって、タラッパンを本格的にしたのです。対話でする祈りが重要です。これを常時祈りと言います。それで、皆さんが聞く話ですが、とても重要な言葉です。さらに重要なのは、定刻の祈りを一日に1分ずつ3回といえばどうなるのでしょうか? 1分しかたっていないが、3回することは、完全に神様を見上げることになります。前にたとえを言いました。 ▲学生たちが、こういう年齢の時、本当に愛する人ができれば、どのようにするでしょうか? もし通訳をするソウンに、本当に愛する人ができたとしましょう。この子が朝、夕方に電話をするでしょう。負担なくて、条件があります。心が愛する人に皆行っているのです。皆さんがこのようにしたら、短い時間のようですが、全体の考えがここに行くのです。私たちがしばらく黙想するのは何でしょうか? 人生全体を変えます。 ③みことば-礼拝-生きた礼拝:そして、さらに重要なのは、みことばをとらえて祈るのです。必ず、その週のみことばをとらえて祈れというのではありません。神様が講壇を通して私にくださるみことばがあります。それを持って祈りましょう。礼拝が平日にも連結します。これを見て、生きたいけにえと言います。ローマ12:1-3です。必ず、祈りはこのように始まらなければなりません。このように始まらなければ、違うのでしょうか?‘正しく福音もない人が力を受ける’といえば、それは間違ったことです。福音も正しく理解できない新しい信者を断食させるのは、危険なことです。私はそのような意味で、チョ・ヨンギ牧師は力があるので良いのですが、その下の人はだめだと思っています。その方は、個人的に偉大な方です。しかし、その戦略で続けられるのでしょうか? だめです。福音も理解できない人にご飯を食べなくさせて良いのでしょうか?だめなのです。私は3日だけ断食しても、錯覚がします。3日断食して横になっていても、食べることだけ思い出すのです。特にラーメンの考えがたくさん出てきます。主は見なくて、ラーメンだけ見るのです。福音も知らないので、より見えるのです。福音を分かれば、断食しなくても、深いところに入るはずなのに…,開始が福音なのに(1)-(3)がだめだからだめなのです。私を救われた神様を、契約を、黙想することなのですが、その次にことは違ったことです。その話は、神様の子どもになった感激と感謝、恵みがないということです。それでは一瞬で宗教に変わります。‘ください’という祈りをすれば、受けなければならないから、宗教に変わるのです。私たちの学生たちと真剣に対話して、こういう部分に対して一言だけ言っても役に立ちます。世の中のこうしたことも多いが‘神様の子どもになった感謝がどれくらいあるのか?’と尋ねる必要があります。 ▲一度は私たちの娘が帰ってきて、真っ青になって震えていたのです。‘なぜか?’と尋ねたら、下の階の友達のお父さんが自殺をしたということでした。それで、子どもがとても衝撃を受けた顔でした。それで‘見なさい。未信者は、そうではないのか? あなたが神様の子どもになったことをどれくらい感謝しているのか?’と話したところ、そうだと言いました。祈りは、このように始まらなければなりません。パウロが、ここに感謝したのです。ダビデが、ここに一番、感謝しました。それで、ヨセフが祈りの課題が確実なこともあったのですが、主がヨセフとともにおられました。 (2)レベル-立場:各々レベルによって祈りとなります。それが聖霊充満の一つの方法でもあります。例をあげれば両親の下にいたあとで、ソウンは韓国に出てきています。確かに祈りが違わなければなりません。フィリピンにいたあとで、韓国にきたが、祈りが違うということを本人がよく分かるでしょう。それが出来なければ、本人が揺れるのが分かるでしょう。‘私が両親を離れてここまできた。そして、神様の祝福を受けて、梨花女子大を通っている。私の人生にこれくらい重要な時刻表があるだろうか? 私の未来もここに関わっている’そのように知って祈らなければなりません。そこに合う祈りをしなければならないのです。どのように、宣教師と一般信者が祈りが同じでしょうか? 学生たちが社会に出て行けば、簡単ではないのに、どのように祈りが同じなのでしょうか? 立場よって祈らなければなりません。私たちの立場に合う祈りにならなければならないのです。 (3)基準-聖霊充満:祈りの基準はどれでしょうか? 祈りの基準は聖霊充満です。これにならなければなりません。聖霊充満を受ければできます。いろいろ話が出るでしょう。‘体験をしなければならないのか? しなくて良いのか?’汝矣島(ヨイド)側では、聖霊充満を体験しなければならないと言います。高神側では、体験してはいけないと言います。二つとも正しいのですが、二つとも違うのです。人により体験がくる事もあり、来ないこともあるのです。それではどれが正しいのでしょうか? というならば、体験が来ないのが正しいのです。体験が来ないから、ニコデモがわからなかったのです。‘生かすのは霊であって、肉は無益なのです(ヨハネ6:63)’と言われました。産業宣教メッセージの時間にきて、聖霊充満を受けるといえば、それがまさに聖霊充満です。説教をしに行っても、最後にこの祈りをします。私は無知ですが、この説教を通して神様の答えを出すようにしてくださいと祈ります。‘私は訪問もすることができないから、このメッセージでみなひっくり返して下さい’と祈るのです。数多くの種類の聖徒が来るのに、メッセージを聞いて答えを得るべきで、もうこれ以上をしようとすれば私はだめです。礼拝時間が重要な時間です。それで、この部分を記憶すれば、ほとんど力ができるということです。 (4)方法-幸福(味わうこと):とても重要なのは、私なりの方法がなければなりません。音楽をする人は、深く賛美をしながらしたり、ある者は静かにピアノをひきながら祈ったりすれば良いのです。ある者は、祈りの時間に文章を書く人がいます。自分自らの方法がなければなりません。それでは、断食祈祷、徹夜祈りは誤っているのでしょうか? そうではありません。この時、特別に祈る部分が必要です。 (5)特別-集中:集中して祈ることがあります。集中して祈る必要があるのです。この時、断食、徹夜もするのです。ここには特別な神様の計画を置いてする祈りです。皆さんが祈りができなくなれば、多くのことをのがします。それで、祈りがとても幸せでなければならないのです。それで、皆さんが福音を持ったことが、どれくらい大きいのか、ますます知るようになります。 2.福音の中で力を得た産業人:聖徒たちが力を得るのです。 (1)使徒2:1,ヨエル2:28:終わりの日に、男女のしもべに水を注ぐように注いで下さると言われました。 (2)風 (3)火 実際の風が吹いたのではなく、風のようなみわざが起きたのです。実際に、マルコのタラッパンに火事が起こったのではなく、火のような働きが起きたのです。風、火の力はわかるでしょう? このような時、産業人と聖徒たちが大きい力を得たのです。 3.力を得た聖徒たち (1)使徒2:9-11:産業人が力を得ました。 使徒2:42聖徒たちが力を得て、この日に産業人が力を得て、こういう影響をおよぼしたのです。皆さんが力を得れば、聖徒たちにすばらしい影響を与えるようになります。 ①一つの心 ②一つの福音 ③一つの宣教:祈ったが、ここでみわざが起きたのです。 (2)使徒2:41-42:今、15ケ国から集まって一つになって祈り始めました。この時、神様の力が臨んだのです。そんなに邪魔したのに、弟子が3千人も集まりました。それと共に4つのことが続いたのです。使徒の教えを受けて、交わりをしながら、パンを裂きながら、祈りに専念したのです。ここで、とても重要なみことばが出てきます。これは、福音の基礎をいつもしたということです。パンを裂いたということは、聖餐をいつもしたということです。講壇と連結するので、力が継続されるのです。このようにして、世界征服をするのです。 ①講壇 ②交わり ③パン ④祈り ▲今日は特に教授が集まりました。 * 長所:教授様の長所は、自分が持った学問、専攻があることです。しかし、これが聖霊充満と関係しなければなりません。 * 短所:聖霊充満しなければ、短所になることができます。もし、教授が持った長所が、聖霊充満を受ければ、すばらしくなります。私たちが見ながら、おもに見れば、教授が体質化なっています。学問もほとんど定着しています。それがなければならないこともあります。一つだけ考えを変えれば、すばらしくなるのです。これのために、無限の神様の働きが見られなければなりません。聖霊充満すれば、学問がすばらしく応用されます。時々行って、役員などが困難にあうのが、体質のためになのです。 * パウロ:もし教授が学問に聖霊充満を受ければ、パウロのようになります。パウロが多くの知識を持って、福音の聖霊充満を受けるのでこのようになりました。今日、皆さんが一つだけ思いましょう。私がどのように神様が与えられる力を得られるのか? 福音が私に与えられて、どのようにこの力を持って生きていくのか?今日、核心の時に話をしようと思っています。皆さんは、四つのことで幸せでなければなりません。 * 福音:全てのものの結論です。ここで幸せでなければならず、ここで幸福を求めなければなりません。 * 祈りで幸せでなければなりません。 * 神様のみことばが成就することで、幸せでなければならないのです。 * 成功:皆さんの力で成功したこともあるでしょうが、神様がくださった成功で幸せでなければなりません。 教授と産業人に、神様がくださった大きい力が備えられています。皆さんが、この祝福を受けることを希望します。一言だけ言います。特別な方法はなくて‘この時間が聖霊充満する時間だ’といえば正しいのです。‘この時間に力が臨む時間だ’とすれば良いのです。明日の礼拝の時もそのように祈りましょう。 -要約- <共同体と産業宣教- 「力を得た産業人と聖徒たち」(使徒2:1-3,使徒2:41-42)> 1.福音持った者の祈り (1)開始 ①黙想-共に-定刻 ②対話-良心-常時 ③みことば-礼拝-生きた礼拝 (2)水準-立場 (3)基準-聖霊充満 (4)方法-幸福(味わうこと) (5)特別-集中 2.福音の中で力を得た産業人 (1)使徒2:1,ヨエル2:28 (2)風 (3)火 3.力を得た聖徒たち (1)使徒行2:9-11 ①一つの心 ②一つの福音 ③一つの宣教 (2)使徒2:41-42 ①講壇 ②交わり ③パン ④祈り |